まず、次の講演内容を、お読みください。
●高橋信次講演会「新復活」(昭和51年6月4日)
「・・・今度の光の天使は、全部事業をやりながら出てきております。宗教でなど飯
は喰いません。それが本当です。神は一銭も、人間から金などいらないのです。太陽
はタダです。神の心です」
この講演は、私が聞いた何本かの信次の講演テープの中でもよく覚えています。
「宗教でなど飯は食いません!」と堂々たる気迫のこもった断言には、私も「そうだ、
その通りだ。なんてりっぱな先生だろう。ホンモノはこうでなくちゃいけない」と、
当時は感動の涙を流しながらうなずいたものです。
私が高橋佳子を「質素な方にちがいない」と思いこんだのも、「宗教でメシを食わ
ぬと宣言した信次の娘だから」と勝手に連想した側面が大きい。彼は、彼の経営する
電機関係の会社の収入で活動資金を得て、そのかたわら多忙な間隙を縫って宗教霊能
活動をしていたのだろうと、長らく思っていました。
少なくとも、信次の著作や講演を見る限りでは、だれもがそう思うほかはないわけ
です。
しかし、宗教法人申請をするときにさえ、都庁のお役人を偽りの間に合わせの祭壇
でだまして認定させたことを「便宜的措置」と笑って弟子に語り、著作も講演も霊言
も虚偽とでたらめの思いつき満載で、おのれの軍歴も詐称するという、まったく油断
も隙もない「虚言家」たる信次の言葉は、感動的であればあるほど「事実のない虚構
・演技」と疑って見る必要があります。
GLA高橋信次は東京都を欺き「偽装工作」し宗教法人認可を受けた
http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/238.html
GLA高橋信次・高橋佳子(TL人間学)は虚偽の会員数をマスコミに発表(1976-1977年)
http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/239.html
GLA高橋佳子の父・高橋信次の「軍歴詐称」
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/356.html
GLA高橋信次(高橋佳子の父)と東大教授の対談記事(昭和46年)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/357.html
果たして、実際の信次は、本当に彼の会社「高電工業※」の収入だけで宗教活動を
していたのでしょうか。現実の「高電工業」の経営は、妻であった高橋一栄(現会長)
がとりしきり、信次はGLAの宗教活動をしていたという話も聞いております。
(※ネット上の情報によれば、GLA信者の社員が多く、長時間のサービス残業など、
社員待遇に難があって、人の出入りが激しい。非会員の社員は、長くいられないと
いう未確認データもあります)
確かに、信次は入場料の払えない信者には「いいよ、いいよ」と無料で講演をきか
せてあげたとかのウワサは耳にしますが、それが本当だったとしても、ほかの信者か
らガッポリとってれば、十人や二十人をタダにしたって、信次の評判をあげこそすれ、
実質、損になることはないでしょう。
さて、信次はちゃんと「経営者」をしていたのでしょうか。頭から、「高電工業の
社長の業務で大変だったろう」と信じてきましたが、色々調べて見ると、やはり事業
は妻の一栄にまかせっぱなしで、本人は十代の佳子をひきつれて、ことに晩年はGL
Aで「荒稼ぎ」をしていたのではないかと疑惑が生じます。つまり「高電工業社長」
は「宗教でメシを食っている」との従来の宗教家のレッテルを貼られないための「隠
れみの」だった可能性が考えられます。
だいいち、信次の高弟・園頭氏の「正法」サイトによれば、信次は「高電工業」で
再起を果たす前に「宗教(霊能)でメシを食っていた」時期があるのです。
「正法」サイトhttp://www.shoho.com/newpage18.htm〈結婚の秘密とその縁〉より
「結婚はしたものの手形不渡りによって会社は倒産(昭和29〜30年ごろ)。信次
は事業に失敗して一文なしになった。信次夫婦は、アパート暮しであったので、鍵一
つでどこへでも行ける身軽なものだった。職を失した信次は、近隣の人の相談にのり、
その薄謝によって生活を続けた」
大事な言葉がかかれてあります。『その薄謝によって生活を続けた』。つまり霊能
やら予言やらで「報酬」を得て、それで食べていたことがあるというのです。これな
ら、「宗教ビジネス(拝み屋のような商売)のうまみ」をこのときに経験していたと
考えてもよいのではないでしょうか。信次はおそらくこのとき「宗教でメシが食える」
ことを肌で感じ、それでひとつ大きく儲けてやろうと、野心を抱いたのではないでし
ょうか。
高橋信次師の講演はこうだった http://www.shoho.com/newpage16.htm より
「昭和四十三年(一九六八年)七月の悟りを開いてから昇天する昭和五十一年六月ま
でに、各地で数多くの講演会が持たれた。この八年間に百回以上の講演会が開催され
たであろう。信次師の講演会での大きな柱は、『講演』『霊道現証』『質問』の時間
であり、すべて公開であった」
信次が悟りを開いたなどとは信じられませんが、昭和43年7月から51年6月ま
でのほぼ8年間に、「100回以上の講演会(講演、霊道現証、質疑応答の3部)」
をしたというのです。平均で1ヶ月に1回の割合で、全国各地で講演会をしたわけ
です。これだけ見ると、会社社長と両立可能であるかのように思えます。
1ヶ月に数時間の講演会ならば、そういえるでしょう。しかし、実際には講演会は
3〜7日間位の有料の「反省研修」にともなって行われることも多く、信次は年間、
かなりの時間を、自宅や会社以外の場所で過ごしていたことが推察できます。
しかし、次第に繁忙さを増す「講演会生活」が、ただでさえ多忙な中小企業社長と
両立できたとはとても思えません。
その「講演会・研修生活」の拠点となった「八起ビル(八起リバーサイドハイツ)」
(GLA総合本部所在地)のはじまりについて、「正法サイト」にはこう書いてあり
ます。
●昭和四十四年(一九六九)二月の東京の講演会
http://www.shoho.com/newpage18.htm より
「四月、浅草の建設中のビルも完成間近かであった。毎土曜日の勉強会に集まって来
る人は百名ほどになり・・・三、四百人ははいる。最初は一階と地階は飲食関係、二
階と三階にサウナと超音波風呂のつもりであったが、指導霊に「身体のアカを落すと
ころはどこにでもある。使命を忘れては困る。お前の出版した本を通して多くの人が
集ってくるだろう。」と諭されて、百八十度転換、心の垢を落とす場所となった」
『心の発見』にもあるエピソードですが、私は「指導霊にいわれてサウナビルにする
のをやめた」という話は、信次の創作だろうと思います。次第に増えてくる信者の事
を見越して、早いうちから教団本部にするつもりだっただろうと推測します。
「出版した本を通して多くの人が集ってくるだろう」は、当時、本を出していなかっ
たのですから、ウソではないでしょうか。予言めかして書いていますが、その時点で
は本を出版する目処などなかったと思いますから、お得意の「フィクションの後づけ」
でしょう。
「正法」サイトによれば、信次の講演は、昭和44年に、盛岡で初めて「持ち出し」
で行われたとあります。最初は自前でやったということでしょう。しかし、46年
『心の発見』の前身『縁生の舟』等の著書が売れ出し、八起での土曜会などの「パフ
ォーマンス定期講演」等が効を奏して、信次は次第に「講演多忙」になってゆきます。
6年後の昭和50年には、「講演会は東京から地方に広がり、信次は関西地方への
出張も多くなった。(11月)24日は大阪、25日は四国と選挙運動の遊説のよう
だった」という状態になります。
それでは、昭和49年〜51年最期の講演まで、信次がどれだけの講演会をこなし
たか見てみましょう。(GLA誌1977年4月号の広告「カセットブック講演集・
高橋信次講演シリーズ〜心を開く神理の言魂」「好評発売中---お申し込みはGLA
各本部、各支部」のラインナップ P.92より)
※値段表示なし。1巻あたり3000〜5000円位だったように記憶する。
★49年「5周年記念講演会」など2回分
★50年「新年講演会」からはじまり、関西(大阪)講演11回はじめ、中京(名古屋)
4回、小田原、宮崎、和歌山、金沢、神戸、東北、鹿児島、高知、熊本、ほか全国の
各地で、年間・計29回の講演会・研修会(3〜4日のとまりがけ)。
★51年「関西新年会」から開始。死去までの半年間で、沖縄、名古屋、東北(盛岡)
など9回の講演会と研修会。(49〜51年:全36巻)
昭和50年と51年のスケジュールを考えれば、とうてい会社社長と両立できるよ
うな状態ではありません。おそらくは一栄に全部まかせていたのでしょう。
これらの講演会の「各会場での喜捨(会員には当時200円以上の喜捨をつのり、
非会員は入場料無料のことも多かったようです)」「会場での書籍・機関誌・講演カ
セットの売上げ」、数十人から数百人の「研修会」の参加費で、相当な収益があがっ
たと考えてもおかしくないでしょう。
だいたい、講演会にしてからが、非会員は無料とはいうものの、両国の日大講堂な
どいつも満員だったといいますから、6千人は入っていた事になります。その半分の
3千人が200円以上寄付すれば、講演会1回で、「60万円」以上の喜捨収益とな
ります。日大講堂の使用料金が何万もしたはずはありません。
これは最低ラインであって、喜捨に上限はありませんから、もはや「持ち出し」は
はじめの頃だけのこと。無料入場者の分も、それで元がとれ、収益になったことが想
像できます。
しかも、昭和48年にGLAは宗教法人化しているのですから、会場での著書や講
演カセットの収益は無税でしょう。信次の15冊の三宝出版の著作、ならびに「心行の
言魂」や「心行」「反省のかなめ」のような市販されないGLA内でのみ販売する数
種の教本、講演テープの類の売上げだけで、相当な無税収入を得ていたと思われます。
さらに、高電工業関連で、当時、出まわりだしたばかりのかなり高価な「TEAC」社
製ビデオデッキを、信次の講演収録ビデオとともに販売していました。
「講演会は無料」で「GLAはカネもうけをしない」というイメージを一般人に与え
ながら、その一方では会員からちゃんとカネを取り、売るものはちゃんと売る。巧妙
なイメージ戦略です。
では、「GLAは無料で講演会をする気前のいい高橋信次社長の、慈善事業的な
精神で運営されている」と思って入会した人たちは、その後、GLAの中で、どのよ
うな「有料企画」にいざなわれる事になったでしょうか。
そのうちのいくつかの例をあげておきます。
●毎月の「反省研修会」(1976年4月号)
小金井道場で30名。1週間の日程(原則宿泊・通いは認めない)。
費用は一人3万円。食事は自炊。
研修費が3万円で、30人で90万円。道場はGLAの施設ですから、かかるのは
光熱費と食材費のみ。のこりはまるまるGLAの収入となります。これを毎月やるの
ですから、1年で1千万円以上になります。現実に、信次が亡くなってからも、この
毎月の「30人限定反省研修会」は継続され、同年11月号にも「好評につき継続中」
という意味のことが書いてあります。
1976年、大卒初任給が約10万円だった時代の話です。当時の3万円・90万
円・1000万円の金額の大きさを思ってみてください。
●また、この毎月研修会とは別に、定員750名という大規模人員を集めた「青年研
修会」とか、「春」「夏」「秋」の季節ごとの研修会をふくむ、「地方研修会」も開
催しています。そして、1975年には7回も同種の「研修会」をやっています。
この研修会はおもに地方でおこなうので、ホテルや旅館などの有料宿泊施設を利用
します。しかし、費用については機関誌に詳細は書かれず「くわしくは各支部へ問い
合わせを」ということわり書きしかありません。講演カセットブックの値段も書かれ
ていないのと同様、うろんな感じです。
かろうじて、1977年6月号の「第八回夏季研修会」のお知らせで、「定員72
0名、志賀高原で3泊4日・費用は東京本部からの交通費をふくんで2万1千円予定」
とあります。
これで、たとえば経費が一人2万円かかったとしても、1000円が残ります。つ
まり720×1000=72万円が、まるまるGLAに入ります。もちろん、2000円
だったり3000円だったり、数千円が利益とすれば、1回の研修会で数百万円が、
あっというまに稼ぎ出せるわけです。
7回の研修会を実施した1975年だけでも、単純計算で750×7=5250人の
動員数です。5250×1000円として「525万円」、一人2000円だったとし
たら「1050万円」にもなります。
77年でこの種の「夏季研修」が「第八回」ということですので、1970年頃から
「研修会」という名の「ビジネス」をはじめた、と見てもよいのではないでしょうか。
そして、繰り返しになりますが、この上に各講演会・研修会・支部における「喜捨」、
著作・講演カセットブック(1974〜76年まで全36巻)・ビデオの売上げなどが
加わるわけです。
さらに76年4月号には、信次の『悪霊1・2』が韓国でも翻訳され、900ウォン
で発売中と書いてあります。
このように、1976〜77年当時のGLA誌を見ますと、講演会で「GLAは入会
してもカネがかからない」という清貧イメージを与えておいて、入会したら「反省研修
会」で「ビジネス」の開始というシステムができていたようです。
これは賭博と同じやり方で、最初に客に勝たせて気持ちよくさせておいて、大きく
賭け金を張りこむようにさせてから、身ぐるみ巻き上げてゆく詐術に似ています。
こういうことをやっておいて、昭和51年6月に「宗教でなどメシは食いません」
とは、まっかなウソというほかないでしょう。高電工業と異なる別「事業」だったと
考えるのが自然だと思います。
この「宗教でかせぐ」路線は、実は佳子にも、そのまま引き継がれたと見ることが
できそうです。
76年9月には、2泊3日で箱根で「管理者研修セミナー」が開かれ、谷口、久水、
高森の各講師が主導しています。参加人数は84名、しっかり商売しているようです。
GLA誌1977年4月号の「4月講演会・支部集会日程表」を見ると驚きです。
まだ「ミカエル事件」を起こす前で、信次時代の勢いをそのまま保持していたGLA
の「教勢」がうかがえます。
全国4地方本部、120支部・地区において4月の1ヶ月間に、なんと4回の佳子
の講演会、251回もの支部・地区集会(会場は個人宅や公民館、会員の寺、会社の
施設等がほとんど)が行われているのです。
もちろん、各支部・集会所の人集め、当日の会場費、茶菓、光熱費などの経費は、
ほとんどの場合、会員個人の自弁だったはずです。GLA総合本部のふところはいた
みません。それどころか、1ヶ月に4回の講演と251回もの集会で獲得できる寄付
や、信次と佳子の著作の売上げ、月刊誌や信次や佳子の講演カセットブックの売上げ
を考えれば、高橋佳子や一栄、興和ら「高橋GLA一族」にとっては笑いのとまらな
い「集金システム」となっていた(今もなっている)可能性が高いのではないでしょ
うか。
これを12ヶ月繰り返して、年間どれほどの金額がGLAに集まったか、想像して
みてください。「高電工業」より、よっぽどもうかるのではないでしょうか。
全国120支部の1万人もの会員が、自分と父親の名のもとに1ヶ月に250回も
の集会を催して喜捨も人も集まり、尊崇を一身に集める・・・これでは20歳の佳子
が舞い上がって、悪天狗ばりの大増長をしても仕方ないかもしれません。
もちろん、そういう誰もが陥るであろう「傲慢の罠」にやすやすと引っかかって
「もの狂いの倣岸ド迫力」を発するようになってしまったという事実そのものが、
佳子が「大天使なぞではなく、ただの人だった」という証拠なのだとも言えます。
また、77年5月には、次のようなセミナーも谷口講師主導で開催されています。
●GLA誌1977年4月号(P73広告)
「心を基盤とした〜能力開発セミナー:講師・谷口健彦ほか数名
とき 52年5月18日(水)〜22日(日)
ところ 海の家きくや 愛知県知多郡********
対象定員 各社派遣社員10名(役職にはこだわりません)
費用 一般 一人9万5千円/EEクラブメンバー8万5千円(食費・宿泊費含む)
(株)エル・システム 名古屋市********電話052-***-****
10万円近い、非常に高額な「セミナー」です。10人で「95万円」ですが、
食費・宿泊費を引いて、実質、どれだけがGLAの「収入」になったことでしょう
か。しかし、問題なのは参加費用だけではありません。このセミナーは、実は下記
のように、4月14日に、既に「危険ではないのか」と園頭氏が危惧していたセミナ
ーではないかと思われるのです。
●昭和五十二年四月十四日付の園頭師の書簡より
「前略 羽場(講師)氏がやっている小金井(市の道場で)の反省研修は、ついに
自殺者を出したりして問題があるわけですが、中京(本部)の谷口健彦氏が、小金井
と同じ方法で今度は(反省研修を)始めるというわけです」
園頭氏の書簡の指摘が正しければ、日付からいって、この「エル・システム」の方
法をもさして、「自殺者を出したりして問題がある」のと同種なので危惧する、と述
べているようです。
私も、在GLA時に、「谷口さんはエル・システムというGLAの反省方法をとり
いれた企業向け研修会社をやっていたことがある。今はやってないけど」という話を
先輩信者から聞いたことがあります。
しかし、この信次から佳子への主宰の立場の移動にともなう「ミカエル事件」の渦
中(1977年10月)に、園頭氏のサイトの記述によれば、「GLA関西」と「東
京本部」との間で、醜い「資産争い」があったと書かれています。
「GLA関西」は、もともと霊友会系団体の「瑞法会」が、そっくり信次に帰依した
組織です。昭和44年に発足したGLAは、昭和48年に「瑞法会」のすすめによっ
て宗教法人となりました。宗教法人「瑞法会」と未登録団体「GLA」が合併した場
合、宗教法人側が未登録団体を吸収合併するため、そのままでは「GLA」の名前が
消えてしまう。そこで、未登録団体のままではいけないというので、急遽、宗教法人
化をしたわけです。
合併に当たっては、理由はわかりませんが、関氏一人が理事会で反対したと本人が
述べているそうです。GLAが宗教法人となって、瑞法会と合併しても、瑞法会組織
を解散しなかったのは、園頭サイトの記述では、「何かあったとき東西共倒れになる
ことを防ぎたい」という信次の意志でもあり、瑞法会の資産を残すことになったよう
です。
それが「ミカエル事件」と連動して、「GLA関西」にGLA総合本部からの離脱
の動きが起こり、それにともない「関西の財産保全」をめぐる争いが発生しました。
その間の事情は、下記の「正法」サイト〜奇跡の写真〜に詳しいので引用します。
ttp://www.shoho.com/newpage14.htm
----------------------------------------------------------------------------
(昭和五十二年の項) 十月
GLA総合本部の理事とGLA関西本部の理事との間に、組織上の対立が起る。
対立の原因はGLA総合本部の前事務局長高橋武氏の跡を受けて事務局長に就任し
た佐藤要氏がGLA関西本部を解散の上、関西本部の財産等を全て、総合本部に吸収
するという案を提出したことにあった。
これに対して関西本部は、昭和四十六年に信次師に集団帰依した時、母型団体であ
った瑞法会を解散して、組織も財産も全てGLAに併合を信次師に申し出た。しかし、
申し出を断っている。
「いや、そうすべきではない。もしひとつにした時、東京本部が駄目となったら関西
本部も駄目になるので、東京と一つにはしない方が良い」という信次師の当時の方針
をあげ、合併吸収することは信次師の意志に反する、と対抗した。
一方、高橋一栄会長は、西日本本部長園頭広周氏に手紙で次の様に通告、「東京の
理事と関西の理事との調和を図ることが先決となった。これからは東京と関西の理事
のみで「会」を持つ。あなたは西日本を委せるので、西日本を盛んにして下さい」と。
園頭師は記述される。「東京の講師達が、実は関西本部の金と財産をねらっている。
このことは後にミカエル事件が起った後で、関西本部は合流するのであるが、その目
的が財産にあると気づいたとたん、瑞法会時代の自分達がつくった財産を、むざむざ
東京本部に取られてなるものかと考えた講師達が、さらにGLAから脱退して財産を
守るという、まことに浅ましい事件となった。
その関西の講師達は私に言った。「関西本部の財産をどうするか、その分け前が決
まるまでは、講師をやめるわけにゆきません」と。
私は講師達の腹の中を見透していたから、ミカエル事件が起った後、何回か関西本
部の事務局長・増田氏から騙された風を装っていた。
これ以上は利用されないぞと思った時、「あなたはいつまで私を騙そうと思ってい
るのか、あなたの手の内は全部わかっている。あなた達は高橋先生の正法はどうでも
いいと思っているんだ。財産がめあてだろう」といったら、私の気迫に呑まれたのか、
正直に「そうです」といった。
----------------------------------------------------------------------------
当事者でもない私がいうのもなんですが、堂々とウソを騙る高橋信次に、もっとも
大きな元凶があると思えます。「宗教でなどメシは食いません」「太陽はタダです。
神の心です」といいながら、その実、喜捨や研修費や有償物で稼ぎ、宗教でメシを食
っていたのですから。
<関係情報板群>
実録・高橋佳子(GLA/TL人間学・主宰)「ミカエル事件」編
http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/326.html
GLA(TL人間学)高橋佳子は「ミカエル大天使」ではない(1977年9月27日〜)
http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/394.html
実録・GLA高橋佳子(TL人間学・主宰)の「強暴な素顔」編
http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/406.html
実録・GLA高橋佳子(TL人間学・主宰)の「セレブな金銭感覚」編
http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/472.html
実録・GLA高橋佳子(TL人間学・主宰)のエグい「基本的性格」編
http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/492.html
『阿修羅』サイト/GLA・高橋信次・高橋佳子関連記事板ミラー板群
http://www.asyura2.com/2us0310/bd30/msg/134.html
<宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧1>(15年6/13版)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/358.html
<宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧2>(15年7/1版)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/530.html
<宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧3>(15年8/24版)
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/542.html
<宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧4>(15年10/20版)
http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/319.html