1. タルコフスキー アンドレイ・ルブリョフ
Андрей Тарковский Иван Купала Отрывок из Андрей Рублев
http://www.youtube.com/watch?v=DE2K-SxW5eM
tarkovsky Andrey Rublev
http://www.youtube.com/watch?v=EjEkUPXdceI&feature=results_video&playnext=1&list=PL2354BE862810ED06
アンドレイ・ルブリョフはキリスト教のあり方に疑問を持ちます。
先輩画家からは、愚かな人間たちなどどうでもいいじゃないか、画は神のために描くものだと諭されます。
先輩画家は、愚かな人間たちの上にはもうすぐ最後の審判が下るぞと言います。
しかし、アンドレイ・ルブリョフは先輩画家の言葉に納得ができないのです。
アンドレイ・ルブリョフはモスクワ大公から依頼された修道院の壁画「最後の審判」を描くことができません。
そんなある晩、アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りに迷い込みます。
すでにキリスト教化していたロシアでは、アニミズム信仰を持つ人びとが異教徒と呼ばれて、教化の対象になっていました。
森の奥から響くざわめきを聞きつけたアンドレイ・ルブリョフは好奇心に勝てずにひとりで奥へ奥へと進んでいきます。
裸の女たちが松明を持って川に飛び込んでいました。
アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りを垣間見ます。
小屋の中では、ひとりの女がはしごをのぼっては飛び降りてを繰り返しています。
女が飛ぶごとに着物がはだけて女の裸体がちらつきます。
アンドレイ・ルブリョフがそんな光景に見とれていると、男たちに「黒い悪魔がいたぞ」とつかまって小屋の中にひきずりこまれて縛られてしまいます。
アンドレイ・ルブリョフは、
「何をする、やめてくれ、お前たちは、最後の審判が恐ろしくないのか」
などと口にします。
小屋の中にはアンドレイ・ルブリョフと女が残りました。
翌朝、アンドレイ・ルブリョフはうしろめたそうな顔をして村をあとにしました。
全裸の女がうるんだ瞳でアンドレイ・ルブリョフのうしろ姿を見送ります。
異教の女マルファとの会話
マルファ
なぜあなたは頭を下にしたいの?
気分がもっと悪くなるのに。
なぜあなたは天の火でわたしたちを脅すの? (ルブリョフが「最後の審判」を口にしたことへの反感)
ルブリョフ
裸になって君たちがしようとしていることは罪なのだ。
マルファ
何の罪ですって?
今夜は愛しあうための夜なの。
愛しあうのは罪なの?
ルブリョフ
こんなふうに人を縛り上げるのは愛なのか?
マルファ
あなたが他の修道士をよぶかもしれないからよ。
あなたの忠実さをわたしたちが受け入れることを強制しようとする人たちよ。
あなたは恐怖の中で生きることが容易なことだと思っているの?
ルブリョフ
君は恐怖のなかで生きている、なぜなら君が知っているのは愛ではなくて獣欲なのだ。
魂のない肉欲、しかし愛は兄弟愛のようであるべきだ。
マルファ
すべての愛は同じではないの?
ただの愛なのよ。
マルファはルブリョフに近づきキスをする。
http://foonenbo.asablo.jp/blog/2010/03/21/4962351
アンドレイ・タルコフスキー 僕の村は戦場だった
http://www.youtube.com/watch?v=X-cOMy9k-6s
アンドレイ・タルコフスキー 鏡(1975)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9863922
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9863976
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864040
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864127
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864211
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864281
アンドレイ・タルコフスキー 惑星ソラリス
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2202085
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2202659
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2203283
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2203722
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2204067
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2204763
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2205261
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2205752
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2206278
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2206783
アンドレイ・タルコフスキー ストーカー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1840924
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1841131
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1841280
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1841507
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm1841884
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1842217
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1842368
アンドレイ・タルコフスキー ノスタルジア
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864730
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864786
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864867
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864910
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864936
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9864961
アンドレイ・タルコフスキー サクリファイス
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2026762
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2025583
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2025880
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2026086
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2026399
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2027422
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2029092
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2031292
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2.ラース・フォン・トリアー アンチクライスト
プロローグ
雪が降る夜、夫(ウィレム・デフォー)と妻(シャルロット・ゲンズブール)が愛し合ってる最中、快楽に陶酔するあまりに一人息子が窓によじ登っているのを気付かず、転落死させてしまう。
第一章:嘆き
葬儀の日、妻は歩きながら気を失って倒れ、入院する。自らの不注意が原因で子供を失った妻は悪夢に悩まされ、セラピストである夫が支える。ある日、妻が恐怖から逃れる場所は森であり、そこはエデン(楽園)だと言い出す。妻の病の原因を探るため、エデンに向かう二人。
第二章:痛み(混沌と支配)
深い森の奥にある山小屋に着き、妻の治療に専念する夫。
第三章:絶望(魔女狩り)
夫は屋根裏部屋で過去に妻が残したGynocide(魔女狩り)など女性迫害に関する文献や日記を発見する。虐待を欲する歪んだ肉欲にかられる妻。夫に届いた検死報告書から、妻が息子を虐待していたことを知る。妻の本性を知った夫が自分を捨てるという妄想にとらわれた妻は、夫の脚に重い研石を埋め込み逃げないようにする。
第四章:3人の乞食
そして、狂気に駆られた最悪の結末を迎える。
ビデオは youtube
http://www.youtube.com/
で
『lars von trier Anticristo』
で検索すればすぐに見つかります。
まずプロローグ。
約5分間台詞無しでモノクロで紡がれる幻想的で美しいシーン。
他のシーンでも美しい映像美はあるんですがやはりこのシーンは圧巻ですね。
何が描かれているかといえば
セックスしている夫婦とその時の子供の行動です。
絶頂に達したときに子供が窓から落ちて死にます。
ボク的にはココで一つの解答というか真実が描かれていると思います。
いつでも悲劇というのは知らない所でヒッソリと進行しているものです。
大抵の場合はその事に気がつく事が出来ず自体があらわになるのは
最悪の状況になった時です。
故にその「悲劇」を事前に回避するのは難しく
回避できなかったこと自体に罪は無い。
しかしその事態を切り離して考える事が出来ない。
「あの時」の自分を責めてしまう。
それが人間的なのだと思います。
しかも事態が快楽の最中であればその思いは強くなる。
この物語はその「責め」を受け入れる(終える)事ができるかの物語。
セラピストであるダンナは妻の絶望と苦悩からの脱出を試みる訳です。
その方法が「恐怖の場に立つ事で恐怖の場でも大丈夫だ」と認識させる。
妻の「恐怖=怖い場所」はエデンと呼ぶ「森」。
この森はどう描かれているのかといえば
絵は美しく撮られているものの
自然の摂理・残酷性が強調されている。
夫婦は森でその恐怖との対峙を試みる。
この行為は妻の持つ「恐怖」
すなわち闇を解き明かす、
解き放つ結果になってしまう。
このペースで書いていくと感想ではなくて
全編紹介になってしまうので衝撃のシーン付近までかっ飛ばします。w
息子の検死結果ではほとんど不自然な事はなかった。
あくまでも事故であった。しかし一点、骨の変形がみられた。
ダンナが息子の写真をみてある事に気がつく。
彼女は息子に靴を左右逆に履かせていた。
これは息子が自分の元から離れないように
脚を奪う行為という事だったのではないでしょうか。
そして男ならばみんな内股になってしまう股間ドーンっ。
からの、脚に穴をあけ砥石を差し込むという行為。
股間ドーンはまた後述しますが
これも脚を奪う行為なんですよね。
つまり自分から離れていくという事に対する恐怖であり
妻が必要以上にセックスに執着する事も同じなのではないでしょうか?
「つながり」を物理的な距離や身体的繋がり(セックス)と
同一視しているという事だと思いました。
そして女ならばみんな内股になってしまう股間ジャキーンっ。
物理的距離、身体的接触をつながりとして感じる
彼女がその安心・実感を得るためのセックス。
その行為が同時に絶望と直結した快楽を生み出す。
ちょっとわかりづらいですかね。
冒頭の息子を失った瞬間に自分が絶頂の最中にいたという事で
つながり = セックス = 快楽 = 絶望
という、とんでもない構造が産まれてしまった。
という事ではないでしょうか。
だから、股間ドーンっであり、股間ジャキーンっ、となる。
ちょっと話は遡りますがセラピストのダンナが
彼女の治療として行った恐怖の解明。
「恐怖のピラミッド」というか良くある三角の概念図を描くんですね。
ピラミッドの真ん中に「森」がありその上に何があるのか?
最初の段階では「?」それが「SATAN(悪魔)」になり「ME(彼女自身)」
書いているのはダンナなのであくまでもダンナ目線の解釈。
つまりダンナは彼女の恐怖の対象は「ME(彼女自身)」と判断したんですね。
しかしこの映画の結末をみれば一番の恐怖の対象は
「YOU(ダンナ)」であったように見えるしもっと言えば
「ME」と「YOU」の間にある「何か」
そして「LIFE」であったのではないか。
とボクは感じました。
そしてそれは彼女だけの恐怖ではなく
「人間の原罪」とでもいうのか解き明かしても
決して解決出来ない闇だったのではないでしょうか。
つまりこの作品の描いている事は
「生(せい)」であり「性(せい)」 あり「性(さが)」である。
と、まぁ日本語の言葉遊びでは意味ないんですが(笑
そして結局ダンナは妻を殺し森(エデン)から逃げる。
途中、何かの実(キイチゴ?)を口にしますが
禁断の果実を食べエデンから追放されるかのように森を後にします。
彼女を苦悩から解放する行為が人間の原罪暴きになり
人間の危うさ、人間の本性を暴き出す結果になる。
そして原罪という観念は人を追い詰める。
故に「アンチクライスト」といった感じなのかなぁ。
とはいえですね。
この作品の描き方からすると、
例えばラストに顔の無い女性がわらわらと押し寄せる。とか
基本、
オンナこえぇ。
って作りになっていると思います。(笑
http://blog.livedoor.jp/uzazo/archives/1968923.html
ラース・フォン・トリアー監督の「アンチクライスト」を解読する
Posted by maribu on March 03 2011
この作品は「アンチクライスト」すなわち「反キリスト」と題名から明確に提示している。しかし、監督が意図するものはキリスト教という宗教に対する「アンチ(=反)」ではなく、キリスト(=神/善)の反対、すなわち「悪」について描いた作品と捉えることができるだろう。
では、「悪」とはなにか、というと旧来のキリスト教の考えに従えば「女性」である、という解釈をこの映画はしていると考えらえる。
物語は名前も明らかにされない妻(シャルロット・ゲンズブール)と夫(ウィレム・デフォー)の二人が性交渉をしている最中に、夫婦の幼い息子が転落死してしまうプロローグから始まる。このとき、映像は白黒のスローモーションで流れ、BGMとして流れるのはヘンデルの「涙流るるままに」だ。この曲の歌詞を大雑把に翻訳すると「残酷な運命に涙を流し、自由を求めることをお許しください」となる。二人の性行為そのものを象徴しているのか、それともその後の二人の運命を暗示しているのか、解釈は難しい。
子供を失った妻は精神的に抑うつ状態になって毎日泣いて暮らす日々が続く、心理療法士の夫はそんな妻と治療をかねて、妻が前年の夏に息子と二人で学位論文を執筆するために滞在した森の中の山小屋に行く。そこで妻は徐々に正気を失っていき・・・・という展開を見せる。
ここからは映画を見ていることを前提に考察を試みる。ネタばれがあるのでご注意を。
まず夫婦は山小屋に行くにあたって橋を渡る。この橋は執拗に何度も劇中に登場すりが、これは文明世界から自然(神の宿る世界)への架け橋と考えていいだろう。というのもヨーロッパ発売版のDVDに収録された監督のインタビューの中で監督は明確に「森は痛みを持つ場所、または神秘の場所と考えた」と言っているからである。
この辺りは西洋人の感覚なのかもしれない。たしかデイヴィッド・リンチ監督も「ツインピークス」の中で森を同じような意図で表現しようとしていた。
さて、森の中の山小屋は「エデン」と呼ばれている。これはもちろん、旧約聖書でアダムとイブの二人が住んでいた楽園の名前だ。その「エデン」に妻と夫、つまり男と女が二人だけで過ごすわけだから、当然この夫婦は「アダムとイブ」を象徴している。
聖書の創世記において、「神の姿に似せて」最初に創られたのは男性のアダムだ。イブはその後で作られたことになる。つまり、アダム(=夫)は「神そのもの」を象徴していると考えることが可能だろう。
旧約聖書によれば、イブは悪魔の誘惑に乗り、神に禁止されていた知恵の実を食べてしまう。その結果、アダムとイブの二人は楽園を追放されてしまう。
これらのことから、旧来のキリスト教の世界では女性は悪の象徴と捉えられていたのだ。それは中世カトリックの修道院が女人禁制だったことからも明らかであるし、また、中世の魔女狩りもこの「女性=悪」の概念を基礎としている。
実際、映画の中で、妻が前年の夏に取り組んでいた学位論文の内容とは「女性虐殺」の歴史であったことが明らかにされている。妻が使っていた資料はいずれもキリスト教における「女性=悪、または悪魔」という考え方の歴史を追うものばかりだった。
妻は女性に対するこういった虐殺・拷問の歴史を調べる中で、その根拠とされた「女性=悪」という概念に取り付かれ精神の均衡を失っていくわけだ。
それは前年に息子と二人で山小屋で過ごした際に、息子に関しても虐待に近い行為を行っていたことが暗示されることからも明らかだ。
精神の均衡を失った妻は激しく夫に肉体交渉を迫るだけでなく(これは悪魔の誘惑という解釈が成立するのかもしれない。というのも夫は妻の要求に結局は毎回応えているからだ)、ついには夫に残虐な暴行を試みるまでになる。命の危険にさらされた夫は妻に「俺を殺すのか」と尋ねる。すると妻は「三人の物乞いが来たら人が死ぬの」となにやら暗示めいたことを口にする。
いったい「三人の物乞い」とはなんのことなのか?
これは案外簡単に解けるはずだ。それはこの作品の各章の題名を見れば一目瞭然だろう。
「三人の物乞い」とは第一章の題名「grief(嘆き)」、第二章の「pain(痛み)」、第三章の「despair(絶望)」を指している。当然、各章に登場するものがそれぞれを象徴しているわけで、「grief」は第一章に登場する死んだ胎児をぶら下げている鹿、「pain」は第二章に登場する自分で腹を割いている狐、「despair」は夫が何度石で打ちつけても死なない不気味なカラスだ。
そして第四章の題名は「三人の物乞い」となり、ここでは鹿、狐、カラスの三匹がすべて登場する。
さて、結局は夫は危ないところで妻を殺し、その亡骸を荼毘に付すと山を降りる。
最後に再び画面は白黒のスローモーションに戻る。BGMも再びヘンデルの「涙流るるままに」だ。そんな中、夫は顔がぼやけて見えない無数の女性に取り囲まれている自分に気づく。そして物語は終わりを告げていく。
この終わり方の意味はなんなのだろうか。
おそらく、夫は妻(=悪/悪魔)を殺すことによって神に戻った(神が自分の姿に似せて創ったのはアダムだったことを忘れてはならない)ことを示しているのではないだろうか。そして、エデンを去って現実に帰ってくると結局は女性に取り囲まれてしまう。無数の女性の顔はぼやけて見えないので、これは「悪」そのものを象徴していると思われる。そのときに流れるBGMを考えても、結局は悪から逃れることのできない「神」と「人間」の宿命を象徴しているのだろうか。
なんともいろいろな解釈を許す映画だ。
http://maribupublishing.blog76.fc2.com/blog-entry-66.html
この「アンチクライスト」は、(プロローグ>(悲嘆(GRIEF)>(苦痛(PAIN)>(絶望(DESPAIR)>(3人の乞食>(エピローグ>の全6章で構成されてまして。まず、(プロローグ>なんですが、「私を泣かせてください」という有名な歌を流しながら、ハイスピードカメラで撮影したモノクロ映像を合わせて、“性交中に子どもを失う顛末”を実に幻想的に見せてました。
予告編を観てはいたものの、早速、ちょっとイヤな気持ちになりましたね。僕は全然気付かなかったんですけど、窓辺の兵隊人形には「悲嘆」「苦痛」「絶望」の文字が刻まれてて、その先の出来事を暗示してたみたい。
有名な曲ですが、初めてタイトルを知りました↓
で、(悲嘆>(苦痛>(絶望>(3人の乞食>と、章を追うごとに見事に状況が悪化していくというか。セラピストの旦那は子どもが死んで悲嘆に暮れる奥さんを見て、
「病院なんぞに任せておけるか!」
「オレが治す! (`・ω・´)キリッ」
と決意して、「恐怖を克服しよう」ということで、彼女が怖れる“森”にある山小屋「エデン」に2人で向かうんですが…。森に入ると、早速、“悲嘆”の象徴である鹿が登場しまして、それが“子どもを産みかけ”というビジュアル的に実にイヤな感じだったりして、「エデン」には最初から不穏な感じが漂いまくっているワケです。
「あら、可愛い鹿さんね (´∀`)」なんて思ったら、横を向くとこんな状態で心からゲンナリ。
http://ameblo.jp/kamiyamaz/image-10825352456-11080473169.html
三角絞めでつかまえて-悲嘆の鹿
せっかく治療をして奥さんが少し癒えたっぽい感じになっても、なぜか目の前の木から鳥のヒナが落ちてきて、それに蟻がたかったりして、猛禽類がそのヒナを残酷に食べたりと、基本的に森で起きることはイヤなことばかり。だから、彼女も全然治らない…どころか、イカレ具合がさらにエスカレート。突然、下半身裸で襲ってきて、旦那が抱いてくれないと見るや小屋を飛び出して、大自然の中で激しく自らを慰めるんですよ。旦那が彼女を追って行くとセックスが始まって、背景の木には人間の手が伸びてきて…と、僕自身もどう書いて良いのか分からないカオスな状態になってきまして。
幻想的かつ禍々しいセックスシーン。
三角絞めでつかまえて-木の幹でセックス!
http://ameblo.jp/kamiyamaz/image-10825352456-11080379502.html
さらには奥さんの幼児虐待疑惑なども出てきて、旦那さんも「どうしようかしら…」と思っていたところ、突然、「アタシを捨てる気か!」と奥さんが急襲! 股間を一撃して旦那を昏倒させると、足に穴を開けて大きい砥石とドッキングさせるという、ちょっと「ミザリー」っぽい展開になりまして。あーだこーだの挙げ句、何とか砥石を外した旦那は奥さんを絞殺してしまうんですね…。
旦那が奥さんの死体を焼いた後、(エピローグ>になりまして。「私を泣かせてください」がまた流れて、“悲嘆”の鹿と、“苦痛”のキツネ、“絶望”のカラスの“3人の乞食”が見守る中、下山しようとすると、顔にボカシが入った大量の女性たちが山にやってきて、映画は終了してました。
もうね、ストーリーの容赦の無さも恐ろしいんですけど、とにかく“性と暴力描写”が凄まじかったですね。「奥さんが旦那の股間を一撃した後、強引に発射させると血が飛び出るシーン」もマジで引きましたけど、「奥さんが自らのアレをハサミで切除するシーン」にはさすがに目を逸らしたくなりましたよ…。
だから、海外ではこんなポスターがあったりするワケですな。
三角絞めでつかまえて-海外版ポスター
http://ameblo.jp/kamiyamaz/image-10825352456-11080394291.html
“切除”した後の奥さんと乞食三兄弟。ちょっと余分三兄弟を思い出したり。
三角絞めでつかまえて-乞食三兄弟
http://ameblo.jp/kamiyamaz/image-10825352456-11080394286.html
奥さんは「赤ん坊が窓から落ちる直前、そのことに気付いたのに、肉欲の虜になって性行為を続けてしまった」ということの後ろめたさから(ただ、あのシーン自体は罪悪感が生み出したウソの記憶だと思う)、その“女性の性欲”を象徴する部分を切り取ってしまうんですが、もう衝撃的かつ不快としか言いようがないシーンというか。僕の隣には女性が座ってたんですが、「ヒッ!」って悲鳴を上げてましたよ。
この映画、僕ごときの人間には本当にショッキングかつ難解だったんですが、自分なりに解釈すると、「思い上がるなよ」という自然=本質=悪魔からのメッセージだと思いました。“本質”を人間が制御できるなんて思うことがおこがましいと。旦那はセラピストとしての自分を過信してしまい、結局は殺すことでしか彼女を救えなかったワケで。最後に“3人の乞食”が彼を見送ったのは「自然、舐めんな」ってことだと。そして、男性社会的な思い上がりが崩壊して、旦那の心が罪悪感に満ちていたからこそ、大量の女性たちの幻影を観た…という考えは間違ってますかね?
なんか、「ブラック・ジャック」のこのシーンを思い出しましたよ。
三角絞めでつかまえて-おこがましい…
http://ameblo.jp/kamiyamaz/image-10825352456-11080394288.html
この映画の何がスゴイって、奥さん役のシャルロット・ゲンズブールの演技がとにかく恐ろしかった。子どもが死んで悲嘆に暮れる演技が真に迫っていて実に可哀想なんですが、狂気に至るあたりもまたリアルすぎて、正直、かなりゲンナリさせられました。ウィレム・デフォーもあの顔面力が素晴らしかったですな。
ちなみに、ポスターでは「ANTICHRIST」の「T」が「♀」になってたり、劇中で奥さん自身が「女性=悪魔」的な発言をしたりするので、「女性嫌悪者の映画だ!」と感じる人もいるかもしれませんが、僕としては「女性の方が生命を作り出せる=より自然に近い存在」だから、こういう感じの作品になったような…っていうかね、すみません、いろいろ考えすぎて知恵熱が出てきました… (´д`lll)
http://ameblo.jp/kamiyamaz/entry-10825352456.html
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3.グリフィス「散り行く花」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18744057
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18744111
http://www.youtube.com/watch?v=mx7wbYp5izw
http://www.youtube.com/watch?v=yqLnjgNiX-o&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=AVATXNggs1o&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=OpRwCTDT6sc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=xYtIE3Is3iM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=rTNnpAWK9zo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=bvQQllxbDGI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=mFAuLODXgog&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=D9853ozGcsY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Hg1OUlNcR38&feature=related
アメリカ映画の父のD・W・グリフィスの「散り行く花」は多くの人が言及しているように戦前の最高のロリコン映画だと言っても間違いのないことだと思います。
リリアン・ギッシュを「イントレランス」からさらにスターダムに押し上げた作品でもあり、私の高校の先輩 淀川長治は「國民の創生」「イントレランス」よりもこの作品をD・W・グリフィスの小品だが一番の見事な映画としています。
ジャンリック・ゴダールは 「すべての映画はアメリカ映画である」 としてヒロインのリリアン・ギッシュが死ぬ直前に、 それまでも何度も無理やり義父に笑えと強制されてもどうしても笑えず仕方なく指で口元を広げて笑顔を作りだしていたのが、亡くなる前には自らすすんで指で笑いを作って泣き笑いの顔で逝く最高のシーンは、 ゴダールの 「勝手にしやがれ」 のラストでジャン・ポール・ベルモントの最期で引用されています。
更に、その少し前に、恋人の中国青年の元から家に連れ戻されたリリアン・ギッシュが父から逃れて物置に逃げ込んだところ、、父親が斧でドアを壊していく凄まじい暴力の場面で直ぐに思い浮かぶのはスタンリー・キューブリックの傑作 「シャイニング」でジャック・ニコルソンが斧で同じようにドアを破壊してゆく場面であるに間違いありません。
その上にサム・ペキンパーの 「わらの犬」 で村の人びとに追い詰められてドアに向けてライフルを構えるダスティン・ホフマンの恐怖の表情こそ、ペキンパーの頭の中には映画の題名から由来する「人間の行動は護身のために焼くわらの犬のようにちっぽけな存在にすぎない」という中国の古い諺よりも、 リリアン・ギッシュのこの「散り行く花」での「恐怖」のイメージの方があったのではないかと勝手に想像したりしてしまいます。
D・W・グリフィス監督に関しては、 超大作「イントレランス」のセット建設に参加した二人の主人公を描いたタヴィアーニ兄弟が監督したイタリア映画の名作 「グッドモーニング・バビロン」で広く知られるようになりましたが、この監督の晩年は孤独な人生であったようで、 全然関係はないのですが、 同じような孤独な姿が私の大好きなバスター・キートンの晩年と重なってしまいます。
http://d.hatena.ne.jp/tougyou/20050621
何と健気で、儚い乙女。演じるは、20歳も半ばの、リリアン嬢。もうそこが凄いね。
ナボコフが「ロリータ」を書かなければ、美少女乙女路線は、リリアンコンプレックスになっていたかもしれない。
指で口の端をにって上げて、息絶えるシーン、これは公開後、幾百千万の(男の)心を捕らえてきたことでしょう。
永遠の乙女のイコン。グリフィス監督はここでサイレントの映画のテクニックを全て完成させた、とは映画史の語るところ。さらに、映画史は付け加える。
クローズアップが出現したのは、同監督がリリアン嬢を可愛らしく撮るために近づいたことによる、と。
なるほどなぁ。……また、この映画の、中国人の描かれ方に、人種差別の事は避けて通れないが、とはいえ、当時の一番進歩的なものではないか、と想像している。
例えば、長澤まさみ嬢の相手役が、日本人韓国人中国人西洋人以外の人種だとしたらどうだろうか。イランでもスーダンでもイヌイットでもいいが、それぐらいのものではあるまいか。また、仏教の浮き世と枯れる運命の花と儚い乙女との組み合わせで生きる脆さを故意に表しているならば、キリスト教を越えて、思想的にも進歩的でありそうだ。
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父子家庭に育った少女は、ボクサーである父親からDV を受けている。
(中川隆 注:今の言葉で言うと、性的虐待ですね)
DVに耐えかねた少女は、ふらふらと家出をするが、ある店の前で気を失い倒れてしまう。 その店の店主は、オタクで内気な青年で、かねてからこの少女をかわいいと思っていた。 そこでのこの状況!
青年は、迷わず気を失った少女を、自室のベッドへと寝かせ、軟禁に成功する。
看病をしながらも、少女の手をさすったりなでたり、と青年は自らの欲望を果たす幸せな毎晩を送る。
青年は、あこがれの少女を前に、ロリコン魂が燃え盛り、さぞかし夢見心地な毎夜だったに違いない。 でもそれは長くは続かなかった。 父親に少女を軟禁していることがばれ、父親が青年の家を訪れる。 そして、父親は娘を自宅へ連れ戻す。
淫らな行為をされたと思った父親は怒りが爆発。 その怒りの矛先は、少女への暴力につながった。
(中川隆 注 : 嫉妬に狂って愛人を殺してしまった という良くあるお話ですね)
父親の暴力により、少女は死に至る。 そこへ現れたオタクの青年。 父親を銃で撃ち殺してしまう。
まるで、某秋葉原無差別殺人事件の様に、衝動的な殺し方。 そして、その直後に、オタクの青年は自殺をしてしまう。 と、現代風に解釈するとこうなる。
http://www.jtnews.jp/cgi-bin/rv_4979.html
12歳の少女ルーシー(リリアン・ギッシュ)が父親から受けていたDVとは?
近親姦にはおおざっぱに言って、「虐待」的な要素と、「お気に入り」的な要素の、両極端の二つの要素があるように思います。
虐待的な要素というのは、言葉の暴力や、肉体的な暴力などを伴いながら、強制的に行なわれる性行為のことです。
もう一方の、お気に入り的な要素というのは、いわゆる「お父さん子」とか言われるような、親子の親密で良好な関係を利用しながら行なわれる性行為のことを言います。
この二つの要素は、それぞれが単独で現われるケースもありますが、二つの要素が複雑に入り混じっているようなケースもたくさんあるのです。
ではまず最初に、虐待的なケースから書いていきましょう。
これは、いわば家庭内レイプのようなものなのですが、通常のレイプ事件と違う点は、被害者には逃げ場がないということです。通常のレイプ事件というのは、もちろん被害者にとって非常にショックな出来事であり、精神的にも非常に大きなダメージを被るわけですが、それでも被害者には帰る家がありますし、そこには自分の寝室があり、自分のベッドや布団があるのです。しかし、家庭内で発生するレイプの場合には、どこにも安全な逃げ場がないのです。
夜、眠っているときに、父親が勝手に寝室に侵入してきて、脅迫しながら力ずくで強姦したりするのです。そして、通常のレイプと大きく違う点は、被害者は子どもであり、しかも犯人は、自分を育ててくれている実の親なのだということです。つまり、被害者である幼い子どもは、犯人である親と一緒に生活しなければならないのです。まだ幼い子どもは、衣食住のすべてを親に依存しなければなりませんので、このような逃げ場のない状況が、さらに大きなダメージを与えることになるのです。
さらに、家庭内レイプには、虐待的な行為が含まれてくるのです。
たとえば、父親が幼い娘の膣に、むりやりペニスを挿入しようとして、膣口が裂けてしまったケースの写真を見たことがありますが、いったい、この親はなにを考えているのかと言いたくなるようなことが発生したりするのです。
虐待的な親たちは、こいう唖然とするような非常識きわまりない行為を、性的な衝動に駆られたままに、平気でやってしまうのです。
虐待は、このような性交を強要するものばかりではありません。幼い子供に対しては、ペニスをマッサージさせたり、フェラチオを強要したり、精液を飲むように言ったりするのです。
もしも、子供が性的なサービスを拒否したりしますと、罵詈雑言を浴びせて、子どもの心をズタズタにしたり、浴室に連れ込んで、頭から小便を浴びせたり、あるいはトイレに連れて行って、泣き叫ぶ子どもの頭を便器の奥へ押し込んで、その上から水を流して溺れそうにさせたりするのです。
ほかにも、肛門にアイスピックを挿入して直腸に穴をあけたり、膣や肛門への異物の挿入、さらに殴る蹴るだけではなくて、裸にして縛って部屋に監禁したり、食事を与えないで放置したり、何回も妊娠させて、そのつど子どもに嘘をつかせて堕胎を繰り返させたりするのです。
このようにして、虐待的なケースでは、子どもの人間としての人格は完全に無視されてしまい、性的なオモチャのように扱われたりするのです。
こういうケースでは、親は教育という名のもとに、子供のあら探しをすることがよくあります。そして、子どものやることに難癖をつけて、子どもを罰しようとするのです。そして、そのつど罰として性行為を強要して行くのです。
このような親は、あらゆる思考が性行為へと結びついていくのです。
このような虐待的な親の特徴としては、言うことがコロコロと変わったりして、非常に気まぐれなところがあったり、あるいは突然、怒りを爆発させたりするようなところがあるようです。怒りが暴走してしまいますと、親は自分でも感情をコントロールすることができなくなってしまい、場合によっては激怒に駆られて、突然子どもの首を絞めたりするようなこともあるのです。
そして、このようなケースでは、首を絞めている途中で子どもが静かになってから、はっと我に返ったりするのです。まさに、殺人の一歩手前まで行ってしまうのです。このような、親の衝動的な行動というのは、まったく予測不可能な面があるために、子どもはいつどんなことをされるか分からないままに、常に虐待の不安にさらされることになるのです。
こういう虐待の被害者というのは、言っておきますが、まだ幼い子どもなのです。たとえ、大人がこのようなひどい扱いを受けたとしても、精神的に大きなダメージを被ることになりますが、まだ幼い子どもたちは、大人以上に大きなダメージを被ることになるのです。普通の家庭の子どもであれば、テレビで「ドラエモン」だとか「サザエさん」だとかいう、平和な家族を描いたマンガなどを見て、無邪気に楽しんだりするのでしょうが、
同じ年頃の子供たちの中には、親からフェラチオを要求されたり、むりやり強姦されたり、便器の中に頭を突っ込まれたり、首を絞められて殺されそうになったりしている子供たちがいるのです。
「家族」という閉ざされた扉の奥で、このような虐待行為が行なわれているのです。しかし、それでも、子どもたちは生きていかなければならないのです。どんなにひどい家族であっても、子どもたちはそこで生きていかなければならないのです。その環境の中で、なんとかして生きて行く方法を考えなければならないのです。
そして、その生きて行くための方法のひとつが、「心を凍らせる」ということです。心が何も感じなくなってしまえば、もう苦しむこともないのです。たとえば、手術のときに麻酔をかけて、痛みの感覚を麻痺させてしまうように、子どもは、自分の心を凍らせて、感情を麻痺させてしまうのです。そうすれば、心をズタズタに切り裂かれたとしても、もう何も感じなくなってしまうのです。なにも感じなくなってしまえば、虐待にも堪えることが出来るのです。
そして、卑劣な親から強姦されるという、こういう忌まわしい出来事は、すべて忘れてしまえばいいのです。心を凍らせて、何も無かったことにしてしまえばいいのです。そうすれば、もうそのことで苦しむこともなくなるのです。このように、心を凍らせてしまうという行為は、激しいショックによって自分が発狂してしまわないようにするための、ひとつの安全装置として作用するのです。
さて、このような近親姦を犯してしまう親というのは、どんな親なのでしょうか。一般的なイメージとしては精神異常者を思い浮かべるかもしれませんが、実際にはそうではないのです。たしかに、分裂病による精神的な混乱から近親姦に及んだり、知的障害者が近親姦におよぶようなケースもあります。しかし、これらは全体の一部でしかないのです。大部分は、一見普通の人たちなのです。
http://homepage1.nifty.com/eggs/jitai/incest/3jittai.html
1娘の凜(12) 投稿者:楓 投稿.2008/12/28 04:25:37
昨日私は、仕事でしたが主人と娘は、もう休みでした。 仕事が5時に終わり家に帰ると娘が泣きながら私に抱き付いて来ました。
どうしたのと聞くとパパが口にオチンチンを入れて気持ち悪い物を飲まされたと言いました。
私は、主人に凜に何したんと聞きました。すると何もしてないと言っていますがあきらかに動揺していました。
あんた凜にフェラさせたやろ?凜が泣きながら言っていたわ!
すると主人がゴメンと言って謝りました。私は、凜を連れて実家に帰って来ました。許す事は、出来ません。
まだ七歳の娘にフェラさせた主人とは、もう別れるつもりです。
もしやり直しても今度は、フェラ以上の事をして凜を傷つけるかもしれません。
どう思いますか? 別れた方がいいですよね?
12 投稿者:ひーろー .2009/02/06 18:53:57
ロリコンと結婚したあんたに責任があるんじゃないの?!
自分の身体で満足させれば子供に手をださなくなるよ。
http://www.nanbbs.jp/pc/res/71/BK-4AXI5/index.html
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4.尼僧ヨアンナ
http://www.youtube.com/watch?v=MYLKK78mA1M
ポーランドを代表する作家イワシキェウィッチが、17世紀フランスの史実に基づいて書いた短編小説の映画化で、舞台はポーランド北方に置き換えられている。
辺境の尼僧院に赴任しようという司祭スリンは、そこを目前にして近くの宿屋に泊まる。客や従業員たちの間では、院の話題で持ち切りだ。尼僧たちは、院長ヨアンナを始めとして、みな悪魔にとりつかれ、情欲のままにふるまっている。スリンはその悪魔払いのため来たのだが、先任者は完全にヨアンナの魔性に狂って火刑に処されたのだ。彼は悪魔と対峙する前にすでに震えおののく。そして会ったヨアンナは、平常時は美しく淑やかだが、ひとたび、その魂が悪魔を呼べば獣のように肉の交わりを求めて這いずり回るのだ。
自分を、そしてヨアンナにも、鞭打ってその誘惑を振り払わせる苦行を強いるスリンだが(白い聖衣が干している選択部屋の隅と隅に分かれてのシンメトリックな構図)、次第に彼女らの内奥にある魂の真実の叫びが彼にも届き始める。そしてヨアンナの中の悪魔を自ら引き受ける事でしか、彼女を解放する術はないと信じたスリンは、彼女を抱いて悪魔と一体になり、罪のない従者と宿屋の下男を殺す。その血によって彼の内に封印された悪魔は、やがて彼に下される火あぶりの断罪に彼と共に昇天するであろう、そんな余韻の中に映画は終わる。
果たして、悪魔とは字義通りのそればかりでなく、たとえば、カソリック教義自体が内包する神や悪魔を弄ぶ矛盾、ナチの残虐行為からスターリン圧政に連なるポーランドの問題を意味する言葉でもあろう。東欧映画に共通する理詰めの放縦とでも呼びたいカメラの運動にも圧倒される、鬼才カワレロウィッチによる真の恐怖映画。主人公が自分とそっくりの顔をしたラビ(ユダヤの僧侶)に教えを請うシーンが印象的。
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カメラに頭を向けて腹ばいで床に倒れている男という奇妙な構図のショットから始まる本作は、全編にわたって空間の深さを意識した構図を用いており、カメラの動きもそれに追従している。また、文芸作品らしいリアリズムで、SFX一切無し(逆廻しも無し)なのだが、ここまで得体の知れない存在を感じさせるのは流石である。観客を惑わす編集や、フレーム・イン、妙なタイミングが満載で、楽しめる。
苦悩に満ちながらも、どこか笑っているように見えるヨアンナの演技が怖い。村人たちの方も病的に見えるが、彼らは単純に欲や愚かさ(俗世界)を示しているのだろう。モノクロの、時に非現実的な色彩が、ポーランド映画のもつシンプルな画面によってより象徴的に、そして無機的に働いて、極度に精神的な中世ヨーロッパの雰囲気を上手く表現していた。何と言うか、ベルイマンの簡潔な世界観を物語的にしたような作品だった。
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童貞僧スリンに出会って恋に落ち、生理が始まってしまったヨアンナが、その経血を壁に塗り、悪魔に取り憑かれた笑みをたたえる有名なシーンが忘れられない。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=16926
修道院に悪魔祓いのために派遣されるスーリン神父は,その途中の宿屋で,怪しい噂を耳にする。修道女たちに悪魔が憑き,みな裸で踊り回るなど狂乱状態だ。とくに尼僧長のヨアンナには,いくつもの悪魔が住み着き,どんな悪魔祓いの儀式も功を奏さない。神父の前任者も,このヨアンナの妖気に惑わされ,狂い死んだのだという。
不安でいっぱいの神父が,修道院で実際に出会ったヨアンナは,普段は魅力的な瞳を持った淑やかな女性。しかし,いちど悪魔が乗り移ると,野獣のように唸り,呪いの言葉を吐き,ほかの修道女とともに荒れ狂うのだ。
はじめは,教理に則って,公開の悪魔祓いの儀式をおこなうスーリン神父だったが,全く効き目がないことを悟ると,密室でのヨアンナとの一対一の対決を試みる。そして次第にヨアンナの苦しみ,真実の声を知るにしたがい,自らがその悪魔の犠牲になるほかに,ヨアンナを救う道はないと知る。
ついにそのときは訪れ,ヨアンナと抱き合った神父は,体の中に悪魔たちが乗り移るのをはっきりと感じる。その後,すっかり普通に戻ったヨアンナに対し,悪魔を受け入れた神父は,内なる悪魔との戦いの中で疲れ果て狂乱。ヨアンナの肉体に戻ろうとする悪魔を自らの内に永遠に閉じこめるため,悪魔にすべてを売り渡す。悪魔は神父に従者ら二人の少年を殺害させ,ふたたびヨアンナも狂うが,しばらくののち元に戻り,その後は長く修道院長をつとめる....。
http://www.tomita.net/review/y980318.htm
この作品はケン・ラッセル監督が1971年に撮った「肉体の悪魔」のルーダン憑依事件の後日談と位置付けられる作品。
この作品自体は1960年に作られた作品なのでケン・ラッセルの作品とは全く関係ない。しかし、ルーダン事件で尼僧院長ジャンヌ(ポーランド語でヨアンヌ)がグランディエ(この作品ではガルニェツ)の魅力に惑わされ、尼僧院全体がいわゆる集団ヒステリー状態に陥る。グランディエが尼僧に悪魔を憑かせた張本人として火刑に処せられる。
この作品ではガルニェツ(グランディエ)の火刑の後の話として展開する。
ヨアンナは依然として悪魔に憑かれた状態で神父スーリンが悪魔祓いに向かう。尼僧院で神父たちが繰り広げる悪魔祓いの演出は最高。教会の石畳に十字架のように横たわる尼僧たちを上から見つめるように撮るシーンは幻想的というよりはサイケな感覚の方が合っていると思う。
そして、ヨアンナの尋問でヨアンナがブリッジの格好になり悪魔の声で応じるシーンはウィリアム・フリードキン監督の「エクソシスト」の階段をブリッジで降りるシーンとして完全に活用されている。
悪魔憑きが女性の男性に対する愛情や情欲であることはストーリーが進む中で明らかにされていくが、スーリン神父自体もヨアンナに魅了されていき悪魔に憑かれるという展開は、何とも「性(サガ)」を表しているようで物悲しさもある。
ヨアンナを演じたルチーナ・ヴィニエッカは同監督の「夜行列車」に引き続き妖しい魅力を出しており最高だった。さすがイェジー・カバレロビッチ監督ストーリー展開も映像の表現力素晴らしく一気に観てしまう傑作だ。
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17世紀のフランスで起こった“ルーダンの悪魔憑き事件”。これを題材にした有名な映画が2作あります。本作「尼僧ヨアンナ」と「肉体の悪魔」です。
この2作の間には、大きな違いがあるのですが、まず時系列で考えた時、「ヨアンナ」は「肉体の悪魔」の後日譚と捉えることができる、という点があります。 といっても、安易に〔続編〕と呼ぶことはできません。
「尼僧ヨアンナ」の原作は“ルーダンの悪魔憑き事件”をポーランドの作家イヴァシュキェヴィッチが独自の解釈を交えて書いた小説です。例えていうと、「赤穂浪士事件」に対する「忠臣蔵」のようなもの。一方「肉体の悪魔」の原作は、オルダス・ハクスリーが綿密な取材をもとに執筆したノンフィクション。舞台や世界観、登場人物の名前も違います。例えば;
『肉体の悪魔』 『尼僧ヨアンナ』
地方都市ルーダン → ルーディン(映画ではポーランドの無名の寒村)
修道院長ジャンヌ → ヨアンナ(ジャンヌのポーランド語読みですね)
グランディエ司祭 → ガルニェツ神父
イエズス会士・スラン → スーリン神父
(スランは原作のみ登場)
「肉体の悪魔」は、グランディエ(ガルニェツ)が火刑にされたところで終わります。一方「尼僧ヨアンナ」は、ガルニェツの死後、新たな悪魔祓い士としてスーリン神父が来るところから物語が始まります。
「肉体の悪魔」はフランスの地方都市(しかもかなりアヴァンギャルドなセットデザイン)が舞台で、映画のタッチは極彩色のエログロ絵巻。
「尼僧ヨアンナ」は東欧的な世界観の荒涼とした風景の中、モノクロの美しい画面であくまで静謐に、狂気が描かれます。この両作品の世界観・イメージはあまりにもかけ離れすぎているので、即・続編と捉えるにはかなりの抵抗が感じられます。しかし、これは多元宇宙的な世界観の中で展開する“ルーダンの悪魔憑き事件”を様々な視点から視ている、と考えれば、これほど面白い比較鑑賞法はなく、この事件を元ネタにしたと言われる「エクソシスト」も“ルーダン事件”の時空を超えた一面(憑かれた少女がとるリアクションの数々や、退魔士の神父の交代劇、といった展開は“ルーダン”事件そっくり)と解釈すると、メチャクチャ面白い映画の楽しみ方ができる、と言えないでしょうか?
本作「尼僧ヨアンナ」の魅力は、イェジー・カワレロウィッチ監督の手腕による、まさにアート映画と呼ぶにふさわしい、ゾクリとする程美しい映像の数々だと思います。
荒野の真ん中にポツリと建つ、白い修道院の幻想的な風景。
楚々と登場した瞬間から、その静かな貌に宿した狂気のまなざし。
ヨアンナ演じるルチーナ・ヴィニエツカのこの演技力!
「肉体の悪魔」でせむしのジャンヌ僧長を演じたヴァネッサ・レッドグレーヴの怪演も鬼気迫るものがありましたが、ヨアンナの貌に突然悪魔が現出するシーンの表情など、本当にコワイです。名女優相譲らず、の感・無量です。
悪魔が“女の血をかきたてて”白亜の壁につける「血の手形」。
礼拝堂の床に、腕を広げてバタバタと倒れる尼僧たち・・・真っ白い十字架が累々と横たわっているようです。
悲しみと嘲りがめまぐるしく交錯する、美しきヨアンナの大写しの貌。
そして、映画のラストで、ヨアンナを救うためにスーリン神父がとった行動とは・・・。
この映画は「悪魔憑き」という設定を通して神や悪魔の存在、そして愛とは何なのか・・・といった哲学的なテーマを問いただしているように思えます。 「肉体の悪魔」では、悪魔の存在そのものの問いかけよりも、「悪魔憑き」を政治的な陰謀に利用する人間たち、またその権謀術数により運命が狂わされていく人々のドラマを描いた作品だった、といえそうです。 同じ題材を扱っても、作品というものはここまで変わるものなのですね。
かねてその評判は高いが、日本ではこれまで部分的引用でしか知られていなかった歴史人類学の大著、ミシェル・ド・セルトーの『ルーダンの憑依』(みすず書房 6500円+税)がはじめて全訳された。
「ルーダンの憑依」は、十七世紀フランスの田舎町の女子修道院で起きた、歴史上もっとも有名な集団的悪魔憑き事件である。
十七人の修道女からなるウルスラ会修道院に、数週間前に亡くなった告解師の亡霊があらわれた。霊はしばらく修道女のベッドの脇で泣いた。別の亡霊が次の日真っ黒な球のかたちで修道院の食堂にあらわれ、二人の修道女を乱暴に地面に押し倒し、その肩に乗った。やがて修道女たちの肉体と精神に奇妙な変調があらわれ、次々に判断力を失い、全身がすさまじい痙攣に襲われた。
教会の上層部は動転し、調査をした結果、この事件の犯人は悪魔だと判断した。「悪魔祓い」が専門僧の手で行われた。 悪魔に名を名乗るように命じると、「神の敵だ」という。悪魔にとりわけ狂った院長の体から出るように命じると、院長は暴れ回り、吼え、歯をきしらせ、奥歯が二本欠けた。 悪魔と何度か問答を重ねた末、悪魔を彼女の体内に入れたのは、ユルバン・グランディエという別の教会の司祭であると判明した。
「彼女たちは叫び、(略)グランディエを探そうとして、修道院の屋根に駆け上がり、また肌着だけで木の上に、それも枝の先の方までよじ登ったのです。そこで恐ろしい叫び声を上げながら、風や雨に耐え、何も食べずに四、五日も留まっていた」という。
この悪魔憑き事件は、たちまちヨーロッパ中に知れ渡り、ルーダンの街に何千もの野次馬が押しかけた(修道女が教会の尖塔に上り宙を飛ぶなどのウワサが広まった)。野次馬は何日も泊りがけで狂える修道女を見物した。野次馬に見られながら、修道女は吼え叫び、土の上でころげまわり、足や手を組み合わせ、足の裏をくっつき合わせたりした。卑猥なようすで舌を出し、つばを吐き、冒涜的な言葉を吐きちらかした。ミサの最中に、足と頭のてっぺんだけで背面位の体を支え、その体勢で階段をかけ上がり祭壇の上で司祭の服を引きミサを妨害した。
やがて、修道女たちには、一人に何人もの悪魔が乗り移って(多い人には九人も)いるとわかる(悪魔がそう告白する)。修道女たちとグランディエとの対決が行われ、グランディエがどう否認しても、彼が悪魔に使われている証拠が次々に出てきた。六人の悪魔とグランディエが署名した「契約書」すら出てきた(「神を否認して悪魔に仕え、できる限りの悪を尽くし、なろうことなら人間でなくなり悪魔になることを願う」)。グランディエは、ルイ十三世直々の指名による特別法廷で魔法使いとして裁かれた。一カ月余の審理を経て(書類の読み上げだけで十八日間を要し、喚問した証人は百人をこえた)、膨大な証拠(悪魔との契約書など)によって、火刑による死刑が宣告された。刑は一万人以上の見物客の前で執行された。
裁判中に、修道院長と修道女の一人が、無実のグランディエを告発して罪におとし入れたと告白したが、その告白も、魔法使いの魔力を証明するものとされ何の影響力も及ぼさなかった。
この異常な事件は、欧米では繰り返し検証の対象となり数々の論文や小説が書かれた。映画も(カヴァレロヴィチ「尼僧ヨアンナ」、ケン・ラッセル「肉体の悪魔」)作られ、オペラも(ペンデレツキ「ルーダンの悪魔」)作られている。 本書は、驚くほど浩瀚な資料によって、この事件の背景を深く深く掘りさげている。なるほど名著といわれるだけのことはある。
この事件をもっと大きな構図で知るためには、ポール・ケーラス『悪魔の歴史』(青土社 2718円+税)をあわせ読むとよい。悪魔という観念が、どれほど人類の頭を狂わせてきたかがよくわかる。特に、宗教改革と反宗教改革の時代は最も、悪魔観念にとらわれていた時代で、カトリックもプロテスタントも互いに他を悪魔とみなしていた。ルーダンは実は宗教戦争の最前線で、ついこの間まで、両教徒が殺し合いを続けていた場所だった。
今世界で一番悪魔の存在を信じている人が多いのはアメリカで、半数以上の人がそれを信じている(ハリウッドは悪魔映画でいっぱい)。かつてアメリカ人にとって悪魔はソ連であり共産主義だった。いまは何なのか。テロリストであり悪の枢軸国家だ。イスラム原理主義者もアメリカは悪魔の国と信じている。だから殺し合いがつづく。
http://blog.livedoor.jp/phoyipsnoons/archives/64959390.html
『肉体の悪魔』の原作はオルダス・ハクスレーの『ルーダンの悪魔』という歴史研究書。 『ルーダンの悪魔』はルイ14世時代のフランスの修道院で実際に起きた悪魔憑き事件を、20世紀の視点で冷静に分析した本。
田舎町ルーダンにやって来たセクシーな司祭(オリバー・リード)は町中の女たちを熱狂させた。その熱狂は男子禁制の修道院内にも感染し、なかでも修道院長(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)は一度も会ったことのない司祭に恋焦がれ、彼に犯される淫夢を見るほどだった。
ところが司祭は極秘にある女性と結婚してしまった。司祭のファンたちは嫉妬に狂い、精神の均衡を失う。 中央政府は、それが女性たちの性的欲求不満による集団ヒステリーだと知っていたが、権力を持ちすぎた司祭を葬るために政治的に利用する。 司祭が悪魔に魂を売って、修道女たちに悪魔を取り付かせたのだと。そして、政治ショーとしての悪魔祓いと魔女狩り裁判が始まる。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20090321
われわれ人類と悪魔との契約を記す文書で、今日まで遺されているものは数少ない。冒頭に掲げたユルバン・グランディエによる一書は、そのなかで最も明確に形を留めたものとされている。
このユルバン・グランディエなる人物は、十七世紀フランスを揺るがしたかの有名な「ルーダンの悪魔憑き」事件の被告であり、一六三四年に同市で火刑に処された札付きの放蕩司祭としてよく知られている。
彼がサン=ピエール・デュ・マルシェの教区司祭に任命されたのは一六一七年、二十七歳のときであった。栄誉ある就任は彼の自尊心をしばし満たしたが、だからと云い、ひきかえにその美しい面貌を自然に朽ち果てるまで聴聞室の翳がりに埋れさせるつもりはまったくなかった。
「いや聴罪司祭とは、その気になりさえすればあまたの女と一戦交えるのにこれほど都合のよい地位もあったものだ。まさしく俺にふさわしい、神が与えてくださった恩寵に違いない」
という次第であり、以来、彼は自ら定めた勤行に忠実にはげむこととなった。のちの裁判が決めつけたような悪魔との取引こそなかったものの、それとは別に、彼は神のことなど識りはしなかったのである。
この新任の司祭は、手始めとばかり、悔悛に訪れる娘たち次々とものにしていった。とりわけ王室顧問官の娘マドレーヌ・ド・ブルについては、その愛人関係を公けにして憚らなかったという。
このようにしてグランディエは就任後の数年を思いのままに過ごしたのだが、やがて普通の女では飽き足らなくなってきたちょうどその折、一六ニ六年、同市にウルスラ会修道院が新設された。純潔の砦に集いし十七人の乙女たち――とりわけ「天使のジャンヌ」の誉れ高き院長ジャンヌ・デ・ザンジュのみずみずしい横顔は――さしもの女に食傷気味であったドン・ファンの裔にとっても、新たな意欲を掻き立てるに足るものであったらしい。それが司祭にあるまじき涜神行為になることなど、彼にとってはどうでもよいことであった。
それにしても彼は、一体どのようにして院長のみか他の修道女たちをも芋蔓のごとく籠絡せしめたのだろうか。いかに名うてのプレイボーイといえど、たしかに悪魔に縋ったような話ではある。それゆえ彼がうまくやってのけた際には、いかなる手管を用いたのかは大いに人の怪しむところとなった。
この一件はそれだけでは済まされなかった。さすがに聖ウルスラの美名を汚し、その験力をも侮ったとなれば、因果も来たりて誅槌を下すというもの。当初はグランディエに心底惚れ込み、修道院長の地位を譲り渡そうとさえしていたジャンヌであったが、グランディエを御するなどとうてい適わぬこと。頭を冷やして考えるならば、自分といい後輩たちといい、とんだ不始末をしでかしたものだ。このままでは世間の恥さらし、かくなるうえは すべてはグランディエと悪魔の謀りごとに帰してしまうのが上策であろう――というわけで彼女たちは、「悪魔憑き」のシナリオを描いた謀殺者らと利害の一致を見た。
だが、グランディエの禍根はそれだけではない。誘惑者として中傷と非難を集めるかたわら、彼は政治家として、また著述家としても敵をつくることに余念がなかった。
政治家としての彼は、聴聞を通じて地方要人の妻たちとのコネクションをつくりあげ、間接的に影響力を行使した。これは、ルーダンにもともといたカプチン会やカルメル派にとっては、あの学者面をした色男に女性告解者をことごとく奪われ、著しく影響を減退させられたかたちとなる。また当地のカルメル派の収入源であったノートル・ダム・ド・ルクヴランス(健康回復の祈祷を受ける聖母)というマリア像も、グランディエの嘲笑の餌食となり験力を失った。
グランディエは執筆活動も精力的に行った。自由主義的な論文や風刺詩といったものに本領を発揮し、もう一つ機縁があったなら、同じイエズス会士であったルネ・デカルトやあるいは諧謔の思想家フォントネルのようなリベルタンとして名が挙がったかも知れないのだが、あくまでローカルな諷刺家に留まった彼は、当然の帰結として地元政治家や聖職者たちに疎まれる結果となった。
総じて、彼は誘惑や挑発には長けていたが、保身のすべをまったく知らず、その子供のような無防備さゆえに、自ら火刑場の薪を積み上げていったのである。
それでも、彼の著作のなかにはマドレーヌ・ド・ブルのために書かれたという『聖職者の妻帯権を求める訴状』といったものまで含まれているのを見るならば、この放蕩者にもそれなりのポリシー、内的な一貫性があったことを認めなければならない。
「若い男性に禁欲を強いるということは、羊に向かって空を飛べと云っているようなものではないか? 羊を崖に追い立てたところ墜落して死んでしまったとしたら、その責任は羊ではなく牧者にあるのではないか? そのような馬鹿げた不可能事は信仰とは何の関係もない。
読者諸賢よ、性欲、食欲、名誉欲といった欲望は、それが美辞麗句や欺瞞によって隠蔽されている時にこそ毀めるべきなのであって、それ自体は罪でないばかりか恥ずべきことですらない」
してみれば、愛人との関係をとりたてて隠さなかったのも、彼なりの誠実さだったのかも知れない。とはいえ、彼の時代そして地位において、そんなことが理解されるはずもなかった。グランディエに対する共同体からの排除は、「魔女裁判」という最も陰惨なかたちで今しも始まらんとしていた。天使たちもまた沈黙のうちに彼の謀殺を許した。グランディエは、手遅れにならぬうちに自制を知る機会を、遂に得ることができなかった。
ウルスラ会修道院の聴罪司祭であったミニョン神父が、最初の告発者となった。彼もまたグランディエと土地を争い、嘲笑を浴び、従姉妹を誘惑された、つまりはグランディエがつくった敵の一人であった。ルーダンで起こった悪魔憑きのすべては彼が仕組んだ芝居であったが、のちに同類の訴訟が積み上げられ、それは退け難いものとなった。枢機卿リシュリューは彼の風刺文に恨みを抱いていたし、検察官は娘を孕まされた復讐をする絶好の機会であった。そのうえフランチェスコ会、カプチン会、そしてグランディエ自身の属するイエズス会の神父までもが告発者のリストに名を連ね、グランディエの甘言を信じたために悪魔に憑依され翻弄されたという、かつて彼に捨てられた女たちが次々と証言台に立ったのである。
http://www.geocities.jp/mezusinnou/kaie05.html
尼僧ヨアンナ / イエジー・カワレロウィッチ監督の最高に美しい白黒映画
1960年ポーランド映画。何度も見ているが、これほどの美しい白黒映画を知らない。見る度に新鮮な感動を覚える。全編、考えぬかれた構図がぴたっと決まっていて、そんなところからもこの映画美に引きずり込まれる。
中世のポーランド、辺境の寒村の旅籠にスリン神父(ミエチスワフ・ウォイト)が着くところから映画は始まる。村の尼僧院の僧院長のヨアンナ尼に悪魔が乗り移っている。スリン神父は彼女の悪魔払いのためにはるばるやって来た。スリン神父は僧院で生まれ育った女を知らない敬虔なキリスト教徒であることをみこまれたらしい。前の教区司祭が夜な夜な美しいヨアンナ尼の寝室に忍び込んだために、彼女の肉体に悪魔が乗り移ったと村人は噂している。
旅籠から見ると小高い丘の上にその僧院はあり、中間あたりに、前の教区司祭が火あぶりの刑に処せられた刑場が今も残っている。その横を通って、僧院についたスリン神父はヨアンナ尼と対面する。対話が進むにつれて、ついに悪魔が本性を表して、神父に挑発する言葉と石壁に血の手形を残してヨアンナ尼が立ち去っていく。この時の映像が様々に媒体に使われているので、目に焼き付いている。
二人は誰も入れない広い屋根裏部屋で、苦行を続けるうちに、通いあう心が芽生える。ついに、口づけをきっかけに悪魔はヨアンナ尼からスリン神父の肉体に乗り移る。神父はヨアンナ尼への愛ゆえに、悪魔を自分の肉体に留め置こうと決意する。ヨアンナ尼を救う道はそれしかないことを悟って、悪魔と取引をする。取引の条件は殺人の罪を犯すことだ。スリン神父は二人の村人を斧で殺害して、ヨアンナ尼を悪魔から救う。
途中、悪魔払いに自信を失って、ユダヤ教の司祭を訪れて助言を求める。 ここでユダヤ人司祭はキリスト教徒のユダヤ人迫害を持ち出して、話しは決裂する。このシーンもあって、この映画はキリスト教徒の自己分析の映画ではないかと思った。根底にはナチスドイツのホロコーストがあるのかも知れないが、作者は普遍的なレベルを問題としているように思えてしかたがない。というのも、今見ても鮮度を失っていないと感じるから。
http://page.sgy3.com/index.php?ID=1162
中世末期。ポーランドの小村にあるウルシュラ修道院の尼僧長「天使の」ヨアンナの身体には6体の悪魔が憑いていた。悪魔はときとしてヨアンナの意識をのっとり、彼女に悲鳴を上げさせ身体を操った。彼女のほかの尼僧たちにも悪魔は憑き、修道院内は悪魔憑きの病的な空気に深く包まれていた。事態を収拾するため教会から派遣されたスーリン神父はヨアンナに憑いた悪魔を祓う祓魔式に臨むことになる。
スーリンが修道院に向う途中で聞くヨアンナの噂は不穏だったが、実際に彼女と面会してみればそこには憔悴した一人の尼僧がいるだけだった。しかし面会が終わり、神父が十字を切ったとき彼女は豹変する。表情は一変して恐ろしい形相となり、魂の奥底まで覗き込むような凄まじい目つきで神父を睨みつける。彼女に憑いた悪魔が目覚めたのだ。悪魔は彼女の口を借りていうだろう、「そう簡単に俺をこのかわいい体から追い出せると思うなよ」と。
ヨアンナの祓魔式は公開される。興味本位で集まる野次馬たち。ヨアンナをはじめほかの尼僧たちに憑いた悪魔たちまでもが暴れだし、修道院内は狂気のるつぼと化して儀式は失敗に終わる。スーリンは公開をやめ、屋根裏の密室での祓魔式に切り替える。時間をかけ相手の話に耳を傾け、精神を落ち着かせる。これは現在でいうカウンセリング式の精神療法によく似ている。面会を重ね、ヨアンナの人となりを知るにつれ神父に募っていく彼女への思慕の念。何としてでもヨアンナを癒し、彼女を聖女にしたい。その思いが嵩じたために、予想外のおそろしい事態を招いてしまう。
この小説は実際にあった悪魔憑きの事件を著者がアレンジして小説としたもので悪魔に直面した神父が自らの信仰を自問し、女への愛情を自覚する内面探求の物語となっている。これは著者の文学の特徴であって訳者は巻末の解説で著者についてこう述べている:
イヴァシュキェヴィッチの小説は、ポーランド近代文学が自らの宿命とみなしてきた政治性、愛国憂国亡国の問題、祖国の蜂起や戦争をめぐる主題などをそれ自体として全面に押し出すことがほとんどない。時局に対応して、作者自ら政治的寓意を含ませるということもほとんどなかった。焦点をあてられるのは、常に、愛や死、歴史の無常、あるいは美の衝撃に直面した個人の内面劇であった。
きわめてショッキングな内容を扱ってはいるものの、この小説においてもっとも注目されるのは結局はスーリン神父の内面の問題であり、悪魔憑きの事件は彼にとっての契機としてあるに過ぎない。
悪魔とは何であるか。それは誰のなかにも棲んでおり、われわれを日々罪へと誘惑する囁きのことではないのか。ヨアンナは敬虔な尼僧だが、彼女も人間であって傲慢さと無縁ではない。その弱点を意識しすぎるあまりの狂気の発作、それこそが悪魔の正体ではなかったか。
かつてスーリンの前に祓魔式に臨んだ美男の神父は、尼僧たちの関心を惹きすぎたために断罪された。女だけの閉鎖的な空間で厳しい戒律に縛られて続く禁欲的な日々。それが若い女たちの自然な欲求を歪め、集団ヒステリーを引き起こしたとしても異常とは思えない、むしろ自然な反応だと管理人には思える。最初の祓魔式の恐ろしいような狂気のカオスも集団ヒステリーの場面と捉えられなくはない。
修道院をときどき抜け出しては村の庶民たちと他愛ない噂話に興じて憂さ晴らしをしていたある尼僧だけは、悪魔憑きと無縁な健康体でいるという設定に注目すれば、管理人と同じ見解を著者もこの事件に関してもっているように思える。それにしても最後に勝利したのは悪魔だったのか、人間だったのか。
http://epi-w.at.webry.info/201104/article_1.html
フロイト的抑圧の光景 / 「尼僧ヨアンナ」 イェジー・カヴァレロヴィチ
フロイトそのまんまに、まずは書いていこう。もともと人間の「性」は抑圧されている。
そうしないと、秩序はうまく保たれないからだ。宗教や法や政治というのは、そのような「性」を封じ込めて、それで社会全体がうまく機能するようにするためのものといってよい。
そういう抑圧のシステムの中では、男性の側から一方的にみると、この映画の冒頭の下卑た宿屋の主人のセリフにあるとおり、女性というのは聖女であると同時に淫らな存在である。社会的な禁忌を破るものはすなわち「悪」であるとするならば、そのような性的な存在である人というものは、映画の中でカトリックの僧侶の主人公と問答をするユダヤ教の僧侶の認識とおり、もともと悪を秘めているし、そもそもそれが前提となって世界は出来あがっているということになる。
さらに、性的な抑圧は、時にそれがうまく機能しないと、人間の精神に破綻をきたすこともある。フロイトは単刀直入に、精神病の病理を性に結びつけて考えた。
この映画は、カトリックの修道院が悪魔に獲りつかれているため、その修道院に派遣されてきた僧侶の破滅の物語。
悪魔につかれた尼僧ヨアンナに、悪魔払いの様々な努力をするが、そのうちに僧侶自体がその悪魔に取り付かれていくという筋書きなのだが、映画のテーマは、性的存在である人間の悲劇といったところかと思う。
映画の観方は様々でよいと思うが、共産主義体制の抑圧の風刺うんぬんはちょっとピントがずれていると思う。この映画の取り扱っているのは、もう少し人間の禁忌の起源に触れるようなものであろう。
単純といえば、単純。
宗教と性・・・そのまんまフロイトのテーマである。
荒涼としたポーランドの風景に、精神の破綻を来たした女性の悪魔劇が延々と続いていく。そして、性的なものから隔絶した存在であるべき僧侶が、尼僧との対峙を通じて、人間の暗い性の世界に落ち込んでいく様を、完璧なカメラワークと清みかえったモノトーンの画面の中でゆっくりとゆっくりと描写していく。
悪魔に憑かれる、すなわち精神に破綻を来たした尼僧たちが、躍動する女性としてむしろ魅力的にみえるのは自分だけではないはず。それはこの映画の監督の狙いだったと思う。
http://masterlow.blog74.fc2.com/blog-entry-165.html
「悪魔憑き」の現象という戦略 ―― 封印され得ない欲望系との折り合い
1) 閉鎖系の空間状況下での修道女たちのストレスと、ガス抜きされねばならないという構造性
この映画を今回観直していて、私の脳裏を過ぎったのは、ピーター・ミュラン監督の「マグダレンの祈り」(イギリス・アイルランド合作映画・2002年製作)の幾つかのシークエンスである。
それは、アイルランド各地から「非行少女」を強制隔離して、「堕落したあなた方も、信仰を取り戻すでしょう」と言い放つ、シスター・ブリジッドの訓示によって開かれた「マグダレン修道院」の苛酷な物語であった。 「未来の修道女」を目指すことを強いられる「非行少女」たちの実話であるから、観ていて余計総毛だったものだ。 とりわけ、修道院のルールに背いた「未来の修道女」に対するシスターたちの「教育」は、彼女たちの若い自我を壊しかねないほどの陰惨さに満ちたものだった。
洗濯場で全裸にされた娘たちを一列に並ばせて、シスターが吐き出す言葉の暴力は殆んどサディズムと言っていい。
「オッパイが大きすぎる子がいるわね。
フランシスは意外ね。こんな貧弱なオッパイは見たことはないわ。乳首もないわ。
見た?普通じゃないわ。ハハハハ。
一番のぺチャパイはフランシスね。一番のデカパイは?・・・」
シスターによって、「陰毛賞」という低俗なるネーミングによるヘイトスピーチが吐き出され、その対象となった「未来の修道女」は泣き出すばかりだった。
このエピソードで瞭然とするように、「マグダレン修道院」では、シスターを頂点とする「権力関係」が形成されていて、ここに寄生する修道女たちの日頃の不満やストレスをガス抜きする手段として、「未来の修道女」に対する陰湿な虐めや暴力が日常化しているという現実があった。 いや寧ろ、「権力関係」を保持する「潤滑油」として、この類の暴力が常態化していたと言ってもいい。
ここで重要なのは、修道女たちのストレスが、このような方法論によってガス抜きされねばならないという、その構造性そのものである。 そこでは、厳然たる「権力関係」が存在し、閉鎖系の空間状況を現出させていた。 そして「権力関係」を補完的に強化するシステムが殆んど万全であり、何よりも、「不道徳なる娘たち」を矯正するという大義名分があった。 そして、このような施設の存在を認知する社会的背景があり、そこに送り込まれた娘たちの親族の、堅固な協力体制が厳然と存在していたのである。
以上の言及は、1996年に閉鎖されたアイルランドの修道院の実話についてのもの。 ここからは、本作の修道院のケースを見ていきたい。
2)「悪魔憑き」の現象という戦略 ―― 封印され得ない欲望系との折り合い
本作の時代背景は17世紀半ば。 場所は、ポーランドの寒村の尼僧院。
映画を観る限り、この尼僧院には、「マグダレン修道院」のような堅固な「権力関係」が存在したとは思えないし、まして「未来の修道女」に対する陰湿な虐めや暴力が常態化していた訳ではない。 いや、それ故にこそと言うべきか、尼僧院内部の閉鎖的環境下で生活する尼僧たちにとって、色彩感の乏しい日々の累積の中でストックした、様々なストレスを解消する手立ては相当に限定的であっただろう。 しかし、その限定性は相対的なものだった。 そこが、「牢獄」の如き「マグダレン修道院」の閉塞性と分れていたのである。
個々人の欲望系が、抑性的に処理される技術のみが求められる生活の日常性は、そこに特段の破綻を来たす事態が招来しなければ殆ど問題ないが、閉鎖的環境下で許容された自由の濃度が相対的に深かったならば、却って、個々人の欲望系の出し入れが恣意的になりやすく、抑性的に処理される技術のコントロールも困難になるであろう。
「聖」の象徴としての尼僧院が建つ丘の下に、まるで対極の構図のように構える、「俗」の象徴としての木賃宿。 そこに通う僧院の門番の話によると、尼僧院では、夜間でも門を閉めないから出入り自由であり、肉食も自由であると言う。 即ち、尼僧院の尼僧の個々人の欲望系は、「絶対禁欲主義」の縛りから相対的に解放されていたのである。 まして、美しい女性の尼僧院長であるヨアンナの下で、先の「マグダレン修道院」のような堅固な「権力関係」が形成されていた訳ではなかった。 尼僧たちは、適度なガス抜きを愉悦していたのである。
現に、「聖」の象徴としての尼僧院に暮らす一人の尼僧は、折に触れ、「俗」の象徴としての木賃宿に通っていて、世俗の話題を存分に共有していた。 そればかりか、木賃宿の色好みの亭主に酒を飲まされ、軽快なテンポで歌まで歌うのだ。
「惚れる男がいなければ、私は一生尼暮らし」
こんな歌を平気で歌う尼僧が、スリン神父に見つかり、退散するシーンは印象深いものだった。 なぜなら、後に男との駆け落ちに失敗ししたこの尼僧は、男に捨てられて嘆いていたが、ここまで徹底的なガス抜きを愉悦していたならば、もう本質的に、彼女は「俗」の住人であるとしか言えないからだ。 そして重要なことは、この尼僧が「悪魔憑き」に捕縛されていなかったという厳然たる事実である。
「俗」の住人には、「悪魔憑き」という現象が無縁であったこと。 それこそが、本作の根柢にある主題に関わる由々しき現実なのだ。
ともあれ、そんな環境下にあったからこそ、美男で若いガルニエツ神父が、尼僧院の門戸を開けて、夜毎に美しいヨアンナの寝室に忍び込むことが可能だったのだろう。
「尼僧たちは、神父の訪問を享楽していた。悪魔に取り憑かれた尼たちは、人目も憚(はばか)らず、大声で喚き立てていたのです。会堂で例拝の間にも、淫らな行為をしていました」
これは、スリン神父が土地の者から聞いた話。
そのスリン神父が、ヨアンナとの関係形成の中で、本人から直接聞いた話がある。 既に、「悪魔憑き」によって隔離を余儀なくされていたヨアンナは、スリン神父に語っていた。
「神よ、このあさましい私は何ものですか?私はただの尼です。父は公爵でしたが落ちぶれて、スモレンスク(注)にいるとのことですが、不明です。八つの悪魔に取り憑かれたのは、私の落ち度でしょうか」
(注)17世紀初頭のロシア・ポーランド戦争の「スモレンスク包囲戦」によって、ポーランド=リトアニア共和国に割譲された都市。現在は、ロシア連邦に帰属。
スリン神父に語った、このヨアンナの言葉をみても分るように、彼女は恐らく、他の多くの修道女がそうであったように、「聖女」を目指す強い「宗教的使命感」によって尼僧になった訳ではない。
普通の欲望と感情傾向を持った美しい女性の、その閉鎖的な日常性の中にあって、存分なまでに世俗に塗れた世界との比較において、己が欲望系を封印されることを余儀なくされたとき、「聖」の世界に殉じる者の非日常の時間の広がりに同化していくに足る、「最適適応戦略」の要請が内側から強迫的に突き上げて来た心的プロセスが仮定できるだろう。
しかし、その強迫的な時間の空洞を埋めるような事態が出来する。 これが、美男で若いガルニエツ神父の振舞いであった。 夜毎にヨアンナの寝室に忍び込む時間の形成の本質は、例えそこに「禁断」の印が張り付いていたにしても、その行為自身が「男女の恋愛」か、それとも、「男女の性的関係」の愉悦以外の何ものでもなかったことは否定できないだろう。 「禁断」の閉鎖空間で男女の関係が作り出されたとき、何かが大きく変わっていく。
変わっていったものは、ヨアンナが日常的に封印していた生々しい欲望系の情感世界である。 その中枢の感情が、性欲であると言っても間違いないだろう。 しかし、「禁断」の閉鎖空間での睦みが世間に知られるに至って、生々しい欲望系の情感世界の延長は人為的に遮断され、その反徳行為は最も厳しいペナルティを招来した。 ガルニエツ神父の火刑である。
「ガルニエツ神父の火刑の前夜、尼さんたちは裸で庭を走り回って、神父の名を叫んでいたということだ」
これは、「俗」の象徴としての木賃宿で拾われた言葉。 「悪魔憑き」の現象である。 この「悪魔憑き」の現象が尼僧院で本格的に出来したのは、それ以降である。 これが、尼僧ヨアンナを中心とした尼僧たちの、その欲望系の情感世界が人為的に遮断された結果、そこに出来した最悪の現象の真実の様態だった。
欲望系の情感世界が封印された中枢の空間で、禁断の印を存分に解いてしまった尼僧たちの自我にとって、なお封印され得ない欲望系と折り合いをつけるには、「悪魔憑き」の現象という戦略以外になかったのである。 「事件」が発覚し、ガルニエツ神父の火刑によって、そこで展開されていた人間の欲望の自然な発動のラインが破壊された代償は、「最適適応戦略」を容易に手に入れられないアポリアの中で、既に限定的であったということだろう。
3) 我が身を鞭打つ肉塊の炸裂にまで上り詰めて
「これからお前と闘わねばならない。お前の縄張りだろうと、私は神の使いだ。私は善で、お前は悪だ」
これは、「悪魔」に対するスリン神父の戦闘宣言。
「悪魔が女の血を掻き立てて、壁に付けるのです」
これは、スリン神父の参戦に対するヨアンナの、「悪魔憑き」の現象という戦略による意思表明。 かくて、二人の「実存」を賭けた心理戦争が開かれた。
「神を敬えと言われても、私にはできないことです。地上のどんな力でも、私を束縛できない。私はいつも自由です。束縛など嫌です」
このヨアンナの言葉には嘘はない。 「悪魔憑き」の現象という戦略によって、彼女は閉鎖空間で、なお自分の思いを繋ごうとするのだ。 そんな彼女の振舞いを目の当たりにした司教たちによって、「悪魔払い」の儀式を経て、彼女は束縛されるに至る。 ヨアンナの叫びが、白一色の人工空間の中で刻まれた。 隔離されたヨアンナの苦悩を引き受けようと、スリン神父の苦行が開かれた。
「愛は悪を追い払います」
スリン神父は、ヨアンナに語った。
「汚辱に満ちた誇りを捨てなさい。あなたの苦しみを全て吐き出すのです」
スリン神父の熱意が、ヨアンナに連射されていく。
「八つの悪魔に取り憑かれたのは、私の落ち度でしょうか」とヨアンナ。
「子供のように純真になればいいのです。神はきっと愛して下さる」とスリン神父。
「もし悪魔が、あなたに乗り移ったら?」とヨアンナ。
際どい会話が、二人の心理戦争の濃密な時間の内に捨てられていく。 濃密な時間の内に捨てられた二人の心理戦争は、まもなく、屋根裏部屋に籠って我が身を鞭打つ肉塊の炸裂にまで上り詰めていくのだ。 スリン神父の手を取るヨアンナが、そこにいた。 思わず、その手を突き放した神父は、
「あなたが悪魔だ」
と洩らしてしまった。 泣き崩れるヨアンナが、そこに置き去りにされた。
4)「神学論争」を超えるドストエフスキー的な教理問答 ―― 迫るラビと、立ち竦む神父
悪魔払いに自信を失ったスリン神父が、ユダヤ教のラビを訪れた。 そこで展開された、ドストエフスキー的な教理問答は、以下の通り。
「あなたは、何を指して悪魔というのですか?
それは何処から来て、誰が作り出したものですか?」
とユダヤ教のラビ。
「それは神です」とスリン神父。
「悪魔が世界を創ったとしたら・・・
神がこの世界を創造されたとするならば、死や病気や戦争が起こるのは何故ですか?
何故、私たちユダヤ人が迫害を受け、何代にもわたって侵略と虐殺の恐怖に苦しむのか」
「それは原罪です」
「原罪だと言うのか。アダムとイヴの堕落です。人間は何度も堕落し、立ち直りもする。人の犯す全ての悪業は、決して悪魔のせいではないのだ。
最初の人間の堕落と、最初の天使の堕落です。
なぜ天使は、人間の女に巨人を生ませたのか。答えて下さい、神父」
「天使は不可解な存在です」
「ヨアンナを天使の尼僧と呼ぶが、ただの女に過ぎない。では、天使とは何ですか?」
「神の使いです」
「悪魔もそうだ。神の意志で人間の心に取り憑く」
「それはどんな時に?」
「悪魔を強く愛した時です」
「悪魔を愛するとは?」
「愛はこの世で起こる、あらゆる物事の基です」
この会話には、少し説明が必要だ。
本来、ユダヤ教では、「悪魔」とは「神の敵対者」というよりも、「サタン」の語源がヘブライ語で、間違いを犯した人間に罰を与える「天使」を指していて、寧ろ「神の僕(しもべ)」という役割を持っていた。
ところが、「神は慈悲深い愛」と説くキリスト教の成立過程において、現実社会で出来する理不尽な死や、災厄や戦争、繰り返される人間による迫害や悪業の根源について的確な解答を提示せねばならなくなったとき、そこで作り出された観念の産物が「神に対する絶対敵対者」としての「悪魔」という概念だった。 このユダヤ教のラビは、キリスト教の敬虔な神父に対して、その辺りの本質的な疑問を投げかけたのである。
元来、ユダヤ教では性衝動や性行為を自然なものと考えているから、「セックス」を不浄視していない。 従って、「性欲」に懊悩するヨアンナを、「ただの女」、即ち、普通の人間であると言い切ったのだ。
詰まる所、「悪魔」とは、人間の心が作り出したものであると断じているのである。 このユダヤ教のラビの究極の発問への答えに窮するスリン神父が、そこに立ち竦んでいた。 本作の根源に迫る最も重要なシークエンスは、こうして閉じていった。
5) 確信的な破戒僧の「覚悟の愛」を受容する尼僧 ―― その裸形の人格像の逢着点
教理問答を経て、スリン神父の中で何かが変っていく。
「あなたを助けます」
彼はヨアンナに会いに行き、自分の思いを告げる。 鉄格子の内側に閉じ込められているヨアンナは、今やもう、自分の中で騒ぐ情感の揺動を隠そうとしない。 彼女は「悪魔」への愛を語るのだ。
「私は悪魔が大好きで、悪魔に抱かれているとき、私はどんな運命でも甘受します。悪魔は最高の存在です」
ヨアンナは、スリン神父にそう言い切ったのだ。 ヨアンナへの思いが変わらないスリン神父は、自然の成り行きで彼女に近づいて、口づけした。 自ら犯した行為に驚愕し、神父は走り去って行った。 それは、「悪魔」を自分の体内に取り憑くことを受容する行為でもあった。
「何でもするから、私に取り憑いていろ」
スリン神父の覚悟を括った言葉が捨てられた。 彼は「悪魔」に語ったのだ。 その後のスリン神父の行為の異常性は、紛れもなく確信犯の範疇にある者の選択的行動だった。 ヨアンナから「悪魔」を憑依させたスリン神父は、「悪魔」の命によって、斧を使って二人の村人を殺害したのだ。 「悪魔」との取引である。
ヨアンナへの愛の、彼なりの答えであるが、神父の犯した行動は、それ以外に考えられない最も象徴的な行為だったと言える。 二人の男を殺害することは、彼にとって、「悪魔」を内側に憑依させることだからだ。 破戒僧となったスリン神父は、自分の思いを、一人の女を通してヨアンナに伝えた。
「全て愛が、そうさせたのだ」
これが、スリン神父のヨアンナへの伝言。 伝言を任せられた女こそ、駆け落ちをして男に捨てられた尼僧である。 「俗」の象徴としての木賃宿との往還という適度なガス抜きをすることで、彼女は「悪魔憑き」から解放されていたが、「聖」の象徴としての尼僧院の生活を完全否定する駆け落ちへの流れ方は、「悪魔」への屈服であるから、男に捨てられる運命を余儀なくされるという「象徴性」を被されていたと読むことも可能だろう。 「覚悟なき愛」の逃避行は自壊するということか。
ともあれ、その尼僧を介して、スリン神父の「覚悟の愛」を受容するヨアンナの表情からは、映像を通して初めて開く裸形の人格像が露呈された。 彼女は嗚咽したのである。 確信的な破戒僧の、確信的な行為を受容した瞬間である。 「聖」なるものの「象徴性」が一切剥ぎ取られたとき、そこに胚胎した未知の「前線」は、欲望系の情感世界を封印せずに済む地平に辿り着いたと言える何かなのか。 少なくともそれは、ヘビーなモノクロの映像が訴えるものの根源に触れる何かであったに違いない。
そのヘビーなモノクロの映像を貫流する基本的構図が、今更のように想起される。 緑なき小高い丘に聳(そび)える、「聖」なるものの象徴としての尼僧院と、それを俯瞰する、「俗」なるものの象徴としての木賃宿との対極の構図である。 そして、この構図の中間スポットに、ガルニエツ神父が火刑にされた処刑場の残滓が剥き出しになっているのだ。 同様に破戒僧であったガルニエツ神父は、「聖」と「俗」を自在に往還し、「聖」なるものの中枢に「欲望前線」を全開させてしまったのである。 この「前線」には、尼僧院長のヨアンナばかりか、他の尼僧たちも求めてアクセスしたに違いない。 「淫靡(いんび)なる忍びの行為」を突き抜けて、無秩序に稜線を広げた「欲望前線」での振舞いへのペナルティは、ガス抜きの範疇を逸脱した反徳行為として裁かれるに至った。 ガルニエツ神父には、「悪魔」、「悪魔憑き」、「悪魔祓い」などという観念のゲームの発想は、恐らく初めから存在していないのである。
ところが、スリン神父の行為は、
「悪魔憑き」→「悪魔祓い」→「悪魔の憑依」
という流れの中で、殆ど確信的に遂行されたものだ。 「聖」なるものの「禁断」の閉鎖空間に閉じ込められて、懊悩を極めるヨアンナの裸形の自我に触れ合うことができるのは、その方法しかないと考えたのだろう。
実話にはない、殺人まで犯した神父の振舞いを描き切った作り手の意図は、普通の欲望と感情傾向を持った女性が「欲望前線」に踏み入れたとき、最も厳しいペナルティによって人為的に遮断される運命から免れないシステムを相対化するには、「覚悟の愛」を身体化する表現なしに具現できないと考えたのかも知れない。
人間としてあまりに自然な「男女の睦み=『性』」を、「悪魔」の仕業と読み替えることの「愚」の問題も含意させた、この厳しくも真摯な構築的映像は、人間の「欲望前線」の尖りを極端に嫌う全体主義へのシステムへの批判とも受け取れるが、映像を観る限り、精神医学の臨床治療の格好の素材にもなり得る、人間の根源的問題を巡る省察と問題提起という文脈で把握する方が、寧ろ自然であるように思える。 人間の普遍的問題をも網羅した、このような構築的映像こそ、私の最も好む表現世界である。
http://zilge.blogspot.com/2010/08/61.html
イタリア産尼僧映画の系譜
世の中には尼僧映画と呼ばれるジャンルがある。英語ではNunsploitationと呼ばれ、その人気はいまだに世界中で根強い。欧米では専門の研究書まで出版されているほどだ。 尼僧映画がブームとなったのは主に70年代。そのルーツはイエジー・カワレロウィッチ監督のポーランド映画『尼僧ヨアンナ』(60)とされているが、もちろんそれ以前から尼僧を題材にした映画はヨーロッパ各国で作られてきた。しかし、現在認知されている尼僧映画の定義と照らし合わせると、やはり『尼僧ヨアンナ』がこのジャンルの原点であると言って差し支えないだろう。
その定義を一言で述べるならば“抑圧”。性的抑圧、社会的抑圧、精神的抑圧など、男性主導の父性社会で女性が受けてきた様々な抑圧を集約したものが尼僧映画なのである。『尼僧ヨアンナ』では教会から“悪魔憑き”と見なされた尼僧たちの集団ヒステリーを題材に、女子修道院という狭い世界へ閉じ込められた女性たちの苦悩と哀しみを描きながら、このような非人道的な抑圧を強いる権力や社会の偽善を痛烈に批判した。それはすなわち、社会主義国だった当時のポーランドにおける理不尽な圧政へ対する批判だったと言えよう。
この『尼僧ヨアンナ』によって撒かれた種が、その後の世界的な左翼運動の高まりによって“尼僧映画”という1つのジャンルを生み出すに至ったとも考えられる。各国で物議を醸して話題となったケン・ラッセル監督の問題作『肉体の悪魔』(71)も、このジャンルの盛り上がりに多大な影響を与えた。
ただ、必然的に登場人物の殆んどが女性で占められ、多分にセクシュアルな題材を取り扱っていることから、やがて低予算のポルノ映画として応用されるようになっていく。そのきっかけとなったのは、やはりポーランド出身のワレリアン・ボロズウィック監督による『修道女の悶え』(77)である。抑圧された生活を送る尼僧たちの赤裸々な性欲を描いたこの作品は、芸術的なアート映画であると同時に大胆な性描写を含むポルノ映画的な要素も併せ持っていた。結局、そのポルノ映画的な部分が世間の人々の関心を集め、この作品は欧米で大変な話題となり、柳の下のドジョウを狙う尼僧ポルノが続出することとなったのだ。
http://angeleyes.dee.cc/nunsploitation/nunsploitation.html
ケン・ラッセル「肉体の悪魔」 (ルーダンのせむし女)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10368397
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10368373
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10368349
「ワイセツか!芸術か!血とSEXと残酷の嵐!
露出描写ギリギリで迫る史上最大の興奮巨篇!」
これは1971年、この映画の日本公開当時につけられたキャッチコピーです。
「ギラツク性!熱っぽい風!日夜身悶えてはONAるメスの○○集団!」
「異常快楽にふける野獣に若い女達はオール・ヌードで乱れに乱れる!」
「正常な人間ではとてもたえられない血と肉体の性宴!」
・・・まるでポルノ映画です。本作は“イギリス映画史上で最も凶悪な作品”とも呼ばれました。でもこれは、実際に起こった有名な悪魔憑き事件を描いた映画なのです。
17世紀、フランス。絶対王政の確立を目論む枢機卿リシュリューは地方都市の自治制度の廃止を宣言。ルーダンの町にも城壁を破壊するための使者がやってくるが、司祭グランディエ(オリバー・リード)は言葉巧みにこれを阻止する。
魅力的な風貌に明晰な頭脳を兼ね備えたグランディエは女性たちの羨望の的、のみならずプレイボーイでもあった。尼僧院の僧院長ジャンヌ(ヴァネッサ・レッドグレーブ)もまた、彼への想いに取り憑かれ、淫らな妄想に耽る・・・
しかし、グランディエの結婚の噂を聞き、嫉妬に狂ったジャンヌはヒステリー状態に陥り、彼を悪魔との密約者だと告発。彼女の狂気は他の尼僧たちにも次々と伝染していく。グランディエ失墜を狙っていたリシュリューはニヤリ。ここぞとばかりに、凄まじい悪魔祓いの儀式が幕を開ける・・・!
本作はイギリス映画界の異端児と呼ばれ、スキャンダラスな作品を連発した監督のケン・ラッセルの最高傑作の一つでもあり、内容的にもビジュアル的にも、相変わらずブッ飛びまくっているのです。 デレク・ジャーマンよるアヴァンギャルドなセットデザイン。そしておなじみ、シャーリー・ラッセル(監督夫人)によるポップでアートな衣装の数々。いつもながらの、時代考証なんかまるで気にしない暴走演出(笑)。中盤から始まるエクソシズムのシーンは、ほとんどアングラ・ロック・オペラ。
スキンヘッドで全裸の尼僧たちの、絶叫と狂乱。ロックスター(レノンそっくり)のような悪魔祓い師の過剰なパフォーマンス。
聖水の浣腸注射。ゲロ吐き。悪魔祓いをショウのように楽しむ聴衆たち・・・。
そしてグランディエは捕縛され、拷問の果てに火刑にされてしまうのです・・・。
本作は、「知覚の扉」で知られるオルダス・ハクスリーが、この事件について、当時の歴史・政治・宗教的な背景を含め徹底的に調べ上げて書いた力作「ルーダンの悪魔」と、ジョン・ホワイティングがそれを戯曲化した「The Devils」をケン・ラッセルが脚色したもの。
町山智浩氏によると、この原作こそ「エクソシスト」の元ネタとの事。ナルホド、読んでみると
「冒涜的な言葉で罵る」
「痙攣」
「嘔吐」(汚物を吐くのが悪魔憑きの証なのだとか)
「空中浮揚」
「アクロバット的行為」(ブリッジ&スパイダーウォーク、などの奇態)
といった要素はこの本の中に全て書かれています。ルーダンの悪魔憑き事件は、エクソシストものの原点、と言えそうですね。
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本作は、ケン・ラッセルが、最もスキャンダラスで油が乗り切っていた頃の1971年作品にして、何かとお騒がせな最大の問題作。事実、英国では、公開時“イギリス映画史上で最も凶悪な作品”と称された過激な映画である。 自分は長らく観る事が適わず、初見したのは、表現が緩和された(笑)アメリカ・ヴァージョンのトリミングされていないLD版(即ち、今ビデオと同等)で、であった。
17世紀のフランスの村ルーダン、時の枢機卿、旧教徒たちが、性的禁欲生活に抑圧された尼僧たちの淫らな欲情と妄想を利用して、中央集権化に反抗する好色の司祭を謀殺し、村を自治領下に置いたと言う極めて政治的なお話。
何度見ても、仰け反ってしまう激烈で猥雑な描写とグロテスクなクローズアップの多用、思わず裸足で逃げ出したくなるような凄まじくパワフルで爆走的な背徳的映像の連続。
ラッセル自身は、自分は敬虔なカソリック信者であり、今作を宗教的冒涜と評されるのは心外と語っているが、童貞だった中学時代に観た町山少年にとっては、間違いなくトラウマであっただろう(笑)。
マイエリズムを意識したかのような動きのヴァネッサ・レッドグレーヴ、せむしの身体をくびらせての怪演だが、自伝「ヴァネッサ・レッドグレーヴ伝」を読むと、彼女は、今作の撮影時、出演者を集め、イギリス政府の演劇人に対する労務管理法案について討議し、ストライキを打つ事をオルグ、決議させた一方、フランコ・ネロとの関係で身もごっていたベイビーを流産させてしまっていたらしい。あのファナティックな狂態を演じていた陰で、そんなドラマがあったとは、色々な意味で凄い女優である。
本映画は、主人公、自治都市ルーダンの執政官にして司祭グランディエが、最初は彼は世界に絶望しており(映画のなかのグランディエの台詞「愛という名の情欲、そして病のような孤独と倦怠!」)ひたすら漁色家として淫欲に耽り、世界に絶望した刹那的変態エロエロな毎日を過しているのですが、彼のことを心から愛する純朴な少女マドレーヌと出会い、彼は最初はマドレーヌをただ、沢山いる女性の一人としてしか見ていませんが、彼女の真情、真心からの愛情を感じ、改心します(映画のなかのグランディエの台詞「私は、彼女を愛している!)。
そして彼女と結婚し、生涯彼女一人を愛することを誓い(一夫一妻の誓い)、そして新教徒も含めた万人の人々の幸せの為にルーダンの執政官かつ司祭として働くことを誓います。彼はイエズス会司祭(カトリック)なので、彼は新教徒を守る必要は教会での立場から考えると何もないのですが、彼は全ての人々を守る、新教徒も守るという姿勢で、新教徒虐殺を狙うリシュリュー枢機卿と対決します。
時はフランス王国ルイ13世治下、変態的漁色家で「首をちょん切っておしまい」な女王様(イギリス女王メアリ1世)並に簡単に人を殺す残酷さを持ち、変態的漁色家に耽って政治にやる気のない割には新教徒ユグノー派弾圧好きな無能王ルイ13世(史実のルイ13世がここまで無能な王かどうかは別として本映画ではとんでもなく無能な愚劣王として描かれています)の下で権力を握り、中央集権体制確立の為の自治都市破壊とユグノー派弾圧を行うフランス王国宰相、冷酷無比にして優秀な政治家であるリシュリュー枢機卿はユグノー派の拠点自治都市ルーダンを滅ぼそうとします。
ルーダンの人々が虐殺されるのを防ぐ為、マドレーヌとの愛により改心してルーダンの立派な領主となった主人公グランディエ司祭は、ユグノー派の拠点であるルーダンを殲滅しようとしているリシュリュー枢機卿の思惑を感じ、ルーダンを守る為、ルーダンに手をださないでくれと国王に必死の懇願に出かけます。
リシュリュー枢機卿は陰謀に長けた冷たいマキャヴェリストで人々を虐殺しまくり、フランスの中央集権制整備を名目に新教徒の拠点であり、グランディエが治めていたルーダンらの各地方自治都市を殲滅(自治都市を丸ごと滅ぼす虐殺)したのは史実です。リシュリュー枢機卿の評価は無能なルイ13世の元で実質的にフランスを統治し、フランスの中央集権制を確立した天才政治家という肯定的評価と、残酷非道な手を平気で使い、敵対する者(敵対領土)や邪魔者(自治都市・新教徒)は悉く皆殺しにした情け容赦ない行動の冷徹さに対する否定的評価があります。日本でいうと織田信長を彷彿とさせる宰相です。三国志でいうと曹操みたいな感じです。リシュリュー枢機卿は有名なデュマの小説「三銃士」の魔王的悪役、ラスボス的存在なので、結構有名かなと思います。
恐るべき人物リシュリュー枢機卿と自治都市ルーダン領主グランディエは対決することになります。ここで、狂気に駆られた修道院長ジャンヌが出てきます。
ジャンヌはグランディエに恋焦がれるあまり狂気に陥っており、彼の結婚を知って嫉妬に狂い、グランディエを『グランディエは悪魔の使い』であると讒言します。リシュリュー枢機卿配下の教会のカトリック幹部達はこの讒言を利用し、グランディエを拷問にかけて焼き殺します。自治都市ルーダン領主のグランディエ司祭が修道院長ジャンヌの讒言によりリシュリュー枢機卿配下の教会幹部から異端審問にかけられ火刑で焼き殺されたのは史実です。
国王の元で意志薄弱な国王を説き伏せて、『ルーダンには手を出さない』という許可を貰ったグランディエは喜びながら街に帰還すると、リシュリュー枢機卿配下の教会のカトリック幹部達がそこにはいて、拷問師までいて、あっという間に異端審問にかけられてしまいます。狂気の修道院長ジャンヌがまた酷い讒言をして、
『グランディエの睾丸には悪魔の印がある。睾丸を切って血が出たらそれは悪魔の印である』
とか意味不明なことを言って、グランディエは拷問され去勢されてしまいます。そして悪魔の使いであることを認めろと拷問をされ続けますがグランディエは決して屈服しません。
グランディエ司祭は自治都市ルーダンの執政官(領主)として人望があり、ルーダンの自衛軍を直属で動かせる立場にありました。まず最初、リシュリュー枢機卿配下の軍人がルーダンを滅ぼしに来た時は、グランディエは軍を率いてその軍人を見事に追い返しました。そして、国王へ
「ルーダンには手を出さないでください」
と懇願に向かったのです。ルーダンは強固な城砦自治都市であり、街の人々からの人望厚い領主、グランディエ司祭に治められている限り、陥落は容易ではありません。そのため、リシュリュー枢機卿はグランディエ司祭を悪魔の使いの異端として告発して、グランディエの人望を下げて、グランディエの街への領主としての影響力を低下させてルーダンを陥落させる作戦に出たのです。
その作戦はまんまとあたり、街はグランディエ司祭を支持する人々と、グランディエ司祭は悪魔だったという教会の情報操作を信じ込んで彼を批判する人々の二つに別れ混乱状態に陥ります。
そして混乱した街の中で拷問で見るも惨たらしくズタズタになったグランディエ司祭が黒こげになるまで焼き殺されます。
ここら辺は「裁かるゝジャンヌ」のジャンヌ・ダルクが焼き殺されるシーンにかなり似ていて、ラッセル監督は「裁かるゝジャンヌ」の影響を受けていると思います。
ただ、「裁かるゝジャンヌ」と違うのは、ジャンヌ・ダルクがボロボロ泣きながら焼き殺されて、ジャンヌを焼き殺すという行いは誤っていたとジャンヌ・ダルクを焼き殺した街の人々が気付くのとは違い、ルーダンの街の人々は最後まで自らの誤りに気付きません。
グランディエ司祭は黒こげになるまで腰の辺りまでメラメラ燃えていてもずっと必死に叫び続けます。
『ルーダンを守らないといけない!ルーダンの自由を守らないといけない!!
自由の為に戦わないといけない!!そうしないとみんな滅んでしまう!!』
と焼き殺されながら一生懸命に叫びますが街の人々は耳を貸しません。
最後は衝撃的で、グランディエ司祭がいなくなった後、無血開城した自治都市ルーダンはグランディエ司祭の必死の叫び通り、フランス軍によって殲滅虐殺され、誰もいない廃墟に、車裂き(拷問・処刑道具)が一杯立っていて、車裂きの上に街の人々が裂かれて乗っている凄いシーンになります。
ベルセルクの拷問車裂き乱立シーンの実写そのままのような凄いシーンでベルセルクファンは必見です。そして、グランディエ司祭が生涯の愛を誓った彼の奥さんマドレーヌが誰もいない廃墟の道をずっと独りただ静かに歩いてゆく後姿、神聖さを感じさせながら誰もいない道を歩んでゆく後姿を延々と映し出して映画は幕を閉じます。マドレーヌの後姿に強烈な神聖さを感じてとてつもなく衝撃でした。最初見たときは衝撃のあまり椅子から立ち上がれないほど衝撃的で、非常に優れた映画と思います。ラッセル監督がいうように真摯な宗教的映画と思います。
本映画は史実が元になっているのも凄いです。グランディエ司祭はフランスから弾圧されていた新教徒ユグノー派が大勢いる自治都市ルーダンを守ろうとして活躍した実在のカトリック司祭でして、修道院長ジャンヌの讒言で異端審問にかけられ火刑にされました。
彼を殺す重要な役割をした修道院長ジャンヌが本映画のように本当に狂気だったのか、政治的意図を持って讒言したのか、僕の歴史的解釈は後者だと思いますが(当時のカトリック修道院長クラスの宗教幹部は政治権力と結びついています、政治史的に考えて、リシュリュー枢機卿の政治勢力と修道院長ジャンヌが手を組んでいたと見るのが妥当と思います)、映画は前者(ジャンヌ修道院長はグランディエ司祭に恋焦がれており、彼の結婚を知って嫉妬に狂った)の歴史的解釈として描いています。
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/829226.html
まず、いきなりホモのルイ13世自ら演ずるグロテスクな「ヴィーナスの誕生」の一幕が描かれる。観客席には女装の取り巻き貴族たちに混じって、舞台の国王を冷ややかに見つめるリシュリー枢機卿の姿もあった。17世紀前半のフランス、ルイ13世は宰相リシュリーの傀儡と化していた。ヨーロッパのデカダンスは、ルイ14世太陽王の親政時代に絶頂に達したというが、それにしてもケン・ラッセルの描いた13世の乱痴気ぶりも、相当にすさまじい。しかも、ルーダンでの教会での悪魔祓いのシーンとなると、更にすさまじい。それは後述するとして、いまルーダンをめざす奇妙な一行があった。
巨大な荷を積んだ車を、新教徒たちが鞭打たれながら引いており、その指揮をとるのは、リシュリューの命をうけた顧問官のローバルドモン。彼の任務はルーダンの城壁を破壊することであり、奇妙な荷物はそのためのものであった。その時、ルーダンの城壁の中では、疫病で倒れた町の総督の葬儀が行われ、総督から町を任されたグランディエ司祭が演説していた。白い城壁と教会を背に、オリバー・リード扮する司祭は、「宗教戦争は終った。旧教徒、ユグノーにかかわらずルーダンを守るため尽くしてほしい」と いって、人々に向って演説する。司祭に対する人々の信頼は厚いらしい。
この冒頭のいくつかのシークエンスの提示によるだけで、これから展開されるであろう波乱含みのドラマが、すでに予感される。このことはもちろん、ケン・ラッセルの力強い造形力と手際良い構成によるものであって、この作品は「史実にもとづく」とはいえ、かなり脚色されているようである。それを象徴するかのように、城壁のオープンセットは「ウルトラ・モダーン」(今野雄二氏)に作られており、冒頭の大演説シーンだけでも、この作品は一見の価値があるだろう。
或いは、悪魔祓いにルーダンに乗り込んでくる。ウイッチ(魔女)ハンターのバール司祭にしても、まるでどこかのロック・グループから抜け出して来たという感じだし、ルイ王が新教徒に黒い鳥の扮装をさせて殺人ゲームを楽しんだ後で、「バイバイ・ブラックバード」などと愛嬌たっぷりに言うなんてところは、ケン・ラッセルのオフザケと考えられないこともないだろう。この作品には、僕にそんなバカな想像をさせるものがある。
この作品の中では、グランディエ司祭、リシュリュー、修道院長ジャンヌ(バネッサ・レッドグレーブ)らのからみを中心とするドラマが、あまりにも都合良すぎるほどに、実に見事に展開されるわけだが、これは前述のとおり、おそらくケン・ラッセルのモチーフに合せて、かなり史実を脚色してあるためである。
映画と描かれた史実と
「魔法−その歴史と正体」という本によれば、修道院長ジャンヌは「肉体の悪魔」の彼女ほどには、嫉妬深くいかがわしい女性ではなかったらしく、天使のジャンヌとさえ呼ばれていたそうだ。
彼女はグランディエに関するスキャンダルを耳にして、妄想を抱き精神錯乱におちいったが、そして他の修道女に彼女のヒステリーが伝染したが、ジャンヌは自分の気の弱さがもたらした事件にうろたえこそすれ、映画のようにミニョン神父にでたらめを告げるようなことはなかったようだ。
実際には、ジャンヌはミニョンに助けを求め、それがグランディエの敵に利用される結果となり、悪魔祓いの儀式がデッチ上げられたらしい。
また、修道女たちのヒステリーは、一時おさまり、再発してからの悪魔祓いも非常にゆっくり進められ、結局この事件が完全におさまったのは、グランディエの処刑の三年後、一六三七年であった。映画でのグランディエは、確たる証拠なしに火刑に処されるが、実際には、グランディエ家から「発見された」悪魔とグランディエによって起草された契約書なるものが残っている。
また、ジャンヌは一六ニ九年に、「悪魔アスモデウス」の署名で、「私はこの修道女から立去る」という内容の契約書を書き、そ れは現在も残っている。その後も彼女のヒステリー発作は続いたが、やがて平和が訪れ、一六六五年に清らかに死んだという。結局、彼女の常に犠牲者でしかなかったようだが、彼女がリシュリューや祈祷師たちよりも長く生きのびたとは、何とも皮肉な事だ。 以上が、事件のあらましである。
この辺で「肉体の悪魔」の方へ戻ろう。ケン・ラッセルが、どのように史実を脚色したかをみれば、そこからこの作品のテーマが浮かび上がってくることと思う。
まず最も重要な点だが、そもそも事件が起きた時点に於て、グランディエとリシュリューが対立していたとは考えられない。この作品は「ルーダンの悪魔」事件の発端から終結に至る二十年間を、ドラマ構成のため加速短縮し、きわめて意図的に歴史を再現しようとしているようだ。この作品が扱っている時代が、ヨーロッパ史の中でも非常に面白い時代であることに注目する必要がある。
フランスに於いては十六世紀のルネサンス期に、近代化の萌芽が準備され、その後一世紀を経て、いよいよ近代化への一歩を踏み出そうとする、まさにその時代が「肉体の悪魔」で扱われている。
中央集権化を押し進める国家と、崩壊寸前の中世都市。そのような歴史の流れの中で、当事者であるグランディエとリシュリューが、「都市」と「国家」という明確な意識をもって対立していたとは、まず考えられないことであり、ケン・ラッセルはこのフィクションを土台にして、彼のテーマを、白い城壁の中に構築しようと試みたにちがいない。
ヨーロッパの中世都市は10〜12世紀に成立し、都市法制定、特許状獲得など自治権を要求し、自衛のため城壁を築いたが、王権による中央集権化とともに崩壊し、近代都市へと移り変っ た。実際のグランディエが、どんな思想を持っていたかは知る由もないが、ケン・ラッセルは彼に、歴史にさからって中世都市を守り抜かせようとしたのである。グランディエの命をかけた反抗に、ラッセルはどんな意味を見出そうとしたのだろうか。
初めグランディエは、権力、女、政治などに対する野望によって自らを滅ぼし、神と合体するのだ、と語っていた。その彼が火刑に処される時には、神は私をなぜ見放したかと嘆く。そして見物人たちに向って、
「自由を得たいなら闘え! 闘いぬけ! さもなくば諸君は奴隷になるのだ!」
と、火の中から叫び続ける。
http://www.asahi-net.or.jp/~hi2h-ikd/film/nikutainoakuma.htm
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5. エマニエル夫人
ビデオは 『XVIDEOS.COM』で『Emmanuelle (1974) 』
で検索すればすぐに見つかります。
Emmanuelle(エマニエル夫人)− Pierre Bachelet
なぜフランス人とドイツ人は性的タブーを破り捨てたいのか?
イタリア人やスペイン人は、全般的に女性好きにも関わらず、あまり幼児性愛には関心がないように見受けられる。彼らは幼女ではなく、「女性」にぞっこんだ。陽気であけっぴろげだ。
しかし、北欧あたりの男たちが幼児性愛に関心があるようで、フランス・ドイツあたりの男がどうも他と違う。
特にフランス人が性的に不思議な感覚を持っているように見える。ディープキスは昔はフレンチ・キスと言われた。フランス人が好んでいたキスだったからだ。
フェラチオはフランス人がする変態行為だと言われていた。他の民族でそれは一般的ではなかった。フランスの性的な放縦さは突出していた。
また、ドイツも奇妙な性の探求で有名な民族だ。どうも、フランス人やドイツ人は性的に何か深いものを隠し持っている。
性に関して何かタブーを破ろうとする負のエネルギー
フランスと言えば、子供が怖がるほどに精巧に作られた「フランス人形」が伝統にある。
実はフランス人形を量産化させたのがドイツ人形で、やはりとても精巧で薄気味悪い感じがする。人形なのにリアルすぎるのである。
あれを見ても何か子供のためではないような、退廃的なものを感じてしまう人は多く、実際にロリコン気質のある男たちがそれをコレクションしていることで有名だった。
フランス人やドイツ人はロリコン気質があるのだろうか。実はあるかもしれない。アジアやアフリカで、ロリコン狂いをしているのはフランス人やドイツ人が多い。
彼らがその旧植民地をさまよってやっていることを見ていると、どうもロリコンだけでなく、セックス全体のタブーをあえて冒したいという意識すらも感じる。
どうもフランス人(と、ドイツ人)は性に関して何かタブーを破ろうとする負のエネルギーがあるように思えて仕方がない。
アジアの闇の中で、誰がどこにいたのかを後々よく考えてみれば、どうもそういう疑念が浮かんでしまう。
そこでふと思ったのが、「サディスト」の元祖マルキ・ド・サドのことだ。
サドは今でもその名を知らない者はない。未亡人を暴行したり、娼婦を虐待したりして刑務所と精神病院に放りこまれたが、そこで壮大な暴力小説を書いて、それが歴史に残った。
『ソドム百二十日』『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』『悪徳の栄え』などを読むと分かるが、そこには暴力と反体制にまみれた描写が執拗に続き、そのあらゆる不品行と堕落には陶酔さえ感じる。
サドはフランス人だった。
人形なのに、どこか精巧すぎて気味が悪いフランス・ドイツ人形。
堅苦しい社会をぶち壊したいという自由への欲求
また1970年にエマニエル夫人という映画が公開されて、そこから女性たちの性的概念の「パラダイムシフト」が起きた。
原作者は「タイ・バンコク生まれ」の女性エマニュエル・アルサンだった。
ジュスト・ジャカン監督シルビア・クリステルの映画は大ヒットして1970年代は、その亜流で映画が埋め尽くされた(この亜流のひとつである「ブラック・エマニエル」の主演女優はインドネシア人だった)。
私がエマニエル夫人を見たのはずっとあとの話だが、あの映画を見てもエマニエルの「哲学」がよく分からず、しかたがないから原作を買って読んでやっと何が言いたいのか理解した。
フランス文学はどれもそうだが、自己客観視と哲学に溢れている。この小説もまたそうだった。
もうこの小説を顧みる人もいないが、その根底を貫く哲学が「反処女(アンチ・バージン)」の概念だったのだ。
これはもちろん、キリスト教の強烈なアンチテーゼである。
私は今でもこのアンチテーゼを持ち出したエマニュエル・アルサンという女性に惚れている(シルビア・クリステルに惚れているわけではない)。
このエマニュエル・アルサンもまたフランス人だった。
フランス人であるサドもエマニュエル・アルサンも、その強烈な性的反逆を提示したのだが、この両者に共通するのが「反キリスト」の概念だ。
反キリストとは何か。表面を見ると、キリストや聖書に反対する立場のことを指す。
しかし、堅苦しい社会をぶち壊したいという「自由への欲求」でもあったのである。
宗教の堅苦しい枠から抜け出して、規定された常識に縛られず、自分の感覚のままに生きていきたいという欲求だ。
貞操や、常識や、文化に縛られたくない。自由に人を好きになり、自由にセックスを楽しみ、自由に振る舞いたい。
それは宗教に反しているのであれば、自分は自由のために「反キリスト」になりたい。そういう感覚が、「タブーを破りたい」というエネルギーにつながっていく。
映画「エマニエル夫人」のシルビア・クリステル。この映画が全世界の女性を性道徳から解放した。
ロリータも原作がドイツで、出版がフランスだった
1962年の映画「ロリータ」より。ドイツの原本にロシア系アメリカ人が着想を得てフランスの出版社が世に出して、これが映画化された。
そう考えると、フランス人やドイツ人が秘かに惹かれている幼児性愛(ペドフィリア)もまた、タブーを破る反キリスト的な行為であることが見えてくる。
ところで、幼児性愛のことをロリータ・コンプレックスと言うこともある。このロリータは小説「ロリータ」から取られた言葉だ。
この小説を書いたのはロシア系アメリカ人ウラジーミル・ナボコフなのだが、あちこちの出版社に断られて、最終的に出版の許可を出したのはフランスの出版社だった(ここにも「反キリスト」的なフランスが登場する)。
そして、このロリータには後日談があるのだが、この小説の原作がまた存在していて、こちらを書いたのがドイツ人ハインツ・フォン・リヒベルクだったという話だ(今度はドイツ人が出てくる)。
反キリストのニーチェもドイツ、サドの対極にあるマゾ(マゾッホ)はオーストリア(ドイツ圏)。ロリータも原作がドイツで、出版がフランス。
厳格なキリスト教がこの地域に根づいた反動なのだろうが、性的に逸脱したすべての概念もまたこの地域から生まれている。
彼らの中の反キリスト感情と、後進国で彼らが秘かに行なっているロリコン犯罪……。
ずっと心に引っかかっているのがフランス人・ドイツ人の、陰湿な性の探求だ。
彼らの中にある反キリスト、反道徳。もう彼らにはキリストは負担になっているのだろう。だから、そこに性のタブーを覆したいという欲求が見える。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120912T0004430900.html
シルビア・クリステル死去。エマニエル夫人で一世風靡した女優 2012-10-18
シルビア・クリステルが死んだ。2012年10月18日、60歳だった。癌を患い、2012年7月には脳卒中を起こして寝たきりになっていた。それから3ヶ月で亡くなっているので、最期は意識もなかったのかもしれない。全世界の女性の性意識を転換させた女性の静かな死だった。
シルビア・クリステルという女優は、多くの映画で人々に感銘を与えた女優ではなかった。50本近くの映画に出ていたが、ただひとつ「エマニエル夫人」の3部作のみで人々の記憶に残った。最初から最後までエマニエルの呪縛から逃れることができなかったという言い方もできる。しかし、いろいろなインタビューを読むと、彼女はむしろそれを誇りにしていたようだ。
「エマニエル夫人」が、彼女の人生の使命だったのだ。
女性はもっと奔放に性を楽しむべきだ
「エマニエル夫人」は特異な映画だ。原作も駄作、映画自体もそれほどよくできた映画でもない。映画史から見ると、「エマニエル夫人」はキワモノであり、賞を与えるほどの名作でもなく、大金をかけた大作でもない。
しかし、シルビア・クリステルが映画の中で見せた瑞々しい肉体は、そのすべてを吹き飛ばし、全世界の女性にアピールした。時代が求めているものを、彼女は表現していたのだ。
1970年代はヒッピー・ムーブメントの時代であり、これは時代を縛っていた様々な既成概念を壊す動きだった。この打ち壊すべく既成概念のひとつに「女性の貞操観念」があった。
「女性はもっと権利を主張すべきだ」
「女性は自らを解放すべきだ」
「女性はもっと奔放に性を楽しむべきだ」
ウーマンリブの概念が生まれたのもこの頃だし、女性の社会進出が求められたのもこの頃だし、フェミニズムという思想が生まれたのもこの1970年代だった。この中で、「女性はもっと奔放に性を楽しむべきだ」という部分の起爆剤になったのが、シルビア・クリステルの「エマニエル夫人」だったのである。
1970年代の女性たちはこの映画で、シルビア・クリステルに導かれるように「性を謳歌する」道を歩み始めた。だから、この映画は「映画」として重要なのではない。「社会史」として重要なものだったのだ。
最初の映画に仕組まれていた「毒」とは何だったのか
エマニエル夫人は、ただの映画でも、ただのポルノでもなかった。時代が求めているものを表現したものだった。巧みな宣伝と、シルビア・クリステルの美しさと、映画全編に流れる美しい音楽すべてが相乗効果を発揮していたとも言える。
彼女のあとにも様々な女性がエマニエルを演じたし、エマニエルの亜流もまたたくさん作られた。しかし、そのどれもが興行的に失敗しているし、歴史の風雪を乗り越えることもできなかった。 実は、エマニエル夫人も「エマニエル夫人」「続エマニエル夫人」「さよならエマニエル夫人」と立て続けに作られたが、強い影響力を持って覚えられたのは、最初の「エマニエル夫人」だけだった。
なぜなのか。
実は、原作をなぞって作られた最初の映画には、美しさの裏に大きな「毒」が仕掛けられていたからだ。その「毒」は、原作を読んだ人間だけが知っているものだ。その「毒」を表現していたのが、まさに最初の一本だったのである。「続エマニエル夫人」と「さよならエマニエル夫人」は、ただヒットに釣られて作られた映画であり、原作の持つ「毒」はそこに表現されていない。
いったい、この最初の映画に仕組まれていた「毒」とは何だったのか。それは、実はブラックアジアで答えを書いた。ブラックアジアの会員の方は、その「毒」をもう一度確認してみて欲しい。
伝説の映画『エマニエル夫人』に仕掛けられていたものとは?
エマニエル夫人。汚れて「いない」と感じるのは恐ろしいわ
本当のエマニエル夫人の裏にあるものを知らなければ、何があったのか、何も分かっていないのと同じだ。答えはこの図が示しているものだ。
女性の肉体は世の中を変える力がある
多くの人たちは映画「エマニエル夫人」の奇妙な物語の裏側に何が隠されているのか、その意図を知ることもないし、見ることもない。ただ、シルビア・クリステル演じるエマニエル夫人が、性的に解放されていくという部分のみに目を奪われてしまっている。
しかし、エマニエル夫人を取り巻く男たちの言動はとても奇妙で、異様な哲学を持っている。その哲学は、現代になってもまだ実現していない先進性を持ったものである。そして、その一見、奇妙に見える哲学の裏側にあるのが、「毒」だったのだ。
「伝説の映画『エマニエル夫人』に仕掛けられていたものとは?」で示したフランス版の奇妙なイラストは、ひとつのサブリミナルになっていた。
しかし、そういった毒を毒と感じさせなかったのが、シルビア・クリステルという美しい女性の肉体だった。
毒のあるリンゴであっても、とても美しければ食べてみたくなる。時代は毒リンゴを求めていて、だからエマニエル夫人はその象徴となった。
女性の肉体は世の中を変える力がある。
これは、常にブラックアジアのひとつのテーマでもある。今、インドで「女性の肉体が世の中を変える」動きが加速していることも書いた。
エジプトでも起きている。(アリア・マフディ。あっさりと裸をさらしてイスラムに反抗 )
1970年代に、シルビア・クリステルが示したのがまさに、これだった。
「女性の肉体は世の中を変える力がある」
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20121019T0049500900.html
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参考映画
フェデリコ・フェリーニ 道
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8485221
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8485762
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8487033
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8487727
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8488311
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8488786
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8489419
テオ・アンゲロプロス 永遠と一日
Eternity and a day - Bus scene
http://www.youtube.com/watch?v=NZX6uvMAWks
Eternity and a Day - tracking shot
http://www.youtube.com/watch?v=GyoSHXAMpKs
Eternity and a day, Eleni Karaindrou at Concert Hall of Athens
http://www.youtube.com/watch?v=F1kZFlVTRB0
Eleni Karaindrou - Best Of (Collection - 55 minutes piano playlist)
http://www.youtube.com/watch?v=iQf6eBBZfBg
El espantoso Midori,la chica de las camelias.
http://www.youtube.com/watch?v=gWaGiXY33Fo&list=PL9iNRJRyCrIhMURMtOYNLzHuIWB1XmSUF
kazuo umezu's horror theater - bug's house sub Eng & Esp
[楳図かずお恐怖劇場 蟲たちの家]
http://www.youtube.com/watch?v=Sak3Nfz87ps
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