死んだら何もなくなる。あの世はないとした時、認識主体である自分もいないのなら、やっぱり、あの世はなかった、と思う自分もいない。後悔する自分もいないし、今、生きている自分を覚えている自分もいない。自分がいなければ、全ては無意味である。
すなわち、今、あるかないか議論していること自体無意味で、死んだらわかる、とする自分がいないから、まさに、死んだらおしまいである。
次に、自分がある場合。
その時、自分だけしかなく、他は何もない場合は、暗闇の中に自分だけしかいない状態で、そのような自分が認識できる一つの状態があることになる。
普通一般に言われている、あの世はないと思うというのは、この状態を指して言っているのだろう。無いという認識を自分がするつもりなのであろう。もし、自分もないというのなら、今、自分がありながら想定している無は、あくまで自分がありながら想定しているので、自分がない中での想定は不可能であろう。
そして、そこに、かすかな光があったり、何かに触ったりすれば、まさに何らかの在り方をしているあの世の姿に連なってゆく。
この場合、あの世がどんな仕組みになっているのかが問題である。
天国と地獄や、自分の意識がどの程度クリアーなのかとか、この世とどう関連しているのか、生き方とも関連しているのか、大問題である。
あの世があると思って、有った場合は、その通りで問題なく、無かったとしても、後悔する自分もないのでこれまた問題ない。
そして、あの世はないと思っていて、無ければこれも問題ない。あった場合のみが悲劇である。後悔することになる。
すなわち、あの世は認識主体があるかどうか、認識客体があるかどうかの組み合わせとなる。
そこで、認識主体がなければ、客体がどうあろうとも、無でしかない。
認識主体があれば、客体の無も、単に一つの状態でしかないので、あの世がどんなあり方をしているのかの問題でしかない。
結局、あの世はあるとして考えるしかなくなる。