【あの人に迫る】 動物も悲惨だぞ 何も知らねえべ/松村直登 福島県富岡町民
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2014年3月9日 東京新聞朝刊 「あの人に迫る」より : 俺的メモあれこれ
東京電力福島第一原発の事故から間もなく3年。いまだ全町の避難を余儀なくされている福島県富岡町に一人とどまり、取り残された動物たちの世話を続けている人がいる。原発から約12キロの山里の自宅に住む松村直登さん(54)。ひっそり静まり返った町で犬や猫と寄り添い、牛に水とえさを与えながら、復興の兆しも見えない故郷の未来を案じている。(佐藤航)
“車でダチョウと行き合ってな。持ってたえさをやったらついてきた。十何キロも走って俺の家まで来ちゃった。”
──東日本大震災が起きる前の暮らしについて教えてください。
高校を出て埼玉の製薬会社に入ったけど、半年で辞めて富岡に戻った。それからはずっと鉄筋工事をやってたな。最初に行った現場は福島第二原発だったぞ。原子炉で出た熱を海水で冷やす熱交換設備の工事だった。それから全国各地の現場を回ったな。地震の時は、常磐道の舗装関係の仕事してたんだ。ものすごい揺れが3分くらい続いたべ。家に帰ろうと思って外に出たら、道路はあちこち陥没してぐじゃぐじゃだった。
──大地震と原発事故が続く中、どうして自宅に残ったんでしょう。
震災があった3月11日は、原発の話は何も入ってこなかった。「危ねえから逃げろ」となったのは12日だべ。でもおふくろは足腰がうんと悪くて、とても避難生活は無理だった。やむを得ず残ってたら、原発が次々と爆発したわけだ。「ドドーン」と腹に響くようなものすごい音だったぞ。「さすがに逃げっぺ」となって、両親ともう一人残っていた近所のおばさんと避難したわけよ。
まず福島県いわき市の親戚の家に行ったんだけど、「ここで面倒見るわけにはいかねえ」と断られた。それで近くの避難所に行ったら、「もういっぱいだから」って。4人で「もうどこさ行ってもだめだ。帰っぺ」となって、家に帰ってきちゃったんだな。
──そこで動物の世話を始めたんですね。
近所の家で顔見知りの犬がワンワンほえるわけだ。「置いてかれちまったんだな」と思ってえさをやったら、その隣でも犬がほえたんだ。そこでもえさをやってたら、その隣の犬もまたほえた。それを繰り返しているうちに、町中を歩いて犬や猫にえさをやるのが毎日の仕事になっちゃった。
1カ月くらい過ぎたころ、俺のきょうだい3人が家の様子を見に来たんだ。両親は静岡の姉の所に行くことになって、一緒にいたおばさんも家を出たけど、俺は一人で残った。「避難しろ」って言ってくる警察とやり合ったな。「俺も出るから動物を何とかする方法を考えろ」って。そう言うとみんな逃げちまうんだ。
──孤独や放射能への恐怖にさいなまれることはなかったんですか。
最近は土日になると一時帰宅してくる人が結構いるけど、最初は静かなもんだった。車なんて走ってねえから、聞こえるのはハエの羽音だけ。死んだ動物にハエがたかってたんだ。電気も止まってたから、夜になると真っ暗だった。ろうそくの明りだけで過ごしてたけど、あれは何とも言えない気持ちだったな。
放射線量は今よりずっと高かったから、そりゃ不安だった。今日明日に死ぬことはねえけど、5年か6年してからがんか白血病になんのかなって。最初は外に出るのもいやだった。でも、動物がいるから行った。震災から2週間もたつと、餓死に近い犬もいたんだ。仕方ねえ、行くしかねえべ。
──犬や猫だけでなく、町には野生化した牛やダチョウもいたようですね。
牛は最初、みんな牛小屋に入ってたわけよ。水もえさもなくて、3週間もするとかなりの数が死んだ。環境も悪化していた。ふん尿を出す人間がいないから、牛舎は腹まで届くくらい泥だらけ。でも、牛は人の財産だから勝手に逃がすわけにはいかねえ。おやじと相談して、「牛は諦めるしかねえ」となった。
ところが、みんな一時帰宅するようになって、動物愛護団体も入ってきて、見かねた誰かが牛小屋を開けたんだな。生き残った牛が外を歩き回って、去勢されてないオスがメスと繁殖を始めたんで、俺は大変なことが起きると思った。「このままじゃ牛だらけになる。柵を作ってオスとメスを分けろ」って。町も「それしかない」と言ってたのに、国が殺処分を発表したらそれに同調したんだ。
ダチョウは大熊町(福島県)のダチョウ園から逃げたやつだな。大熊町を車で走ってたら途中で1羽のメスと行き合ってな。持ってた猫か犬のえさをやって、また車で走りだしたら、後ろについてきたんだ。十何キロも走って俺の家まで来ちゃった。そいつは今もうちの庭で飼ってる。
──当時は動物の命は二の次でした。
そりゃ人間の暮らしの方が先だ。でも動物も悲惨だぞ。あいつらは今でも知らねえべ、なぜこんなことになったか。俺、どうやって東電に文句言うか毎晩考えてた。震災から1カ月くらい過ぎたころ、東電の本店さ行ったんだ。対応した社員に言ってやった。「家畜からペットから、みんな雨の中で餓死しちまうぞ。面倒見ねえのか」って。そしたら「東電は事故の収束に向けて一筋で頑張れと政府から言われている。動物には何もできません」ってよ。
東電はろくに説明しなかったけど、ちゃんと答えたこともあった。俺が「われわれはいつ戻れるんだ。5年後か10年後か」と聞いたら、「その考えは正しいと思います」って言った。本店はあの時点で知ってたわけ。いつ帰れるのか分からねえことを。それから、東電は被災者の心を何も理解してねえことが分かった。「俺はもうめちゃくちゃ被ばくしてる。死んだらおめえらに検体してやる」って言ったら、何て言ったと思う。「体は貴重な資料になるでしょうね」って。人間の心が分かってたら、そんなこと言わねえはずだ。
──富岡町は昨年3月に避難の区域が再編され、大部分は日中の立ち入りができるようになりました。
一時帰宅する人は増えてきたけど、住んでんのは俺だけだと思う。もう若い世代は戻ってこねえべ。戻りたいと思ってるのは年寄りのごく一部だけだ。国が本気で復興を考えるなら、抜本的な解決策を打ち出さねばなんねえべ。口だけで復興と言ってても誰も帰ってこねえ。
──事故から3年。政府は原発再稼働に向けて動いています。
原発は何かあったときのリスクが高すぎる。事故が起きればすべてだめになるわけだ。住民の人生も、動物の命も、何もかも。
俺、3月4日から2週間くらいヨーロッパに行ってくるんだ。震災の後、外国メディアが取材に来るようになって、イタリア人フォトグラファーに講演を持ち掛けられた。訴えたいのは、「もう原発はまずい。今がエネルギーの転換期だ」ってことだ。エネルギーをどうするか、今考えねえと。
[まつむら・なおと]
1959(昭和34)年、福島県富岡町生まれ。県内の工業高校を出て就職した埼玉県内の製薬会社を辞めて帰郷、10代の終わりから鉄筋工事の現場で働く。常磐道の建設や東京電力福島第一、第二原発での設備工事に携わる。
2011年3月の福島第一原発事故の後も立ち入り禁止の警戒区域内(当時)の自宅に残り、犬や猫、牛やダチョウなどの世話を始める。同年11月からは友人のブログで町の状況を発信。12年5月にはその友人らと、動物保護や復興に取り組むNPO法人「がんばる福島」を立ち上げ、写真展や講演活動などを続けている。自身のブログ「警戒区域に生きる〜松村直登の闘い〜」でも近況をつづっている。
◆インタビューを終えて
松村さんと一緒に歩いていたら、松村さんが世話をしているメス猫のサビが後をついてきた。松村さんは「置いてぐぞ」と言いながら、足を止めてサビが追いつくのを待っている。
作業着のいかつい姿とは裏腹に、動物への愛情にあふれているこの人は、目の前でペットや家畜が死んでいくのを放っておけなかったのだろう。
弱った犬や猫の写真をインターネットに上げ、「警戒区域から助けた」と偽って寄付金をだまし取る詐欺が横行しているという。動物を食い物にする手口は、松村さんと同じ人間の仕業とはとても思えない。