室井佑月「菅元首相を人身御供に差し出したってこと?」〈週刊朝日〉
http://www.asyura2.com/13/senkyo154/msg/263.html
21. 2013年9月25日 09:22:11 : bAeNGmt5TI
自信の無さの表れで口汚く相手を罵り、大言壮語を振り撒く、ビッグマウス。
潔く装うためにわざとらしく、これ見よがしにすぐに謝る、ヘタレ。
じゃ、許してやろうかなと背中を見せると後ろから切りつけてくる、卑劣漢。
俺は平気だと諦めたふりをして実ははったり、何にでも恋々とする女々しい軟弱者。
それが、橋下という小物だ。
11. 2013年9月25日 09:25:03 : kKmWh0hUlw
今年の流行語大賞は、100倍返しを抑えて、ダマスゴミに決定ですね。
22. 2013年9月25日 09:25:03 : k2iJnCyr2M
日本・・・経済発展した割には人間や国家システムが発展していないアンバランスが生じている。
即ち子供に莫大な遺産が転がり込んできたようなもので、使い道すら知らない国のようだ。
日本国を独立国として自立した国家の建設に使え!国民の生活向上に使え!
01. 2013年9月25日 09:26:28 : CFFBlotztY
不起訴不当で、 検察審査会に申し立てすればいいのに。
16. 2013年9月25日 09:27:00 : TGZNIITuoU
小浜に住んでいた嫁からの情報
大飯原発の近くでは巨大魚が釣れるというのが、住民の常識。
07. 2013年9月25日 09:29:03 : TcTrBDN8Kc
「ええじゃないか」運動開始ですね。
8885. 2013年9月25日 09:29:38 : HppyiJ0996
そうだよ! 俺たちほど真剣に日本の将来を考えているやつがいるか?
朝から晩まで真剣に世界情勢に目を凝らしながら、原発を心配し、社会の不公平に警鐘ならしているのだ。
22. 2013年9月25日 09:29:39 : CFFBlotztY
もし、堺市民が大阪都を認めたとしたら、堺市民は橋下の下僕になる。
16. 2013年9月25日 09:31:21 : sKocYAO5vA
妨害電波で撃墜すれば簡単な事なのに。
ロックオンより簡単。
「核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち The Nuclear Barons」
ピ−タ−・プリングル、ジェ−ムズ・スピ−ゲルマン著 浦田誠親 監訳
(時事通信社・刊)
(1) まえがき
広瀬隆というノンフィクション・ライターが書いた『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』という本を読んだのは今から四半世紀も前の1986年のことである。たしか新聞の書評欄か何かでおもしろいという評判を目にして、買い求めたように思う。しかし、この時にはすでに文庫(文春文庫)に入っていて、単行本はその4年も前に出版されていたので、評判を聞いたにしてはずいぶん時期遅れの、間の抜けた話である。それに、買うことは買ったが、この本の内容についての予備知識も皆無であった。
1979年、映画スターのジョン・ウェインが亡くなったことは、その死因がガンだったということも含めて大きく報じられていた。なのに、それを今さら「なぜ死んだか」とは、いったいどういうことだろうか、となかば訝りながら、ページを開いたのであったが、その後、読み終えるまで、ページをめくる指を休めることはできなかった。
話は、1954年、ジョン・ウェイン主演で、ジンギスカンを主人公にした『征服者』という映画の撮影が開始されたところから始まる。そして、映画の黄金時代のピークであったこの年にはどんな映画が公開されていたかが列挙され、キラ星のようなハリウッドスターの名前が次々と登場する。『エデンの東』『帰らざる河』『ダイヤルMを廻せ』『波止場』『麗しのサブリナ』、そして、ジェームス・ディーン、マリリン・モンロー、グレイス・ケリー、マーロン・ブランド、オードリー・ヘップバーン。映画ファンにとっては、たまらない名前である。
しかし、この『征服者』が完成してから10年も経たないうちに、この映画でジョン・ウェインと共演していた俳優や女優、それに監督やスタッフたちが次々とガンに罹って死んでいった。そして最後にジョン・ウェインも。それはなぜか?
話かわって、『征服者』のロケが行われたアメリカ・ユタ州の砂漠から15キロ離れた、モルモン教徒の町であるセント・ジョージでは、人々が原因不明の死を遂げる事件が続発していた。それはなぜか?
さらに、セント・ジョージのあるユタ州南西部の1951年〜58年の小児ガンの発生率は、他の期間の3倍もの高さを記録したというユタ大学医学部の研究論文が発表されていた。それはなぜか?
と、こういう風に、次々と謎が提示され、それらを少しずつ解きほぐしていくうちに浮かび上がってきたのが、ユタ州の隣のネバダ州の砂漠で、1951年から58年までの間に97回も行われていた「原爆実験」であった。つまり、これらの核実験で大気中に大量にばらまかれた「放射性物質」の被曝が原因で、これらの人々がガンに罹って亡くなっていったのでないか、というのである。
そして、この時、『征服者』の追加撮影のために、この砂漠の砂が60トンもハリウッドのスタジオに持ち帰られ、その後、ハリウッド一帯に散布された。また、西部劇全盛の当時、原爆実験によって汚染された可能性のある砂漠を舞台に、頻繁に映画撮影が行われていた。そのためかどうか、ガン、もしくはガンと疑われる病気で亡くなったハリウッド関係者は非常に多い、と、1960年のゲイリー・クーパーから、1985年のユル・ブリンナーまで、実に69人もの物故者の名前が挙げられていた。
さらに、大気圏内の核実験はその後禁止されたが、放射能の「死の灰」の恐怖はそれで終わったわけではなく、現代の「原子力発電所」に引き継がれている、として、全国30数ケ所の原発立地場所とその予定地が記された日本地図が掲載されて、この『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』という本は、終わっていた。
私がまだ小学生だった1954年、太平洋のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験が行われた時、付近で操業中だった日本の漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を浴び、無線長の久保山愛吉さんが亡くなるという事件が起きて、世界を震撼させた。汚染された「水爆マグロ」や、「放射能」の雨を浴びたら髪の毛が抜ける、など、「死の灰」の恐怖がささやかれたが、その後、「原水爆反対運動」が盛り上がって、大気圏内の核実験が禁止されるなどするうちに、いつの間にか私たちの脳裏から消えてしまっていた。
そういえば「第五福竜丸」のあとしばらくして、「原子力の平和利用」ということが大きく喧伝されるようになった。放射線をあてると、がん細胞を退治できるとか、収穫した農作物が倍以上も大きくなるとか、その効用がいろいろと唱えられ、そんな中に原子力発電もあった。その頃運転を開始したイギリスのコールダーホール原子力発電所というのが注目を浴びていて、とにかく「平和利用」なのだから、それが危険なものだなどとは思ったこともなく、たしか社会科の時間の「研究発表」で、そのあたりのことをまとめて、みんなの前で説明したことさえあった。
だから、原発が危険なものである、というのは少し不意をつかれた感じで、そこで次に読みはじめたのが、同じ広瀬隆の『東京に原発を!』(1986年集英社文庫、単行本初版は1981年)であった。
このタイトルは逆説的である。
国や電力会社は、原発は絶対に安全だというが、そんなに安全なものなら、都会を遠く離れた過疎地にではなく、その電力をいちばん消費する東京につくればいいじゃないか、とまず主張する。そうすれば、長距離送電による電力ロスはなくなるし、これまで海に捨てていた原子炉の廃熱を「スチームパイプ」を通して配送すれば、近隣の住宅の暖房などにも利用できるし、などとそのメリットを事細かく列挙し、さらには、その候補地として具体的に、その頃、東京都庁の新庁舎の建設が予定されていた「新宿中央公園」など、最適地であると指摘している。
でも、こんなにいいことずくめの「東京原発」がなぜつくられないのか、という問いかけが導入部になって、その少し前に起きた、アメリカの「スリーマイル島」(1979年)や、ソ連の「チェルノブイリ」(1986年)の原発事故の実態、さらには、そもそも「原子力発電」とはどういうものなのか、と話は進んで行く。
私はこの本を読んではじめて、原子力発電の仕組みを知った。要するに、ウランの核分裂反応によって発生する熱を利用して、お湯を沸かし、その蒸気で発電機のタービンを回すということで、原理は火力発電とまったく同じである。ただその発熱量が莫大であるということ、そしてその反面として、核分裂の結果、ヨウ素やセシウム、ストロンチウム、プルトニウムなどの有害な「放射性物質」が産み出され、それらを外界に出さないように厳重に格納容器に閉じこめておく必要があった。
ところがいくら厳重にやっても、ちょっとしたミスで、それらは漏れ出してきて、それが「放射能漏れ事故」となったり、また、核分裂反応を制御できなくなって、原子炉が暴走すると、スリーマイル島やチェルノブイリのような破局的な大事故となる。
また使い終わった「核燃料」は、原子炉から取り出したあとも、発熱を続けているので、発電所内の水循環式のプールの中で半年から1年の間、冷ましつづけなければならない。そのあと「再処理工場」に送られて、まだ燃料として使える、燃え残りのウランとプルトニウム、そして、その他の使い道のないストロンチウムなどのいわゆる「死の灰」に分離される。
そして問題なのは、これらの放射性物質がもつ放射能は 一定の時間が経ってその反応がおさまってしまうまでは絶対に消えない、ということである。それがやっと半分になる「半減期」が、ヨウ素で8日、ストロンチウムが28年、セシウムが30年、そしてプルトニウムは2万4000年であるということで、原子力発電を続ける限りかならず生成されるこれら廃棄物は世界中で膨大な量に上っているのだが、それらの放射能が消えてしまうまで、何百年、何千年、何万年もかかることになる。その間、だれが、どこで、どのようにしてそれらを保管し、処理するのか、その方法も技術はいまだに確立されておらず、次々と貯まる一方の「放射性廃棄物」は、原発敷地内の貯蔵所などに、とりあえず大量に保管されたままだという。
また30年もすれば原子炉も老朽化して廃炉にしなければならないが、その放射能まみれになっている原子炉の残骸はどう始末するのか。再処理されて高濃度になった「高レベル廃棄物」はガラスのような固体に変えて、地中深くに埋めるといわれているが、それが何千年、何万年も変化することなく安全に保管されるという保証はあるのか、いつか腐食して漏れ出し、地下水を致命的なまでに汚染してしまったり、地上に吹き出したりすることはないのか、そういったことが起こらないように、だれが監視するのか、はたして、人類がそのころまで存在しているのか。
これを知って、私は即座に「反原発」派となった。スリーマイルやチェルノブイリのような大事故がそうたびたび起こるとは思えないが、発電とともに必然的に生成される「放射性廃棄物」が最終的に処分できないものなのであれば、原子力発電には未来はないからである。
こんな話を職場ですると、同僚で同じようなことを考えている人がいて、おたがいに関係した本や資料を集めてみようということになった。私は、その後読んだ、広瀬隆の著書群、すなわち、ロックフェラーら石油資本とハリウッド映画界との関係を暴いた『億万長者はハリウッドを殺す』、戦争というものの本質をついた『クラウゼヴィッツの暗号文』、チェルノブイリで撒き散らされた放射性物質による食品汚染を告発した『ジキル博士のハイドをさがせ』などを提供し、彼からは、物理学者・環境経済学者の槌田敦、技術系・経済評論家の内橋克人、ノンフィクションライターの柳田邦男の本の他、この、欧米のライターが書いた『核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち』という大部の本がもたらされた。
この『核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち』は、できうる限りあらゆる資料を集め、それらをすべて、これでもかこれでもかとばかり、力づくで一冊の本の中にまとめ込んでしまう、という、いかにも欧米人の学者やライターにありがちなタイプの本であった。つまり、資料的にはすばらしいのだが、それらがほとんどコントラストなしに並列的に羅列されているので、通して読んでいくと、次々と新しい人物が現れては去っていくの繰り返しで、読みづらいことこのうえもなかった。
そこで、彼から言い出したのか、私自身が思いついたのかは忘れたが、この膨大な内容の本の、細部は省いて、全体の流れが簡単に掴めるような「レジュメ」みたいなものができないだろうか、ということになり、それではと、ちょうどその頃買ったばかりの「ワープロ」の練習もかねて、この本の「要約版」をつくることになった。もちろん、内容が興味深くて、自分でもそれを十分に理解したいという欲求があったのは当然である。
内容は、「原子爆弾」の発想から、その製造、戦後の水爆、そして、原子力発電へと、「核=原子力」というものがどのように発展してきたか、そしてどのような人物がそれに関わってきたか、という話である。とにかく、登場人物が多くて、前半部だけで70名を超えている。そして、そのうちのだれかがこの本の中心人物ということはなく、次々と入れ替わっていくので、把握しやすいように、まず冒頭に「登場人物一覧」というページを用意しておいた。同じ一覧は、「ダイジェスト」の各章の終わりごとにも挿入してある。読む前、あるいは読んだ後に、もういちど目を通せば、内容を把握しやすいかもしれない。
なお、あらかじめ断っておくが、「ダイジェスト」は、この本の前半部で終わっている。いかに内容に興味があり、またワープロの練習がおもしろいといっても、読む尻から、それを要約文にまとめていくという作業は大変なことで、そんなことを時間を見つけてはコツコツと数ヶ月か、半年ほどは続けただろうか。もうすっかり疲れ切り、ちょうど切りのよいところまで来たので、そこまでを印刷して小冊子にし、同僚氏の他、何人かに配り、続きはそのうちにということになった。
原本はその後、何年間も預かっていたのだが、ついに、もうすることもないだろうと見極めを付けて返却してしまったのが、かなり前のことである。その同僚氏も定年で職場を離れてしまって、会うこともまれになってしまったが、今年(2011年)3月、まさかと思っていた、チェルノブイリ級の原発事故が日本でも起こってしまった。たくさんの人々が故郷を追われ、その何十倍、何百倍、何千倍、もしかしたら私自身もその中に入っているかもしれない多数の人間が、放出された、そしていまだに放出されているかもしれない「放射性物質」に脅かされている。そんな現在、かつて、途中で中断したままになっていた、この仕事のことが気になってきている。もはや、その「ダイジェスト」の続きをする元気は残っていないかもしれないが、後半部がどんな内容だったのか、是非読んでみたい。何らかの機会を得て、この本と再会できることを願っている。
(2011.10.16)
と、以上の文章を書いてから、半年が経った。最後にもあるように、その続きをどうしても読みたくなって、通りすがりの古書店を覗いてみたりしたが、見つからなかった。ネットで検索してみると、数万円とかなりの値段がついているようだった。もともとの持ち主だった、くだんの同僚氏と会う機会があったので、尋ねてみると、大分前に、原子力関係の本は全部処分してしまったということだった。
そして、今年(2012年)の3月、長年勤めた学校の仕事を引退することになって、その後の生活のひとつの核として、図書館というものに思い至った。職場にあった生徒用の図書館は時々利用させてもらっていたが、地域の公共の図書館は入ったこともなかった。いわば「食わず嫌い」みたいに、何となく、勝手に敷き居を高くしてしまっていたのだが、思い切って入ってみると、「案ずるより産むが易し」だった。そんなにたくさんの書物があるようでもなかったが、ない本は他の図書館から取り寄せてくれることになっていた。検索は、インターネットを使って自宅のパソコンからもすることができた。
そこでさっそく、この『核の栄光と挫折』を検索してみると、他の図書館で1冊見つかり、数日後、地元の図書館に転送されてきた。かくして、約20年ぶりの再会を果たしたのである。
あらためて全体を見直してみると、全部で28章まであって、それまでに15章まで終えていたので、あと半分というところだった。貸し出しの期限は延長しても4週間、前の時はゆうに数ヶ月もかかっていたので、はたしてできるだろうか、と思ったが、「無職」の身のありがたさ、それに内容が、それまでの原爆・水爆・原子力潜水艦といったものから、原子力発電(原発)という、まさに「現在的」なものに移って、いささか馴染み深くなったせいか、思ったよりも順調に進んで、ちょうど期限いっぱいでほぼ完了ことができた。
この本では、話は、1940年代はじめの「原爆の着想」から始まって、「原発」の世界的な普及、そして、1979年のスリーマイル島の事故で終わっている。その後、1986年にチェルノブイリの大事故があり、そして昨年(2011年)には「フクシマ」があった。しかし、「核」の世界についての「特質」や「問題点」などは、すでにこの本で、すなわち、スリーマイルまでに、ほとんど出尽くしている感がする。
言い換えれば、この本以後の30数年間、 技術的には大した進展もなかったのに、「地球温暖化問題」という追い風にも恵まれて、いわば「無為無策」のまま、「僥倖」を頼りに、原発は世界的に拡大されてきたことになる。そして、とうとう起こった「カタストロフ(破局)的な大事故」。たくさんの人々が半永久的に住む場所を失った。次は自分たちかもしれない、ああ、もう懲り懲りだ、となるはずのところが、必ずしもそうはなっていない。なぜか。そうはならない、正確にはそうは「ならせない」理由の一半が、この本を読めばわかるだろう。
時事通信社の浦田誠親氏による「監訳者あとがき」によれば、著者のひとり、ピーター・ブリングル氏は、当時、ロンドンの「オブザーバー」紙ワシントン特派員で、それ以前は、ロンドンの「サンデータイムズ」記者として、12年間、中東、アフリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、アメリカ合衆国の問題をカバーしていた。もうひとりの、ジェームズ・スピーゲルマン氏は、ホイットラム首相時代のオーストラリア政府で首相高級顧問など、いくつかの要職を経験、その間、最高水準の国際的な「核」政策討議にも参画した、もともとは法律家である。
(2012.4.28)
http://happi-land.com/er_shi_shi_ji_zuo_pin_ji/baron-maegaki.html
23. 2013年9月25日 09:33:06 : rrhrFN6JLd
愚民にもお里が知れただけ。まともな人は何年も前から支持なんかしていない。兵庫県でも都構想なんか言うから大阪だけでやっとけと文句を言ってやった。ノリで選挙に行くバカだけが投票していたんだろ。
14. 2013年9月25日 09:33:53 : HUbGBh0CYE
>>09さん
原子炉建屋の基礎を再構築する案は、
高線量下で作業員のリスクが高すぎると思います。
お堀のように陸側の土壌を下げるのは賛成ですが、
汚染水が雨水または地下水由来でなければ成立しない対策でしょう。
凍土よりも遥かに工費を抑えられるのにこの方法を採用しないのは、
汚染水が原子炉由来であることを誤魔化すためではないかと推察しています。
東電は数十か所をボーリングして地下の放射線量の分布を把握しているでしょうから、
汚染の大元を予想できているのは間違いないでしょう。
「核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち」第1部 1940年代
第1部 1940年代
第1章 原罪
原子爆弾の製造を最初に着想したのは、ハンガリ−人の物理学者レオ・シラ−ド(1)だと言われている。彼は1935年、亡命先のロンドンで、H・G・ウエルズの小説『解放された世界---人類の物語』をヒントに強力な爆弾を製造する幻想にとりつかれた。その基礎になる理論は次の二つである。
1. 1. 『核の連鎖反応理論』……一部の元素(放射性元素)では原子はたえず変化の状態にあり、分裂して電荷を持った粒子を放出している。 その中の一つの中性子が一つの原子を分裂させると二つの中性子ができ、その二つの中性子が二つの原子を分裂させると四つの中性子ができる……という反応をまとめて一度に起こすと突然、巨大なエネルギ−が得られることになる。(当時、彼はその元素がウランとは思いつかずベリリウムを有力候補とみなしていた。)
1. 2. 『臨界質量理論』……放出された中性子がすべて原子に命中する訳ではないので、連鎖反応を引き起こすには、放射性元素の最低限度、すなわち「臨界質量」が必要となる。
彼はナチスが先に原爆をつくるのを強く懸念して、このアイディアを特許に取りイギリス軍に提供しようとしたが、その反応は鈍かった。
1938年12月、ベルリン大学のオット−・ハ−ン(2)とフリッツ・シュトラスマン(3)がウラン元素の原子に中性子をあてると分裂が起こることを証明する実験を行った。その数週間後、フランスのフレデリック・ジョリオ=キュリ−(4)がウラン原子はいったん分裂すると一個以上の中性子を放出することを証明した。
当初、ドイツ政府もフランス政府もその結果に無関心であったが、大戦勃発(1939.9)後は「レ−ダ−」とともに「原爆」の開発がカギを握るとわかって、物理学者が戦争に大量に動員されることになった。(第一次大戦は「化学者」の戦争であった。)
両大戦間は物理学の黄金時代で、その中心はドイツのゲッチンゲン、ベルリン、ミュンヘンの各大学で、アインシュタイン(5) 、マックス・プランク(6)、ニ−ルス・ボ−ア(7)らがいた。その他、デンマ−クのボ−アの原子物理研究所、イギリスのケンブリッジ大学カベンディッシュ研究所、パリのラジウム研究所、レニングラ−ド物理学研究所、アメリカのコロンビア、シカゴ、プリンストン、バ−クレ−の各大学に原子力研究部門が置かれていた。
シラ−ド(1)はアメリカに渡り、イタリア人エンリコ・フェルミ(8)と組んで、コロンビア大学にいて、アメリカ海軍に働きかけをしたが、反応はなかった。
ドイツではジョリオ=キュリ−の実験の直後、ハンブルグのパウル・ハルテック(9)とウィルヘルム・グロ−ト(10)が陸軍に働きかけ、その支持を受けた。
ソ連では科学アカデミ−が「ウラン問題」研究委員会を発足させ、イゴ−ル・クルチャトフ(11)とユ−リ・ハリトン(12)が連鎖反応を起こす計画を開始したが、ドイツ軍の侵攻で挫折した。
物理学ではいちばん進んでいたドイツは原爆製造では結局立ち遅れてしまったが、それは、ウェルナ−・ハイゼンベルグ(13)らドイツの物理学者がヒトラ−に好感を持っていなかったということのほか、彼らが工業技術を一段低いものとみなす「俗物主義」にとらわれていたためといえる。
1939年、ジョリオ=キュリ−たちは放出される中性子を減速して命中する可能性を高めるために、1931年にアメリカのハロルド・ユ−リ−(14)が発見した重水でウランを取り囲む方法を考案した。当時、大量の重水を製造していたにはノルウェ−のノルスク・ハイドロ社だけで、同社の株式の65%はフランスのバンク・ド・パリ・エ・デ・ペ・バが所有、25%をドイツの化学コングロマリット、I・G・ファルベン社が所有していた。1940年2月、フランスはハイドロ社の重水を買い占め、空輸しようとしたが、ドイツ軍の度重なる妨害を受け、苦難の末、スコットランド経由でパリに運ぶことに成功した。しかしフランスはこの年の6月にドイツに敗北したので、重水は結局使用されないままイギリスに運ばれた。
イギリスは、当時の大きなウラン鉱のひとつであったチェコスロバキアの鉱山が既にドイツの手におちていたので、ベルギ−領コンゴ産のウランを狙い、ベルギ−のユニオン・ミニエ−ル・ド・オウ・カタンガ社に近づき、ウランの入手に成功、ここに重水とウランという連鎖反応に必要な材料が揃ったのである。
しかし、ウラン鉱石中の99%以上は非分裂性のU238 で、分裂性のU235 はごく僅かしか含まれていないため、臨界質量に達するには40トンものウランを集めなくてはならず、そんなに重い爆弾は飛行機では運べないので、政府は原爆を非実際的な兵器とみなし、その開発には消極的であった。その時、亡命ドイツ人学者のオット−・フリッシュ(15)とルドルフ・パイエルス(16)がU238 とU235 を分離して、純粋なU235 を抽出するアイディアを出し、やっと政府も乗り気になって、暗号名「モ−ド委員会」を設置して、1940年末までにその分離が理論的に可能なことを確認した。しかし、1941年5月のドイツ軍によるロンドン大空襲など、戦局が緊迫してきて、ついに原爆研究を断念、それまでの成果をアメリカに送り、それが後のマンハッタン計画の基盤となった。
アメリカでは、シラ−ド(1)がアインシュタイン(5)を説得し、1939年8月2日、ル−ズベルトに手紙を書かせた。ル−ズベルトはそれに応じて、「ウラン委員会」を設置したが、委員会の活動は緩慢であった。その時、シラ−ドはジョリオ=キュリ−の研究をヒントに、重水のかわりに「黒鉛」を使用するアイディアを得て、これを公表するということを脅しのネタにしたル−ズベルトへの手紙をアインシュタインに書かせ(1940年3月)、その結果、アメリカ政府はやっと重い腰を上げ、ウラン委員会を国防委員会の下に置き、カ−ネギ−研究所理事長だったバンネバ−・ブッシュ(17)を委員長に任命し、「マンハッタン計画」を策定した。これ以後、物理学者たちはビッグ・ガバメント、ビッグ・ビジネスの世界に入りこみ、その後、永久に自分たちの学問の独立を失うことになる。
【登場人物の整理】
(1) レオ・シラ−ド(ハンガリー→米):物理学者(原爆の着想)
(2) オット−・ハ−ン(独): 物理学者(核分裂の発見)
(3) フリッツ・シュトラスマン(独): 物理学者(核分裂の発見)
(4) フレデリック・ジョリオ=キュリ−(仏): 物理学者(中性子放出の発見)
(5) アインシュタイン(独→米): 物理学者(ルーズベルトに書簡)
(6) マックス・プランク(独): 物理学者(物理学の重鎮)
(7) ニ−ルス・ボ−ア(デンマーク): 物理学者(のちに原爆の国際管理を主張)
(8) エンリコ・フェルミ(伊→米): 物理学者(初のプルトニウム生産)
(9) パウル・ハルテック(独):物理学者(独陸軍に原爆製造の働きかけ)
(10) ウィルヘルム・グロ−ト(独): 物理学者(独陸軍に原爆製造の働きかけ)
(11) イゴ−ル・クルチャトフ(ソ): 物理学者(連鎖反応実験を計画)
(12) ユ−リ・ハリトン(ソ): 物理学者(連鎖反応実験を計画)
(13) ウェルナ−・ハイゼンベルグ(独):物理学者(ヒットラー嫌い)
(14) ハロルド・ユ−リ−(米):化学者(重水発見、ガス拡散法によるウラン濃縮)
(15) オット−・フリッシュ(独→英): 物理学者(U235分離のアイディア)
(16) ルドルフ・パイエルス(独→英): 物理学者(U235分離のアイディア)
(17) バンネバ−・ブッシュ(米):実業家(マンハッタン計画を策定)
第2章 従順な行為
1942年、「マンハッタン計画」が始まると、主役は『物理学者』から『技術者』へと変わった。これを管轄する陸軍工兵隊のレスリ−・グロ−ブズ(18)が技術担当最高責任者となり、彼は軍人特有の強引なまでの行動力で、全米から桁はずれの量の必要物資と工業技術のノウハウをかきあつめ、計画を強力に推進していった。
原爆の材料を製造する方法として、次の四つが試みられた。
コロンビア大学では、ハロルド・ユ−リ−(14)が『ガス拡散』によるU235 分離技術を担当。これは、U238 、U235 を含むウランガスを多孔性の障壁を通過させると軽いU235 は重いU238 よりも容易に通過するので、これを繰り返せば最終的に濃縮されたU235 が得られるという方法である。
カリフォルニア大学では、サイクロトロン(原子核破壊装置)の発明者であるア−ネスト・ロ−レンス(19)が『電磁場』による分離技術を担当。これは、ウランガスを強力な磁石の上を通過させると、軽いU235 は重いU238 とは異なった割合で磁石に吸いつけられる、という方法である。
ピッツバ−グのウェスチングハウス研究所では、スタンダ−ド石油ニュ−ジャ−ジ−の技術者イジャ−・マ−フリ−(20)が『遠心分離法』によるU235 の分離を担当。これは、ウランガスを遠心分離器に入れて重いU238 と軽いU235 を分ける方法である。
シカゴ大学では、X線の研究者のア−サ−・コンプトン(21)が、フェルミ(8)、シラ−ド(1)、ユ−ジン・ウイグナ−(22)と共に、黒鉛ブロックで出来た原子炉を建設。 1942年12月2日にはフェルミが世界で最初の核連鎖反応の実験に成功し、微量のプルトニウムを生産することになる。
このうち、『遠心分離法』は、グロ−ブズ(18)が、イジャ−・マ−フリ−の指導力に疑問ありと判断したことにより、最も計画が進んでいたにもかかわらず、放棄され、他の三つの研究が同時進行された。すなわち、『ガス拡散』と『電磁場』による濃縮工場がテネシ−州オ−クリッジに、プルトニウム原子炉がワシントン州ハンフォ−ドに建設された。
しかし『電磁場』は、マンハッタン計画の全予算20億ドルのうちの6億ドルを注ぎ込んだが、結局失敗、以後永久に放棄され、土壇場で『ガス拡散』が劇的な大成功を収めて、その後、この方法が全世界に定着した。ところがこの方法は大量に電力を消費し、(この工場だけで全米の電力の10%を消費し、その後、ソ連、フランス、イギリス、中国で同様の工場が建設されたので、何百万バ−レルもの石油が消費された。)20年後にカムバックした『遠心分離』の方がはるかに電力を食わない、きわめて効果的な方法であることが証明された。
原爆の設計(臨界質量のU235 またはプルトニウムを、事前に爆発が起きないようにケースの中で二分し、それを何百万分の一秒以内にもとに戻す装置)については、バークレー校の39才の物理学者ロバ−ト・オッペンハイマー(23)が抜擢された。FBIは彼がスペイン内戦中に左翼の主張を支持したこと、また、彼の親戚や友人の一部が共産党員だったことから強く反対したが、グローブズ(18)はオッペンハイマーが科学者臭くなく、また、組織能力もあると判断して、それを斥けた。結局、各部門がバラバラに進行していたマンハッタン計画の全貌を知ることができたのは、グローブズを除いてはオッペンハイマ−ただひとりであった。
1. 爆発原理(1):『銃型方式』……臨界質量が約15kgのU235を二つの半球内に収め、それぞれに銃身を取り付け、向かい合わせにして組み立て、銃を発射すると二つが一体となって反応が始まる。
2.
3. 爆発原理(2):『爆縮方式』……プルトニウムの臨界質量は不安定なため、臨界質量に満たない分量を二つの半球に分け、それを爆発物で覆う。そしてそれを爆発させるとプルトニウムは内部にむかって押し潰され、その巨大な圧力によって臨界に達する。
1945年夏の初めまでに両方式とも完成したが、『爆縮方式』には実験が必要ということで、7月16日、ニューメキシコ州アラモゴルドの砂漠でプルトニウム爆弾の実験が行われ、成功した。フェルミ(8)の速算によれば、その威力はTNT火薬1万トンに匹敵した。
ところがこの実験の前にドイツは既に降伏していたので、シラード(1)やウィグナー(22)らヨーロッパからの亡命科学者たちのシカゴ大学グループは原爆製造の動機を失ってしまい、シラードはその使用に反対する意見書をルーズベルトに提出しようとしたが、ルーズベルトは4月12日に死去し、あとを継いだトルーマンはそれに取り合おうとはしなかった。
トルーマンは決断を引き延ばしていたルーズベルトとは違って、原爆使用については何の疑問も持っていなかった。結局、トルーマンは自分の大統領としての地位を確かなものにするために「決断の人」というイメージをつくりたかったのだ。
【登場人物の整理】
(18) レスリ−・グロ−ブズ(米):陸軍軍人(マンハッタン計画統括者)
(19) ア−ネスト・ロ−レンス(米):物理学者(サイクロトロン発明者。電磁場法担当)
(20) イジャ−・マ−フリ−(米):技術者(遠心分離法担当)
(21) ア−サ−・コンプトン(米):物理学者(黒鉛原子炉による方法担当)
(22) ユ−ジン・ウイグナ−(ハンガリー→米):物理学者(黒鉛原子炉による方法担当)
(23) ロバ−ト・オッペンハイマー(米):物理学者(原爆の設計)
第3章 「最悪の幻想」
1945年5月、ニールス・ボーア(7)は、戦後の原爆製造競争を懸念して、それを避けるためにはマンハッタン計画の秘密をソ連に知らせて国際管理機関をつくるしかないとチャーチルに提言したが、ソ連を潜在的にはドイツよりも大きな敵とみなしていたチャーチルはそれを一蹴した。その後、ボーアはルーズベルトとも会談したが、ルーズベルトもチャーチルと同意見であった。
トルーマンは原爆を政治的に利用しようと、ポツダム会談(7月18日〜)に間に合うようにアラモゴルドの実験を急がしたが、結局、スターリンに原爆完成のことははっきりとは言わなかった。
グローブズ(18)はソ連の工業力とウラン埋蔵量を過小評価して、コンゴのウランさえ押えておけばアメリカの原爆独占は20年は続くとトルーマンに吹き込み、トルーマンもそれを信じて、原爆を戦後の世界支配の切り札に使おうとしたが、広島から4年後の1949年8月ソ連が、そして1952年イギリスが、自力で原爆を製造して、その幻想は破られた。
また、グローブズは、マンハッタン計画について、多額の予算を使ったので国民に報告しなければならないという義務感から、そしてそれに携わった自分たち技術者や科学者を顕彰したいという気持ちから、シカゴ大学のヘンリー・スミス(24)に命じて報告書を作成させ、それは1945年8月12日に公表された。そこには原爆の製造方法は明らかにされていなかったが、どうすればうまくいかないかは説明されており、またプルトニウム爆弾が実際に機能したこと、『ガス拡散』で必要量のU235 が生産できたことなどが書かれており、ソ連などのゼロから出発する国々には計り知れないほどの価値があった。このスミス報告は1948年に、原子力委員会によって、「重大な機密違反」の烙印を押された。
トルーマン政権の国務長官ジェームズ・バーンズ(25)、国務次官ディーン・アチソン(26)らはまもなく、原爆が外交的にはそれほど力のない武器だと気付いて、何らかの国際機関をつくる方向に動きだし、その原案をつくる委員会の長になったアチソンはグローブズを抑えて、1946年1月、TVAを運営してきた法律家デービッド・リリエンソール(27)を長とする顧問団を設置した。
リリエンソール顧問団の課題は、一方では世界から原爆を廃棄し、他方ではそれを平和目的に利用するという二つを何とか結びつけようというものであった。委員のひとりオッペンハイマー(23)が具体的な方式(全てのウラン鉱山と核分裂物質生産工場を国際機関が管理する)を発案した。この案には、鉱山を所有している資本家が「国際化」という名の接収に簡単に応じるのか、またソ連が国内の査察を認めるのか、という問題点があったが、それは克服できないことはないということで、この線で最終的なアチソン=リリエンソール案がまとめられた。しかし、そこにはアメリカの原爆製造の停止は入っていなかった。
この頃、東西の冷戦が公然化しようとしていた。1946年2月、カナダでソ連の原子力スパイ網が摘発され、3月5日、ミズーリ州フルトンでチャーチルの「鉄のカーテン」演説が行われた。
バーンズ(25)はアチソン=リリエンソール案を国連に提案するアメリカ代表としてウォール街の投機家バーナード・バルーク(28)を選んだ。彼は反ソ的な人物で、アチソンはこれではぶち壊しだとバーンズを説得したがうまくいかなかった。はたして、バルークは1946年3月末に自分自身のための顧問団を設けて、アチソン=リリエンソール案を骨抜きにし、またソ連に対してきわめて挑戦的なものにつくりかえてしまった。6月14日、このバルーク案が国連に提案されたが、同19日にソ連のグロムイコ外相はこれを拒否、「まず核兵器を禁止すれば、査察にも同意できる」と逆提案した。その直後、アメリカがビキニで二度目の原爆実験をしたりして、米ソの対立は厳しくなり、7月5日、アメリカはソ連の提案を正式に拒否して、実のある国際管理体制は挫折してしまった。
一方、原子力の国内管理については1945年から話がすすめられ、軍人を含めた管理委員会という法案が提出されたが失敗し、コネチカット州選出の新人議員ブライアン・マクマホン(29)提出の法案が1946年8月1日、原子力法として成立した。このマクマホン法では核兵器の製造、使用に関するあらゆる情報が「部外秘」とされ、違反者には死刑を含む厳しい罰則が設けられた。
【登場人物の整理】
(24) ヘンリー・スミス(米):物理学者(原爆製造報告書作成)
(25) ジェームズ・バーンズ(米):国務長官(原爆の国際管理を志向)
(26) ディーン・アチソン(米):国務次官・長官( 原爆の国際管理を志向)
(27) デービッド・リリエンソール(米):弁護士(米原子力委員会=AEC初代委員長)
(28) バーナード・バルーク(米):投機家(原爆国際管理の国連代表。反ソ派)
(29) ブライアン・マクマホン(米):上院議員(両院合同原子力委員会=JCAE委員長)
第4章 原子力群島
ソ連の原爆は、広大な国土に散在しながらも、非常にしっかりと統合された一連の都市、工場、研究所で製造されたが、その全体像は明らかでない。科学者や技術者の正体も長らく不明で、名前が明らかになってからも世に広く国際的評価を受けていた者はいなかった。そのため西側の分析家たちはソ連の専門知識をなかなか認めようとはせず、当初、1946年のカナダでのスパイ摘発や、1950年の亡命ドイツ人科学者クラウス・フックス(30)の自白などもあって、ソ連の原爆成功は原子力スパイがもたらしたものに違いないと推理した。
しかし実際にはソ連は1939年8月には原子物理学に強い関心を抱いており、イゴール・クルチャトフ(11)を中心にドイツ、フランスの画期的な実験をフォローし、また独自の諸実験も行って、1942年末には原子力の計画を確立していた。クルチャトフはクリミア国立大学で物理学を学び、1925年に22才の若さでレニングラード物理学研究所に招かれ、1937年にはローレンス(19)に遅れること7年目にして、ヨーロッパで最初のサイクロトロンをつくった人物である。
ソ連軍がドイツ領内に侵攻していくにつれて、ソ連当局者は西側と同様ドイツの原子科学者と接触し、マンフレッド・フォン・アルデンネ男爵を引き抜くことに成功した。彼は一匹狼の物理学者で、U235 の電磁分離の端緒になるものを開発していたが、そのスタッフと実験所は黒海沿岸の保養地スフーミに移され、以後10年間、同位元素分離の仕事に没頭した。
1945年8月、スターリンは彼らに急いで原爆をつくるよう命じた。その計画では、政治面をラベレンチ・ベリヤ、科学面をクルチャトフ、そして技術面はソ連版グローブズ将軍ともいうべきボリス・バニコフ(31)とベリヤの副官の一人、アブラーミ・ザベニャギン(32)の二人が管理した。この二人は1920〜30年代にソ連の工業基盤を建設するために厳選されたエリート行政官グループ(西側の学者は「赤いスペシャリスト」とよんでいる)のメンバーであり、自分たちの仕事に非人間的、権威主義的かつ専制的な(即ちスターリン的な)管理スタイルを導入した。
1945年8月に発表されたアメリカのスミス報告はソ連チームに貪り読まれ(モスクワでは第一刷として、3万部が公刊された)、その研究に大きな示唆(とくにU235 の分離に『ガス拡散法』を用いたことなど)を与えた。
ウランの供給を確保するため、ソ連は、世界最古のウラン、ラジウム産出地であるチェコスロバキアのヨアキムシュタール鉱山のほか、東ドイツのザクセンの諸鉱山を開発し、1946年の135トンから1948年には900トンまで生産を伸ばした。しかし、そのためにはナチスの技術者を監獄から釈放して主任顧問にしたり、安全に全く配慮しない奴隷労働を課して多くの死傷者を出すということがあった。
クルチャトフらは1948年に黒鉛原子炉を完成させ、翌49年には別のチームによって重水減速のプルトニウム生産用原子炉が完成し、同年8月29日中央アジアのカザクスタン砂漠で最初の原爆実験がなされるまでに、ソ連は原爆2個分のプルトニウムを所有していた。
【登場人物の整理】
(30) クラウス・フックス(独→英):科学者(ソ連の原子力スパイ)
(31) ボリス・バニコフ(ソ):官僚(赤いスペシャリスト)
(32) アブラーミ・ザベニャギン(ソ):官僚(赤いスペシャリスト)
第5章 『貧しい関係』
広島、長崎の原爆投下は、戦争に勝つための良策としての大量殺人を容認した軍事思想のクライマックスをなすものであるが、その理論は単純で、つまり民間人をできるだけ多く殺せば、生き残った者の戦闘意欲は挫けてしまうだろうというものである。その前例は第二次大戦の前にも小規模ながらあって、1935年のムッソリーニのエチオピア空襲、1937年の日本による中国諸都市の爆撃、そしてドイツによるスペインの町ゲルニカの攻撃がそうであった。
第二次大戦時のドイツ軍のロンドン空襲は港湾施設を爆撃していたつもりだったのだろうが、実際は住宅地域にまで被害が及んだ。イギリスは反攻に転じてから、ドイツの工業基地を爆撃してその戦争遂行能力を打ち砕こうとしたが、実際には目標に正確に命中させる能力が空軍にないことがわかった。そこでチャ−チルは1941年、空軍による出撃を中止させる決定を下した。
この決定はイギリス空軍の自尊心を大いに傷つけ、参謀総長チャールズ・“ピーター”・ポータル(33)は、チャーチルの科学顧問フレデリック・リンデマン(後のチャーウェル卿)(34)とともにチャーチルを説得して、爆撃禁止令を解除させ、1942年のセント・バレンタイン・デーに行われた爆撃では、新しい主要目標は敵民間人の士気であるとの秘密命令を出した。そしてこの戦略が残したのはドレスデン、東京、そして最後は広島と長崎の廃墟であった。
戦後のイギリスは原爆に関する科学的ノウハウはたっぷり持っていたが、その資金を欠いていた。にもかかわらず、当時の労働党政権は1945年、大国としての地位を守るため、独自の核抑止力をつくりはじめたが、そのことについては国民は何も知らされなかった。新聞は「政府機密法」と原爆計画に関する特別な報道禁止令にしばられ、また議会で質問しても答弁は返ってこなかった。そして1952年、10億ポンドを費やしてつくられた原爆の実験が成功したが、それは当初のもくろみどおりの戦略的、外交的な配当はもたらさなかった。
イギリスは、原爆は製造可能であるとしたオットー・フリッシュ(15)とルドルフ・パイエルス(16)の「フリッシュ=パイエルス・メモランダム」をアメリカに提供することによって、カナダとともにマンハッタン計画には大きく寄与していた。そして1943年8月、ルーズベルト、チャーチル、それにカナダ首相のウィリアム・マッケンジー・キングが秘密会議を開き、「ケべック協定」が成立し、原爆の情報、製造、そしてその利用に関しての三国間の協力体制が約束されていた。しかし戦後アメリカで制定された「マクマホン法」は米英間の原子力協力の扉を閉ざしてしまった。
広島原爆の数日前に首相に選ばれたクレメント・アトリーは、当初、原子力国際管理の方法を検討すべきだと思い、また米英ソの三大国が戦争の廃絶の不可欠性を宣言することを期待したが、一ケ月も経たぬうちにイギリスに原爆保有をめざす特別閣議を召集することになる。この点でアトリーを補佐したのは官房長官サー・エドワード・ブリッジズ(後のブリッジズ卿)(35)であった。
イギリスの官房長官は文官であって政治的に任命されたものではないので、政権交替によっても取り換えられず、伝統的に歴代首相のお守り役という存在である。ブリッジズは高名な詩人ロバート・ブリッジズの息子で、有能な行政官として成功し、大蔵省を経て1938年にこの職に就いた。
彼は行政の隅々まで知り尽くした冷徹な官僚としてチャーチルを補佐してきて、また、イギリス史上初の労働党多数政権のアトリー内閣になっても、即座に次のような三つの重要提案を行って、内閣が原子エネルギーでとるべき明確なコースを設定した。
それは、(A) チャーチルの原子力専門家で、官僚出身の保守党員、元内相、元蔵相のサー・ジョン・アンダーソン(36)を原子力最高顧問に起用すること、(B) 原子エネルギーに関する専任閣僚は任命しない、(C) 原爆計画の担当を科学工業研究省から、戦時中、軍需工場の組織化にあたっていた供給省に移すこと、の三つであったが、これらは1945年8月10日、アトリーの原子力問題に関する閣僚級特別委員会「ゼン(ゼネラル)75」によって承認され、ここに、政治家から独立した原爆製造体制ができ上がった。
第一歩としてロンドン郊外50マイルの旧イギリス空軍飛行場の所在地ハーウェルに「原子力利用のあらゆる面」をみる研究機関が設置され、その所長にはケンブリッジの物理学者で、戦争中、カナダの重水原子炉の担当者だったジョン・コッククロフト(37)が任命された。次いで、1945年11月、アトリーはアンダーソン(36)とともに訪米し、トルーマンならびにカナダの当局者と会い、将来の英米間の協力について話し合った。アメリカのグローブズ将軍(18)は、植民地官僚出身で「尊大なジョン」「神様」と異名をとるアンダーソンの高圧的な態度をひどく嫌った。トルーマン、アトリー、キングは原子力開発における三国間の「全面的かつ効果的な」協力を確認したが、グローブズが固執したために、協力は科学データのみに限定されてしまい、イギリスが最も欲しかった技術的なノウハウ、工業上の細目はアトリーの再三にわたる要望にもかかわらず、結局イギリスには与えられなかった。
「ゼン75」は1945年12月、プルトニウム生産用の大型原子炉建設に関するアンダーソン委員会の勧告を承認したが、原爆製造についての決定は1947年1月まで下されなかった。しかし、工場の建設と運営を担当した、インペリアル化学工業会社の技術者クリストファー・ヒントン(後のヒントン卿)(38)は原爆製造という目的をしっかりと認識していた。
プルトニウム生産の監督には、空軍参謀総長を退任していたピーター・ポータル(33)が起用された。彼は原子力についての知識はほとんどなかったし、ロンドンのシティーで若干の会社の取締役をつとめながら徐々に引退生活へと消えていくつもりであったため、その就任を渋っていたが、アトリーの懇請により受諾した。彼は戦時中の意欲や情熱の多くを失っていたが、第一次大戦中の「空の勇士」以来、ずっと大きな尊敬を集めており、また「人を操る技術に鋭い理解力をもった」、非常にすぐれた能力の指揮者でもあったので、原子エネルギーに引き続き最高の優先性を与えるための、閣僚や参謀本部との交渉に重要な役割を果たした。
「ゼン75」では、ヒュー・ダルトン蔵相、スタフォード・クリップス商務相の二人が大規模な核計画の経済的側面に若干の留保を表明した。また肝心のイギリスの契約社である「ICI」と「イングリッシュ・エレクトリック」も、戦後復興の投資需要があまりにも莫大で核の方にまでは手が回らないとして、核計画と一切の関係を持つことを拒否したが、二人の経済閣僚の意見はその反映であった。そのため「ゼン75」は最終的かつ正式な決定を下さないまま、1946年12月に解散し、1947年1月に新しい「ゼン163」が原爆製造を決定した。「ゼン163」ではダルトンとクリップスは排除されていたが、それはおそらくブリッジズ(35)が官房長官として首相に及ぼした影響力の結果であったと思われる。
政府の「原子力に関する諮問委員会」の委員で、ユトランド沖海戦の海軍士官、ノーベル物理学賞受賞者、戦争における作戦研究の事実上の発案者という経歴の持ち主、パトリック・ブラケット教授は、核計画の秘密世界の中で唯一、反対論を記録にとどめた人物である。彼は1945年11月の秘密メモランダムにおいて、イギリスが原爆を開発すれば、資源や物理学者が他の必要産業分野から奪われてしまい、また、核拡散を刺激することにもなると政府に忠告し、さらに、いったん原爆反対を決めたら、イギリスは原子力施設を国連などの査察に開放して、その誠意を証明すべきだと提案した。しかし彼の提案は1944年にニールス・ボーア(7)がチャーチルから食ったのと同じ肘でっぽうを食った。アトリーはブラケット報告を退け、参謀本部はそれをあっさりと無視した。おまけに彼はもう一人の物理学者ヘンリー・ティザードとともに原子力関係の諸委員会から排除されてしまった。
ティザードは、戦時中、チャーチルの個人的な科学顧問フレデリック・リンデマン(チャーウェル卿)(34)が、敵爆撃機の編隊にパラシュートをつけた爆弾を落とすという、いささかバカげた防空対策を提案したとき、レーダーに優先性を置くように反論して、何度も公開の席で激論し、また、チャーウェルの「戦略爆撃論」の効果にも反論するなど、チャーウェルと衝突をくりかえして、戦時の核問題から排除された。1946年、アトリーによって、新設された国防省科学顧問に任命されたが、ブリッジズ(35)とポータル(33)は彼を警戒し、1947年1月の原爆製造の秘密決定のときには、彼をブラケットとともにつんぼさじきに置いた。1949年にティザードは秘密メモランダムの中に、「イギリスはもはや大国ではなく、再び大国にはならないだろう。我々は偉大な国民であるが、もし、これからも大国のように振る舞いつづけるなら、偉大な国民でもなくなるだろう。」と書いたが、この論評は、戦後いちはやく、イギリスの没落を予言したものであった。
【登場人物の整理】
(33) チャールズ・“ピーター”・ポータル(英):軍人(空軍参謀総長)
(34) フレデリック・リンデマン(チャーウェル卿)(英):(チャーチルの科学顧問)
(35) サー・エドワード・ブリッジズ(ブリッジズ卿)(英):官僚(官房長官)
(36) サー・ジョン・アンダーソン(英):官僚出身の政治家(原子力最高顧問)
(37) ジョン・コッククロフト(英):物理学者(英原子力研究機関・所長)
(38) クリストファー・ヒントン(ヒントン卿)(英):技術者(原子力の父)
第6章 片目の王様たち
1949年9月3日、アメリカ空軍の気象偵察機が、カムチャッカ半島東方の北太平洋上空で大気中の放射能が増加しているのを感知し、科学者が分析した結果、8月29日頃にソ連が初の核爆発実験を行ったことが判明した。
アメリカ原子力委員会(AEC)委員長のリリエンソール(26)からこの知らせを受けたトルーマンはひどいショックを受けた。彼はソ連が原爆をつくるのは10〜20年先だと思い込んでいたからである。ホワイトハウスがソ連原爆のことを発表したのは9月23日になってからであった。
ソ連の原爆実験は、原子力の国際管理を復活させる機会でもあったのだが、アメリカの為政者たちはパニック状態に陥り、カーチス・ルメイ将軍(39)に率いられたアメリカ戦略空軍(SAC)を急先峰としたタカ派の政策により、原爆製造は次々に拡大され、1950年3月のトルーマンの水爆製造決定で頂点に達した。
ウラン、プルトニウムといった重い元素の原子を分裂させることによってエネルギーを得る原爆とちがって、水爆のエネルギーは最も軽い元素(水素同位元素)の融合によって得られる。その融合に先立って、大量の熱爆発と途方もない圧力を必要とするが、それさえ得られるなら、理論的には爆弾の規模には限りはない。初期において制約となったのは運搬可能な爆弾の大きさと重さであった。
リリエンソールはAEC初代委員長として、文民統制のもとで原爆と原子力の発展を維持するために、AECを議会や軍部からできるだけ独立した機関とすることに尽力した。それ以前の10年間つとめてきたテネシー渓谷開発公社(TVA)の経験から、「人は自然の諸力と調和しながらはたらく方法を学ぶことができる」というのが彼の信念で、また、5人のAEC委員のうちただ一人、政治的に中立な人物であった。他の4人は共和党員で、サムナー・パイクは証券取引委員会の元委員、ルイス・ストラウス(40)はウォール街の金融家、ウィリアム・ウェーマックは新聞編集者、ロバート・バッチャーはロスアラモス時代からの科学者であった。そして、この5人のうちの3人の反対を押し切って、トルーマンの水爆製造決定が下され、その後、リリエンソールは辞任する。
当初、原爆製造に最も積極的であったアメリカ空軍は、軍事的な優位を確保するためには原爆400個が必要だと提案し、トルーマンとAECはそれを達成するために、ハンフォードでのプルトニウム増産に同意するとともに、U235 も増産するため、オークリッジにもう一つガス拡散工場を建設した。
こうした当初の増産の背後にあったのは「戦略爆撃思想」の完全な容認であった。この先例はイギリスにもあったものだが、航空戦力の任務は、単に陸軍と海軍を支援するのではなくて、敵の国内軍事能力を破壊することによって直接的に勝利をもたらすことである、というものである。アメリカ人はこの軍事思想に深くコミットし、「戦略的」ということばはアメリカ爆撃部隊を包含するものの名前としてつけられ、「戦略空軍部隊」とよばれた。そしてそれは最初、ベルリン、ドレスデン爆撃として行使され、次いで、ルメイ(39)の指揮のもと、1945年3月9日の東京大空襲を皮切りに、日本でも大々的に展開された。
「戦略爆撃」は対外的な関わりあいを厭う孤立主義的な政治家にも、「遠方からの爆撃」によって戦争に勝つという点で歓迎され、ここに、電撃的な都市大量爆撃の完全容認という「空軍力」のドグマは、今世紀初めの地政学的な「海軍力」中心のドクトリンにとってかわるものとなったのである。
議会では、上下両院合同原子力委員会(JCAE)がAECの活動に未曾有の関心を示していた。JCAE委員長のマクマホン(29)は核の狂信者として、自分の地位を固めている最中で、「ミスター・アトム」の名で自分を売り込んでいた。そのマクマホンを助けたのは、頭の切れる、まだ若い、戦時中の爆撃機パイロット、ウィリアム・ボーデン(41)で、この二人の、マクマホン=ボーデン枢軸は、アメリカに原爆はいくらあっても足りないと信じていた。
リリエンソールはアメリカの核政策の変化に疑念を強めており、これにトルーマンが同情的に耳を傾けてくれるものと信じていたが、死ぬ日まで広島についての自己不信の気持を一度も語ったことのないトルーマンは、国務長官、国防長官、AEC委員長で構成する「三人委員会」を設置して、自らの決定権の放棄を制度化してしまった。そして「三人委」で原爆の増産を検討しているとき、ソ連の原爆実験のニュースが入ってきて、以後、水爆製造という問題がもち上がってきた。この新しい熱核兵器が人類全体に及ぼす影響をリリエンソールは深く憂慮したが、彼の前には、軍部のタカ派、議会の強硬派の他、AEC内部の敵も立ちはだかってきた。
ソ連の原爆実験に個人的に非常に驚いたストラウス(40) は水爆製造の必要性をすぐさま確信したが、それを実現するために、マクマホン=ボーデン枢軸の他、マンハッタン計画でグローブズのナンバー2であり、この時、アメリカ軍特殊兵器計画の指揮にあたっていたケネス・ニコルズを仲間に引き入れた。
原子物理学者の中にもタカ派がいた。その中心人物は、ナチから逃れてきたハンガリー難民のエドワード・テラー(42)で、彼はマンハッタン計画の初期から熱核兵器製造の可能性に魅せられ、戦後も、この兵器の実際化についての研究を続けていた。テラーの同調者として、愛国主義的で保守的な、バークレー放射線研究所長ローレンス(19) とその子飼いのルイス・アルバレスがいた。
水爆に反対したのは、オッペンハイマー(23)以下のAECの一般諮問委員会(GAC)の委員たちであった。彼らは、運搬手段による制約を除けば無限の爆発力を持つ水爆が民間人に及ぼす影響を重視したが、それはまた、水爆賛成論の論拠でもあった。GACは水爆よりも、小型の戦術用核兵器(戦場で使用できる規模の核兵器)を多様に開発すべきだと主張した。
リリエンソールはGAC報告を心強く感じたが、一方、水爆賛成派の勢力も拡大していることに失望し、1949年11月7日、トルーマンに辞意を表明した。トルーマンは慰留に努め、その結果、リリエンソールは後任が見つかるまで1〜2ケ月留まることにした。その二日後、AECは、水爆を製造しないというGACの勧告を3対2で承認した。反対したのはストラウスと、マクマホンの法律事務所の共同経営者で、AEC新メンバーのゴードン・ディーン(43)であった。この問題は、アチソン国務長官(26)、ルイス・ジョンソン国防長官、およびリリエンソールの「三人委」に委ねられたが、なかなか合意に至らず、リリエンソールは決定の延期を提案したが、アチソンはそれを支持しなかった。
アチソンは冷戦下のアメリカの主要な政策イニシアチヴのすべて(トルーマン・ドクトリン、マ−シャル計画、NATO、それに、全面的な軍備強化を勧告した1950年4月の国家安全保障会議報告)をつくりあげた最も重要な人物であり、また、トルーマンに朝鮮介入を確固として進言した他、ヨーロッパ第一主義を推進した。彼はリリエンソールとは1946年にアチソン=リリエンソール案をつくった間柄であったが、1950年までには、ヨーロッパに対するソ連の脅威を、ソ連も「パックス・アメリカーナ」を恐れていることを知ろうとも、理解しようともせずに、数世紀前にイスラムがヨーロッパに及ぼした脅威と同一視するようになって、核爆弾の使用について、もはや道義的限界があるとは思わなくなっていた。要するに、かつてのような理想主義の贅沢に耽ることを許すような国際体制は崩壊しており、アチソンは、いわば、道義的な盲人の国にあって、片目の王様たちの仲間に入り、ソ連の原爆がその新しい立場を補強しただけの話であった。
1950年1月13日、ジョンソン国防長官は統合参謀本部よりGACを批判する報告書を受けとり、そのコピーをホワイトハウスに届けた。そして1月19日にはトルーマンがそれを評価する発言を側近にもらして、水爆についてハラを決めたことを示唆し、1月27日の記者会見でそれを確認した。年老いたバルーク(28) は即座に支持を表明、アメリカ科学界で非常に尊敬されていたハロルド・ユーリー(14) がそれにつづいて、リリエンソールを意気消沈させた。
1月31日、「三人委」で、「水爆を含む、あらゆる形の核兵器開発を続ける」という勧告がつくられ、それをトルーマンに提出した時、トルーマンは「水爆の実現可能性について調査する。生産の決定はその結論が出るまで待つ。」と答えた。ところがそれから48時間以内に、イギリスで原子力スパイ、クラウス・フックス(30) が逮捕されたというニュースが伝えられた。フックスは1943年以来マンハッタン計画に関係していたので、このニュースは、ソ連の核兵器について、再びヒステリカルな疑心暗鬼を呼びおこし、水爆の製造はもはや必至とみなされて、3月10日、トルーマンは製造命令を下した。
しかしそれでも、タカ派はおさまらず、分裂物質の生産をもっと拡大せよと圧力をかけた。リリエンソールが去って抑制力のなくなったAECは、国防省とともに、新型の重水式原子炉2基を新たに建設すべきであると提案するに至ったが、マクマホン=ボ−デン枢軸は満足せず、そこにワシントン州選出の下院議員ヘンリー・“スクープ”・ジャクソン(44)も加わって、結局、10月にトルーマンが2基ではなく、5基の重水原子炉の新設を認めたことで、タカ派は勝利を収めた。
1950年6月にリリエンソールの後継者としてAEC委員長になったゴードン・ディーン(43) は、文民統制を守り抜こうとしてタカ派に抵抗した。しかし、1952年1月、新国防長官ロバート・ロベット(45) が分裂物質の更なる増産を提案したとき、アチソンがそれを黙認し、トルーマンもそれに傾斜するに至って、彼は為すすべもなかった。その結果、アメリカは、国防総省が必要とみなしたよりも多くの分裂物質を生産し、1953年にアイゼンハワー大統領が「平和のための原子力」を提唱したとき、それに提供できる分裂物質は原爆5000個分以上に達していた。
【登場人物の整理】
(39) カーチス・ルメイ将軍(米):軍人(戦略空軍の総帥。東京大空襲を指揮)
(40) ルイス・ストラウス(米):銀行家(AEC委員。水爆製造積極派)
(41) ウィリアム・ボーデン(米):元空軍パイロット(JCAE事務局長)
(42) エドワード・テラー(ハンガリー→米):物理学者(超タカ派。米水爆の父)
(43) ゴードン・ディーン(米):弁護士(AEC2代目委員長)
(44) ヘンリー・“スクープ”・ジャクソン(米):下院・上院議員(JCAE委員)
(45) ロバート・ロベット(米):国防長官(分裂物質の増産を提案)
「第2部・1950年代」につづく
「まえがき」 「詳細目次」 「国別・登場人物一覧」
「ホーム」
http://happi-land.com/er_shi_shi_ji_zuo_pin_ji/baron-digest-40a.html
16. 2013年9月25日 09:38:17 : m9XJiCiCzr
もしも「法定伝染病」が発生したら、その地区、感染人物はただちに厳重に隔離される。
それを「差別だ」などという人は誰もいない。
いっしょに感染して応援しようというバカもいるまい。
放射能被爆はこれとは比較にならないぐらい恐ろしい影響力と被害をもたらす。
66. 2013年9月25日 09:39:01 : 6IMaXuhDU2
いや、いまさらながら福沢諭吉の先見の明に感服 であります。
「核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち」 第2部 1950年代
第2部 1950年代
第7章 運命と憤激
ウォール街の銀行家ルイス・ストラウス(40)が1953年夏、AEC委員長に就任したとき最初に手掛けたのは、彼の得意とする一種の秘密工作、つまり、連邦政府からの「赤狩り」というアイゼンハワーの選挙公約を実行に移す仕事であった。彼はまた、連邦捜査局(FBI)のエドガー・フーバー長官(46)に対しても、長年「フーバーの喉に引っかかった骨」となっていた一部の人たちをAECから追放することを約束していた。それらはすべて、ストラウスが1946〜49年にリリエンソールの下でAECにつとめていた時に目星をつけていた「危険人物」たちで、彼らに過去の「事実」を突きつけたり、あるいは、産業界や各種財団、大学に対する自らのコネを使って、彼らに新しい職を斡旋するという便宜を与えることによって、巧妙にAECから追い出していった。ストラウスのやり方はただ一つの例外を除いてうまくいったが、その例外とは、最も重要で、おそらくフーバーが最も気にしていたオッペンハイマー(23)のケースであった。
1947年3月、最初のAECがようやく軌道に乗り出した頃、フーバーはAECにオッペンハイマーの過去についてのメモを送った。それは、彼の親友や親族が共産党に関係していたとか、彼自身、共産党に献金していたというものであったが、AECはそれらを再点検した後、ストラウスの同意も得て、オッペンハイマーが安全な人物であることを再確認した。
アメリカ政府はこのきわめて著名な原子力学者を、好ましからざる人物と断定するまでは、彼の時間が許すかぎり、各種の委員会、軍事研究、政府の審議などに積極的に参加させた。オッペンハイマーはどんな場合でも原子力の軍事利用を支持し、それを拡大することを主張し、最後には水爆の開発も認めた。またある時、下院非米活動委員会で追及されている科学者にとって不利な、伝聞とこじつけによる証拠を提示したことさえあった。彼は常に権力の回廊への立ち入りを楽しんでおり、個人的な苦悩はどうあれ、公的記録ではいつもタカ派であった。
戦略空軍司令部(SAC)はすでに1949年頃からオッペンハイマーに疑念を抱いていたが、1952年秋、かねてからの「戦略爆撃」支持者ロバート・ロベット国防長官(45)が、空軍とAECとの緊張関係に憂慮を抱き、側近にその問題の調査を命じたところ、返ってきた答えがオッペンハイマーだった。「戦略爆撃」に凝り固まっていた空軍にとっては、小規模の「戦術」核兵器の開発や「領空防衛論」を唱えるオッペンハイマーはSACを壊滅させようとしている人物としか映らず、一種の偏執的な感情を抱きはじめていた。
1952年春、アチソン(26)はオッペンハイマーを軍縮に関する特別諮問委員会の委員長に任命した。バンネバー・ブッシュ(17)やCIA長官アレン・ダレスもそのメンバーで、ハーバードの若手学者マクジョージ・バンディーが事務局長をつとめるこの委員会は、核軍縮が不可能であるという結論を出して、オッペンハイマーを原子力タカ派の中で孤立無援にした。この結論は1946年のアチソン=リリエンソール案の線に沿った核兵器廃絶の道を永遠に葬り去り、以後、核兵器規制の話は、戦略兵器制限交渉(SALT)の場合と同様、すべて「運搬手段」に集中することになるのだが、そんな時でもオッペンハイマーは、アメリカの核兵器保有数を公開せよという自分の主張を盛り込んだ。この委員会の報告は、「現在のジレンマについて率直でなければ、軍備管理はつよく機能しえない」という確信の上にたっていて、すぐに「率直な報告」とよばれることになったが、それを利敵行為とみなすストラウスを憤激させることになる。
ストラウスは1945年夏にオッペンハイマーと初めて会った時、「その非凡な頭脳と人を惹きつけずにはおかぬドラマチックな個性、それに、直面する問題に対して詩的で想像力豊かなアプローチをする感性」に強い印象を受けていたが、この二人の経歴や背景、その育った境遇はまったく正反対のものであった。
ともにユダヤ人であったが、ストラウスが宗教心に富んだ貧しい靴屋の息子として生まれ、後にワシントン、ニューヨークに出て成功した、叩き上げの人物であったのに対して、オッペンハイマーは金持の家に生まれ、ハーバードで物理学を学んだ後、ケンブリッジ、ゲッチンゲンに留学するという恵まれた青少年期を過ごした。ストラウスがニューヨークで財産を蓄え、上司の娘を射止めたころ、オッペンハイマーはカリフォルニアのキャンパスで左翼思想にかぶれ、1937年にスペインで死亡した「国際旅団」の一員の未亡人に求婚していた。戦争になると、オッペンハイマーはマンハッタン計画に加わり、ストラウスは海軍に入った。ともに上司には恵まれ、オッペンハイマーはグローブズに、ストラウスはウォール街で旧知であったジェームズ・フォレスタル海軍長官に出会って昇進の道を得た。
オッペンハイマーは1943年、バークレーでフランス語の教授をしている熱心な左翼の友人ハーコン・シュバリエより、ソ連領事館との接触を打診された。彼はそれを拒否したが、グローブズには報告しなかった。そして後にそれが露見した時にも、シュバリエをかばって嘘の供述をしたが、オッペンハイマーを買っていたグローブズは不問に付した。
リリエンソールのAECの時代に、放射性同位元素の医学用輸出をめぐって、それをマクマホン法違反とするストラウスとオッペンハイマーは激しく対立した。1949年、上下両院合同委員会の聴聞会でこの問題が取り上げられたとき、オッペンハイマーは傲慢な態度でストラウスらの主張を一蹴して、ストラウスの憎しみを一層かきたてた。
しかし実際にオッペンハイマーを裏切り者と非難したのはストラウスではなくて、上下両院合同原子力委員会(JCAE)事務局長ウィリアム・ボーデン(41)であった。1953年11月7日、ボーデンは再度オッペンハイマーの過去を洗い出し、FBIのフーバーに書簡を送った。フーバーは直ちにオッペンハイマーに関する新しい資料を作成して、国防長官のチャールズ・ウィルソン(47)らに送った。GM元社長で短気なウィルソンはすっかり仰天して、ホワイトハウスに駆け込んだ。問題の核心は例のシュバリエ事件で、オッペンハイマーが1953年夏、フランスで休暇中にシュバリエと再会した事実をうまく利用したものであった。AECはオッペンハイマーに、辞任するか、あるいは査問委員会の査問を受けるように求めた。オッペンハイマーは辞任を拒否した。
聴聞会にはオッペンハイマーの友人だった科学者の多くが出頭し、彼を支持する証言をした。不利な証言をしたのはごく少数だったが、その一人にエドワード・テラー(42)がいた。彼はその証言で、オッペンハイマーを非愛国者とか裏切り者とはいわずに、あまりにも「一貫性がなくて」信頼できず、アメリカの安全保障に関わるのに必要な「英知と判断力」を欠いていると攻撃した。
1954年5月27日、査問委員会は2対1の採決で、オッペンハイマーの追放を決めた。これはアメリカで最も経験のある、最も鋭敏な原子力専門家の一人を追放しただけでなく、学界全体に恐怖を広げた。オッペンハイマーのような経歴を持つ人が安全でないとすれば、いったい、他にどんな人が自由に意見を言う勇気を持てるのだろうか。リリエンソールがトルーマン時代後期の冷戦の潮流を食い止めることが出来なかったことからその徴候を見せはじめたAECの知性の崩壊は、オッペンハイマーの「見世物裁判」と追放によって完結した。AECはこれ以後、二度と初期の虚心さを見せたことはない。この有害な遺産がやっと消滅しはじめたのは1970年代の後半になってからであるが、その間、原子力の歴史は、アメリカでも海外でも、冷戦とマッカーシズムの集団的愚行に支配された。
アイゼンハワーは、オッペンハイマーの没落を横目で眺めつつ、他方では、その「率直な報告」の内容を何とか生かしたいと考えていた。そして、1953年8月、ソ連が初の水爆を爆発させるに至って(アメリカの水爆実験は1952年11月)、その努力はにわかに緊急性を帯び、アイゼンハワーは、核兵器保有国が核分裂物質を「原子力プール」に預け、そこから平和目的に配給することは可能ではないかと思いついて、それを側近や、ストラウスに諮った。彼らはこのアイディアを、軍縮の手段としてではなく、冷戦下の宣伝の手段として評価した。それに、水爆では、分裂物質は起爆剤として用いられるだけで、その相対的重要性は大幅に低下していた。
1953年10月3日、この計画はホワイトハウスで正式に策定され、アイゼンハワーは12月8日の国連総会で、「平和のための原子力」を大々的に打ち出した。前半で、核兵器の保有状況とそのおそろしさを率直に説明し、後半で「原子力プール」の創設を希望すると述べたこの演説は、10ケ国語のパンフレットとなって世界中にばらまかれ、それに関する放送テープや宣伝用フィルムなどが次々とつくられて、あらゆる分野における原子力の平和利用というバラ色の夢を全世界に振り撒いた。しかし、「原子力プール」は結局、実現せず、演説の余波として、核物質と核のノウハウが世界中に拡散しただけであった。
【登場人物の整理】
(46) エドガー・フーバー(米):FBI長官(オッペンハイマー追放を画策)
(47) チャールズ・ウィルソン(米):国防長官(元GM社長)
第8章 「X」の力
戦争によって研究資材もスタッフも失い、占領下のフランスで孤独な苦しい闘いに耐えていたフレデリック・ジョリオ=キュリー(4)は、シャルル・ドゴールの戦後臨時政府が、広島原爆の2ケ月後に設立したフランス原子力庁(CEA)の事実上の責任者となった。彼は、イギリスの 1/10、アメリカの 1/100という乏しい資金にもめげず、研究用原子炉の建設にとりかかった。彼は平和目的の原子力にしか関心がなかったが、まもなく原子炉がプルトニウムを生産しはじめると、国内の保守派は原爆を望むようになった。
アメリカは、フランスの計画が共産主義者のジョリオ=キュリーの手中にあることに懸念を深め、さまざまな方法でフランスに圧力をかけてきたが、ノーベル賞受賞者であり、マリー・キュリーの女婿であり、レジスタンスの英雄でもある、この著名なフランス人を追放することは難しかった。しかし、そのうちに、ジョリオ=キュリー自身が、共産党への政治的忠誠と、フランスの戦後科学の復興とのジレンマに耐えられなくなり、1950年3月に、核兵器禁止を訴えたストックホルム・アピールに署名した後、はっきりと前者に傾くことによって、自らの解任の道を開いてしまった。
ジョリオ=キュリーの追放後、彼の仲間の科学者たちが次々とCEAから解雇され、マンハッタン計画の場合と同様、技術系の行政官がそれにとってかわった。もともとは鉱業専門家のために組織されたフリーメーソン的な権力集団「鉱山組」がそれである。
「鉱山組」はフランス革命後に設立され、ナポレオンによってフランス軍のための技術者を養成するように軍隊化された保守的な専門学校「理工科大学」の最優秀の卒業生たちで構成されている。
「理工科大学」は現在でも文部省ではなく国防省の管轄下にあり、全国での厳しい入学試験を経て入学した学生たちは、パリのカルチェ・ラタンの中心にある兵舎のような建物に住み、軍隊式の規律正しい生活を強いられるが、砲身を十文字に型どったその校章から、卒業生は一般に「X」と呼ばれている。
科学、論理学、数学を重点的に学ぶ彼らの多くはフランス人特有の、技術中心の、能率と進歩を信じる考えをとっており、それにプラグマチズムの考えが重なって、政治の「非能率」には我慢できないという体質があった。そんな彼らにとって、原子力エネルギーの分野とCEAの特権は、そうした考えを実践に移すための肥沃な土壌となったのである。
「理工科大学」の中でも「鉱山組」は卒業生上位10人にしか開放されていない超エリートで、彼らは長年、政府の主要部門の重要ポストと民間企業のトップの座を独占してきたが、1951年、彼らが原子力委員会を合併してのち、その指導的な地位についたのはピエール・ギヨーマ(48)であった。
彼は第一次大戦時の有名な将軍の息子だったが、家に財産がなかったため、富と権力を手にいれるため、「理工科大学」に進み、「鉱山組」の資格を得た。当初、インドシナとチュニジアで鉱山関係の勤務についたのち、フランス解放後、ドゴールに売り込んで、燃料局長の座についた。彼は正確さ、能率、スピード、根性、思慮分別を容赦なく要求する、異常なまでの行政手腕の持ち主で、その、自らの絶対的権威の下で強力な原子力産業を創設するという野望は、軍部さえもCEAに寄せつけぬほど徹底したものであった。
1954年12月、フランスの原子力政策を明確にするように求めるCEAと軍部の原爆推進派の圧力を受けた、社会党出身のピエール・マンデスフランス首相は、ギヨーマ、フランシス・ペラン(49)(ジョリオ=キュリーの後継者でCEAの科学者グループの代表)らCEA幹部を呼んで、原子力研究の現状についての報告をもとめた。その時、彼らは、即座に原爆製造に切り替えることが可能な状態であったのに、そうとは言わず、軍事向きの研究は一切していないと答えた。そしてその後の、クリスマス・イヴの日の、長い、コンセンサスの得られない会議で、マンデスフランスは結局、CEAに対して、「原爆製造の選択を残して」ひきつづき、将来役に立つ基礎研究を続けるように指示したが、ギヨーマはそれを「核兵器の原型の準備について承認」されたものと勝手に解釈して、極秘のうちに「一般研究局」という名の原爆設計部を設置し、アルベール・ビュシャレ将軍をその長に任命した。
1955年2月、マンデスフランス内閣が崩壊し、エドガー・フォール首相の率いる新連合政府への移行のごたごたに乗じて、ギヨーマとドゴール派の政治家は、原爆推進派の新しい国防・原子力省の責任者たちと秘密取り決めを結んで、三番目のプルトニウム生産原子炉に関し、国防省から秘密の資金移転を受けることに成功した。さらに5月20日、フォール内閣は長期的な電力生産計画の資金という名目で、CEAの予算を倍増することを承認したが、議会では、原爆はつくらないと言明した。
1956年初め、フォールの後継者ギ・モレは、このような秘密の原爆製造計画があることを知ってそれをやめさせようとしたが、ドゴール派の支持撤回をおそれてそれもならず、そのうちスエズ動乱が起こってフランスの軍事的脆弱さが暴露されると、原爆製造への疑念も消え失せて、ギヨーマは易々と国防省との間で新しい秘密協定を結んで、原爆実験までの軍事的時間表を定めることができた。しかし、原爆製造に対する最高水準の公式命令は依然としてなかった。
この一連のギヨーマらによる既成事実の積み重ねを正式に追認したのは第四共和制最後の首相フェリックス・ガイヤールであったが、1958年5月、ガイヤール内閣が崩壊し、1ヶ月後にドゴールが登場して、1960年2月13日にサハラ砂漠でフランスの最初の原爆が爆発した。ギヨームら「X」の力に完全に翻弄されつづけた科学者の最後の抗議として、フランシス・ペランは実験への参加を拒否した。
【登場人物の整理】
(48) ピエール・ギヨーマ(仏):官僚(仏原子力庁=CEA委員長)
(49) フランシス・ペラン(仏):物理学者(ジョリオ=キュリーの後継者)
第9章 別世界
1950年代半ばまでに、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、ソ連の5ヶ国で原子力の公式機関がつくられた。それらはたいてい6人の優秀な公務員、それも大半は科学的資格のない人たちから成る委員会の形をとり、軍事的な関連からみな「閉鎖社会」となって、民主主義社会の下での通常の「抑制と均衡」を避けることができた。
イギリスでは、チャーチルの科学顧問チャーウェル卿(34)が、同国の最高級の科学者や技術者をひきつけるために、供給省からはなれた、高給を払うことのできる新しい組織をつくった。
カナダでは、経営者から政治家に転じたクレランス・ハウ(50)が、民主主義社会で最も広範な、政府の管理になる産業帝国を築き、原子力もその一部にしようとしていた。
ソ連では、1953年3月のスターリンの死と、それにつづく秘密警察長官ラベレンチ・ベリヤの失墜により、それまであまり知られていなかった「赤いスペシャリスト」出身の技術系行政官ブヤチェスラウ・アレクサンドロビッチ・マリシェフ(51)が原子力担当者として登場した。
1951年に首相の座に返り咲いたとき、ウィンストン・チャーチルはそれまでの労働党政権による原子力計画の規模の大きさを知って驚いた。古い議会人の彼にとって、前任者たちが議会に相談なしで100万ポンドもの資金を原子力につぎこんだのは信じられないことであった。彼はアメリカがイギリスに、その核のカサの下に入ってもよいといってくるのを期待していたが、チャーウェル(34)は、「我々がこの不可欠の武器をアメリカ軍に依存しなければならないとすれば、イギリスは、補助部隊の供給しか許されない二流国家に転落するだろう」と主張した。
ドイツ生まれでイギリスで育ったチャーウェルは婿養子のような愛国心を持っており、ソ連がイギリスよりも先に原爆をつくったのが我慢ならなかった。両大戦間にドイツに戻って、「黄金時代」の物理学を学んだ彼は、計算尺や黒板よりも金持たちの応接間で過ごすことの方を好んだ人物で、上流階級の人々に複雑きわまる科学を簡明に教授することを得意とし、その点でチャーチルの信任を受けるようになった。
1951年、もっと効率的な原子力機関を設立するという目的を秘めて、チャーチルの個人的な顧問に復帰した彼は、それまでの機構で十分だとするブリッジズ卿(35)の激しい抵抗にあった。しかし、1952年10月3日、「ハリケーン」という暗号名のプルトニウム原爆がオーストラリア西岸沖の島モンテベロで見事に爆発すると、チャーウェルはそれに力を得て、精力的に裏工作に奔走し、ついに1954年、イギリス原子力公社(AEA)を誕生させることに成功した。
1965年、供給相としてカナダ下院に出席したクレランス・ハウ(50)は、「我々は原爆をつくったこともないし、これからもつくるつもりはない」と明言した。それは確かに事実には違いなかったが、カナダはそれまで、自国の重水型実験炉で生産したプルトニウムをすべてアメリカの原爆計画に供給していたのである。
ハウは、政界入りする前は「世界で最も有名な穀物倉庫の建設者」として知られていたが、1935年、自由党のウィリアム・マッケンジー・キングに誘われて運輸相になった後は、カナダ国鉄を再編し、カナダ放送局を設立し、カナダ航空の前身会社を創設するなど、次々と新しい組織をつくりだし、戦時中には軍需品供給相として、武器・弾薬の他、航空機、アルミ、合成ゴム、金属ウランなどの産業基盤を確立して、一大政治帝国の「皇帝中の皇帝」として君臨していた。
1942年2月、ドイツの猛爆撃を受けて自国での原子力研究が難しくなったイギリスが、ウラン資源と、ノルウェー以外では唯一の重水生産工場をもつカナダに原子力の共同研究をもちかけてきたとき、ハウは友人の最高科学顧問チャルマーズ・マッケンジーの助言を受けて、この前途洋々たる新産業に乗り出す決意をした。1944年4月に始まったこの共同プロジェクトには、イギリスのレーダー専門家ジョン・コッククロフト(37)の他、ジョリオ=キュリーの仲間の自由フランスの科学者たちも加わり、オタワ西方約200キロのチョーク・リバ−とよばれる小村で、プルトニウムを生産する重水型天然ウラン原子炉の建設が開始され、1945年9月に臨界に達した。
1947年7月、二番目の重水型原子炉が完成し、カナダの原子力技術は確固たるものとなったが、それには年間数百万ドルのコストを要し、カナダのもつ巨大な水力発電の潜在力からいっても、その価値はかなり疑問視されるものであった。しかし、アメリカ原子力委員会が生産されたプルトニウムをすべて買い取ることに同意したことによって、経営的な見通しがつき、ハウはその将来性を信じて、カナダ原子力公社を設立、その長には友人のマッケンジーが就任した。
1954年、ソ連は、僅か5000kwの規模(現在の原発の1/200)ではあったが世界最初の原子力発電所を建設し、モスクワ南西100キロにあるオブニンスクの町に電気を送りはじめた。このすばらしい業績をあげた責任者が、新たに中型機械製作相に就任したマリシェフ(51)である。
マリシェフの活動ぶりは、ソ連の秘密主義のベールに隠されて明らかではないが、ソ連の市民たちが彼の重要性を知ったのは1953年6月、彼が政治局の面々と共にモスクワ・オペラに突然姿を現わしたときである。その時、姿を見せなかったのが秘密警察長官のベリヤで、ベリヤはこの公演中に逮捕されて、のちに処刑される。こうして、ソ連の原子力計画はマリシェフの手に移った。
マリシェフは初期の原爆計画にも参加していたが、その正確な役割ははっきりしない。ただ、その地位は、技術畑の責任者バニコフ(31)よりは下だったようだが、ザベニャギン(32)よりは上で、しばしば技術関係の会議の司会をしていたそうである。
彼は理想家で、マルクス主義の真面目な学徒であった。1931年、彼は若い技術者として、シベリアでの水力発電の開発を熱っぽく主張した。電力はソ連の神話の中で特別な意味を持っており、レーニン自身、H・G・ウエルズに対して、共産主義を「ソビエト権力と全国土にわたる電化」と定義づけて説明していたほどであったが、マリシェフはそれを忠実に推進した人物であった。
彼はモスクワ駅で機関車の運転手として働いていた1926年に入党し、のち選ばれて、後の首相ゲオルギ・マレンコフの監督下にあったモスクワのバウマン工科大学で、将来の政府高官たちといっしょに特別訓練を受けた。1939年には閣僚に任命され、戦時中にはソ連国防産業の最高責任者の一人として、戦車生産の責任を担った。そして、スターリングラードの攻防戦では、包囲されたスターリングラードの経済面の管理を担当した。この戦いは愛国的伝承となり、それに参加した人々は後年尊敬されるようになったが、そうした中に、グリゴリー・ジューコフやニキタ・フルシチョフも入っていた。
ベリヤとその秘密警察の監視がなくなったことにより、マリシェフの原子力計画は大幅に拡大され、原子力潜水艦の開発なども進められたが、とりわけ大きな部分を占めたのは、レーニンの言葉を実行に移す原子力発電の計画であった。原爆実験成功後、科学者のスポークスマン役であるクルチャトフ(11)はあらゆる型の原子炉の研究を推進し、最初に完成したのが、1948年の最初のプルトニウム生産原子炉の後裔にあたる、黒鉛を減速材に使用したオブニンスクの水冷式原子炉であった。以後、1958年に、発電とプルトニウム生産の両用の重水型原子炉がシベリアに完成し、まもなく、ソ連は新しい「原子力の世紀」にむけて、自国の原子力計画を再編、強化し、中型機械製作省から「原子力利用中央評議会」という新しい部門をつくった。
【登場人物の整理】
(50) クレランス・ハウ(加):実業家(カナダの原子力産業を創設)
(51) ブヤチェスラウ・A・マリシェフ(ソ):官僚(原子力担当者)
第10章 提督
1950年代半ば、アメリカから全世界に伝染病のように広がった原子力利用の熱病は、発電、航空機、船舶、食料保存、汚物の消毒、ガン治療など多くの分野にバラ色の幻想を振り撒き、核兵器による人類絶滅の恐怖や、核実験による放射能被害への警戒感を圧倒する勢いであったが、アメリカ海軍のハイマン・ジョージ・リコーバー大佐(52)にはそのような浮かれた幻想はひとかけらもなかった。
アメリカ原子力産業の誕生に実際の力を振るったこの男の頭にあったのは、原子力は海軍を救うことができる、原子力はアメリカを救うことができる、の二点だけであった。即ち、第二次大戦後の空軍力優位の中で、海軍に残された可能性は、燃料補給基地に依存することなく長期間潜水したままで、、敵の攻撃にさらされることの少ない「原子力潜水艦」であり、また、アメリカも、原子力革命の中でその威信を守り、化石燃料が枯渇したときの代替エネルギーを獲得するために原子力を必要としていた。
ドイツでウランの核分裂に成功したというニュ−スが1939年にアメリカに届いて以来、アメリカ海軍実験研究所の物理学者たちは世界最初の原子力潜水艦の建造を夢見ていた。従来の潜水艦はディーゼルエンジンを動かすための酸素を必要とする関係上、ほとんどの時間、海面上を航行しなければならず、潜水するときは電池を使い、再充電が必要となるまでのごく短い距離しか水中を航行できなかった。
しかし、マンハッタン計画を管理しているのは陸軍で、海軍は戦後、原子炉の開発状況をみるため代表団をオークリッジに送るようにという招請を受けるまで、実質上、原子力問題から排除されていた。そしてそれ以後も、戦争が終わって減額された軍事予算では、原子力潜水艦開発に要する巨額のコストは賄いきれそうもなかった。そんな中でリコーバーだけは原子力潜水艦開発の確信を失わず、原子力に対する知識、立身出世の意欲、そして権力掌握の野心に支えられた凄まじいまでの執念で、部下を、時には恫喝しながら、叱咤激励して、原子力潜水艦の建造を推進させていった。
また彼はウェスチングハウス社と結んで、現在では最も一般的なタイプとなっている軽水型原子炉を採用して、1954年1月21日に、ジュール・ベルヌの空想船に因んだ初の原子力潜水艦「ノーチラス号」を進水させるとともに、1957年、ペンシルバニア州シッピングポートで操業を開始したアメリカ最初の原子力発電所をつくった。
リコーバーは1900年、ポーランドのユダヤ人家庭に生れたが、6才の時、彼の家族はニューヨークに移住してきた。彼の父は裸一貫から働きとおして小さな財を築いた人物であったが、リコーバーも高校を卒業するまでアルバイトに追われ、19才のとき、地元議員の援助を得て、やっと海軍兵学校に入ることができた。兵学校では、彼は熱意のない学生であったが、それは海軍の中に隠然と存在するユダヤ人排斥の気風のためであったのかもしれないし、海軍に入って潜水艦勤務の資格を取得し、「技術専任」将校の任命を申請したのも彼の屈折した心理の反映であったものと思われる。
1939年6月、彼は全海軍艦艇の設計、建造、修理を担当する、ワシントンの艦船局勤務を命ぜられた。そこで彼は徹底して無駄を省く設計監理を行って、出入り企業を震え上がらせたが、これは彼が後年、原子力潜水艦建造にあたって持ち込んだ管理スタイルの芽生えであった。
1946年、オークリッジで原子力のコースを歩みはじめ、1948年、正式に海軍原子炉の責任者に就任したリコーバーは、最初の原子力潜水艦の進水期限を自ら、1955年1月1日と設定し、それに向けて民間請負い業者に技術上の完全を徹底的に要求した。彼はまた同時に、AECの海軍原子炉部長にも就任し、この二つの地位を巧みに使い分けて、繁雑な官僚的形式主義を排し、また時にはそれを逆用することによって、原子力潜水艦建造に向けての環境を整備し、そして自分自身の権限をも強めていった。
戦後まもなく、AECは原子炉研究を、アーサー・コンプトン(21)のシカゴ大学グループの後身であるアルゴンヌ国立研究所に集中しようとした。リコーバーは1500気圧の沸騰しない普通の水を減速材と、炉心を冷やす冷却材の両方に使用する『加圧水型原子炉(Pressurized Water Reactor=PWR)』を、その研究スタッフの力量を見込んで採用しようとしていたが、アルゴンヌ研究所の科学者たちはそれに批判的であった。またAECもリコーバーがPWRを自由に支配することに警戒的であったが、1949年のソ連原爆によってそれらは完全に吹っ飛び、リコーバーは昇進以外は、欲しいものは全て手にいれることになった。
リコーバーはこのような重要な任務の責任者の地位にありながら、社交や、上司への全面服従をきらう、スペシャリスト的な偏屈さのために、対人関係での衝突が絶えず、そのことが彼の昇進をいつも妨げてきた。しかし、退役が迫ってきたとき、彼はそれを拒否し、議会に支持を求めた。それを助けて、彼を少将に昇進させる中心的な役割を果したのは、JCAEの最初からの委員で、下院から上院に移ったばかりのヘンリー・“スクープ”・ジャクソン(44)であった。リコーバーは議会の聴聞会では、はきはきと、簡潔で率直で的を射た証言をすることによって、自信と、時には傲慢ささえ滲ませながらも、全般的には正直だという印象を与えることに成功した。彼は、監視役という議会自身のイメージにおもね、それが議会側の好感を誘ったのだが、しかし、議員たちは何にもまして、リコーバーこそ多くの将校や高官たちの中で見事にその仕事をやり遂げた人物であることを承知していた。
リコーバーはまた、航空母艦用原子炉システムを構想し、1950年にはその技術的設計を行うチームを持っていたが、空母は現代の戦争では攻撃を受けやすいことから、アイゼンハワー政権の支出削減公約とも相俟って、1953年4月、その計画は撤回された。しかし、その原子炉にはすぐに民間用に転用する道が開けていることがリコーバーにはわかっていた。潜水艦用の原子炉を開発したウェスチングハウス社が発電用原子炉の建設にすこぶる熱心だったからだ。
この頃、ソ連は自分たちが発電用原子炉をほぼ完成したと主張し、イギリスも1956年までに全国に電力を供給する原子炉の運転を開始しようとしていたため、アイゼンハワーの「平和のための原子力」演説を準備していたアメリカにとって、発電用原子炉を早急に建設することは国威にかかわる問題であった。
そこでストラウス(38)に推薦されて、凱旋将軍のように登場したリコーバーは、アイダホ州の実験ステーションでウェスチングハウス社製の潜水艦用加圧水型原子炉(PWR)のモデルをデモンストレーション運転して、AECの契約をかちとることに成功した。そして1954年9月6日、オハイオ州シッピングポートにアイゼンハワーを迎えて、PWR発電用原子炉の起工式が行われ、その原子炉は1957年12月、6万kwの原子力発電を開始した。その結果、ウェスチングハウス社は新しい製品ラインにPWR型原子炉を付け加えることになったが、それはまたリコーバーのウェスチングハウス社内での新しい支配力の確立をも意味していた。
ウェスチングハウス社はライバルのゼネラル・エレクトリック社(GE)のような才能や独創性を持っておらず、いつも、あらゆる面で「ナンバー2」に甘んじているようにみえたが、信頼性の高い「技術会社」として知られていた。そしてGEみたいに経営者を絶えず交代させることはせず、トップ経営陣は何年も同じ部署に留まっている傾向があって、原子力部門でも、チャールズ・ウィーバー、ジョン・シンプソン、ジョセフ・レングルの三人が、その後30年間にわたってトップの地位を占めつづけた。この三人は船舶用原子炉の開発の時からリコーバーと深く関わっており、いわば「リコーバー・スクール」の優等生であった。
リコーバーは彼らに対して常に絶対の従順を求め、のちにシンプソンがウィーバ−に代わって発電用原子炉担当の副社長に就任した際に、アメリカ航空宇宙局(NASA)のために原子力推進ロケットを研究する「航空原子力研究所」の設立を決定すると、激怒して、自分の息のかかった要員がNASAに移るのを拒否した。そしてシンプソンがそれにもかかわらず、計画を強行するや、リコーバーは最新型原子力潜水艦用原子炉に関わる契約を一方的に破棄し、それをGE社に与えた。しかし、ウェスチングハウス社はすでに何百人もの原子力技術者を持っていて、リコーバーの怒りにあっても十分に耐えられる、強大な原子力帝国を築き上げていた。シッピングポートの原子力発電所が従来の火力発電の10倍ものコストが掛かっていても、もっと大型のPWR原子炉を建設する認可と政府援助を、直接、AECからとりつける実力を持っていた。これまで常に「ナンバー2」に甘んじてきたウェスチングハウス社は、原子力開発のおかげでトップの座を獲得する機会を手にいれたのである。
その間、ライバルのGE社も手をこまねいていたわけではない。戦争終了直後、GEは、同社の原子力研究所をつくる資金をAECが提供するという条件で、ハンフォードにあるプルトニウム生産原子炉の運営責任を引き受けることに同意した。そしてその新しい研究所は、ニューヨーク州北部のスケネクタディのGE本社の近くに建設された。
当初、GEの計画は科学者たちが支配しており、彼らは、プルトニウムを燃料とし、消費するよりも多くのプルトニウムを産出する「高速増殖炉」の研究に重点を置いていた。リコーバーはそれよりも、潜水艦計画の絶対的優先を要求し、また、技術者ではなく科学者に計画を管理させるという、GEの基本姿勢にも反対だったので、両者は鋭く対立した。しかし、1950年、高速増殖炉の開発は技術的困難に直面し、GEはやむなくリコーバーとの話し合いに応じて、海軍の契約を受け入れた。そして冷却材として、水ではなくナトリウムを使う潜水艦用原子炉1基(1954年7月21日、これを搭載した原子力潜水艦第二号「シーウルフ号」が進水)をつくったが、GEは、ウェスチングハウスのように、その研究所をリコーバーのお気に入りの計画だけを行う、単一目的の機関として使われることは許さなかった。
一方、アルゴンヌ国立研究所では、科学者たちがもう一つの軽水原子炉である「沸騰水型原子炉(Boiling Water Reactor=BWR)」の理論研究に従事していた。BWRは冷却材および減速材として普通の水(軽水)を使う点ではPWRと同じだが、PWRとは次の二点が違っている。即ち、(A) 水を加圧せずに炉心を囲む容器内で沸騰させるため、容器は高圧に耐える必要がない。(B) 炉内で発生した蒸気をそのまま発電機を動かす動力として使用するので、蒸気発生器は要らない。事実、その構造はPWRよりも単純で、建設費も安かった。
GEはこのBWRという新しい技術を開発しようと、政府の補助をはねつけて、カリフォルニア州サンノゼの近くに新たに研究所を設立した。1903年にGEの最初の発電用蒸気タービンを注文した実績のある、シカゴのコモンウェルス・エジソン社を中心とする電力会社コンソーシアムが早速、この新型原子炉に関心を示した。GEはコンソーシアムに、最初に決めた価格で発電所の建設と初運転までの全責任を負う「固定価格契約」(後に「ターン・キー契約」と呼ばれるようになる)を提案したが、この契約方式は10年後、国内の電力会社に原子力発電所を売り込む際の重要な要素となった。
GEの最初のBWR原子炉「ドレスデン1」は1959年10月15日、20万kwの電力供給を開始したが、それは世界で最初の大規模な、民間資金による原子力発電所であった。すでに政府出資のシッピングポートのPWR発電所は二年前に完成しており、また、BWRの開発コストをそっくり負担することはGEにとっても大きなリスクであったが、このBWRの完成によって、GEは原子力事業の分野でも「ナンバー1」の地位を取り戻したのである。
【登場人物の整理】
(52) ハイマン・ジョージ・リコーバー(米)海軍軍人(原子力潜水艦開発。加圧水型原子力発電所建設)
第11章 永遠の泉
1955年は、8月にジュネーブで国連主催の第1回「原子力平和利用国際会議」が開かれて、「平和な原子力」にとって画期的な年となった。
冷戦が始まって以来はじめて東西両陣営(全世界73ヶ国)の科学者が集まったこの会議では、アメリカはパレデナシオンの敷地に小型の運転炉をつくって大々的なPR活動を行ったが、驚いたことに、そこにはソ連の科学者たちもつめかけて、気楽にお互いの研究の秘密を語り合うなど、大いに打ち解けた、解放的な雰囲気が醸し出されていた。期間中は、発電から汚物の殺菌に至る「平和な原子力」に関する記事が連日、世界中の新聞の第一面を飾り、また、それまで供給不足と考えられていたウランの新しい資源が世界中で発見されるなど、核分裂の将来は完全に保証されたように見え、放射線の危険(低レベルでも危険である)や、発電用原子炉から生れる有毒廃棄物の処理問題(後にこれは原子力を苦境に追い込む問題となる)は脇に押しやられてしまった。
イギリスとフランスは、炭酸ガスを冷却材、黒鉛を減速材に使った原子炉を、アメリカとソ連は、最初海軍で推進力計画に利用した加圧水型原子炉を初期の民間用原子炉として選んだ。
イギリスはジュネーブでクリストファー・ヒントン(38)が、ガス冷却原子炉の方がアメリカの軽水型よりも安全で、より信頼できると主張した。ガス冷却炉は確かにコストが掛かり、高度の技術を必要とするが、副産物のプルトニウム(原爆用のほか、将来開発されるであろう高速増殖炉に利用できる)がそのコストを相殺するというのである。イギリスはこの時、10年以内にガス冷却炉を12基建設し、1975年までに全電力の半分を原子力にするという具体的な目標を設定しており、1956年5月にはコールダーホールの1号炉が完成して、原子力による電力を全国規模で送電した最初の国となった。
1955年10月、国連で「原子力平和利用に関する決議案」が可決されて、「国際原子力機関(IAEA)」が設置され、西ドイツ、日本(12月)、ベルギー、イタリア、スペイン、ブラジル、アルゼンチンの各国が原子力委員会を設立して、“今、原子力のバスに乗り遅れたら、永久に置き去りにされてしまう。慎重論を唱える者は非愛国的だ。”という空気が全世界を支配した。
ジュネーブ会議後の原子力輸出市場争奪戦は最初、イギリスとアメリカで争われた。1950年代末までにウェスチングハウス社がベルギーとイタリアに軽水炉を各1基、GE社も西ドイツ、イタリア、日本に各1基を販売、イギリスのGE社は日本にガス冷却炉を1基、同じくニュークリア・パワー・プラント社はイタリアに1基を輸出した。
こうした原発熱はたちまち世界中に広がったが、中でも最も熱心だったのは第二次大戦の二大敗戦国である西ドイツと日本で、その次がインドであった。しかし、西ドイツと日本がこの時期に原子力計画を開始することは、乏しい資源を無駄に配分するという点で明らかに時期尚早であったし、インドに至っては国家的悲劇とさえなった。
戦時中、ドイツ屈指の巨大化学コングロマリット、I・G・ファルベンの「皇太子」といわれたカール・ウィナッカー(53)は、第一回ジュネーブ会議での技術的興奮が覚めやらぬうちに、当時彼が会長を務めていた化学会社ヘキストの指導的技術者たちに電話して、直ちにジュネーブに来て新技術を学びとるように命じた。出品されたいくつかの展示品、とくにアメリカの運転炉に深く感動したウィナッカーは、西ドイツ独自の原子力産業の誕生にかけた衰えることのない情熱により、のちに「西ドイツの原子力の法王」という称号をたてまつられるのだが、西ドイツの原子力産業はやがて、軍事計画に支援されていない国の核技術開発では最先端を行くまでに成長した。
ジュネーブ会議で西ドイツは、1930年代に「黄金時代」を誇った同国の原子力の成果が今や失われてしまっていることを今更ながら痛感した。新聞はそれについていろいろと書き立て、それが圧力となって、アデナウアー政府は原子力産業を育成するために、国家資金を配分する「原子力問題省」、それを実際に使う「原子力委員会」、それに別の規制機関として「原子炉安全委員会」の三つの機関を創設した。
原子力委員会にはウィナッカーの他、核分裂の発見者であるオットー・ハーン(2)、州政府の代表であるレオ・ブラントがいたが、ウィナッカーはすぐに最大の実力者にのし上がり、原子力委員会を意のままに動かして、カールスルーエに新しい原子力センターを設立し、その主要ポストに自分の友人や仲間を配置した。カールスルーエの初代所長にはヘキスト社から送り込まれた技術者出身のゲルハルト・リッターが就任し、原子炉安全委員会の運営には、同じくヘキスト社の主任技術者で、学生時代からの友人であるヨーゼフ・ウェングラーが当たった。
プロテスタントの中でも最も偏狭で、厳格で、頑固な一派の中心地であった、北ドイツのブレーメンで生まれたウィナッカーは、ドイツ産業界の成功者の典型であった。謹厳で、超然として、規律にうるさい彼は、「プロセス・エンジニアリング(新しい化学製品を工場規模で生産する技術)」の最初の専門家の一人であったが、この分野は化学と物理学と技術の合流する境界的な分野で、その点、原子力の開発と似たところがあった。
彼は戦時中のI・G・ファルベンとの関係から、戦後は非ナチ化の命令を受け、自宅で化学技術の論文を執筆するぐらいのことしか出来なくなったが、1952年、I・G・ファルベンの再編成計画が実施されたとき、その三つの後継会社の一つであるヘキスト社の経営委員会に復帰することを許された。彼はまもなくその委員長となり、ヘキスト社がI・G・ファルベンの遺産の大半を相続できるよう取り計らうことに成功した。これらの三社はいずれもその後、主要な多国籍企業に発展し、ヘキスト社はやがて世界最大の化学会社に成長した。
将来の産業における原子力の重要性に早くから気付いていたウィナッカーは、すでにジュネーブ会議の前に、西ドイツの主要産業を「物理研究協会」というグループに組織化していたが、この団体こそ、原子力研究に対する産業界の支援を取り付ける第一歩となったものである。その後20年間にわたって、政府と民間投資家は200億マルク近くの資金を注ぎ込み、13種類の違った型の原子炉が調査された。その目的は、すでに確立された技術であるアメリカの軽水炉やイギリスのガス冷却炉に依存しない独自の方式を開発することであった。
最初、重水型原子炉が西ドイツの独自性を短期間に確立する最善の方法のように思われた。この方式は天然ウランを使用するので、アメリカの濃縮工場からしか手に入らない濃縮ウランを使う必要がなかったし、また、重水については、ヘキスト社が戦時中にその技術を開発していた。しかしウィナッカーは長期的な独立のためには高速増殖炉の開発がどうしても必要だと考え、ヘキスト社の経営陣や株主に対して十分な投資価値があることを保証して、その研究に当たらせた。
かつて化学が20世紀前半の産業制度を変えたように、20世紀後半は物理学が原子力を通じてまちがいなく産業構造を変えるとウィナッカーには思われた。彼の核技術に対する理解がそう信じさせたのだが、日本でウィナッカーに相当する正力松太郎(54)にはそのような素養はなかった。しかし彼は優れたギャンブラーで、彼には原子力こそ50年代半ばでの絶対的な賭けにみえたのである。
正力松太郎は大変なやり手で、「日本のプロ野球の父」「日本のテレビの父」「日本の原子力の父」など多くの分野で華々しい偉業を成し遂げたが、とくに核エネルギーに対する熱意は彼のそれまでの目覚ましい経歴の頂点を成すものであった。
彼の祖父は橋づくりを専門として、一介の庶民から下級武士にとりたてられた人物であったが、彼の父は田舎町の平凡な技師で終った。日本では、官界に進むのが、家柄や財産のない若者が社会的に出世する数少ない道であるが、正力も、官界エリートの中心的訓練場である東京帝国大学法学部を卒業して、1913年に東京警視庁に入った。そこで彼は、偽牧師による大量殺人や朝鮮王室一員の暗殺など、数多くのセンセーショナルな犯罪事件を手掛けて頭角をあらわし、また、米騒動、選挙権デモ、学生暴動を見事に鎮圧して政治指導者の注意をひき、1921年、日本国内の政治情報を握る中心ポストである警視庁警備部長に任命された。そして、1924年、当時の皇太子裕仁狙撃事件の警備責任を問われて辞職を余儀なくされたが、その時までに彼は財界や有力者の間に十分な影響力を蓄えており、経営不振の読売新聞を買い取る資金を工面することができた。
新聞経営者としての正力は、日本独特の新聞配達制度の下での激烈な販売競争に勝ち抜くために、新聞販売店をがっちりと握ることに腐心したが、美術展の開催や火山探検など話題を呼ぶ催し物の企画にも腕を振るい、中でもスポーツ関係の興行は大成功した。1934年に正力が東京にベーブ・ルースらを呼んだとき、銀座でのパレードには100万人もの人々が見物に押しかけた。また、神宮球場で、日本のプロ野球チーム・東京ジャイアンツとの試合が行われたため、明治天皇を記念した球場を汚したとして、右翼分子に襲われて、2ヶ月の重傷を負ったこともあった。
第二次大戦中は「大政翼賛会」の指導者の一人となり、1944年には天皇によって貴族院議員に任命された正力は、終戦後、A級戦犯に指定され、追放令を受けて、いかなる公職にも会社の役職にも就けなくなった。しかし、追放解除後、正力は国会議員となり、旧友の鳩山一郎の率いる自由党に入った。そして鳩山が政権をとって、閣僚の椅子を勧められると、彼は自ら、原子力担当相を選び、1956年1月に発足した「原子力委員会」の初代委員長となった。
彼は自分の新聞の主催でアメリカから原子力の専門家を呼んで、新しい原子力時代について講演させたり、アメリカから融資を受けて「平和のための原子力」展を開いたりする一方、財界首脳に働きかけて、1956年3月、既存の民間原子力調査機関を結集した「原子力産業会議」を発足させた。
正力は手っ取り早く日本の原子力開発体制を固めるため、歴代の日本の指導者と同様、外国の技術を輸入し、それを模倣する方式をとろうとしたが、原子力委員会の少数派と、日本科学界の大多数は、独自の研究を進めるように求めた。正力は自費で東京に呼んだAEA産業部長クリストファー・ヒントン(38)の助言を受けて、その年5月にコールダーホールで完成したガス冷却原子炉に傾いていた。日本の科学者たちは、炉心のまわりに溜まる黒鉛の固まりは、イギリスでは認められても地震国の日本ではとうてい受け入れられないと主張したが、正力はそれを押し切った。発足当初から原子力委員をしていたノーベル賞学者の湯川秀樹は、正力の強引さと仲間の科学者たちの反対との板ばさみに嫌気がさして、1956年4月に辞意を表明、翌年3月に原子力委員を辞任した。しかし正力によって導入されたコールダーホール型ガス冷却炉は当初見積もりよりも建設に時間がかかり、多くの費用をついやして、そのため日本は苦しい経験をしなければならなかった。
ウィナッカーと正力が、西ドイツと日本でいかに性急に原子力開発を推し進めようとしたとしても、それは少なくとも既に工業基盤を持った国でのことであったが、インドにはそのような基盤さえなかった。ジュネーブ会議でも、イギリス代表のコッククロフト(37)が「原子力は、開発途上国にとっては必ずしも繁栄をもたらす魔法のカギではない」と警告したが、インドの原子力計画の創設者であるホミ・バーバー(55)はそれを無視した。
ヨーロッパで原子物理学を学んだバーバーは、外国の支配と経済的後進性のために何世紀も遅れをとった祖国が、独立後、それを取り戻すには科学技術しかないと考え、姻戚関係にあるインド最大の工業帝国の所有者タタ一族の援助を受けて、原子力研究所を設立した。そして、1948年に、アメリカ、フランスにつづいて、早々とインド原子力委員会が設立されると、その委員長に就任し、1966年に死去するまでその地位にあった。
バーバーと同じ様に貴族の家に生まれ、ケンブリッジで学んだ首相のネールは科学の進歩の信奉者であったが、インド原子力委員会はそんなネールの政治的保護の下で、民主政治の管理を受けず、政府の他の省からも何の疑問も持たれずに、1970年代末まで秘密裏に活動することができた。そして、1956年8月にはインド最初の国産原子炉が完成したが、それはアジアで自力でつくられた最初の原子炉でもあった。
インドのエリートたちは、中国の場合と同様に、自分たちの栄光ある古代文明と近代以後の救い難い後進性とのギャップに悩んでおり、それを埋める「進歩の近道」「大躍進の魔法」としての原子力に大きな期待をかけていた。インド固有の技術による理想社会、小さいことは良いことであるというガンジーの思想は、インドの工業化を目指すネール政府によって、徐々にないがしろにされていった。
バーバーは、エリートたちのこんな雰囲気の中で、超愛国者のイメージを作り上げることに成功したが、彼がどこまで本当に国家の独立や主権に忠誠で、科学者あるいは科学行政官としての誇りを持っていたのかは疑わしい。結局、彼の本心は、最初は創造的科学者としての、次には、インド独自の大規模な計画を精力的かつ立派にやり遂げる行政官としての名声を確立することだけが目的の個人的エゴイズムにあったのかもしれない。
バーバーの原子力推進の基礎となったのは、主として、インドが世界最大のトリウム資源を保有しているという事実であった。トリウムは一定の条件下で原子炉の燃料として使うことができる。彼はトリウム資源をインド千年のエネルギー独立の基礎にしようと、世界中がウランに努力を集中しているときに、トリウム原子炉につながる長期的な戦略を採用した。それは、まず、天然ウランを使った原子炉でプルトニウムを生産し、このプルトニウムを、炉心のまわりにトリウムのブランケットを置いた高速増殖炉内で燃焼させれば、分裂性のU233 ができ、これがトリウム増殖炉の燃料になるというものである。
この計画は当初はヨーロッパの識者によって称賛されて、インドの科学者と技術者は国際技術開発の最先端にいるという誇りを感じていた。しかし、1955年末に、当時の指導的なエネルギー経済の専門家のI・M・D・リトルが、その経済性に欠陥があると指摘し、1958年には、フランスのフランシス・ペラン(49)が「途上国では、伝統的な方法による工業化段階を通り過ぎるまでは、核技術を利用することはできない」と結論づけるに至った。
【登場人物の整理】
(53) カール・ウィナッカー(独):実業家(西独原子力の法王)
正力松太郎(日):政治家(讀売社主。初代原子力委員長)
(55) ホミ・バーバー(印):科学行政官(インド原子力の父)
第12章 「AECは何をしているのか」
1951年1月29日、湖岸の町、ニューヨーク州ロチェスターに大雪が降り、同地のイーストマン・コダック社のフィルム工場のガイガーカウンターが狂ったように鳴り始めた。コダックの幹部はすぐにそれが1500マイル以上離れたネバダ州の新しい原爆実験場からの降下物ではないかと考えた。というのは、1945年、ニューメキシコ州で最初の原爆の爆発があった時、実験場から1000マイル離れたインジアナ州ウォーバシュ川に放射能粒子が「雨と一緒に流れ込んで」、フィルムを包装するために使うボール紙を汚染し、フィルムが使いものにならなくなったことがあったからだ。コダック社は業界団体の全米写真製造業者協会に苦情を申し入れ、協会はAECに、「一体何をしているのか」と詰問する電報を打った。
戦後まもなくの原爆実験は太平洋上のマーシャル群島(ビキニ、エニウエトク)で合計4回行われたが、朝鮮戦争中にトルーマン政権は、国家安全保障上の理由から、アメリカ大陸に実験場を確保する必要を感じ、ネバダ州の人里離れた砂漠地帯が選ばれて、1951年1月27日から2月6日までに5回の戦術核兵器の実験が行われていた。
コダック社は最初、政府に損害賠償を求めようとしたが、そのかわりに、特権的な情報を得ることで折り合った。つまり、AECは、それまでの秘密政策から離れて、コダックに対して、新たな実験を行う際には、あらかじめ、大量の放射能が降下するおそれのある地域を示した、極秘の降下物地図を送ることになったのである。しかし、ロチェスターのコダック工場よりももっと直接的に降下物の影響を受けるネバダ州やユタ州南部の住民たちには、そのような特権は全く与えられなかった。
1950年代、AECは、公益(即ち、世界を共産主義の進出から守るということ)のために働いているという強い感覚を持っており、兵器の実験に当たる原子科学者の一部と違って、放射能の拡散に対する道義的呵責は全然なく、国家の安全保障は公衆衛生よりも優先すると考えていた。
むしろAECは国民に、月1回、時としては4回行われる、砂漠での大爆発を祝うように奨励した。事実、ネバダ州やユタ州の住民にとって、原爆のキノコ雲はすばらしい見世物であり、危険に賭ける「チャンスの町」ラスベガスでは、しばしば窓ガラスを壊すその爆風を歓迎しさえした。
しかし実際には、実験の数時間後にAECの検査官がガイガーカウンターを持って測定にやってきた時、きわめて多量の、原子雲から降下した埃の粒子が、地上や車の屋根にたまっていることがあった。住民たちは室内に留まっているよう警告されたが、同時に、何の危険もないとの保証も出された。
AEC自身、降下物についてそれなりの心配をし、ネバダを実験場とする以前の1949年春にオークリッジでもたれた研究会で、降下物質の中では、プルトニウム、ストロンチウム90、イットリウム90が最も危険であるとの推定を下していたが、その報告は全く公表されなかった。
低レベルの放射線の影響については当時、ほとんど解明されていなかったため、AECはそれをよいことに国民に安全を保証しつづけ、ネバダの実験による降下物にさらされた人々に対して、健康診断も強制的な隔離も行わなかった。こうした状態は1963年の「部分的核実験停止条約」ですべての実験を地下で行うことが義務付けられるまでつづいたが、それまでに、アメリカは183回、ソ連は118回、イギリスは18回、フランスは4回(フランスは条約に調印しなかったので、その後もつづいた)の大気圏核実験をしていた。
1970年代末になってやっと、ネバダ核実験の初期の降下物に関する報告が公表され、その放射能の影響の全容が明らかになり始めたが、情報が出てきたのはアメリカからだけで、ソ連、イギリス、フランスは実験に関するデータを一切公表せず、今日でも何もわかっていない。なかでもイギリスは、熱烈なイギリス贔屓で、「大英帝国」を固く信じていたロバート・メンジスが1952年から56年まで首相をしていたオーストラリアの全面的な協力を得て、西海岸沖のモンテベロ島と、後にはオーストラリア中部の砂漠で核実験を行ったにもかかわらず、それによる放射能の影響については何も発表されなかった。
1895年、ドイツ人科学者、ウィルヘルム・コンラッド・レントゲンは光線と違って、黒い紙を通り抜けられる目に見えない線を発見した。彼はこの魔法の線が何であるかわからないので、X線と名付けた。その直後、フランスのアンリ・ベクレルが、同種の透視線がウラン化合物からも出ていることを発見した。この奇妙な現象を「放射性」と名付けたキュリー夫妻は、その後、放射性ラジウムを発見した。ところがある時、ベクレルが数日間、チョッキのポケットにラジウムの入った小さなガラス瓶を入れて持ち歩いていたところ、自分の皮膚が焼けているのに気付いた。
レントゲンがX線を発見してから2年後の1897年3月までに、すでに69件の、X線による生物損傷が記録されていた。ドイツのある研究者は、X線を常時照射された二十日鼠が白血病になることを発見した。また、別の研究者は、X線照射を受けた人から94例のガン腫瘍を報告したが、そのうちの50例は放射線学者自身のもので、67才で死亡したマリー・キュリーの死因も白血病であった。
初期の未熟な装置から発生するX線はエネルギーが低かったので、その影響はすぐにはあらわれず、そのため研究者たちはX線の照射を受けることをあまり気にしなかった。だから当然、一般の人々もそうであって、1920年代には、イボやニキビや不要な毛を取り除くためにX線照射をする美容院が大繁盛し、また、ラジウムも新しい魔法の薬として、関節炎、痛風、高血圧、神経痛、糖尿病などの治療に、注射や内服薬として多用された。
放射性物質は崩壊ないしは分裂の状態にあって、それが完全に安定するまで、線や粒子を放出しつづける。その粒子にはアルファとベータの二種類があり、透過能力が最も弱く、紙一枚で止めることができるものをアルファ粒子、もっと透過能力が強く、薄いアルミ板で止めることができるものをベータ粒子と呼んでいる。その他に、X線と同じ強度を持つガンマ線があり、この透過能力はきわめて強くて、鉛のような密度の高い物質でなければ止められない。これら三つはイオン化能力を持つ放射線で、それが物質中を通過する過程で原子をイオン化し、一定の作用を起こすエネルギーを発散する。
アルファ粒子とベータ粒子は人体を透過できない(少くとも、皮膚の奥には通らない)ので、初めは、有害なのはガンマ線だけだと考えられていた。しかし、アルファ粒子とベータ粒子を出す物質は、食べ物などを通じて体内に摂取される。これらによる人体内の損傷が初めて明らかになったのは、時計の文字盤に発光ラジウム塗料を塗っていた婦人労働者たちの悲劇からである。
ラジウムは暗闇の中で光り輝く。1915年、アメリカの開業医で素人画家のサビン・フォン・ソコッキーは発光ラジウム塗料の製法を考案し、ニュージャージーに、ラジウム・ルミナス・マテリアル社を設立した。この工場では、腕時計の文字盤のほか、電灯用スイッチ、十字架像、第一次大戦中の航空機用計器盤などたくさんの仕事があって大いに繁盛し、250人もの婦人労働者を雇っていた。
彼女らは細密な線を引くために、塗料を湿した筆の先をなめて整えてから線を引くように教えられていた。なかには、ラジウム塗料があまりにもきれいだったので、自分の歯に塗って、暗闇の中でも輝くようにする者もいた。その結果、彼女らは知らず知らずのうちにラジウムを飲み込んで、1924年に地元の監察医がその危険性に気が付くまでに、9人が死亡していた。ラジウムは骨の中にとどまり、破壊的な放射性アルファ粒子を放出して、徐々に骨を蝕んでいたのだ。
彼女らは会社を訴えて、裁判を起こした。しかし、その裁判中にも次々と犠牲者が死亡して、この事件は国際的な反響を巻き起こした。パリのマリー・キュリーや、新しく発刊された「タイム誌」が彼女らを支援したが、125万ドルの賠償請求は認められず、結局、1人1万ドル、年600ドルの年金を支給することで示談が成立した。
放射線を測る尺度として、保健物理学者たちは、最初、ガンマ線の破壊力、即ち、一定のガンマ線を一定時間照射した際、一つの原子からどれだけの電子を放出するか、を示すレントゲンという単位を用いた。イギリスの放射線専門家たちは1920年代に、X線やラジウムを扱う労働者が放射能に曝される一日の最高限度を設定しようとしていたが、1925年に「国際放射線防護委員会(ICRP)」という団体が設立され、1934年になってやっと、それを一日あたり0.2レントゲンとするという基準を発表した。
アメリカは1936年に、この基準を0.1レントゲンに半減させたが、それはラジウム塗装女工事件の結果であった。またそのおかげで、マンハッタン計画では、遠隔操作装置、埃分散装置、排気浄化装置などの設置が認められ、何千という労働者が大きな危険から免れた。
しかし、それとは対照的に、アラモゴルド実験の周辺住民に対しては、その70倍以上に当たる一週間50レントゲンの基準が設定され、また、降下物の通り道には1000人の牧畜農民とインディアンの一種族200人が住んでいたにもかかわらず、実験の秘密を守るため、避難措置などは一切講じられなかった。実験当日、30マイル平方の周辺区域で測定された放射線量は1時間で35レントゲンに達したが、住民たちは何も知らずに、放射能雲が通り過ぎるのを眺めていただけであった。
戦後になると、X線、ラジウム以外に何百という人工同位元素が登場し、ヨード131、ストロンチウム90、炭素14、プルトニウム239などが放射線防護問題の中心となってきた。
アメリカの保健物理学者たちは、マンハッタン計画での新たな経験により、たちまちICRPの有力勢力となったが、彼らを指導したのは、戦時中、プルトニウムをつくったシカゴの金属研究所にいたカール・モーガン教授(56)であった。彼はオークリッジ国立研究所に新しくできた保健物理学部の責任者となり、また、ICRPの内部放射線量に関する作業委員会の委員長にもなって、放射線の「許容基準」の設定に取り組んだ。しかし、新しい実験の結果出てきたのは、これ以下であれば無害という「敷居線量」は放射能には存在しないという結論であった。
遺伝子に対する放射線の影響は、インヂアナ大学の動物学教授ハーマン・マラー(57)の指導で研究が行われた。ノーベル賞受賞者で、近代放射線遺伝学の父といわれる彼は、ミバエに放射線を照射すると、その遺伝子変化(変化した性質がそのまま新世代に伝わりうる化学的変化)が150倍に増加することを証明した。
さらに、オークリッジで何万という二十日鼠を使って行われた、いわゆる「メガ・マウス」実験では、ミバエの実験データの10倍の遺伝子変化があることが明らかにされた。結局、遺伝子変化は照射された放射線量に正比例して確実に起こり、どんなに低レベルの放射線でも安全とはいえないということになる。
遺伝子学者たちは、降下物や原子炉を通じての人工放射能の増加が人類に悲惨な影響を与えると警告した。人類の進化の過程での自然発生的な遺伝子変化は、宇宙線やウラン、トリウムなどからの自然放射線によって起こり、何万年もかかって遺伝的均衡が進んだと考えられるが、人工放射能の急増はこの均衡を破るおそれがあるというのである。
1950年、アメリカは、ICRPの勧告を受けて、基準を再び下げて、週0.3レントゲンとし、翌年のネバダ核実験から適用されたが、これはあくまでも職業上の基準であって、一般住民のための、全国的な基準や、国際的な基準は存在しなかった。
コダック工場に放射性降下物をもたらした1951年当時の周辺の放射能監視体制は全く間に合わせでいい加減なものであった。1953年3月の第4次の実験シリーズの時から一応の改善がなされて、地上と空中の監視チームが統合され、アメリカ公衆衛生局も加わるようになったが、この時はじめて危険信号があらわれた。つまり、ガンマ線検出量が基準値を超え、近くで飼育されていた1万8000頭の羊のうち4000頭以上が被曝のために死に、国道では予想の二倍以上の放射性物質が降下して、そのため、所々に検問所を設けて、車やトラックなどにたまった降下物を水で洗い流さなければならなかったのである。
この時の状況はその後、実験場の一監視官によってまとめられ、5月にAECのもとに届けられた。しかし、AECはこの書類に「極秘情報」のスタンプを押し、26年後の1979年4月(スリーマイル島原発事故の直後)まで公表されなかった。
この報告がワシントンのAEC本部に届いた一週間後の1953年5月19日、「ハリー」という暗号名の原爆実験が実施されたが、32キロトンのこの爆弾は300フィートの高さの塔の上で爆発させたこともあって、厖大な量の放射能を周囲に撒き散らして、のちに科学者たちによって「汚ない爆弾」と名付けられたほどであった。
実験場の東方150マイルの町セントジョージでは5時間後に一時間当たり0.32レントゲンの放射線が検出され、後日、人々が受けた外部ガンマ線量は2.5〜5.0レントゲンと推定された。もし、これだけの放射線量をAECの原爆製造工場で被曝していたならば、ただちに被曝者に対して精密かつ詳細な検査と、厳重な隔離処置がとられたことであろうが、周辺住民にはそのような措置は何もとられなかった。そんなことをしたら、AECが住民の安全のために最低限の予防措置もとっていなかったことが知れ渡ってしまうだろう。住民は室内にとどまってシャワーを浴び、放射能雲が通り過ぎたら、車が被った降下物を水で洗い流すよう指示されただけであった。
【登場人物の整理】
(56) カール・モーガン(米):保健物理学者(放射線に「敷居線量」は存在しない)
(57) ハーマン・マラー(米):動物学者(近代放射線遺伝学の父)
第13章 確証のない可能性
オーストリア生まれの物理学者ロナルド・リヒター(58)は戦時中、ドイツのユンカース航空機工場でヒトラーのために働いた後、アルゼンチンに渡り、そこで旧ナチ党員らの援助を受けて、ペロン大統領を説得し、原子力計画のための資金4700万ペソを国庫から出させることに成功した。リヒターと30人のアルゼンチン技術者は、ブエノスアイレスから1000マイル離れたチリ国境近くの湖の無人島で原子力研究所の建設を開始したが、独裁者ペロンはそれを積極的に援助した。自国の工業上の劣位(とくにアメリカと比較して)を常に意識していたペロンは、全世界が何よりも称賛する工業技術の一部門、原子力エネルギーの分野でアメリカを凌ぐことができると期待したのである。
研究開始からわずか18ヶ月後の1951年2月、リヒターは設立されたばかりのアルゼンチン原子力委員会の委員たちを無人島に招待して、「世界初の制御された熱核反応」と称するものを見せた。
当時、アメリカでさえ、ロスアラモスの研究所で、「無制御」の熱核反応(即ち、水爆)を実施する方法をみつけようと懸命に努力していたところで、それを制御する方法はまだ知らなかった。
この世界に先駆けた「大成功」に有頂天になったペロンは、3月24日、この歴史的な成果を大々的に発表した。全世界、とくにワシントンとモスクワは驚いて、その事実を確認しようと駆け回った。かつてリヒターと一緒に働いたことのある、ソ連在住のマンフレッド・フォン・アルデンネ男爵は当局者に「彼の話は信用できない」と断言した。まもなく、各新聞が、その成功は不可能であるという記事を載せはじめ、AECのリリエンソール委員長(27)も、リヒターの成功を否定する談話を発表した。
その理由は、もし、制御された熱核反応(核融合)が行われたとすれば、次の三つの奇跡が成し遂げられていなければならない。即ち、(A) 何百万度という高温の達成、(B) この高温を百万分の一秒以上持続すること、(C) このような高温に達するまでに蒸発してしまわない物質の開発、である。
この条件は今日でも未だ達成されていないものなのだが、リヒターはその質問に対して、「内容は秘密である」としか答えなかった。しかし、リヒターがペロンをぺてんにかけてたぶらかせたことは、アルゼンチン当局の仕掛けた盗聴器によって見破られ、彼は即座に研究所を追放された。
リヒター事件は、たとえ誤りであったにせよ、大国以外でも簡単に核兵器が作られる可能性があるということで、「核拡散(核兵器の拡散をあらわす外交用語)」の危険を初めて警告したものであった。そして、アイゼンハワーの「平和のための原子力」計画がその危険性を助長した。というのは、この計画では、他国に「平和的な」原子力を供給する際、それを「戦争用」に変えないという文書による約束しか求めなかったからである。そこで、それを裏付ける「保障措置」として、各国の核施設の現地査察という方法が考えられたが、各国が査察という「主権侵害」をすんなりと受け入れるかどうか、それに、もし、査察の結果、戦争用に転換されたと判明したとき、それをやめさせるよう、その国に、政治的、外向的圧力を加える時間的余裕があるのか(濃縮ウランやプルトニウムは、その気になれば数日以内に核兵器に利用できる)、ということが問題となった。
アメリカ国務長官のジョン・フォスター・ダレスは「保障措置」問題担当の特別補佐官として、40才の弁護士ジェラード・コード・スミス(59)を任命した。名門カンタベリー・スクールとエール大学を卒業した共和党員で、気質、外見、経歴などから堅実そのものの印象を与えるスミスは、1969年にリチャード・ニクソン大統領から軍備管理軍縮局長官、SALT首席代表に指名されるまでは一般国民にはほとんど知られていなかったが、それまで15年間、つねに二番手としてアメリカの外交政策立案過程に関わってきた人物である。
1954年以降、ダレスはスミスが草案を書いた演説の中で、核拡散を防止するには、核物質の供給国が新しい核施設に対する「保障措置」を守らねばならないと強調したが、その一方で、彼らは1954年5月にウラン生産8ヶ国(アメリカのほか、イギリス、カナダ、南アフリカ、フランス、ベルギー、オーストラリア、ポルトガル)に働きかけて秘密のカルテルを組織していた。のちに「西側供給者グループ」という名で知られるようになったこのカルテルの加盟国は、定期的にウラン販売に関する資料を交換し、すべてのウラン大口輸出はカルテルの承認を必要とする、など、共通の「保障措置」政策を策定して、核拡散防止に一定程度の成功を収めた。
ソ連は共産圏諸国向け核輸出において厳しい制限を実施することにうまく成功していた。1955年1月、ソ連は、共産圏諸国からの継続的なウラン供給と引き換えに、東ヨーロッパと中国に新しい平和目的核援助計画を実施すると発表したが、この時、核兵器に利用できる核分裂物質を厳しく制限し、プルトニウムを含む、原子炉の使用済み燃料棒の返還を常に要求した。しかし、クレムリンの規則にはひとつ、明らかな例外があった。それは中国である。
中国とソ連の核協力は1950年、ソ連による中国産ウランの開発をきっかけに始まった。戦争中、ソ連が占領していた新疆省では、それまで大量のウランが発見されていたが、ソ連は1949年、中国共産党が勝利したのを機にそれを中国に返還した。そして、1950年3月27日、両国共同の「中ソ非鉄・希少金属会社」が新設され、この合弁企業ははじめから専らソ連向けの採掘・精製活動を行った。
1953年2月、フランスで物理学を学び、新たに設立された中国科学院の北京近代物理学研究所長に任命された銭三強(60)を団長とする中国科学代表団がモスクワ入りして、原子力に関する将来の具体的な協力案を話し合い、その数年後、北京に中国原子力研究所が設立された。
また、この訪ソを機に、関連施設と物資が中国に送られ、1954年に共産圏諸国向けに開設されたドブナの合同原子力研究所では、約1000人の中国人専門家が訓練を受けた。1957年から59年まで、ここでの指導に当たった中国側の指導者は、西側で教育を受けた王淦昌(61)である。彼は中国で最も著名な物理学者の息子として生まれ、1934年、北京の清華大学を卒業後、ベルリン大学に留学して、核分裂に関するハーン=シュトラスマン実験を理論的に解釈したリサ・メイトナーの下で研究を続けた。戦後はアメリカに渡って、カリフォルニア大学で物理学の研究助手を務めていたが、1960年代に彼が中国の原爆計画の責任者になっていることが西側専門家によって確認された。
フルシチョフは後年、中ソ間の原子力情報の交換に関して、「我々は彼らの望むものはほとんど何でも与えていた」と述懐しているが、事実、1959年には、中国に完全な形の原爆を提供する寸前までいっていた。しかし、当時すでに、中国領土内の核兵器を自分の管理下に置きたいというソ連の要請を中国側がきっぱりと拒否するなど、両国間の将来の紛争の兆候がいくつもあらわれていた。1963年に両国の対立が表面化したとき、中国側は破綻した両国間の核関係についての具体的な個々の情報をごっそり公表した。それによれば、対立が始まった日は1959年6月20日で、その日にソ連政府は1957年10月15日に締結された国防協定を一方的に破棄し、中国に原爆の見本とその製造に関する技術データを提供することを拒否した、ということであった。
中国の核計画に関する情報はソ連以上に断片的で、ソ連のように最近になって初期の回想録などが出てくるということも皆無である。だから、銭三強と王淦昌をその面での最重要人物とみなす西側の観測もあるいは間違っているかもしれない。しかし、確かなことは、中国が1970年代後半まで、大量の技術ノウハウや施設を発電用原子炉開発に振り向けずに、専ら軍事用に限っていたということである。顧れば、中国の核兵器目標は1956年に採択された「12ヶ年科学計画」の中に設定されていたようである。そして、科学向け支出を前年の1500万ドルから1億ドルにと大幅に増額したこの計画の実施を担当する委員会の主任に就任したのが、北京の最も有力な政治家の一人で、最上級の軍人の一人でもある聶栄臻(62)であった。
四川省の富裕な地主の子として生まれ、中国の独立と近代化のために尽くしたいという理想に燃えていた聶は、19才のとき、中国を離れて、ヨーロッパに留学し、フランスとベルギーで科学・技術を学んでいたとき、マルクス主義に転向した。1923年に共産党に入党後、1年半にわたってモスクワで政治・軍事訓練を受け、1925年、中国に帰国した。その後10年間は共産主義を吹き込む政治オルグとして働いたが、国共内戦が進み、日本軍の侵略が本格化するにつれて、次第に軍事活動に傾いていき、北京を含む中国北東部に自分の部隊を結成した。この部隊は戦後の内戦時には、共産党の勝利のカギを握る存在となり、勝利後は、共産党中央委員の一人として、初代の北京市長を務め、また、人民解放軍の総参謀長代理として、朝鮮戦争を戦った。
1956年の「12ヶ年科学計画」は周恩来首相によって強力に推進されたが、周恩来は聶にとってパリ時代からの親しい友人であり、1925年に帰国した直後、一緒に黄埔軍官学校で軍幹部の養成に当たった間柄であった。さらに、周恩来の後を継いで中国科学の推進者となったケ小平ともパリ時代からの個人的親友であったばかりではなく、高校時代からの級友でもあった。
聶はこの新しい任務に、何十年も前から抱いていた、中国の独立と近代化の使命感を持ち込み、外国の援助に頼っている限り、中国の技術はいつまで経っても自立できないとして、中国の軍・工業組織にソ連の専門家が入り込んでくるのに神経を尖らせた。
1958年7月、北京にある、ソ連から供給された1万kwの原子炉で中国最初の連鎖反応が成功したが、次にできた研究炉はソ連の青写真を基にしているが、完全な中国製であり、その後は、青写真そのものも中国自身によってつくられた。
ソ連の退去後、中国は最初、内モンゴルの包頭に、次いで北央部の甘粛省玉門に、プルトニウム生産原子炉を建設したが、1964年10月16日、新疆省ロプノールで最初の核爆発が行われたとき、西側の専門家は驚いた。というのは、中国の最初の原爆がイギリス、フランスのそれのように、技術的に容易なプルトニウム系列を使わず、ウラン濃縮というはるかに高度な能力を要するU235 を使っていたからである。このU235 はソ連の援助停止後、黄河上の大規模な水力発電所からの電力を使って完成した、甘粛省蘭州のガス拡散工場から供給されたものであった。かくして聶栄臻の自立政策はその成果を見、その後も長足の進歩を遂げて、水爆製造へと速やかに移行していった。しかし、聶はつねに、自分の配下の核官僚たちが発電用原子炉に注意を向けるのを許さず、中国は広範なノウハウと特別な施設を持っていたにもかかわらず、70年代末まで、原子力発電には全く関心を示さなかった。
1964年に中国が6番目に核兵器クラブ入りした時、同クラブに入れる潜在力を持っている国が三つあった。西ドイツと日本とイスラエルである。イスラエルがフランスの原爆計画に強い関心を持っていることは、早くから西側の情報機関にはよく知られていて、少なくともワシントンは、イスラエルはいずれ原爆をつくるだろうと見ていたが、西ドイツと日本の場合は政治的に不可能だろうと考えられていた。
西ドイツが核兵器を持つことは、明らかにソ連への先制攻撃を意味することになり、そのため、アデナウアー首相は1954年に、「状況が変わるまでは核兵器を所有しない」と一方的に宣言せざるを得なかったし、日本では、広島と長崎の経験から、核兵器反対が一つの遺産として残り、核エネルギーに関する法律は、兵器開発を否定したばかりか、一切の秘密研究をも禁じた。しかし、そんな両国にも、将来の世代のために原爆製造の選択を何とか残したいと思っている政治家がいた。その中でも特筆すべき人物は、ともに異端の政治家であるフランツ=ヨーゼフ・シュトラウス(63)と中曽根康弘(64)である。二人は常々、自国の「平和意図宣言」を全面的に信頼しないことをほのめかし、平和目的の原子炉から核兵器をつくることを防止するための最初の国際条約である「核拡散防止条約」(1967年)の批准をはっきりと批判した。
シュトラウスは戦後の西ドイツ政界で「はぐれ象」と称されており、中曽根はその日本版であった。それぞれ1915年と17年生まれのこの二人は、戦争末期には国家に奉仕する年齢に達していたが、崩壊した両国の旧体制に深く関わり合うほどではなかった。
二人の政治スタイルは極めて酷似している。精力的で、ワンマン的で、野心的で、しかも機敏で抜け目がなく、政界の一匹狼的な性急さと喧嘩早さを持ち、ショーマンシップの才と、激烈な雄弁術を備えていた。しかし、それにもかかわらず、二人とも十分な教育を受けた人間で、頭の回転が早く、常に情報を蓄え、新しい政治分野を巧みに、迅速に把握する能力も兼ね備えていた。そして、この能力と、あからさまな野心が二人を常に浮き上がらせ、同時代の中で最も信用の置けない、嫌われ、恐れられる政治家とした。また、二人には、本物の政治哲学が欠けていても、戦闘的な愛国心によって人々を団結させるポピュリスト的傾向があった。
シュトラウスはかつて、自分に対する批判を封じるために「シュピーゲル」誌のオフィスを突如手入れしたかどで、中曽根は選挙献金に関する不正申告と、ロッキード贈収賄事件との関わり合いで、ともに一時期、政治浪人の憂き目に遭ったが、それ以上に、その政治歴を通じて、常に、愛国心の許容限度を確かめるような国家主義的主張を繰り返したため、定期的に自分の性急な発言を説明したり、修正したりしなければならなかった。しかし、彼らはともにその政治基盤が限られている(シュトラウスはバイエルン地方の一政党の指導者、中曽根は主流から離れた派閥の領袖)にもかかわらず、たえず潜在的な国家指導者として論じられ、二人がいずれ首相になるのではないかとの見方が両国の政治エリートの多くに不吉な予感を与え、政治的左翼にとっては二人は特別な敵意の対象となった。
愛国心の最終的表われは国防政策であるが、二人はともに国防政策を最優先の政治課題とみなした。シュトラウスは戦後二代目の国防相となって、西ドイツ軍育成にとって最も重要な8年間に、その再建と拡充に大きな力を振るった。中曽根も防衛庁長官を一期務めたほか、国会議員としても、憲法上問題の多い自衛隊の創設に関する立法措置の草案を作成した。
シュトラウスは1955年に初代の原子力問題担当相に任命された時、「二、三週間以内に、国民に原子力意識を持たせてみせる」と豪語したが、その行動は慎重であった。国防相に転じてからはイギリスの政治家に、「フランスが独自の原爆を保有すれば、西ドイツも同じような気持ちになるかもしれない」と語ったといわれるが、後にそれを否定している。彼はまた、熱烈なヨーロッパ主義者となり、独仏協力を軸とするヨーロッパ独自の抑止力を積極的に推進し、1957〜58年にフランスのシャバンデルマス国防相と秘密の会談をもったことがあったが、ドゴールは、政権に復帰するや、直ちにこの話し合いを打ち切った。
中曽根にはシュトラウスのヨーロッパ主義のような思想はなかった。彼は古風な盲目的愛国者であり、日本の最も極端な愛国主義につきものの孤立主義、人種的優越感、生まれつきの尊大さという傾向を持っていた。
彼の影響力行使の手段は、正力松太郎(54)との親密な個人的関係を利用することで、原子力分野では事実上、正力の参謀格であった。原子力委員会が活動を開始すると、中曽根は官僚たちがそれをないがしろに扱うのではないかと懸念して、その対抗勢力として、テクノクラート出身の国会議員から成るグループを組織した。
1954年、日本で誰ひとり核政策について考えはじめていなかった頃、中曽根は核エネルギー計画に3億円の支出を求める予算修正案を提出した。そのうちの原子炉建設費、2億3500万円は、U235 に語呂合わせしたという、いい加減な数字であったが、国会は当時の熱狂を反映して、それを承認した。中曽根は得意になって、「科学者がまったく動こうとしないから、彼らの顔に札束を叩きつけて目を覚まさせたのだ。」と放言し、またまた、それを弁明しなければならなかった。
中曽根は1955年のジュネーブ会議には、国会議員団の団長として出席し、この議員団は帰国後、100億円の予算を提案した。結局、20億円しか認められなかったが、中曽根は舞台裏での個人的な接触で、資金配分に影響力を発揮した。この時、大蔵省で原子力関係の予算を担当していたのが、鳩山一郎元首相の息子で、のちに外相となった鳩山威一郎であるが、彼と中曽根は海軍時代の仲間であった。
1959年に中曽根が初入閣して長官となった科学技術庁は、長期的な原子力計画を立案し、その中で、核兵器選択への明確な関心を示していた。日本は当時、コールダーホール型原子炉から出る使用済み核燃料の再処理について、イギリスと低価格の契約を結んでいたが、国内に小型の再処理工場を建設する案も出されていた。この時、中曽根は「平和目的」の高速増殖炉用プルトニウムを供給するため、この工場の能力を二倍にすることを決定した。
しかし、中曽根は1970年には、日本は核兵器の選択を否定すべきであると断言している。結局、中曽根もシュトラウスも、国民の多数意見を代表してはいなかったということなのだが、選択は生き残った。いまや、平和目的の原子炉から蓄積される大量のプルトニウムは、日本や西ドイツなどの諸国が一夜にして核保有国になり得ることを意味しているが、アメリカはこの決定的な10年間にそれを放置したままであった。50年代のアメリカの政策立案者は、自分たちのプラグマチズムを過信し、新しい核保有国が出現するのはずっと先だと安心しきっており、また、自らの交渉力によって、それを阻止しうると考えていた。しかし、その交渉力も50年代半ばがピークであって、重要な問題の解決を遅らせれば遅らせるほど、長期的なコストが多くかかることに気付いていなかった。かくして、「平和のための原子力」計画の短期的なPRの勝利は、危険にして、永続的な遺産を後世に残したのである。
【登場人物の整理】
(58) ロナルド・リヒター(オーストリア→アルゼンチン):えせ科学者(ペロンを騙す)
(59) ジェラード・コード・スミス(米):弁護士(国務長官補佐官。軍縮問題のプロ)
(60) 銭三強(中):物理学者(北京近代物理学研究所所長)
(61) 王淦昌(中):物理学者(原爆計画の責任者)
(62) 聶栄臻(中):政治家・軍人(原子力最高責任者)
(63) フランツ=ヨーゼフ・シュトラウス(独):政治家(原子力担当相、国防相)
(64) 中曽根康弘(日):政治家(正力の参謀格。科学技術庁長官)
第14章 第一氷河期
アオバエはアメリカ南東部にあっては、畜牛群のしつこい敵であった。ところが1958年、進取の気性に富んだ一部の政府職員が、アオバエにガンマ線を照射して、生殖不能にし、それをフロリダ、アラバマ、ジョージアの各州に飛行機でばらまいた。18ヶ月後、この去勢された雄バエは生存競争に勝って、去勢されていない雄バエを9倍も上回ることになった。そして、1959年末までにアオバエはこの三州から完全に一掃された。
この放射線によるアオバエの駆除の成功は、原子力平和利用の流れの中で高い評価を受けた。これに刺激されて、人工同位元素の新しい利用方法がいろいろな分野で試され、放射線を照射するだけで、三種類の新種の豆類、病気に抵抗力を持つ二種類のからす麦、冬をより良く過ごせる大麦、花弁は少ないけれど長持ちするカーネーションなどがつくられた。また、放射線を受けたイチゴ、ある種のオレンジ、プラム、ネクタリンなどが腐りにくくなって長持ちすることも発見された。
これらの核利用の新しい可能性は、これからの未来は原子力なくしては語り得ないとする、科学的というより宗教的な信念に満ちた雰囲気に支えられ、次々と新しいプロジェクトを生みだし、信じられないような多額の予算を獲得していった。
1946年に開始された原子力航空機のプロジェクトは、上下両院合同原子力委員会(JCAE)の寵児だった原子力潜水艦を引き写しにした計画であったが、空軍の戦略爆撃機派の情熱の対象となった。操縦室のカウボーイ、カーチス・ルメイ(37)に率いられた彼らは、原子力を動力とする航空機から原子爆弾を投下するという夢に酔い、原子力爆撃機を、騎士道にもとる無人ミサイルの脅威に対する回答とみなしていた。
しかし、原子炉から出る強力な放射能からパイロットを守るためには、それを十分に遮るだけの密度があって、なおかつ離陸できるぐらい軽い素材が必要であったが、そんな物質などあり得るはずはなかった。また、放射性の核分裂生成物が排気口から絶対に漏出しないようにすること、さらにもっと根本的な問題として、原子力航空機が墜落した場合、放射能を帯びたエンジン部分はどうなるのか、という問題に対する解決策は見つかりそうもなく、結局、この計画は、空軍の執着にもかかわらず、10億ドル以上の税金を浪費した挙句、頓挫した。
一方、ソ連も新たな原子力の奇術を産み出すことに熱意を燃やし、1959年に原子力砕氷船レーニン号を進水させたが、これは、後にさらに二隻建造されたことからみて、成功だったようである。
同じ頃、アメリカも原子力貨物船「サバンナ」を建造し、その姉妹船として、西ドイツの「オットー・ハーン」と日本の「むつ」が建造された。しかし、これらの船舶にはあまりにもお金がかかり過ぎ(「サバンナ」は年間300万ドルの補助金を受けていた)、そのうえ、全く不必要なものであった。なぜなら、原子力潜水艦とちがって、公海上を無限に走り得る貨物船、つまり、幽霊船「さまよえるオランダ人」の再来のような貨物船が演じる役割など何もなかったからだ。
また、アメリカでは、「プルート計画」「ローバー計画」「プードル計画」という名の、核推進ロケット開発計画が次々と立てられた。しかし、有害な放射性物質でいっぱいの排気ガスが発射場周辺に住む人々の頭上に降り注ぐのを防ぐ術を誰も見つけられず、20億ドルの金を費消したのち、中止された。(いまだに、その心配のない宇宙ステーションからの打ち上げに希望をつないでいる人々もいるが。)
そのほか、1957年には、アメリカとソ連で、核爆弾の破壊力を利用して、山を動かし、河川の流れを変え、港湾や運河を掘るというプロジェクトが考え出されて、一連の実験が行われたが、残留放射能も含めた、より完全な原価計算が要求されるようになると、その熱も冷めていった。
結局、これら様々な原子力利用計画の結果分かったことは、原子力の優越性は限られたものだということである。つまり、アオバエの撲滅には成功しても、ミバエや、とうもろこしの害虫アワノズイムシなどには効き目がない。放射線でオレンジは保存できても、レモンは駄目。潜水艦や砕氷船には役立つが、貨物船、航空機、ロケットは無用の長物、といった具合である。しかし、この事実を冷静に受け止める者はほとんどおらず、原子力に伴う「進歩的」イメージが、効用のないことに途轍もない資金を浪費させた。
原子力発電においても、各国の推進者たちはその盲目的な自信から、途方もなく楽観的な計画を予告したが、そのどれ一つとして目標を達成できず、1950年代末は、後に彼らが名付けたように、原子力の「第一氷河期」となってしまった。
1956年5月、コールダーホール動力炉の開設祝賀式典が、イギリス女王を迎えて執り行なわれた。黒鉛減速・ガス冷却方式で、電力供給よりプルトニウム供給を主目的として設計されたこの原子炉を基礎として、1955年に作成されたイギリス最初の発電計画は、今後10年間に200万kwという比較的控え目なものであった。しかし、1956年10月に勃発したスエズ動乱による石油供給の不安定化と慢性的な石炭不足に対する大胆な対策として、イギリス政府は翌57年3月、原子力発電の目標を三倍増して、600万kwするという政策を打ち出した。
この劇的な発表に西側諸国は仰天した。しかし、その中には、日本やイタリアのように、イギリスがそう言うからには、きっと核の将来はバラ色に違いないと確信して、取り急ぎ、コールダーホール型原子炉を買い入れた国もあった。
当時、イギリスの原子力計画の中心にいたのは、のちに「イギリス原子力の父」と呼ばれたクリストファー・ヒントン(38)である。
田舎の校長の息子として、1901年に生まれたヒントンは、地方の名もない身分からケンブリッジ大学に進むために、16才のときに鉄道の鉄工所の見習い工になるなど苦学しなければならなかった。しかし、大学に入学後は順調に出世し、23才でイギリスの化学大企業ICI社のアルカリ部門主任技師となって、そこで同社の有名な会計・経営慣行を学んだ。戦時中は、弾薬工場の全国ネットワークをつくりあげることで、経営上の価値ある経験を積み、戦後、将来を約束された民間企業での地位を打ち捨てて、原子力の世界に飛び込み、政府のために働くことになった。
彼は極端に自信の強い人物で、10年間にわたって、容赦ない、権威主義的なやり方で科学者、技術者、産業人、官僚らを酷使したため、多くの敵をつくったが、他方、プロであり、現実主義者であった彼は、原子力の「バラ色の未来」に惑わされない慎重な人物でもあって、1957年の三倍増の計画には反対であった。
1957年計画に反対したこともあって、ヒントンは原子力公社(AEA)を去って、新設された国有電力企業、中央電力庁(CEGB)の長官となったが、57年計画は、ヒントンが懸念したとおり、次の三つの要因によって、行き悩み状態となった。その第一は、石炭、石油の在来燃料との大きなコスト差、第二に、プルトニウムの価値の下落、そして、第三が金利の上昇であるが、1957年10月10日、ウィンズケールのプルトニウム生産工場で世界最初の原子炉事故が起きて、「安全性の問題」が第四の要因として大きく浮上してきた。
原子炉の炉心(ウラン燃料棒を封じ込めた部分)が火を噴いた、ウィンズケールの事故は、これ以後、似たような繰り返しをみる、典型的なパターンの嚆矢となるものであった。この場合の唯一の手段は、通常の水で炉心を鎮めることしかないが、技師たちは、その時、炉心に爆発性の水素が発生して、全体を吹っ飛ばしてしまうのではないかと懸念した。結局、注意深く水を注入することで、付随的事故を起こすことなく、すべてはうまく片付けられたが、炉心が燃えている間に、大量の放射性同位元素(とくにヨード131)が大気中に放出された。
イギリス政府はこの事故についての完全な公式報告を一度も公表していないが、ヨード131は工場周辺500平方キロの範囲を汚染し、そのため、200万リットルの牛乳が川や海に投棄処分され、原子炉は永久に閉鎖された。
ウィンズケール事故は、アメリカの原子力発電計画にもブレーキをかけるものとなった。 それまでにも電力各社は、技術的な不確実性、在来燃料よりもはるかに高い資本コスト、それに加えて、安全性に対する不安のために、原子力発電を推し進めることに二の足を踏んでいた。そこで、AECは、その不安を鎮めるために、1957年、原発事故を想定し、その被害を計算した「ブルックヘブン報告」を作成した。ところが、その中に、「最悪の場合(即ち、炉心が溶融した場合)」として、死者3400人、重症者4万3000人を出す放射性物質の放出と、70億ドルの資産被害が描き出されていて、この可能性は皆無に近いというAECの説明にもかかわらず、かえって電力会社を怯えさせるものとなった。
また、議会でも、原子力推進派の議員によって、原子炉事故に対する電力会社の補償に限度額(6500万ドル)を設け、それを超える補償は5億ドルまで国家が肩代りするという「プライス=アンダーソン法」が、56年9月に成立していたが、電力各社は容易に腰を上げようとはしなかった。そして、その1ヶ月後に起きたウィンズケール事故がその駄目押しをしたのであった。
AECは、以後、目を海外に向け、年間2000万ドルにものぼる米政府の補助金をつけて外国に原子炉を売り込むよう方針転換することになる。
ウェスチングハウスとGEは、原子力発電に冷淡な国内電力企業への売り込みをあきらめて、電力のコスト高に直面しているヨーロッパに市場を求めた。
ヨーロッパは当時、その政治・経済統合に情熱を燃やしていた最中で、フランス国鉄のルイ・アルマン総裁(65)のように、原子力を核としてヨーロッパを統合しようと考える人々がいた。複雑な利害関係のしがらみの中で微妙に釣り合いを取らねばならない石炭や鉄鋼に比べて、既得権益がほとんど確立されていない原子力は、はるかに容易に統一の基盤となるように思えたからである。そして、1957年1月の西ヨーロッパ6ヶ国外相会議で、共同の原子力施設をつくることが合意され、アルマンらの三人委員会が結成された。3月には、ユーラトム(欧州原子力共同体)条約が調印されて、翌年1月に正式発足の運びとなった。
アルマンらは直ちにアメリカに渡って、各地の原子力施設を視察し、1957年5月にその最終報告「ユーラトムの一つの目標」を公表した。そこでは、アメリカの軽水炉技術の先進性が強調され、その支持を受けて、10年間に、6ヶ国の総電力の1/4に相当する1500万kwの発電能力を達成する目標が掲げられていた。
しかし、ユーラトムがアメリカの開発計画と強く結びつくことに対しては、フランス原子力庁(CEA)から強い反発が起きた。CEA委員長のギヨーマ(48)と同じ「鉱山組」のメンバーであるアルマンは、ギヨーマの支持を期待していたが、ギヨーマはCEAのガス黒鉛技術に十分に満足しており、ヤンキーの技術上の帝国主義とは如何なる関係を持つことも好まなかった。
また、西ドイツでも、自立した核技術を追求するウィナッカー(53)は重水炉に焦点を合わせていた。もっとも、この重水炉は、ヘキスト社が撤退したのち、ジーメンス社に受け継がれて、バイエルンに1基建設されたが、様々な困難に苦しめられてのち、1974年、3億5000マルクの巨費を費やした末、閉鎖された。
こうして、ユーラトムの壮大な構想は宙に浮いて、2年後にはその発電目標を半減しなければならず、結局、ベルギーに2基、イタリアに1基の計3基の原子炉の建設をみただけであった。しかし、それでもアメリカの軽水炉技術はヨーロッパに大きな足掛かりを得、これ以後、フランス以外は、ガス黒鉛炉から軽水炉システムへと徐々に転換していくことになった。
ソ連においても、1957年頃ピークに達した原子力平和利用についての楽観論の爆発のあと、スランプがやってきた。1955年のジュネーブ会議の熱情を受けて組まれた、世界でも最も野心的な核計画は、1959年までに急速に下方修正されたが、その大きな原因は、ウラル地方での悲惨な核事故と、核技術者兼行政官(即ち、「赤いスペシャリスト」)の権力の失墜であった。
ソ連の公式文書は、原爆計画初期の放射線防護基準について、不吉な沈黙を守っている。しかし、あるドイツ人難民は、その頃、東ドイツのザクセンのウラン鉱山で実施されていた原始的な保護基準に注意を喚起しており、また、アメリカ情報機関も、初期のソ連原子力潜水艦での水兵たちの死に関する恐怖物語の未確認情報を多数集めていた。そして、1968年になってようやく当局者が、1946〜48年に作業員の一部が放射性の白内障に罹っていたことを明らかにしたが、これを聞いた西側の専門家たちは愕然とした。というのは、白内障は広島、長崎で何とか生命を取り留めた被曝者たちによく見られたもので、200レントゲン以上の放射線を受けなければあらわれない症状だったからである。
1957年2月には、核計画の最高指導者マリシェフ(51)が放射線被曝が原因の白血病のために死亡して、クレムリンを戦慄させたが、さらに悪いことがそれに続いて起った。正確な日付はわからないが、1957年12月、または翌年1月頃、西側で世界最悪の核事故と受けとめられている事故が、ウラル南部の主要都市スベルドロフスクとシベリア平原の端にあるチェリャビンスクの間で起きたのだ。
ソ連領内で死の灰に関する重大な事故が起きたらしいという最初のニュースは、1958年4月にデンマークから伝えられたが、AECのストラウス委員長(38)は、そのような情報はない、と否定した。しかし、翌5月には、アメリカの宣伝機関「自由ヨーロッパ放送」傘下の、ミュンヘンにあるソ連研究所が、ソ連の医学雑誌や一般雑誌の関心が異常なまでに、放射能による疾病に向けられていると指摘、とくに、1月9日のモスクワ放送がそれについて大きく報じ、可能な予防措置を詳細に述べたとして、事故の時期をも示唆した。
この事故はその後、約20年間忘れられていたが、1976年11月、ソ連の亡命生化学者ジョレス・メドベージェフ(66)が、フルシチョフによるスターリン批判20周年を特集したロンドンの科学雑誌から求められた論文の中でこの大災害に言及した。それによれば、その原因は核爆発ではなく、放射性廃棄物の化学的な爆発だった可能性が強いということだった。
1976年当時、原子炉から出る廃棄物の処理が大きな問題になっていたため、メドベージェフのこの発言は大いに物議をかもし、イギリス、フランス、アメリカの専門家たちは競うようにして、これを否定した。しかし、貯蔵された核廃棄物が特殊な環境下で「爆発する」可能性があることは、1972年のAEC報告の中で既に触れられていた。底のない壕に捨てられたハンフォードの低レベル廃棄物が、高度に濃縮されたプルトニウムの層をつくりだしていたのが発見されたからである。これが豊富に水分を含んだ土壌にしみこむと一連の連鎖反応が起って、水蒸気となり、泥火山タイプの爆発を起こす可能性があった。
結局、ウラルの大事故はCIAによって確認され、ソ連の技術出版物の中からも、それに関連すると思われる記事が続々と見つかった。その数は1966年〜79年の間で115にのぼっている。その中でも、イレンコという学者の研究は、クイシツムの町の近くと推定されるある湖がストロンチウム90によって高濃度に汚染されていることを示唆していた。
クイシツムはピョートル大帝時代からロシア兵器産業の中心であったが、1948年、プルトニウム生産の秘密工場を建設するため、住民は退去させられた。ソルジェニーツィンによれば、この工場を建設した囚人たちは、秘密保持のため、刑期を終えても帰宅を許されず、シベリア極北にあるコルマ川の収容所に移されたという。しかし、彼らはクイシツムに残った者と比べれば、まだ運が良かった。
ソ連からの移住者の話によれば、事故後、何日も経ってから退去命令が出され、クイシツムに通じる道路は9ヶ月にわたって閉鎖された。その間、付近の病院は超満員になり、ホテルや保養所などが急遽、医療センターに転用された。2年後にクイシツム付近を車で通りかかったソ連のある物理学者は「その一帯は未だに死の町のままで、今後、数百年にわたって何の役にも立たず、何を生産することも出来ないだろう」と述べている。
このウラルでの破局的事故は、その直前のスプートニク打上げ(57年10月4日)で最高度にまで高まっていたソ連科学者たちへの政治的評価を明らかに低下させ、それに「赤いスペシャリスト」と呼ばれる原子力エリートたちの失脚が重なって、原子力発電計画は大きく後退してしまった。
スターリンの庇護のもとでソ連の階級組織の中をのし上がってきた「赤いスペシャリスト」たちは、フルシチョフによる1956年の「スターリン批判」キャンペーンには反対の立場をとった。彼らは、かつてスターリンが党組織を完全に支配していたことから、党を手続き的な権力しか持たない、立憲君主制下の官僚機構のようなものだと思い込んでいた。しかし、それは誤算であった。
1956年末、彼らは党政治局内に、重要テクノクラートで構成される「経済内閣」を創設し、翌年6月、これら政治局多数派はフルシチョフ罷免を試みた。これに対して、フルシチョフは党の中央委員会総会に訴えるという前例のない措置をとった。そして、軍の輸送力の支援を得て、全国から中央委員を急遽モスクワに招集し、その結果、テクノクラート一派は逆に「反党グループ」として非難され、罷免された。フルシチョフのこの勝利は、西側議会制度でいえば、行政府に対する立法府の支配の再確認に相当するものであった。モスクワにあった25の強力な中央経済官庁は廃止され、数千人の経済官僚が地方に左遷された。そして、フルシチョフが権力を握っていた期間中は、原子力発電の拡大については議論さえ行われなかった。
【登場人物の整理】
(65) ルイ・アルマン(仏):国鉄総裁(ユーラトム=欧州原子力共同体創設)
(66) ジョレス・メドベージェフ(ソ):生化学者(亡命中にウラルの大事故を暴露)
第15章 放浪者たち
水爆製造のカギを握るのは、原爆とちがって、材料の問題ではなくて、設計の問題であった。基礎成分をつくり出すのは比較的容易で、それは水素同位元素の混合の中で巨大な爆発の引き金となる1個の原爆である。問題は、原爆が爆発したあと、200万〜300万分の1秒の間に、数百万度という超高温と何千気圧という超高圧を生み出すことができるように、原爆に対して、いかに同位元素を配列するかであった。核分裂からの衝撃波が水素同位元素を高密度の小さな固まり(たぶん、1万分の1ミリ)に変える引き金となる。これが“熱核燃焼波”のミステリーを動かす核心であるが、構成部分の形態とタイミングが絶対的に完全でない場合には、融合が燃焼を起こすことはあっても、爆発には至らない。 これらの問題の解決法を、ともに50年代の初めに発見したのは、ハンガリーからアメリカに亡命してきたエドワード・テラー(42)と、22才でソ連科学アカデミーの最年少の会員となった、背の高い、金髪のモスクワっ子、アンドレイ・サハロフ(67)であった。
テラ−は1908年、富裕なユダヤ人家庭に生まれたが、この環境は、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊に続く社会的大動乱で逆転してしまった。彼は1920年代にハンガリーを離れて、ドイツ物理学界の知的な旋風の仲間に入ったが、1933年、ナチスによってそこも追われ、デンマーク、イギリスを経て、1935年、アメリカに渡り着いた。そして、彼はジョージ・ワシントン大学に職を得、次いで、ロスアラモスのマンハッタン計画に参加する。
テラーは自分の考えについて独り善がりの自信を抱き、それはしばしば他人の目には尊大さと映った。そのため、彼は高校時代から仲間たちの集団的軽蔑と揶揄の格好の対象とされたが、彼は少しも変らなかった。
彼は常に、あたかも他者によって拒絶されることを期待しているかのように振る舞い、その徹底的に非協調的な態度に、ロスアラモスの理論部門の長であったドイツ人物理学者ハンス・ベーテ(68)はしばしば激昂した。仲間から排斥されたテラーは拗ねて、ロスアラモスでの時間を水爆研究に費やした。
戦後、彼は、そのペット・アイディアである水爆が実現性のないものと見做されたことから、ロスアラモスに留まることを拒否した。水爆研究のゴー・サインが出たときでも、彼は他の誰かの下で働くことを嫌がり、短期間ロスアラモスに戻ったものの、プロジェクト完成の前にそこを離れた。彼はロスアラモスをひどく憎み、カリフォルニア大学バークレー校のアーネスト・ローレンス(19)とともにAECを説得し、カリフォルニア大学にリバーモア放射線研究所を設立させることに成功した。この研究所は最初、「テラーの研究所」として喧伝されたが、このつむじ曲がりの科学者は数年間にわたって、そこに行くことも拒否した。
テラーの行き過ぎを知的な尊敬の故に耐えることができた、同僚のエンリコ・フェルミ(8)は、テラーを「いくつもの妄執にとりつかれた偏執狂」と評したが、中でも、ロシア、あるいは共産主義に対する病的な恐怖感と、水爆に対する執着はことのほか強かった。彼はソ連をナチス・ドイツと比べただけでなく、ジンギスカン率いるモンゴルの略奪集団と同等のものとみなした。だから、彼にとっては、米ソの対立は、文明と名のつくあらゆるものを巻き込んだ決定的なものであって、それに勝つための究極兵器が水爆であった。
ソ連恐怖症の将軍が勝手に出した出撃命令のために偶発核戦争が起こるという、スタンリー・キューブリック監督のブラックコメディー映画『博士の異常な愛情, Dr. Strangelove』(1963)に出てくる狂気じみた科学者のイメージは、ドイツ人のロケット技術者ウェルナー・フォン・ブラウンとテラーを意図的に混ぜ合わせたものだといわれている。
水爆製造にあたっては、ポーランド人数学者スタニスラフ・ウラム(69)が最初に設計の構想を組み立て、テラーがこれを応用して実用的な水爆をつくりあげたといわれている。だから、アメリカ政府は水爆に関する共同特許権をこの二人に与えようとしたが、すべての功績は自分にあるとするテラーは、それに異議を申し立て、ウラムを憤激させた。こうした狂的な感覚は永遠にテラーについて回ったが、彼はそれを自分の宿命だと考え、逆境を食って肥っていった。
テラーより13才若いサハロフは、1921年、革命と内戦の混乱からまだ完全に脱していないモスクワで生まれた。彼の父はベストセラーの教科書を書いたこともある物理学者で、彼の家庭は、リベラルで、無私無欲で、正直で、原則的という、ロシアの科学インテリゲンチャの伝統を引いていた。だから、生家が没落し、ミュンヘンでの市電事故で片足を失うという不幸にあったテラーとはちがって、サハロフの不満の起源は社会的なものでも、個人的なものでもなかった。
サハロフは1942年、モスクワ大学を卒業してから3年間、軍需工場で働いたのち、1945年から47年まで、モスクワ・レベーダー物理学研究所の技術部門の長で、ソ連量子力学の指導的専門家であるイゴール・タムの下で、大学院生として研究に従事した。そして、1948年から、彼は公的活動から姿を消し、水爆製造の秘密計画に参加する。イラン国境近くのトルクメンと推定される秘密研究所で、とびきりの特権待遇を受けながら従事したその仕事について、彼はのちに「わが国と世界の勢力均衡のために超兵器を創り出すことの重要さに関しては、何の疑念も持たなかった」と述懐している。
サハロフもテラーも精力的で、情熱的で、熟考型で、自分自身の理想主義に強い感受性を持った、特別に感性の強い人物だった。二人とも科学の進歩の究極的価値を深く信じており、自分自身を、人類の福祉と知的自由にコミットした、直進的で開放的で、無邪気でありさえする人間とみなしていた。
しかし、水爆が完成してからの反応はまったく正反対で、テラーがそれを改良し、その利用が拡大されることを確実にするために邁進していったのに対して、サハロフは同じように決然としていながらも、自分が創り出した憎むべき武器の廃止を追求していった。
でもいずれにしても、彼らはその観点と行動のために、最初その天才を称賛した社会から投げ出され、見捨てられた存在となる。テラーは多くのアメリカ人の目には「悪の権化」と映り、大学のキャンパスでは「戦争犯罪人」の烙印を押された。そして、サハロフは、彼があれほど熱心に守ろうとしたロシア社会に対する強力な批判者となり、西側では、ソ連内反体制派の象徴となったのである。
1963年8月、大気圏内、宇宙空間および水中における核実験を禁止する、「部分的核実験停止条約」が、米英ソ三国によって調印されたが、それに至るまでの運動は、アメリカの水爆実験がもとになって始まった。
1952年10月31日、「マイク」という暗号名の、世界初の水爆実験が行われたが、その爆発は、幅1マイルの太平洋上の島エルジラブ島を文字通り吹き飛ばしてしまい、その威力はTNT火薬10メガトン(1000万トン)、広島原爆の約1000倍と推定された。しかし、「マイク」は、起爆に先立って水素燃料を液状に保っておくために、二階建ての建物以上の大きさの、65トンもの巨大な冷凍工場を必要としていた。 1954年3月1日、マーシャル群島のビキニ環礁で実験された水爆「ブラボー」は、「マイク」の半分の大きさなのに15メガトンの威力を発揮した。しかし、それ以上に重要なことは、「ブラボー」は水素同位元素の固体、重水素化リチウム6を用いていたため、冷凍工場が要らないということであった。すなわち、大規模すぎて軍事目的に応用するには手に負えない装置であった「マイク」とちがって、「ブラボー」は飛行機やミサイルに搭載可能な形態で、兵器として実用化できるものであった。でも、それらよりももっと重要なことは、「ブラボー」実験が世界中に放射性降下物についての意識を持たせた実験だったということである。
「ブラボー」はビキニ環礁の数百万トンという珊瑚を粉々にして、急速に膨脹した火の玉の中に吸い上げた。高度の放射能を帯びた珊瑚の微片は、渦巻きながら膨脹する白い雲に乗せられて運ばれ、東向きに変化した風にのって太平洋上を移動して、葉巻状の7000平方マイルの水域に降下しはじめ、マーシャル群島の島民たちに最高175レントゲンの放射能を浴びせかけた。
パニック状態の中で避難が行われ、破局的な事態となったが、AECは現場がアメリカ本国から遠く離れたところにあることから、政治的には何とかできる問題だとタカを括っていた。
ところがAECのそんな思惑をよそに、「ブラボー」の降下物は一隻の日本漁船、「第五福竜丸」の上に大量に降り注いでいた。第五福竜丸は危険水域と宣言されていた水域をわずかにはずれた所で操業していたが、風向きの変化が死の灰を運んできた。第五福竜丸が母港の焼津に帰港したとき、乗組員23人のほとんど全員が何らかのかたちで放射性疾患に罹っており、6ヶ月後に39才の乗組員が死亡したとき、東京の病院は死因を放射能によるものだと発表した。
一夜のうちに日本人たちは、自分たちの核犠牲者について、それまで埋もれていた関心を甦らせた。10年近くの間で初めて、広島、長崎の生存者の現状が国民的な関心事となった。
抗議運動はたちまち国際的なものに発展し、水爆の恐ろしい潜在能力についての情報が世界中に広がった。AEC委員長のルイス・ストラウス(38)は、非難の嵐を乗り切ることにあまりにも強い自信を持っていたため、第五福竜丸を、向こう見ずにも危険水域に足を踏み入れたと非難するとともに、記者団の質問に答えて、軽はずみにも「水爆は一発で大都市ひとつを滅ぼせるぐらい大型化できる」と語った。
ストラウスのこの発言は世界的な反響を呼んだ。水爆は、原爆とちがって、世界の運命に直結しており、人類絶滅がもはや単なるサイエンス・フィクションではなくなったようにみえた。核戦争による死の灰がいかにして地球上の人間を滅亡させるかを描いた、ネビル・シュートの小説『渚にて』がベストセラーのトップになり、映画化もされて世界中でヒットした。
イギリスでは、今世紀最大の哲学者の一人で、数学者でもあるバートランド・ラッセルが核戦争の危機を訴える宣言を起草した。この宣言には7人のノーベル賞受賞者が署名したが、その中には、ジョリオ=キュリー(4)、ハ−マン・マラー(57)、ライナス・ポーリング(70)らがおり、また、マンハッタン計画のきっかけをつくったルーズベルトへの書簡を深く後悔していたアインシュタイン(5)も、死の二日前にこれに署名した。
たちまち国際的な注目を集めたこの宣言は「パグウォッシュ運動」の創設につながった。1957年7月、カナダのパグウォッシュで、鉄のカーテンの双方にまたがる10ヶ国、24人の著名な科学者が集まって、核兵器の脅威と核実験による放射線障害の危険について話し合ったが、この運動は以後数年間、軍拡競争に狂奔する米ソの、科学者間の唯一の対話の場であった。
ロンドンのセント・バーソロミュー病院の物理学教授ジョゼフ・ロットブラット(71)と、アメリカの物理学者兼作家のラルフ・ラップ(72)は、それぞれ別個に、「ブラボー」からの破片を分析して、それが単純な分裂・融合装置ではなかったことを発見した。「ブラボー」の融合燃料の周囲は、巧妙にも天然ウランの層でもう一度包まれており、そうすることによって、より多くの放射性物質がつくり出され、爆弾をより一層汚いものにしていたのである。
ロットブラットはこの事実の重大さのために、しばらく沈黙を守っていた。しかし、1955年2月のAECによる「ブラボー」からの放射性降下物についての公式報告があまりにもいい加減なものだったので、彼は自分の発見を公表することに踏み切り、その結果、人々の不安は最高潮に達した。
一方、ソ連は、「ブラボー」実験の7ヶ月前の1953年8月12日に、すでに熱核装置を爆発させていた。この爆弾の規模は数百キロトンと、「ブラボー」の15メガトンとは程遠いものであったが、重水素化リチウム6を用いており、この点ではアメリカより先んじたものであった。さらに1955年11月には、メガトン級の水爆を飛行機から投下する実験にも成功し、サハロフによる水爆のための特別な原子配列がソ連によって初めて実用化されたことが判明した。
ビタミンCを大量に摂取することが風邪の予防に有効であると熱心に唱えたことで有名なアメリカの化学者ライナス・ポーリング(70)は、マリー・キュリーを除いてただ一人、ノーベル賞を2回(1954年化学賞、1963年平和賞)受賞した人物であるが、彼は1957年、核実験禁止を求める科学者の国際的な署名運動を組織した。遺伝学者ハーマン・マラー(57)ら、48ヶ国、1万1000人以上の署名の1/3は生物学の分野からのもので、物理学者が比較的少ないことが特徴であった。
華やかで独善的であったポーリングは、確たる科学的根拠がほとんどなかったにもかかわらず、核実験を継続した場合に引き起こされる先天性欠陥、白血病、平均寿命の短縮などについて詳細な数字を挙げた。その数字は、エドワード・テラーとAEC委員ウィラード・リビー(73)の挑戦を受けた。マンハッタン計画出身の化学者リビーは、テラーと同様、「冷戦」にイデオロギー的にコミットしていたが、考古学上の研究のために放射性炭素から年代を測定する技術を開発したことでも知られていた。
リビーとテラーは、総計の数字よりも確率を問題とする方法を選び、影響が決定的でないと思わせるために「危険度」について語った。つまり、リビーによれば、人間が放射性降下物で被害を受けるよりも、雷に撃たれる「危険度」の方が高いというのである。
また、彼らは、放射線は「自然現象」であり、「自然の」放射線は降下物の放射線よりずっと強いから、核実験に反対するのならば、その前に、海抜1マイルの都市デンバーから市民を移住させることを考えるべきだと主張した。
しかし、テラーとリビーがストロンチウム90の危険度を過小評価していることが明らかになったとき、彼らの説得力はいくぶんか低下した。
核爆発から大量に放出されるストロンチウム90は成層圏に打ち上げられるが、寿命が長いことから、地上に落下してきたときも依然として危険な放射能を出している。そして、それは、核爆発の起きた場所にかかわらず、世界中のどこにでも落下し、また、ラジウムのように骨にしみこんで、人体に蓄積していくため、20年後のプルトニウムのように、50年代の核の脅威の象徴であった。
リビーは、ストロンチウム90が地上に降りてくるまでには最高10年かかり、人間の食物連鎖に入り込むまでに、雨や土壌や雌牛によって風化されて、人間の骨に到達するのはごく微量でしかなく、人間には無害であると強調した。
それに対して、ラルフ・ラップ(72)は、その寿命の長さから見て、実験の50年後まで骨ガンを引き起こす可能性があり、さらに、大気はすでに世界が安全に吸収しうる量の15%のストロンチウム90を含んでいると反論、まもなく、ラップの方が正しいことが明らかになった。
一方、テラーは、実験禁止ロビイに対する回答として、「きれいな爆弾」(今日でいう“中性子爆弾”)の構想を持ち出した。1956年の大統領選で核実験停止を争点にした民主党のアドライ・スチーブンソン候補に苦戦したアイゼンハワーは、早速、それに飛びついた。
このテラーの新しい構想に対して、ポーリングは、それが放射性の炭素14をつくり出すという問題を持ち出して対抗した。「きれいな爆弾」が爆発すると、数百万という中性子が放出され、それが空気中の窒素と結びついて炭素14をつくり出す。この炭素の同位元素は非常に長い寿命をもち、数千年単位ではストロンチウム90よりも大きな影響が出るというものであった。
このポーリングの抗議はサハロフに深甚な影響を与えた。すでに炭素14の潜在的な危険性に警戒心を抱いていたサハロフの懸念が、ポーリングの研究というかたちで西側から裏付けを得たのである。核爆発による放射能汚染の問題に責任を感じつつあった彼は、1958年、炭素14についての研究を出版し、その中で放射能には「敷居線量」がないということを繰り返し述べた。
遺伝学はソ連では依然として極めて政治的な学問であった。悪名高いトロフィム・ルイセンコは、スターリンの、そしてその後はフルシチョフの政治的支援を得て、「後天的に獲得された特徴も遺伝する可能性がある」という自説を強制し、それに従わない者はことごとく粛清されていった。
しかし、「遺伝する特徴は先天的なものだけである」というメンデルの正統的な遺伝学は、原子力関係の研究所の中では生き残っていた。爆弾計画の成功により政治の世界とも良好な関係を維持していた彼らは、放射線生物学の部門を設立し、物理学の同僚に対して放射能の脅威を訴える「地下プロパガンダ」と呼ぶキャンペーンを開始した。そして、1956年には、ソ連原爆の父、クルチャトフ(11)自身が放射能の影響を強調し、正統遺伝学の再興を訴える陳情書を、数百人の科学者の署名とともにフルシチョフに提出した。
ソ連は1955年と57年の二回にわたって、国連で核実験の全面禁止を提案したが、そこにはその裏付けとなる査察については何も触れられておらず、西側は宣伝臭が強いとしてこれを拒否した。そして、進行中だった実験計画が完了した1958年4月になって、やっと米英ソの三国は、実験の自発的停止で合意に達したが、それも三年間しか続かなかった。
1961年8月、ソ連が、その一時的禁止措置を破棄したとき、フルシチョフは科学者たちも挙ってそれに同意するよう呼びかけた。この時、サハロフはフルシチョフに短い抗議の覚書を送ったが、それに対して、フルシチョフはある会合で、サハロフはお節介な科学者だと、公然と反論した。
「官庁は官僚的利害に基いて、技術的観点からはすでに不必要となっていた実験をひたすら続ける指示を出していた。爆発は極めて強力なもので、予定される犠牲者の数は厖大なものとなった。この計画の犯罪的性格に気付いた私は、これを停止させるために、絶望的な努力を行った。」とサハロフはのちに回顧している。
サハロフとクレムリンとの最初の公然たる不和は1963年に起こった。彼は科学アカデミーの臨時会議で、ルイセンコの腹心の一人の入会申請に対して声高く反対した。アカデミーは異例の措置として、会員の全員会議を開き、その会員候補の入会を圧倒的多数で否決した。ルイセンコを支持していたフルシチョフは激怒し、サハロフは初めてソ連の新聞に公然と叩かれた。
以後数年間、サハロフは兵器に関する研究を続けたが、その間に、それまでの特権や影響力を蹴っとばし、一方、迫害されている科学者の抑圧された魂と、その活動を知った。1968年、彼は初めての政治的著作『進歩、平和共存、そして知的自由』を出版したが、1ヶ月もしないうちに、彼は兵器の仕事から追い出された。彼は次第次第に人権問題に巻き込まれていき、1973年のノーベル平和賞に行き着くことになる。サハロフが自分のつくった超爆弾へのコミットメントから頑として遠ざかっていく間に、テラーの方はそれに対するコミットメントを深めていった。
「人類はいまや、あらゆる人命を滅ぼす力を握った」と述べた、1961年のケネディ大統領の就任演説は、核に対する国際的な警戒心を反映したものであったが、その認識は誤っているとテラーは固く信じた。彼は、世界が核戦争から生き残れるとみていた。一般大衆が核兵器について誤ったイメージを抱いているとみなしていたテラーは、二つの点で世間を熱中させることに成功した。
その第一は、死の灰に対する避難壕だった。彼はほんの僅かの金で、ソ連の全面攻撃の後も、90%前後のアメリカ人が助かると主張した。そして、彼の親しい仲間のリビーが鳴りもの入りで自宅に安物のシェルターをつくったが、それは二週間もせぬうちにボヤで焼失した。いまやパグウォッシュ運動の指導者の一人となっているレオ・シラード(1)は「このことは、神が存在することだけでなく、神がユーモアのセンスを持っていることをも立証した」とリビーらをからかった。
その第二は、「きれいな爆弾」が「平和的」であり得ると主張したことであった。この爆弾を使って、山を動かし、運河を掘り、川の向きを変え、港を建設し、貯水池をつくり、岩石から石油や鉱石を分離できる。もし地下での爆発の熱を何らかの方法で地上まで導き出すことができたなら、電力生産に利用できるし、適切な地層の中で核爆発を起こせば、ダイヤモンドを量産することだってできる。
これらの夢を語るとき、テラーはこのうえなく雄弁になった。そして、テラーのこれらの夢は結構長持ちし、以後20年間にわたって、核の世界での議論を混乱させることになる。つまり、経済的費用や副次的影響について真剣に考慮することなしに提示されたこれら核爆発の平和利用についての展望が、包括的実験禁止協定を結ぼうという動きが起こるたびに、また、核拡散を禁止するための技術的障壁を強化しようという試みが起きるたびに、それらに反対する材料として引き合いに出されたからである。
広島、長崎にのこされた放射能の遺産は、トルーマンが朝鮮で小型核爆弾を使うことを阻止した。また、史上最大の破壊力を持つ水素爆弾は、ソ連も同じものを持っているが故に使用は不可能になっている。これらのジレンマの中で実際に核兵器を使うとすれば、「戦略」的な大型爆弾ではなくて、「限定された」戦場で使える小型の「戦術」核爆弾で、しかもより放射能が少ないものといえば、「きれいな爆弾」しかない、とテラーは考えた。 しかし、「限定戦争」を「限定」する方法をどうやって見つけたらよいのか、いったん最初の核兵器が使用されれば、他のより大きな核兵器が自動的にそれに続くのではないのか、という問題がある。1957年、戦術核兵器擁護論を唱えた著作ではじめて全米の注目を集めたヘンリー・キッシンジャーという、ハーバードの鼻っ柱の強い学者でさえも、1961年にはその撤回論を出版せざるを得なかったほど、この問題はその後も尾を引き続けている。
テラーは依然として、ソ連に大きな恐怖を抱いていた。彼が自分の「きれいな爆弾」を擁護するときに用いた理屈は、ソ連もそれと同じ爆弾を追求しているというものだった。また、彼のソ連に対する猜疑心は一層強くなり、1958年からの一時的禁止措置の間もソ連がいんちきを働いているに違いない、例えば、直径数千フィートという巨大な穴を地下に掘り、小さな地震としてしか探知できないような方法で核実験をしているはずだと、強く主張した。そのため、核実験禁止が緊張緩和の第一歩になるという考えを持つ科学者のグループのリーダーで、ジュネーブ核実験停止交渉のアメリカ代表団の一員でもあったハンス・ベーテ(68)は、心ならずも、交渉の席上でそのテラーのばかげた懸念をソ連側に問い質すという「いかがわしい名誉」を与えられることになったのである。
テラーは1960年代初頭まで核実験禁止に頑固に反対し続けた。しかし、当初、小型の戦術核兵器支持に傾いていた科学者たちも、テラーほど核爆弾の技術的進歩に確信を持たなくなり、そのかわりに、実験停止の政治的、象徴的意味合いを強調するようになってきた。1962年のキューバ・ミサイル危機と生々しく結びついた、米ソの究極的対決の恐怖が、相互不信のレベルをとにかく引き下げることを何よりも優先すべきだと彼らに思わせる大きな要因となっていたのである。
査察をめぐって行き詰まりかけていた米ソ交渉で、クレムリンに打開策を与えたのはサハロフであった。彼は、実験禁止を比較的探知が容易な大気圏内のみに絞るという「部分核停」のアイディアを出したのである。その結果、東西の緊張は大きく緩和されることになったが、この方法は、それに続く「第二の措置」が全くない、軍縮の方法としてはかなり的はずれな、一時しのぎのものでしかなかった。
すでに1950年代の半ば頃から、米ソ両国の分裂物質の生産が飛躍的に高まって、この両超大国の所有する核爆弾は、もはや、完全に検証し、監視するのは不可能なほど大量のものになっていた。そのため、60年代には「軍縮」交渉の焦点は、核爆弾そのものではなく、その運搬手段に移っていき、また、両国の指導者たちは「相互抑止を通じての安定」という教義に依存して、自分たちの核の兵器庫が前向きの平和維持の力だと信じ込むようになった。そして、問題なのは、自分たちが核の備蓄を増やしていく「垂直的拡散」ではなく、他国が核兵器を所有するという「水平的拡散」だとされた。地下核実験はより困難で、より高価につくため、「部分的核実験停止条約」は水平的拡散を防ぐには効果的だと考えられていたが、両超大国にとっては大して状況は変らず、例えば、アメリカ自身の実験計画は地下という制約にもかかわらず、むしろ加速されたほどであった。
【登場人物の整理】
(67) アンドレイ・サハロフ(ソ):物理学者(ソ連水爆の父。反体制派の象徴)
(68) ハンス・ベーテ(独→米):物理学者(テラーの同僚。緊張緩和派)
(69) スタニスラフ・ウラム(ポーランド→米):数学者(水爆の基本設計を構想)
(70) ライナス・ポーリング(米):化学者(核実験反対。放射能の危険性に警鐘)
(71) ジョゼフ・ロットブラット(英):物理学者(ブラボー水爆の汚染性を見破る)
(72) ラルフ・ラップ(米): 物理学者・作家(ブラボー水爆の汚染性を見破る)
(73) ウィラード・リビー(米):化学者(タカ派。テラーの盟友)
「第3部・1960年代」につづく
「まえがき」 「詳細目次」 「国別・登場人物一覧」
「ホーム」
http://happi-land.com/er_shi_shi_ji_zuo_pin_ji/baron-digest-50a.html
04. 2013年9月25日 09:41:11 : VZukxtyuiu
賛成だが時期が少し違う。中国に革命政権が成立してからのほうが混乱が少ない。
大気汚染や貧富の差の拡大などいくら中国国民が反対しても共産党独裁政権の下
では無視されてしまう。だから共産党政府は転覆されるのです。
更に鞭と鞭の政策により益々中国国民は疲弊して行く。習共産党政権によってインフレ
と国土の汚染は益々進行し、中国人が今までに経験したことがない住みにくい悲惨な
国家になります。政権転覆しかないのです。
その上での戦争の捨て石にされる恐れです。中国人は尖閣諸島で紛争になれば日本に
核兵器を打ち込んで最終的に勝利すると思い込んでいます。それはアメリカが許しま
せん。アメリカは世界的の金融を支配しており中国要人の隠し口座を支配してます。
更に海外で贅沢に暮らしてる中国要人の家族や妾の生命の安全も支配してるからです。
尖閣諸島では負け続け、戦闘機やミサイルの消費が増え続けアメリカが儲け続ける
カラクリなのです。
02. 2013年9月25日 09:41:43 : nFO2KuyiJI
精神科に行け?
02. 2013年9月25日 09:41:59 : oPn7AXwY5o
悪質な人間ほど笑笑の顔をしている。
信念のなさそうな薄っぺらい顔。
サラリーマン記者の顔だ。
113. しょしんしゃ 2013年9月25日 09:46:35 : Pv.MdnCZgWavs : i9HDdkEW4c
日本が悪い国だというのは、もうわかっています。
どうやって治すかという具体的処方箋の案が
記事にも投稿にも、殆んど見当たらない。
11さんとかは書いておられますが。
阿修羅サイト、阿修羅人の限界でしょうか。
ちょっと生意気を申し上げました。
(仙芳丸さん、tmtさん、過日は御指導ありがとうございました。)
06. 2013年9月25日 09:46:48 : X5q7wgqL3s
法人減税に意欲=「賃金・雇用増につなげる」―安倍首相
時事通信 9月25日(水)9時1分配信
【ニューヨーク時事】安倍晋三首相は24日夜(日本時間25日午前)、消費増税と併せて打ち出す経済対策に関し「企業収益の拡大を図りながら賃金、雇用の拡大につなげていく。さまざまな可能性を検討したい」と述べ、法人税の実効税率引き下げを含めた企業減税に意欲を示した。ニューヨーク市内のホテルで同行記者団に語った。
首相はまた、「デフレから脱却し、経済を再生させ、財政再建の道筋を確かにしていくことが必要だ」と強調した。
集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈見直しの時期については「国民的に理解が進むよう努力したい。今の段階で『いつまで』と考えていない」と述べた。
11. 2013年9月25日 09:48:05 : sKocYAO5vA
いっそのこと、関空の技術を応用して米軍海上基地を沖縄の代替として作る。
沖縄米軍基地は別名リゾート基地と呼ばれてるのだから問題無い。
立地条件も最高。
台湾と共同で尖閣の島から縦穴掘って石油精製コンビナートも作る。
海上に作るより経費面で安上がり。
更に日本だ中国だとは言わず南極や北極見たいに領有権を主張できない場所にしたほうが良い。
基地とリゾート地とハブ港を作るのがベスト。
景気浮揚策にもなります。
03. 2013年9月25日 09:49:10 : X5q7wgqL3s
パキスタンでM7.7の地震 46人死亡、海上に島が出現
CNN.co.jp 9月25日(水)9時40分配信
イスラマバード(CNN) パキスタン南部バルチスタン州で24日にマグニチュード(M)7.7の地震があり、地元当局者によると、同州アワランで少なくとも46人が死亡、数十人が負傷した。
地元警察によると、この地震で同州南部グワダル沖合の海上に高さ6〜9メートルの島が出現し、大勢の見物人が詰めかけているという。
米地質調査所(USGS)によると、震源地はアワランの北東部69キロ、震源の深さは約15キロ。アワランでは住宅などの倒壊で住民らががれきの下敷きになっている恐れがあり、救助隊や医療班など1000人あまりが現地に向かっている。
一方、GEOテレビによれば、グワダル沖の海上に出現した島は直径30メートルほど、沿岸から約1.6キロの地点にあるという。大地震では大きな地殻の変動が起きることがあり、特に沿岸部ではそうした変動が目に見えやすい。
米国立地震観測所の専門家も、島が形成されたことを確認した。ただ、米地質調査所の専門家は、今回のような地震でこれほどの大きさの島が出現することは、一般的にはあまりないと話している。
地震の揺れは2分ほど続き、バルチスタン州の州都クエッタでも人々が建物の外に避難した。南東部の都市カラチでも余震が感じられた。
549. 2013年9月25日 09:49:37 : MVEswqjBG2
★* 原発常識 番々外 第3法則 *★
★【1】あらゆる公害は『最終的には企業・政府側が非を認める(時間がかかるだけ)』。
まして通常の化学公害よりはるかに深刻で、「絶対に」解決せず、ほぼ永遠に残留する核被害。
★【2】これから(原発ゼロを宣言しないかぎり)
○【自民党+石原維新】が滅びるとしたら・・・その原因は原発・放射能問題!
○なぜなら「絶対に」解決できないから!
●来年以降、首都圏〜東北で何百万人も被爆症状が出てきて、絶対ごまかしがきかない。
【過去の歴史を振り返る】============
□《1》イタイイタイ病は、
(A)1920年、当時の上新川郡農会長が農商務大臣、富山県知事に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出(ウィキより)。
(B)そして、1968年5月、厚生省は神岡鉱業所の事業活動と断定。(ウィキより)
□《2》水俣病は、
(A)1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。(ウィキより)
(B)2004年10月の水俣病関西訴訟における最高裁判所判決は、
国および熊本県に不作為違法責任があることを認定。(ウィキより)
+++++++++++++++
□《3》(問題設定)
日本国民のほとんどは、
(1)当時危険を指摘した人たち と、
(2)当時、被害を認めなかった「原因企業およびそれをかばった国」
のどちらの主張が正しいと思っていたのか?
●歴史上、日本人の大部分は、
現象が始まった最初(Aの時点)は、圧倒的に、
「(2)原因企業およびそれをかばった国」の主張が正しいとみていた。
● しかし、被害が隠せなくなり、
結局、最終的には、(Bの時点)
「(1)当時危険を指摘した人たち」が正しく、
「(2)原因企業およびそれをかばった国」が悪い、
ということに決まった。
+++++++++++++++
□《4》これらは過去の化学的公害の話であり、福島原発は以下の2点で、比較にならないほど深刻。
★過去の公害とは「比較にならないほどの巨大な被害」のため、
★「全国民の」「棄民」となる。
★【1】<時間的にみて>福島は半永久的。たぶん数十万年最終的には放射能が減衰するまで。
★【2】<空間的にみて>福島の被害は遙かに広範囲に拡大。
○東北・関東の水脈どころか、太平洋諸国の汚染・損害賠償請求、
○日本国民は
(1)もし福島の制御ができなければ日本全土が住めなくなる。
(2)制御ができても現在の食品基準では、全国民に内部被曝で障害となり国民の相当が死ぬ。
□《5》核兵器で自国を防衛する前に、
核兵器をつくろうと維持していた核自身でほろびるのだ。
なんともオマヌケな連中といえる。
04. 2013年9月25日 09:52:46 : X5q7wgqL3s
パキスタンでM7.7の地震 死者73人に
9月25日 4時24分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130925/k10014775971000.html
24日午後、パキスタン南部で発生したマグニチュード7.7の地震で、震源近くでは多くの住宅が倒壊しこれまでに73人の死亡が確認され、軍の部隊などが救助活動に当たるとともに、被害状況の確認を急いでいます。
アメリカの地質調査所によりますと、パキスタン南部で24日午後、日本時間の24日午後8時半ごろ、南西部のバロチスタン州にあるアワランの北北東およそ70キロを震源とするマグニチュード7.7の地震がありました。
震源の深さはおよそ20キロと推定され、震源から数百キロ離れた都市を含む広い範囲で揺れが感じられたということです。
震源近くは小さな村が点在する山岳地帯で、土作りの建物が多く、地元の警察によりますと、多くの住宅が倒壊しこれまでに73人の死亡が確認され、100人以上がけがをしているということです。
また警察は依然、連絡が取れない地域や土砂崩れで道路が寸断され近づけない地域もあるため、犠牲者の数は今後さらに増えるおそれがあるとしています。
このため軍の部隊やヘリコプターが現地に派遣され、被災者の救助や支援に当たるとともに被害状況の確認を急いでいます。
首都イスラマバードにある日本大使館によりますと、今のところパキスタンに在住する日本人が地震の被害にあったという情報は入っていないということです。
03. 2013年9月25日 09:53:40 : Y2SMVFAUHE
2013/09/20 「福島第一原発には、水を入れるのではなく、鉛の粒を投入すべき」〜福島第一原発の収束方法について独自提言 〜岩上安身による山田廣成氏インタビュー
〖秋の夜長に〜特別公開中〗会員以外の方へも9月27日まで公開します!
「福島第一原発には、水を入れるのではなく、鉛の粒を投入すべき」―。
2013年9月20日(金)10時半より、立命館大学びわこ・くさつキャンパス(滋賀県草津市)にて行われた、岩上安身によるインタビューで、同大学特任教授の山田廣成氏はこのように主張し、放射能汚染水の問題が深刻化している福島第一原発事故の収束方法について、独自の提言を行った。
この中で、山田氏は、鉛の持つ放射線遮蔽効果や熱伝導性の高さを活かし、原子炉自体を空冷式のラジエータ(放熱器)にしてしまう案を提示。「炉心貫通(メルトスルー)が発生した状況において、水冷式による循環冷却を続けていくことは限界に達している」とし、放射能汚染水の無尽蔵な発生を抑制するために、鉛を用いる方式の活用を呼びかけた。
※掲載期間終了後は、会員限定記事となります。
34. 2013年9月25日 09:54:12 : qlMoTtYBfc
>31
アナタは生活党の支持者らしいがお尋ねしたい
本来ならば多少の祖語は目を瞑り共闘すべきところを志岐は森裕子を
長期にわたり証拠も無いのに印象推測だけで批判している
こんな状態でどう小沢生活党を支援するのかい志岐の言動は明らかに
支援者に対する冒涜であり背信行為と思うが?
要するに自己の保身に頭がいっぱいで本当に世の中を変えようなどと
一切思考してない事に疑いの余地は有りません
上記のような事をみなさんお解りだから志岐にたいして殆んどの人が
怒っているわけですよ。
志岐が問題なのは他人の意見助言を全て聞き入れず暴走している事です
阿修羅のみなさんもあきれ返っていると思われます。
山崎行太郎、森裕子もトンデモナイ輩と関わり、・・お気の毒様です。
02. カッサンドラ 2013年9月25日 09:54:40 : Ais6UB4YIFV7c : QyC3shODcQ
01.さんへ
当然検察審査会への申立はすることになると思います。
ただし、福島県にある検察審査会(3箇所)へではなく、問題の多い東京検察審査会に自動的になるそうです。
なぜなら不起訴処分を発表したのが 「東京の検察」 だからだそうです。
01. BRIAN ENO 2013年9月25日 09:55:44 : tZW9Ar4r/Y2EU : 3RjD7n0ZIa
父と娘の原発問答で、引用または参考にした
文献等を以下に記します。
実録 野坂参三―共産主義運動“スパイ秘史” [ハードカバー]
近現代史研究会 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9F%E9%8C%B2-%E9%87%8E%E5%9D%82%E5%8F%82%E4%B8%89%E2%80%95%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E9%81%8B%E5%8B%95%E2%80%9C%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E7%A7%98%E5%8F%B2%E2%80%9D-%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A/dp/4896161068/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1380069734&sr=8-2&keywords=%E9%87%8E%E5%9D%82%E5%8F%82%E4%B8%89
天地有情―五十年の戦後政治を語る [ハードカバー]
中曽根 康弘 (著), 伊藤 隆, 佐藤 誠三郎
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E6%9C%89%E6%83%85%E2%80%95%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B-%E4%B8%AD%E6%9B%BD%E6%A0%B9-%E5%BA%B7%E5%BC%98/dp/4163520708/ref=pd_rhf_se_p_t_3_Y8AQ
原爆の秘密 (国外編)殺人兵器と狂気の錬金術 [ハードカバー]
鬼塚 英昭 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86-%E5%9B%BD%E5%A4%96%E7%B7%A8-%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%A8%E7%8B%82%E6%B0%97%E3%81%AE%E9%8C%AC%E9%87%91%E8%A1%93-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862320/ref=pd_bxgy_b_img_y
ウィキペディア
中曽根康弘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E5%BA%B7%E5%BC%98
ヘンリー・キッシンジャー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC
ジェイコブ・ロスチャイルド (第4代ロスチャイルド男爵)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89
ヴィクター・ロスチャイルド (第3代ロスチャイルド男爵)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89_(%E7%AC%AC3%E4%BB%A3%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E7%94%B7%E7%88%B5)
08. 2013年9月25日 09:56:38 : nFO2KuyiJI
貧乏人の味方とか言いながら
現世利益集団に成り果てた宗教団体だ
11. 2013年9月25日 09:58:13 : Y2SMVFAUHE
☮☮2013年9月25日(水)14:30 泉田裕彦新潟県知事と東京電力 廣瀬直己社長との面談〖IWJ新潟1〗
☮☮http://iwj.co.jp/channels/main/channel.php?CN=1
☮☮http://www.ustream.tv/channel/iwj-niigata1
11. 2013年9月25日 10:01:03 : L1zcKHj6mg
傲慢なアメリカは世界各国に干渉し口出しして嫌がられている。而して日本はマスゴミ.政治家はじめ彼らに追従し、太鼓叩きが多く、つけ上がらせている。
追随外交、追随政治、追随行政、追随経済、追随マスコミ、あげだしたらきりがない。つまり完全なアメリカの属国と云うこと。
大正年代に生まれ、独立国日本の雰囲気を知る者として情けないかぎりである。
13. 2013年9月25日 10:01:36 : ldbqIB2pXc
優秀な人間を現場で使ったら、どんどん死んじゃうから困るだろ。
ゴミ人間を使い捨てにしているのは事故が起こっていない原発も同じ
03. 2013年9月25日 10:03:13 : ThYJWHY3go
この記事に同感です。
今の政治家、官僚は一掃することが出来たらいいのに。
二世三世の世襲政治家禁止法など作り、金や利権にまみれた政治腐敗を防止するとか、
嘘つき政治家には厳罰規定を作るとか、
国民投票で腐った政治家クビに出来る法律作るとか、
多くなりすぎてしまっている政治家の定数を大幅に削減し、衆参各々、各都道府県1名ずつの選出にするとか、
地域活性化を図るために、霞が関に集中してしまっている中央官庁及び出先機関を
各都道府県に配置するとか、
馬鹿の一つ覚えのように政治家が良く言いますが、
「抜本的」に制度を大きく変えたら。
07. 2013年9月25日 10:03:27 : 0pjUDe0J9o
自業自得だろ。
新聞というメディアは、自分個人は有用だと思うだけに、今の新聞をはじめあらゆる出版メディアの凋落ぶりは当然だと思うが、残念な気持ちがぬぐえない。
ネットだけだと、情報取得が自分の興味・嗜好にかたよりがちになるため、気付かないうちにかたよった人間、言い換えれば、おたくっぽくになりがちになると思う。
新聞はありとあらゆる情報が紙面にちりばめられており、ちょっと眼に着いたら読んでみようと思ったものだ。
実際、おもしろそうだと思ったら、ついつい読んでしまい、連載ものだったらその後も続けて読むことが多かった。
芸術、文化、家庭、社会面などなどあらゆる分野の質の高い情報が満載されている紙面というのは、読者の見識を広めるのに役立つと思うからだ。
しかし、近年の新聞メディアのように、特に、政治・経済関連では、権力サイドの世論誘導機関になり下がっており、まったくもって話にならない。
権力におもねることがなく、真実を追求する気骨のある大手メディアがまったくない状況では、読者離れもしょうがないだろう。
15. 2013年9月25日 10:06:15 : lqOPOFnyLE
>石棺構造物など地震で簡単に壊れてしまうはず。
作り方にもよろうが、巨大な塊が簡単に崩れるということはなかろう。
石棺には、それなりの利点もあろう。いろいろ検討することはよい。
23. 2013年9月25日 10:07:37 : EcNLAMtQ3w
>>13さん その通り。いままでも、今も、そしてこれからも宗主国米国様の奴隷であり続けるのですね 日本は。
汚染水の海洋流出を止める作業
汚染水貯蔵タンクの耐震補強、漏れ防止補修作業、メンテ作業
高濃度汚染水からの放射能除去作業
ドロドロに溶け落ちた核燃料の取り出し、運搬作業
その燃料の保管
冷却プールからの使用済み核燃料棒1534本の搬出作業
その燃料棒の保管
気の遠くなるような除染作業
これをすべてやり遂げた時、日本は世界に胸を張って宣言するでしょう。
『どうです 皆さん、日本はやり遂げました! 今日ここに福一原発事故の
完全収束を高らかに宣言します そして財政が破綻したことも・・・』
22. 2013年9月25日 10:09:36 : ZrMDpsyito
長年培った経験と能力も、放射能の前では役に立たなかったのですが、
山田氏なる東大理1卒のご立派な方、食道ガンごときでへこんでないのがいいですね。
茨城や福島漁船の試験操業の魚類も、ぜひ、どんどん召し上がってください。
アメリカにも韓国にも輸出できないのですから、ぜひ、原発行動隊の方々で、
全部消費して、放射能汚染魚類を食べない怖がりの日本人の私に、
汚染魚類を食べることによってガンになる危険があることを教えてください。
ご立派な行動に心からの拍手を捧げます。
05. 2013年9月25日 10:12:05 : PV9mgxFbAL
エネルギー需要による赤字は、やはり原発再開しかない。
もちろん、長期にみれば再生エネルギーに転換するべきである、が、ここまで赤字だと、比較的新しい原発は再開するべきである。
中東では、いつ破壊的戦争が起こるか不透明でもある。
シリア問題が、イスラエルに飛び火すると必ずイランも動く。
その時、ホルムズ海峡が封鎖になれば、今どころの騒ぎではないのは確かである。
03. 2013年9月25日 10:12:41 : 9LzylBLpn6
>>01
威勢が良くて頼もしいな。頭はスッカラカンで精神も病んでいるようだが。
87. 2013年9月25日 10:13:12 : FCcIa7jtR2
ほぉ、ずいぶん風が変わりましたね。前は上のような小出批判をすると袋叩きに会いました。彼は単なる評論家です。何も出来ない。評論家も必要ですが、救世主を期待しては無理です。
個人的には東芝のアルプスに期待します。必ず改善すると思う。
04. 2013年9月25日 10:15:04 : IfIwvkLxBY
晩発性障害とは恐ろしいものだ。
いくら数字や事例で示されも、人はどうしてもそれを軽く考えてしまう習性をもっている。
保険会社はリアルな統計で動いているだろうから、子供はもちろんだが大人もまず生命(ガン)保険加入手続きをしてみたららどうか?
保険会社がどう出るか?
将来設計の大きな資料になると思うが。
17. 2013年9月25日 10:15:44 : Qhp11wbKsg
まあ、目に見えない、味もしない、においもしないっていうのは、考えたくない人にとっては都合がいいんじゃあないか。もがき苦しまない。飲んで騒いで、食ってそれでおしまい。安楽な人生。死ぬまで幸せ。そんなもんだよ、人生は。でも、おいらは少しは阿修羅で真実を知りたい。秘密保護法案が通るまでだけどね。
映像も音も古くて、
あれですが、
若かりし彼らの
力強い素晴らしいパフォーマンスを
聴くことができます。
http://www.asyura2.com/13/music12/msg/550.html
05. 2013年9月25日 10:17:41 : Y7rMi5UT7g
消費増税黒幕は米英仏イ江戸城
19. 2013年9月25日 10:18:09 : vR3IKmuZI6
>13
24. 2013年9月25日 10:18:36 : PV9mgxFbAL
ここは、成りすまし日本人の書き込みばかり
もちろんメスチョン室井の応援団だろうが・・安部総理を嫌う成りすまし日本人たちは、そんなに民主党が好きなのか?
今や、世界中に嫌われている中国人と韓国朝鮮人。
どの国も、この2大民族を拒否しているという現実。
逆に日本人は、民度の高さゆえ世界から愛されている。
07. 2013年9月25日 10:21:17 : p9hXC3NEJg
意図的に、アルファ線核種(ウラン、プルトニウムなど)とベータ線核種(特に影響が大きいSr−90)の測定は避けている。
放射性セシウムがある所には、高い確率でアルファ線核種とベータ線核種も存在する。
北西方向の飯舘村の方向には、その先に伊達市、福島市、宮城県白石市、七ヶ宿町がある(七ヶ宿ダム歴史館側からプルトニウム検出)。
南南西方向の先には、北茨城市、高萩市の水源がある。
06. RootD 2013年9月25日 10:22:25 : rYXzE5/qsVtV. : xQUGSpq4Uw
偶然か。この写真、冬のソナタに出ていた韓国の俳優さんであるクォン・ヘヒョ氏にそっくりだ。
23. 2013年9月25日 10:23:08 : fFgBYtzN4E
山田氏は、自分がなぜ食道がんになったか考えてほしいね。
素直になれば、「食べて応援で内部被爆したんだ!」と気がつくはずだ!
そうしたら、自分の考えを公表して、自分は間違っていた!と脱原発運動を残りの人生の懺悔として行うべきだ!
24. 2013年9月25日 10:25:01 : rwoJUmfxhX
外国が輸入規制を継続しているなか、国内消費の現状では基準を超える食物を食べている現実があるのか。国内に流通しているのか。
03. 2013年9月25日 10:25:08 : 9SzL4u0yxE
Apple「作業風景撮影させろ」 日本の下請け「はい…」 → Apple「技術盗めたからお前んとこ切るわwww」
アップルの「植民地支配」が日本にもたらしたもの
http://www.lifehacker.jp/2013/08/130830book_to_read.html
日本を実質的に「植民地化」していたといっても過言ではない同社の姿勢。
第1章「アップルの『ものづくり』支配」から、いくつかを引き出してみましょう。
アップルによって"丸裸"に
アップルの取引先は、神経質な秘密保持契約を結ばされる一方で、"丸裸"にされてしまうのだそうです。
アッップルの支配は、取引先の情報をすべて把握することから始まる。
「通常、10〜20人体制で"Audit(監査)"にやってくる」のだという。
部材や工場に精通しているスペシャリストが多く、ごまかしで煙にまくことは不可能。
鋭い設問が次々と投げかけられ、素材メーカーの幹部は
「これだけ聞かれたら、原価計算ができてしまう」と。そして、不安は的中。
アップルの購買担当者と価格交渉をする際に、「原価はこれくらいだから、できるはずだ」と一刀両断された。
"移植"される日本の匠 技術が堂々と"移植"される。
新潟県燕市の中小企業の作業場で、彼らの姿勢を象徴するような出来事が。
「iPod」の裏蓋を職人がひとつひとつ手作業で磨きあげていた、磨きのプロの仕事場。
小型のビデオカメラを片手に、朝から晩まで、彼らの動作を撮影している男が立っていた。
「ちょっと作業風景を撮影させてほしい」アップルに金属部品を収めている金属加工メーカーからきた男は、
職人たちに近寄ると、手元にピントを合わせた。親方は、この撮影が何を意味するのか、直感的に理解した。
安い人件費で、大量に磨けるところへ移転させようということ。録画された技術は、アジアの別の国に"移植"された。
地元の研磨業者約20社が1日で1万5000〜2万台も磨き上げていたiPodの仕事は、地元から消えてしまったのだ。
これが決して特別なケースではなく、同じような企業が数多く存在する。
「iPhone5」のタッチパネル式液晶パネルをつくっていたシャープの亀山第1工場もそれにあたります。
06. 2013年9月25日 10:28:06 : Y2SMVFAUHE
福島原発:地元漁協が試験操業再開へ
「大部分の魚介類で放射性物質検出されず」
米原子力規制委前委員長「汚染水のコントロールは不可能」
米国原子力規制委員会(NRC)のグレゴリー・ヤスコ前委員長は24日、東京で記者会見を行い、福島第一原子力発電所の汚染水流出問題について「誰もが予想できる問題をこれまで放置してきたことに驚いた」と述べた。
同委員長は「汚染水はコントロールされている」という安倍晋三首相の発言について「現場で努力してはいるが、コントロールが不能な状態に至っている。地下水をコントロールするのは可能ではないだけに、汚染水の影響を最小限に抑えるべきだ」と主張した。
また「汚染水対策は事故を起こした東京電力が主体になって行うのが当然だが、日本政府がより徹底的に監督していくべきだ」と指摘した。
一方、福島県漁業協同組合連合会は、福島第一原発の汚染水問題を受け先月から中断していた試験操業を再開することを決定した。東京新聞が24日報じた。一部地域では25日午前から試験操業を再開するという。
同連合会は「今年7月から今月まで、魚介類や加工品を検査した結果、100種類の対象品目のうち95種類で放射性物質が検出されず、残る5種類も政府の基準値を下回った」と説明した。試験操業によって捕獲した魚介類は、放射性物質の検査用に使用され、市場に流通することはない。日本政府は試験操業に対し補助金を支給している。
東京=車学峰(チャ・ハクポン)特派員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
・http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/09/25/2013092500668.html
15. 2013年9月25日 10:29:47 : WVlCYg6IKg
ある時は「原発なくても電気はたりる」、またある時は「新党市民」、しかしてその実体は……!
「ミスター脱原発・藤島」として、「ミスター再稼働・野田」に堂々と闘いを挑む! 〜 脱原発国民連合・藤島利久
「脱原発国民連合」創設で全国行脚⇒ 国民相互の連絡網構築が必要だ。解散総選挙で脱原発派議員が衆院過半数を占めなければ、自民安倍新総理が誕生し、再稼働・新設の嵐が吹き荒れる。脱原発・反原発エネルギーを300小選挙区の脱原発統一候補のために結集しなければならない。全原発即時廃炉を求め、原発再稼動と新設に断固反対する公約を掲げ、公約違反をしない候補者を応援する。
総選挙の争点は「脱原発 VS 再稼働」だ!
総選挙は野田総理に対抗して千葉4区(船橋市)から立つ
550. 2013年9月25日 10:30:44 : MVEswqjBG2
〜〜〜〜〜〜〜〜
■◆ 原発常識の正伝【基本編10】 ◆■
→■◆ 原発常識の第1法則 ◆■原発は「原爆より、(ある意味)危険」!
>>432
→■◆ 原発常識の第2法則 ◆■原発は「公害(化学的毒)より、はるかに危険」!
>>432
→■◆ 原発常識の第3法則 ◆■原発は「通常機械ではない=管理できなくなればおわり」
>>432
→■◆ 原発常識の第4法則 ◆■人類は「レベル7」を解決した歴史がない。
>>433
→■◆ 原発常識の第5法則 ◆■原発健康被害は「3年前後から始まり7年後にピーク」。
>>433
→■◆ 原発常識の第6法則 ◆■原発事故では、ほとんどの人は、癌+奇形以外の、
心筋梗塞、脳梗塞、感染症、成人病等の普通の症状の急激な増大の要因で死んだ。
>>433
→■◆ 原発常識の第7法則 ◆■東京は、チェルノブイリ退去レベルの汚染がある。
>>433
→■◆ 原発常識の第8法則 ◆■最大の問題は『発送電分離』ができず「電力独占帝国」であること!
>>434
→■◆ 原発常識の第9法則 ◆■原発は「国防上、かえって危険」!
>>434
→■◆ 原発常識の第10法則 ◆■原発は結局「単なる一部のやつらの醜い利権のカタマリ」
>>434
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■◆原発常識の外伝【番外10】 ◆■
→■◆原発常識の番外 第1法則 ◆■電事法改正し、「発送電分離」し「総括原価方式」をやめないと、
我々の電気料金・税金の上乗せ分は永遠に「原発推進3大プロモーション費用」
=「@政界工作費→Aマスコミの国民洗脳費→B地元黙らせ費」に使われる!
世界中で日本しかやっていないオバカ「甘い汁システム」!!
>>476
→■◆原発常識の番外 第2法則 ◆■「太陽光発電」は「原発20基分」が設立認可済!
>>477
→■◆原発常識の番外 第3法則 ◆■「ミリのつかない単なるシーベルト【=1000ミリ以上】」とは、近づけば「即死」レベル!
>>479
→■◆原発常識の番外 第4法則 ◆■チェルノブイリでは「3000キロ離れた西欧」までひどく汚染された。
→ 欧米諸国が「脱原発する」最大の理由がコレ。
>>492
→■◆原発常識の番外 第5法則 ◆■核燃料が「地下水に達すれば」、その国はおわり。
>>500
→■◆原発常識の番外 第6法則 ◆■福一は、1〜3号機が<<メルトダウン(たぶんスルー)>>
>>513
→■◆原発常識の番外 第7法則 ◆■福一は、地下で<<再臨界>>
>>514
→■◆原発常識の番外 第8法則 ◆■「トリチウム」「ストロンチウム」「セシウム」は、それぞれ、
「水」「カルシウム」「カリウム」になりすまし、半永久的に生命を破壊する。
「プルトニウム」はそれ自体超猛毒。
>>528
→■◆原発常識の番外 第9法則 ◆■アメリカは「日本の脱原発に反対なんかしていない」!
>>531
>>532
→■◆原発常識の番外 第10法則 ◆■フクシマに恐怖する世界中が「脱原発」!
被爆の中心=日本人のみ狂気の原発推進継続!
>>538
〜〜〜〜〜〜〜〜
■◆原発常識の外伝【番々外3まで】 ◆■
【原発常識の番々外 第1法則】
★■◆ 東電の、東電による、東電のための、政治 ◆■(1)日本国最高権力者は「電力会社」!(2)「自民党」なんてパシリ!(3)「国民の命」なんて虫けら!
「電力会社の延命のために世の中の小さな事件まですべてが動いている」と仮定すると、すべてが非常によく説明できる。
>>540
→■◆原発常識の番々外 第2法則 ◆■放射能のため「(韓国どころか)世界中」が「日本食品(→中古車等)の輸入禁止」をしており「日本政府を信じていない」!
>>542
→■◆原発常識の番々外 第3法則 ◆■あらゆる公害は『最終的には企業・政府側が非を認める(時間がかかるだけ)』
○これから(原発ゼロを宣言しないかぎり)【自民党→石原維新】が滅びるとしたら・・・その原因は原発・放射能問題!・・・ナゼナラ、絶対解決しないから
>>549
12. 2013年9月25日 10:31:22 : cKftockbJN
田中角栄さんの事件の時にはわからなかったが、小沢さんの冤罪事件でもはや明確にはっきりとした事実が明確になった。
戦後今もつづくアメリカ属国支配体制のこと。
日本はまだ独立していないこと。
アメリカにお金をせびりつくされつづけていること。
2600年の日本を歴史を亡きものにしようとアメリカがしていること。
世界はユダヤの陰謀論ではなくて陰謀そのものだったこと。
アメリカがわざと戦争ばかり起こし続けてきていたこと。
今や世界でアメリカはならず者国家であり嫌われ者になっていることに気づいた事
新自由主義のなのもとに国家は支配しなくてもいい あらたな植民地の手法 が偽ユダヤたちに使われて戦後70年の西欧の取り組みがあること。
以前は少数の意見だったことだったこうしたことが大多数の意見に変わってきたことだ。目覚めてしまったわけだ。この流れはもうとまらないだろう。
07. 2013年9月25日 10:31:34 : NkcM68sxTg
そもそも金を払って欲しいものを手に入れた奴を「神様です」などとたわけた勘違いさせてる思想が悪い。三波春夫の歌が発端だと思うがこんな勘違いをTVで流したらバカな奴らはその気になる。
しかもしまむらで安物を買った奴が「神様」かよ(笑)バカが客ぶってクレーム付けて偉そうな態度でストレス解消しただけだろ。店もはっきり言ってやればいい。もっと金を使ってから客ぶれっ!と。
16. dais 2013年9月25日 10:31:44 : rQdtsUQgJxaSQ : wedJsZrCbo
チェルノでも3号機内部の燃料物質がどこにどの程度あるかははっきりわかっていませんよ。わかっているのは比較的大きな塊がどこにあるかだけです。
時間も除染方法の一つです。
石棺は放射性物質の拡散を防ぐ為のもので当然チェルノでも将来に燃料物質の取り除きは行われる予定ですが、現時点で高線量の燃料物質を取り出す技術はおろか近づくことさえできないので、石棺で拡散を防ぎ時間を稼ぐのは道理です。
ただし、石棺建設時の作業員の被曝はまぬがれません。
確かにチェルノ石棺もガレキの上に建設しており構造はメチャクチャです。小さな穴もそれなりに空いており完全密封状態ではありません。しかし拡散を防ぐという意味では福島のように何もしないよりはマシという事です。
13. 2013年9月25日 10:33:22 : m9XJiCiCzr
本当のサービスと「卑屈」は違う。
お客様には、毅然として、かつ礼儀正しく接するべし。
プレイヤーで「ベイビー・カム・バック」
http://www.asyura2.com/11/music4/msg/795.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 9 月 20 日 12:01:22: tZW9Ar4r/Y2EU
http://www.asyura2.com/13/music12/msg/555.html
88. 2013年9月25日 10:39:04 : fFgBYtzN4E
43です。
27さんや47さんと、私の考えてる事がちょっとずれているようです。
現在、正常な状態にある原発は廃炉は十分可能でしょう。
しかし、メルトダウンした福島原発は廃炉ではなく、核燃料や放射能を閉じ込めておくだけしかできないのではないですか?
この事を、廃炉とは考えていません。
爆発して、メルトダウンして、とろとろになった核燃料を回収する事などできないと思いますが・・・。
01. 2013年9月25日 10:40:09 : 895q02uNGI
黙蝉寺の鍬 /9月25日の気になった情報
《ユダ金の阿修羅特派員=ダイナモに捧ぐ》
◆米国の貧困化と海軍施設銃乱射事件と銃規制の関係
http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130923/1379904516
米国の貧困が、さらに深刻化しているそうです。
夢の終焉:貧困層が増える米国
先週、2008年の世界金融危機から5年が経過した。米国の統計局が、同国の世帯所得について発表したところによると、米国の貧困率は15パーセントとなり、米国の中間層の所得は、25年前より減少したことが分かった。
「アメリカンドリーム」は、すでに夢物語となっている。経済学者たちを信頼するならば、米国はすでに、「クロンダイク・ゴールド・ラッシュ」、平等、富などのイメージを失っているという。
統計局が発表した2012年の家計調査報告では、米国人の15パーセントにが、貧困層に属する生活をしているという、非常に悲しい結果が明らかとなった。貧困層の数は、1年前より約30万人増え、およそ4650万人となった。
米国では、4人家族の所得が2万3492ドル以下の場合、「貧困」と認定される。専門家たちは、「極度の貧困」という表現が適していると語っている。食費、住居費、交通費、被服費、医療費などを考えた場合、4人家族が1ヶ月2000ドル以下で暮らすのは、ほぼ不可能だ。だが、1989年と2012年の米国の中間層の所得を比較した場合、インフレ調整後の四半世紀前の所得は、約600ドル多かったという。カリフォルニア大学のポール・シェルドン・フット教授は、次のようにコメントしている。
「雇用データを基にした米経済回復に関する情報は、概念の置き換えに他ならない。それらは人々を欺くためのものだ。現在、雇用創出の大部分を占めているのは、ウエイトレスやウエイター、バーテンダー、その他の低賃金の職業だ。米国人の大多数は住宅を購入できないため、親と同居している。銀行預金の利息も低いため、老後に備えることもできない。」
約1週間前にカリフォルニア大学、オックスフォード大学、パリ政治学院の経済学者たちが発表した報告書によると、米国では、最も裕福な1パーセントの層と、他の層との所得の差が、最大限に拡大したという。調査によると、最も裕福な1パーセントの層の所得は2012年、全所得の19パーセント以上を占めた。大恐慌の時でさえ、このようなことはなかった。
http://japanese.ruvr.ru/2013_09_22/121756600/
米国民の15%以上が貧困層に落ち、中間層の所得は25年前の水準より低くなっているそうです。
さらに、貧困層と富裕層の差が最大限に拡大!
最も裕福な1パーセントの所得は2012年、全所得の19パーセント以上!
大恐慌の時でさえ、このようなことはなかった!との事。
もちろん、この富裕層1パーセントというのが、ユダ金ちゃん達なんですが、米国民の一部が、その事に勘づき始めて居る訳ですね。
すると、どうなるかと言うと・・・
米国一般市民の覚醒 → パンデミック → 米市民の暴動
アメリカ人は、バリバリの肉食人種です!
もしパンデミック状態になったら、日本人みたいに大人しくしていないでしょうねー。
各々、銃を片手にCFRを目指すんでしょうね?
なーんて、思っていると、およよー?
何とも絶好のタイミングで、海軍施設で銃乱射事件が起こる訳です!
そして、黒いユダヤ人のオバカ大統領が、市民から銃を取り上げようとする!
オバマ米大統領、改めて銃規制強化訴え 軍施設での銃乱射受け
「刀狩り」ならぬ「銃狩り」で御座いますな。
先の「海軍施設での事件」は「銃狩り」の大義名分に成りましたな。
まさか、先の「海軍施設での事件」はまた、また、また、また、「自作自演」とは言わせませぬぞ?
偽ユダヤ財閥とCFRの連中は「奴隷層」であるアメリカ国民如きに「蜂の巣」にされるのがお気に召さないようで御座いますな。
「蜂の巣」では済まされませぬぞ?「粗挽きミンチ」にされてマラーノ(家畜)の餌になるので御座いましょうな。ほほほ
ひょっとこ談義さんより抜粋
http://ameblo.jp/duviduva/entry-11619765405.html
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【9月23日 AFP】バラク・オバマ(Barack Obama)米大統領は22日、先週に銃乱射事件が起きた米首都ワシントン(Washington D.C.)の海軍施設で開かれた追悼式典で演説し、「先進国の中で、このような暴力に耐えねばならないような国は一つもない」と述べて、改めて銃規制強化の必要性を訴えた。
米連邦議会議事堂からわずか数ブロック離れた海軍施設で16日に起きた事件では、元海軍予備役兵の男が銃を乱射し12人が犠牲となった。
米国では、この他にもこの数か月間に複数の銃乱射事件が起きており、その都度、オバマ大統領は銃規制の強化を訴えてきた。しかし反対派議員らは、銃所持は合衆国憲法で保障された権利だと主張し、銃購入の際に身元照会義務付けなどを盛り込んだオバマ大統領らの銃規制法案の成立を妨げてきた。
追悼式典での演説で、オバマ大統領は、自分が述べるメッセージは何ら新しいものではないと認めたうえで、またも繰り返された銃乱射事件は米国人に警鐘を鳴らすものだと強調。「われわれが流した涙も、口にしてきた言葉や祈りも、まだ十分ではない。犠牲となった12人の男女を真に悼み、誰もが無意味な暴力を恐れることなく道を歩いて職場や学校に通うことができ、銃の弾丸で多くの命が奪われることのない国を目指すなら、変化が必要だ」と述べた。
さらにオバマ大統領は、米国の殺人発生率は他の先進国の3倍、うち銃によるものは10倍も多いことを指摘し、その原因は銃が簡単に入手できる米国の状況にあると述べた。(c)AFP/Dave Clark
AFPBB News
2013/9/23
http://www.afpbb.com/article/politics/2969847/11395213
43. 2013年9月25日 10:44:46 : MVEswqjBG2
★これから【自民党+石原維新】が滅びるとしたらその原因は「原発・放射能問題」!
ナゼナラ、これだけは正真正銘、「絶対に」解決できないから!
(1)化学的公害と異なり放射能を消すことは不可能。
(2)来年以降、首都圏〜東北で何百万人も被爆症状が出てきて、絶対ごまかしがきかない。
http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/552.html
03. 2013年9月25日 10:50:15 : 4MwbzKOVYQ
今やマスコミが揃って印象操作をする時代です。
たったこれだけの事実の報道すら行わず、
東電を庇って、事件の隠ぺいを図る
たった今、泉田知事が東電社長と面会したという事実ですら
政府・財界の御用達の日経にかかると
『柏崎再稼働へ一歩 東電社長と新潟知事』という
見出しにされてしまう。
もはや日本のジャーナリズムは、岩上安身氏ほか数名の
フリージャーナリストにしか残っていないのでしょう…
25. 2013年9月25日 10:50:21 : MVEswqjBG2
●これから<<自民党+石原維新>>が滅びるとしたらその原因は【原発・放射能問題】!
●なぜなら・・・これだけは正真正銘、「絶対に」解決できないから!
■1■ 化学的公害と異なり放射能を消すことは不可能。
■2■ 来年以降、首都圏〜東北で何百万人も被爆症状が出てきて、絶対ごまかしがきかない。
http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/552.html
08. 2013年9月25日 10:52:08 : 895q02uNGI
黙蝉寺の鍬 /9月25日の気になった情報
若者を腐らせているマスコミ・・各局に蔓延る客寄せパンダ2世たち!
平成最悪の社会的不平等に群れる・・愚民視聴者!馴れ合いブラック社会の断面!
◆マスコミ最大のタブー?業界に広がる“有名人二世”入社の功罪〜問題児から実力者まで
http://biz-journal.jp/2013/09/post_2973.html
日本テレビ社員である次男が窃盗未遂容疑で逮捕され、窮地に立たされているみのもんた。週刊誌などではその進退に注目が集まっているが、一般視聴者が気になっているのは、みのの長男もTBS社員であったこと。高橋英樹の娘で元フジテレビアナウンサーの高橋真麻を筆頭に、俳優・生田斗真の弟・生田竜聖も同局アナ、櫻井翔(嵐)の妹が日本テレビ記者であることなどは有名だが、じつはこのほかにも、テレビ局には芸能人・政治家の血縁者が数多い。
まず、みのの次男が勤務している日本テレビだが、「ひっじょうにキビシーッ!」のギャグでも知られるコメディアン・財津一郎の長男が『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』などでプロデューサーを担当。過去には石原慎太郎・前東京都知事の長男で、現環境相兼内閣府特命担当相の石原伸晃も報道局に在籍していた。
同じようにTBSも、小渕恵三元首相の娘で現自民党議員の小渕優子が『はなまるマーケット』のADで、父の逝去に伴い選挙に出馬するため退職したことはよく知られているが、今年引退を表明し、三女を後継にすることを明かした加藤紘一・同党元幹事長の次女も同局社員。さらに、映画監督・山田洋次の次女も同局の社員である。山田の場合は、過去に週刊誌で“「日本人なら誰でも、その人の作品を観たことがある」という超有名映画監督の娘”と名を伏せられながらも、「ロケの費用を会社から全額預かっているのに連絡なしで遅刻。おまけに、『娘はちょっと体調がすぐれないようなので、今日のロケには行けません』と親から電話が入る」などと、バカ娘&バカ親っぷりを暴露されたこともあるほどだ。
一方、テレビ朝日では、『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』で司会を務めるジャーナリスト・田原総一朗の娘が、プロデューサーとして『徹子の部屋』や『世界の車窓から』を担当。また、昨年、東北楽天イーグルスの球団社長だった島田亨と結婚し退社した石井希和アナも、『渡る世間は鬼ばかり』などで知られるテレビプロデューサー・石井ふく子の親戚に当たる。
もちろんあのNHKにも、日本を代表する作曲家・黛敏郎の長男や、俳優・田中邦衛の長女が入社。アナウンサーの魚住優は女優・浅野温子の一人息子である。また、テレビ東京にも地味ながら俳優・前田吟の長男が入社したり、一世を風靡した海老一染之助の息子が報道局に在籍している。
●親同伴入社式、フジテレビの“二世”入社事情
こうして紹介しただけでも、いかにテレビ局には有名人の子息・子女が多いかをおわかりいただけるかと思うが、驚くべきはフジテレビである。前出の高橋真麻はもちろん、俳優・宇津井健や陣内孝則の長男、ミュージシャン・ムッシュかまやつの長男、放送業界の重鎮である永六輔の次女、中曽根康弘元首相の孫、小説家の遠藤周作や黒井千次の息子など、有名人の血縁者は挙げるとキリがない。ジャニーズ事務所の副社長でジャニー喜多川の長女である藤島ジュリー景子も、役員秘書室に在籍していたことがあるほどだ。
当然、有名人の血縁者だからといって、みのの次男のように“問題社員”とは限らない。フジを例にすれば、俳優の故・竜崎勝の娘である高島彩や、脚本家・山田太一の娘で、『101回目のプロポーズ』『最高の離婚』などのドラマを演出してきた編成制作局ドラマ制作センターゼネラルプロデューサーの宮本理江子など、実力が光る者もいる。
だがその一方で、ムッシュかまやつの長男がフジ在籍時に歌手デビューし、会社員にもかかわらずキャンペーンで2カ月間も全国を回り、「いつ仕事をしているのかと首をかしげてしまう」と週刊誌に書かれたり、陣内孝則の長男に至っては入社早々Twitterに「入社式からのまさかの赤坂で家族でご飯わず。開店50分前なのに店を開けてしまう父さんの影響力は改めてスゴさを感じた^^;」とつぶやき、炎上。このほか研修や人事についてもつぶやいていたことで社内でも大ヒンシュクを買い、“コネ史上最大の問題児”と報じられるなど、問題が多いのは確か。
そもそも、一般常識として信じられないのは、フジテレビの入社式が親同伴であることだ。これでは「コネ入社ばかり」「視聴率の4位陥落もそのせいでの人材不足が祟った」とツッコまれても仕方がない。
また、有名人子女の入社が目立つのは、テレビ局だけではない。大手新聞社には政治家の縁者が結構いるし、大手出版社では作家の息子や娘が数多く社員として働いている。ほかにも、有力スポンサーや大手広告代理店幹部の子女など、マスコミ業界の会社内は、既得権益を持つステークホルダーの親族だらけなのだ。
つい先日、大手出版社系のニュースサイトが「有名人子弟社員だからといって『コネ入社』かどうかは微妙」という、やけに言い訳じみた記事を掲載していたが、もしかすると、このコネ入社問題はマスコミが一番触れられたくない最大のタブーなのかもしれない。
911ビルは白色偽ユダヤのアホブッシュの弟が警備をしており数日間の停電を経てテロが起きたが普通に考えればその時に
制御解体の準備をして当日に飛行機だかミサイルだかプラズマ兵器だかを使用したのに合わせて爆破した自作自演である。
だから無関係な第7ビルも倒壊しその20分前に白色偽ユダヤの女子アナがそのビルをバックに倒壊しましたーとフジの偽キムチ
婆アナの安藤が奈良で大地震が発生しましたーとヘマをやらかしたのと同じ事が起きてしまったのであり翌日に連中が大借金を返済
する予定だったというタイミングで請求書の保管してあるビルが狙われたという訳で借金踏み倒しと火事場泥棒というか放火をした
という事である。
女房が何人も死亡しSMの趣味があり子供の時に放火の前科があるやさ男がいたが奴も知人に殺害を依頼していたようだがそれの
白色偽ユダヤ版だったという訳で偽ユダヤダマスゴミも偽キムチダマスゴミも連中の下部組織に過ぎないから未だに報道せず解明を
期待された黒色偽ユダヤのオバカも911の前に死亡した筈のビンさんの射殺という儀式をさせられた訳だがここにきて米英仏イ
バビロンの力が弱まり米兵の8割がそっぽを向きだした事で遅まきながら当たり前の事実が噴き出てきたという事である。
全ての宗教はバビロニアが奴隷を従順にさせる為に発明したものだがそれを人類が改良・改善を加えて生活に役に立つように昇華
させてきたと同時にそれでは困る連中による教義の改竄というイタチゴッコが今日まで続いているが悪魔のような軍事技術が民生で
よい使い方をされるのと同じだがそれぞれ分厚いレシピを持っているが要はモーゼの十戒をああたらこうたら重々しく長ったらしく
説明しているだけの話だがその目で見ると911を起こす奴がいる事自体信じられないが十戒が邪魔で仕方ないくそじじいはその逆
をタルムードとして営業指針にしているから平気で馬鹿げた事をする訳でそんな連中は311も起こすという事である。
だから人類も女子高生みたいに信じられなーいとかいう所で思考停止して連中の流すイスラム過激派の仕業という話を鵜呑みにしない
で一から十まで連中が計画しアフターフォローまで準備している事に気が付く事である。
そうすればあれもこれもそれも連中かパシリの仕業で旬の話で言えばケネディ暗殺もそうだし歴史の教科書も改竄されていてヒトラー
も連中の一味でタイタニックも悲劇ではなくて連中のテロだった事が簡単に分かってくるという事である。
またかろうじて戦争世代が生きているうちに連中の嘘がばれてきて良かったが真珠湾攻撃もルーズベルトという白色偽ユダヤが五十六
らのパシリを使って起こした自作自演である事は偽キムチ小泉やトロイの前原らを見ていれば同じ事が半世紀前にも起きていた事が
分かるし先程の宗教の改善と改竄ではないが明治維新も連中の罠であると同時に日本人が長州の偽キムチに抗いながら良きものにして
きた面もあり何事もそうだが歴史とは善悪で図れないというのは思考放棄だがまともな人達が連中の妨害と戦いながら紡いできたもの
であるという事を頭に入れて調べていく事が大事でそれには学者ではないのだから正確さよりも大意を掴む事を重視し8合目あたりで
連中にミスリードされて満足するようなアホにはならぬ事である。
これまでは連中の起こす事を連中が犯人である事を突き止める事で満足してしまった者も多いと思うがそうではなくて連中の悪巧みの
パターンこそ究明すべきでどの方程式を使って今回の悪行をしでかしたのかを即座に見抜く癖をつける事である。
そうすれば次の工程で連中が何をしでかすかも予想ではなく予測する事ができ先回りして連中の悪行を潰していく事ができる訳で海外
では偽ユダヤ批判禁止法の壁があるもののそのようにしてかなり追い詰めているようである。
戦後日本で起こった不可解な出来事も全て連中が偽キムチを使って起こしてきた事でパシリを批判した所で連中は痛くもかゆくもなく
罪も憎んで人も憎んでいいがパシリを憎む暇があったらくそじじいの方程式を暴く事に神経を割く事である。
http://www.asyura2.com/13/cult12/msg/229.html
41. 2013年9月25日 10:52:40 : MVEswqjBG2
◆これから《自民党+石原維新》が滅びるとしたらその原因は【原発・放射能問題】!
◆なぜなら、、これだけは正真正銘、「絶対に」、解決できないから!
◆1◆ 化学的公害と異なり放射能を消すことは不可能。
◆2◆ 来年以降、首都圏〜東北で何百万人も被爆症状が出てきて、もうゴマカシがきかない。
http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/552.html
08. 2013年9月25日 10:53:36 : fFgBYtzN4E
07さんのおっしゃるとうりだね。
お客様は神様ですという考えが、あの尼崎連続殺人の要因の一つでもある。
現代社会の悪を助長させるこの社会の仕組みを変えなければならない。
04. 2013年9月25日 10:54:09 : GWgfOtzy4g
敵である悪徳の中韓と戦端をひらけばいいじゃないか。ソウルを総攻めするるべきだろ。どうせ日本は半島勢力の半島カルとの311テロ攻撃のために東日本は壊滅だから仕返しをしろ。この100年の彼らの悪行の限りをつくした攻撃にたいして反撃するときだ。日本国内の半島勢力は追討すべきだ。さあ、忙しくなってきたぞ。シナ半島と憂国の開戦だ。日本を守れ。
12. おじゃま一郎 2013年9月25日 10:56:04 : Oo1MUxFRAsqXk : oDqNn0ikQo
>泉田知事「長崎、広島で累積被曝量1mSv超えた人は被爆手帳で医療費無料になる」
福島原発事故で累積被曝量1mSvを超えた人を対象にすると数がおおくなり
対策に政府支出がかさみ、消費税は30%になると政府は考えているのかもしれない。税は公平であるのが原則であるから、反原発派だけ、免税というわけには
いかない。
02. 2013年9月25日 10:58:07 : GWgfOtzy4g
かけて無い半島人に年金をだすな。生活保護と年金で血税を泥棒する半島人を排除しろ。話はそれからだ。なんで日本人には生活保護をだしてこなかったのに半島人にはだしてきたんだ。捕まえろよ。関係者全員。自衛隊は出動しろ。
01. 2013年9月25日 11:02:06 : DBsNvIljO1
スペースを確保したり、スタッフの手当などとの見合による収益率がどうかということだな。
26. 2013年9月25日 11:03:02 : fFgBYtzN4E
そもそも、経済発展=自然破壊という事を忘れてはならない。
最近の異常気象も自然破壊が原因の一つだと思う。
これからの公共事業・土建業は、経済発展のためではなく、自然を取り戻すような事業にしていかなければならない。
日本は、ミャンマーなど自然が豊富なところに工場を沢山建てようとしている。
タイやインドネシアなどもはや手遅れだが、ミャンマーはまだ間に合う。
マンミャーの自然を壊して、道路を作ったり、工場を作るのはやめてもらいたい。
44. 2013年9月25日 11:03:12 : IL3lrOSfTw
アメリカの輸入禁止は増えています。
▼9/9、コッソリと厳格化された米国の放射性物質に係る輸入規制 〜対象県が8県から14県に〜暗黒夜考
http://www.asyura2.com/13/genpatu33/msg/723.html
53. 2013年9月25日 11:04:29 : GWgfOtzy4g
この311テロ攻撃に半島カルとが関係してると、2ちゃんで出てるが本当なのか。日本人を減らすためにやってるそうらしいのだが。本当なら、もう半島にでていけ。もうくるな。酷いやつらだ。日本の人口6000万だって。日本人と韓国人を入れ替えるつもりなのか。日本人を妬むなよ。こっちくるな。
04. 2013年9月25日 11:05:08 : R2DYa1rIQ2
日本人なら日本製を買おう
01. 2013年9月25日 11:06:20 : Ez264JDDpM
交通機関で隠しカメラを回すと、手に縄がかかり、
放送では、逮捕されない。
17. おじゃま太郎 2013年9月25日 11:06:40 : aovs7hVGpg.4I : VxKD1TB0FQ
02「天才政治」
「世界の英知を集めても福一は手遅れ」なら、「天才政治」は世界の英知
じゅあないってこと。地球外生命の英知?なんかこのごろみかけるけど、
YOU TUBEのコメント覧にでてくる「お金さしあげます」みたいにいかがわ
しい宣伝だよ「天才政治」屋さん。
宗教(モドキも含む)の勧誘は地べたを這って個別訪問をお願いしますよ。
ここじゃやらないでほしい。
02. 2013年9月25日 11:06:44 : xFyTerZR6s
埋め込みコードいじってみたけど、「閉じる」ことはできんようね。
08. 中田のみや 2013年9月25日 11:09:13 : Ppx1BoMyX1YIQ : vecfdCa5Dk
国民の税金食いつぶす検察は、国民の目をごまかす事ばかりに徹している。
真実事実を追求なんて真っ赤なうそ、犯人を勝手に仕立てるゲーム感覚で
これをエリートとは言わない。点取虫の世間知らずこそ、国民のとのガップを感じるものである。
02. 2013年9月25日 11:09:57 : GWgfOtzy4g
酷い話だ。鮮人は道徳ない悪徳の限りだね。嘘と捏造のなかで生きてるから何が本当の自分かが解からなくなってくる。この連中の遺伝子をいれたらだめだ。嘘をつくなが基本だ。阿鼻叫喚の世界になるぞ。だいぶ入ってるらしいね。
01. 2013年9月25日 11:10:49 : nJF6kGWndY
>国内企業の7割前後が法人税を納めていない
個人同様、法人も真面目に払っている一部だけがバカを見ているということだな
>情報サービス業での税・社会保険料の負担比率では、日本44.2%、アメリカ46.7%、ドイツ55.7%、フランス70.1%と、「数字を見る限りでは日本企業の負担比率は先進国に較べてむしろ低い
個人も同じ アメリカに次いで低い
http://www.mof.go.jp/gallery/201311.htm
財政も破綻して当然ということだ
http://blogos.com/article/68096/
「日本の法人税は国際的にみて高い」のだろうか?
財務相のホームページの「実効税率の国際比較」http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/corporation/084.htmを見ると、日本(35.64%)は米国(40.75%)についで高い。ちなみに他国の状況はフランス(33.33%)、ドイツ(29.55%)、中国(25%)、韓国(24.2%)だ。
だが法人税(法人所得税と地方税)のみを見るだけでは、企業の実質的な税負担の比較はできない。つまり社会保険料の負担程度を含めて考えないと本当の企業負担の比較はできない。
財務相の資料http://www.mof.go.jp/tax_policy/tax_reform/outline/fy2010/zei001e.htmによると、例えば日本の自動車製造業の場合、国税11.2%、地方税11.8%、社会保険料7.4%合計30.4%となっている。アメリカは国税18.9%、地方税3.5%、社会保険料4.5%合計26.9%、ドイツは国税13.1%、地方税12.2%、社会保険料11.7%合計36.9%、フランスは国税19.3%、地方税22.3%合計41.6%だ。
このデータは色々なことを示唆している。まず税金についていうと「法定の税率」と企業が実際に支払っている税の負担率ではかなり差があるということだ。前述の財務相のデータは注釈によると「財務相がKPMG税理法人に委託して作成した資料」で法人所得課税と社会保険料負担を「税引前当期利益+社会保険料負担」を除して比率を計算している。
ところでトヨタ自動車や日産自動車の実行税負担率は30%以下だ。文藝春秋9月号「法人税を下げる前に企業長者番付の復活を」(富岡幸雄中央大学名誉教授)によると、トヨタ自動車の実行税負担率(法人税等納付額÷税引前利益)は27.1%。どうして法定の税率より実行税負担率が低いかというと「受取配当金の益金不算入」などで税法上の課税所得が低くなっているからだ。
公的医療保険が充実していない米国の場合、企業が従業員の民間保険料を負担することが多い。資料によると米国の自動車産業が負担していたと推定される民間保険料は15.4%。もしこれを企業の税・社会保険料負担比率に加えると米国の自動車産業の負担比率は5割を超えていた(2006年当時の資料でありその後米国の自動車産業は破綻等で大幅に保険料負担を減らしたが)。
なお他の産業について税・社会保険料の負担比率を見ると、情報サービス業では日本44.2%、アメリカ46.7%、ドイツ55.7%、フランス70.1%、銀行業では26.3%、アメリカ27.8%、ドイツ23.8%、フランス31.3%となっていた。
16. 2013年9月25日 11:12:15 : urKiPCkocY
空きカンは、正直に「福島には30年は戻れない。」ホモ・ノウダは「福島終息」を宣言。アヘもまた、「福島は(原発マフィアに)アンダーコントロールされている」と宣った。誰が福島一県を日本から失わせたのか。
01. 2013年9月25日 11:12:49 : xFyTerZR6s
いいね。懐かしい。Lalalalaのとこしか、よく覚えてなかったけど。(笑)
Sands and Hills and Rings のRingsって何かな。砂丘の円形の模様ということかな。
26. 2013年9月25日 11:15:10 : FbGdHh0gUE
★大企業ばかり見ている安倍内閣は、最後の亡国内閣だろう。
藤原直哉のラジオ放送
http://fujiwaranaoya.main.jp/130925.mp3
07. 2013年9月25日 11:15:11 : GWgfOtzy4g
個人でできるわけがない。組織的にやってる。オウムと同じだ。
半島カルとだろうね。もう鮮人はでていってくれ。日本を破壊すんじゃないよ。くるな。酷い悪人だ。噂では凶悪犯罪者も殆んど鮮人だったのを隠してきたらしいね、本当なのか。もういいかげんにしろ。追討令をだせ。
08. 2013年9月25日 11:15:28 : FSvY3GSAPL
>管理人さん
この投稿は板違いとおもわれます
05. 2013年9月25日 11:16:36 : S67vf0iSXg
>さらに汚染された海水は太陽に照らされて蒸発して雲になり、
>雨になって降り注いで土壌を汚染します。
これは主にトリチウムのことでしょう。今後世界中で降る雨は多かれ少なかれトリチウムが含まれる雨となる。今後放射性物質(トリチウム等)の移動、循環、拡散は、自然の力、生物の力によって延々と続く。
トリチウムはベータ粒子を放出し内部被曝すると非常に危険。大半が水のまま体内に留まらずに排出されるが、魚、野菜などの食品の中で濃縮する有機物質として結合したトリチウムは、体内の組織に取り込まれ、一部が長い間排出されずに身体の中にとどまり、低線量であっても、周辺の組織やDNAに至近距離からダメージを与え続ける。ちなみにセシウムのガンマ線は電磁波の一種だが、ベータ線やアルファ線は荷電粒子。内部被曝の場合、危険度の高い順で、アルファ線>ベータ線>ガンマ線。
06. 2013年9月25日 11:17:18 : HDwovAiKsc
>>03さんに同意。
09. 2013年9月25日 11:18:18 : uNbmbeFb5M
名誉挽回?
権力の犬が名誉だと、この野郎、倍返しだ!
42. 2013年9月25日 11:21:02 : Fbrymlivsk
廃炉汚染漏れ防止に多額の予算を使うべしと言う正論が高まれば、オリンピックで東京再開発特需を期待する業界が困る。息子の窃盗疑惑セクハラ疑惑で、みのもんたは報道部署から干された。
オリンピック予算と汚染漏れ対策予算を比較し政府批判したタイミングで、息子の窃盗疑惑は、当局がリークした。上記のセクハラ疑惑も10月福島第一4号機取材宣言の後のタイミングで騒ぎ始めた。
セクハラ常習者なら、もっと前から騒ぎになっていてもいいはず。問題はなぜこのタイミングだったか?
大きな不都合を隠すため、これまで利用してきたみのもんたを報道の檜舞台から消したと考えるのが自然。
事象解析
それによって だれが利益を得るか?
オリンピック特需によって利益を得るのはまず、大手広告代理店。
矛先をみのもんたへの憎しみに向ける事で政府批判が緩和されオリンピックに名を借りた東京再開発で、ゼネコンと天下りが大々的に復活する高級官僚さんたち。
朝ズバは、天下り問題を追及してきた時代は評価するが、西松事件の時、軽薄に贈収賄報道のスタンスで、証拠捏造して小沢批判を煽った。あの辺から、みのもんたの軽薄さが鼻につき、番組から消えて「因果応報、ざまーみろ」という気分もないわけじゃないが、理性に照らすと、このタイミングでその情報操作にのって踊らされるのは愚か。証拠もなく小沢闇献金騒ぎしていたバカを笑えない。
個人的な好き嫌いはさておき、日本人として考えるべき優先順位は、福島第一原発の放射能漏れ対策だと思う。
日本の将来、子々孫々の住む世界を思うとまずは、福島の廃炉。
朝ズバは、みのを卸す前に、みのに宣言させた4号機建屋の潜入取材だけはやらせるべし。
燃料プールが倒壊の危機にあるのを隠すため、息子の窃盗疑惑をでっちあげたのではないか?と考える方が自然。
女子アナ萌えファンには悪いが、番組中におっさんが女子アナとじゃれてる映像なんぞ、どーでもいい。日本人の子々孫々に関わる重大事案は、そこじゃない。
02. 2013年9月25日 11:23:51 : GWgfOtzy4g
韓放送協会、日本崩壊協会、日本ハングル協会とかいろいろあるよね。日本人の血税をつかって日本人を攻撃する半島カルとが運営してるんだろうね。視聴料は税金と同じだからね。もう売国奴協会に押し掛けて抗議するべきだろうね。
13. oldmac 2013年9月25日 11:24:29 : pT.944NZDmhqQ : GsxGRGQVqW
泉田知事は「東電はルール、手順を守っていない」と言っているだけで「原発を廃止する」とは一言も言ってはいない。これは再稼働もありえるとのスタンスを残しているという事だ。
03. 2013年9月25日 11:24:35 : uNbmbeFb5M
竹下登の、「ほめ殺し事件」を忘れてはならない
三宝会は裏の社会とマスコミを、つないで出来たのだ
03. 2013年9月25日 11:26:09 : y2D6eX286Q
埋め込みコードをコピーする際に↓が出て来るけど、そのままだと(1にだけチェックが入ってる。
1)のチェックを無くして2)にチェックを入れる。
すると貼った動画が「閉じる」
□動画が終わったら関連動画を表示する (1
□プライバシー強化モードを有効にする (2
□以前の埋め込みコードを使用する (3
45. 2013年9月25日 11:26:25 : Fbrymlivsk
嫁が妊娠中です。この情報は助かります。ありがとう!
01. 2013年9月25日 11:26:53 : GWgfOtzy4g
賎人がやってる嘘捏造あかひだな。売国の巣窟だ。すぐ潰すべきだ。でないとどんどん日本人を攻撃する。
35. 2013年9月25日 11:27:20 : emRAuJ6PCI
わからないことがあります。
森ゆうこ、辻恵、川内博史ら前議員の皆さんは、当時検察官適格審査会の委員でした。彼らは役職柄議決書を見ているはずです。
(検察審査会法第40条 検察審査会は、審査の結果議決したときは、理由を付した議決書を作成し、その謄本を当該検察官を指揮監督する検事正及び検察官適格審査会に送付し〜)
議決書には申立者や11人の審査員の氏名が明記されています。
ちなみに法務省検察官適格審査会事務局担当者に問い合せたら、議決書には審査員の氏名の他に住所も記載されているとのことでした。
お話は変わります。
「私は平成22年、東京第五検察審査会の第○郡の審査員・補充員をやりました」ということを自ら公表することは何ら検察審査会法に触れないと思います。
罰せられるのはあくまで評議の中身を漏洩した場合と認識しています。
未だに、審査員らから何も情報発信がありませんよね。仮に虚偽報告書で誘導されたなら議決の責任は虚偽報告書を作成し検察審査会に提示した検察に責任があるわけで、コソコソする必要はないと思うのですが。いったいどうなっているんでしょうね?
以前、森ゆうこ議員はツイッターで、「どなたか検察審査会の情報をください」とかいうようなことを呼びかけていました。
何らかの方法で彼女らが国会議員の時に、東京都民の有権者に向かって審査員経験者として名乗ってもらうことができなかったものかと思ったりもします。
それにしても検察適格審査会に出された議決書は、回し読みなのか、委員一人〃に配布されるものかどうか、事務局に聞いたら、「お答えできません」でした。委員から何もそのことに対して発信がないですね。
だから、検察適格審査会の衆参国会議員はお飾りか!という憤りを感じています。
つまり、私は国会議員が支持者に対し、一連の経過説明が不十分ではないか、そのあたりを大変疑問に思っています。行政期間に説明責任があると同時に国会議員にもそれを求めたいと思います。
36. 2013年9月25日 11:27:32 : k2iJnCyr2M
私は小沢氏の政治信条とそれから導かれる政策を支持しています。
従ってそれが誤った道に進めば支持しないだけである。
しかし、小沢氏のそれを否定する何物も存在していないのが現状である。
更に小沢氏以外に小沢氏を超越した政治家は日本には存在していないし、世界の政治家を見渡しても多くはいないだろう。
小沢氏のケツを舐めて日本が良くなるのか?品格を落とすような投稿は慎んだら如何ですか?工作員様!
08. 2013年9月25日 11:28:57 : RATpiZ8w7A
>>07さん
核種を測って無い事よりもセシウムのみの計測において
北西方向の飯舘村の方向のオレンジは、飯館村の汚染が比較的高いので説明できる。
けれどもこの分布地図において、それ以上にレッドになってる南西ないしは
南南西の先には、関東があるけれども比較的汚染が高い地域は無い。
(少なくとも飯館村と匹敵するような地域は無い)
南西、南南西方向に飛んでいったと思われる放射性プルームは
どこにいったのだろう。おかしいんじゃないかと思うわけです。
01. 2013年9月25日 11:32:35 : nJF6kGWndY
>今、東京都内の不動産利回りは4%、5%
新築物件の利回りが低いのは今に限ったことではないが
一番大きな理由は、やはり国内で楽に安心に投資したいという高齢富裕層が多いせいか
しかし、みんなで渡ると怖くない と思っていると、痛い目にあう可能性はないわけではない
http://www.minnadeooyasan.com/
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/market/1373272145/l50
都合の悪い流れになると毎回埋め立て荒らしがやってくる「みんなで大家さん」スレ
そろそろヤバい!というかホルダー涙目でお祈り中
最後の大花火が上がるのを待ちつつ楽しみましょう
■公式
http://www.minnadeooyasan.com/
都市綜研インベストバンク株式会社の行政処分
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2012/08/20m8m500.htm
都市綜研インベストファンド株式会社の行政処分
http://www.pref.osaka.jp/hodo/index.php?site=fumin&pageId=11162
46. 2013年9月25日 11:32:48 : 9fHHsea2Os
とある生協で検出限界値1bq/kgまで測って公表しているけど
この夏はじめて国産大豆で作った納豆から出てました。
常連さんはレンコン、さつまいも、原木栽培しいたけ、舞茸、落花生、山菜類。
これから秋の味覚として美味しいキノコ類や栗、秋刀魚…。
食欲ないわぁ〜。
05. 2013年9月25日 11:32:59 : vuQpagMXxI
この投稿は逆説ですよね。
一日も早く日本が真に独立することが何よりも重要です。
そうすれば沖縄の問題は自然に解決します。
そのためにまず憲法を改正しないといけません。
それまでは我慢に我慢です。
基地もTPPも年次改革要望書もそのための我慢です。
船橋洋一は秀才キチガイです(東大卒に多い)。
目先のことに惑わされてはいけません。
04. 2013年9月25日 11:34:22 : MVEswqjBG2
■★これから【【自民党+石原維新】】が滅びるとしたらその原因は<原発・放射能問題>!
■★なぜなら、、これだけは正真正銘、〔絶対に〕、解決できないから!
■★1★ 化学的公害と異なり放射能を消すことは不可能。
■★2★ 来年以降、首都圏〜東北で何百万人も被爆症状が出てきて、もうゴマカシがきかない。
http://www.asyura2.com/12/genpatu25/msg/552.html
25. 2013年9月25日 11:35:38 : Kwp7h8F2mg
↑
国内に流通していますよ。ストロンチウムがあるから、たいへんなことが起きます。
官僚は検査データを手にしているはずだから、自分たちは安全なものだけ食っています。
どんな手を使っても国民には汚染魚を食わそうとするでしょう。まず、奇形魚は検査に
は回さない。内臓と骨をとってセシウムだけ測る。大きな値がでたら異常値として捨てる。
検出下限値はおおきくとって、なるべくNDとする。エトセトラ、エトセトラ。
06. 2013年9月25日 11:37:19 : HDwovAiKsc
天木氏の意見に同感です。以前から私が考えていたこととも近い内容です。中国の領土になってしまうなどという妄言を吐く人がいますが、安定した国家が存在している時にそこに武力で理不尽に攻め入る国など、現代の先進国ではありえない発想である。あれだけ戦争に明け暮れていたヨーロッパの現実を見れば、そのような思考が第2次大戦前の化石思考であると断言できる。
17. 2013年9月25日 11:37:26 : p9hXC3NEJg
サンマは群れで行動するので、採餌の条件は同じと考えられる。
その場合、サンマは全体として大きくなる。
巨大サンマが1匹と言うことは特異な現象と言うことになる。
巨大化した原因は様々に考えられる。原因が、単一ではなく複合的であることもあり得る。
その原因の一つとして、福島原発事故に伴って環境中に放出された放射性物質が、関係していることも、十分考えられる。
脳下垂体が、通常の5〜12倍の放射性ヨウ素を取り込んだと言うチェルノブイリ原発事故の際の報告もある。
>The hypophysis (pituitary gland)actively incorporates radioactive iodine at levels 5 to 12 times higher than normal (Zubovsky and Tararukhina,
1991)
脳下垂体前葉からは、成長ホルモンが分泌されている。
バンダジェフスキー博士の研究から、子どもは、大人に比べて、大量のCs−137を甲状腺や脳組織に取り込むことが判明している。
http://premiumwanadoo.com/lesenfantsdetchernobyl.fr/BANDAJEVSKI_2009_VF.pdf
その濃度は、甲状腺で1200Bq/kg、脳組織で400〜500Bq/kgほどである。
成長に欠かせない内分泌系には、放射性ヨウ素だけでなく、放射性セシウムも影響を与えていることが分かる。
01. 2013年9月25日 11:42:13 : rqfzSHi37g
BIS破綻は誤訳「BISはもはや世界的な債務クラッシュを回避できないことを懸念。」
これホントだとすると、いつものようにだから言ったじゃないのと奴等がアリバイ作ってるのか
その筋には通知済みでサブプライムの時のゴールドマン・サックスのように売り逃げの上、空売り作戦でしょうか
ゴールド?中国デリバティブ?
第3部 1960年代
第16章 太陽にさらされたバターのように
1960年代初頭にアルフレッド・ヒッチコックが、「滅多に見つからない辺鄙な、人間によってスポイルされていない場所」と呼んで、映画『鳥』の舞台とした、カルフォルニアの小さな漁村ボデカとその入江の自然の景観は、今日人間のつくった醜い傷跡でずたずたにされている。4車線の道路が村と休暇村のコテージの間を通り抜け、干潟を横切って半島の先端まで伸び、地面に掘られた直径42メートル、深さ21メートルの大きな穴のところで終わっている。この穴は市民の抗議でご破算になった初めての原子力発電所(原発)の建設予定地の名残りである。
1961年にこの地にゼネラル・エレクトリック社(GE)の沸騰水型原子力発電所の建設が発表されたとき、この景観を守れという抗議行動がおこったが、建設は着手された。しかしその後、ごく近くに地震の原因となる断層がみつかり、さらに、強固な花崗岩だとされていた地盤が実は粘土や砂でしかないことが判明、1964 年計画は中止された。
しかし巣立ち始めたばかりのアメリカ原子力産業はこの躓きによって挫折することはなかった。彼らはニュージャージー州にあるバーネガット湾のオイスター・クリークに、1964年、沸騰水型原子炉の運転を開始することに成功した。この発電所を買い入れた電力会社は政府の補助金なしに建設できたことに満足した。これはのちに「ターンキー契約」として知られるようになった契約に基づくもので、メーカーがオファーした説備と建設を安価なパッケージにした取引だった。この方式はメーカーには多大な出血を強いたが、それを買い入れる電力会社が増えるにつれて、当初30もあった原子炉システムの中から2つのタイプの軽水炉が勝者として浮かび上ってきた。ウェスチングハウス製の加圧水型原子炉(PWR = pressurized water reactor)とGE製の沸騰水型原子炉(BWR = boiling water reactor)である。
1960年代初頭、このアメリカ二大電機メーカーの士気は低下していた。両社の総売上高は横ばいだった。1963年に両社ともトップに異動があった。GEの最高経営責任者となったフレッド・ボーチ(74) はGEの儲けがしらである電球部門を通じてトップにのし上った人物で、勢いがついたという現実の感覚を強めることによって企業の士気を立て直す決意を固めていた。彼は「進歩はわれわれの最も重要な製品である」との広告スローガンを採用、GEの資本の多くを、「未来的」な魅力を持つ、資本主義的でリスクの高い冒険的な一連の事業、すなわち、「コンピューター」「航空宇宙」「原子力」に注入しようと決断した。
一方、ウェスチングバウスの財政担当役員からトップに立ったドナルド・バーナム(75) も全く同じ問題に直面していたが、それにもうひとつ問題が加わっていた。ウェスチングハウスは加圧水型がリコーバーの原子力潜水艦に採用されて、原子炉開発ではリードを奪っていたが、売上高全体では依然としてGEに次ぐ第二位に甘んじていた。彼は、限定された目標しか追求せず、新しい冒険をしようとしないウェスチングハウスの「伝統」から脱皮するために、多方向に向けて会社を駆動させ始めた。レンタカー、低所得者向け住宅、スイス時計、メールオーダー事業、そしてビートルズのレコードを配布するレコードクラブにまで手を出した。そして中でも大きな成長品目は原子力で、その輸出能力を高めることによって、多国籍企業としての新しいイメージを創ることを望んだ。
原子炉開発では後れをとったGEは「サンシャイン作戦」と名づけられた沸騰水型原子炉の技術開発計画で巻き返しを計り、安価な「リターンキー契約」で電力会社をわし掴みにして、一気に「原子力ブーム」を巻き起こすことに成功した。するとウェスチングハウスも負けじと、電力会社に固定価格契約を提示した。
オイスター・クリークの規模は50万キロワットだったが、GEは翌65年には80万キロワット、その翌年には110万キロワットのモデルを提示した。これは同じように規模を拡大させていた石炭火力発電所と歩調を合わせたものだったが、1966年、GEは公有のテネシー渓谷開発公社(TVA)に原子炉を売ることに成功した。TVAは石炭地帯のどまん中にあり、石炭と水力を利用して成長してきたのだったが、自身に進歩的イメージを持たせることをひとつの狙いとして原子力を採用した。購入交渉にあたってTVAはとても厳しい態度を見せ、ウェスチングハウスや石炭火力との競争に勝つためにGEは採算を度外視した譲歩をせざるを得なかった。しかし「あのTVAが原子力を」という驚きとともに原子力への流れをいっそう加速させる象徴的な効果は絶大だった。しかし現実には原子カの資本コストは上昇し続け、一方、石炭火力の方は下降してきていた。
アメリカン電力(AEP)の元社長、フィリップ・スポーン(76) が、原子力発電に対して慎重論を唱えた。彼は「電力のヘンリー・フォード」と呼ばれた業界の最長老で、1947年から61年まで社長を勤めて、AEPを世界最大の民間電力会社に育て上げた人物だが、GEと電力会社との契約を詳細に分析して、次の3点を指摘した。
第ーに、電力産業や政府は「原子力ブーム」に煽られた結果、在来燃料の発電コストの低下、すなわち、石炭や石油のコストは10年前よりも安くなっており、またより効果的に燃焼されるようになっているという事実を、見積もりに組み入れていない。第二に、原子炉建設の実際のコストは、電機メーカーの推計を10〜15%上回っていると計算される。第三に、発電所が建設されたあと、電力生産に要するコストは予測を26%上回るだろうと、予言した。
彼は、原子力反対論者ではなかった。ただ、技術の着実な進歩には近道はないと考えており、注意深く一歩一歩技術開発を進めていくという伝統的アプローチが一過性の技術上の熱狂に呑み込まれてしまうのを懸念していた。
しかし、電機メーカーも、アメリカ原子力委員会(AEC)も彼の分析には反対した。GEはそれを「不当に保守的」と呼び、AECは「スポーン氏はもっと楽観的でもよかったはず」と述べた。原子力推進派にとっては、彼の頭の固い現実主義は流行遅れにしか見えなかった。スポーンのあとにAEPの社長に就任したドナルド・クック(77) は言明した。「原子力時代の夜明けが到来して以来、原子力の偉大な未来に会社が確信を抱かなかった時は一度もない」。
米証券取引委員会(SEC)の積極果敢な委員長だったクックは、社長就任当初から電力企業経営者のひどく重苦しいイメージを打破しようと心に決めていた。「革命はここでは当たり前のことだ」と言い切って、広告費の比率を業界平均の二倍に引き上げ、「われわれは電力のスーパーマーケットだ」と主張した。そして、AEPは巨大な量の石炭を保有し、そのアクセスも確保していたにも関わらず、クックは「原子力の進歩」に取り込まれていった。彼は1967年に2基の原子炉を発注し、ドナルド・C・クック1号炉、同2号炉と名づけたが、彼はのちになってこの買い物を後悔する。2つとも絶望的に完成が遅れ、近接の電力企業から電力を購入しなければならなかったため、最終コストは当初見通しの3倍以上に上昇した。そして、予定されていた3つ目の原子力発電所を石炭火力の発電所に変更せざるをえなかった。クックにとって不運だったのは、GEとウェスチングハウスがその損害の大きさに気づいて、「ターンキー契約」や「固定価格販売」を中止したあとだったので、初期の安売りの恩恵にあずかれなかったことだった。
この頃までには、すでに実績を築いていたこの2大メーカーは、世界市場を二分していた。ウェスチングハウスは1966年までに米国内で6基(合計出力500万キロワット)の原発を売却し、67年には13基(1100万キロワット)の追加発注を受けていた。またGEも、合計出力770万キロワットの原発を1966年までに売却し、67年には620万キロワットを売却していた。しかし、原子炉が大型化するにつれて、技術上のトラブルも現れはじめていた。
GEとウェスチングハウスの成功を横目に隣国のカナダでは、「民族主義的」な原子力科学者たちが、戦時中から研究していた重水炉を基に、新しい国産原子力産業を創出しようとしていた。その中心にいたのは、カナダ原子力公社(AECL)を創設したクレランス・ハウ(50)だった。彼に育てられた「ハウの弟子たち」は、オンタリオ水力発電公社のために、戦時中、プルトニウム生産のために開発した重水型天然ウラン原子炉(チョークリバー原子炉)の大型版の設計を開始し、1964年にヒューロン湖畔のダグラスポイントに20万キロワットの商業炉を完成させた。
アメリカでの軽水炉に対抗して、ヨーロッパでも、イギリス原子力公社(AEA)とフランス原子力庁(CEA)は、独自のガス冷却炉を開発中だった。しかし、オイスター・クリークで突破口が開かれると、両国の技術陣は動揺した。ガス冷却炉を継続しようという一派とアメリカの軽水炉技術を試みたいという一派の間で激しい争いが起きた。
イギリスの指導的な核技術者クリストファー・ヒントン(38) は、軽水炉を導入しようとする側の中心人物だった。AEAの幹部だったヒントンは、もともとは黒鉛減速型ガス冷却炉の推進者で1956年のコールダーホール原子力発電所開設の立て役者だったが、その年に起こったスエズ動乱によって危惧されるようになったエネルギー危機対策として政府が打ち出した、原子力発電計画の3倍化という政策には反対だった。彼は1957年にAEAを去り、イギリス中央電力庁(CEGB)の長官となった。原子炉の供給者から買い手の側に回ったヒントンは、「原子力発電所の開発、設計、建設は、その顧客が最も経済的だと考えるものを考えて決定しなければならない」と述べて、それまで国策とされていた、ガス冷却炉の推進に正面切って疑問を呈した。イギリス政府はいろいろ迷った末、結局、1965年にガス冷却炉を選んだが、その年に建設を開始した2基の原子炉(合計出力66万キロワット)は70年代末まで完成できず、その間に、そのコストは当初の4倍に膨れ上がっていた。
フランス原子力庁(CEA)の科学者たちは、フランスの核兵器開発のために直接的に原子炉を開発していたが、それはイギリスと同様、黒鉛減速型ガス冷却炉だった。それは自己過信を持って、アメリカの軽水炉技術に十分対抗しうるものだと宣伝され、民族主義的なシャルル・ドゴールらを満足させていたが、フランスの国有電力会社(EDF)は、イギリスのCEGB以上に厳しくガス冷却炉には反対の立場をとっていた。
その背景には理工科大学校(エコール・ポリテクニク)卒業生の2つのグループの争いがあった。CEAを牛耳るのはピエール・ギョーマ(48) に率いられた「鉱山組」だったが、EDFの支配権を握っていたのは「橋梁・道路組」だった。「橋梁・道路組」は、トップエリートが選択する「鉱山組」に次ぐ第二グループにあたり、「鉱山組」に対しては強い敵愾心を抱いていた。
1965年から69年までEDFの社長だったのは、戦後フランスの最先端を行くエコノミストだったピエール・マッセ(78) だった。世界で最も優れたシステムと認められるような電力投資決定・料金設定システムをつくりあげるという成功を成し遂げたマッセにとって、CEAにいる「鉱山組」のメンバーがたちが優越感を示すことは我慢ならないことだった。大型原子炉計画が浮上しはじめたとき、EDFはガス冷却炉の技術的諸困難を攻撃し、CEAはすべての困難の責任をEDFに押しつけるキャンペーンを政界や報道界に向かって行い、これまでにつくりあげた政界のコネを大いに利用して、問題をトップの会合に持ち上げるようドゴールに提案した。
1967年12月に開かれたその会議の冒頭、ドゴールはEDFを全面的に攻撃した。それに対してマッセはひるむことなく「この分野では如何なるタブーもあってはならない」と応酬した。ドゴールは最後まで、ガス冷却炉からの大幅な逸脱には賛成しないとの考えを変えなかったが、EDFがベルギーとの合弁事業で軽水炉技術の別の実験をすることは認めた。その後、1年もしないうちに、ガス冷却炉から新たな技術的困難が発生して、最終的決着が先延ばしされ、1969年4月にドゴールが引退するとCEAは後ろ盾を失った。後継者のジョルジュ・ポンピドーは現実主義者で、フランスの「自主独立」の論理にもそれほど囚われていなかった。CEA部内は例外として、フランス原子力産業界の中に、軽水炉がより効率的だという幅広いコンセンサスが生まれてきた。そして1969年11月に軽水炉への道がフランスの公式政策となり、その後、ヨーロッパ第一の原子力発電国になった。
【登場人物の整理】
(74) フレッド・ボーチ(米): GE最高経営責任者(沸騰水型原発を推進)
(75) ドナルド・バーナム(米):ウェスチングハウス社長(加圧水型原発を推進)
(76) フィリップ・スポーン(米):アメリカン電力元社長(原発導入に慎重論)
(77) ドナルド・クック(米):アメリカン電力社長(原発導入に積極的)
(78)ピエール・マッセ(仏):フランスの国有電力会社(EDF)社長(CEAに反旗、軽水炉導入)
第17章 愚かな夢
1966年10月5日、アメリカの原子力発電計画の中で最も野心的なものだったエリー湖畔のデトロイト・エジソン社の実験用商業増殖炉フェルミ1号炉が重大なトラブルに遭遇した。原子炉底部の金属片が緩み、炉心冷却剤の流れが部分的にとめられた結果、炉心部が加熱されて、一部が溶融し、危険な放射性がスを放出しはじめた。この時、原子炉の運転担当者たちは、何が故障したのか、それをどう修理すればよいのか何もわからなかった。彼らが損傷の範囲を突き止めるまでに6ヶ月、原因突き止めまでには丸1年がかかった。そんな重大事故だったにも関わらず、彼らは自信過剰な原子力事業のなかでさえも稀なほどの自信を誇示しつづけた。事故発生の4日目、破損した原子炉からわずか30メートルしか離れていない会議室で、技術者たちは彼らのボスであるウォーカー・シスラー(79) の69才の誕生日パーティーを開きさえした。シスラーは中西部の大電力会社のひとつ、デトロイト・エジソンの社長で、核狂熱家たちのなかでも最も強くそれにコミットしていたひとりで、増殖炉は彼好みの冒険であった。
1960年代中ごろまでにエネルギー生産手段としての「核の連鎖反応」が受け入れられるようになったことから、先進各国の原子炉設計者たちはそれぞれ身勝手な机上の見積もりを作成し、新世代のより進んだ原子炉の開発に数百億ドルもの資金を投入する必要性を訴えはじめた。それらの中で、消費する以上の量の分裂性燃料を生産する「増殖炉」が、将来のウラン不足への懸念を相殺するカギとみられた。アメリカにおいては、ジェット機やコンピューターと並んで、軽水炉原子炉の勝利が、1957年のソ連の人工衛星スプートニクによるショックを決定的に克服する契機となり、それによって回復された科学的な自信が、より新しい原子炉の開発への大きな追い風となっていた。
すべての原子炉はある程度は「増殖炉」である。アメリカのハンフォード、イギリスのウィンズケール、ソ連のチェリャビンスクの当初の黒鉛炉は、これらの国の兵器計画のためプルトニウムを増殖した。しかし創り出されたプルトニウムの量は、使用された分裂物質よりは少なかったので、「増殖炉(ブリーダー)」ではなく、しばしば「焼却炉(バーナー)」と呼ばれた。
分裂性のウラン235は、天然ウランには0.7%しか存在しないので、それを3〜4%まで濃縮したものを使用する第1世代の原子炉では、飛び回っている中性子を減速するために天然水を用いた。これは中性子をウラン235に遭遇させやすくして、連鎖反応を維持するためである。増殖炉では、非分裂性のウラン238に分裂性のプルトニウム239を4〜6%混ぜたものを使用し、天然水のかわりにナトリウムなどの冷却材を用いるので中性子は減速されない。そして高速の中性子はウラン238にぶつかって、より多くのプルトニウムを生産する、という原理である。
しかし、この連鎖反応は軽水炉に比べるとはるかに多くの技術的困難を伴うものであった。天然水の場合は、その中の気体の割合が増えて冷却能力が低下した場合には同時に減速能力も低下して、中性子の命中率も落ちて反応が低下するので、異常な発熱は起こらない。しかし、増殖炉の場合はもし、冷却能力が落ちる事態が発生しても反応はそのままなので異常な発熱を起こして、炉心溶融(メルトダウン)が起こってしまう。さらに、冷却材に用いる金属ナトリウムは水や酸素に触れると激しく反応するのでその管理がきわめて困難である、等々。シスラー・グループが巨費を投じて発見したこれらの技術的困難のため、1970年代中ごろに開発を放棄するまでのほぼ20年間、彼らは1億ドルをはるかに超す費用をかけた。しかし、これらの増殖炉は合計378時間しか運転されなかった。
シスラー増殖炉に先立ち、GEもその建設の可能性を真剣に追求し、1964年9月には、10年以内に商業用増殖炉を量産できるという見通しを発表したが、その後、技術的困難が増大したために、この発表については何も聞かれないようになった。しかしそんな失敗にも関わらず、アメリカ国内の新型原子炉に対する研究と投資の継続は後退しなかったし、1965年から67年までの間に、フランス、イギリス、ドイツ、日本、そしてソ連が大型の実験用増殖炉を建設することを決めていた。
その背景には世界のウランの供給が次第に減少しているという見通しがあったが、実はその根拠は薄弱なものであった。増殖炉支持論者は、ウラン埋蔵量のいかさまな数字に対比して、成功した軽水炉のウラン需要量に関する最大限の見積もりを並べ立てた。しかし、アメリカでもウランの採掘調査は十分には行われておらず、世界のウラン埋蔵量については実際何もわかっていなかった。
また、増殖炉開発の新計画は、ウラン採鉱を遅らせただけではなく、既存原子炉についての技術開発をも遅らせた。その第一は安全性を高めることであり、第二はその放射性廃棄物の処分について妥当な方法を発見することであった。
そしてさらに、増殖炉熱の中に、日本やドイツのように核保有国ではなく、核クラブに加わる意思のないことを明らかにしている国々が巻き込まれることによって、これら諸国が爆弾級のプルトニウムを大量に蓄積することになるという、いわゆる「核(兵器)拡散」という問題を懸念する声は、このころはまだ多くはなかった。
1964年11月、アメリカ原子力委員会(AEC)の原子炉開発部長に、ハイマン・ジョージ・リコーバー提督(52) の海軍原子力帝国が産んだ最優秀の人材のひとりであるミルトン・ショー(80) が任命された時、彼は改良型原子炉についてのさまざまな提案の集中砲火を浴びた。ウラン不足が取りざたされる中、30以上もの原子炉計画が提案され、AECはそれらに対して、大した技術的評価もせずに補助金を与えていた。誰も現実には何の責任も負っていない、こんなアナーキーなやり方はショーにとっては我慢のならないものであった。彼は師のリコーバーに倣って、目標をはっきりと決め、それに向かって計画を立て、それらを自己の完璧な制御下におこうとした。そして、リコーバーがかつて加圧水型炉をつくったのと同じように、彼は増殖炉を、その全段階を通じて手がけることになる。
優秀な技術者として、ショーは増殖炉が大規模な基礎技術開発の計画を要するものであることを知っていた。増殖炉は中性子を減速する減速材を持たないことから、その炉心のためには、ほとんどの物質が耐えられないような強度な放射線にも耐えられる新材質を開発しなければならなかった。これは研究チームの大きな努力と資金を必要とした。ショーはそれまで続けられていた5種類の新型原子炉の先進開発システムを3種類に縮め、1965年までに1種類、すなわち、増殖炉に集中する体制を築いた。
彼が第一の優先順位を与えたのは、大型実験炉をつくり、そこで必要とされるさまざまな新材質を改善し、最良のものにしていくことだった。また減速されない高速の中性子が相互に衝突して減速するのを避けるためには、炉心でのいくつかの設計上の工夫が必要だった。さらに冷却材として使用する溶融したナトリウムをうまくコントロールするシステムも確立しなければならず、これらはかつて人類が遭遇したことのない最も注文のうるさい技術的な挑戦だった。
ショーはこの挑戦にも、GEの最終的な失敗にも、エリー湖畔でのシスラー増殖炉の事故にも、さらには巨大なコストにも挫けることはなかった。彼は技術者という職業に共通の経済的無知を分かち持っていた。こうした技術者たちは、物理的効率改善が単純かつ直接的に経済効率へ結びつくと簡単に思い込みすぎていた。増殖炉という技術の素晴らしさがすべてを正当化すると考えた。リコーバーによる海軍の計画のように、それは完璧な技術水準のものに仕立て上げられるべきものであり、費用はそれが確立されたあとに考慮すべきことでしかなかった。
彼は軽水炉の技術が完成にはるか遠いものであることは知っていたが、それを克服するために必要とされていた時間と費用を犠牲にして増殖炉に打ち込んだ。廃棄物処理にはほとんど注意を払わなかった。それは彼の技術者・経営者のとしての信頼が失墜する1972年までつづいた。
廃棄物処理については、何年間にもわたり、AEC予算のわずか0.1%しか振り向けられていなかった。しかし、早くも1955年にはアメリカ科学アカデミー(NAS)の報告が「低水準廃棄物の継続的投棄は、多分、容認できないような長期的危険性を持つものになるだろう」と警告していた。10年後、アイダホ州の投棄場に関するNASのもうひとつの報告は、2つの救いがたい大きな懸念を指摘していた。ひとつは、長期的に見た安全性の配慮が、原子炉運転の経済性よりも軽視されていること。もうひとつは、 地元の環境が、生物領域を危険にさらすことなく、大量の放射性核種を無期限に吸収しうるという過信を前提としている、ということであった。そして、その後、AECは、報道陣の問いに対して、ハンフォード現場の露天投棄場にある藻類で育ったアヒルが放射能によってひどく汚染されていることを認めた。「人間がこれらのアヒルを食べた場合、最大許容量の5倍の放射線を受けることになる」
廃棄物処理の問題に関して、NASは15年以上にわたり、AECに対して、地下岩塩層に廃棄物を貯蔵する可能性を検討するように求めてきた。通常は乾燥した層をなしている塩床が、廃棄物コンテナからの放射能漏れが地表の水に逃げ出していくのを防ぐものと想像されていた。1971年3月、AECは1億ドルの研究費を費やした結果、カンザス州ライオン近郊の廃塩抗を廃棄場にしたと発表した。しかしその6ヶ月後、その塩山から塩を掘ってきた会社が、塩を運ぶために過去50年間にわたって地層に水を注入しつづけていたことが判明して、この計画は放棄された。
いずれにしても、安全性とか廃棄物処理というような問題はミルトン・ショーにとっては単なる枝葉の問題だった。誰かがしなければならない仕事ではあるが、それは他の誰か、大きくかつ困難な責務にあまり適していない誰かがやる仕事だと、彼は考えていた。
ショーが増殖炉開発にはっきりと優先性を与えたことは、アメリカ以外の国に大きな脅威を与えた。軽水炉の成功ですでに示されていたアメリカの技術力の強大さを、再び繰り返させてはならないと各国は身構えた。そのためには、原子力研究開発機構を活力にあふれた状態に維持することが必要だった。イギリスとフランスでは独自の研究が止まったことはなかったが、ドイツと日本では、50年代という核に楽観的な時代に設立された研究機関は、国が軽水炉技術に向いてしまったことから、次の10年間には退化していた。それをなんとか建て直そうという希望の中心が、増殖炉となった。
日本原子力研究所(JAERI)はその発端から、独自の核技術の自立的な国家基盤を発展させようという希望を抱きながら、ずっと挫折感を味わってきた。イギリスから完成したガス冷却炉を購入するとにあわててコミットしたことは科学者たちの最初の敗北だった。その後数年間、彼らは小型実験用軽水炉を含む多数の別の計画を徐々に発展させた。その研究が完了する前の1963年、日本原子力発電(JAPCO)はアメリカから大型軽水炉を輸入することに決めた。1970年までに輸入軽水炉が7基、70年代末までにもう5基が完成することになっていた。GEとウェスチングハウスは激しい販売合戦を演じ、戦利品を平等に、それぞれ6基ずつ分けあった。
1960年代初頭、日本原子力研究所(JAERI)は民間企業の支援という二次的責務に後退させられて、日本の基礎研究を確立するという使命はほとんど忘れ去られた。不満を持った科学者や職員たちによって、大規模な労使紛争が持ち上がった。
1964年にそこに乗り込んだのは、三菱造船の社長を退任したばかりの丹羽周夫(81) だった。丹羽は自分が育った三菱財閥の伝統に則って、日本の自主独立性推進という明確な態度を持ち込んだ。かなりの内部抵抗を排除して、彼は研究所を全面的に再組織し、研究目標を明確に掲げるやり方を採用した。日本の電力会社がアメリカの軽水炉輸入に傾いていくなか、丹羽は、研究計画をより進んだ原子炉システムへと方向転換させた。
しかし、増殖炉はもはや無批判に受け入れられなくなっていた。1957年の長期計画の中にみられた、増殖炉の実現は目前、という当初の熱気は冷め、他国での増殖炉研究のなかで技術上の問題がどんどんと増えていくのを研究陣は注意深く見守っていた。にもかかわらず、丹羽は増殖炉を強制的に推進し、これを研究所の計画に追加させた。
1964年末、日本原子力委員会は動力炉開発委員会という特別グループを発足させた。その任務は長期的研究開発計画を作成することだった。丹羽はこの委員会に確固たる目標と、それを実現するための明確なプランを持ち込んだ。増殖炉の分野では、大電機メーカーの東芝がとくに熱心だった。同社は沸騰水型原子炉の特許を通じてGEと結びつきを持ち、GEの積極的な増殖炉売り込みには東芝自身も関わり合いを持ちたいと感じていた。
さらに重要なことは、日本の電力企業が増殖炉に熱意を示したことだった。それはデトロイト・エジソンのウォーカー・シスラーと彼らとの個人的なつながりに由来するものだった。1950年、在来型の発電技術を研究するための第1回技術代表団がアメリカを訪れた時、これを迎える主役となったのはシスラーだった。これ以降、シスラーは定期的に来日し、常に首相を含むトップレベルの人々の歓迎を受け、また、日本の電力会社幹部が渡米した時、最初に立ち寄るのはシスラーのデトロイトのオフィスだった。彼らはアメリカ産業の技術能力に完全な信頼感を抱き、シスラーに商業用増殖炉は実現可能だと言われると、それを信じた。
日本原子力研究所(JAERI)の研究陣は依然増殖炉に懐疑的で、動力炉開発委員会も消極的な勧告しかしなかったが、1967年の最終報告では、5万キロワットの実験炉を勧告しただけでなく、実験炉完成よりもずっと前に30万キロワットの試験炉の製作を開始することを勧告、実施母体として、動力炉核燃料開発事業団が設立された。丹羽のとくに強力な主張、東芝自身の利益、同計画の資金繰りを助けることを求められていた電力会社のコミットメントを総合した圧力が、より野心的な計画を出現させたのであった。
西ドイツにも増殖炉擁護論者がいた。そのひとり、カール・ウィルツ(82) はベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所の1930年卒業生で、ウェルナー・ハイゼンベルグ(13)が率いた戦時中のドイツ爆弾計画のメンバーだった。1955年、ウィルツはカールスルーエ原子力研究センターの指導的存在となり、彼の指導下での西ドイツ全体の原子炉建設計画に対する民間産業の支援組織をつくったカール・ウィナッカー(53) と良好な関係を築いた。ウィナッカーは、小型の天然ウラン重水炉を建設するというウィルツの計画を支持したが、ウィルツはその計画が完成する以前から、彼のチームを団結させるための新しい計画を求めていて、彼の注意は増殖炉のうえに注がれていた。
1957年、重水炉の設計作業が完成に近づいたため、ウィルツは増殖炉研究を開始した。1959年、彼は研究所の理論部長ウォルフ・ハーフェレ(83) を1年間にわたる増殖炉研究のためにオークリッジに派遣した。ハーフェレは帰国後、増殖炉チームのプロジェクト・マネージャーに任命され、事実上、ウィルツの軌道を離れて、後日、彼自身の研究所を起ち上げた。
ハーフェレは増殖炉計画が西ドイツの技術進歩にとって最重要なものだと信じていた。彼は研究をフランスのそれと結合させるとようにという一部ヨーロッパ主義者の動きに抵抗した。自主自立的なフランスの科学者たちもそれを拒絶し、それぞれ別個に増殖炉計画に取り組むことになった。
1964年にGEが10年以内に商業用増殖炉を量産すると発表した時、ハーフェレのチームは恐慌状態に陥った。西ドイツの技術が後れを取ったまま取り残されるのをおそれて、彼らはあわてて、当初の研究日程を加速する修正案をつくった。その裏付けとなる原価見積もりは楽観主義と偽りの寄せ集めを含んでいたが、政府をそれを認め、試験増殖炉2基の建設資金も承認した。うち1基は数年のうちにキャンセルされたが、冷却材としてナトリウムを使用するもう1基の建設は1973年、ライン下流の小さな町カルカーでようやく開始された。
原子炉チームの相競合する国際的兄弟愛の中にあって、突然の原子力発電の台頭は驚くにはあたらなかった。彼らは何年も前からそれは当たり前だと考えてきていた。しかし、それが到来した時、彼らは原子炉を建設し、運転していくためには、付随するサービス、部品、機材などを広範に開発することが必要だとは思い至らなかった。ウランの発見、採掘、破砕加工、発電機、バルブ、ポンプなど非核設備の開発、使用済み燃料の再処理や廃棄物の貯蔵など、膨大な付随事項にまで配慮が及ばなかった。原子力発電に取り組むすべての国の科学者と技術者は依然として原子炉システムだけに自らをささげればよいと思い込んでいた。その結果、災害が発生した時、彼らはまったく不意を打たれたのであった。
【登場人物の整理】
(79)ウォーカー・シスラー (米):デトロイト・エジソン社長 (増殖炉を推進、エリー湖の実験炉)
(80) ミルトン・ショー(米):AEC原子炉開発部長(増殖炉の開発を推進)
(81)丹羽周夫(日):日本原子力研究所(JAERI)所長(三菱造船出身、増殖炉の推進)
(82)カール・ウィルツ(独):カールスルーエ原子力研究センター(増殖炉の推進)
(83)ウォルフ・ハーフェレ(独):カールスルーエ原子力研究センター理論部長(増殖炉の推進)
第18章 一時的で、危険で、低級な.....
1957年、イスラエルのネゲブ砂漠の中心部ディナモに、ある施設が建設された。当初イスラエルはそれを繊維工場だと称したが、1960年中ごろ、アメリカの情報機関がこれは原子炉であることを突きとめ、アイゼンハワー政権はイスラエルにその正体を明らかにするよう圧力をかけた。ダビド・ベングリオン首相はイエラエル国会でこれが原子炉であることを認め、それが3年前フランスと調印した契約に基づき「平和目的のために」建設されつつあると述べた。
イエラエルとフランスの取引は、1956年のスエズ危機で両国がともに「負け」の側に回ったあとすぐ、逆境にあるもの同士の同盟として始まった。それはアラブ世界の両国に対する敵意をも反映したものだった。イスラエルはその存在ゆえに、フランスへの敵意はアルジェリアへの占領継続のゆえであった。
イエラエルはアメリカとの良好な関係を望んでおり、ベングリオンはフランスとの秘密取引によって生じた悪感情を解消するためにケネディ大統領との会談を望んだが、ケネディはそれを執拗に無視することによってアメリカの深刻な懸念を示した。フランスとの取引がワシントンとの協議なしに決められただけでなく、事前の平和利用の意思表明や原子炉の定期的な査察などの「保障措置(セーフガード)」協定もなく実行されていた。それはアメリカがアメリカ製の原子炉を買いつけた国々に要求していたものだった。イスラエルはアメリカ人査察官の立ち入りを渋々認めた。
ディナモの重水炉は2万4000キロワットで長崎型の20キロトン級原爆を年間1.2個つくる能力を持っていた。ただ使用済み燃料棒からプルトニウムを抽出するためには再処理工場という名で知られる化学プラントがなければならない。フランスはイスラエルにそのプラントを売却することは拒否した。しかしイスラエルがあるフランス企業にプルトニウム抽出プラント建設に助カを求めたとき、それを止めようとはしなかった。その企業はフランス原子力庁(CEA)からのライセンスのもとフランス核兵器計画のために再処理工場を建設した企業だった。その企業は青写真を提供し、イスラエルの技術者たちが自分自身で細部まで完成するようにさせた。
イスラエルが原爆にゴーの決定を下したのは1967年6月の6日間戦争の直後だったようだ。1957年当初の原爆ロビーであった国防省のシモン・ペレス(84) 、参謀総長のモシェ・ダヤン(85) 、原子力委員会のエルネスト・ベルクマン博士(86) らは、1963年、ベングリオンが首相の座を追われ、レビ・エシュコルにとって代わられた時、その後ろ盾を失った。エシュコルは原爆計画を凍結した。しかし、ゴルダ・メイアが首相になった時、戦争を前にして、ダヤンやペレスという古い核ロビーが半追放生活から戻ってきた。6日間戦争の勝利はイスラエルに国際的圧力を無視してよいような短い時間を与えた。CIAからその報告を受けたリンドン・ジョンソン大統領はいかなる非難をも試みなかった。いまイスラエルと対決姿勢を取れば、ちょうど微妙な段階にある、核兵器拡散に反対する全世界的条約がほとんど不可能になってしまうという判断も働いていた。
1968年、イスラエルは天然ウランの供給を増やす必要を感じ、アメリカの監視機関に気づかれないようにそれを実現した。秘密情報機関モサドの工作員たちが、200トンの天然ウランを輸送中の商船からそれを盗み出すという大胆不敵な計画を思いついた。この船はリベリア船籍に変わったばかりのシアーズバーグ号で、アントワープでウランを積み込んだあと大西洋に出て、ジェノバに向かった。地中海に入ったあとこの船は蒸発し、世界の人々の前から姿を消した。船はジェノバめざして北上するかわりにまっすぐ東へ向かって、キプロス島とトルコの間の水域でイスラエルの貨物船と落ち合っていた。数日後、トルコの港イスケンデルンに入港した時、乗組員たちはナポリが最後の寄港地だったと報告したが、船倉は空っぽだった。
イスラエルの原爆計画に使われた分裂物質の第二の外部ソースと推定されるものは立証されてはいないが、アメリカの政策決定者たちは、イスラエルがアメリカ国内の原子力施設から高濃縮ウランを秘密裏に入手したのではないかと秘かに懸念している。1965年、ペンシルベニア州アポロにある民間濃縮工場の定期査察で200ポンドの高濃縮ウランの紛失が判明した。査察したアメリカ原子力委員会(AEC)とFBIは何回も調査したが、行方不明のウランの足取りはつかめなかった。この工場を所有する企業はシオニストが会長を務めていて、監視対象ではない核原材料の供給でイスラエルとの商売上の関係を持っていた。CIAはその行き先を知っているかもしれないが、これまでそれを認めていない。
1960年中ごろまでにアメリカは、「核保有に近い国々(いわゆる、n 番目の国々)」について確固たる政策を確立すべき時期が来た、と判断した。「核(兵器の)不拡散」という概念が表面に出るまでに10年間を要した。この問題について、アメリカの政策はそれほどいい加減だった。
ケネディはこの問題により大きな懸念を示したが、彼のとった方法は効果的なものではなかった。1960年代初頭、これ以上ヨーロッパに独自の核戦力保有国が出現するのを防ぐため、とくにその中でも一番恐れられていた拡散の対象、西ドイツを恐れて、ケネディはヨーロッパ「多角戦力(MLF)」の創設を提唱した。これは指揮系統を一本化した同盟の枠組みの中でヨーロッパにアメリカの兵器を配置しようというものであった。直ちに、ソ連が、核拡散行為だとして非難し、またフランスは軍事的に無意味であると反発した。
中国の核実験のあと、1964年末に核拡散についての大統領特別委員会が設置され、65年8月に、アメリカは核拡散防止条約の第1次草案を作成した。それは核保有国が非核保有国に核兵器製造を援助することを禁止し、核保有5ヶ国以外のあらゆる国々に核兵器保有を断念させることを提唱していた。
この提案はジュネーブの18ヶ国軍縮委員会(ENDC)に提出されたが、この計画が将来ヨーロッパ多角戦力を発展させる可能性に触れていたため、ソ連は激しく反発した。ソ連側はそれが、ソ連が最も恐れる敵対国、西ドイツに原爆を与えるための抜け道以外の何ものでもないと考えた。米国側がそれを引っ込めるまでに2年間が必要だった。米ソ両国の秘密討議のあと、1967年8月、アメリカはMLF提案を引っ込め、2超大国は同じ内容の条約草案を提出した。
しかし、多角戦力以外にも問題はあった。非同盟諸国は、条約を彼らにとって差別的なものでなくするためにさまざまな提案を行った。核選択を拒否された諸国の安全を核保有国が保証する信頼できる条項や、核保有国が非保有国に対して絶対に使用しないという誓約を行うように求めた。要するに、自分たちは核保有を放棄しているのだから、保有国もそれに見合うものを放棄すべきである、ということだった。新たな核保有国の出現、専門語でいう「水平的拡散」よりも、保有国間の軍拡競争の激化、すなわち「垂直的拡散」の方が危険ではないか。だから、保有国の間で核軍縮について目に見えるような措置をとってほしい、例えば、部分的核実験禁止を地下核実験まで含んだ包括的核実験禁止に拡大すること、分裂性物質の今後の生産の凍結、既存備蓄の削減などを訴えたが、ジュネーブ軍縮交渉で、核保有国がこれらの提案をことごとく退けたことによって、条約の差別的性格に対する懸念は増大した。
また、この条約草案の第3条にある、「保障措置(セーフガード)」を通じてこれらの規定を監視する手段、は白紙のままに残されていた。この「保障措置」のシステムに懸念を抱いていたのは、西ドイツと日本だった。この2国は、世界が核を「持つもの」と「持たないもの」に二分されることによって、自分たちが永遠に二流の地位に据え置かれるのは受け入れがたいことであった。それ以外に、この条約によって、コストが増大すること、そして、この条約が、原爆級のプルトニウムを使用する増殖炉に無言の圧力をかけていることを強く懸念した。前者は、「保障措置」が原子力工場からの分裂物質の転用について早期警報を提供することを狙いとしたものだったから、そのためには工場の基本設計を変えることが要求され、また査察のたびに工場での生産を中断させなければならないので、当然その分コストを高め、能率は低下する。ところが、保有国はその適用を免れているため、その分、相対的な競争力を殺がれることになるということ。後者は、ウラン資源に頼らないエネルギー独立を発展させるために頼りにしている「増殖炉」がこの条約によって制約を受けたり、最悪の場合、全面禁止になってしまうことを恐れた。
西ドイツの再処理工場建設に熱意を示していたカール・ウィナッカー(53) と、彼の親しい同僚でカールスルーエで西ドイツの増殖炉計画をつくりあげたカール・ウィルツ博士(82) は、新しい「保障措置」システムの内容を即刻明確にすることを求めた。そして二人は彼らの立場に日本から国境を越えた支援があることを見出した。アメリカとの交渉チームの指導者だった清成廸(87) は日本の再処理工場と増殖炉を建設中の会社(動力炉核燃料開発事業団)の重要な役員だった。清成もこの条約は増殖炉開発を不可能にするだろうと考え、「保障措置」システムの内容をきちんと決め、簡素化する必要を強調した。交渉が終わるまでに、「保障措置」システムの有効性は妥協の対象となったが、その理由は増殖炉に対して持つその阻害的コスト効果に他ならなかった。そしてできあがったシステムは、このあまりにも微妙な施設を、言葉のいかなる意味においても「保障」できるとは思えなかった。コスト意識の強いドイツ人とその背後に隠れた日本人の干渉は大きな成果を収めた。
またウィルツは、1967年春、ある提案をもってワシントンを訪れた。それは工場査察について、重要なポイントに絞って査察することによって、査察による工場稼働への影響を軽減しようとするもので、アメリカもそれに同意した。しかし、そのポイントをどこにするかはまだ決められていなかったので、その仕事は、カールスルーエ増殖炉計画のプロジェクト・マネージャー、ウォルフ・ハーフェレ(83) に委ねられた。西ドイツ政府はこの研究に500万ドルを提供し、国際原子力機関(IAEA)はこれを公式に支援することに同意した。ドイツ人は査察を免れようと試みていたわけではなかった。ただそれが最も安価に行われるのを求めたのだ。ハーフェレは、原料ウラン鉱石に始まり、最後には使用済み燃料棒から生産される分裂物質までに至る燃料サイクルの全体の注意深い分析をもって仕事を開始した。各ポイントで、何が工場に入り、何が出てくるかを計測することによって、工場運転に対する干渉は最小限にとどめられよう。このシステムはある種の核施設、例えば軽水炉では簡単に効果をあげうるものだったが、再処理工場や増殖炉についてはあまり効果をあげえないものであった。
「保障措置」には防止という意味が含まれているにもかかわらず、結局、早期警報システム以上のものにはならなかった。もしある国がプルトニウム施設から分裂物質を持ち出せば多分10日以内に1つの原爆をつくることができる。この期間は「危険期間(クリティカルタイム)」と呼ばれるが、プルトニウム工場を、原爆級の物質の持ち出しに対して「保障(セーフガード)する」には、理論上、10日ごとに工場を査察しなければならないことになる。そんなことは、それに必要な経済的コストのために政治的に実行不可能であった。そこでIAEAの保障措置事務当局は、プルトニウム工場が年に最低4回の「洗い上げ(ウォッシュアウト)」を受けることを提案した。しかしこれさえもコスト意識の強い国にとっては多すぎるものであった。結局、「危険期間」も「洗い上げ」にも言及しないことになり、その代わりに、査察者が工場の作業について「知識の継続性」を持つことを保証するもの、と言い換えられたが、どのくらいの頻度で査察すればそれが保証されるかという肝心の点は個別に決めれば十分だということにされた。
「保障措置」システムを作り出す仕事はマラソンのような作業だった。IAEA委員会はウィーンのIAEA本部で10ヶ月にわたり83回の会合を開いた。それ以外に、代表団のグループがIAEAビルの廊下やロビー、さらには近くのレストランで非公式に会ったものまで含めての微妙な交渉を通じて、アメリカ代表団は「知識の継続性」について一般論で触れておくことに成功したのだった。何が何でも幅広い土台に立ったコンセンサスが必要で、コンセンサスができた点のみが明文化され、他のすべての点は、実質的にはあとまわしにする一般的文言で表現されたのは、この種のすべての国際交渉と同様だった。
これら全体を通じて、アメリカ代表団はその「知識の継続性」の定式の背後に隠れ、「危険期間」という重大問題を強く主張することができなかった。彼らは、もしある国が原爆級の物質を持ち出したことがわかった場合でも、アメリカの交渉能力は、それから原爆をつくることをやめさせよう説得できるほど強力のはず、という仮定を、過去20年以上と同じように持っていたのである。
【登場人物の整理】
(84) シモン・ペレス(イスラエル):国防相、外相、首相、大統領(原爆ロビー)
(85) モシェ・ダヤン(イスラエル):参謀総長、国防相(原爆ロビー)
(86)エルネスト・ベルクマン(イスラエル):物理学者(原子力委員会、原爆ロビー)
(87)清成廸(日):動力炉核燃料開発事業団役員(「保障措置」について、アメリカと交渉)
第19章 世界よ、聞け
1968年8月、アメリカがその初期の原爆実験を太平洋のマーシャル諸島で始めてから約20年後のこと、リンドン・ジョンソン大統領は、そのー小島ビキニ島が再び人間の居住に適するようになったと誇らしげに発表した。数百人のビキニ島民は躍り上がって喜んだ。1946年以来、同島民と他のマーシャル諸島の住民たちは、その美しい、孤立した過疎の島々が爆弾実験のためには理想的だと考えたアメリカ原子力委員会(AEC)とアメリカ軍の意のままに別の島へと避難させられていた。ビキニ島民が移り住んだ島の漁場は劣悪で、土地はあまり肥えておらず、彼らは栄養失調に苦しめられていた。
1954年、マーシャル諸島の住民1万1000人は、核実験とその生活への障害に対する共同抗議書を国連に送った。アメリカは国連信託統治協定に基づいてマーシャル諸島を統治しており、毎年、島民の福祉状況について国連信託統治理事会に報告しなければならない。ソ連とインドがこの抗議に呼応して、アメリカに核実験の停止を求める決議案を提出したが、アメリカに友好的な諸国が支配する理事会はそれを却下し、核実験はさらに4年間続けられた。島民たちは、核実験の降下物が、放射性の火傷、嘔吐、毛髪の脱落など、放射線の害毒の確実な兆候を引きおこしたことを明らかにした。その訴えは広範な国際的抗議の引き金となり、拡大し、1958年の実験停止後も続いた。そして1964年、島民たちは甲状腺腫瘍など放射線障害の後遺症を示し始めた。AECはこれまで降下物からは長期的問題は起きないと一貫して島民に告げてきたので、アメリカ政府は困難な立場となった。だからビキ二島がもはや安全になったというジョンソンの発表はアメリカ政府がその窮地を挽回するチャンスとなるものだった。島民が帰島するまでには準備が必要だった。表土は除去され、5万本の新しいヤシの木が植えられた。アメリカ当局者は島を元通りにするために懸命に努力した。しかし、いくつかの事柄は元通りにはならなかった。新たな植物は粗悪であり、礁湖内の海岸生物は変わり、地下には破壊された実験施設のねじれ曲がった部品が埋められていた。
このあと7年間に約100人のビキニ島民が少しずつ帰島した。1975年、アメリカ当局者は最初の放射線のテストを行ったが、その結果はガイドラインを大きく超える衝撃的なものだった。その報告は島民には公表されず、多量のストロンチウムを蓄積しているとみられる木に登るヤシ蟹などいくつかの食物を食べないようにという警告を受けただけだった。1978年までに、ビキニ島民の体内放射線レベルはアメリカ基準の最高限度の2倍近いことがわかり、アメリカ政府はビキニ島民を再度退避させる必要があると発表せざるを得なかった。
ジョンソン大統領が胸を張ってビキニ島民の帰島を発表することができたのは、放射線専門家の自信が依然強かったからである。彼らは1950年代の死の灰についての嵐のような国際的論議を切り抜けていた。しかし、70年代末までに専門家たちに対して大衆が抱くイメージはひどく悪化した。専門家たちが何も知っていなかったことがたくさんのデータから明々白々となってきた。
核実験以外からの死の灰の問題も50年代末から始っていた。ヨード131が注目を集めたのは、1957年にイギリスのウィンズケールで起きた原子炉火災のときだった。半減期8日間という短命のヨード131が体内に入ると甲状腺に集まり、ガンの原因となる。イギリスは地元の牛乳サンプル内のヨード131のレベルがあまりに高いことを発見、200万リットルを投棄処分とした。
その2年後の1959年、アメリカのネバダ核実験場の東1000マイルのセントルイスの牛乳サンプルでウィンズケールと同レベルのヨード131がされた。実験場周辺のAECモニター・チームはそれまで、外部のガンマ放射線は計測していたが、ヨード131は全く無視していた。ガンマ放射線との関連を通して、ヨード131が過去にさかのぼって計測された。その結果、南部ユタの牧場で飼育された雌牛の牛乳を飲んだ子供たちは、きわめて大量の放射線を摂取したかもしれないということがわかった。また、生物の体内で放射性物質が驚くべき程度で濃縮されているのも判明した。例えば、魚類からはその生息する水域の1000倍、鳥類からは1万倍ものヨード131が検出された。
ヨード131と周辺住民の甲状腺ガンについて最初の研究を行ったエドワード・ワイス(88) は、15才以下の小児に突然甲状腺ガンが出現していることに注目した。それまでこの年齢層にはガンは記録されていなかったからである。AECは部内で、ワイス報告から毒を抜くため、入念な再検討を加え、わざと作業を遅らせた。そしてこれが公表された時、15才以下の甲状腺ガン発病例の異常増大は、年齢区分を20才まで拡大することで巧みに隠匿された。
ネバダの放射能汚染が明らかになったのは、初期のAEC関係資料が機密リストからはずされた1970年代末になってからのことだったが、それ以前に同じような問題が、ウラン採掘現場で起こっていた。1960年初頭、アメリカのウラン鉱山の労働者の10~20%が肺ガンで死んでいることが判明した。
地殻内のウラン鉱床ではどこでも放射能を介しての鉱物の自然崩壊がラドンと呼ばれる放射性ガスを産み出す。このガスは人体内に吸入されたとき「ラドンの娘たち」と呼ばれるガス自身の自然崩壊物をつくり出し、これはアルフア放射線を放射するので、肺の筋肉に滞留すると、ガンの原因となることがある。
しかし、雇用者たちは労働者に、作業終了後1時間ですべての放射性は肺からきれいに出てしまうので心配は無用だと言ってきて、1960年代に初の死者が出るまで何の措置も取られなかった。ヨーロッパではすでに1879年にこの問題が取り上げられ、1940年代には坑内換気について強制的な規準が設けられていた。鉱山業界の強力な反対や、上下両院合同原子力委員会公聴会での核擁護派の証言を押し切って、鉱山での「保健規準」が制定されたのはようやく1967年になってからだった。
この公聴会での核社会側の中心的な証人はマサチューセッツ工科大学のロブリー・エバンズ教授(89) だった。彼は、それ以下では人体にいかなる害も及ぼさない放射線の水準、いわゆる「敷居線量」が存在するという主張の指導的存在だったが、放射線専門家のほとんどはもはやその理論の肩を持たなくなっていた。それにエバンズの客観性にも疑念が表明された。彼はその研究の支援のためにAECから数百万ドルを受け取っており、ウラン鉱山会社の顧問の仕事もしていたからである。
研究者たちは、ラジウム文字盤塗装工、広島・長崎の生存者、イギリスにおける脊椎炎の患者について追跡調査や、動物についての研究結果から、大部分の専門家がずっと以前から想定したこと、すなわち、放射線の影響は被曝量に直接比例する、という結論を確信しはじめ、また、低い被曝量でも何らかの影響があるという証拠が増え、ついに「敷居線量」という考えを捨てることを納得させた。
となると、きわめて低い量での被曝について新たな不安感が生まれてきた。1956年、イギリスのアリス・スチュアート(90) という疫学者がX線が人間の胎児に与える影響を研究した。スチュアートによると明らかに無害と考えられてきた妊婦のX線検査が子供の白血病を大幅に増やしているらしいという。当時は誰もこれを大して気にとめず、専門家たちは彼女の分析を統計学的に見当はずれだとして否定した。しかし、1960年代になって、アメリカ北東部の37産院での75万件近くの出生例の研究から、妊娠中にX線検査を受けた母親から生まれた子供は、そうでない子供よりも40%も多く白血病やその他のガンにかかっていることがわかった。スチュアートの発見を支持しないいくつかの研究結果が依然として発表されたものの、結局、胎児の放射線に対する感受性は特別に強いというコンセンサスが生まれ、妊婦にX線をかけることをやめたが、それ以外は変わらなかった。一部の保健物理学者はそれに抗議し、そのリーダーの1人、カール・モーガン(56)は、1967年、現在の水準で医療にX線を使っていることが毎年アメリカで3500件ないし2万9000件の死亡を引き起こしていると発表して、激論を巻き起こした。
それは科学的な見解の対立として始まったが、たちまち政治上の対立に変わった。低水準での放射線の危険が認められれば、原子力の将来はない。当時ちょうど100万キロワットの原子力発電所が計画されており、公衆に必要なのはモーガンらの警鐘ではなく、放射線は大丈夫だという保証だった。そこでAECは、アーネスト・スターングラス(91) という科学者が、ネバダの核実験による死の灰によってすでにアメリカの乳児40万人が死んだと主張した時、AECは反撃する決意を固めた。核実験の死の灰を研究するためにAECと契約していたバークレー校出身の若いアーサー・タンプリン(92) に白羽の矢が当たった。カリフォルニア州のローレンス・リバーモア研究所で研究を続けたタンプリンは期待されたとおりにスターングラスの数字に挑戦するような結果を生み出した。ただ彼は、スターングラスよりは控え目にみても100分の1以下であるという結論を出していた。これではなお4000人の死亡件数があったということになり、AECにとってPR上、頭の痛い問題となった。
報告書草案から4000人の死亡推定を削除する要求をAECから受けたタンプリンは、リバーモアの上司のジョン・ゴフマン(93) に相談した。ゴフマンは、全国規模の原子力発電計画からの大規模な放射線放出の健康への影響についての長期的研究で、タンプリンとともに作業に従事していたが、AECが自分に都合の悪い情報を圧殺しようとする態度をとることにかねがね反発していた。1963年彼は、ヨード131と甲状腺ガンを関連づけたエドワード・ワイスの好ましくない結論をチェックするために設けられた再検討委員会の委員に任命されたとき、彼は委員会の全メンバーとともにワイスの研究を支持したが、結論が公表された時、それがショックを与えないように手直しされていたのを見て、二度とこのような偽りには加担しない決意を固めていた。だから、タンプリンが4000人という数字を発表することに固執した時、ゴフマンはそれを全面的に支持し、この二人は核共同体から破門される方向に一歩踏み出した。また、全国的な原子力発電システムの健康への影響についてのゴフマン=タンプリン共同研究の結論にもAECは不満だった。アメリカの放射線に起因するガンや白血病による死者数は以前予想されていたよりも20倍は増えるとみてよいこと、遺伝的な被害もこれまで過小評価されていた、という内容で、現行の公衆放射線保護基準の数字があまりにも高すぎると判定していた。
二人はAECから、さまざまな厭がらせや圧力を受け、自分の意に反して、リバーモア研究所を辞職した。いずれも、はっきりとした政治的殉教の理由を持っていたわけではなかったが、二人とも、職業的良心の強い感覚を持っていた。そして二人とも自身の安泰を最大の関心事としていたが、政治的抑圧のトーンがきわめて強い当局側の彼らに対する敵意の強さは、これに続く何年かのうちに彼らを核共同体への強力な反対者に変えた。
【登場人物の整理】
(88)エドワード・ワイス(米):疫学者(ヨード131とネバダ周辺住民の甲状腺ガンの関連の研究)
(89) ロブリー・エバンズ(米):MIT教授(代表的な「敷居線量」存在論者)
(90)アリス・スチュアート(英):疫学者(X線の胎児への影響など「低線量被曝」研究の先駆者)
(91)アーネスト・スターングラス(米):科学者(ネバダ核実験の胎児への被害を告発)
(92)アーサー・タンプリン(米):ローレンス・リバーモア研究所(ネバダ核実験の死の灰の研究)
(93)ジョン・ゴフマン(米):ローレンス・リバーモア研究所(ネバダ核実験の死の灰の研究)
「第4部・1970年代(前)」につづく
「まえがき」 「詳細目次」 「国別・登場人物一覧」
「ホーム」
http://happi-land.com/er_shi_shi_ji_zuo_pin_ji/baron-digest-60b.html
02. 2013年9月25日 11:46:45 : Nryw8qHklE
世界史が2なので最近知ってびっくりしたのですが、ベルギーでナチスが、当初は好意的に受け入れられたその理由は、ベルギー国民の中に、イギリスの帝国主義に対する反発が素地としてあったからだということのようです。くそじじいサイドの視点から言えば、自分たちの暴政が、いろいろ反感をかっているようだから、偽ヒーロー・ヒットラーを仕立てて、一時的に熱狂させ、その後正体を表してメチャクチャさせて、みんなが助けてくれーとなったらイギリスがヒーローとして返り咲くという…それだとあまりにもアレだから、アメリカを傀儡ヒーローにして、アメちゃん名誉は譲るから、果実はこっちに回せよと謀ったのが、第二次大戦だったのかなぁと納得がいきました。
ベルギーって、海を隔ててイギリスのお隣で、有名なUFO事件で大騒ぎになったこともあったみたいですが、英国内のミステリー・サークルと同じで、イギリス軍の仕業ではないかと思うのですが、そう考えたらベルギーは、いつもイギリスに騙されているトホホな国なのかな…と勝手にイメージしています。
17. 爺さん 2013年9月25日 11:47:14 : pkMRoq8j2xu8g : GKXPQSbOmQ
蛇足ですが、
現在地元ローカル新聞に載っている地上1メートル線量。
あれはやりすぎかと、よくまあそこまで。
実態はその4倍前後。
すくなくともそういう場所がたくさん散在しています。
半減していくという、エコサイクルを無視した仮定に基づいた、シュミレーション値でしょ、あれ、願望の精神病理的な表現の一つ。
『核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち
The Nuclear Barons』
第4部 1970年代(前)
第20章 ブームの年
1970年代に石油価格が急騰したことは、世界の電力業界の人たちにとっては思ってもみなかったことだった。彼らは石油は安いものだという誤った安心感にひたり切って、石油火力発電所に巨額の投資をしていた。
1950年代と60年代中に、膨大な量の石油が、主として中東からヨーロッパ、アメリカおよび日本へと流れた。この時期、国際石油会社は燃料油を人為的に安いコストで生産し、それまで石炭にとって最大の市場だった、産業用ボイラー、とくに発電用ボイラーから石炭を駆逐してしまった。アメリカは、石油輸入制限政策によって、全面的な石油への転換をいくぶんかは免れていたが、世界中の電力会社が、石油は低コストだという一時的な幻想から石油専燃火力発電プラントを発注した。西ドイツ、イギリスなど一部の国では、炭鉱会社やとくに炭鉱労組の圧力によって、石油火力への切り替えにブレーキがかけられたが、フランスや日本などでは石油が全面的な勝利をおさめた。だから、1970年から73年までの間に石油価格が2倍になり、73年の第4次中東戦争でさらに2倍に跳ね上がったとき、彼らは新たな信仰と熱心さでもって原子力発電に注目するようになった。
そのとき先頭に立ったのは日本だった。理由は2つあった。第1に、日本は20年間にわたって2桁の経済成長を経験していた。1950年代はじめには、日本の経済はイギリスやフランスのわずか3分の1の規模にすぎなかったが、70年代の終わりには、その両国を合わせたよりも大きくなっていた。日本の国民総生産(GNP)は1962年にイギリス、63年にフランス、そして66年には西ドイツを追い抜いた。そしてその10年後にはソ連を抜いて、日本経済は世界第2の大きさに成長した。その間、電力需要は急速に増大し、9電力会社のトップの東京電力は世界最大の民営電力会社となったが、70年代に入っての石油価格の急騰は、エネルギー全体の85%を海外に依存する日本にとって、その工業能力の安全を保障するためには、エネルギー源の早急な「多様化」をはかることが是非とも必要となってきた。
第2の理由は、急速な工業発展が先進工業諸国でも類を見ない最悪の環境汚染をもたらしたことである。なかでも化石燃料を燃やす発電所の煙突が公害防止運動の大きな攻撃目標とされていたが、一方、原子力発電にすれば排気ガスが出ないので大気汚染はなくなる、と期待された。電力業界の人たちは、汚染を防止するのに必要な装置のコストに恐れをなして、膨大なコストがかかるにもかかわらず、原子力を万能薬だと思い込んだ。
さらに、日本でもアメリカと同様、新しい技術を公営企業の手に握られまいとする民営電力会社の懸念も大きく作用していた。
2人の電力会社首脳が日本の原子力発電導入に指導的な役割を果たし、両社間のライバル意識がまた原子力の成長に拍車をかけた。それは、東京電力社長の木川田一隆(93) と、関西電力社長の芦原義重(94) であった。2人とも、低姿勢と集団的な政策決定が通例となっている日本の電力業界にあっては異色の、強引でワンマンな経営者だった。それぞれ独特の社内機構をつくりあげ、中央集権的な政策決定権をその手に握っていた。2人とも社会的、政治的には、自己流の進歩的な態度の持ち主で、大企業は社会的責任を負っていると信じていた。両者に違いがあるとすれば、抜け目のない大阪商人タイプの芦原の方が、木川田に比べて哲学的な色彩が薄いことぐらいだった。
この2人が最初に手を組んだのは、1940年代の末に公営電力の脅威を打ち破るときに力を合わせた時だった。1939年に軍国主義下の日本は単一の国営発電会社をつくりあげた。何百という雑多な配電会社が9つの地域グループに再編成され、それぞれが独占国営発電会社の電力を給配電した。戦争が終わって、占領軍当局が日本の再建に着手したとき、木川田は国営発電会社の発電所を9つの配電会社に割り当てるよう強く要請した。イギリスやフランスをモデルにした国営の独占企業を設立すべきだという人々もいたが、木川田は9配電会社の中から、芦原を含む若手の強力なグループをつくりあげ、独占企業案に反対した。
この問題をめぐる政治的な闘いに決着がつくまでに数年を要したが、占領軍当局は、自由な企業が民主日本の柱になりうると考え、木川田らに軍配をあげた。発電と給配電を受け持つ9つの電力会社が設立されたが、きわめて多額の資本コストを必要とする発電所建設は個々の電力会社では負担し切れなかったので、電源開発部門は公営のまま残った。しかし、この電源開発グループは、公権力の拡大の潜在的な基礎として残り、50年代の終わりに、それが最初の原子力発電所を建設すると主張するに及んで、その恐れは現実化するかに見えた。これに対して、民営の9電力は共同出資して日本原子力発電(JAPCO)を設立することを提案、これを凄腕の原子力担当相の正力松太郎(54) が支持して、政府はJAPCOに原子力発電所を建設させることを決定した。1957年に最初の契約が結ばれたが、これはイギリスのガス冷却炉だった。この取引は正力がほとんど独断で決めた。その何年かのち、この炉がうまく動かないことが判明した。1963年にGEのオイスター・リークの沸騰水型原子炉(BWR)が画期的な成功を収めたころ、JAPCOは新しい動力炉の購入を検討しはじめ、1965年末にBWRの採用を決定した。
日本の電力会社は常に特定のメーカーと結びついた発注をするという特有の伝統があった。東京電力はいつもGEのライセンス生産をしている日本の重電メーカーから発電施設を買ってきたし、一方、関西電力の方は、ウェスチングハウスの提携先から購入していた。JAPCOがGEからBWRプラントを買ったことは、東京電力をそのライバルである関西電力よりも優位に立たせた。日本最初の原子力発電所を建設するために、日本の技術者はGEのBWRの建設と運転の訓練を受けることになる。これは、ウェスチングハウスの加圧水型原子炉(PWR)を買うことにしている関西電力にとっては不利なことだった。しかし、イタリア、西ドイツ、さらにはインドと、国際入札で相次いで敗北を喫していたウェスチングハウスは自社のPWRを売り込むために、芦原に対してきわめて有利な条件を提示した。1966年に、芦原は日本最初のPWRを発注した。すかさず木川田もGEにBWRを発注した。1966年半ばにおける、この2つの性急な「威信」がらみの発注の結果、日本の電力業界は、引き返すことのできない原子力開発のコースへと踏み出すことになった。
電力業界の熱心さに引きずられて、日本の原子力委員会は長期計画を大幅にかさ上げした。1961年には、1985年までに合計600〜800万キロワットの原子力発電所を建設する計画だったのが、1967年の新しい計画では、3000〜4000万キロワットに引き上げられ、1970年にはさらに6000万キロワットにかさ上げされた。政府は原子力関連投資への特別償却や減税措置を含む大幅な助成策をとって、原発建設を奨励した。2大電力会社の原子力チームは自信満々となり、原子力へと踏み出したそもそもの理由が企業間の威信争いであったことなどすっかり忘れて、発電所ができる前から、原子力の利点をいやがうえにも強調するために、時期尚早な手前味噌のコスト見通しや需要予測がとめどなく注ぎ込まれた。
最初の段階でこそ日本の電力会社にリードを許したけれども、国有のフランス電力(EDF)ほど原子力に熱中したところは他になかった。EDFは戦後フランスの国有化計画の大きな成功例であった。電力コストを低水準に抑え、20年間にわたって大規模な投資計画を成功裏に収め、フランス産業界全体の模範であると同時に推進役になっていたEDFは、その専門知識とフランス産業界における役割に自信を持った、誇り高い組織だった。
当初、EDFは、大規模な原子力計画を打ち出そうとするフランス原子力庁(CEA)からの圧力に抵抗していた。またフランスの国産の技術によるガス冷却炉を採用すべきだというCEAの主張にもコストを理由に反対し、アメリカの軽水炉システムの導入を勝ちとって、原子力官僚機構との闘いに勝利を収めた。しかし、1970年になってもEDFはまだ安いコストの石油の時代が続くと信じ、軽水炉も研究開発の段階にとどめていた。だから、石油のシャボン玉が破裂して、その路線を全面的に変更せざるを得なくなったとき、自慢の予測技術が破綻したことに対する狼狽もあって、原子力発電採用へのEDFの熱中は逆にいっそう高まることとなった。
こうした変化を先導し、一般大衆に向かって最も雄弁にその新しい路線を弁護してみせたのは、EDFの支配人のマルセル・ボワトー(95) であった。保守的な理工科学校(エコール・ポリテクニーク)の「橋梁・道路組」が主流であったEDFでは異例の、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリエル)の出身だったボワトーは、EDF社長のピエール・マッセ(78) のお気に入りで、有能ぞろいのEDFのエコノミスト・グループの中にあっても抜きん出た理論家だった。彼は、将来の石油と石炭のコスト上昇見通しからして、原子力のコストを最も高く見積もっても、原子力に経済上の競争力があると証明してみせ、EDFは大規模な原子力計画に乗り出した。
当初の1971年〜73年の計画では、毎年300〜400万キロワットずつ原発を増やして行くという控え目なもので、石油の供給が怪しくなったときの「保険」の色彩が濃かったが、1973年の第4次中東戦争で、この計画は放棄されて、1974年、フランス政府はできるだけ速やかに石油から原子力に転換する政策を正式に採択した。その結果、1976年には合計出力300万キロワットの小規模な10基の原子炉しかなかったフランスは、1984年までに合計3000万キロワットの30基の原発を完成させることになった。
EDFの技術担当者は、このスケールの大きな使命を前に奮い立った。電力の配分や販売が主力を占めていた時代は終わり、発電所の建設が再びEDFの活動の中心になった。EDF内の自信に満ちた技術エリート集団である施設局は、原子力発電の熱心な信奉者であるミシェル・ユーグ(97) に率いられた「突撃隊」と呼ばれていた。施設局はすべての発電所の計画と建設を担当していて、技術面での成果の伝統に誇りを持っていた。彼らは石油火力発電所の地味で、退屈な技術に飽き飽きしており、1950年代のダム建設の時代を「英雄の時代」と懐しがっていた。あらたに登場した原子力という課題は、もっとも手の込んだ技術的な設計を必要とし、往々にして敵意に満ちた環境の中で超然と孤高を守って作業を進めてきたダム建設チームの、古い同志的結合を蘇らせた。
ミシェル・ユーグは中流階級の出で、父親は小学校の先生だった。彼はよく、冷蔵庫も買えずに若くして世を去った自分の母のことをつらそうに話した。原子力とは、いかなる母親も電気冷蔵庫を買えるようにするものだ、と彼は信じていたが、そうした感傷的な見かけも彼の野心を覆い隠すことはできなかった。ボワトーのあとを継いで支配人になろうという彼の野心は誰の目にも明らかだった。
施設局は伝統的に、特定の地域での発電所の企画から建設までを一貫して責任を持つ、なかば独立したいくつかのチームで構成されていたが、ユーグは本格的に原子力と取り組むためには、計画全体を立案し、全国的な規模で建設する、中央集権的な組織が必要だと確信していた。狭い地域エゴが原子力の分野まで持ち込まれるに及んで、その確信はいっそう強まった。彼は伝統的な地域別のチームを廃止し、水力発電、火力発電という区別もなくして、事実上、原子力一本に絞った体制につくりかえてしまった。1976年にもはや引き返しが不能な計画がスタートした頃には、施設局内でユーグに楯突くものはひとりもいなくなった。彼に言わせれば意見の違いは不能率のしるしであり、いったん決定が下されたからには、あれこれ議論せずに実行すべきだと信じていた。その「独裁的」ともいわれる、強引で専制的な指揮の下に、施設局がEDF全体のリーダーへと成り上がっていき、ユーグの原子力への熱中は「次の世代」の動力炉である増殖炉にまで及んだ。その経済性がまだ依然として疑問であり、これまでの原子力の歴史において登場したどのプロジェクトよりも不確かだったにもかかわらず.....
【登場人物の整理】
(94) 木川田一隆(日):東京電力社長(沸騰水型原発を導入と推進)
(95) 芦原義重(日):関西電力社長(加圧水型原発を導入と推進)
(96)マルセル・ボワトー(仏)フランス電力(EDF)支配人(軽水炉原発の導入と推
進)
(97) ミシェル・ユーグ(仏):EDF施設局長(軽水炉原発の建設を推進)
第21章 「原子力のシェル」
1970年代初めの石油価格急騰に際して、すべての工業国が石油輸出国機構(OPEC)に頼らずにすむエネルギー源を開発するため、意を決して立ち上がった。なかでもアメリカはニクソン大統領が外国へのエネルギー源の依存を終わらせる「インデペンデンス計画」を打ち出すことによって、アメリカ国民のムードを要約してみせた。他の国々も同じような独立計画を立てたが、他の国々はもうひとつの依存関係、すなわち、アメリカによる世界的な原子力産業の支配からの解放をも心に抱いていた。アメリカは軽水炉の勝利で、原子炉の部門で世界を支配しただけでなく、その燃料の濃縮ウランの供給をも独占した。このことは世界各国の核科学者や技術者の愛国的心情をいたく刺激した。イギリスやフランスは軽水炉技術の採用を断固拒否したり、強く抵抗し、インドやアルゼンチンはコスト高にもかかわらず、カナダの重水炉を購入した。過去にはアメリカの企業は石油貿易を支配していたが、今度は、1975年現在ですでに年間500億ドルに達し、そのうえなおも拡大を続ける原子力産業でも、アメリカは断然トップを走っていた。石油のときと同じようなことが、今後何百年にもわたって最大の産業のひとつになると予想される原子力の世界でも起こるのを、特に西ヨーロッパの国々はおそれていた。
1970年にフランス原子力庁(CEA)の長官に任命されたアンドレ・ジロー(98) は、原子炉と核燃料の二正面でアメリカの独占に攻撃をかけるべきだと考えた。石油のメジャーが原油の採掘からガソリンスタンドの経営まで手がけているように、今後巨大な多国籍企業がウラン鉱石の採掘から原子炉の建設まですべての原子力に関係した事業をやるようになるだろう。「われわれは原子力のシェルになるのだ」と彼は言った。
ジローは石油産業の出身で、ピエール・ギョーマ(48) の庇護の下でフランス官界で出世してきた人物だった。ギョーマはフランス独自の核爆弾をつくるための機関として原子力庁(CEA)を設立しただけでなく、石油メジャーに匹敵するフランス自身の石油会社をつくりあげるために何十年間も闘ってきた。ギョーマと同じく理工科大学の「鉱山部」の卒業生だったジローは、ギョーマが設立した国立石油研究所に20年間勤め、その間、のちにフランスの原子力産業を築き上げるのに役立つ技術を身につけた。
1964年、ギョーマはジローをフランスの燃料局長に抜擢した。そこでジローは初めて権力の味を知り、それがすっかり好きになった。そして好きなだけではなく手腕も備えていた。彼は絶えず、自分の有能さを証明したいという衝動に駆られているように見えた。過去の勝利に決して満足せず、つねに新しいプロジェクトがあり、新しい戦いがあり、新しい勝利がなければ気が済まなかった。彼の指導力の下、フランスの原子力計画は、それまでの実績を評価し、それを消化し、拡張するのをやめなかった。彼の熱心さと行動力は、その教師であるギョーマとよく比較されたが、彼にはギョーマの静かな自信が欠けていた。20年間にわたる石油研究所生活を通じ、ジローの内奥には自己不信があったが、あらわな行動力がそれを覆い隠した。口数が少なかったギョーマとは逆に、ジローは多弁で、よくかんしゃくを破裂させ、自分の権勢を振るうのに声を荒げた。背が高く、銀髪で、冷たい青い目をし、きれいに刈り込んだヒゲを蓄えた痩身のジローは、見るからに権威ある人物を装っているように見えたが、確かにそれは自然に身についたものではなかった。彼はボルドーの貧しい家庭の生まれで、父親は学校の視学官、母親は郵便局の職員だった。彼は自分の知能と精力だけで出世してきたのである。
1970年末にジローがCEAを引き継いだとき、同庁は動力炉の選択をめぐるフランス電力(EDF)との闘いに全面的に敗北したのちの沈滞した空気に覆われていた。ポンピドー大統領がCEAを首相直轄から産業相の所管に移し、さらにCEAを建て直す調査委員会を設置したことで、大きな屈辱さえ感じていた。委員会は抜本的な組織替えを勧告し、あらゆるポストが洗い直された。しかし、ジローは新しい機構に巧みに適応し、再編成の仕事を全部引き受けたため、世間はじきに調査委員会のことを口にしなくなった。そしてジローは5年以内に石油メジャーをモデルにして、原子力に関する総合的なグループをつくりあげたのである。
ジローは、アメリカの軽水炉に匹敵するようなフランス製動力炉を生産するのは不可能だということは承知していた。そこで彼は、ウラン燃料の完全利用をはかる「核燃料サイクル」と呼ばれる核技術に全精力を集中した。
このサイクルはウランの採掘から始まる。天然ウランはまず軽水炉用に「濃縮」工場で加工され、核分裂を起こすウラン235の比率を高められる。濃縮が終わると、原子炉に装填する「燃料棒」に加工される。それが炉内で燃焼したあと、燃えかすの「使用済み核燃料」を取り出して、「再処理」工場でその中に含まれているプルトニウムを抽出し、ウランを加えて軽水炉用のMOX燃料として「リサイクル」する。あるいは、プルトニウムを分離して、増殖炉の燃料にすることもできる。
フランスのCEAは核兵器開発に果たしてきた役割と歴史からして、核燃料サイクルのすべての部分に関わり合いを持っていた。ウランの探鉱と採鉱にも従事してきたし、核兵器用の核物質を生産するための小規模な濃縮プラントを持ち、プルトニウムの生産や動力炉の建設、軍事用の再処理工場も稼働させていた。さらに増殖炉計画では先駆的な存在だった。
同じように核兵器を生産し、核燃料サイクルの開発に携わっている国としては、イギリスがそうだった。イギリスは、核燃料サイクルに関連するすべての計画を、濃縮と再処理を担当しているイギリス核燃料公社(BNF)のもとに一本化した。BNFはイギリス原子力公社(AEA)と密接な関係があり、AEAはフランスのCEAと違って、ウラン鉱山は所有していなかったが、イギリスの巨大鉱山会社リオ・ティント・ジンク(RTZ)は、世界中のどの国よりも大量のウラン埋蔵量を支配しており、このRTZとBNF、AEAをつなげば、まさに核メジャーが出現する。
西ドイツは、技術面では強力だったが、組織的には分散していた。二大電機メーカーであるジーメンスとAEGはともに、軽水炉と増殖炉の両方を生産する技術を持っていた。大化学メーカーのヘキスト社は再処理をやっており、重工業各社からなるコンソーシアムがウラン濃縮を支配していた。しかし、このようなバラバラの糸を一本により合わせるのは難しそうで、それに、西ドイツはウランの安定して供給先を持っていなかった。
欧米以外で核メジャーとなる潜在的な能力を持っているのは日本だった。核燃料サイクルの多くの部分が、政府出資による動力炉核燃料開発事業団のもとに一本化されていた。しかし日本も、ウランの供給源を持っていなかった。
ジローの構想が正しかったことは、アメリカの大会社が核燃料サイクルに新たな関心を示しはじめたことで証明された。いくつかの石油会社が参入してきた。ゲッティ石油は使用済み燃料棒の再処理技術に乗り出し、エクソンはウラン採掘と濃縮に、ガルフは原子炉メーカーを買収し、シェルと手を組んで核燃料サイクルの分野の足場を強化した。またGEやウェスチングハウスも濃縮や再処理に関心を示し、ウラン探鉱にも乗り出した。
ジローは、将来の核メジャーは、エクソン、ガルフ、GE、ウェスチングハウス、それにイギリス、西ドイツから1社ずつ、そしてフランスのCEAの「7人兄弟」で形成されるだろうと考えていた。
ジローは再処理を核燃料サイクルの最初の目標に選んだ。シェルブールの近くにあったフランスの核兵器計画一環としての再処理プラントはガス冷却・黒鉛減速型原子炉の使用済み燃料棒を処理するためのものだったが、軽水炉用に転換すれば、十分に使用可能だった。イギリスも再処理施設の拡大を計画し、西ドイツはこれから建設に取りかかるところだった。3国ともアメリカに国際市場を支配させないことが共通利益になっていたが、このまま3国が競争すると設備過剰になってしまうおそれが出てきた。予測どおり原子力発電が世界中で拡大していけば十分な需要が生まれてくるが、それまでは、石油メジャーが石油の供給と販売で協力しあってきたように、3国は手を携えなければならない。そこで、3国は、1971年、再処理技術をプールしあうための合弁会社を設立し、お互いに足許をすくい合うことがないようにした。
ジローの第2の目標は、ウランの採掘と販売に関することだった。当時、ウランの国際価格は依然として「買い手市場」で、しかもアメリカの原子力委員会(AEC)ががっちりと押さえていた。AECはウラン濃縮プラントの独占的地位を利用して、自国が買い入れる分だけではなく、世界中の天然ウランの価格を低い水準に抑えていた。
戦争直後のウラン需要の大部分を算出したベルギー領コンゴの豊富なウラン鉱山に加えて、カナダで新しい鉱脈が発見され、南アフリカの金山では副産物として大量のウラン鉱石が産出され、オーストラリアでもいくつかの新規開発が始まった。しかし、1960年代初めには、ウランの産出量はアメリカの核兵器計画の需要を上回るようになり、生産削減が始まった。1964年には、アメリカがウラン鉱石の輸入を全面停止すると宣言、さらに1967年、AECは濃縮ウランを一定価格で誰にでも売ると発表、このため天然ウランの価格を1950年代なかばの約半値に固定されることになった。
世界のウラン産出国は市況が下落しつづけることにすっかり取り乱してしまった。将来のウラン需要の拡大を見越して、莫大な経費をかけて開発計画を進めてきたカナダなどは音をあげたが、AECやアメリカ政府は耳を貸そうとはしなかった。そこでフランスは1972年、アメリカ以外のウラン産出国とともに、ウランの供給を管理する「秘密クラブ」を結成した。
フランス自身もスタートは遅かったが、主要なウラン生産国となっていた。国内と旧植民地のニジェールとガボンで独自のウラン鉱山を開発していた。また、60年代なかばに、失敗に終わったガス冷却炉用として、大量の天然ウランの備蓄をしていて、それらがいまや生産にかかったコストよりも低い価格で売らざるをえなくなっていた。
直接その任に当たったのは、ジローの最も信頼する補佐役ピエール・タランジェ(99) だった。典型的な理工科学校卒の技術者であるタランジェは、ギョーマの石油帝国で職業人としての第一歩を踏み出し、1950年代にギョーマが核兵器用物質の生産計画に着手したとき、その責任者となった。彼はギョーマがCEAを去ったときに自分も辞任したが、1971年にジローによって呼び戻された。その任務ははっきりしていた。短期的にはウランの供給過剰を解消することだが、それを「原子力のシェル」を建設するというジローの大計画を念頭に置きながらやってのけるということだった。
1972年2月、フランス、カナダ、南アフリカおよびイギリスのRTZ社の代表がタランジェの招待でパリのCEA本部に集まった。予備会議という触れ込みだったが、フランスは早速ひとつの計画を提示した。それによると、1977年までのウランの総需要はわずか2万6000トンであるのに対して、生産能力は10万トンを上回る。それに加えて、フランスとカナダは備蓄のウランも抱えていた。そんな状況で、今の低価格を何とか引き上げるには各生産国が生産を抑えて、割り当て量を厳重に守るしかない。
それまで激しい競争をしていた各国は、最初のうちは合意に到達できそうにも思えなかった。しかし、オーストラリアで桁外れに豊富なウラン鉱山が発見されており、カナダのラビットレイクの新しいウラン鉱山も1975年から生産を開始する予定で、このままでいくとさらに価格が低下するのは目に見えていた。
ところで、カナダのラビットレイク鉱山はカナダ政府ではなく、CEAにとってはライバルのガルフ石油が支配していた。タランジェは当初、クラブのメンバーを最初の4ヶ国に限定することにしていた。すると、オーストラリアもガルフも除外されることになる。最初の会合から1週間後、カナダで操業しているガルフの子会社がパリで秘密会議が開かれているのを嗅ぎつけた。ガルフの首脳部は是が非でもこのクラブに加盟する必要があると判断し、その後、何ヶ月も難交渉を重ねて、1972年5月に、ガルフもオーストラリアもメンバーになることに成功した。このクラブはメンバーの間では、フランス、オーストラリア、カナダ(ガルフの利益も含めて)、南アフリカ、イギリス(RTZ社)の「5ヶ国クラブ」と呼ばれるようになった。
1972年7月、アメリカ以外の世界ウラン市場の推定需要が、70年代いっぱいにわたって、この5ヶ国に割り当てられた。詳細なパーセンテージが定められ、入札に際しての細かい手続きも取り決められた。また、ウラン市場で「中間業者」を介在させるのを排除するという特別規則も採択した。
その頃、ウェスチングハウスは加圧水型原子炉の売り込みを世界的に成功させており、その手段として、ウランを長期間にわたって固定価格で供給するという「甘味料」をつけていたが、それが特別規則に触れることになった。ウェスチングハウスがライバルの原子力メジャーになることを警戒するフランスと、子会社の製造する原子炉が競合するガルフが力を合わせて、ウェスチングハウス追い落としに立ち上がった。「中間業者」を締め出すために、「中間業者」への売り渡しには高い価格をつけるという動議が採択され、ウランの大量の供給約束を抱えていたウェスチングハウスは窮地に陥った。
ジローの第3の目標は、ウラン濃縮計画だった。ウラン濃縮は原子炉の販売よりもカネになる商売で、原子力発電が計画どおりに拡張していけば、今世紀末までに1000億ドル規模の産業になると予測されていた。増大する需要に応えるためには2000年までに12ヶ所ほどの新しい濃縮プラントの建設が必要なはずで、ジローはそのうちの少なくとも1つをフランスに建設するハラを固めた。
フランスはすでに、原爆計画で開発した「ガス拡散」技術を採用した新しい濃縮プラントに着手していたが、それに代わる新しい技術、「遠心分離」方式が登場した。この方式は、マンハッタン計画の初期の段階で放棄されたものだったが、いくつもの利点があったので、1960年代にヨーロッパで息を吹き返した。その利点のひとつは、「ガス拡散」の場合、とてつも大きな工場になるのに対して、「遠心分離」ではスケールが控え目なものになるだけでなく、需要が増大するにつれて工場を段階的に増設できた。二つ目の利点は、「ガス拡散」では膨大な電力が必要で、1ヶ所の工場が、ニューヨーク市が消費するのとほぼ同じ電力を使っていたのだが、「遠心分離」ではその5%の電力しか消費しなかった。ただ、それまで企業採算に乗るだけのプラントを建設した例はひとつもなかった。
「遠心分離」に先鞭をつけたのは、第2次大戦中のドイツの原爆開発計画のチームで、このメンバーは敗戦後、ソ連で「遠心分離」の研究に従事した。しかし結局、ソ連は「遠心分離」を放棄し、実績のある「ガス拡散」を採用したため、チームのひとりのゲルノート・ツィッペ(100) は、「遠心分離」の設計図を持ってドイツに帰国、デグッサというドイツ企業が開発に着手した。しかし、やがて「遠心分離」が早くて安上がりの濃縮の方法になる、すなわち、より簡単に原爆がつくられるようになるのを恐れたアメリカは、「遠心分離」に関するすべての作業を機密扱いとするように主張、デグッサ社は不承不承、研究のいっさいを政府管轄下の機関に売り渡した。アメリカはその後も、「遠心分離」を隠していたが、1968年に西ドイツ、イギリス、オランダ3ヶ国の政府が秘密裏に交渉し、3国共同の研究開発グループ「ウレンコ」を設立した。
「ウレンコ」に、アメリカの濃縮独占に対するヨーロッパの挑戦の意気込みを読み取ったアンドレ・ジローは、1972年2月、CEAがウラン・クラブの交渉を開始した2週間後に、すべてのヨーロッパ諸国に対して、濃縮研究グループ「ユーロディフ」の結成を呼びかけた。しかし、ウレンコ3国から見れば、このジロー提案の目的が、「遠心分離」をやめさせ、フランスの「ガス拡散」計画に全ヨーロッパ諸国を協力させることにあるのは明白だったので、それに反発、結局、ウレンコとユーロディフの2つの濃縮グループが別々にヨーロッパに誕生した。ユーロディフには、フランス、スペイン、イタリア、ベルギーが参加した。
フランスがここまで大きく踏み込んだのは、日本などから大口のウラン濃縮契約が舞い込んだからである。ユーロディフ・グループは大規模な「ガス拡散」工場をフランスに建設することにした。折りしも、アメリカは自国の濃縮工場の拡大を控えており、その間隙を縫っての契約獲得であった。ジローは、原子力発電の将来についての最も楽観的な見通しが必ず実現すると固く信じて、手直しした再処理プラント、秘密のウラン・クラブ、それにユーロディフ・グループを武器に、包括的な「核燃料サイクル」計画を推進していった。
しかし、1974年、もはやこの計画が引き返し不能地点を過ぎたころから、雲行きが怪しくなってきた。原子炉の注文はピークを過ぎ、さらに濃縮ウランが供給過剰の気配を見せはじめてきた。ウレンコ・グループの方は、需要が出てきた場合は、それに応じてプラントを増やせばいいので、柔軟に対応できそうだったが、ユーロディフは巨大な「ガス拡散」プラントを抱えて立ち往生してしまった。さらにまずいことに、その建設コストも当初見通しの2倍になっていた。
それでもフランスの熱中ぶりは収まらなかった。ユーロディフの他の加盟国がいずれも原子力発電計画を縮小したのに、フランスだけはさらに増大させた。自信たっぷりのフランスの原子力産業は、原子力の将来への懸念が高まっているのに対して、フランスの社会や業界に特有の頑固さで取り合おうとしなかった。原子力の大戦略は「第2のコンコルド」なのではないかという叫びが日増しに高まっているにもかかわらず、CEAはジローのもと、向こう何十年にもわたって、フランスの経済繁栄を左右するようなやり方で、同国の工業投資を支配しはじめた。
【登場人物の整理】
(98)アンドレ・ジロー(仏):フランス原子力庁(CEA)の長官(「核燃料サイク
ル」を確立)
(99)ピエール・タランジェ(仏):CEA技術者(ウラン生産国カルテル「5ヶ国ク
ラブ」担当)
(100) ゲルノート・ツィッペ(独):技術者(遠心分離方式ウラン濃縮法の研究)
第22章 2つの王朝物語
1938年にウランの核分裂を初めて発見したドイツが、発電用原子炉に関するアメリカの技術的独占を決定的に打破する国になるというのは、まことにもっともなことだった。
世界最大の電機メーカーのひとつである西ドイツのジーメンス社のスタイルは、ライバルであるアメリカのGEやウェスチングハウスよりも堅苦しかった。アメリカ流のすばやい機動性と幹部の引き抜きといった手法はとらず、どちらかといえば日本の企業に近かった。家族的で、社内では競争を控え、ポストが脅かされることもなかった。そしてジーメンスの一番の特徴は、創始者であるウェルナー・ジーメンスが奨励した知性と技術的優秀性の伝統にあった。「ジーメンス家」(同社の社員たちは自分の会社をそう呼んでいた)は、今すぐ商業的に応用できるかはともかくとして、独創性のある研究に高い優先順位を置いていた。
ジーメンスの原子力研究は、連合国がドイツの原子力研究を解禁する3年も前の1952年から秘かに開始されていた。ウェルナー・ハイゼンベルク(13)は、ドイツの理論物理学者ウォルフガンク・フィンケルンブルク(101) をジーメンスの原子力研究のリーダーにしてはどうかと提案した。フィンケルンブルクは1939年にナチに入党し、ナチの大学教師協会のリーダーを務めていたが、それにもかかわらず、彼はナチによって「ユダヤ人的物理学」と批判を受けていたアインシュタイン理論を支持し、そのことでドイツの核物理学者たちから広く尊敬されていた。彼は戦後、優秀なドイツ人科学者の引き抜きを図っていたアメリカに移住し、ワシントンのカトリック大学で働いているのをジーメンス社の幹部が見つけ出し、帰国させた。
フィンケルンブルクは基礎研究重視というジーメンスの方針にぴったりだった。大学教授を何人も出した家系に生まれた彼は、いかにもドイツ流の学術的なスタイルの原子力研究所を発足させた。親分肌の学者であるフィンケルンブルクの周りには彼を尊敬する弟子たちが集まり、研究所全体が家族のようで、父親役のフィンケルンブルクは部下のひとりひとりをよく知っていた。彼は強い目的意識と共同体意識を持ったグループをつくり出し、そのグループは世界中の核科学者の野心的な発表に奮い立った。フィンケルンブルクのチームは新しい国際的な技術の最前線に躍り出す気構え十分だった。
戦時中の同僚たちの多くが、技術者を一段低いものにみていたのに対して、フィンケルンブルクは理論物理学者と技術者の協力なくしては、研究の効率を大幅に増進できることはできないと考えていた。ジーメンスの研究部門担当取締役のハインツ・ゲッシェル(102) もこれに賛意を示し、この2人の組み合わせはとくに効果的だった。2人とも、ジーメンスを、ひいてはドイツを独立独歩の勢力に育て上げるため、他にとらわれない研究路線を追求していくことに心を決めていた。そのためには、アメリカとの結びつきを断たねばならない。それはつまり、濃縮ウランを使わない原子炉を建設することだった。
1950〜60年代を通じて、濃縮ウランに対するアメリカの支配は永続的に見え、そこでジーメンスはドイツ愛国主義と、企業としての、職業としてのプライドから、天然ウランを燃料とする重水炉の開発に着手した。同じような理由で、イギリス、フランス、カナダ、インド、アルゼンチン、そしてスペインの科学者たちも天然ウランを燃料とする原子炉の研究開発に取り組んだ。だがまもなく、西ドイツの電力会社が一致して軽水炉を好んでいることが判明し、そこでジーメンスも方向を転換し、40年来の提携関係にあったウェスチングハウスから技術を導入して、加圧水型炉を開発することにした。
原子力以前の、初期の電力の時代から、ウェスチングハウスとGEは世界のあらゆる工業国の電機メーカーと提携関係を結んでいた。ドイツではウェスチングハウスはジーメンスと、GEはAEGとそれぞれ提携していた。第2次大戦によってもちろんこの関係は中断されたが、1950年代の初めには再開されていた。
すでにアルゼンチンに1基輸出するほどにまでなっていたジーメンスの重水炉の技術は、軽水炉開発にも十分応用できるものだったので、同社は、日本のようにウェスチングハウスの技術上のノウハウをそっくり受け入れてそのまま真似をするのではなく、ウェスチングハウスからの技術情報を独自開発の基礎として利用する方向をとった。しかし、ウェスチングハウスも教えた技術をすぐに真似されることを警戒して、最新の情報は決して伝えようとはしなかった。
1963年、西ドイツ原子力委員会は公式の5ヶ年計画を発表、ジーメンスとAEGの競争心に神経を使いながら、加圧水型炉と沸騰水型炉をそれぞれ1基ずつ建設する資金を提供した。この時、28万キロワットの加圧水型炉を建設するにあたって、ジーメンスとウェスチングハウスとの技術提携上の関係がこじれた。ジーメンスは企業の誇りをかけて、ウェスチングハウスと手を切り、独力で加圧水型炉の建設を進めながら、同時に技術開発に努める道を選んだ。しかし、これはフィンケルンブルクの研究チームにとっては、待ち望んでいた状況だった。ジーメンスはきわめて効率的に、しかも技術的には易々と、ネッカー河畔のオプリッヒハイムに加圧水型炉を完成させ、その過程でドイツ工業が原子力発電プラントのすべての部品を供給するのに必要な、完全に整った「すそ野」を持っていることを内外に示した。この「すそ野」はフランスには未だ不十分なものであった。そして結局、1967年、ジーメンスはウェスチングハウスと、自分たちの独立性をある程度認めさせた新しいライセンス契約を結ぶのに成功した。
1960年代を通じて、西ドイツの2社は国内の電力会社向けの軽水炉で受注競争を演じてきた。ジーメンスは今やAEGを市場から全面的に締め出せると自信を持っていたが、1962年以来ジーメンスの重機部門を統括していたベルンハルト・プレットナー(103) はそれに反対した。和を重んじるプレットナーは、市場をめぐって真正面から対決するよりも静かな協力の方を望んだ。彼はジーメンスの系列下にあるレコード会社ドイッチェ・グラモフォンを、オランダのフィリップス・レコードと結ばせ、また、ジーメンスの家電部門をボッシェ・グループとの合弁会社にした。1969年、コストの拡大から発電機器メーカーが統合の必要に迫られたとき、プレットナーはジーメンスをライバルのAEGと握手させて、クラフトウエルケ・ウニオン(KWU)という新会社を設立した。加圧水型炉と沸騰水型炉の両方を製造している会社は世界にここしかなく、アメリカにとっても強力なライバルの出現だった。ウェスチングハウスは大急ぎでジーメンスとのライセンス契約を破棄したが、ジーメンス側はまったく動じなかった。
西ドイツ国内では最初、AEGの沸騰水型炉が成功を収めた。その後、加圧水型炉の技術を確立したジーメンスはライン河畔のビブリスに、120万キロワットという、石炭火力発電でさえ前例のない世界最大の加圧水型炉を完成させて、一挙に形勢を逆転した。1975年には完全に優位に立ち、1976年にはAEGはクラフトウエルケウニオン(KWU)から撤退して、ジーメンスの独擅場となった。しかしそんなKWUも南アフリカへの原子炉の売り込みではフランスのフラムト厶に敗れた。フラムトムは、武器との抱き合わせ商法によって、ジーメンスを打ち負かしたのである。
バレリー・ジスカールデスタン大統領のもとで、フラマトムはフランス第一の原子炉メーカーになった。フラマトムは3代目のアンパン男爵(104) がつくりあげた巨大な投資王国の一部をなしており、フランス実業界の大御所たちはこの人物をいささかうさん臭く見ていた。それは、アンパン男爵はフランスの家系ではなく、ベルギーの血統だったためで、1960年代初め、アンパン一族が「フランスのクルップ」と呼ばれる、国内有数の重工業でかつ兵器メーカーのシュネデル・グループ(その中にフラマトムも含まれている)を買収したときも、「アンパン帝国」が本当にフランスのものだと信じようとはしなかった。
初代のアンパン男爵はベルギー生まれの技術者で、19世紀の終わりから20世紀初めにかけて大胆不敵な一連の投資によって金融帝国をつくりあげた。そうしたことから、彼は野心満々たるベルギー王レオポルド2世の寵愛を受けるようになった。ベルギー領コンゴの開発を助け、第1次大戦ではベルギー陸軍の補給を一手に引き受け、それらの功績により、レオポルド2世から爵位を授けられた。また彼は最初のパリの地下鉄を含む電化鉄道の建設を通じて、電機業界に強い足場を築き、ベルギー、北部フランスおよびパリをカバーする電力会社のオーナーになった。
息子のジャンは2代目アンパン男爵になったが、実業家というよりプレイボーイだった。1935年、パーティーで知り合ったアメリカのジーグフェルド・フォリーズのスターダンサーのゴールディー・ローランドとの間に男の子が生まれると、子供のなかった先妻と離婚して、ゴールディーと結婚した。
1960年、「フランスのクルップ」の当主だったシャルル・シュネデルが世継ぎを残さずに死んだ。未亡人で映画女優のリリアン・コンスタンチニは、シャルルの遺言状どおりに自分の権利を行使することを決め、「シュネデル帝国」を経営しようとした。これを不満としたシュネデル一族の者たちはすぐさま持ち株をベルギーのアンパン・グループに売却し、アンパンは発行株式の25%を支配するに至った。自分自身とフランスに対する侮辱に怒り狂ったコンスタンチ二未亡人は、ベルギーの侵入者を撃退してくれるよう、ドゴール大統領に直訴した。これは奏功し、ドゴールはシュネデルの取締役会にフランス政府の高官を何人か送り込んだ。ゴールディーの息子である3代目アンパン男爵がこうしたフランス人重役を追い出すには、1969年のドゴール退場まで待たねばならなかった。
アンパン男爵はフラマトムの好業績にもまだ心を止めていなかった。60年代の終わりに、ウェスチングハウスがヨーロッパに強力な足場を築こうと必死に努力していたころ、男爵はベルギーの電機会社を喜んでウェスチングハウスに売却し、続いて、シュネデル・グループのなかの電機関連の子会社をも売却しようとした。ポンピドー大統領はこの計画に拒否権を発動し、その子会社を全額フランス資本のCEGというメーカーに売却するように圧力をかけた。CEGは軽水炉生産のため、GEとライセンス契約を結んでいた。男爵はポンピドーの圧力に抵抗し、その結果、ドゴール派のなかに敵をつくった。
フランスの電力業界が、国産のガス冷却炉の代わりに軽水炉を選んだ段階で、アンパン男爵はフラマトムの重要性に気がついた。政府内のドゴール派はフラマトムよりもCEGに傾いていることを知り、1970年、損失を覚悟して、最初の応札をして、フランス電力(EDF)と1基契約し、その翌年さらに3基受注した。
1974年にポンピドー大統領が死ぬと、アンパン・グループの政治的立場も変化してきた。ジスカールデスタン新大統領はドゴール派のような、ベルギー人に対する原始的偏見は持ち合わせていなかったし、何よりも、アンパン一族の友人だった。ジスカールデスタン大統領の妻はシュネデル一族で、その持ち株をアンパンに売却した反コンスタンチ二派の旗頭の家の出だった。
フラマトムをフランスの代表的原子炉メーカーに仕立て上げようというジスカールの決意は明白だった。大統領のお墨付きを得て、アンパン・グループはフランス実業界のトップにのし上がった。男爵自身も強力なフランス経営者協会の理事会の一員となった。外国人でそのメンバーになったのは、彼が初めてだった。
フラマトムは、アンドレ・ジローの「原子力のシェル」のギャップを埋める存在となった。軽水炉を生産するフランスの会社になるのだ。ジローもジスカールデスタン大統領とは特別のコネがあった。ジスカールは理工科大学で彼より1年上級生だった。その上、ジスカールのいとこで、ジローの少年時代からの友だちであるジャック・ジスカールデスタンはフランス原子力庁(CEA)の財務部長に任命されていた。さらに重要なことに、CEAを眠ったような研究機関から、多彩な核カルテルに変身させた成功によって、ジローはフランス行政府のエリート集団の頂点としての名声と権力を確立していた。
1975年8月、新規まき直し策が発表された。第一に、フラマトムは国内市場を独占し、輸出のための基礎づくりをする。そのため、フランス電力(EDF)がCEGに発注していた沸騰水型炉はあっさりキャンセルされた。第二に、ウェスチングハウスが所有しているフラマトムの45%の株式をCEAが買い取る。第三に、ウェスチングハウスとのライセンス契約を、CEAとウェスチングハウスとの共同研究に発展させて、対外依存から脱却する。そして、EDFは大規模な新規投資が正しかったことを証明するために、発注を繰り上げた。それは国家の独立のための緊急計画であり、自信に溢れた計画だった。
【登場人物の整理】
(101)ウォルフガンク・フィンケルンブルク(独):ジーメンズ原子力研究所長
(原子炉の研究)
(102)ハインツ・ゲッシェル(独):ジーメンスの研究部門担当取締役(原子炉の
研究)
(103)ベルンハルト・プレットナー(独):ジーメンスの重機部門統括(他社との
協調を重視)
(104)3代目アンパン男爵(仏):アンパン・グループ総帥(原発メーカーの「フラ
マト厶」を所有)
第23章 確実な出来事
原子力反対運動にとって、1976年は大きな転機となった。この年、何人かの核技術者が原子力業界の責任あるポストを辞め、原子力発電所(原発)は危険であり、人間の生存を脅かすものだと宣言した。
1976年1月に最初に辞任したのは、原子力委員会(AEC)の原子力発電規制部門を引き継いで設立されたアメリカ原子力規制委員会(NRC)のエンジニアとして働いていた35才のロバート・ポラード(105) だった。ポラードはNRCでいくつかの原発の安全性点検を仕事としている48人のプロジェクト・マネジャーのひとりで、彼はその辞表の中で、ニューヨーク市の北26マイルのところにあるインディアンポイントの原子炉の不適当な設計からして、重大な事故が発生しないと考えたのは「単なる偶然」に頼っていたにすぎないと述べていた。
ポラードに続いて、2月にはカリフォルニアにあるGEの原子力部門の先任技術者3人が辞めた。3人は会社を辞めるとすぐに、原子力反対運動に参加すると発表した。そのひとり、デール・ブライデンボウ(106) は次のように述べた。 「原発はもはや技術にとっての怪物(モンスター)になってしまい、仮にこれがコントロールできるとしても、それはいったい誰なのか、皆目見当がつかなくなってしまった」
それから8ヶ月後の1976年10月、原子力規制委員会(NRC)のもうひとりのエンジニア、ロナルド・フルッゲ(107) が辞任した。「NRCはきわめて重大な原子力の安全性に関する問題をもみ消すか、あるいは脇に押しやってきた。われわれはすでにわかっている安全上の欠陥から大損害をともなう事故が発生しかねないにも関わらず、何十という大規模原発の、居住地域での操業を認めている」と彼は告発した。
GEの3人の技術者は沸騰水型原子炉の欠陥を一覧表にして数え立てた。ひび割れのあるパイプ、漏れる継ぎ目、閉まらないバルブ、予想外の振動、など。GEとNRCは、問題の一部はすでに解決済みで、他の問題については目下検討中であると反論した。だが、3人が指摘したのは、単にひとつだけの欠陥ではなく、それらが積もり積もっての相乗効果だった。彼らは、議会の上下両院合同原子力委員会で証言し、次のような言葉でそれを締めくくった。 「原発の設計、建設、運転についてのすべての欠陥や欠点が相乗効果となって、原発の事故が発生するのは、私たちの意見では確実な出来事である。唯ひとつ残された問題は、いつ、どこで起きるか、だ」
一般大衆は初めて、原子力の専門家の口から矛盾する意見を聞かされた。どの原発も絶対に安全だと保証できないのであれば、原子力業界はこれまで、原発の設計、建設、運転について、「これなら安全性は十分だろう」という当て推量を基礎に原発計画を進めてきたことになる。技術面からの批判がアメリカで増大するにつれて、原発に対する反対運動が全世界で、これまでになく統一のとれた、しかも自発的なかたちで爆発した。これまで原発に関する情報を知らされていなかった、という大衆の気持ちはたちまち、原子力業界は何か隠しているな、という疑惑に変わった。
自分たちを特別な「技術のエリート」と見なしてきた原子力業界の傲慢さがそれに輪をかけた。あまりにも自信満々で楽観的だったので、一般大衆は事故の可能性などまったく思っても見なかった。だから例えば、1973年にアメリカのハンフォード核廃棄物貯蔵タンクから放射性廃棄物が漏れる事故があったり、またソ連のクイツシムで大惨事が起きていたことが1976年になって伝えられたりし出すと、専門家がいくら安全を保証しても、一般大衆の信頼を回復することはできなかった。原子炉に比較的小さな問題が起きても、時にはバランスを失して重大視された。そうした問題が実際にどれだけ重大か、あるいは重大でないかにはお構いなしに、ひとつはそれが原発のものであるため、もうひとつは、専門家がもはや信用できないため、どれもこれも重大に聞こえた。
核燃料サイクルのそれぞれのポイントで、相次いで問題が起きたことも、核技術をコントロールする「専門家」の能力に対する一般大衆の圧倒的な疑惑をさらにかき立てた。提案されていた再処理計画は、ニューヨーク州バーンウェルで、そして西ドイツのカールスルーエで、技術上ならびに経済上の失敗を繰り返した。日本では東海村の再処理工場で運転開始直後に放射能漏れが発見された。フランスのシェルブールに近いキャプラアーギュ再処理工場で起きた一連の技術上の困難は、大部分秘密裏に葬り去られたが、ブルターニュ沿岸の海産物に蓄積された放射能の水準を高める結果を招いた。
核兵器計画に関係した事故としては、1969年、コロラド州ロッキーフラッツのプルトニウム爆弾工場の火災のため、周辺地域がプルトニウムに汚染された。また、オーストラリアのラム・ジャングルのウラン鉱山や、カナダのオンタリオ州ポート・ホープのマンハッタン計画ウラン加工工場では、ウラン選鉱の貯蔵保全が十分でなかったために、近くの土地や海辺、町、さらには学校までもが汚染された。さらにはもっと昔のラジウム産業が、安全基準もほとんどないまま操業していたことも、70年代の原子力推進派を脅かした。
これでもかと追い討ちをかけるように、放射性物質を取り扱う専門技術者の能力を疑わせる奇怪な事件が相次いだ。1978年1月、ソ連の人工衛星コスモス954号がカナダ上空で分解し、高濃縮ウランを燃料とした発電装置から放射性物質を北極の雪の上にまき散らした。同じ年、1969年にアメリカのCIAが中国をスパイしようとして、ヒマラヤ山脈に原子力発電装置をかつぎ上げ、結局放棄した事実が明るみに出た。この装置はその後壊れて、インドのガンジス川の水源地を汚染したと考えられている。
原子力推進派は、ひとつひとつの事件がいかにうまく大事に至る前に食い止められていたか、を強調することによって応戦した。安全システムは立派に機能しているというのである。そして原子炉による死者はひとりも出ていないことを繰り返し主張した。(これは確かに、一般大衆に関するかぎりは本当だが、現場の作業員の死者は出ている)
1976年までに、アメリカの原子力反対派は、原発問題について6つの州で住民投票を実施させた。結果はいずれも2対1の大差で、反対派の負けとなり、推進派は原発に対する恐怖が不条理なものだということが立証されたと胸を張ったが、原子力業界は一般大衆の反応がよくないのを気にしていた。何といっても放射能は特殊な毒物である。それは見えもしなければ、触ることもできず、臭いをかぐこともできなかった。たいていの人にとって放射能はまったくの謎であり、人々はそれを恐れた。原子力業界は一般大衆の中にそのような心配があるのを知るにつけて、ますますおなじみの秘密主義を強化した。情報の事実上の独占と傲慢さを示すもっとも端的な例は、原子力潜水艦スレッシャー号のケースだった。
1963年4月10日、スレッシャー号は大西洋で潜航実験中に沈没し、乗組員129名は全員死亡した。それから24時間後、はっきりした証拠は何もないのに、ハイマン・リコーバー提督(52)は、この事故が潜水艦の原子力推進機関の作動不良によるものではないかという見方を頭から否定した。そして、「核燃料物質が溶けるのを自動的に防止するように設計された多くの保護装置と自動制御装置があるから、放射能汚染の恐れはない」と強調した。
4月29日の海軍査問委員会に出席したリコーバーは、スレッシャー号が姿を消した付近の海底から採取したサンプルには、放射性増大のいかなる兆候も認められなかった、と報告した。しかし原因が何であれ、潜水艦が沈没したら水圧に押しつぶされて、原子炉も広い範囲に散らばるだろう。そうした破片の中には強い放射能を帯びたものもあったかもしれない。原子炉物理学について専門知識を持っているのは、委員会の出席者のうちリコーバーただひとりだった。リコーバーは原子炉の事故はありえないとだけ述べ、それに対して、原子力潜水艦の原子炉の事故はどのような状況の下で起こりうるか、という質問をした委員は誰もいなかった。リコーバーは委員会の注意を原子炉から逸らすために、原子炉とは関係のない部分の配管システムに若干の亀裂があったことを示す証拠を提出した。査問委員会は最終的に、リコーバーのパイプ破裂説を悲劇の「もっともあり得べき原因」として採択し、潜水艦の原子力推進機関は結局のところ、無罪放免となった。
しかし、疑問は残った。とりわけ重要なのは、スレッシャー号が沈没前に、随伴していた水上艦艇に送った最後の判別可能な通信の中の「ささいな問題に直面している」というきわめて落ち着いた調子のメッセージだった。パイプの破裂による酸素の欠乏や海水の浸入が潜水艦にとって「ささいな問題」であろうか。むしろ、予想外の停電ならば、そう表現することもあり得る。また、地元のポーツマス海軍造船所の化学者が捜査水域で回収した、原子炉の放射能防護材に使用されているのと同じ種類のプラスチックの破片が「強い炎」によって焼け焦げていたと証言した。また、何かの爆発の跡を思わせる、縁がギザギザになって金属片が食い込んだプラスチックも発見されていた。これらを総合すると、停電で、原子炉の冷却水の循環が止まり、緊急の冷却システムも作動しなくて、その結果、原子炉の炉心がどんどん加熱して、ついに炉心溶融(メルトダウン)した、ということも考えられた。しかし、リコーバーは、その焼け焦げは、この艦を建造した際、ドリルで穴をあけるときに使った潤滑油によるものだと説明し、査問委員会はそれを採用して、化学者の提出した証拠は無視された。
スレッシャー号の事故のときはまだ、炉心溶融(メルトダウン)ということはまだあまり知られていなかったが、これはあり得ることだと、徐々に一般大衆に広がっていった。理論的には、冷却水を失って溶けた燃料エレメントは、どろどろの塊になって原子炉の容器を突き破り、地殻を突き抜けて、地球の反対側にとび出すこともあり得る。アメリカの原子炉から溶け出た炉心の塊がとび出すのは中国のどこかにあたるので、この現象は「チャイナ・シンドローム」と名づけられて一挙に有名になった。
そこで、炉心溶融(メルトダウン)を避ける対策として、緊急炉心冷却システム(Emergency Core Cooling System = ECCS)が考え出された。緊急時に大量の水を一気に炉心に注入するというものだが、果たしてそれが有効なのか、予定どおりに作動するのか、が問題となった。
1971年7月、ボストンに本拠を置く「懸念を抱く科学者同盟」と呼ばれるグループは、AECがECCSについて小規模なテストをしたところ、何度やっても、十分な水が炉心に届かなかった、ということを暴露した。これは新聞で大きく報道され、原子力業界の信頼をひどく傷つけた。AECはECCSについての一連の公聴会を開いた。公聴会は当初、6週間で終わる予定だったが、2年近くも続き、2万2000ページの証言録と1000件にのぼる文書が提出された。公聴会がこんなに長引いたのは、ECCSをめぐって原子力業界内部でも意見が割れていたからだった。「懸念を抱く科学者同盟」には、AEC内部や、AECの資金によって運営されている主要な研究所から洪水のように情報がもたらされた。原子力産業の内部にも、ECCSに不安を持っている科学者が2ダースはいることが判明し、彼らはAECの内部でほぼ10年間にわたり秘密裏に論争が続いており、その過程で、原子炉の安全性を改善するための数多くの提案が却下され、あるいは延期され、見合わされ、また取り消されていたことを暴露した。
この公聴会を通じて、原子力業界の内部では、原子力の安全性をめぐって自由な討論など行われていなかった、それどころか、異論を唱える科学者は片っ端からひどい仕返しを受けることさえ明るみに出た。
原子力反対派に対するもっとも包括的な回答は、アメリカでは1974年の夏に『原子炉安全調査』の公刊というかたちで出された。これは、マサチューセッツ工科大学工学部長のノーマン・ラスムッセン教授(108) と50人のスタッフが400万ドルの資金と3年の歳月をかけて完成させたもので、資金はAECが出した。
ラスムッセン調査は、原発は安全なのだというコンセンサスを、他の事故の起こる確率と比べても十分に低いということを示してつくり出すことを目的とし、とりわけ、大事故が起きた場合の電力会社の補償責任を制限するプライス=アンダーソン法の更新を支援するのが主な狙いだった。
全部で12巻の及ぶ報告書全体が公刊される前に、その「要約」が報道機関に配られると、新聞各紙は、そのなかの「劇的」な結論、例えば、大災害をともなう原子炉事故が起こる確率は、隕石が都市に落下する確率とほぼ同じ、100万年に1回程度である、という箇所を一斉に強調した。このたとえは世界中の原子力推進派によって、熱狂的に受け入れられ、言い触らされた。
しかし、膨大なその全体を詳細に読んで見ると、また違う風景が見えてきた。 「隕石」のたとえにしても、よく読めば、原子炉事故によって「即死者」が出るケースにしか触れていない。1回の原子炉事故によって10人の即死者が出る場合を、人口密集地に隕石が落下して10人が即死するのと比較するといったように。それに、10人の即死者を出す原子炉事故が起きた場合、その結果、やがてガンのため7000人が死亡し、遺伝上の欠陥が4000件生じ、甲状腺の異常が6万件発生し、約3000平方マイルの土地が放射能によって汚染されるだろう、と「本編」に書かれていることが、「要約」では無視されていた。
いまや原子力反対派の側にも、技術者や専門家が大勢ついていたので、1975年に公表されたラスムッセン報告書の全文は、これまでになく克明なあら探しの対象となった。いろいろな面で、次々とおかしな点が指摘されて、ラスムッセン報告書はどんどんと信頼を失い、ついに1979年には、AECから原子力行政についての業務を引き継いだ原子力規制委員会(NRC)はこの報告書を正式に撤回してしまった。
1975年2月、リースリンクとリープフラウミルヒの葡萄酒で有名な西ドイツ・ラインランドの南西部にあるウィルという小さな村の住民300人が、出力135万キロワットの原発の建設現場を占拠し、作業を中止させた。警察が来て、放水車で対抗し、座り込んだ住民を逮捕したが、ウィルの村民は挫けなかった。やがてドイツ全土から応援が駆けつけ、国境を越えて、フランスからも抗議の人たちがやってきた。
ウィルの住民は当初、原発の冷却塔から出る蒸気でこの辺りの湿度が高くなり、それが霧や霜になって葡萄の木に害を及ぼしはしないかと心配して、反対デモに立ち上がったのであったが、それはまもなく、建設中の原発の安全性そのものへと移っていった。大規模な原子炉の中には恐ろしい放射能が大量に含まれている。それを、一部の科学者に言わせると「技術的な能力を超えた」完璧さで、プラントの内部に閉じこめることができるのか。
全国の、そして国際的な支援と、地元の熱心な組織のおかげで、ウィルの村民は建設現場をまるまる1年間占拠し続けることができた。建設現場には、支援の人々が住むための急ごしらえの村落までできあがった。そしてついに、原発建設は中止された。このデモは、西ドイツ、フランス、そしてアメリカにおける将来の対決に重要な前例となった。
1977年4月、およそ2000人のアメリカ人が、ニューハンプシャー州シーブルックの町の海辺にある115万キロワットの原発建設現場の駐車場を占拠した。この湿地帯はさまざまな野鳥や海洋生物の繁殖地だったが、原発の冷却システムが1日10億ガロンの海水を取り入れそれを海に戻すときの海水の温度上昇のために、地元の漁業などに致命的な被害が出ることを恐れた地元民たちが中心だった。さらに、建設用地が地質的に断層の上に位置していること、建設費用が当初見通しの2倍以上になったことが判明しても、電力会社は計画を予定通り進め、1976年にはNRCの許可も下りていた。
地元の反対グループは、ウィルの運動に刺激されて、不服従市民運動「ハマグリ同盟」を組織した。それに続いて、「カニ同盟」とか「カキ同盟」「アワビ同盟」という組織がアメリカ各地で次々と結成された。これらの原子力反対グループはおもに若者がメンバーだったが、地元の漁民や農民など地域住民の支持を取りつけて、広範な市民運動に発展していった。
1977年4月のシーブルックの駐車場占拠は、ニューハンプシャー州の保守的なメリドリ厶・トムソン知事が強硬方針で臨んだのが裏目に出た。電力会社の原発計画を熱心に支持していたトムソン知事は、デモ隊の大量逮捕を命じ、その結果、全米のマスメディアが事件を取材するために押しかけた。全部で1414人が逮捕され、その半数以上が保釈金を積むのを拒否したため、急遽、州兵の兵舎に2週間拘禁された。その様子は毎日ニュースとなってアメリカ全土に流れ、ついに原発建設は中止に追い込まれた。シーブルックはたちまちのうちに、原発反対運動のシンボルになった。
【登場人物の整理】
(105)ロバート・ポラード(米):原子力規制委員会(NRC)エンジニア(原発の
危険性を告発)
(106) デール・ブライデンボウ(米):GE技術者(原発の危険性を告発)
(107) ロナルド・フルッゲ(米):NRCエンジニア(原発の危険性を告発)
(108)ノーマン・ラスムッセン教授(米):MIT工学部長(『原子炉安全調査』の
公刊。原発の安全性を強調)
「第4部・1970年代(後)」につづく
「まえがき」 「詳細目次」 「国別・登場人物一覧」
「ホーム」
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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/488.html
09. 2013年9月25日 11:50:50 : 6lEL0QePhA
@hibi_tantan24 おはようございます。爽やかな美濃地方の朝です。
ブログ『日々坦々』9月22日小沢一郎政治塾で小沢塾長が語った集団的自衛権に
ついての発言が物議を醸し出している>是非一読を!
『MAX超拡散願』http://t.co/DCgCbC …
核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち
The Nuclear Barons』
第4部 1970年代(後)
第24章 仏陀は微笑む
1974年5月18日、タール砂漠のポカランから「仏陀は微笑む」という暗号メッセージがニューデリーの中央政府庁舎に飛んだ。それは「原爆の爆発実験に成功した」という意味だった。インドが、核兵器クラブの6番目、まだ実験されていないイスラエルの原爆を含めれば7番目のメンバーになったのだ。このニュースは、1959年8月にソ連が初めて核実験をおこなって以来最大の衝撃を世界の核開発に与えた。「核拡散」に対する深刻な危惧がたちまち世界中を駆け巡った。いまや誰でも原爆をつくることができる、絶望的に貧しい国でも、気が狂った独裁者でも、政治的なテロリストでさえも。
インドが原爆をつくるのに使ったプルトニウムは、最初は平和目的のために意図され、設計された原子力プラントから出てきたものだった。カナダと米国が、インドに対して必要な技術と物資を提供していた。両国ともこうした結果には当惑したが、反応は違っていた。インドに重水炉を供給していたカナダは、直ちに原子力に関する援助を停止したが、重水を供給して、原爆をつくるのに一役買っていたアメリカは責任を逃れようとした。ヘンリー・キッシンジャー国務長官は、アメリカはインドが原爆をつくるためのいかなる物質も供給していない、とシラを切る道を選んだ。彼はインド側に原爆を放棄するよう圧力をかけることも拒否した。彼が外交政策を牛耳っていたニクソン政権は、ケネディ・ジョンソン両政権の下で発展させてきた「核拡散」防止政策の優先順位を格下げした。
ニクソン政権が、インドに重水を供給し、しかも使用上の制限を何もつけていなかったのを公式に認めたのはそれから2年後のことだった。と同時に、アメリカのインドに対する核援助には、1367人を下らないインド人の核物理学者を、原子力のノウハウに関するさまざまな分野で訓練することも含まれていることが、議会の調査で明るみに出た。これはインドに限らない問題だった。アメリカの再処理プラントのあるハンフォードでは、1958〜1972年の間に、外国人のための特別クラスが設けられていて、そこで学んだ169人の学生のうち、インドから来たのは14人だったが、やがて核兵器保有国になるかもしれない潜在的な可能性を持った国は、すべてこのクラスに学生を送り込んでいた。ブラジル人が7人、ドイツ人が12人、イスラエル人が5人、日本人が29人、パキスタン人が11人、南アフリカからも8人、そして台湾から8人、というように。
インドがプルトニウムを抽出する再処理プラントを開発したのは、最初は増殖炉を建設したいという願望からだった。1956年にカナダがインドにプルトニウム製造用の重水炉を供給する協定が、「原子力平和利用」の浮き浮きするような雰囲気の中で調印された。調印式は、インドの「原子力の父」、ホミ・バーバー(55)がジュネーブでの「第1回原子力平和利用国際会議」の議長を務めるという個人的な栄誉を収めたあとを受けて行われた。当時アメリカの政策は「保障措置(セイフガード)」を求めておらず、インドが、原子炉を平和目的にだけ使うと約束すれば、それで十分だと思われた。それから2年後、バーバーが、使用済み核燃料からプルトニウムを抽出するための再処理プラントを建設する意図を発表したときでさえ、誰も警鐘を鳴らさなかった。やがて再処理プラントが、ボンベイから25マイルのトロンベイに建設されたが、すべてはガラス張りで、秘密は何もなかった。バーバーは世界中の彼の同僚たちと同じように、遅かれ早かれ原子力発電はすべて増殖炉で行われるようになると考えていて、着々とそれに向かっているインドの「進歩」は国際的に喝采を浴びてさえいた。
しかし、やがてそのわずか数年のちに、カナダとアメリカは「保障措置(セイフガード)」という考え方を主張するようになり、カナダはインドとの協定にその取り決めがないことを懸念し始めた。そこで1963年、インドがもっと大型の原子炉を輸入するため、新たな契約を結びたいと求めてきたとき、「保障措置(セイフガード)」の取り決めを導入して、それを最初の原子炉にも遡って適用するようにすべきだ、という声がカナダ側の一部から出たが、「インドが求めるものを与えてやらないと、インドはよそから買うだろう」という商業ベースの論理に押し切られて、インドの核開発に「枠」をはめる絶好のチャンスを逃してしまった。
実は、バーバーはこの新しい大型原子炉とトロンベイの再処理プラントによって、インドが核兵器の選択肢を手にすることができるのを最初から知っていた。1964年には、インドと国境紛争を起こしていた中国が最初の原爆を爆発させていた。中国の原爆は、核科学の分野では中国よりもはるかに進んでいると公言していたバーバーの誇りと愛国心を傷つけた。それから何週間も経たないうちに、彼は「核抑止力」の必要を唱えはじめた。そしてその数ヶ月後、彼はラル・バハドル・シャストリ首相から、「実験場」を準備せよという指令を受けた。部分核実験停止条約の調印国として、インドは大気圏内の核実験を行えなかったので、地下実験場を建設しなければならなかった。1966年、「射撃実験場」という名目で、ポカランに用地が確保された。
しかしインドの軍部は、核兵器のために資源を通常兵器から大規模に割くことに反対した。バーバー自身も全面的な核兵器開発は主張しておらず、インドの核能力を証明するため、1回だけ爆発させれば十分だと考えていた。しかし、バーバーは、その後の経緯を自分の目で確認することはできなかった。1966年の終わりに、彼は飛行機事故で死亡した。
バーバーのあとを継いで、インド原子力委員会(AEC)の委員長になったビクラム・サラバイ(109) は原爆開発計画の消極的だったが、AEC内部にはバーバーの意を継ぐ原爆推進派が残っていて、彼らは増殖炉の研究を進めるというのを口実に、サラバイからプルトニウムを燃料とする実験炉の建設の許可を得て、相当量のプルトニウムを生産していた。そして、1971年にサラバイが死去してまもなく、インディラ・ガンジーの新しいリーダーシップの下で新たな展開が始まった。
インディラ・ガンジーの父のジャワハルラル・ネールは科学好きで、とくにホミ・バーバーを贔屓にしていた。ネールは核政策を他の国内制度の制約から切り離して、首相とAECの直接接触によって決定を下せるようにしていた。この閉ざされた世界の中で、原爆実験のオプションはその気になれば容易いことだった。インディラ・ガンジーは、1971年の対パキスタン戦争の勝利とバングラデシュ創設の栄光のあと、急速に国内での政治的評価を低下させていた。1回の核爆発によって、インド人の愛国心を最大限にかき立てることができれば、こうした傾向を劇的に逆転できるかもしれない。そこで、1973年の初め、ガンジーはポカラン実験を命じたのである。つまるところ、決定は指導者が強いから下されたのではなく、その決定を必要とするほど弱かったから下されたのだ。
実験の後、核の無政府状態という感じが強まった。中東を歴訪したニクソン大統領はイスラエルとエジプトに原子炉の提供を申し入れた。西ドイツはブラジルとの間に、再処理プラントおよび濃縮プラントを含む、核燃料サイクルのすべての分野にわたる膨大な契約を結んだ。フランスはパキスタンと韓国に、再処理プラントを供給する契約に調印した。フランスはイラクにも実験炉を供給することに同意した。その他、台湾は自前の再処理プラントを秘かに建設しているところをアメリカに見つけられ、南アフリカも独自の濃縮プラントを建設すると発表した。
こうした各種の原子力施設の国際的な売り込みが急激に増えていくなか、インドの核実験によって気まずい思いをしたカナダは、単にウランの供給だけではなく、原子力技術の供給をコントロールするため、西側供給国グループの会議を再開するよう、外交努力を始め、その結果、1974年の秋、ロンドンのアメリカ大使館でその秘密会議が開かれた。そして第1回の会合に出席したアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、カナダ、西ドイツ、そして日本の各国は、適切な「保障措置」がない限り輸出を規制すべき技術の一覧表、「トリガー・リスト(保障措置の引き金になる項目)」をつくった。その後、ベルギー、オランダ、スウェーデン、スイスなど7ヶ国が加わり、計14ヶ国が加盟した供給国グループの存在は1975年に公表された。
厳重な「保障措置」を強く主張していたカナダは、いかなる分野にせよ保障措置のないプラントを持っている国に対しては、核物質を一切輸出しないことを提案した。これには、インドとイスラエルのプルトニウム生産炉、南アフリカの濃縮プラントが対象に含まれていたが、14ヶ国の合意に達することができなかった。さらに、1976年の終わりに、カナダとアメリカが、再処理プラントと濃縮プラントの輸出を禁止することを提案したが、フランスと西ドイツはちょうどこうしたプラント類の輸出契約を結んだばかりだったので、反対した。結局、供給国グループは、こうしたプラント類の輸出を「自粛」するという曖昧な協定でお茶を濁した。
こうしたルーズな取り決めを不満としたアメリカは、すでに契約済みの輸出を元に戻させる作戦に出た。アメリカの強い圧力によって、韓国はフランスとの契約を破棄し、台湾は建設中のプラントを取り壊した。西ドイツは将来の輸出を控えることには同意したが、ブラジルに圧力をかけて、すでに結んだ契約をキャンセルさせることは拒否した。
フランスの契約は、1975年にジャック・シラク首相の下で結ばれたものだった。シラクは、アメリカの歩調を合わせるいかなる行為もフランスの愛国心に対する侮辱だというドゴール派の伝統を受け継いでいた。核の分野でアメリカの鼻をへし折ることは、ドゴール派にとってかねてから器量をためす試金石だったが、1976年8月、シラクが辞任して、レイモン・バールが首相になると、フランスの政策は変わった。ジスカールデスタン大統領は今後再処理プラントの輸出を一方的に一切禁止するとこにし、パキスタンおよびイラクとすでに結んだ契約もキャンセルした。
1976年、退陣間際のフォード大統領は、核拡散に対して厳しい立場をとる方向に政策を転換した。フォードはホワイトハウスを去る前に、「増殖炉こそ未来の原子炉で、どの国も再処理プラントを持つようになる」というのはもはや当然のことと受け取ることはできない、と宣言し、そして就任早々のジミー・カーター新大統領は、この政策転換の結論として、アメリカは、エネルギーへの需要がもうそれ以外に代替物がないというところまで増大するまでは、再処理ならびに増殖炉を禁止するか、少なくとも開発を中止することを望むと発表して、原子力と取り組んでいる諸国を驚かせた。
プルトニウム増殖炉を魅力的にしていたのは、ウランが不足してくるという予測のためだったが、実際にはウランはだぶついていた。原発の建設計画が縮小されて、需要が減退しただけでなく、新しいウラン鉱山が次々と発見された。そのうえ、大規模な増殖炉の推定コストは急速に上がり続けており、増殖炉は採算的にも怪しくなっていた。取り返しのつかないコミットメントをする前に、いまこそ核兵器用の物質を使わずにすむ、代わりの原子力技術を開発しようではないか、とカーター大統領は呼びかけた。
増殖炉こそ究極的な原子炉のタイプだという過去30年間の技術的前提に突然待ったがかかったのだが、アメリカ国内でも反対は強く、議会は開発中の増殖炉に引き続いて予算をつけた。ヨーロッパやアジアの同盟国はそれ以上に、カーターのやり方に二の足を踏んだ。石油禁輸がまだ生々しいこれらの国々は、たとえ短期的にみて採算がどんなに悪くとも、あるいは「核拡散」のいかなる危険があるにせよ、エネルギーの選択肢を切り捨てるべき時期ではないと考えていた。フランス、イギリス、西ドイツ、日本は、いずれも増殖炉の道を歩むことに踏み切っており、これら諸国の原子力官僚と研究機関には途方もない弾みがついていた。
とくにフランスは、増殖炉開発にどこよりも深く踏み込んでいた。フランスは技術面ではアメリカよりも進んでいると信じており、アメリカの提案は自分が技術的に立ち後れているからだと考えた。イギリスも増殖炉は避けて通れないと信じていた。再処理サービスの国際市場で大きなシェアを占めようという決意でも、フランスと共通していた。
アメリカが核保有国での再処理を阻止できないことはすぐに明らかになった。問題はまだ核兵器を保有していない供給国、すなわち、西ドイツと日本だった。カーターは両国からの強い反対に出会った。日本のある外交官は、フラストレーションをあらわにして次のように述べた。「これまで20年間、われわれはアメリカの核政策のガイドラインに従ってやってきた。ところが今になって、あなた方はこれまでのやり方が全部間違いだったと言い出した。でももう遅すぎる」。
しかしカーター提案の意図せざる衝撃が原子力業界全体に広がった。当時業界は、きわめて放射能の高い使用済み燃料棒の処理について技術的にまともな方法を編み出せないことで激しい批判を浴びていた。西ドイツや日本では再処理がこの問題を片づけてくれるはずだった。なのに、もし再処理ができなくなれば、新しい原発は建設できなくなる。
でも、依然として軽水炉用の濃縮ウランの供給国であるアメリカに全面的に刃向かうことはできなかった。長期的には、ヨーロッパでは、4つの濃縮プラント(フランス2、オランダ1、イギリス1)の建設が進んでいたので、いずれはアメリカの独占は覆されることは確かだったが、原料ウランの供給はアメリカ、カナダ、オーストラリアで西側世界の半分以上を支配していた。
ところでアメリカはこの間、他の核保有国と同様、核兵器を大幅に増強し、核兵器の貯蔵は恐ろしい比率で増えた。非保有国は、1970年の核拡散防止条約が、保有国に対して、「核兵器競争の停止」と「核軍縮」のために誠意を持って交渉するよう求めていたことを指摘しはじめた。「戦略兵器制限交渉(SALT)」のプロセスは軍備競争についての義務を部分的に果たすものだったが、軍縮についての交渉はまったく開かれなかった。非保有国に対しては文言をはるかに越えた制約を強制しながら、自分たちは条約を一向に守ろうとしない。そのうえにさらに、可能なエネルギー源の選択肢を絶つ「制約」を付け加えられた。非保有国の不満は募った。
そんな中で、アメリカの圧力の及ばない国もあった。その典型的な国は南アフリカで、国内に自前の埋蔵ウランが大量にあるうえ、一部西ドイツから供給を受けた設備を使った濃縮プラントを持っていた。この強力な組み合わせで、南アフリカは核兵器用の高濃縮ウランを生産することは可能だった。
1977年8月、ソ連の人工衛星が、南アがカラハリ砂漠で核実験場を準備しているのを見つけたと公式に発表、アメリカの査察システムもそれを確認した。アメリカ、ソ連、イギリス、フランスが一斉に南アを非難した。それ以後、核実験場の話は杳(よう)として聞かれなくなった。そして、1979年9月、アメリカの核実験探知衛星が、南半球のどこかで原爆実験と覆われる現象をキャッチした。南アが第1の容疑者にされ、次いでイスラエルが疑われた。両国の共同計画ではないかという憶測も一部にあった。しかし両国はそのような事実は一切ないと否定し、アメリカも放射能検出など、衛星写真を裏づける証拠は何ひとつ発見できなかった。
インドも問題国だった。アメリカが公然と不快感を表明し、インド側でもラジ・デサイ首相が国内の核タカ派を抑える努力をしたにも関わらず、「保障措置」の対処にならないプルトニウムは増え続けた。
そしてその間、隣国のパキスタンが1979年に、遠心分離式ウラン濃縮プラントの部品を秘かに買いつけていることが明らかになった。その年にクーデター政権によって死刑に処されたアリ・ブット首相(110) がその中心にいた。1965年に、パキスタンの核計画担当相の地位についたブットは、インドの原爆計画を意識して、翌年再処理プラントを買い入れようとした失敗した。そして1971年、自身が首相になるとその計画を再開し、いったん決まっていたフランスとの再処理プラント購入が破棄されると、ウラン濃縮に方針を切り替えた。
パキスタンはオランダに住むあるパキスタン人物理学者が、アルメロにあるオランダの遠心分離プラントの機密情報に接する立場にあるのを利用して、彼に濃縮プラントに必要な材料や装置のリストをつくらせ、ダミーの会社網をつくりあげて、必要なあらゆる資材を「繊維工場用」という名目で買い集めた。西側の情報機関がそれを察知してすぐさま資材の供給は打ち切られたが、すでにどれだけのものが入手されていたのかは明らかではなかった。
【登場人物の整理】
(109) ビクラム・サラバイ(印):原子力委員長(原発計画を推進、原爆には消極的)
(110) アリ・ブット首相(パキスタン):核計画担当相、首相(原爆製造計画を進める)
第25章 高慢と偏見
ウィーンに本部を置く国際原子力機関(IAEA)が1974年に発表した『発展途上諸国における原子力発電の市場調査』という文書ほどバカげた文書は、原子力の過大評価の歴史の中でも、他にはちょっと見当たらないであろう。世界の発展途上諸国の原発の潜在需要について、どうにもならないほど楽観的すぎる見通しを描いていたからだ。
この文書によると、50〜60万キロワットの原発が140ヶ所建設されるだろうと予測されていたが、こうした貧しい国の配電網は、こんなに大出力の発電所の電力をうまく送配電できるようにはつくられていなかった。例えば、バングラデシュは、40万キロワットを6基、60万キロワットを4基建設する市場性があるとされていたが、当時バングラデシュ全体の送配電システムは、需要のピーク時で20万キロワットを僅かに超える程度だった。
このIAEA報告は、内容があまりにも極端だったため、何ヶ月もしないうち棚上げされてしまったが、発展途上国の側では、報告に書いてあるような市場があるにちがいないという考えを捨て切れなかった。というのは、これまで発展途上国が原子炉メーカーに小型の原子炉を製作してほしいとしきりに要請しても、メーカー側は耳を傾けようとはしなかったからだ。
1950年代半ばの楽観主義の時代に、インド、台湾、韓国、アルゼンチンなど、いくつかの発展途上国は原子力委員会を設置した。これら諸国のエリート政治家たちは、科学技術とりわけ原子力発電のような威信を高める計画こそ、将来の繁栄のカギだと固く信じた。
インドは1970年の初めに、重水製造工場を1年間に1ヶ所の割合で建設し、1980年までに合計出力270万キロワットの原発を建設するという10カ年計画を策定した。しかし、インドの送配電網はこんな膨大な電力を扱うだけの容量はなく、またインドにはそれらを建設する工業力もなかった。この計画は2年も経たないうちに放棄されたが、原子力官僚はへこたれず、原発はインドにとっては高くつきすぎると認めたのは、何億ドルもつぎ込んだのちの1978年のことだった。
韓国やブラジルなどは、大型の原発を組み込めるだけの規模を持った送配電網を持っていた。また、台湾やフィリピンのように、送配電網を拡充することを前提として原子力発電に取り組んだ国もあった。いずれにしても、原子力は未来の夢の技術だという信仰が、他のエネルギー源と真剣にコストを比較することに目をつぶらせていた。自らを、ひどく愛国的で、進歩的だと信じ込んでいる発展途上国の原子力官僚たちは、西洋の、すでに峠を越えようとしている流行のとりこに、依然としてなっていた。
先進工業国からの注文が途切れがちになっていた原子炉メーカーにとって、発展途上国向けの新規契約はことのほか重要だった。こうした何億ドルにものぼる大型の取引をする原子力のセールスマンの中には、航空機産業のように、売り込みに熱心なあまり、時として不穏当な商法を使うものもあった。
1970年代の、ロッキード社とノースロップ社のヨーロッパおよび日本向けの航空機売り込みをめぐる国際的なワイロ商法は、大きな取引についてのひとつの前例をつくった。原子力もまさにそうした大型取引で、原子力機器の売り込みにはリベートがつきものだという噂が流れた。その証拠を見つけるのは困難だったが、1976年、カナダ原子力公社(AECL)が獲得した2件の契約を同国の会計検査院が詳細に検査した結果、いくつかの奇妙な取引が明るみに出た。アメリカの軽水炉によって支配された市場に食い込もうと悪戦苦闘していた、重水炉メーカーのAECLは、重水炉2基をアルゼンチンと韓国に売り込むことに成功した。そのとき、AECLはすでにおなじみとなっていた「出血受注」を敢えてしたのだが、それ以外に、第3国の、リヒテンシュタインや日本の銀行口座に巨額の送金をしていたことが判明した。
さらにこうした巨額リベート以上に問題だったのは、原子炉メーカーが、発展途上国向けには、先進工業国よりも安全性の低い、運転の規格もそれほど厳重でない設計をとっていることだった。これは、IAEAの安全部門のモリス・ローゼン博士(111) が1977年の発展途上国に関するレポートの中で、フィリピンに対するウェスチングハウスの原子炉輸出について指摘したものだった。
この取引の中心人物は、エルミニオ・ディシニ(112) というイタリア系のフィリピン人だった。ディシニは1970年に紙巻き煙草のフィルターをつくる零細企業から出発して、5年と経たないうちに35の会社と2億ドルの資産を支配するコングロマリットの当主にのし上がった叩き上げの人物だった。
当時フィリピンは、フェルディナンド・マルコス大統領が、1972年の戒厳令で独裁的な権力を握っていた。マルコスの独裁政権は、高水準のテクノクラートの助言と、封建的な人脈の争いの奇妙な混合物だった。マルコスとその妻のイメルダは人脈の方を重んじた。ロマノフ王朝の崩壊以来、いや、ベルサイユ宮殿以来、世界がかつて見たことのない豪勢で大げさなパーティーや会食が、マラカニアン宮殿や大統領専用ヨットで際限なく続き、お追従を言う取り巻きや、お気に入りの芸人、踊り子の群れでいつもいっぱいだった。
ディシニもいつもその中の一員だった。彼の妻は医者で、イメルダの従姉妹であり、イメルダの子供たちの家庭教師であると同時に、イメルダの主治医でもあった。ディシニもしょっちゅうマルコスのゴルフのお供をし、こうして得た大統領夫妻の知己が彼の成功の秘密だった。
原子力発電は、こんな野心的なディシニにまさにぴったりで、マルコスの大物意識にもマッチした。マルコスはバターン半島の外側に原発を2基建設すると大々的に発表して、フィリピンの原子力推進派にゴーサインを出した。マルコスは原子力発電が何か進歩的で、自分の国の国際的なイメージを高めることができると信じた。原発2基の契約は、フィリピン産業発展史上最大の建設発注になるはずだった。
1974年、フィリピンのテクノクラートたちは原発プラントをめぐる詳細な交渉をまさに終えようとしていた。その時点では、GEとの間に契約が結ばれそうに見えた。同社は詳細な調査を完了して、4冊分のコストおよび明細の見積もり書を提出し、合計7億ドルで2基の原発を建設すると提案していた。
一方、ウェスチングハウスは、「普通の宣伝用のパンフレットに毛が生えた程度の見積もり書」を提出し、ただ価格は2基で5億ドルとオファーしただけだった。自社の原子炉がフィリピンのケースに適しているかどうかの詳しい調査は一切していなかった。だから、マルコスが顧問たちの勧告を覆して、ウェスチングハウスと契約すると発表したとき、少なからぬ衝撃が走った。ウェスチングハウスの担当者は、成約に漕ぎつけることができたのは同社の販売代理人に選んだエルミニオ・ディシニのおかげだとおおっぴらに認めた。のちに、ディシニに対して多額の手数料を払ったことも判明した。噂では、400万ドルとも、契約総額に対するパーセンテージで数千万ドルにもなるだろうとも言われた。
それにしても、ウェスチングハウスが提示した5億ドルという価格は不自然なほど安値だった。原子炉の売り込みを側面がら促進していたアメリカ大使館でさえ、安すぎると評した。同社が詳細な見積もり書をつくりあげた段階では、2基で5億ドルが、1基で11億ドルとなり、さらに20億ドルにふくれ上がりそうだった。
もめごとの兆候はローゼン博士の報告書とともに表面化した。ローゼン博士は、フィリピン向けの原子炉設計の安全性が、ユーゴスラビア向けに売却された原子炉の安全性を「参照」することになっており、そのユーゴ向けの炉は、ブラジル向けに売却した炉の安全性を「参照」することになっている点を指摘した。さらに、そのブラジル向けはプエルトリコ向けにウェスチングハウスが提案した原発計画を「参照」することになっていたが、ここにひとつの問題があった。プエルトリコ向けの原子炉はその後キャンセルされており、したがって、この原子炉が第三者の安全性規制調査の対象になったことは一度もなかったのである。「この原子炉の安全性はトランプカードで組み立てた城と同じだ」とローゼン博士は言った。
しかし、それよりもっと気がかりなことがわかってきた。フィリピンは強い地震が発生する地帯に位置しており、建設予定地のバターン半島からわずか20マイルのところに火山もあった。IAEAの安全調査チームは、耐震性を大幅に強化する必要があると結論し、こうした懸念に採算性の悪さが次第に知れわたってきたことも手伝って、結局、マルコスは建設を一時停止するよう命じざるをえなくなり、原子力の進歩の夢はフィリピンでも悪夢となった。
経済の面でも訓練を積んだ科学者の無駄遣いという点でも、インドほど原子力への投資によって打撃をこうむった国はなかった。
「原子力の父」であるホミ・バーバー(55)が1966年に死去するまでは、原子力によって安価な電力をつくり出すというビジョンはまだ生きながらえていた。エネルギー自給自足の旗印の下、バーバーは、アメリカが独占する濃縮ウランに依存することのない重水炉の開発に努力していた。この炉は高率のプルトニウムを生産するので、次の段階では増殖炉の燃料としても使える。しかし、1964年、オイスター・クリークで「突破口」が開かれたあと軽水炉の人気が高まると、バーバーは、官僚のなかにわだかまっている原子力発電の経済性への疑念を静めるために、GEの沸騰水型軽水炉を1基だけ発注した。この原子炉は、カルカッタの北250マイルのタラブールに建設されるはずであった。
ネール首相の死によってバーバーは政治的なパトロンを失い、彼の計画に対する疑念はいっそう高まった。そして、バーバーが死ぬと、後継者のピクラム・サラバイ(109) は別の新計画を提案した。バーバーと違って、経済に強いことを自負するサラバイは、自分の一族の繊維産業を近代化するときに威力を発揮した、オペレーションズ・リサーチという経営技術を持ち込んだ。ただこの技術の欠点は、ある分野での投資決定の必要性を、他の分野のそれと関連させて考えないことだった。彼は原子力の分野に限って分析を進めることにより、いかにも合理性のありそうなインドの長期的原子力計画を作成した。1970年に発表された彼の10ヶ年計画は、当時世界中の原子力産業にみなぎっていた楽観的な見通しを反映したものだった。この計画はまた、インドの送電線網が、建設を予定していた50万キロワットの原発はおろか20万キロワットの発電所でさえ吸収できないものであることを無視していた。
1971年、サラバイは年を追ってエスカレートしていく技術的問題点を残したまま死去した。重水炉計画と重水の生産は遅れる一方だった。建設コストは計算し直すたびにふくらんでいった。タラブールにあるたった1つの軽水炉は、さまざまな装置や材料の欠陥のために最初から問題続出で、しょっちゅう運転を停止した。送電線網の電力負荷と電圧が絶えず不安定に上下するため、核燃料に損害が生じ、しばしば運転を止めなければならなかった。しかし、電力供給が途切れるのを恐れて、止めるのをはばかったため、プラント維持補修は最低レベルに落ち込み、運転上の不手際で生じた残留放射能が除去されることもできなくなってしまった。
タラブールの抱える問題は、インド国内でも批判の的になった。これまでの甘いコスト見積もりにも厳しい視線が向けられた。政府部内のインド計画委員会からも、将来のコスト予測について、もっと詳細な資料を求められたが、原子力官僚は返事に窮した。1978年の5ヶ年計画草案では、原子力はコスト高の選択肢であり、インドの電源開発計画の主役を演じるわけにはいかないということをついに認めた。だが、それまでに費消された何億ドルもの資金、何千人もの科学者はいったい何だったのか、そのことに触れるものは誰もいなかった。多分、考えるだに空恐ろしかったのだろう。
【登場人物の整理】
(111)モリス・ローゼン(米):国際原子力機関(IAEA)安全部長(途上国向け原発の安全性を告発)
(112)エルミニオ・ディシニ(フィリピン):実業家(マルコスの取り巻き、ウェスチングハウス原発販売代理人)
第26章 第二氷河期
1977年、原子力産業は推進派の言う「第二氷河期」に入った。それまでの楽観的な予測がどうにもならないほど的外れだったことが明白になってきた。新規の受注が激減したばかりか、電力会社はすでに注文した分の着工を遅らせはじめた。下火になった大きな理由は、70年代半ばの景気後退であった。西側諸国はどこも電力需要の伸びが劇的に低下し、電力会社は設備過剰に直面した。
石炭火力より安くなるという原子力発電の経済性はついに実現しなかった。そのうえに、原子炉の安全性、ウラン価格の急激な上昇、増殖炉の不確かな未来、いっそう手の込んできた反対派の挑戦などが、原子炉メーカーの宣伝や新技術の魅惑、企業の威信などにからまれて「原子力のワナ」にはまってしまった電力会社の幹部たちに降りかかってきた。
それまでの約10年間にわたって、原子力業界は原子炉の安全性は心配しなくてもよいと考えてきた。しかし、原発の運転が開始されるにつれ、問題が表面化してきた。強い放射線と高温高圧の下で、パイプやバルブやノズルがひび割れを生じてきた。燃料棒は曲がり、いわゆる「放射線封じ込みシステム」にはあちこちに漏れが発見されてきた。
こうした問題が起こるたびに、コンクリート壁を厚くしたり、鉄骨の補強材を追加したり、新たな装置を設置したり、そんな手直しを行わねばならず、そのたびに、原子炉は長期間にわたって運転を停止し、発電コストはますます上がった。
原子力発電の経済性の論拠のひとつにウランの燃料コストが安いということもあったが、70年代半ばのウラン価格急上昇によって、その利点も消えてしまった。これは第21章で取りあげた、フランス主唱の「5ヶ国クラブ」の秘密カルテルの結果であるとともに、アメリカの濃縮ウラン販売政策の変更にもよるものだった。
世界の電力会社は、1973年までは必要なときにいつでも濃縮ウランを注文することができた。ところが石油危機が発生した1973年に、アメリカのAECは、原発の増設によって予想される濃縮ウラン不足を懸念して、2つの厳しい制限を導入した。ひとつは、それまで濃縮ウランの購入予約は、6ヶ月前でよかったのが8年前になり、同じ量の濃縮ウランを手に入れるためには、これまでよりも多くのウラン鉱石を渡さなければならなくなった。
またプルトニウムを割りの合う価格で生産できるような再処理プラントを建設することができるのか、ということも疑わしくなってきた。アメリカで計画された3ヶ所の再処理工場のうち、1ヶ所は技術上の欠陥のため閉鎖され、あとの2ヶ所はコストが当初の見積もりを上回ったため、ついに完成しなかった。西ドイツではある企業グループが再処理プラントの建設を計画していたが、採算に乗らないと判断して撤退した。こうして、最初は設備過剰になると懸念されていた再処理能力が、1980年には逆に大幅に不足して、再処理のコストは10年前に比べて10倍に跳ね上がった。原子力業界は再処理という考えに余りにも偏りすぎていたために、使用済み核燃料が再処理できない場合どうするのかという問題を考えていなかった。反対派は、原子力計画のこの驚くべき欠陥を突いて、この問題は原発をめぐる大きな争点となった。
燃料棒は炉心から取り出されたとき、きわめて強い放射能を帯びている。これを「冷やす」ため、いったん、原子炉の近くにある普通の水を循環させたプールに貯蔵される。この間、半減期が8日のヨード131などの放射能は減衰する。使用済み燃料棒を1〜3年間プールで貯蔵したのち、梱包して再処理プラントに運び、そこで硝酸によって溶かされて、使えるウランとプルトニウムを分離して抽出する。
再処理をしても、放射性廃棄物は残る。「ハイレベル廃棄物」と呼ばれるさまざまな放射性物質を大量に含んだこの残留物は、人間の手に触れないどこか遠くに何千年もの間貯蔵しておかねばならない。アメリカではすでに、原子力潜水艦を含む核兵器計画によってできたこのような廃棄物が1億ガロンも溜まって、巨大な鋼鉄製のタンクに詰められて軍用地に埋まっている。さらに原発から出てくる廃棄物は、何らかの処分方法を考えないと、使用済み燃料棒を貯蔵しておく場所がなくなってくる程のペースで増え続けている。短期的には、それらを新しいタンクに入れて原子炉から、そして人口密集地から離れたところに貯蔵するのは、少なくとも理論的には可能である。長期的には、どこか別のところ、地下深く穴を掘ることから、海底の底まで、さまざまな案が出ている。しかし、貯蔵するとき、それらが地下水に漏れたり、海水によって容器が腐食したりしないようにしなければならない。廃棄物を、腐食しないガラスやセラミックの中に封じ込める方法なども提唱されているが、いまだに決定的なものにはなっていない。最初の原発が設計図の段階から離れてから30年以上経つというのに。
当初、環境保護運動の目が、自然破壊をする水力発電や、大気を汚染する火力発電に向けられていたときは、原子力発電は威勢がよかった。むしろ、「クリーンなエネルギー」だというイメージさえ持たれていた。しかし、原発が排出するものが、他の発電所よりも桁外れに有害なものである可能性が見えてきたとき、矛先が変わった。原発に対する厳格な規制が要求されるにつれて、その発電コストは上がっていった。また、原発に対する政府の「隠れ補助金」も問題にされはじめた。電力会社が原子力発電を採用しやすくさせるため、これら補助金が「不公平」に支払われている、というのが、反対派にとっての大きな論拠のひとつとなってきた。
こうした、原子力発電にとって「冬の時代」に、断固として原子力から引き下がるのを拒否したのは、フランスとソ連だった。両国は原発計画を圧縮するどころか、逆に拡大した。どちらも国営企業が電力産業を独占しており、政府の命令に従って、原子力発電能力を拡大するのが国益だと見られていた。
フランス電力(EDF)では、マルセル・ボワトー(96) とミシェル・ユーグ(97) が、その組織の目的を、安価な電力を提供することから、フランスがエネルギー面で独立を達成することに置き換えた。理工科大学の「橋梁・道路組」だったユーグは、70年代半ばになってフランス国内でも高まってきた、強引な原子力計画に対する議論に応えて、「すべてを電気で! すべてを原子力で!」という古いスローガンを闘いの雄叫びにしようとした。ユーグは、原子力計画がひとりEDFのイニシアチブによるものでなく、政府自体の、つまり原子力庁(CEA)の、経済法則の基づく計画なのだと主張しはじめた。
自分の権限と権力を満喫していたユーグと違って、ボワトーはEDFが「国家の中の国家」と呼ばれ出すとだんだん不安になってきた。彼は権力が好きでなかったし、求めもしなかった。彼は命令よりも、説得を信じていた。社長というより、大学教授の方が似合いそうなボワトーはフランス国民に、原子力を選ぶことのコストと利点を理路整然と説明した。しかし彼のエレガントな経済モデルでは、社会問題は測定不能な要素として片づけられ、測定できるものの方が測定できないものよりは重要だと考えるワナにはまってしまった。ボワトーは、自分では決して認めないであろうが、民主主義においては何が政治的に重要か決めるのは、専門家ではなくて一般大衆であることを忘れていたのである。
ソ連で原子力発電に対する関心が再び高まったのは、1964年10月のフルシチョフ失脚のあとであった。その翌年には、原子力発電への新しいコミットメントについての論文が新聞紙上にあらわれ、そこでは1950年代半ばの大げさな計画が結局何も生み出さず、コスト見積もりも不正確だったことが自己批判されていた。そのあとは、原子力のためのキャンペーンは全開となり、新しいコスト見積もりや、「原子力の父」として有名なイゴール・クルチャトフ(11)の伝記など、一連の記事が新聞雑誌を賑わした。
この復活劇で最も重要な役を演じたのはソ連の独占電力企業である電力省だった。同省の技術者兼行政担当者は、かつてのコスト見積もりが楽観的すぎたことは認めたが、その後、科学者と技術者による長年の努力の結果、いまや原子力発電の効率は改善されたと主張した。1968年に電力省内の原子力部門が復活し、1971年の第24回ソ連共産党大会で第9次5ヶ年計画の中に、600〜800万キロワットの原発を新設することが盛り込まれた。さらに、1976年からの第10次5ヶ年計画では、1300〜1500万キロワット、そして80年代には毎年1000万キロワットの原発が建設できる体制を整える、ということが決定された。安全性の問題はおおむね抑え込まれるか、無視された。大規模な原発建設に対する地元の反対がソ連でも散発的に起きていると、西側の報道が伝えたり、1976年には有名な物理学者ピョートル・カピッツァ(113) がソ連科学アカデミー250周年記念講演で、原子力発電の危険性を強調したが、ソ連の新聞には掲載されなかった。その頃、西側の原子力推進派は、ソ連の計画は円滑にしかも効率的に進んでいると、好意的に論評していた。
【登場人物の整理】
(113)ピョートル・カピッツァ(ソ):物理学者(アカデミーの記念講演で原発の危険性を強調)
第27章 パラケルスス精神で
ある意味で天才、ある意味で大ぼら吹きのパラケルスス(1493-1541、スイスの医学者・錬金術師。化学療法の祖といわれるが、当時の医学を批判したかどでスイスを追放され、ザルツブルグで亡くなった)は、1970年代末の核社会を体現する人物かもしれない。
そんなパラケルススにあやかるかのように、1977年春、第5回「平和のための原子力」国際会議はザルツブルグで開催された。エネルギーの需要の伸びがストップして、原発の新規発注が絶え、また世界中で原子力反対の声が上がって、原子力賛成派の2000人がザルツブルグに到着したとき、反対グループの「非核未来会議」と名づけられた集会が同市で終わったばかりだった。
「原子力の否定は、世界的な貧困へ向かう道だ」と、原発支持派の指導的人物のひとりである、フランス原子力庁(CEA)のアンドレ・ジロー長官はうそぶいた。しかし、そんな強気と裏腹に、原子力が素晴らしい未来の象徴だった頃に会議が催されていたジュネーブを避けて、ザルツブルグが選ばれたことは、楽観的なジュネーブ時代を一切思い出すまいとする慎重な努力の結果であった。万能の「平和のための原子力」というテーマは「原子力発電と核燃料サイクル」ときわめて具体的なものに変えられ、原子力発電に関する問題の討議にしぼられて、医療での放射性同位元素(アイソトープ)の使用とか、「平和的な」核爆発による港湾建設、X線照射による害虫の絶滅、原子力貨物船といった「夢のような」話題は姿を消した。しかし、自分たちを依然、永遠の進歩に貢献する、特別な科学のエリートと自認する原子力支持派の意気軒高は衰えなかった。そんな熱狂の真ん中に、彼らのムードに完全には同調しない人物がいた。世界の原子力支持派の中でも長老と見なされていたアルビン・ワインバーグ(114) だった。
ワインバーグはマンハッタン計画のころはシカゴ大学におり、加圧水型原子炉をつくった人物で、オークリッジ原子力研究所の所長となった。視野の狭い大部分の原子力支持派とは異なり、彼はいつも研究所の研究領域を拡げようと試み、またその研究が持つ社会的意味を考えようとしていた。彼は、科学には一切の技術問題を解決する能力があると確信していたが、同時に社会的影響に配慮することなく高度な技術を信仰するという、「巨大科学」の落とし穴には警戒していた。
ワインバーグは、原子力の選択はファウスト的取引であることを認めた。原子力は人類に提供する約束は危険(リスク)と隣り合わせだった。ザルツブルグで、痩身、白髪のワインバーグは聴衆に向かって、「もしも原子力が支配的なエネルギーになるとしたら、それは、他のどんな技術が要求するよりもはるかに多大な献身を原子力の指導者集団に要求するだろう」と警告した。そして、現在の見積もりでは、世界の原発のどこかで4年ごとに1回の「炉心溶融」の可能性があること、そして、2050年までに世界で5000基の増殖炉が稼働していれば、それらのために毎日100トンのプルトニウムを再処理する必要があることを指摘した。
この思いがけない演説に原子力支持派は大いに混乱したが、反対派も拍手喝采というわけにはいかなかった。なぜなら、ワインバーグはそれでも結局は原子力に本当に代わりうるものはないと、聴衆に向かって保証したからだ。推計によると、2050年までに、1977年現在の6〜9倍のエネルギーが必要になり、もしその大部分を化石燃料でまかなうとすれば、それによって排出された二酸化炭素が地球の周りを毛布で覆うかたちになって地球の気温を上げ、大幅な気候変動を起こしてしまう。最終的には太陽エネルギーの活用は可能かも知れないが、それが完成するまでのつなぎとして、また完成してもおそらくそれだけですべてをカバーできないので、それを補完するものとして、やはり原子力は必要だ、と結論づけた。
その1週間前に開かれた「非核未来会議」では、そうしたテーマに意識的に挑戦していた。それまで原子力反対運動の特徴は「否定的アプローチ」にあった。つまり、原子炉の安全性、廃棄物処理、核兵器拡散といった、原子力の危険に対する敵意である。代替エネルギーに関心を持つ人々もいたが、それはあまり目立たなかった。しかし、ザルツブルグでは、この新しい、もっと積極的なテーマが成熟していた。代議員の全員が、原子力に代わる一連のエネルギーを強調し、原子力はもはやいかなる絶対的意味においても必要でないという事実を強く指摘した。
この新しいアプローチの知的指導者として、1人の若い科学者が登場した。環境保護団体「地球の友」イギリス支部で働くアメリカのエネルギー専門家、エイモリー・ロビンス(115) だった。原子力支持派の、世界中にエネルギー需要がある以上、大規模な原子力発電は避けられない、という考え方は基本的に間違っている、とロビンスは主張した。また、公平な観測者たちが、原子力を「必要悪」だとして、容認に傾いていたとき、それは「必要」というより、はっきり「悪」である、と断言した。
2年前の1975年、フォード財団のエネルギー・プロジェクトが、1973年の石油危機の経験から、さまざまな代替エネルギーを検討していた。風車、太陽熱ヒーター、台所のゴミや植物の液体アルコール燃料への転換、流動床燃焼システムによる、よりクリーンな石炭燃焼方式、地熱エネルギー、海洋の温度差を利用した発電などが提案された。原子力支持派は、どの方法も「十分な」エネルギーを生産することはできないと批判したが、ロビンスは、すべての可能性を合わせると、代替エネルギーは全体として長期的には十分なものになりうる、と主張した。「小さいことは美しい(Small is beautiful)」哲学の信奉者でだった彼は、集中されないかたちで小規模に利用できるテクノロジーの発展を擁護し、そうした代替エネルギーの開発が遅れているのは、全世界の優秀な科学者や技術者が原子力に没頭して、何十年間かがムダに失われたからだ、と述べた。
ロビンスは原子力支持派から猛烈な攻撃を受けた。コストと技術開発の困難を双方とも軽視している、開発のスピードを誇張している、その提案が引き起こすかも知れないたくさんの副作用を考慮に入れていない、などであったが、それらは実は、何十年かにわたって原子力社会の特徴となっていたものに他ならず、この皮肉は誰にも気づかれないままにやり過ごされた。
ロビンスは、原子力支持派にとっては「アウトサイダー」でしかなかったが、「グループ」の一員であるワインバーグが基本的な点でロビンスと同意見だったことは支持派を狼狽させた。つまり、長期的なエネルギー計画の立案は、石炭、石油、ウランなどいずれなくなってしまう資源に依拠しない新しいエネルギー体系への移行が必要なこと、大部分の国では少なくとも一時的には、原子力発電のこれ以上の開発を延期することが可能であること、移行期の穴埋めは石炭でできる、などであった。ただ違っていたのは、ロビンスが広範囲にわたる再生可能資源(とくにあらゆる形での太陽エネルギー)で世界の需要を十分に満たせると見ていたのに対して、ワインバーグは再生可能資源のコストはあまりにも高く、ウランは再生可能資源ではないにしても、増殖炉の採用によってその寿命を無限に延ばすことができるはずだとしていたことだった。
【登場人物の整理】
(114)アルビン・ワインバーグ(米):原子力支持派学者の長老(原発の危険性と将来性を憂慮)
(115) エイモリー・ロビンス(米):科学者(反原発のエネルギー専門家)
第28章 「われわれはすべて、今ペンシルベニアに住む」
1979年3月16日、ハリウッド製のサスペンス映画『チャイナ・シンドローム』がアメリカで公開されて、たちまち大当りをとった。この映画は、原子炉が大故障を起こし、溶融の一歩手前で間一髪制御されるという物語であった。映画がヒットしたため、「溶融(メルトダウン)」とか「チャイナ・シンドローム」という言葉が家庭の中にも入って、期せずして、最悪の事故が発生する事態に世界を備えさせることになった。それから間もない、3月28日に、ペンシルベニア州東部のサスケハナ川の真ん中にある細長い中州、「スリーマイル島」で、加圧水型原子炉の冷却水がなくなるという事故が起きた。
この日の午前4時、蒸気発電機に給水していたポンプが止まってしまった。直ちに安全装置が働いて発電機が止まったが、炉心を冷やしていた水の流れも止まって加熱され、空気が膨張して圧力が異常に高くなった。この時点で第一の安全装置である安全弁が開いて、過剰な圧力を排出し、次いで第二の安全装置が働いて、核分裂を止めるための制御棒が投入された。安全弁は、そこから蒸気となった冷却水が過度に失われるのを防ぐため、13秒後には閉じるはずだった。制御盤のランプが消えていたので、オペレーターは弁が閉じたのだと判断したが、実は開いたままで、2時間以上その状態が続いたため、死活的な冷却水を外へ流してしまった。炉心上部がむき出しのまま熱せられ、燃料棒を覆っているジルコニウム合金の被膜が蒸気に反応して水素が発生し、小規模の水素爆発が起こった。残りの水素は原子炉自体の中に残り、それから先何日間も専門家たちをびくびくさせた水素の気泡をつくった。
スリーマイル原発を運転するメトロポリタン・エジソン社はすぐにPR活動を開始した。社長のウォルター・クライツ(116) はテレビに登場し、発電所は誰にも危害を与えることなく、まもなく安全に閉鎖される、と自信を持って断言したが、その直後の記者会見の席上で、同社の最高技術担当者であるジョン・ハーバイン(117) は、重大な間違いが起きたことを初めて認め、会見場は騒然となった。炉心がオーバーヒートし、放射性ガスと蒸気が爆発可能な水準まで原子炉建屋の中に蓄積していた。
3日目の朝、発電所の上空を飛んでいたヘリコプターが、放射能が突然大幅に増加しているのを感知した。このデータはすぐさま、原子力規制委員会(NRC)のワシントン本部とペンシルベニア州知事リチャード・ソーンバーグのオフィスに知らされた。知事は地元民を疎開させるべきかどうか知りたがった。NRCは、発電所から1マイルの住民がこうむる放射線量は、胸部X線と大して変わらないので、疎開の必要はないと答えた。しかし、今後、どのくらいの放射線が排出されるのか、だれにもわからなかった。
公衆は事故発生の知らせは受けていたが、放射線の排出については、何も知らなかった。そして、その時、メトロポリタン・エジソン社とNRCの専門家たちが完全な混乱状態に陥っていたことも知らなかった。彼らは、事故の内容をよくつかめないまま、事故4日目まで、疎開させるべきかどうか、マラソン討議を続けていた。そして、5日目には、発電所の状況は改善し、疎開命令は出されなかった。原子炉は比較的落ち着いた状態になり、ゆっくりではあるが、温度は下がっていった。
こうしてスリーマイル島は、原子力の伝説となった。西側における単一の原子炉事故として、これまでの最悪であり、「平和のための原子力計画」が始まって以来、西側では最大量の放射能を排出した。原子力反対派にとって、これ以上格好の宣伝はなかった。1ヶ月後の5月6日からヨーロッパでは10万人以上の人々がデモを行った。ある人たちはすべての原子炉を直ちに閉鎖するよう求めた。別の人たちは、問題が解決したことが証明されるまで、少なくともモラトリアムを実施するように求めた。
原子力業界は最悪の危機に直面しながらも、アメリカのエネルギーは現在も、また将来も原子力なしではやっていけないと自信を持って予測し、現存の原発では不十分で、もっと建設する必要があるとしていた。すでに操業中の140基以上に加えて、20の州で92の原発を建設する過程にあり、NRCのテーブルには、さらに28基の原発建設の許可を求める要請書が積まれていた。
アメリカのエネルギー省の予測者はこれほど強気ではなかった。彼らは自分たちの見積もりを急速に下向き修正中で、1985年までの原子力での総発電量は1億1800万キロワットになるとしたが、1977年に出した数字は1億4000万キロワット、そして1970年は3億キロワットだった。
ホワイトハウスでは、カーター大統領が、あらゆる原発を即座に閉鎖することは問題外である、と言ったが、スリーマイル島事故を調査し、アメリカにおける原子力発電の将来について勧告を行わせるための特別委員を任命した。委員長になったのは、戦後ロスアラモスで仕事をしたことがある数学者のジョン・ケメニー(118) だった。彼とともに多数のコンサルタントと11人の委員が仕事をしたが、その中には、スリーマイル島住民代表として43才のミドルタウンの主婦、アン・トランクがいた。「私は普通の消費者として参加するつもりです。委員会は私にも解るように運営される必要があります。私に解るようだったら、ミドルタウンの誰にでも解るのですから」。
夏の間じゅう、スリーマイル島のマヒした原子炉は封印されたまま沈黙しており、アメリカ最高の科学者や技術者たちもこれをどう処置したらよいものか、依然首を捻っていた。格納容器の内部では、こぼれた冷却水で空気は湿り、高い放射能を帯びているので中に入るわけには行かなかった。格納容器の入った建屋にも大量の放射能を帯びた水が溜まったままだった。7月には、専門家たちが、発電所を再出発させるには4年の歳月と最高4億3000万ドルの費用がかかると推定した。その数字はやがて10億ドルを突破するかもしれない。この原子炉で生産されたはずの電力を補充するのに必要な費用まで含めたら、コストは20億ドル以上に達するはずである。
1979年10月、ケメニー委員会は報告書を提出した。それは非常に明快で読みやすいものだったが、結論は意外なものだった。つまり報告書は、テクノロジーの失敗に焦点を当てるのではなく、基本的な問題は人間に関わるもの、という結論を下した。
「誰もが機器の安全を過信し、原子力発電が持つ人間的側面の重要性を軽視していた」「安全関連の機器ができるだけ機能するよう多大の努力がなされ、バックアップ用の機器も十分あった反面、発電所を管理運営する人間が重要な安全システムを形成している、という点が認識されていなかった」「電力の生産と供給にあたる会社には安全を保証するためにもっと厳重な基準が必要である」「原発の運転担当者の訓練を改善し、公衆や発電所の労働者の健康にもっと注意を払い、将来の事故に備え電力会社の緊急対応計画を改善し、そうした計画の確立を建設許可の条件とすべきである」。
44に及ぶ勧告のうち、技術に関するものは2つだけで、残りは原子力発電に関する制度の改革をめざすものであった。委員会は、原発建設の停止または延期を勧告していなかったので、反対派を失望させたが、しかし、翌年の新規発注はゼロ、契約済みのうち11件がキャンセルされて、事実上、モラトリアムの状態となっていた。
アメリカの外でも、スリーマイル島原発の事故は、1週間にわたってトップニュースとなり、ヨーロッパでは各地で大規模な原発反対デモが行われた。一部の国の政治家は、原発に対する態度が選挙の結果に影響を与えかねないことに気がついた。西ドイツでは、ニーダーザクセン州の州政府首相が、ゴルレーベンの再処理工場に許可を与えないと表明したが、これはその工場の安全性を懸念したのではなく、政治的に受け入れられないからであった。スウェーデンでは、全政党が原発に関する国民投票の実施に同意した。1年後スウェーデン国民は、制限つきで原発を容認する、という答えを出し、向こう10年間に原発計画を6から12に拡大することは認めたが、その後25年間で原発を漸進的に廃止していくという原則を承認した。
スリーマイル島事故に関するヨーロッパ産業界の答えは、「ここでは起きるはずがない。われわれは異なった、もっと優れた設計の原子炉を持っている」というのが多かった。西ドイツのクラフトウェルケ・ウニオンの取締役、クラウス・バルトヘルト(119) は、西ドイツの設計になる加圧水型原子炉(PWR)にはもっと安全のために手が加えられているので、同じ事故が起こるはずがない、と主張した。もちろんイギリスは、ジェームズ・キャラハン首相が「原子炉の型が違うのでハリスバーグで起きたような事故はここでは起こりえない」と胸を張ったように、軽水炉ではなく、ガス冷却炉を推進してきたイギリス原子力業界の見識を誇った。
低レベルの放射線に関する論議はそれまで、ネバダの核実験の降下物を浴び、実験台にされた兵士たち、実験場近くの住民、原子力工場の労働者、の3つのグループに焦点を合わせられていたが、スリーマイル島事故以後は、その周辺住民が中心となった。
事故から1年後の1980年3月、ペンシルベニア州の元保健局長が、事故後、原発から10マイル以内の地域での乳幼児死亡数は前年同期比で50%増加していると発表した。すぐさま州の保健局の現役の疫学者が違うデータを示して、その見解を否定した。
ミドルタウンで32年間開業してきた獣医のロバート・ウェーバー(120) は、1976年にスリーマイル島で原発が操業を開始して以来、農民が飼っている牝牛に広範囲にわたり骨の異常が生じており、事故の後には、豚の出産に問題が起こって、以前は1〜2年に1件程度だった帝王切開を、週1回しなけらばならなくなった、ということを明らかにした。しかし、州農業局は、事故以後、地域の100の農場で死んだ家畜から組織を採取したが、放射線の被害を受けた証拠は見当たらなかった、と発表した。
経験的に明らかに「異常」が感じられるのに、その証拠は見つからない。それを「原子力ノイローゼ」と呼ぶ医者もいた。
こうした非常に現実的な懸念の背後で、放射線からの公衆保護基準に劇的な再考が加えられていた。高いレベルで発見される放射線の影響は、比率的に低下していくが、最低の量に至るまでずっと存在する、という見方を、保健関係の医学者たちが一般にとるようになってきた。つまり、100レントゲンの被曝が100のガンを引き起こすとすれば、10レントゲンでは10のガンを引き起こす、ということで、それ以下は無害であるという「敷居線量(スレショールド・ドーズ)」など存在しないということであった。
この新しいアプローチは、原発だけでなく、X線、建物の建築資材、カラーテレビ受像機、ジェット機旅行など、あらゆる人工および自然の放射線が、たとえ僅かでも、人間のガンの原因になってきたのかもしれない、ということを示唆していた。
原発から排出される放射線はごく僅かだから、人体にはまったく影響がない、と繰り返してきた原子力支持派はもちろん反発した。「安全」を証明するのは不可能に近かったが、その逆の証明も困難だった。そんな、新たな論争の中心に、イギリス人疫学者、アリス・スチュアート(90) がいた。
彼女は早くも1956年にX線による低レベル放射線の影響についての科学的兆候を発見し、それは、妊婦へのX線検査の禁止への道を開いたのだが、依然それに関する論争は続いていた。しかし、1976年、アリス・スチュアートは70才になっていたが、全世界の政府諸機関を結ぶ正統的な公式組織である「国際放射線防護委員会」が、彼女の20年にわたる研究結果を認めたのであった。
その少し前の、1976年5月、アリス・スチュアートは、ピッツバーグ大学のトーマス・マンキューソー教授(121) から、ハンフォードのプルトニウム生産工場で働く人々についての疫学的研究を手伝ってもらえないか、との要請を受けた。彼女は同僚の統計学者ジョージ・ニール(122) とともに、正確な被曝量を基にしたそのデータを解析し、たとえ極めて低レベルの被曝であっても、ハンフォードの労働者たちのガンによる死亡率は一般住民よりもはるかに高いことを指摘した。
また、低レベルの被曝サンプルが大量に入手された他の唯一の例である、広島・長崎原爆を生き残った一部の人々には、何らの影響も見られないということが、「低レベル放射線無害説」の根拠となっていたが、スチュアートは、原爆破裂後に広島に入った人々にはガンにかかった率が比較的高いことを新たに立証した。
スチュアートがこの新しい研究成果を発表した直後、多数の研究所で他の研究者たちが同じような数字を指摘した。ニューハンプシャー州ポーツマスで原子力潜水艦の整備にあたった労働者を調査したところ、ガンにかかっている率が全米平均の2倍に達していた。原爆破裂のあとネバダの実験場に入った数千人の兵士グループを観察した結果、予想される白血病死亡率が2倍に達していた。ユタ州南部の実験場近くの住民の白血病にかかる率が実験前に比べて2.5倍になっていた、など。
こういった調査に対しては、統計上の完全性を欠いているという非難も浴びせられた。スリーマイル島から出た低レベルの放射線が無害で取るに足りなかったかどうかが証明されるには、まだまだ長い時間が必要とされ、原子力の影響にますます関心を深める公衆は、専門家たちの意見の分裂に当惑するばかりであった。
(完)
【登場人物の整理】
(116)ウォルター・クライツ(米):メトロポリタン・エジソン社長(スリーマイル島原発)
(117)ジョン・ハーバイン(米):同社最高技術担当者(スリーマイル島事故の重大性を発表)
(118) ジョン・ケメニー(米):数学者(スリーマイル島事故調査委員会委員長)
(119)クラウス・バルトヘルト(独):クラフトウェルケ・ウニオン取締役(西ドイツの加圧水型原発の安全性を強調)
(120)ロバート・ウェーバー(米):獣医(スリーマイル島周辺の家畜の異常を告発)
(121)トーマス・マンキューソー(米):ピッツバーグ大学教授(ハンフォードの原子力工場労働者の健康調査)
(122)ジョージ・ニール(米): 統計学者(ハンフォードの原子力工場労働者の健康データを分析)
「まえがき」 「詳細目次」 「国別・登場人物一覧」
「ホーム」
http://happi-land.com/er_shi_shi_ji_zuo_pin_ji/baron-digest-70.2b.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/489.html
国別・登場人物一覧
1レオ・シラ−ド ハンガリー→米1物理学者(原爆の着想)
5アルベルト・アインシュタイン 独→米 1物理学者(ルーズベルトに書簡)
8エンリコ・フェルミ 伊→米1物理学者(初のプルトニウム生産)
14ハロルド・ユ−リ− 米1化学者(重水発見、ガス拡散法によるウラン濃縮)
17バンネバ−・ブッシュ 米1実業家(マンハッタン計画を策定)
18レスリ−・グロ−ブズ 米2陸軍軍人(マンハッタン計画統括者)
19ア−ネスト・ロ−レンス 米2物理学者(サイクロトロン発明者。電磁場法担当)
20イジャ−・マ−フリ− 米2技術者(遠心分離法担当)
21ア−サ−・コンプトン 米2物理学者(黒鉛原子炉による方法担当)
22ユ−ジン・ウイグナ− ハンガリー→米2物理学者(黒鉛原子炉による方法担当)
23ロバ−ト・オッペンハイマー 米2物理学者(原爆の設計)
24ヘンリー・スミス 米3物理学者(原爆製造報告書作成)
25ジェームズ・バーンズ 米3国務長官(原爆の国際管理を志向)
26ディーン・アチソン 米3国務次官・長官( 原爆の国際管理を志向)
27デービッド・リリエンソール 米3弁護士(米原子力委員会=AEC初代委員長)
28バーナード・バルーク 米3投機家(原爆国際管理の国連代表。反ソ派)
29ブライアン・マクマホン 米3上院議員(両院合同原子力委員会=JCAE委員長)
39カーチス・ルメイ 米6軍人(戦略空軍の総帥。東京大空襲を指揮)
40ルイス・ストラウス 米6銀行家(AEC委員。水爆製造積極派)
41ウィリアム・ボーデン 米6元空軍パイロット(JCAE事務局長)
42エドワード・テラー ハンガリー→米6物理学者(超タカ派。米水爆の父)
43ゴードン・ディーン 米6弁護士(AEC2代目委員長)
44ヘンリー・“スクープ”・ジャクソン 米6下院・上院議員(JCAE委員)
45ロバート・ロベット 米6国防長官(分裂物質の増産を提案)
46エドガー・フーバー 米7FBI長官(オッペンハイマー追放を画策)
47チャールズ・ウィルソン 米7国防長官(元GM社長)
52ハイマン・ジョージ・リコーバー 米10海軍軍人(原子力潜水艦開発。加圧水型原子力発電所建設)
56カール・モーガン 米12保健物理学者(放射線に「敷居線量」は存在しない)
57ハーマン・マラー 米12動物学者(近代放射線遺伝学の父)
59ジェラード・コード・スミス 米13弁護士(国務長官補佐官。軍縮問題のプロ)
68ハンス・ベーテ 独→米15物理学者(テラーの同僚。緊張緩和派)
69スタニスラフ・ウラム ポーランド→米15数学者(水爆の基本設計を構想)
70ライナス・ポーリング 米15化学者(核実験反対。放射能の危険性に警鐘)
72ラルフ・ラップ 米15物理学者・作家(ブラボー水爆の汚染性を見破る)
73ウィラード・リビー 米15化学者(タカ派。テラーの盟友)
74フレッド・ボーチ 米16GE最高経営責任者(沸騰水型原発を推進)
75ドナルド・バーナム 米16ウェスチングハウス社長(加圧水型原発を推進)
76フィリップ・スポーン 米16アメリカン電力元社長(原発導入に慎重論)
77ドナルド・クック 米16アメリカン電力社長(原発導入に積極的)
79ウォーカー・シスラー 米17デトロイト・エジソン社長 (増殖炉を推進、エリー湖の実験炉)
80ミルトン・ショー 米17AEC原子炉開発部長(増殖炉の開発を推進)
88エドワード・ワイス 米19疫学者(ヨード131とネバダ周辺住民の甲状腺ガンの関連の研究)
89ロブリー・エバンズ 米19MIT教授(代表的な「敷居線量」存在論者)
91アーネスト・スターングラス 米19科学者(ネバダ核実験の胎児への被害を告発)
92アーサー・タンプリン 米19ローレンス・リバーモア研究所(ネバダ核実験の死の灰の研究)
93 ジョン・ゴフマン 米19ローレンス・リバーモア研究所(ネバダ核実験の死の灰の研究)
105ロバート・ポラード 米23原子力規制委員会(NRC)エンジニア(原発の危険性を告発)
106デール・ブライデンボウ 米23GE技術者(原発の危険性を告発)
107ロナルド・フルッゲ 米23NRCエンジニア(原発の危険性を告発)
108ノーマン・ラスムッセン 米23MIT工学部長(『原子炉安全調査』の公刊、原発の安全性を強調)"
111モリス・ローゼン 米25国際原子力機関(IAEA)安全部長(途上国向け原発の安全性を告発)
114アルビン・ワインバーグ 米27原子力支持派学者の長老(原発の危険性と将来性を憂慮)
115エイモリー・ロビンス 米27科学者(反原発のエネルギー専門家)
116ウォルター・クライツ 米28メトロポリタン・エジソン社長(スリーマイル島原発)
117ジョン・ハーバイン 米28同社最高技術担当者(スリーマイル島事故の重大性を発表)
118ジョン・ケメニー 米28数学者(スリーマイル島事故調査委員会委員長)
120ロバート・ウェーバー 米28獣医(スリーマイル島周辺の家畜の異常を告発)
121トーマス・マンキューソー 米28ピッツバーグ大学教授(ハンフォードの原子力工場労働者の健康調査)
122ジョージ・ニール 米28統計学者(ハンフォードの原子力工場労働者の健康データを分析)
15オット−・フリッシュ 独→英1物理学者(U235分離のアイディア)
16ルドルフ・パイエルス 独→英1物理学者(U235分離のアイディア)
30クラウス・フックス 独→英4科学者(ソ連の原子力スパイ)
33チャールズ・“ピーター”・ポータル 英5軍人(空軍参謀総長)
34フレデリック・リンデマン(チャーウェル卿) 5チャーチルの科学顧問
35サー・エドワード・ブリッジズ(ブリッジズ卿)5官僚(官房長官)
36サー・ジョン・アンダーソン 英5官僚出身の政治家(原子力最高顧問)
37ジョン・コッククロフト 英5物理学者(英原子力研究機関・所長)
38クリストファー・ヒントン(ヒントン卿)英5技術者(原子力の父)
71ジョゼフ・ロットブラット 英 15物理学者(ブラボー水爆の汚染性を見破る)
90アリス・スチュアート 英 19疫学者(X線の胎児への影響など「低線量被曝」研究の先駆者)
4フレデリック・ジョリオ=キュリ− 仏1物理学者(中性子放出の発見)
48ピエール・ギヨーマ 仏8官僚(仏原子力庁=CEA委員長)
49フランシス・ペラン 仏8物理学者(ジョリオ=キュリーの後継者)
65ルイ・アルマン 仏14国鉄総裁(ユーラトム=欧州原子力共同体創設)
78ピエール・マッセ 仏16フランスの国有電力会社(EDF)社長(CEAに反旗、軽水炉導入)"
96マルセル・ボワトー 仏20フランス電力(EDF)支配人(軽水炉原発の導入と推進)
97ミシェル・ユーグ 仏20EDF施設局長(軽水炉原発の建設を推進)
98アンドレ・ジロー 仏21フランス原子力庁(CEA)の長官(「核燃料サイクル」を確立)
99ピエール・タランジェ 仏21CEA技術者(ウラン生産国カルテル「5ヶ国クラブ」担当)
1043代目アンパン男爵 仏22アンパン・グループ総帥(原発メーカーの「フラマト厶」を所有)
11イゴ−ル・クルチャトフ ソ連1物理学者(連鎖反応実験を計画)
12ユ−リ・ハリトン ソ連1物理学者(連鎖反応実験を計画)
31ボリス・バニコフ ソ連4官僚(赤いスペシャリスト)
32アブラーミ・ザベニャギン ソ連4 官僚(赤いスペシャリスト)
51ブヤチェスラウ・A・マリシェフ ソ連9官僚(原子力担当者)
66ジョレス・メドベージェフ ソ連 14生化学者(亡命中にウラルの大事故を暴露)
67アンドレイ・サハロフ ソ連 15物理学者(ソ連水爆の父。反体制派の象徴)
113ピョートル・カピッツァ ソ連 26物理学者(アカデミーの記念講演で原発の危険性を強調)
60 銭三強 中13物理学者(北京近代物理学研究所所長)
61王淦昌 中13物理学者(原爆計画の責任者)
62聶栄臻 中13政治家・軍人(原子力最高責任者)
2オット−・ハ−ン 独1物理学者(核分裂の発見)
3フリッツ・シュトラスマン 独1物理学者(核分裂の発見)
6マックス・プランク 独1物理学者(物理学の重鎮)
9パウル・ハルテック 独1物理学者(独陸軍に原爆製造の働きかけ)
10ウィルヘルム・グロ−ト 独1物理学者(独陸軍に原爆製造の働きかけ)
13ウェルナ−・ハイゼンベルグ 独1物理学者(ヒットラー嫌い)
53カール・ウィナッカー 独11実業家(西独原子力の法王)
63フランツ=ヨーゼフ・シュトラウス 独13政治家(原子力担当相、国防相)"
82カール・ウィルツ 独17カールスルーエ原子力研究センター(増殖炉の推進)
83ウォルフ・ハーフェレ 独17カールスルーエ原子力研究センター理論部長(増殖炉の推進)
100ゲルノート・ツィッペ 独21技術者(遠心分離方式ウラン濃縮法の研究)
101ウォルフガンク・フィンケルンブルク 独22ジーメンズ原子力研究所長(原子炉の研究)
102ハインツ・ゲッシェル 独22 ジーメンスの研究部門担当取締役(原子炉の研究)
103ベルンハルト・プレットナー 独22ジーメンスの重機部門統括(他社との協調を重視)
119クラウス・バルトヘルト 独 28 クラフトウェルケ・ウニオン取締役(西ドイツの加圧水型原発の安全性を強調)
54正力松太郎 日11政治家(讀売社主。初代原子力委員長)
64中曽根康弘 日13政治家(正力の参謀格。科学技術庁長官)
81丹羽周夫 日17日本原子力研究所(JAERI)所長(三菱造船出身、増殖炉の推進)"
87清成廸 日18動力炉核燃料開発事業団役員(「保障措置」について、米と交渉)"
94木川田一隆 日20東京電力社長(沸騰水型原発の導入と推進)
95芦原義重 日20関西電力社長(加圧水型原発の導入と推進)
50クレランス・ハウ カナダ9実業家(カナダの原子力産業を創設)
55ホミ・バーバー インド11科学行政官(インド原子力の父)
109ビクラム・サラバイ インド24原子力委員長(原発計画を推進、原爆には消極的)"
84シモン・ペレス イスラエル18国防相、外相、首相、大統領(原爆ロビー)"
85モシェ・ダヤン イスラエル18参謀総長、国防相(原爆ロビー)"
86エルネスト・ベルクマン イスラエル18物理学者(原子力委員会、原爆ロビー)"
110アリ・ブット パキスタン24核計画担当相、首相(原爆製造計画を進める)"
7ニ−ルス・ボ−ア デンマーク1物理学者(のちに原爆の国際管理を主張)
58ロナルド・リヒター オーストリア→アルゼンチン13えせ科学者(ペロンを騙す)
112エルミニオ・ディシニ フィリピン 25実業家(マルコスの取り巻き、原発販売代理人)
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http://happi-land.com/er_shi_shi_ji_zuo_pin_ji/baron-hito-kunibetu.html
02. 2013年9月25日 11:55:07 : bmBqY00zX6
原発の安全研究が進まなかったのは、朝日新聞と左翼のせいだと武田氏は述べている。
工作員の面目躍如ですな。このくらい世の中を単純に理解できたら楽だろう。
福島の事故では、原発の爆発を防ぐためにベント(放射能を帯びたガスの排出)が
行われたが、外国にある放射性物質を除去するフィルターはついていなく避難中の
住民に放射能を浴びせかけることとなった。これだけ見ても、安全などなにも考えて
いなかったことがわかる。ベント装置自体はアメリカの勧告によってつけたが、
事故はおこらないと考えフィルターは付けなかった。
15. 2013年9月25日 11:57:37 : t3EAlQRBd6
占領軍の関与が強く疑われた、戦後の一連の奇妙な事件と、あれはいったい何だったのか?疑念のみが残った、「オウム真理教事件」を結びつけて考えています。漏れ伝わる断片情報に加え、どこか疑わしい部分がある。同じ黒幕に陥れられたのではないだろうか?かねてよりそんな感じを抱いていた事件でした・・・
阿修羅の過去記事から偶然に突き当たったサイト。やはり、何かある・・・ 御巣鷹山の日航機ジャンボ墜落事件とつながるものがある---
また、或る世代以上の人々の記憶に強く残っている(であろう)尾崎豊という、表現者の死・・・ 下に紹介できるのは、リンクしか許されていないサイトですが、改めて揚げさせていただきたいです。(阿修羅検索では、過去に紹介された方も、いらっしゃいます。改めて想い起こしていただきたくて。)左端のリンクは殆ど消えていますが、
中央から行ける記事は今のところ全部読めるようです。
http://rerundata.net/aum7/2/#1
日本近代史上最大の宗教弾圧といわれた「第二次大本事件」と、同様の理由、同様のグループの意向、指示によるものと、確信してます・・・ (これのソースは、主に、
「 神々の軍隊VS国際金融資本の超暗闘」(徳間書店)です。
10. 2013年9月25日 11:58:31 : 6lEL0QePhA
天野 慧:
法務省の悲願・共謀罪の成立を小沢一郎が阻止した事は殆ど知られていません。政府が来年には共謀罪再提出検討と。小沢氏が中枢に居られない今、秘密保全法案を先ず阻止しなくては暗黒時代に。今一人一人が行動しなければ成立不可避。太郎さんが各地で訴えられているように議員へFAX、電話、メールを
05. カッサンドラ 2013年9月25日 11:59:04 : Ais6UB4YIFV7c : 8uwuPwSA1g
福島原発告訴団が告発した先は福島地検だったが、他の団体が告発した菅元首相らの案件と一緒にされ、東京の検察に 「持っていかれた」 と地方紙には出ていた。
これからは告発すればいいではなく、東京に持っていかれないような方策も必要になろう。 福島にも地方検察庁や検察審査会はあるのだから。 最高裁は東京に行くしかないが。
01. BRIAN ENO 2013年9月25日 11:59:52 : tZW9Ar4r/Y2EU : 3RjD7n0ZIa
核の栄光と挫折―巨大科学の支配者たち
ジェームズ・スピーゲルマン (著), 浦田 誠親 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E6%A0%B8%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%A8%E6%8C%AB%E6%8A%98%E2%80%95%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1-1982%E5%B9%B4-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/B000J7QDF0/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1380077758&sr=8-1&keywords=%E6%A0%B8%E3%81%AE%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%A8%E6%8C%AB%E6%8A%98%E3%83%BB%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1
18. 2013年9月25日 12:03:31 : GKXPQSbOmQ
新聞に載り県民の皆さんを安心させる公式線量
前橋 県衛生研究所 地上21.8メートル 0.022(爆笑)
川場武道館 0.066
富岡市生涯学習センター 0.059
高崎市みねはら公園 0.041
沼田市旧南郷小学校 0.041
安中市松井田支所 0.060
下仁田町役場 0.059
高山村役場 0.044
水上町水上支所職員駐車場 0.063
県立赤城公園大洞駐車場 0.078
02. 2013年9月25日 12:04:23 : nJF6kGWndY
付加価値を高くするほど、チェーンより店長の能力次第になってくるだろうな
18. 2013年9月25日 12:07:23 : 1LL1oqor4I
>>14
>「気にするな」と言う人は、食べればいいんじゃないかな?素直に思います
>>12はレベルの高い工作員だから、危険は充分わかっていて火消しの仕事を
している。だから、ひとには食うことをすすめても、自分は絶対に食わない。
チェルノブイリの川で巨大なまず(体長3メートル超え)が話題になりました。
これはすごい。ぜひ見に行きたいとおもうものです。凶暴ではないようなので、
いいのですが。
秋刀魚も巨大化しても人間を襲ったりはしないでしょう。
07. 2013年9月25日 12:07:46 : HXXKhW3qPg
Fukushima Equals 6,000 Hiroshima Bombs Today, More Tomorrow
http://www.veteranstoday.com/2013/09/11/fukushima-equals-6000-hiroshima-bombs-today-more-tomorrow/
この米国退役軍人用のウェブサイトの記事
(反イスラエルの記事も盛りだくさんだが)によると、未だに汚染水垂れ流しで
問題が続くフクシマ原発事故は、チェルノブイリ原発事故をとっくに超えてるとのこと。
数値はIAEAから報告されてるデータのみを元に簡単な計算で出すことが可能。
06. 2013年9月25日 12:09:15 : ThYJWHY3go
本当にふざけた話ですよね。
東電の罪は誰が見ても明らかなのに、
福島は震災でなく人災!とも当時のマスコミは報道していませんでしたっけ?
大した調査もなしに不起訴なんて・・・ありえない!
原告団応援のために全国で署名とか、何でもやらないと!
19. 2013年9月25日 12:09:16 : GKXPQSbOmQ
分かる人には分かるように、後で使えるように、ほぼ全部、一定の変換係数をかけると実勢になるところがご愛嬌。
17. 「生活党応援団」 2013年9月25日 12:14:38 : gx0s7Tp1IhHJo : Y7Mtckys0w
私は野田一派を除名など必要ではないと考える。
民主党の基本政策を国民の側にたったものに改めさえすれば、野田等は自民党か維新に鞍替えするはずだ。
10. 2013年9月25日 12:15:08 : Y2SMVFAUHE
北朝鮮代表 国連総会で一般討論演説へ=韓国外交筋 2013/09/25 09:52
【ニューヨーク聯合ニュース】米ニューヨークで開かれている国連総会で北朝鮮代表が一般討論演説を行う予定であることが24日(現地時間)、韓国外交筋の話で分かった。
北朝鮮代表は10月1日に演説に臨む。演説は朴吉淵(パク・ギルヨン)外務次官が行うと予想されている。
ただ、演説の内容については明らかになっていない。北朝鮮核問題をめぐる6カ国協議に対する立場表明や兵器を積んでパナマ運河を通過しようとしてパナマ政府に拿捕(だほ)された北朝鮮船について言及するかどうかに注目が集まっている。
hjc@yna.co.kr
http://japanese.yonhapnews.co.kr/northkorea/2013/09/25/0300000000AJP20130925001000882.HTML
国際機関 北に核実験禁止条約の署名求める=RFA 2013/09/25 10:35
【ソウル聯合ニュース】米政府系放送局のラジオ自由アジア(RFA)は25日、国際的な核実験の監視を行う「包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)」が今月27日、米ニューヨークの国連本部で加盟国外相会議を開き北朝鮮などに条約への署名を求める決議文を採択すると報じた。
CTBTOのハンセン報道官はRFAに対し、今回の会議で北朝鮮をはじめ包括的核実験禁止条約(CTBT)に参加していない8カ国に署名を求める決議文を採択する予定だと明らかにした。
また、CTBTOと連携している観測所や実験室が全世界で200カ所に達し、北朝鮮の核実験はもちろん地球上の全ての核実験を探知できると説明した。
CTBTOは国連が核実験を防ぐため1996年に創設した核実験監視機関。現在、世界183カ国・地域が包括的核実験禁止条約に署名しているが、北朝鮮、米国、中国、インドなど8カ国は署名していない。
sjp@yna.co.kr
http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2013/09/25/0900000000AJP20130925001200882.HTML
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/09/25/2013092501283.html
04. 2013年9月25日 12:17:29 : nJF6kGWndY
メンツを潰された米国としては、何とか一矢を報いたいのだろうな
47. 増税反対 2013年9月25日 12:17:41 : ehcoR2LmdzYII : D9cvjI5T92
東京産が結構拒絶されてるのには驚きました。
これが現実なんだろうけど、大手マスコミは報道しないから、
04. 2013年9月25日 12:20:10 : a1iNOS3XDA
日本国に今、必要なのはゴロツキ政治屋、捏造マスコミ、無法司法らへの正義の暗殺、テロ行為である。
奴らを野放しにしてはいけない。奴らは国民に対するテロリストである。
14. 2013年9月25日 12:21:02 : 96jqNaGmjM
>>03
>不動産価格が上昇するぐらいだからな。
首都圏の一部の地価が上昇したのは、日銀の資金が不動産投資に流れているから。
この資金は国民の貯金を目減りさせた、黒田総裁のお札の刷りまくり政策によるもの
です。国民全体を損させて、株の投資家と土地持ちの一部を儲けさせたのです。
13. 2013年9月25日 12:23:53 : o51SXm224w
私の様なものでも、西松建設事件依頼、日本の司法、立法、行政のでたらめさが解ってきましたが、でも友達に話そうとしても、全く聞く耳を持たない。なかなか、国民が目覚めるには、時間がかかりそうですね。
日本のマスコミが解体しない限り、それは無理な様な気がします。日本国民は、マスコミの言う事をうのみにする人達が多い。
太郎さんが今一生懸命、秘密保全法の怖さを説いてキャラバンを続けていますが、
矢張り立ち止まって聞く人は、余り多くありません。日本人は自分に降りかかってこないと、まじめに考えない気質が有るのかもしれないと、私は今思っています。
15. 2013年9月25日 12:24:00 : evn9Fch7hY
>>12
>税は公平であるのが原則であるから
その公平が原爆被爆者と福島原発事故被害者では失われていると、泉田知事が
主張されている。おじゃま一郎君はそれがわからないのかな。
株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu296.html
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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韓国は、対日赤字額は2000年以降の累計でついに30兆円を突破。
主力の工業製品も基幹部品や高機能素材は日本頼みの一方である。
2013年9月25日 水曜日
◆韓国、対日貿易赤字垂れ流し 2000年以降ついに30兆円突破 サムスン危機も 9月24日 ZAKZAK
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20130924/frn1309241811006-n1.htm
日本の貿易赤字がやたらと騒がれているが、その日本との貿易で赤字を垂れ流し続けているのが韓国だ。赤字額は2000年以降の累計でついに30兆円を突破。主力の工業製品も基幹部品や高機能素材は日本頼みの一方、日本に買ってもらえるものは少ないという構造を抱える。日本市場攻略の切り札だったサムスン電子のスマートフォンも「iPhone(アイフォーン)」人気に埋没しつつあるというのが実態だ。
財務省が19日に発表した日本の8月の貿易統計は9603億円の貿易赤字となった。ただ、赤字の要因は大半が中東からのエネルギー輸入で、対米国では4953億円の黒字、そして韓国も1807億円の黒字を稼ぐ“お得意さま”だ。
韓国では戦後一貫して対日貿易赤字が続いてきた。2000年以降の日本の貿易統計を見ても、韓国は毎年約1兆〜3兆円規模の対日赤字を計上しており、00〜12年の累積赤字額は約28兆6000億円。今年に入ってもアベノミクスによる円安効果もあり、1〜8月の赤字額は約1兆4000億円となった。00年以降、韓国の対日赤字額は累計で30兆円を突破したことになる。
なぜ日本との貿易で韓国は慢性的な赤字なのか。端的にいうと、韓国の主力産業である輸出関連の製造業に、日本のハイテク技術が不可欠だからだ。
「韓国が日本から輸入しているのは鉄鋼板や半導体、プラスチック製品、半導体製造装置などの基幹部品や高機能素材、精密関連の生産設備が上位を占める。こうした品目については韓国は日本から買うしかない」と大手金融機関のエコノミストは指摘する。日本の先進技術をあらゆる手段で取り込もうとしてきた韓国だが、まだまだ技術力の差がある分野も多いという。
今年8月まで19カ月連続の貿易黒字を計上している韓国だが、その実態は日本から部品や素材を輸入して加工し、完成品を輸出するというビジネスモデルが中心であり、日本への依存度は高い。
「貿易黒字の多くを中国向け輸出で稼ぎ出しており、中国経済が減速すれば巻き添えを食ってしまう」(準大手証券アナリスト)というもろさも抱えている。
その半面、韓国から日本への輸出は減少傾向だ。韓国銀行(中央銀行)のデータによると、8月の韓国の輸出額はトータルで前年同月比7・7%増を記録したが、日本向けは13・3%減だった。対日輸出は今年2月から7カ月連続で2ケタ減と大きく落ち込んでいる。「アベノミクスの金融緩和期待で円安が進み、韓国製品の競争力が低下した影響も大きい」(前出のアナリスト)という。
対日貿易赤字の縮小は韓国の長年の悲願だ。1978年には「輸入多角化」を名目に日本からの輸入だけを制限、事実上の対日輸入措置を実施したこともある。最近では、韓国に工業団地を建設して日本企業を誘致することで赤字を減らす計画に力を入れてきた。
日本への輸出拡大については苦戦続きだ。日本を除く海外市場では自動車や電気機器が韓国の稼ぎ頭だが、日本市場では「“安かろう悪かろう”のイメージが根強く残るうえ、日本企業とまともに競合するため食い込めなかった」(前出のエコノミスト)。
難攻不落だった日本の家電市場に食い込んだ数少ない例外がサムスンだ。スマートフォンの「ギャラクシー」は投入当初、国内メーカーのスマホを上回る性能でシェアを獲得。韓国から日本への輸出でも品目別で無線通信機器が石油製品に続く2位に浮上、対日貿易赤字額を昨年まで2年連続で減らす原動力となった。
ところがこの追い風もやみつつある。その要因は“ドコモ・ショック”だ。これまでギャラクシーを主力機種の一つとしていたNTTドコモが新たに米アップルのiPhone発売を始めた。「ドコモの夏商戦の時点で販売台数がソニーに引き離されるなど陰りが見えていた」(電機担当アナリスト)こともあり、今後、シェアを減らす恐れが出てきた。
これ以上、日本が買うものが増えなければ、韓国の貿易赤字は減りそうもない。
(私のコメント)
韓国経済は、日本から基幹部品を輸入して組み立てて世界に輸出するという構造になっており、日本が韓国への輸出をストップすれば韓国はそれでアウトだ。日本は、円高が長い間続いたせいで韓国や中国を経由して輸出することで貿易摩擦を回避している。韓国からの輸入は製品が日本とダブるために増やしづらい状況になる。
例外的にNTTが韓国のサムスンのギャラクシーというスマホを主力商品としましたが、頼みのNTTもiPhoneを扱うようになり、主力商品だったギャラクシーは苦戦を強いられるだろう。その他の家電製品や自動車も売り込みを図っているが、なかなか日本市場に受け入れられない。韓流ドラマやK-POPもひところの勢いがなくなり、CDなどの売り上げも落ちている。
韓国の輸出先はダントツに中国であり、中国の経済に組み込まれてしまっている。日本からの韓国や中国や台湾などへの技術供与は生産技術供与などであり、ブラックボックス化しているハイテク素材などは、これらの国でもコピーがしにくくて設計図を盗めば直ぐにできるというものではない。
日本はアジアとの生産分業体制が確立しており、実質的にアジアの繁栄は日本が裏方的な働きをしており、完成品は韓国や中国やアジア諸国が生産しているが、ブラックボックス化したハイテク素材などは日本からの輸入に頼っている。日本の円高の構造もアジアの分業を支えているのが日本だから円が高くなる。
もし日本が円安政策を取って、完成工業製品まで日本から輸出すれば再び貿易摩擦で欧米などからも叩かれることになる。だから中韓やアジア諸国が、日本からの輸出の隠れ蓑になって貿易摩擦を回避していることになる。日本のGDPが20年近くも横ばい状態なのは、生産体制がアジア全体に分散されているためであり、これでは欧米各国もクレームが付けにくい。
また中国やインドなどの人口大国の所得が向上すれば巨大市場が形成されることになり、高級品などが売れるようになり、日本国内しか需要がなかったようなものが輸出されていくようになった。自動車やバイクなども最初は安い中国製や韓国製が売れても、故障が多いから必然的に日本製の車が売れるようになる。
日本経済の体質を工業生産の組み立てからサービス産業へのシフトが望まれますが、サービス産業はブラックボックス化が難しく、コンビニチェーなどの展開も中国や韓国で行われていますが、黒字化すると合弁が解除されて市場から追い出されてしまう。日本の飲食チェーンなども日本食ブームに乗って世界に広まっていますが、日本食店の経営者は韓国人などが多く、日本人の調理人は海外に行きたがらないようだ。
日本は少子高齢化で経済は衰退していくといったエコノミストの予想が多いが、新卒の就職難が問題になっているような状況では、若い人が増えても就職口がなく若年失業者が増えるだけだ。日本企業のブラック化が問題になっているというのも、サービス業の生産性が低いためであり、長時間労働を強いられている。
もし飲食やコンビニも世界展開して、日本人の店長や経営幹部がアジアや欧米などに展開すれば日本のサービス業も生産性が上がると思うのですが、国内の競争も激しくマクドナルドやスターバックスやケンタッキー・フライド・チキンなどのようにチェーン展開が世界的ではない。むしろ国内に引きこもり従業員を低賃金で働かせてブラック化している。
ユニクロなどがブラックだと批判されていますが、世界展開しているだけサービス業でも経営が拡大している。サービス産業の生産性を高くしていくには海外のサービス産業の合理化と賃金の高さをまねるべきなのだろう。アメリカで医療サービスを受ければとんでもない治療費が要求される。金融サービスだって高い手数料を取る割にはリーマンショックで大損させたからレベルが高いわけではない。
このようになるのは製造業に比べるとサービス業はグローバル化が難しく文化や言葉なども原因があるのだろう。日本の寿司職人やラーメン職人など世界中で引っ張りだこだからサービス業が低賃金のままというのは、物と違って人は世界展開しにくい。日本の教育では一流大学を出て大企業に勤めるサラリーマンを養成して、飲食店の店員になる教育をしていないからミスマッチが起きる。
私のような不動産業もサービス業ですが、不況の日本を飛び出して海外で不動産業をしたくても私はもう若くはない。日本は黒字大国ですが海外に投資をして儲けるといった事には消極的で製造業が海外展開しているのに、サービス業は世界展開が遅れている。海外に行ってまで仕事はしたくはないよと言った若い人が多いからだろう。
新興国は、通貨を安くして人件費の安さで海外からの投資を誘致してきた。韓国も中国もそうしてきましたが、中国のように人件費の高騰で壁に突き当たっている。韓国のウォン安も日本が対抗して円安になれば輸出で稼げなくなる。観光などのサービス業で稼ぐにしても反日感情があったのでは観光客も来なくなる。これからは日本との関係がいい国は経済発展して行き、中国や韓国は反日で経済は停滞するだろう。日本が中国や韓国の経済発展に尽くしてきた実績を無視するからだ。
43. 2013年9月25日 12:28:14 : UJiIIJWiwI
>42
だから干されたんじゃなく自分で自粛したんだろ
論点をずらすなよ!
セクハラ番組以外、ラジオもテレビも全部出てるんだからな
オリンピックと汚染水漏れを絡めた表面的な批判は古舘ですら言ってることだ
その批判をしたラジオにも未だに出てるんだよ
しかも原子力村に嵌められたのならそう言やいいのに、あろうことか
日本人を攻撃してるんだよ
71. 2013年9月25日 12:28:22 : 8QhHEZ0r7s
>>70
>トロンの技術基盤は、日航機123便の撃墜で、失われてしまった。
失われてもないよ。確かにTRONは、日米摩擦で問題になって消えたが、健全だよ。
例えばNTTの交換機、民需の交換機において CTRON が使われていました。
CTRONのリアルタイム処理に強い特性が評価され、電話交換機のOSとして採用されていました。
でも、これは1990年代の話ですがね。
CTRON - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/CTRON
昔はuITRONだけだったのですけどね。携帯電話は派手側(UIやアプリ類)と地味側(通信制御とか)のマルチCPU構成のものが多くあるのですが、地味側はuITRONを使うことがあります。派手側は何年か前にSymbianとLinuxにその座を奪われ、新機種では使われていません。とはいえ、Linuxじゃだめな部分も多くあって、携帯電話のように二つのせて結局uITRONが生き残っていたりする。
全員、勘違いしているが、TRONは昔もいまも大活躍ですよ。ただ、装置全体が複雑化していく過程でだんだん割合は減っていくでしょう。派手ものに使うには上位層がたりないのですよ。
たりないと言えばLinuxも同様に足りなくて皆苦労します。そこにきてLinuxに上位層を与えて人気を博したのがAndroidです。
探査衛星はやぶさにTRONが使われた事なんて有名なんだけどな。
[関連記事]
「はやぶさ」の探査ロボ「ミネルバ」にもTRON
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0512/15/news085.html
01. 2013年9月25日 12:29:10 : urKiPCkocY
山本先生、ぜひとも福島県民全員に、被爆者手帳を配りましょう。
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