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2013年07月14日 永田町異聞
福島第1原子力発電所の元所長、吉田昌郎の死因となった食道ガンと、放射線被ばくの因果関係はないと東京電力は言う。そう簡単に判断してよいものだろうか。
吉田所長の被ばく量が70ミリシーベルト。これは東電の隠ぺい体質のなかから出てきた数字で、あてにはならない。
原発作業員の被曝限度100ミリシーベルトを下回っているから問題ないというが、その説明も明確な科学的データにもとづくものではない。
ICRPが緊急時に100ミリシーベルトまで認めているというのが唯一の拠り所だろう。
文科省はこう説明する。「一般人の線量限度は本来、年1ミリシーベルトだが、ICRPは原発事故などの緊急時には年20〜100ミリシーベルト、事故収束後は1〜20ミリシーベルトを認めている」。
ICRPが許容放射線量の根拠にしているのは、広島、長崎の被爆者の健康被害データと、原爆投下時の放射線量の暫定的な推定値だ。福島が直面しているような「微量放射線」の影響を調査した結果にもとづくものではない。
広島、長崎の被爆者については、原爆傷害調査委員会(ABCC)が、白血病やガンなどの健康被害を追跡調査したデータがある。ところが、原爆投下時にどれだけの放射線量があったのかが定かでないため、放射線量と人体への影響についての相関関係を解明しきれていない。
ネバダなど過去の核実験の測定値にもとづいて、広島、長崎の放射線量を推定した値を、広島、長崎で集めた発病データにあてはめて、人体が放射線でこうむる影響を計算した結果が、ICRPの許容放射能の数値のもとになっている。
筆者の知る限り、微量放射線が人体に与える影響についての調査結果を人類にもたらしたのは1977年の「マンクーゾ報告」をおいてほかにない。
マンクーゾ博士が米・ワシントン州のハンフォード原子力施設労働者の健康被害を追跡した調査である。米政府・エネルギー省に「ペルソナ・ノン・グラータ」(危険人物)の烙印を押されたマンクーゾ博士から直接、話を聞いたジャーナリスト、内橋克人の著書「原発への警鐘」によると、調査結果の概略はこうだ。
◇1944年〜72年に至る29年間に、ハンフォード原子力施設で働いた労働者2万4939人のうち、調査時点での死亡者3520名。そのうち白血病を含むガンによる死者670名。全米白人のガン死亡率より6%以上も高かった。
ガンで死亡した労働者が生前、職場で浴びた外部放射線量は平均1.38ラド、ガン以外の死者の平均線量は0.99ラドだった。ガンによる死者のほうが生前、40%多く放射線を浴びていたことになる。◇
放射線の単位であるラド、レム、シーベルト、グレイ、ベクレルはそれぞれ定義が異なり、単純に換算できないが、ここでは便宜的に、1ラド=0.01グレイ=0.01シーベルトとする。
ガンで死亡した労働者の浴びた外部放射線量1.38ラドというと、0.0138シーベルト、すなわち13.8ミリシーベルトである。もちろん年間の被曝量ということであろう。
そしてマンクーゾ報告はこう結論づける。「人間の生命を大事にするというのなら、原子力発電所の内部で働く作業従事者の被曝線量は年間0.1レム(1ミリシーベルト)以下に抑えるべきである」
わが国では、ICRPの勧告をもとに年間の放射線許容量として、一般人の場合で1ミリシーベルト、放射線業務従事者なら50ミリシーベルトという数字を採用してきた。
原発従事者でも1ミリシーベルト以下というマンクーゾ報告の結論からすると、吉田所長の浴びた70ミリシーベルトというのは、とんでもなく高い数字である。
しかし、原発で働く人の許容放射線量を1ミリシーベルト以下にしようと思えば、作業効率やコスト面などで難しく、現実の問題として、原発そのものを否定することにつながる。
当然、米国の国策にそぐわず、原発関係者や学者らから「科学的信憑性に欠ける」などと一斉攻撃を浴びて、マンクーゾ報告は米政府の手で抹殺され、学界の深い闇の底に葬られたのである。
筆者は、現代における「犠牲のシステム」を象徴するのが吉田所長の死であると受け止めている。
北朝鮮拉致被害者、蓮池薫さんの実兄、蓮池透さんが原子力燃料サイクル部長までつとめた東京電力を2009年に早期退職し、月刊誌「世界」2011年8月号の対談「東京電力という社会問題」で、次のような証言をしている。
「原子力は安いという神話がありますが、内部の雰囲気では逆ですね。原子力は故障ばかりで稼働率が上がらないうえに安全対策にも莫大なカネがかかる。資材部門からは原子力はカネがかかりすぎるとよく言われていました」
原子力燃料サイクル部長だった人物から、あっさり「原子力はカネがかかる」と、本音が飛び出してきたのは驚きだった。
「単価が火力と変わらないということになると、原子力の優位性が失われてしまいます。そこで、とにかく発電単価を下げるために、一時、コストダウンの嵐が吹きまくりました。…言うまでもなくコストダウンと安全性の確保は矛盾する要求です。安全性を犠牲にせずにコストダウンを実現しなければならない。そこが非常に難しい問題でした」
「今回も、無制限にお金をかけて要塞のような原発を築いておけば、あるいは事故は防げたかもしれません。しかし、東京電力は利潤を追求しなければならない民間会社であるわけです」
危険性を内包する原子力発電を推進するための最大のPR材料としてでっち上げた「安い発電単価」を維持するため、東電という会社が安全性よりもコストダウンに比重を置く経営戦略を進めてきたことをうかがわせる。
そのように作為的にひねり出したコスト等のデータを、寸分の疑いもなく官僚や学者らが受け取って、そのまま世間に垂れ流し、原子力は安いエネルギーであるということが神話化していったのだろう。
原子力事業は、国益の名のもとに経済的発展を優先してきた国家運営が内蔵する「犠牲のシステム」と深く結びついている。
犠牲とは「供犠」(サクリファイス)のことであり、もともとは神に生贄をささげることによって神の保護を獲得し、犠牲をささげる者が生き延びるという古来からのシステムである。
東京への電力供給の犠牲になってきたのがフクシマの人々であり、アメリカ軍への便宜供与の犠牲を強いられているのがオキナワの人々である。
大企業が世界競争に勝ち抜くための犠牲となっているのが非正規雇用の働き手であり、外資を含む大型小売店乱立の犠牲となっているのが、年々、減り続けている自営業者である。
福島第一をはじめとする各原子力発電所で、日常的に被曝を余儀なくされている作業員たちは、供犠システムにおける生贄の象徴と言うこともできよう。
社会に埋め込まれた供犠の構造と、事なかれ主義が結びついたとき、誰も責任を負わないまま、無数の人命が危険にさらされる。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)