あなた方はばらつきこそありますが
大凡肉体的に生まれてからの数年間の幼い時間に
経験の準備段階の為の観念を受け容れて行きます
それは大抵いわゆる"生前"に準備されたもので
家庭環境、そして親の性格等すべて含めて
自分に経験させたいテーマに適合する環境としての舞台を選んで生まれて来ます
故にそこではじめに受け容れる観念も大凡あらかじめ決まったものです
あなたはこれを信じますか?
別に信じなくとも結構です
信じてもらおうとして語っている訳では在りません
ですがあなた方が実際にいま現在信じて居る内容の方は
いつどこで手に入れた情報だと言えるのでしょうか
何故あなた方はそれを信じて居るのでしょうか
その事の方が不思議でならないのでは無いでしょうか
あなた方はいつから大勢の意見に流される様になったのでしょうか
どうしたものであっても
現在受け容れている観念によってあなた方は自らの内に感情を誘発します
感情は経験する体験の本質です
喜ばしい経験なら
それはあなたがその体験を求めて居たからに他なりません
そこに到達する以前には苦しい体験もしたに違い在りません
しかしだからこそそれを求めて来たといえるのです
しかしだからといって必ずしも
苦しい体験をくぐり抜けなくてはならないと云った
決め事などもまた存在しません
あなたが望むものを手にしたいと考える時
それに拮抗する不可能性の中に自分の意識をただ置きざりにしていれば
望む場所に到達する事は在りえません
ただそれだけです
感情は経験の本質です
物質的には豊かであっても
罪悪感を纏っていればその経験の本質は
純粋な望みとしての喜びであるとは言い切れません
あなたがどうした感情を自らに誘発させるかで
経験するものの本質が決まるのです
「不可能性」とはいわば存在しない筈のものであり
可能性に満ちた時間をただ徒に待機させる為のものでしか在りません
そしてそのようにしてあなた方にとっての経験と云うものを産み出しています
時間の概念を我々は受け容れています
故に物質的な肉体を纏ってここで経験を欲している訳です
ここでは時や空間といった概念に準じて
経験する内容がひとつひとつ到来します
基本的には我々は常に安堵した絶対的な安全の中に棲息する存在です
あなたが自分の存在を心から愛せばその感覚をいつどこででも享受出来ます
焦りというものは時間的な概念に拠る圧縮された感情を生み出し
それに相当する経験を引き起こします
怒りや不安感といったものもこの時の概念に支配された中でしか生まれない経験です
それは「自分ではない」と云う経験です
自分の感情は自分だけがコントロール出来るものです
怒りや不信感の感情に支配されてしまえば
あなた方はその感情にて経験出来る領域に縛られ
本来進みたい道からそれて足止めを喰らう事になります
怒りや復讐といった感情からは何かしらの行動の為の
推進力を感じる事が出来るかもしれません
しかしそこに支配されてしまうことなくより高い見識を求めて
あなた方が自らの感情を制御していく方法を見つける事こそが
ここでのあなた方のもとからの望みとしての体験である筈なのです
それが創造行為を学ぶ段階としての我々のプロセスで在ると言えるのです
あなた方は現段階に於ける自らに必要な知識は
現時点に受け容れている観念に準じてではありますが
インスピレーションでそれらを受けとっています
あなた方がそうして手に入れた知識はどれもあなたにマッチしたものです
故にそうした知識は他者に対しても有効であると解釈しやすいものです
例えば医療関係全般に於いて言える事はこうです
すべての医療行為は西洋医学が敵対視する呪術同様
催眠による洗脳によって患者の観念を入れ換える事によって治癒されています
麻薬もそうです
脳波を変調させてその観念を押し付けてしまうことは可能です
合成麻薬が自然な麻薬と違いタチが悪いのは
身体の自然な自由を奪い自我を抹殺しようとするところにあります
よって多大なる精神的被害を患者となる自我は経験する事になります
肉体的には変わらずとも意識はまったくの別人になっている場合
古い自我がその通りに破壊されて消え去り
新たな自我がそこに入れ替わって芽生えているという訳です
しかしどうした事例も被験者としての意識がそれに同意していなければ無効です
ワクチンの効き目などはそうした観念の謂わば押し売りに近いものが在ります
テレパシーに依って被験者となる子供たちは
医者や親である大人の意見としての観念に疑いなく従います
効き目が在ると子供たちが信じればそれはそのようになります
そこで得るデータは確証性として高い水準をマークしたものとして
諸外国に売り渡されるという訳です
あなた方はそのように社会的生活が進むに連れて国際的な基準と云ったものを生み出し
そのように呪術的に作り上げられた
"確証性の高い科学的見地からの統計的なデータ"を
ただやみくもに信頼する傾向に今尚すがりきったままです
そのような統計に準じたデータを黙って信用するようになってしまったことは
自身のオリジナルの感性をただ不要なものと看做す事にも繋がっています
観念と云うものは信頼すればするだけその力を発揮します
良くも悪くもです
信頼すべきは己の感性だけです
それがあなたに齎される体験の全てだからです
自己の存在をただ信頼すれば安堵が得られます
自己を信頼出来ないとするからこそ他に信頼するものを創ってしまうのです
人と意見を合わせる必要もなく
他人と同じ感性である必要も在りません
そんなことはまず不自然でありえない事なのですから
社会だけではなく多くの宗教的な教えもまたそうです
あなた方はそのように集団で人類にとって不利益とも言える観念に感染してしまっています
ただ自分の感性によって得られる体験を楽しめば良いのです
何かに比較して良いも悪いも正解も間違いも実際は無いのです
ただ経験だけが在るのです
どうした経験をしたいのか
自分はどう在りたいのかについては
未だあなた方は何からも縛られてはおりません
それをその心に思い出し
あなた自身を信頼するべくあなたの存在の全てを愛しきる事です
あなたのその胸の鼓動と息づかいにあなたの全信頼を預ける事です
そしてありのままを愛すると云う事です
他者の感性と比較して自分の感性を喜ぶ事もなければ
その逆に自分の存在をどこかおかしく感じて
自己否定することもないのです
そんなことは全くもとよりどこにも存在しない事なのです