公明党・創価学会への迫害・懐柔の謀略史〔第5回)
公明党創立者たちの権力に迎合しない革命精神
1.日蓮大聖人の「立正安国」の闘争・誘惑の魔力を一蹴
(以上は第1回で送信済みです)以下はその続きです。
2.公明党創立者の国家権力との闘争
公明党創立者・池田名誉会長の著作等から、国家権力との闘争体験・精神を抜粋する。
(1) 大阪事件:岸・自民党政権下、国家権力とマスコミから創価学会への攻撃!
私の逮捕は、全くの冤罪であった。参院大阪地方区の補欠選挙(1957年4月)
で、最高責任者の私が、買収等の選挙違反を指示したという容疑である。
熱心さのあまり、戸別訪問をしてしまい、逮捕された会員がいたことに、私は胸を痛めていたが、買収など、私とはまったく関係のないことであった。
だが、新聞各紙には、「池田渉外部長を逮捕」の見出しが躍り、「創価学会の“電撃作戦”といわれる選挙違反に重要な役割は果たしていた疑い」などと、盛んに書き立てられた。
当時、マスコミは、当局の意向をそのまま反映し、選挙違反は、学会の組織的犯行であり、学会は、反社会的団体であるかのようなイメージを流していったのである。
当局は、逮捕した会員たちを脅し上げ、選挙違反は、ことごとく、私の指示であったする「虚偽の供述」をさせ、罪を捏造していった。
私への取り調べは、過酷を極めた。夕食も抜きで、深夜まで責め立てられたこともあった。手錠をかけられたまま、屋外に連れ出され、さらしもののようにされたこともあった。
すると検事は、遂に、罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕すると、言い出した。
脅迫にも等しい言辞である。私はよい。いかなる迫害にも耐える。
しかし、先生のお体は衰弱の極みにある。再度の投獄ともなれば、死にも、つながりかねなかった。
私の苦悩が始まった。
身に覚えのない罪など、認められるはずがない。
だが、わが師まで冤罪で逮捕され、まして獄死するような事態は、絶対に避けなければならない。
“権力の魔性”の陰険さ、恐ろしさを肌身で感じつつ、眠れぬ夜を過ごした。そして、決断した。“ひとたびは、罪を認めるしかない。
そして、裁判の場で、必ず、無実を証明して、正義を満天下に示すことが賢明かもしれない”と。
その日から私の、まことの人権闘争が、「正義は必ず勝つ」との大逆転のドラマが開始されるのだ 。
(2)自民党権力がつくった、冤罪事件を勝訴! 仏法者にとって難こそ誉れ!
逮捕から約1670日後の、1962年(昭和37年)1月25日、裁判所は判決を下した。
「池田大作、無罪!」遂に、冤罪は晴れた。
正義の太陽は、闇を破って、大空に赫々と昇った。
ともあれ、“いかなる時代になっても、わが創価学会に対する迫害の構図は変わらない”。
しかし、仏法の鏡に照らせば、「難こそ誉れ」である。
邪悪と戦う大闘争心に「創価の魂」は、「師弟の精神」は、脈打ち続けるのだ
3.戦後の創価学会への弾圧は戦前の特高警察の人脈と深い関係がある!
(1)牧口会長等への戦時中・軍部権力による法難
@ 地元有力者や政治家からの迫害
牧口には、“教育にかかわりのない者が権力にものをいわせて教育に口を出すべきではない”という、一貫した強い信念があった。
大物政治家は、前々から、それが面白くなかったようだ。
そこで、地元有力者の意向を聞き入れ、牧口を左遷する。
権力におもねらず、信念を貫こうとすれば、迫害という嵐が競い起こる。
それに負けぬ強さを持つことこそ、改革者の条件である 。
A 創価教育学会への国家権力からの迫害・
創価教育学会の神社参拝拒否、神札の奉祀拒否の態度が、治安当局・特高刑事から監視されるようになった。
起訴状によれば、牧口会長は、治安維持法違反と神宮に対する不敬罪で起訴されたことが記述されている 。
国家神道を宗教の正邪のうえから謗法として戒め、勇猛果敢に折伏を進める創価教育学会を、戦時中の当局が看過するはずがなかったのである。
戦時下にあっても、学会は折伏を展開し、入信にさいしては神札などの謗法払いを厳格に行っていた。
そして、国家神道を根本にした政府のあり方は間違いであることを主張して譲らなかったのである。
当時、学会は、会員数3000人ほどの、まだ小さな教団にすぎなった。
しかし、当局は、牧口常三郎が、国家、社会の建設のために「教育改造」を掲げ、その根本的な方途が日蓮大聖人の仏法にあるとしていることに、警戒心を強めていったようだ。
昭和18年7月、ついに弾圧の魔の手は創価教育学会を襲った。学会の、あの神札の拒否が、弾圧を決定的なものにしたのである。
7月6日、牧口常三郎、戸田城聖らが逮捕され、翌年3月までには、学会の検挙者は21名にのぼった 。
牧口はこの逮捕を、国家諫暁の好機であるととらえていた。
取り調べの場は、さながら折伏、弘法の観を呈した 。
B日蓮正宗総本山は保身のため牧口会長を「信徒除名処分」!
戦時中、日蓮正宗・僧侶・小笠原慈聞(おがさわらじもん)は、自らが宗門の権限を握ろうとする策謀実現のために、宗門の維新を断行せよと、軍国主義・国家権力を楯にして、宗務院当局弾劾の叫びをあげていた。
小笠原慈聞一派は、不敬罪で、大石寺を警視庁へ訴えていた。
この小笠原慈聞の告訴が創価教育学会への弾圧・投獄の発端となった 。
日蓮正宗首脳は、昭和18(1943)年6月、ついに神札受諾を公的に徹底する方針を固め、それに頑強に抵抗していた牧口会長と創価教育学会幹部を大石寺に呼び、当時の法主・日恭の立会いのもと、創価教育学会も神札を祀るように命じた。
牧口会長はその受諾は、日蓮大聖人の仏法に背くものであると考えて、「神札は、絶対に受けません」と厳然と拒否した 。
一方、日蓮正宗・宗務院は、弾圧を恐れ、国家神道に迎合し、御書の発行を禁止したり、勤行の御観念文を、天照大神を異様に尊崇したり、「皇国守護」の文言を入れる、など改変したりした。
牧口会長は、逮捕される一週間前、再度総本山・大石寺へ行って、教義改変の方針を変更するように厳重に抗議したが、総本山は聞きいれず、弾圧から身を守るため、逆に牧口を「登山停止」「信徒除名処分」にした 。
C戦時中の過酷な獄中でも堂々と国家神道の誤りを正した、牧口常三郎の革命精神!
戦時中の獄中は、冬でも暖房・冬用の布団の差し入れを許されず、指も凍傷にかかるほど、極寒であった。
食事は、コウリャンの混じったご飯と塩水のような味噌汁・タクアン程度の粗食であった 。
そのような過酷な獄中で、70代の高齢の牧口常三郎は、いささかも節を曲げることなく、堂々と国家神道の誤りを正した。
そして、昭和19年11月18日、73歳で、巣鴨の東京拘置所で獄死したのである。
牧口の殉教、そして、牧口同様戦時下の過酷な環境・食事状況で、戸田の2年間に及ぶ不退転の獄中生活は、信教の自由のための権力との壮絶な戦いであり、創価学会が、日蓮大聖人の仏法の正法正義を守り抜いた永遠不滅の刻印となった 。
(2)戦前の創価教育学会・牧口会長等への弾圧と思想検事の戦後への系譜
山形市内にある寺の一角。墓碑には、山口弘三と刻まれている。
創価学会の牧口常三郎初代会長を取り調べた主任検事である。戦前、特高警察が検挙した思想犯を取り調べ、起訴する検察官は「思想検事」と呼ばれた。
山口弘三は戦前の思想検事の中で、“四天王の1人”に数えられるエリートだった。
創価学会への弾圧当時、牧口会長は山口を逆に折伏し、取り調べは遅々として進まなかった。
戸田理事長(当時)も一括の事件として取り扱われたので、主任検事は同じ山口であったと思われる。
牧口会長は1943年(昭和18年)11月20日に山口に起訴され、予審(戦前特有の裁判制度)に送られた。獄中で他界したのは、その1年後である。
思想検事暦の短い者はGHQの公職追放を免れ、戦後の検察界に2つの流れが生じていく。一方は戦前の中心だった思想検事の生き残り組みである。
片や戦後に台頭した経済検事(脱税などの経済事件の摘発に従事)である。
この両派は、激しい勢力争いの火花を散らしていく。
思想検事閥の領袖となったのが、岸本義広である。
戦前は血盟団事件などの右翼対策に従事した。戦時中、東京地検の次席検事(1944年8月)、検事正(45年3月)になっている。
“帝都東京”の治安対策をしながら、創価教育学会弾圧事件の公判の進行状況について、報告を受けるべき立場にあった 。
(3)戦前の牧口会長・戸田理事長への弾圧と大阪事件の関係
1955年に法務事務次官になった岸本は人事権を掌中した。
主要ポストは自らの配下の人間にすげ替え、経済検事閥を追いやった。
その岸本派の竹原精太郎が大阪地検検事正の時代に「大阪事件」は起きたのである。
当然、ボスの岸本と直接、間接に連絡を取り合う関係にあったと考えられる。
“思想検事の系譜からたどるならば、戦前の学会弾圧と大阪事件は決して別々のものではない”のである。
56年に初めて国政選挙に打って出た創価学会。
治安当局は、日本共産党と同様、学会を戸別訪問容疑などで全国的に取り締まったが、国連加盟で恩赦。
その矢先にあった大阪地区の参院補欠選挙(57年)である。
「今度こそ」と検察当局が色めき立ったことは想像に難くない。
大阪事件の法廷で池田会長が対峙していたのは、目の前の検察官だけではない。
“その背後には、戦前から昭和の時代を貫く闇”が広がっていた。池田会長の無罪判決は、狂気の思想弾圧で獄死した牧口会長、同じく獄に繋がれた戸田会長の仇を討つものでもあったのである 。
4 戦争犯罪人が出獄して戦後保守政党(自民党の前身)を結成!
冷戦の始まりとともに、アメリカは、日本の戦時体制を維持し、戦時中のエリートに権力を握らせようと決めていた。
そのため、「戦争犯罪人」を監獄から出してやった。
1948年12月24日、釈放された、A級戦犯容疑者は、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎など70名以上存在し、“戦後の政界・経済界・政界の黒幕など多方面の有力者”になった。
講和後の1958年4月、禁固刑のA級戦犯(賀屋興宣、白鳥敏夫、重光葵、橋本欣五郎などは後に衆議院議員となる)は、全員赦免になった。
1945年11月、保守政党の結成、再編が行われた。
日本自由党の資金は、戦時中に右翼の児玉誉士夫が海軍の「児玉機関」の長として中国で物資調達にあたった時の資産(裏金・時価4千億円)の一部をもらった。
5 米国の資金提供等で米国従属・長期保守政権(自民党)を実現!
岸信介は日本に台頭する保守派の指導者になった。
国会議員に選出されて4年も経たないうちに、国会内での最大勢力を支配するようになる。
そしていったん権力を握ると、半世紀近く続く政権党・自民党を築いていった。
このようにして、「アメリカの政策に従順な日本政府」の体質は、敗戦直後から着実に形成されていた。
そして、CIAが1950~70年代に日本の保守政権の安定化を図り、自民党や「左派穏健勢力」に繰り返し「資金提供」していた(違法資金)ことが、米国務省の「機密文書公開」で明らかにされている。
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/2957.html