投稿者msehi
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映画『チャイナ・シンドローム』が1979年3月16日に公開され、炉心溶融事故を警鐘した僅か12日後に、スリーマイル島事故が世界を震撼させたのは偶然の一致だったのだろうか?
この映画を今見ると、原発管理者側は制御室技師チーフのジャック(ジャック・レモン)の危険性を訴える安全検査要請を、「原発は安全であり、多額の費用のかかる検査は不要だ」と一蹴しており、まさに福島原発事故にも言えることであるが、安全性より経済性を優先してきたことが白日の下にさらされる。
映画は人気女性ニュースキャスターのキンバリー(ジェン・フォンダ)が原子力発電所取材中に事故に遭い、偶然フィルムに収めるところから始まる。
動画は、専門家がキンバリー等にフィルムの事故がチャイナ・シンドロームに繋がるものであったことを、専門家が説明するシーンである。
安全検査要請を拒否されたジャックは、キンバリー(ジェン・フォンダ)と協力して検査の不正を世間に知らそうとするが、証拠資料を運ぶキンバリーの仲間が自動車事故を装って葬られ、原発の背後にある巨大なもの、当局に追い詰められて行く。
命が脅かされるに至って、ジャックの選択は当局との対決しかなく、職員を銃で脅して制御室に立て篭もり、放射能の発電所内放出で使用不能すると当局に迫ることで、テレビ中継で真相を世間に伝えようとする。
しかし真相を伝えたくない当局は、工作活動でテレビ中継の電力供給を断ち、警察特殊部隊を突入させ、中継説明中のジャックを射殺する。
その際電力供給の遮断で懸念されていた個所が破断し、炉心溶融の事故が始まろうとするが、寸前で原子炉は停止し、問題が解消される。
当局はジャックの精神的錯乱によるもので、あくまでも原発は安全であることを強調し、事故の隠蔽を図ろうとする。
しかしジャックの同僚は彼の命をかけた行為に心を打たれ、報道会見で事故の真相を話す。
さらにキンバリーも真相を必死に訴えるが、番組はCMによって中断され、映画もそこで幕となる。
この映画公開の12日後にスリーマイル島原発2号機で、二次冷却ポンプの故障から始まり、緊急炉心冷却装置を止めるという人為的ミスで、炉心の3分の2が露出し、炉心の半分以上がメルトダウンするという事故が起きたことは余りにも出来過ぎた話しである。
もっとも調査は徹底的になされ、作為的要素は全く浮かび上がらなかったことから、神のみが知る偶然の一致と考えるべきだろう。
しかしハリウッドで『チャイナ・シンドローム』が製作された背景には、当時のアメリカは1964年から1977年に現在も運転中の104基の原発が建造され、事故が頻発し、多くの専門家が炉心溶融の最悪の事故を予告する危機感があった。
またこの映画に見るように、原発の安全性名目で政治経済、そして警察を支配する巨大な当局、「原子力国家」が形成されようとしていたからである。
そのような全体主義の「原子力国家」への移行を、娯楽産業を代表するハリウッドが批判的であるのは当然であろう。
そしてスリーマイル島原発事故はアメリカ国民に衝撃を与え、それ以降2013年の今日に至るまで、一基も新設稼働していない。
もっとも2001年からのブッシュ政権では税優遇などで原発推進政策が打ち出され、30基の新設が計画されたが、住民の反対や万一の事故での企業側の保障などで、計画は今日まで進展していない。
何故なら炉心溶融という悲惨な原発事故は、地震や津波がなくても炉心冷却システムが故障すれば起こり得るからであり、それを福島原発事故後の2011年3月30日の「南ドイツ新聞」は「炉心溶融の年代記」というタイトルで、東京電力への皮肉を込めて警告している(注1)。
しかし福島原発事故後世界に高まる脱原発の希求にもかかわらず、2012年2月にアメリカ原子力規制委員会が34年ぶりに原発新設を認可したことは事実であり、ジョージア州の既存ボーグル原子力発電所に2016年までに一基目、2017年までに二基目が新設運転開始予定である(注2)。
こうした背景には、中国だけで今後30年で400基も原発新設が計画されている原発ルネサンスへの飽くなき渇望があり、まさに人類は岐路に立たされていると言えるだろう。
(注1)http://www.sueddeutsche.de/wissen/usa-atomunfall-in-harrisburg-chronik-einer-kernschmelze-1.1079098
下にドイツ語訳を載せておきますので閲覧ください。スリーマイル島原発事故で30億円以上の授業料を払った東京電力は、何を学んだか聞いて見たい。今回の福島原発事故でも、原子炉緊急冷却装置(イソコン)の弁の人為ミスが連鎖しており、何をか云わんやである。もっともイソコンの弁開閉を調べようとした際線量計が振り切れたとの証言からすれば、既に地震で冷却の配管が破断していたと見るのが妥当であろう。
何も検証がされていないにもかかわらず、先月末の国会で原発再稼働宣言がなされており、その恐ろしさに呆れるばかりである。
(注2)これらの二基は、東芝の子会社・米ウェスチングハウスの「AP1000」(1100メガワット)であり、世界の原発ルネサンスは日米連合で推進されようとしている。
「炉心溶融の年代記」
"パネルは、クリスマスツリーの点滅するカラフルな飾りのようだった"と、当時スリーマイル島原発に従事していた一人の技術者は述べていた。 地震や津波なしに - 1979年米国は原発事故の大惨事に直面した。
エドワード•フレデリックとクレイグ•ファウストは、 1979年3月27日22時に制御室の交代制勤務に就いた。それは静かな夜に見えた。 スリーマイル島原子力発電所の第二原子炉は新設であり、メトロポリタン•エジソン社が加圧水型原子炉を3ヶ月前から操業を開始したものであった。 二人の原子炉のオペレータは何か間違ってことが起こるということを、全く予期していなかった。 しかし6時間後、炉心はほぼ半分溶け出したのである。
チェルノブイリの後の日本の福島のメルトダウンは、32年前のペンシルバニア州の州都ハリスバーク近郊のサスケハナ川中州の小さな島での、世界的に最悪の炉心事故を思い出させた。 確かに、当時全く地震と津波はなかったし、6基の原子炉が相互に隣あってなかったが、 スリーマイル島の事故は自然災害なしに炉心溶融に至り、故障が比較的無傷で始まった場合であっても、いかに劇的な結果になるかを示した。
3月28日の朝の4時に2次系の2つのポンプのスイッチが切れた。おそらくポンプ内に水が入ったのだろう。それはしばしば起きることであるが、ポンプが原子炉に属する1次系の蒸気発生装置を冷やしていることから危険である。冷却ポンプの停止後数秒でまずタービンのスイッチが切れ、次に原子炉のスイッチが切れた。制御棒が炉心に挿入され、中性子の放出を止めた。
欠陥のある弁
連鎖反応は停止した。 しかし核反応の崩壊熱のために、炉心はさらに冷却されなければならなかった。 何故ならタービンは全く熱を取り去らないため、圧力が増加した。 それは通常、加圧容器の安全弁の開放で対処され、普通10秒後に再び閉まる。 しかしこの日の早朝は、それはが開いたままになった。 フレデリックとファウストの二人の原子炉のオペレータはそれを知らなかった。 確かにコントロールパネル上に夥しい数の表示があったが、この安全弁に対する表示は全くなかった。
しかしながら二人の技術者は、まだ全く心配していなかった。第一に開かれた弁によって冷却水が無くなることを知らなかったからである。第二に炉心に追加の水を汲み入れる非常用ポンプがあったからである。彼らの気が付かなかったことは、これらの水が炉心に来なかったことである。2週間前の整備の際2つの弁が間違って閉められていたため、水の補給は塞がれていた。本来原子炉はこのような状態で危険に曝すべきでない。フレデリックとファーストは依然として危険を見誤っていた。確かに原子炉内の水位の表示はなかったが、蒸気交換機の圧力計をもとに、炉心は十分冷やされていると結論づけた。彼らの意見によれば圧力は安定していたので、水の補給を抑えた。その間二人は、二人の交代制指揮官によってサポートされた。 測定器は、炉心の水位が上昇していることを示していた。 同時に全ての可能なライトと表示が点滅し、4人の男たちを確かに神経質にさせた。既にポンプ停止後の最初の2分間で、フレデリックとファーストは数十の警告表示を受けていた。後には放射線照射の警告表示があった。 "パネルは、クリスマスツリーのように点滅する色とりどりの飾りのようだった"と、クレイグ•ファウストは後に思い出している。
しかし男たちは、未だに最も深刻な事故、冷却手段喪失に対してやるべきことに気がついていなかった。既に4時15分に一次系からの放射能水は加圧容器に流出していた。 午前5時20分には大量の蒸気と水素の泡が、不十分な冷却水の流れをさらに妨げて生じていた。 11万リットル、冷却システムの容量の3分の1が、この時点で失われていたと、米国のジミー•カーター大統領に委任された調査委員会が確認している。 原子炉はこの時点で制御は既にできなくなっており、露出した燃料棒は摂氏2000度まで加熱していた。 3年後ボイラー内のリモートコントロールカメラで格納容器の内部を取ることができるようになって、専門家は燃料棒のかわりに唯一の深い黒い穴しか見えなかったことに驚愕した。
朝の6時に早朝交代が来て、一人の技術者が加圧器の安全弁での高温に気が付き、それを閉じた。 事故の開始後2時間半で放射能は外に流出し、6時56分に技術者指揮官が原発の非常事態を宣言し、半時間後に発電所所長が周辺に知らせた。
差し迫った爆発に対して、原子力監視局NRCと原発建設のバブコック&ウィルコックスの技術者やエンジニアたちが一日中戦った。 とりわけ専門家は、溶融燃料棒の上に発生した水素の気泡を心配した。 爆発性の高いガスが点火した場合は、放射能汚染はチェルノブイリで起きたように拡散する。スリーマイル島の場合幸運であった。汚染拡散は回避され、炉心からの高温で液体の高レベル放射能物質は格納容器内に残った。 地面の中に炉心による穴が開いていく、恐怖のシナリオそのもののチャイナ•シンドロームは、同年同名の映画が描いていたが、実際には起きなかった。ポンプが故障して6日後の4月3日に警報が解除され、水素爆発の可能性はなくなった。しかし完全制御宣言は一か月後であった。
解体作業のための十億ドル
3月29日ペンシルバニア州政府は、事故で損傷した原子炉から約10キロ以内地区の妊婦婦と就学前の子供たちに地域から避難することを求めた。数日以内に14万人が荷物を持って避難した。彼らの多くは不十分で、間違って報道されていると感じていた。当局によれば、放射線は人間に害を与えるには余りにも低いものであり、約200万人の住民が10マイクロシーベルトほどの放射線線量を受けた。原子炉のすぐ近くの住民が受けた最も高い被爆は、1ミリシーベルトに達していたが、それは1年間の自然最大積載被爆量を超えるものではないというものであった。
1979年10月の終わりに大統領の調査委員会は、原子炉は1984年に再び復元され、稼働できると結論した。しかし大きな誤算であった。すなわち1980年7月に原子炉建屋に踏み込み、4年後に解体作業が開始された。 非常に面倒で退屈な作業で放射能汚染され塊状化した原子炉部分が分解され、刻まれ、除去された。3000人の専門労働者が11年の長期に関与し、費用も原子炉より高い10億ドル以上かかった。当時日本の専門家たちは、スリーマイル島にいた。 彼らは事故現場で貴重な経験を積んでいた。 日本の電力会社は、これらの実践的な授業のために1800万ドルを支払った。
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