自公連立前と自公連立後・公明党の主張
―大変化の主張と創立者たちの理念の比較―
1. 公明党の主張とその変化
(1)自公連立前の公明党のスタンス
過去20年間、公明党は、「野党・社・公・民路線」から「親小沢・反自民党路線・政権交代路線」へ変化したが1998年までは、非自民党の政権を志向して、自民党を批判し、政権交代を目指していた。しかし、1999年以後、「反小沢・自民党との連立」へと180度の路線変更をしてきた。
自民党と連立することで、1998年以前とは逆に、「政権交代を阻止」する行動と主張を10年以上継続することになるのである。
自公連立前の公明党は次のように主張していた。
@ 政権交代を実現したい
公明党執行部の基本方針:
自民党の長期一党支配が、日本の政治の腐敗を生んだ。野党の無気力も同時に生まれている。これを壊したい。
壊して、政権交代のある新しい日本の政治を生み出したい、というのが私たちの決意ですから、選挙の結果によって自民党と組むということは公明党の自殺行為です。
従来の政党同士の行き掛かり上の、多少の違いとかがあっても、そこは乗り越えて、とにかく自民党の長期一党支配を崩して、「非自民」の政権をつくることが大きなことだと思います。
権力の担い手が代われば、政治は大きく変わるということです。(市川雄一「公明新聞1993年7月9日号」)
A 自公連携はあり得ない
浜四津敏子代表:「旧公明党勢力でつくる衆院の新党平和は、福祉や教育などの予算の欠陥をただすために、自民党と予算案の修正協議を行ってきました。そうしたことをとらえてマスコミは「自公連携」などと報道しました。
何という筋違いな、全く的外れの議論であることか。
私たちは自民党の、国民に背を向けた、自分たちの利権のための政治、利益誘導の政治、それにはっきりノーと言っています。
そうした「自民党の補完勢力」になるつもりはなど全くありません 。
B 2大政党制をつくりたい
日本が構造改革のできない行き詰ったシステムになったのは、自民党一党支配の政治できたからです。これを脱却し、健全で成熟した民主主義を発展させるには、一党だけが長期に政権を握り続ける体制は好ましくありません。つまり、国民が政策・政治姿勢を判断し、「今回は、こちらの政権に日本の政治を任せてみよう」という、政権を選択できる二大政権政党もしくは二大政権勢力が日本に存在することが、中長期的に好ましいと思います(浜四津敏子代表「公明新聞1998年8月16日号1面」)。
C 中道政治の「新しい結集軸」を目指す
神崎武法氏:私たちは、日本の政治を根底からつくり変え、信頼と希望に満ちた新しい日本を創造しゆく中道政治の「新しい結集軸」となることを目指す 。
(2)自公連立決断後・公明党(浜四津敏子代表代行)の主張
@ 98年参院選で「反自民」を掲げて戦ったのになぜ連立するのか
98年参院選で私は「自民党一党支配の政治が日本の行き詰まりを生じさせた。これを変えない限り、日本は変わらない。だから、自民党の単独過半数回復を阻止しよう」と訴えました。その結果、自民党は参院でさらに過半数を大きく割り込み、国民は公明党に「キャスティングボート(政策の決定権)」を与えました。
私は、あの参院選から、日本の政治状況が大きく変わったと思います。自民党自身が「もう自民党一党だけで政治を動かせる時代は完全に終わった」と意識を変えたのだろうと思います。
そうした状況もあって、今回、自民党が公明党に対して連立政権への参加を要請するまでになった。“それは、自民党が明確に保守・中道政治を志向するようになった”といえます 。
A なぜ自民党と今連立するのか
なぜ今なのか。それは、日本の経済をはじめ、社会のあらゆる分野が「未曾有の危機に直面」しており、その迅速な解決のために政治のリーダーシップ(指導性)が、今、求められている状況にあるからです。
そして、衆院選、参院選を通じて、国民は自民党の単独過半数は許さないが、自民党を比較第一党として認知するという審判を下しました。
―中略―私たちは、比較第一党の自民党が現実的に政権を握っている以上、そこを変えない限り、日本の政治は変わらないという思いで、連立政権に参加し、まず、政治を安定させ、政治のリーダーシップを回復し、政治本来の機能を発揮して問題解決に取り組むべきと思ったわけです 。
B 自民党の利権体質は変わったという判断か
自民党は50年間、一党支配体制を続けてきたわけで、そこに染み込んだ体質は一朝一夕に完全に変わるのは難しいだろうと思います。
ただし、自民党の一党支配時代だからこそ通用した「利権体質」であり、本格的な「連立の時代」を迎えた政治状況では、通用しなくなるでしょう 。
C 「反権力」の立場を変えたのか
私は、この権力の在り方を大転換すべきだという思いで「反権力」を唱えてきました。そして今、その転換ができる時がきたと思います。
権力の中に入って、権力の在り方を「国民のため」に変えていかなくてはいけないと思っています。
権力の在り方を変えつつ、同時に、権力の危険な側面は常に「監視」していく。
“軍国主義、国家主義への歯止め”となる。それが公明党の役割でもあります 。
(3)自公連立決断後・神崎武法代表の主張
21世紀の国民生活を考えるときに、キャスティングボードを握る公明党が、この1年間の国会対応のように、政府与党に1つひとつ政策を要求し、実現していくやり方や、これまでの是々非々型で、政府が提出した法律案を修正させるだけの受身の姿勢に終始していてよいのか。
今こそ、政治課題に真正面から取り組み、懸案事項の解決に当たるべきではないか、といった声が、特に統一地方選挙の前後から党内で起こってきたのであります。
このような状況の中で、今月7日に、小渕総理から私に連立政権への参加を正式に要請するための党首会談の呼びかけがありました。
―中略―
この小渕総理の要請に対して、私は結論として、公明党は、政権協議が整えば、堂々と連立政権に参画し、政権与党として、その責任を共有すべきであると考えます。―中略―
さらに私は、今こそ公明党は、日本の政治と真正面から向き合い、政治により責任を持たなければならない。
それゆえに、保守・中道の連立政権の樹立にあたっては内閣の一員として、その責任を共有すべきであると考えます 。―以下略―
2. 公明党創立者たちの精神
(1)日蓮大聖人・「立正安国」の闘争・誘惑の魔力を一蹴
鎌倉時代、日蓮一門に対する弾圧を指揮したのが、北条本家の執事や侍所所司などを務めた平左衛門尉頼綱です。
文永8年(1271年)9月12日夕方、平左衛門尉は、数百人の兵を引き連れ、日蓮の草庵を襲います 。幕府高官と高僧(日蓮との法論を逃げ続けた)が結託し、念仏者たちが策略で、数回の放火を決行・多数回の殺人を決行・幕府の命令書捏造も行い、多数回の陰謀・捏造で、日蓮を重罪の罪人にデッチあげ、死罪・遠島流罪処分を断行したのであった。
竜の口の法難・佐渡流罪の後、2度目の対決は、文永11年(1274年)4月8日である。平左衛門尉は、以前とは打って変わって、丁重に日蓮を迎えます。
主君の北条時宗の命を受け、蒙古襲来の時期を聞き出そうとしたのです 。
この面談の折、幕府からは、諸宗の高僧と同じ待遇を与えようという申し出がありました。
鎌倉の一等地に寺坊を造って寄進し、帰依しようと言われたという説もあります 。
寺院を寄進しようなどと懐柔を図る平左衛門尉に、日蓮は、こう応じます。「王の権力が支配する地に生まれたのだから、身は従えられているようであっても、心は従えられない」。平左衛門尉の姑息な懐柔策を一蹴されたのです。断じて権力の意のままにならない 。
日蓮は、「開目抄」などで、日本国の国王にしようとの大誘惑があっても、父母の首をはねるとの大脅迫があろうとも、法華経の行者としての誓い・戦いは止めないと断言した通り、幕府の大誘惑を決然と断ったのである。
思想家・内村鑑三は、“日蓮教団の危機は、竜の口の法難ではなく、佐渡流罪赦免後の平左衛門尉戸の会見にあった”と述べています。
迫害を乗り越えることができても、「権力の懐柔」によって堕落した多くの宗教を踏まえての話です 。
(2)公明党創立者の国家権力との闘争
公明党創立者・池田名誉会長の著作等から、国家権力との闘争体験を抜粋する。
@ 国家権力とマスコミから攻撃
私の逮捕は、全くの冤罪であった。参院大阪地方区の補欠選挙(1957年4月)
で、最高責任者の私が、買収等の選挙違反を指示したという容疑である。熱心さのあまり、戸別訪問をしてしまい、逮捕された会員がいたことに、私は胸を痛めていたが、買収など、私とはまったく関係のないことであった。
だが、新聞各紙には、「池田渉外部長を逮捕」の見出しが躍り、「創価学会の“電撃作戦”といわれる選挙違反に重要な役割は果たしていた疑い」などと、盛んに書き立てられた。当時、マスコミは、当局の意向をそのまま反映し、選挙違反は、学会の組織的犯行であり、学会は、反社会的団体であるかのようなイメージを流していったのである。
当局は、逮捕した会員たちを脅し上げ、選挙違反は、ことごとく、私の指示であったする「虚偽の供述」をさせ、罪を捏造していった。私への取り調べは、過酷を極めた。夕食も抜きで、深夜まで責め立てられたこともあった。手錠をかけられたまま、屋外に連れ出され、さらしもののようにされたこともあった。
すると検事は、遂に、罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕すると、言い出した。脅迫にも等しい言辞である。私はよい。いかなる迫害にも耐える。しかし、先生のお体は衰弱の極みにある。再度の投獄ともなれば、死にも、つながりかねなかった。
私の苦悩が始まった。
身に覚えのない罪など、認められるはずがない。だが、わが師まで冤罪で逮捕され、まして獄死するような事態は、絶対に避けなければならない。
“権力の魔性”の陰険さ、恐ろしさを肌身で感じつつ、眠れぬ夜を過ごした。
そして、決断した。
“ひとたびは、罪を認めるしかない。そして、裁判の場で、必ず、無実を証明して、正義を満天下に示すことが賢明かもしれない”と。
その日から私の、まことの人権闘争が、「正義は必ず勝つ」との大逆転のドラマが開始されるのだ 。
A 冤罪事件を勝訴
上記の事件の裁判経過について、池田名誉会長は、随筆で大要次のように記している。
全くの冤罪であった、大阪事件の裁判は4年半の長きにわたり、公判は84回を数えることになる。
逮捕から約1670日後の、1962年(昭和37年)1月25日、裁判所は判決を下した。
「池田大作、無罪!」遂に、冤罪は晴れた。正義の太陽は、闇を破って、大空に赫々と昇った。
ともあれ、いかなる時代になっても、わが創価学会に対する迫害の構図は変わらない。しかし、仏法の鏡に照らせば、難こそ誉れである。邪悪と戦う大闘争心に「創価の魂」は、「師弟の精神」は、脈打ち続けるのだ
(3)戸田会長の苦悩:権力の魔性
昭和30(1955)年2月、信濃町・学会本部における、文化部員の任命式で、戸田会長が、「今日、ここのいるのは、わが愛弟子たちである。
しかし、ほとんど全員が退転するだろう。獅子は千尋の谷に子を突き落とし、這い上がらせて訓練をする。
ここにいる皆も、千尋の谷に落とさざるを得ないのだ。だが、ほとんどの者が¼¼二度と這い上がれないだろう。
それを思うと、私は余りの辛さに――涙がこぼれるのだ」と述べています。
牧口会長を獄死させた政治権力への怒り。
いまだ誰も果たしたことのない、日蓮仏法の「立正安国」「王仏冥合」という見果てぬ夢の実現。
時期は来た。打つべき手は打った。
だが、「権力には魔性が棲んでいる。ここに居並び、これから政界に送り出さねばならぬ弟子たちの、誰一人として気づかぬほどの獰猛で狡猾で、甘美な魔性が」と記述されています。
(4)権力に屈した首脳幹部に対する池田氏の想い
権力からの弾圧に対して、臆病になった最高幹部たちに、池田名誉会長は、どう想い、どう戦ってきたか、会長辞任の約20年後に公表した随筆からその1部を抜粋する。
1979年(昭和54年)の4月24日―。
この日、私は、19年間にわたって務めた、創価学会第3代会長を退き、名誉会長となった。
全国の、いや、全世界の同志は、その発表に愕然として声を呑んだ。
その背後には、悪辣な宗門の権力があり、その宗門と結託した反逆の退転者たちの、ありとあらゆる学会攻撃があった。
坊主らは、狂ったように「責任をとれ」と騒ぎ立てた。
私は苦悩した。―中略―ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。
「私が会長を辞めれば、事態は収まるんだな」。
沈痛な空気が流れた。
やがて、誰かが口を開いた。
「時の流れは逆らえません」沈黙が凍りついた。
わが胸に、痛みが走った。
―たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。実際、私の会長辞任は避けられないことかもしれない。
また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。
しかし、時流とはなんだ!
問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。
そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。
宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。
それを推進したのは、あの悪名高き元弁護士たちである。
それを知ってか、知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。
情けなく、また、私はあきれ果てた。戸田会長は、遺言された。
「第3代会長を守れ!絶対に一生涯、守れ!そうすれば、必ず広宣流布できる」と。
この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。
なんと哀れな敗北者の姿よ。
ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神はどこにあるのか!
(5) 創立者の主張と公明党の基本路線変更
「中道主義、中道政治は、単なる相対峙する2つの勢力の中間をいくものではない。
また、両方から、そのよいところだけをとって、自己の主張とするような生き方であってもならない。
真の中道主義は、独自の強い主義主張をもち、既成の思想をリードし、包容し、統一していく力ある大原理をさすのである。
一党一派の利益や、一部勢力の便宜のために働くことはやめて、国家百年の大計、さらには、全世界的視野にたつことが、今日の政治家にもっとも望まれる資質であると思う」と主張している。
09年4月、池田名誉会長は、「日本には、見栄っ張りや臆病のために、権力の悪と戦えない風潮がある。―中略―
その民衆が悪を黙認すれば、悪はますます増長する。
狡猾な悪人に騙されてはならない。許してはならない。
断じて正義が勝ち抜く―私はそういう時代を開いてほしいのです」と本部幹部会でスピーチしている。
これに類したスピーチは10年間で相当数公表されている。
一方、公明党執行部においては、自公連立後の10年余の言動と連立前の言動、上述の歴史や精神との整合性や矛盾については、2009年9月政権交代後も、具体的な説明は、ほとんど公表されていない現状である。
3.中道政治についての箴言
池田名誉会長が語る“「平和の世紀」の大道 ” 2002年1月発行より
*宗教は、人々の幸せと世の中の平和と繁栄を願うものです。
政治が腐敗・堕落し、人々が苦しんでいる時、それに異議申し立てをしていくのは、宗教者として当然の責務です。―中略―
庶民の目線で「政治への監視」を行なっていくことは、今後も大切だと思います(14〜15頁)
*時代は変わっても、“大衆とともに”という結党の原点だけには忠実であってほしいと思います。
今は、「生命・生活・生存」を軸にした「人間主義」のスローガンを掲げていますが、国民政党としての重責を果たすことを大いに期待しています。
それと、公明党には、「世界の中の日本」という大局の視点を大切にしてほしい。
日本の右傾化を心配する人は、内外に多いですから(16頁)
*小泉政権の構造改革で失業の増大や福祉の抑制などの「痛み」が伴うこと、「負の側面」についての主張:改革に痛みを伴うことはやむをえない場合があるとしても、それを挽回できる社会の仕組みを整えることが、政治家の指名です。―中略―社会的に弱い立場の人たちを守る「セーフティーネット(安全網)」の整備が求められます。
構造改革といっても、そのために庶民が犠牲になってしまえば、元も子もない。
また、政治家が改革を叫ぶなら、まず自らの襟を正す「政治家革命」から始めるべきでしよう。
「人々の痛み」に耳を傾け、徹して奉仕する――本物の政治家の活躍が待たれているのです。
「特権」を見直し、汚職を追放し、「官僚による不正」も正していく。―中略―
そうでなければ、国民が納得するはずがない。小泉首相が進める「構造改革」の成否も、そこのかかっていると思います17〜18頁)。
*最近の日本を見ていると、政界に限らず、官界、財界など、社会のあらゆる分野で、腐敗が進んでおり、トップが、責任を放棄しているような例が多い。
廉恥心というものは、人格の骨格部分を形作っているものですが、そこがメルトダウン(炉心溶融)してしまっている。
実に由々しきことです。―中略―
偉大な政治理念、政治哲学があるかないかです。
私が世界を代表するリーダーや一級の知性の方々とお会いして感じるのも、そうした「哲学」や「人格の輝き」です。―中略―
大事なのは、世界の誰もが納得する「識見」です。
日本の国内でしか通用しないような「独善」ではダメです。―中略―
民主主義なのですから、みんなが「ああ、なるほど」と納得できるように、何でも説明すべきです。
日本の政治に一番欠けているのは、この「説明責任」ではないでしようか(28〜30頁)。