「社会的な被ばく」というものがある
汚染地に居るということは、汚染されながら働く、労働するということをも意味する。たんに放射能が危険というだけではない力が働く者に襲いかかってくる。<そこ>にいる人が皆等しく同じだけ被曝するわけではない。お天とうさんは皆に等しく輝くはずだが、お天とうさんは皆に等しく輝くわけではない。ゆがんだ社会の曲面がそこではさらに過酷にゆがむ。原発労働の差別の構造がもっともひどい例だろうが、それが<そこ>の社会にあたりまえにむき出しになっている。
放射能汚染の国土と、そこでの社会的ひばく労働について考えさせられた。
伝送便11月号(No.392)http://densobin.ubin-net.jp/ から・・・
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((伝送便11月号(No.392)
では「原発被曝、福島からの報告」として特集を組み長文の現地調査レポートを掲載しました。報告はかなりの分量に及びますので、ネット上での紹介は差し控え伝送便本体のみの掲載としましたが、是非ネット上でも紹介して欲しいとの要望が多数ありました。初出掲載時からはかなり時間が経ってしまいましたが、今年の締めくくりという意味でも改めてWeb伝送便上でもご紹介しておきたいと思います。なお報告者は伝送便編集委の池田実です。 (多田野 Dave))
【福島現地ルポ】 被ばくする郵便労働者 ―――― 池田実
囲み記事もくじ..............................
<証言>1
振り向くと津波、赤バイクのアクセル全開で逃げた
<証言>2
亡くなった後に「職員の鏡」と言われても
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飯館郵便局へ
10月初旬、東北自動車道を北上し福島県に向かった。
二本松インターチェンジから一般道に下り東へ向かうと車窓には黄金色にかがやく稲穂の海が続く。この二本松地域で収穫された米から国の基準値を上回るセシウムが検出されたことが報道されたばかり。はたしてこの稲穂は何処へいくのだろうか。
いよいよ原発40キロ圏内に入る。山々は色づき始め、県道沿いにはコスモスや彼岸花が咲き乱れ野鳥が飛び交う。外気はひんやりし吸い込むと森の匂いが心地よい。四季の移ろいは何も変わってないように見える。だが、この空気も、森も、鳥も、花も、そして人も、すべてあの日から変わってしまったのだ。
かつての観光キャンペーン「うつくしま福島」はもう誰も口に出すことができない。この一見のどかに見える山里の風景も、その内部は目に見えない放射能によって破壊され続けていると思うと胸がしめつけられる。
車は飯館村に入る。街の様子が一変した。人家はすべて戸が閉められ、ドライブインや野菜販売所など商店の入り口にはチェーンが掛けられている。ニコッと笑う「飯館牛」の大きな看板だけがむなしく建つ。まさに「死の町」としか言いようがない光景だ。
飯舘郵便局に到着。ポストは封印され、局入口には「計画的避難区域になったため業務を行っておりません」との張り紙が貼られていた。ここは今でも毎時2マイクロシーベルト超の高い線量が計測されている地域である。
この飯館郵便局、震災直後は業務を停止していたが、3月23日の郵政本社による「安全性が確認された」という指示により他の原発20キロ圏外にある福島県内の支店・配達センターとともに配達・窓口業務を再開していたのだ。そしてちょうど一ヶ月後の4月23日、国の「計画的避難区域」指定により再び閉鎖となる。
丸一ヶ月間、外務員は毎時50マイクロシーベルト超を計測することもあった飯館の村内で、雨の日も、土埃舞う風の日も郵便を配りつづけたのだ。
今回、私はこの飯館郵便局に象徴される原発事故で運命を切り裂かれた福島県内の郵便労働者の実状を追った。
海岸一帯は見渡すかぎりの草原
県道12号線で八木沢峠を越え南相馬市に入る。ここは数日前、「緊急時避難準備地域」が解除された地域で今まで避難していた住民が戻ることができるようになった。そのせいか、飯館村では見かけなかった人が道をあるいており、ラーメン店もコンビニも開いていて客が入って活気があるように感じられる。ただ小学校は再開しておらず、ブルドーザーによる校庭の土の除去作業が行われていた。
「道の駅・南相馬」に到着。駐車場には沖縄県警の車両があり警察官が休憩していた。住民のほか工事関係者と思われる人たちも訪れてけっこう賑わっている。
海岸に向かう。紺青の太平洋が見えてきた。遠くに高い煙突の建物が見え、第一原発かと一瞬ひやっとしたが、この地に建つ東北電力原町火力発電所だとわかる。ここも震災の影響で建物が炎上し復旧の目途はたっていないという。
道の脇には津波で破壊されたと思われる乗用車が何台も放置されていた。海岸近くに行くと見渡すかぎりの草原。津波であらゆる建物が流された跡に半年が経ち野草が一面に茂っているのだ。その脇の大量のガレキの山にはトラックが頻繁に通り、運搬してきた大量の木くずや鉄くずを置いていく。
さらに南下しようとすると「立ち入り禁止」の柵が道を遮る。ここからが原発20キロ圏内の警戒区域なのだろう。海は、波も静かで穏やかだが、その中に棲む魚や貝や海藻もみな汚染されてしまったと思うと悲しい。
ここから20キロ先に発つ原発の建屋がふと蜃気楼のように見えたような気がした。
被ばくに怯え、家族は号泣した
「配達中、第一原発の建物を見上げると気持ち悪い感じはしていたけど、まさかこんな事になるとは夢にも思わなかった」
こう語るのは今回事故を起こした福島第一原子力発電所が管内にある大熊集配センターに勤務していた吉岡秀雄さん(仮名)。原発建屋から約5キロの内陸部にある大熊集配センターは郵便局と併せ30人余が働いていた。
地震当日、郵便局の建物自体は内陸部にあるため津波による被害は受けず直接の人的被害もなかったというが、警戒区域直下にあるため、あの日から郵便局は閉鎖されたままだ。
吉岡さんは地震当日は非番でいわき市の自宅に娘さんといた。自宅は大丈夫だったが、地震後、水も電話も途絶え不安な一夜を過ごした。当日勤務の同僚はみな命からがら逃げ帰ったという。
翌12日早朝、半径10キロ以内の住民への避難指示が出されたことを知った吉岡さんは「これは仕事どころじゃない」と出勤をあきらめた。午後、水素爆発が報じられ、友人たちからも「すぐ逃げなさい」とのメールや電話がひんぱんにかかってきた。14日に課長から安否確認の電話がかかってきたが、会話の最中に3号機爆発の速報があり出勤どころの話にはならなかった。
以降二週間余り会社からの電話は途絶えた。15日に入ると近隣の家も一斉に避難を開始。吉岡さん家族も避難を決意し軽自動車に乗り車中泊覚悟で町を出た。しかし道路が避難民で大渋滞。やむなく自宅に引き返すことに。
その夜、妻と子供は迫りくる被ばくに怯えて「号泣した」という。
元同僚女性が殉職
所属するJP労組相双支部では今回の津波で2名が犠牲となった。浪江町の海沿いに建つ請戸郵便局で仕事していた女性社員1名が殉職、もうひとりの男性社員は現在も行方不明のままだ。
吉岡さんと以前同じ職場で働いたことがあるその30代半ばの女性社員の遺体は局近くで発見された。今もやるせない気持ちがこみあげる。
その郵便局から500メートルほどしか離れてない請戸小学校では生徒全員が避難して無事だったというのだ。「なぜ郵便局だけが」という無念がぬぐいきれない。
もし自分が彼女の立場だったらと今でも思う。防災無線で警報が流れても、現金、切手、個人情報、ATM機器などの締めで持ち場をすぐ離れることができただろうか。当日局長が休みのため急きょ応援派遣されていた行方不明の男性にしても慣れない局でどう動けばいいのか判断しづらい状況ではなかったか。
配達員もそうだが、緊急災害時の判断は最終的に個人にゆだねられる。「あと10分で締める」「あと一束配れば」という判断が命取りにつながることもじゅうぶんにあるのだ。
「仕事より命」。放棄と避難は違うという日ごろからの教育と避難マニュアルなどがあればと悔やまれる。
つづく ―被ばくする郵便労働者(2)へ―
<証言>
振り向くと津波、赤バイクのアクセル全開で逃げた
大きく長い揺れだった。この地震ならこの後かなりの津波が来るだろうとは思った。でもある意味「タカをくくっていた」。今持っている郵便もう一束でこの集落が終わる、瞬時に「仕事」か「逃げる」かを悩み、仕事をとった。
いやな予感がした。持っていた一束を配達した時点で「区切りまで」をまた悩み、高い所に向かうことにした。道は大渋滞、この田舎のどこにこんなに車があったのか?
バイクの利点と裏道抜け道を知りつくしていたことが幸いした。振り向くと津波が見えた。驚くほど高いし速い。人が、車が、家が呑みこまれていく。迫りくる恐怖、「逃げろ」「急げ」「上がれ」怖くて振り向けないが間違いなく津波が迫っている。アクセル全開のはずが進まないバイク。ようやく勾配が急になるところまできたが安心できない。
かなり上がってバイクを止めた。下を見るとまさに地獄絵図、あらためて足がすくむ。あとで考えれば助けに戻るべきだったかもしれないが一歩も動けなかった。
波が引いた後も第二波、第三波が怖くてかなりの時間動けなかった。 (外務員W)
【福島現地ルポ】被ばくする郵便労働者 (2) (12.23)
業務再開、ホテル出勤も
郵政グループ各社は、今回の震災・津波と原発事故で避難した社員の勤務に関して、当初は特別休暇扱いとした。また福島県内で大きな被害を受けず業務可能な事業所でも、「天候により」外務作業の可否を所属長判断とさせていた。
第一原発の水素爆発直後の3月15、16日には全員待機の指示が出されたほか、それ以降の雨天時にも配達業務を中止させる措置をとった(宮城県南部でも雨合羽を回収、洗浄する措置がとられたという)。しかし3月23日、郵政本社は屋内退避要請以外の地域での業務再開を指示する。
根拠として会社は、「原子力安全委員会から避難・屋内退避区域外でも雨に濡れても健康に影響を及ぼさないとの見解が示されるなど安全性が確認され」とした。
これ以降、支店長による「理由なく出勤しない者は無断欠勤だ」というような言動が出始める。
吉岡さんにも3月29日に課長から「明日からいわき支店に出勤してほしい」という電話がかかってきた。翌日出勤すると近くの内郷郵便局の事務室で、事故で未配達の郵便物の転送・還付処理をしてくれと言われた。
4月1日から他の支店から来た人たちと一緒に業務を始めたが、郡山支店に保管していた未処理郵便物は13万通を超えており部屋じゅういっぱいになり当初は途方に暮れた日々がつづいた。
だが徐々に人数が増え落ち着くようになっていった。他県等に避難していた社員に次々と出勤命令が下ったためだ。しかし内郷周辺のアパート入居もままならずホテル出勤を余儀なくされる社員も多くいた。
「行きたくない」20キロ圏内
郵便事業会社は避難している社員の意向調査を4月下旬から開始し、県外勤務希望も含め個人の意思を尊重するとした。しかし4月22日に30キロ圏内の屋内退避地域が緊急時避難準備区域となり川内村の一部や広野町、原町が退避解除となったため、当該職場に勤務していた社員らに出勤要請が行われた。
川内集配センターでは20キロ沿いの地域を配達することに対して、社員は異口同音「行きたくない」と言ったという。吉岡さんが知っている若い社員も不安そうな顔で「行きたくない。行きたくない」と繰り返していたが、最後は管理者の説得に応じ川内に行くことになった。
5月20日に県外希望者の異動発令が行われた。遠くは青森県、広島県、東京や新潟などの支店に、職場を奪われた社員たちはそれぞれ苦渋の選択をし新勤務先に向かった。家族別居を余儀なくされたケースも少なくない。
相双支部では120名を越える組合員が他県・他支部へ転出した。大熊の職場の社員も新潟など他県の支店に異動していったが、9月末の時点ですでに7名が退職したという。すべて非正規社員で14名のうち半数におよぶ。
生まれ故郷から遠くはなれた地方で、職場環境も全く違う集配職場での仕事がプレッシャーとなったことは想像にかたくない。正社員には支給される住宅手当もないなどの低い労働条件で将来不安もかかえ、いくら雇用保障されたとはいえあえて郵政にこだわる理由がなかったのかもしれない。
3.11は若い期間雇用社員の人生も大きく変えてしまったのだ。
ここにいたら殺される
退職していった期間雇用社員は県外異動者だけではない。県内の近隣支店に移ったある若い期間雇用社員は「放射線の強い中、自転車で配達させられた。ここにいたら殺される」と言って辞めていった。生活より命が大事と自ら決断したのだ。
いくつかの支店では外務員に放射能対策としてゴーグルとマスクを支給したというが、酷暑の中で誰ひとりとして装着する者はいなかったという。
原発から60キロ離れた福島市で外務作業を行っている田口紀彦さん(仮名)は、毎日放射能被ばくの恐怖を感じながら郵便を配っている。今も市内いたるところで2マイクロシーベルトを超える数値が計測されているのだ。
「ポストは人家の軒下にたいがいあり、その下には側溝があることが多い。放射能が溜まり易いという場所にバイクを止め毎日配達しているんです」。
会社は原発事故直後の3月15日、16日は全員屋内退避の措置をとり、その後も降雨時には屋内退避を指示したが、4月に入るともう通常業務に戻ってしまった。
「今までの約180日間、一日5〜6時間外務作業で浴び続ける線量が自分の体の中にどれくらい積算したのか、考えるとゾッとする」と話す。
福島市内の街の風景はあれ以来すっかり変わってしまった。配達していても「子供を見かけない」のだ。夏でも長袖にマスク、帽子姿が多い街中を、赤バイクにまたがった配達員は無防備なまま走りまわる。
「会社の態度は、およそ外務員を多く抱える事業体のかけらも見られない」と怒りを隠さない。
「びっくりしたのは、業務再開指示の会社文書の中でいわき市で開催された講演会内容(山下俊一氏講演)のいいとこ取りの内容を記載して屋外作業させてもいい根拠とした」。まったく人命より業務という本音が見える。
さらに本来なら労働者の命と健康をまもるべき組合(所属するJP労組)も、「専門的見地から公的見解が示されたことから、屋外作業を了承した」と無批判で丸呑みしてしまったのだ。
「この夏の地本大会の議案書でも、外務員の健康問題には触れず、出てくる文言は{避難地域の業務運行}だけです」とあきれる。
「コンプライアンスや品質向上が繰り返し言われる毎日の仕事の中で、自分たちの意識がだんだんと生命より重い仕事という使命感を作り出していったのではないか。俺なら投げ出して逃げる、と自信を持って言える人がどれだけいるか。今回の犠牲者の皆さんが命をかけて鳴らした警鐘を生き残った私たちは真剣に検証しなければ」と田口さんは訴える。
つづく ―被ばくする郵便労働者(3)へ―
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<証言>
亡くなった後に「職員の鏡」と言われても
大きく長い揺れ。沿岸部のこの局に「かなりの津波が来るかもしれない」予感はあったと思う。しかし一方で大きな津波が来ても「2階まではこない」感覚があり、その上に「お客様第一」「仕事優先」は長い時をかけて身に浸透している。
客を誘導し、非常持出物品を準備するも「どこに何があるのか」「これで全部だろうか」最近うるさく言われる「個人情報は大丈夫か」と時間を要してしまった。
車に積んで逃げようにも道路は大渋滞、田舎特有の山に向かうほど車線は減り細くなる一本道。多くの人が車を乗り捨てて走って逃げる。かわいそうに無人の車が連なり先に進むことは絶対にない。
サイレンが鳴り響く中、「非常物品を置いて逃げるか」躊躇している間にも迫りくる大津波。「何も持たずもっと早く逃げればよかった」。
悔やんでも悔やみきれない思いの中で、尊い生命が奪われていった。亡くなった後に「職員の鏡」と言われても戻らぬ生命。 (郵便局窓口S)
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【福島現地ルポ】被ばくする郵便労働者 (3) (12.23)
戻りたい、戻れない、戻らない
第一原発から約25キロ北にある原町支店に勤務していた杉村信二さん(仮名)は、今でも震災時の行動を反省する。
息子に避難を催促されても当日の夜勤勤務のことが先にたち「行政の指示を待つ」といって動かなかったのだ。「安全よりも仕事、という意識が先行していた、これこそが安全軽視、原発大震災につながったと考えると今でも自戒するばかりです」。
あの日、同僚も、津波警報が流れても、「津波が来る前にと、残っていた一束の郵便を大急ぎで配ってきた」と得意そうに話していた。間一髪、今考えると恐ろしい。
ようやく一家で避難することを決意、その後避難先を転々とし、6月に千葉県市原市で一応落ち着くことができた。その間、90歳近い義父が避難所で行方不明になったり、義母が「ここで死んだら皆に迷惑がかかる」と言って三度の食事を無理やり口に詰め込む姿を目の当たりにして心休まる日はなかった。
「母親が千葉に着いて発した言葉が『ここで死にたくねー』でした。やはり年寄りほど故郷に戻りたいという意識が強いのだと実感します。今後のことについては子供たちと口論になるが、若い者は当初の『戻れない』から、今ははっきりと『戻らない』と言います」。
この世代間の意識の差は、今後どう福島で運動していくかの課題でもある。
今、杉村さんは来る福島県議選挙で地元双葉地区から初めて脱原発を掲げて出馬する女性候補の選挙戦応援に動き回っている。
「今回の事故で地元の人たちの意識は大きく変わったはず。脱原発が通るか、大きな意味があると思います。今後私たち福島双葉に住む被災当事者が、原発への警鐘を鳴らしてきた歴史の証言者として全国、そして世界に発信していくことが大事です」と熱く語った。
原発が憎い
第一原発周辺を配達していた吉岡さん、今は「原発が憎い」と言いきる。
職場も奪われたうえに、生まれ故郷の田村市都路にも帰れないのだ。明治以来つたわる田畑を守らなければと思い吉岡さんは草を刈り、田を耕してきた。
「草を刈ったあと、土手に腰をおろして田畑を眺めるのが好きだった。年齢を重ねるにつれ故郷の良さも分かってきた」矢先だった。子供にもそれを伝えたいと必死で土地を守ってきたが「原発はそんな俺の夢を奪った。先祖の墓参りに子供を連れていくこともできなくなった」。
緊急時避難準備区域は解除されたとはいえ、道路周辺は今も1マイクロシーベルトを超える線量が出続けているのだ。
「原発は先祖と私たちを引き離した」。
これからのことを尋ねると、「不安です」と一言。仕事は、内郷郵便局での事故郵便処理をこれからもずっと続けることになるのか、内務作業に携わってもう半年近く経ち「元の大熊の住所や端末機の操作も忘れかけてる。外務作業に戻れるか」と不安はつきない。
家族は、一時避難から戻って以前のように生活しているが、中学生の子供の通学は車での送迎にきりかえ、帰宅したら衣類はすぐ洗濯、シャワーを浴びさせる毎日だという。「いわき市から配布されたヨウ素剤をすぐ服用させればよかった」と今でも悔いが残る(袋の注意書きには指示があるまで絶対に服用しないこととあった)。
子供の顔を見るたび「丈夫であってくれ」と祈るばかりだ。
退職後、がん発症の可能性
3月23日の「業務再開」指示から半年、日本郵政は、住民の放射能汚染への不安の広がりをよそに、何ら社員の放射能対策をとろうとはしなかった。わずかに、線量計を郵便事業会社が県内支店に19台、ゆうちょ銀行とかんぽ生命が福島県内の数店舗に配備しただけ、それも「置いてあるだけ」(福島市内支店員の証言)というのが実態のようだ。
県内住民に実施されている被ばく検査も、外務員は何倍もの被ばくを受けているはずなのに、3月23日の「業務再開」指示文書添付の「参考資料」(微量な放射能が検出されている地域がありますが、健康に影響を及ぼすレベルではありませんので被ばく検査を受ける必要はありません)を根拠にしてか、郵政独自の外務員被ばく検査を実施する考えはみじんも見られない。
今は「ただちに健康に影響を及ぼさない」としてもこの先、20年、30年、郵政を退職してからも、がんに発症する可能性を否定できない。
多くの学者が指摘するように子供だけでなく成人の「低線量被ばく」(チェルノブイリ膀胱炎の例)が将来顕在化してくるかもしれないのだ。
その時、あの時 郵便を配ってなければ、と悔やんでも遅いのだ。
今この時、雨合羽を身にまとい家々に郵便を配り続ける福島の外務労働者の命を守るため私たちは行動を起こさなければならない。もはや一刻の猶予も許されない。
(池田実)