「大丈夫」と「危険を避ける」ことの違い
http://takedanet.com/2011/10/post_c002.html
平成23年10月21日 武田邦彦(中部大学)
高速道路を利用する回数は1年に5億回ですから、平均して国民一人あたりおよそ5回利用することになります。そして高速道路で起こる交通事故の犠牲者は約250人ほどです。
食中毒には多くの人が注意を払っていますが、1億人の人が毎日3度づつご飯を食べていますが、食中毒で死ぬ人は戦後1年間で500人ぐらいの時代もありましたが、今では10人レベルになっています。それでも食中毒にならないようにいつも気を配っています。
つまり「大丈夫」と「危険を避ける」というのは質が違うのです。毎日のように高速道路を走る人でも、交通事故の犠牲になる人はほとんどありません。「私は毎日、高速道路を利用していますが、事故に遭ったことはありません。だから高速道路は安全ですから、時速を80キロから160キロに上げても大丈夫です」というのは間違いです。
このことで判るように、「危険を避ける」時には「こうしても安全だったから」という個別の経験とはまったく関係なく、1億人でどのぐらいの被害者がでるかで決める必要があります。それは人生で不遇の死を遂げることは絶対に避けなければならないのと、生活の中の危険は、交通(自動車、電車、ヒコーキなど)、火事、台風、大雨、強風、崖崩れ、食中毒、農薬、添加物、アレルギー、感電、被曝、電磁波、熱中症、凍死、階段、やけど、インフルエンザ、結核、ガン、犯罪、通り魔、誘拐、スポーツ・・・・など数が多いからです。
一つ一つの事故の確率が100分の1だったら、ほぼ毎年、事故に遭宇ことになります。また、「ほとんどの家は火事にならないから、火の元に注意しなくても良い」とか、「感電事故は少ないから、裸線でも良い」、「インフルエンザがはやっている時に彼はマスクをしなかったのに罹らなかった。だからインフルエンザにマスクは要らない」などというのは、通常の生活では禁句です。
このように「確率的に起こる」ことというのは、「大丈夫だった」という個別の例は「危険を避ける」には何の役にも立ちません。最近、「世田谷のラジウム事件では数10ミリシーベルトを浴びたかも知れないのに病気にならなかった」とか「首相が汚染されたものを食べても直ちに病気になっていない」などを言って「だから被曝しても大丈夫だ」とか「1年1ミリは厳しすぎる」という結論を出す人がいますが、かなり悪質と言わなければなりません。およそ専門家ならこの違うぐらいは判っているからです。
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ところで、「1年1ミリ」はさらに決めるのに難しい面があります。それは交通事故や食中毒などと違って、毎年、被害者がでるものではないので「統計的に起こるものなのに、参考にする統計がない」ということです。だから、論争が残るのです。
統計的なものを統計がないのに目安をきめるのですから、「合意」で決めたわけですが、その合意が1年1ミリです。1年1ミリ以上の被曝をして10年後に子供がガンになるかどうかはおおよその科学的根拠はありますが、本当は「神様しか判らない」のです。だから、今後、「1年1ミリ以上でも大丈夫」という人がいたら「神様」と呼ぶと矛盾がハッキリすると思います。
未来の判らない人間なら子供たちが被曝している2011年(かりに日本に放射線漏れが無いときなら議論はOK。新しい合意を作れば良い)は、合意=1年1ミリ、しか発言できないはずです。
http://www.asyura2.com/11/genpatu17/msg/667.html