67. 2011年7月12日 06:29:51: EaD7UyQFcE
弁護士不適格者リストは国民目線で選抜すべき。
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak42/msg/820.html#c67
13. 2011年7月12日 06:34:37: Xv65psv6gA
と、いうのはですね、最近はあまりお目にかかれなくなったけど、テレビに出てくる、「御用学者」らが、「科学者」とうい札を付けているけども、どうも科学的でないように思う今日この頃なんです。つーのは、まあ「事実」を認めないような感じ。つまり、既成の理論に、観測されたデータが抵触するときに、データを捨てて、理論を優先することがあるような・・・まだ、整理できていないのですが。それって、ガリレオを裁こうとしたカトリック教会みたいだなと。書き込みをするときちんと返事をしてくれる人があまり他にいないものですから、「よそへ行け!」といわれるかもしれませんが、「雑談」なんで勘弁してください。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shizuoka/news/20110711-OYT8T00831.htm
「ユッケの問題があったばかりなのに、また肉が売れなくなる」――。静岡市内の食肉加工業者に福島県南相馬市産の牛肉が流通し、肉から暫定規制値(1キロ・グラム当たり500ベクレル)の約4倍にあたる放射性セシウムが検出された問題で、牛肉を扱った業者の男性は悔しさをにじませた。
同市などによると、この肉は6月10日、同市清水区の食肉加工業者が東京都内の食肉市場で仕入れたもので、13・3キロと14・5キロの肩ロース2本。13・3キロの肉は同市葵区内の飲食店に販売され、300グラムが消費された。残った肉の一部を厚労省横浜検疫所で調べたところ、1998ベクレルの放射性セシウムが検出された。また、残りの14・5キロの肉は、牧之原市内の食肉販売業者が仕入れ、すべて飲食店や消費者に販売したという。
取材に応じた同市の食肉販売業者の男性は暫定規制値を超えたことを聞くと、「そうなんですか、本当に……」と驚きを隠せない様子。焼き肉チェーン「焼肉酒家えびす」の集団食中毒事件の影響で肉の売り上げに大きな影響が出ているといい、「影響がないとしても、もう福島県産は買うことができない」と嘆いた。
県衛生課によると、仮に東京都で見つかった11頭の中で最高値だった3200ベクレルの肉を100グラム食べた場合でも、0・00416ミリ・シーベルトしか被曝(ひばく)せず、胃のエックス線検査の144分の1に過ぎないという。
(2011年7月12日 読売新聞)
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/202.html
02. 2011年7月12日 06:43:13: 28laF0x7YA
被害者は日本全国で相当な数になる模様。ツイッターでのコメントが多い。
また以下のような投稿が。
http://twitter.com/#!/jamamuyo/
hige97 髭 jamamuyoがリツイート
現在アメリカ、フランス、ロシアでは、法規制が成されており、先日アメリカ オバマ大統領諮問委員会にて、被害者達の被害状況説明がされ、受け入れられています。 またアメリカ並びミナミアフリカのテレビニュースにて、この組織犯罪が大きく放送されました。
6月11日
いろいろな活動により集団ストーカー自体は認知が進んできている。日本でもいずれ加害者は取り締まり対象になるでしょう。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/322.html#c2
政治は利権。
それにしても醜い現実。
ネットゲリラから
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/07/post_1ef0.html
■親の因果がこの子に報い、哀れ佐賀県知事はこの姿
佐賀県知事の古川なんだが、あいつ、親父が九州電力の社員で、玄海原子力発電所のPR館の館長やってたんだよね。もうね、生まれついての原発利権小僧w なので、
玄海原子力発電所の所長ら九州電力の幹部社員が、2005年以降に、古川の政治団体に対し、毎年3万円を寄付していたことが判明している。同社幹部らは、個人献金であるとしているものの、事実上、個人献金の形を取りつつ、政治資金規正法によって禁じられている企業献金が行われているとの指摘が出ており、原発絡みの献金ではないかとの意見もある。
役職によって金額決めて、申し送りして寄付してるんだから、企業献金以外のナニモノでもないんだが、なので、あの下品極まりない顔はゲスな出自に関係あったのね、という話で、ところで玄海町の町長なんだが、こちらは弟が土建屋で、原発マネーのお仕事を17億円も貰っていたという茶番です。つうか、そもそも電力会社からカネ貰っているヤツは原発について何かを語る資格がないので、フェアーじゃないから発言禁止にしろやw おいらは一銭も貰ってないので、いくらでも悪口書きます。ただいま絶賛広告募集中です。よろしくお願いします。
玄海町長「やましい気持ちはない!やめてもええんや!」…実弟企業に原発マネー/工事受注計17億円
1 (京都府)[sage] 2011/07/11(月) 10:09:41.04 ID:WQeEaUBu0
九州電力玄海原発がある佐賀県玄海町の岸本英雄町長(57)の実弟が経営する建設会社「岸本組」が、町長就任の2006年8月以降の4年8カ月間で、電源立地地域対策交付金などの“原発マネー”を財源に使った町発注工事と、九電発注の玄海原発関連工事を少なくとも総額約17億円分受注し、町長自身も主要株主で株式の売却益や配当金として約1千万円を得ていたことが、西日本新聞の調べで分かった。
識者からは「身内を含め、これだけ原発の恩恵を受けている町トップが公正な判断ができるか疑問だ」との指摘もある。岸本町長は「やましい気持ちはまったくない。町民が疑うなら、いつでも町長を辞める」としている。
西日本新聞
4 (dion軍) 2011/07/11(月) 10:10:34.22 ID:MaOn7MF10
もう玄海なだ
8 (長屋) 2011/07/11(月) 10:12:04.04 ID:RxeBa3tF0
ズブズブじゃねぇか糞ワロタ
玄海町民が許しても他の国民が許さない。
これは自治体の問題ではない。国家的問題だ。
12 (長屋) 2011/07/11(月) 10:12:59.11 ID:X2+oKpyA0
風体で土建屋っぽいなとは思ってたよ
14 (千葉県) 2011/07/11(月) 10:13:55.24 ID:dy/+1RiA0
しがらみっつうか利権まんまじゃん
(Accident survenu à la centrale de FUKUSHIMA-DAIICHI Point de la situation au 6 juillet 2011: IRSN)
http://www.irsn.fr/FR/Actualites_presse/Actualites/Documents/IRSN_Seisme-Japon_Point-situation-06072011.pdf
福島原発発電所で発生した事故 2011年7月6日現在の状況の要点
この広報は、福島第一発電所の状況について、公表された情報に基づいて作成された。
T.原子炉の状況
状況の安定化
福島第一原発の原子炉[1]1.2.3号機は、燃料を納める圧力容器に淡水(1.2号機には約3.5m^3/h、3号機には約9m^3/h)を直接注入して、冷却する作業が続いている。原子炉1号機の格納容器、さらに、6月28日からは、原子炉2号機の格納容器で、格納容器の不活性状態を維持し、水素燃焼のあらゆるリスクを防ぐために、窒素の注入が行われている。同じ作業が原子炉3号機の格納容器に対しても検討されてきたが、東京電力はまだこれを実施できていない。このように、原子炉の状況は安定しているように見える。建屋下部に存在する大量の高濃度汚染水(約11万トン)の管理が、主要な課題として残っている。
これについては、起動に関わるいくつかのトラブルを経て、2基の高濃度汚染水処理施設が稼働を始めた(1日1200トンの処理能力が期待されている)。1万トン近くの水が、現在すでに処理されている。水の除染率はかなり高い(約10万分の1)。処理された水は、所内に設置された一時貯水タンクに貯蔵され、脱塩処理の後、原子炉圧力容器に再注入される。水の処理能力は原子炉の冷却に必要な量を上回るため、東京電力は、建屋内に存在する高濃度汚染水の量を急速に減少させることができたに違いない。
−原子炉1.2.3号機の炉心破損の評価
事故発生当初から、IRSNは利用可能な情報を用いて、2011年3月11日に起きた地震に関わる津波の結果、3基の原子炉は冷却機能を失い、そのため燃料が部分的に溶融したとの結論を出した。圧力容器の底に燃料が落下したと思われる事象の後、圧力容器に穴が開いたと結論づけられるような要素は何もなかったが、圧力容器や格納容器の水密性はもはや保証できないと、IRSNは考えることにした。
原子炉の状態(特に燃料について)を叙述するために、東京電力と原子力安全・保安院は分析を行っている。原子炉の状態が進展するのに応じて、これらの分析を対象とした発表が行われており、今から数週間後には、炉心の実際の状態がよりよく理解できるだろう。
原子炉1号機の内部では、東京電力の運転作業員たちが原子炉建屋内に入り、圧力容器内の水位計を修理した結果、低い水位が続いていたことが判明し、燃料が圧力容器の底に落下したと思われるとの結論に至った。温度(摂氏110度)計測の結果、注水によって燃料は再び冷えて固まり安定したと、東京電力は結論づけた。
こういったことから、東京電力は次のように考えている。
・原子炉1号機の炉心にあった燃料の大部分は溶融し、圧力容器の底に落下した。
・現在は、注水によって炉心の冷却が確保されている。
・圧力容器内の水量は比較的少ないが、これは溶けた燃料が流れ落ちたと思われ、そのため圧力容器の下部に1カ所以上の割れ目が生じた[2]結果、そうなった可能性がある。
原子炉2.3号機についても同様に、東京電力は、ある程度の燃料が圧力容器の底に落下していることと、圧力容器に穴が開いていることの可能性を考慮している。東京電力は、さらに、3号機の原子炉建屋への通路を片づけるために、同建屋の周囲にある瓦礫の除去を進めた。これにより、例えば、建屋内の空気を浄化する装置・放射線の防護(鉛のパネル)・格納容器に窒素を注入する設備の設置や、水位計と圧力計の補充が可能となる。
燃料・圧力容器・格納容器の状態を推測するための、こういった諸要素によって、状況全体に対する評価が修正されるわけではない。実際には、燃料の冷却は注水によって確保されており、その一方で、窒素によって格納容器の不活性化が維持されているために、格納容器で水素爆発が発生するリスクが回避されている。これについては、格納容器に窒素を注入して不活性状態を保証するために現在行われている作業が、当面は、事態を確実に抑え込むために特に重要である。
いずれにせよ、施設の制御を回復するために東京電力がとったさまざまな行動によって、回復が進むにつれて、新たな要素が発見されるだろう。しかし、現地の対応を決めるために重要な、そのような要素を明らかにすること以上に、東京電力が公開したそれらの新たな諸要素により、環境に対するリスクの評価を見直さずに済むことが大切だと、指摘しておかなければならない。
いずれにせよ、1〜3号機の原子炉建屋内に入れるようになることが(高い被曝線量などのために、まだ非常に難しいが)、諸施設の制御を段階的に回復するための重要な段階となることには変わりない。
U.使用済み燃料貯蔵プールの状況
発電所内にある6基の原子炉の使用済み燃料貯蔵プール、および、使用済み燃料共用プールは、既存の装置や、蒸発を補うための外部からの水の供給(4号機のプールでは、通常は土木工事の作業でコンクリートの搬送に使われる、注入用アームによって定期的に供給を受けている)によって冷却されている。この現在利用可能な諸要素(プール内部の映像と汚染水の計測をチェックすること)により、保管された燃料には大きな被害はなかったという仮説が、確認されたことになる。その代わり、爆発によって資材がプール内に落下したため、プールにある燃料の撤去が複雑になるだろう。
建屋上部に置かれた原子炉のプールの構造の状態に関する主要な疑問だが、強い地震があった場合、プールにどのような変動が起こるか、現在のところ評価できない。東京電力は施設の制御を回復する計画の枠組みの中で、数カ所のプールの強化工事を予定しており、6月6日に、原子炉4号機のプールを支えるために、鋼鉄製の支柱を立てる工事を始めた。そうして、32本の柱が設置された。東京電力は現在、コンクリートを使用し、プールの補強を検討している。
V.放出物の現状
利用可能な諸要素の状態では、大気中や海洋への放出物を追跡しないことはできない。しかし、5月中旬に飛散した分を含めても、拡散した放出物は計測可能な水準にない。
原子炉建屋・タービン建屋の下部や地下のトレンチにある汚染水の除去は、主要な目標のままだ。これについては、米国(キュリオン社)の設計による装置と、フランス(アレヴァ)の設計による装置から成る、高濃度汚染水処理施設が運転を開始し、原子炉冷却水のリサイクルが可能となり、そのため、外部からの水の供給が抑えられ(現在、リサイクルされる水が14トンに対して、外部から供給される水は2トン)、それに伴う、汚染水が海に放出されるリスクも食い止められる。しかし、これにより、水処理施設が作り出す、高濃度放射能汚泥の管理が必要となる。
さらに、東京電力は、大気への放出物を食い止めるために、1,3,4号機の各原子炉建屋に巨大構造物を設置する予定だ。最初の構造物は、発電所外で組み立て作業が進行中だ。構造物は分解され、その後、1号機原子炉建屋を囲むように、再び組み立てられる。
最後に、風と雨による放射能の蓄積を抑えるために、土壌と建屋に固化物を噴霧する作業が続いている。
W.施設の制御を回復する計画
2011年4月17日、東京電力は、福島原発を危機から脱却させるための計画を示した。その計画は、短い期間内に2つの大きな段階をクリアすることを想定している。
第1段階は3カ月つづく予定で、残留性の高い放射線物質の放出を削減し、原子炉とプールの冷却を信頼あるものとし、汚染水の貯蔵場所を確保することを目標としている。計画が進んでいる例として、5月31日より、原子炉2号機の燃料プールの水が、循環システムによって冷却・濾過されるようになった(それまでは、外部からの水の供給によってのみ、冷却が確保されていた)。3号機のプールの水は、6月30日より、同様な循環システムが運用されている。7月2日より、原子炉1,2,3号機の圧力容器に、除染された水が再注入されている。
3〜6カ月目に予定される第2段階は、放射性物質の放出を抑えるために建屋の安全を確保し、原子炉を冷温停止状態に持ち込み、発電所にある汚染水の量を減らすことを目標としている。4号機のプールの構造強化作業や、1号機の原子炉建屋を覆う巨大構造物の組み立て作業などは始まっている。水素爆発のリスク防止を強化するために、原子炉1,2号機の格納容器に窒素注入が行われている。関連する建屋内の通路の状況を改善させた後、原子炉3号機でも同様の措置が、7月中旬に予定されている(掃除と片づけの作業が、ロボットを使って進められている)。
この緊急行動計画は、現在の状況に沿ったものだが、発表された期日はおおよその見当としか見なすことができない。特に、建屋内のさまざまな作業が進み、諸施設の実際の状況がよりよく把握されると、今後やるべき作業や、そのスケジュールがはっきりするだろう。現場で作業が行われる上での危険について、東京電力は規則に沿って注意を与えているが、放射線に関わる直接的な異常事象についてはそれができていない。
東京電力は、この行動計画を2011年6月17日に見直した。
いずれにせよ、高濃度汚染水を抑え込むことの他に、重要な行動の1つは、1〜4号機のプールに保管されている燃料を、できるだけ早く撤去することだが、これには少なくとも2年必要だ。やるべき作業が大掛かりになることを考慮すれば、諸施設の完全な解体と発電所用地の浄化には10〜20年かかるだろう。
[1]原子炉4号機は運転を停止しており、5.6号機は安全停止の状態にある。
[2]最近の要素を考慮し、東京電力は、4月17日に公開した、1号機の冷却を信頼あるものとするための、施設の制御を回復する計画の第1段階の工程表を見直した。実際には、1号機内の水位が判明し、当初予定されたような循環冷却機能が再び検討されることになった。また、圧力容器・格納容器の各内部の水位をより詳細に測定するために、新たな調査が始まった。
------------------------
(投稿者より)
7月6日にフランス・IRSNが公開した、福島原発の状況について分析した報告です。訳は適宜見直していますが、解釈に間違いや拙い部分はあると思います。ご容赦下さい。
6月10日以降の事態の進行をふまえて、今回の改訂が行われています。水処理施設の運転開始、循環冷却システムの稼働開始、原子炉建屋カバーの製作開始などです。ただ、IRSNは以前からメルトスルーに否定的な見解を示しており、これは変わっていません。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/204.html
01. 2011年7月12日 06:48:57: 6n1JYtzajM
相変わらず…、
>県衛生課によると、仮に東京都で見つかった11頭の中で最高値だった3200ベクレルの肉を100グラム食べた場合でも、0・00416ミリ・シーベルトしか被曝(ひばく)せず、胃のエックス線検査の144分の1に過ぎないという。
こんなデタラメを云っている公的機関!これじゃ国民の健康を守る気などないな。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/202.html#c1
01. 2011年7月12日 06:49:16: Xv65psv6gA
すばらしきアジア的世界。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/203.html#c1
21. 2011年7月12日 06:49:45: ocn3g61NTs
>>20で、説明が抜けていました。
雄弁な三井信雄専務が、次の仕事を貰う交渉を失敗し、一切貰えませんでした。
競合するラーレー研究所に全部流れる事になりました。
私は、交渉失敗分・・・たぶん、シリーズの5割程度の復活折衝を
仕事仲間から後押しして貰う予定でした。
椎名武雄社長派の石田清二取締役は、ラーレー研究所分も要求したようで
根こそぎ取ってしまいました。 貪欲さも酷いですが、OKした
米国IBM製造役員も、開発役員及び、両方を統括する米国IBM副社長も
現代の日本人から観ると、信じられないほど、義理堅い性格です。
輸入すべき、文化だと思います。 日本は失ってしまった義理堅さです。
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/746.html#c21
空からオタマジャクシをユニークな視点で捉えたブログ記事です。
日月神示で有名な『 子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場 』
の起点日を解くなど、結構面白いかも。
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1874.html
14. 宇宙一いい加減な博士 2011年7月12日 06:51:00: n4Wa2D7ip3fpM : FczAZaCmVs
こどもたちの未来を守る、ということは自分にとってはごく当たり前のことのように思えますが、不可視の世界を説く先生から見て、「この世にあって、すこしでも世の中をよくしていこうとすること」はどんな意味がありますか。
世の中が、平和になるのは、あなたの意識レベルが、向上した時だけ。
意識の高い人は、
人種差別、民族差別は、しない。
子供たち、大人も、誠実になる。
誠実な人が、武器を持ち、殺人は、しない。
正当防衛は、別問題ですよ。
原発事故で、住民は、モルモットだ。
数年したら、影響は、確実に出る。その時、責任者は、いない。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/481.html#c14
39. 2011年7月12日 06:51:48: 3g4Twz5NHQ
管理人さんの場合、
>(ryuubufanのジオログ)を1週間に1個以上転載してはならない。
38さんの受け止め方
>「1個以上」ではなくて、「2個以上」、もしくは「1個までしか」のまちがいだよね。
念のためw
管理人さんは、1週間に1個以上転載してはならない。
38さんは、、「2個以上」、もしくは「1個まで」のまちがいではないか?
管理人さんは週1個だけと限定していられますが
38さんは、希望的観測で週2個以上かもしくは、やはり週1個なのか
とお考えのようですし、複数の方も週1個は動かない線なのかと考えていられるでしょう。
管理人さんにおかれましては、決定時点では週1個限定でした。
そこのところを、週2個まで妥協していただく余地は残されていないのか
失礼ながら、管理人さんにお伺いします。
週1個までというのは、動かせない結論なのですか?
週2個までに妥協していただく余地はありませんか?
管理人さんに以上、お伺い申し上げます。
財政赤字削減問題はオバマ大統領が目指す今月20日前後の決着まで時間的な余裕がなくなりつつある。オバマ大統領は10日夜、「あと10日で決着できるのか」との記者団の問いかけに「そうしなければ」と答えた。事実上棚上げされる見通しの増税や医療改革など大きな争点がどのような取り扱いになるのかも注目され、緊迫した駆け引きが続きそうだ・・・
日本もアメリカも民主党は危機的状況のようで。
それにしても断末魔のアメリカはどうするのか?
■米財政再建、大幅後退へ 赤字削減幅が半分に
【ワシントン=矢沢俊樹】米財政再建を巡る超党派協議は10日、医療費削減や増税の扱いを巡る調整が決裂、当初目標にしていた10年間で4兆ドル(約320兆円)規模の赤字削減を断念し、歳出削減を軸に2兆ドル超を削る方向となった。8月2日に期限が迫る債務上限引き上げに向け現実的な金額で折り合う形だが、財政健全化の側面からは大幅な後退を余儀なくされそうだ。
野党共和党トップのベイナー下院議長が9日夜(日本時間10日午前)発表した声明で、財政赤字削減について「より小さな基準」を目指すと明言。4兆ドル規模の削減で合意するのは困難だと認めた。オバマ大統領は10日夜、ベイナー氏ら与野党の議会指導者との協議に臨んだが決裂し、11日に再び会談することになった。
共和党側は増税による財政赤字削減に反発しているほか、オバマ大統領が提案した医療費削減も不十分だと批判し、赤字削減幅の上積みを事実上拒否した。これに対し民主党側は「失望した」(リード上院院内総務)などと一斉に批判している。
もともと「10年で4兆ドルの赤字削減」は相当高いハードルで、一種の建前論に近い。減税を公約に掲げる共和党に対し、オバマ大統領は富裕層向けを中心とした最大1兆ドル規模の増税を死守する姿勢を崩していない。一方でオバマ大統領は土壇場で年金にまで切り込む姿勢を見せ共和党側の理解を得ようとしたが、これには身内の民主党内からも批判が噴出し、強行すればさらに混乱する恐れもある。
両党とも来秋の大統領選を前に譲歩する機運には乏しく、ひとまず増税や医療改革といった争点への深入りを避ける方向に傾きつつあるとみられる。
財政赤字削減が決着すれば、共和党の主張に沿ってそれと同じ金額だけ連邦債務上限が引き上げられることになっている。両党は最終的に赤字削減幅について、大統領選を乗り切れる2兆ドル超への積み上げを目指すとみられる。
これまでの与野党協議では赤字カットについて、歳出削減を中心に2兆ドル近い数字を積み上げているもようだ。こうした下地を基に合意できれば債務上限引き上げという当座の危機をしのぐことは可能になる。
財政赤字削減問題はオバマ大統領が目指す今月20日前後の決着まで時間的な余裕がなくなりつつある。オバマ大統領は10日夜、「あと10日で決着できるのか」との記者団の問いかけに「そうしなければ」と答えた。事実上棚上げされる見通しの増税や医療改革など大きな争点がどのような取り扱いになるのかも注目され、緊迫した駆け引きが続きそうだ。
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/381.html
02. 2011年7月12日 06:54:02: G0gRwWJF4w
胃のエックス線検査は外部被ばくで
肉を食べるという事は内部被ばくであり、まったく異なると思うが
まだ、そんな騙しですか
因みに、セシウムは筋肉に蓄積されると思うが
何日で体外へ排出されると考えてのことだろう。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/202.html#c2
01. 2011年7月12日 06:54:23: Xv65psv6gA
>突然、トラックが家に飛び込んできて、自宅が壊れ、それが原因で家族が亡くなったにもかかわらず、その賠償金の一部を被害者が支払わなければならないようなものです。あなたもトラックの恩恵を受けてきたはずだ、だから賠償を分かち合って欲しいと言われてどう答えたらいいのでしょう。
まさにそのとおりです。事態が深刻なのについ笑ってしまいました。
なお、電力の自由化はまた別の問題、外資の問題なんかを含むのでちと不安がありますが、とりあえず日本でも、原発の是非を問う国民投票ってできないんでしょうかねえ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/198.html#c1
02. 2011年7月12日 06:54:45: LaANvwEBcc
言論の自由を守るために民主主義勢力が電通を潰せないのであしょうか?。民主主義勢力は西欧。アメリカなどの精神的支援も期待できます。なぜ、電通という一民間会社に抑圧されるのですか?。たたかつて言論抑圧の電通を日本から追放すべきです。
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/127.html#c2
15. 宇宙一いい加減な博士 2011年7月12日 06:54:45: n4Wa2D7ip3fpM : FczAZaCmVs
これらがなければ、社会をよくすることなどできないですよね。
まず、あなた自身の意識を、よくせよ。
そうすれば、社会は、おのずと、良くなる。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/481.html#c15
空からオタマジャクシをユニークな視点で捉えたブログ記事です。
日月神示で有名な『 子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場 』
の起点日を解くなど、結構面白いかも。
http://blogs.yahoo.co.jp/martingood0323
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1875.html
03. 2011年7月12日 06:56:48: 28laF0x7YA
こんなコメントも。
tanasi_19980608 takasi tanaka=manaka jamamuyoがリツイート
大体、ストーカーから狙われた経験のある人しか分からない世界なう。ストーカーはしつこいからストーカーと呼ばれるなう。諦めるのが早ければ社会問題にはなってないなう。人を脅迫するだけで医者から金を貰っていると自慢話が合ったなう。園児なんて10円でもするはずなう。小学生は50円〜なう。
06. 2011年7月12日 06:59:11: 6n1JYtzajM
あれ?安斎さんもこんなこと云っているの?
安斎氏のコメントを記者が端折ったんじゃないのか?
人体で排出される天然放射性カリウムと蓄積されやすい人口放射性セシウムを同等に扱う不合理など、日共系の安斎氏が忘れるとは思えないが…。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/200.html#c6
03. 2011年7月12日 06:59:22: LaANvwEBcc
2>「電通を潰せないのであしょうか?」は「電通を潰せないのでしょうか?」の誤字です。よろしく。
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/127.html#c3
16. 宇宙一いい加減な博士 2011年7月12日 07:01:32: n4Wa2D7ip3fpM : FczAZaCmVs
と、いうのはですね、最近はあまりお目にかかれなくなったけど、テレビに出てくる、「御用学者」らが、「科学者」とうい札を付けているけども、どうも科学的でないように思う今日この頃なんです。つーのは、まあ「事実」を認めないような感じ。
科学者は、知っている。それ程、バカではない。
いいですか、しかし、御用聞きは、
カネ、地位、名誉、ひも付き(爆笑)、なのだ。
村八分にされるのだ(爆笑)。それが、怖いだけ。
しかし、科学者の自分の子どもが、死んだら、そうは、いかない。
けつまくる科学者が、出てくる。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/481.html#c16
「脱原発」訴え被爆者らが座り込み / 被爆者団体が玄海原発再稼動に反対の申し入れ
http://www.youtube.com/watch?v=YaxE_bP5Ec8
「脱原発」訴え被爆者らが座り込み
被爆者団体が玄海原発再稼動に反対の申し入れ
http://www.ktn.co.jp/news/2011/07/11/
http://megalodon.jp/2011-0712-0608-53/www.ktn.co.jp/news/2011/07/11/
長崎市では被爆者団体などが脱原発を訴える座りこみを行ない、
福島から駆けつけた小学校教諭が現地の現状を報告しました。
座りこみを行ったのは県高齢者退職者問題連絡会や平和運動センターなどで
爆心地公園に被爆者などおよそ200人が集まりました。
エネルギー政策を見直すことで放射線被害を巻き起こす原発事故を
なくすことができ、安心安全な社会にするために
長い時間がかかっても脱原発の運動を進める必要があると訴えました。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/205.html
31. 2011年7月12日 07:04:52: i37fD8kRRc
子どもの被曝量を1年に20ミリシーベルトまで良いと文部大臣が言い、それを支持したいわゆる「専門家」や「その道の権威」が多く出現しました。
しかし、20ミリシーベルトというと、1年に400回の胸のレントゲンに当たりますから、毎日、毎日、胸のレントゲンをとる放射線量より少し多い被曝になります。
引用先 ⇒ http://takedanet.com/2011/07/post_5d71.html
山の下のマルタ小屋にお住まいのメレンゲ?教授も「その道の権威」の象徴的人物ですね。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/159.html#c31
08. 2011年7月12日 07:07:28: vzIwaLzDyg
接続部分がこわれただと?
塩ビ製品でごまかしただと?
どこの何奴が作業をしているのだ。
初歩の間違いどころじゃー無いだろう。
なんにも解決出来ない責任はやっぱり東電と政府が取るしかないな。
保安院がいたいた。隠すだけで国民を愚弄する嘘つき三羽ガラスだ。
最高の技術力の有る日本の職人を活用もしなかった付けが此処で現れた。
アメリカの技術?フランスの技術かい?
莫大な金を、平気で請求していたよな?
良い国なんてはじめはおもっていたけど、とんでもない!4ヶ月たっても未だ、ボロミスかい?
解決出来ないなら、直ぐ棺桶の蓋を造ってとじてしまえ!。
幼稚な指導者ばかりめ!
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/155.html#c8
01. 2011年7月12日 07:07:58: UHLQXBAoMA
この外人は業務上致死、横領、立てこもり犯で逮捕できないか?
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1869.html
投稿者 減税庶民 日時 2011 年 7 月 11 日 15:13:24: ml.TOVc1WOTN6
(井口博士より転載)
みなさん、こんにちは。
今や日本政府は、傀儡政権どころの騒ぎではない。官邸に巣食った「謎の米人政治家」の指図を受けて動く、「奴隷政権」に成り下がったのである。その「謎の米人」がだれか?、ということを、副島隆彦氏の門下生の「あるる君」なる人物がついに突き止めたという。その米人とは、「デイヴィッド・B・ウォーラー」という政治家(科学者ではなかった)であるという。
棺邸に居座る謎の米人?2:大震災後の日本はハイチと同じ!甘く見られたもんですナ!
今回の福島原発の初動の失敗、その後の東電の活動の全部が裏目に出て、ついに爆発。数千万人に被爆被害を起した、バカ指揮官がこやつだったようですナ。こいつは科学者じゃないから、細かいことが分からない。偽ユダヤ/アングロサクソンの白人エリート典型の「お指図型政治家」にすぎないようですナ。「業務上過失致死罪」で、こいつを訴えることは可能だろう。
この人物のインタビューをYouTubeで見つけたので、これをここにもメモしておこう。以下のものである。
Deputy Director General David Waller on the 53rd IAEA General Conference
(この手の組み方を見る限り、典型的なイルミナティー/フリーメーソンですナ。)
この人物は2m近い巨人の金髪碧眼なので、歩いていたらすぐに分かる。こいつを見たら「ファックユー。お前のせいで日本はめちゃくちゃだ」と言ってやれ!
まあ、物理の分からん奴はさっさとお引き取りしてもらったほうが得策だろうヨ。スリーマイル時代の老科学者もいっしょ。もう時代が違う。役には立たないだろう。アメリカ人にはお引き取りしてもらい、小出博士や武田博士、菊池洋一氏などのチームジャパンを組んで、本気で対策を考えない限り、せいぜい商売のネタにされるだけのことで、放射能問題は決して解決できずに終わるだろうナア。
32. 2011年7月12日 07:08:34: Xv65psv6gA
>30さん
山下教授のパンフを見ましたが、やはり、内部被曝についての配慮というものがあまり感じられませんね。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/159.html#c32
17. 宇宙一いい加減な博士 2011年7月12日 07:12:11: n4Wa2D7ip3fpM : FczAZaCmVs
難しいことを、難しい言葉で、専門用語で、書くのは、
その道の学者なら、誰でもできる。
さらに、不可視の道は、
秘密の、アッコちゃん、なのだ(爆笑)。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/481.html#c17
反原発の東京新聞だけを購読しょう!
2011年07月11日
〔原発マネー〕東京新聞への「経済制裁」「経済封鎖」が始まった可能性
tetsuya kawamoto
https://twitter.com/#!/xxcalmo/status/90097483656609792
仕事の合間に7/10の東京新聞を手にして驚いた。企業広告を見渡してみて、大手企業のものが一社もないのである。あるのは小さな企業の広告と、出版会社のものばかり。読売が経団連会長・米倉氏の古巣の住化含む、主要化学メーカーの合同見開き広告を出したりするのと大違いだ。
tetsuya kawamoto
https://twitter.com/#!/xxcalmo/status/90097522655240192
各新聞の広告料には格差があり、朝日が対効果ゆえ高額などといわれていた。東京新聞がさほどでないことはわかる。ただ、大手企業がひとつもないこの広告内容は異様だ。反原発路線ゆえ、原発依存を旨とする主要大企業からの出稿制限がかかっていることが容易にみてとれる。
tetsuya kawamoto
https://twitter.com/#!/xxcalmo/status/90097719225483264
東京新聞は、新聞経営のいちばんの泣き所を責められてるんじゃないのか。もしそうとすれば、メディアの良心を発揮して、ここは何とか持ちこたえてほしい。
tetsuya kawamoto
https://twitter.com/#!/xxcalmo/status/90112395158097920
件の東京新聞7/10の広告だけど、出版広告除けば自社の旅行企画、静岡茶(‥)、関学の講座(えらい)、ボリショイサーカス、幸福の科学(何でや)、印鑑、抒情歌CD、道志温泉、青梅の料理屋さん、無名の男性カツラ屋、お葬式屋さん、んで、全面広告は災害に強いカメヤマローソクだっ。東京新聞
郵送は03−5226−5450まで
小出氏の言葉より
「原発はトイレのないマンション」
(飯山一郎より)
この三ヶ月間で,私は,約300人の方々と電話で話をさせてもらった.
長電話を嫌う私だったが,相手によっては2時間,とことん身の上話を聞いた.
そうして放射能が降る街で生きる普通の庶民の絶望と希望を知らされた.
飯山先生,きょう,私は夫に「放射能キチガイ! 離婚だ!」と言われました.
6才の子供は「放射能で死ぬから外に出るな!が口ぐせのママは嫌だ」
と言って家に残ることになりました.
私が勤めている間,子供は舅や姑と一緒に近所の公園で毎日砂遊びでした.
私の一人息子の被曝は深刻です.それは鼻血で分かります.
私は諦めました.家を出ようと思います.
飯山先生,私,5才の娘だけは,何としても守ろうと決心していました.
でも,家の都合で,福島から離れられないのです.
先々週から,娘も私も激しい下痢で,トイレの奪いあいでした.
仕方がないので,私は,浴室で用をたしました.
そのうち,私は体力がなくなり,気力も失せて,娘を守る自信がなくなりました.
病院でもらった下痢止めも全然効きません.
飯山先生,私,どうしたらいいでしょう?
こういう私の話を聞いて,
「最近の飯山のブログは,読むと気が滅入る!」
というヒトがいる.気持ちは分かる.
しかし私は,
「こんなことで気が滅入るようでは,現実が見えてこんぞ!」
と言いたい.
私は,気が滅入るようなことも書いているが,その解決策も必ず書いている.
放射能地獄でも,希望の光はある!
と具体策を提案し続けている.
『浴室を放射能ゼロの安心空間にする!』 という記事の反響は凄まじく,
「これで生きていける!」
という感激の電話をいただいた.
絶望の渦中にあっても,何とか知恵をしぼって,活路と希望を見いだす!
この精神でいこうぜ!>みんな
12. 2011年7月12日 07:15:40: 4iCmrqWa6Y
電気予報だと、後から後からでてくる真実に九電やらせメール誰ららが信じるか、東電の株主総会の原発賛成多数も間違いなくサクラ配置のやらせ、テレビは全てやらせの情報操作、電力不足ならテレビは放送しないこと、ラジオで十分。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/175.html#c12
08. 2011年7月12日 07:20:24: iGs5H3qEUE
日本列島で今おきていることと、チェルノブイリ事故以降のドイツやフランスを比べるのは、ずれている。
距離的にいえば、西ヨーロッパは九州沖縄朝鮮半島以南になるので、注意もこの程度ですんでいます。首都圏はウクライナのキエフあたりになるでしょう。とても、この程度の注意では、深刻な健康被害を免れないのでは。
18. 2011年7月12日 07:22:56: Xv65psv6gA
さっそくご回答ありがとうございます。やはり、コメントをいただくとうれしいものです。お互いに、朝が早いですね。結構年配の方ですか?いや、失礼しました。
極めて、興味深いご回答をいただきました。
>まず、あなた自身の意識を、よくせよ。
そうすれば、社会は、おのずと、良くなる。
これは、どう解釈すればいいのでしょうか。
つまり、「私=私たち」の意識が向上すれば、その人数に応じて、いわば直線的に比例的に社会がよくなるのか。
あるいは、
私個人の意識が向上すれば、「私一人」の社会=私の世界がよくなるのか。
もし、後者の意味であるならば、博士にとっての社会には、もう、問題はないのでしょうか。
「私の世界」と「博士の世界」は共通なのでしょうか。違うものなのでしょうか。
どうも量子論のお話しと関わってくるように思えますが、極めて興味深いです。先生とお話しができて楽しいです。よろしくお願いします。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/481.html#c18
19. 2011年7月12日 07:24:32: Xv65psv6gA
先生、その(爆笑)というのは、先生の品位を下げてますのでやめた方が言いと思いますよ。
即席不安定な弟子より
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/481.html#c19
48. 2011年7月12日 07:26:32: Hyqh2dkIA4
>>43
アンチ・副島のサイトを御自分達でお作りになって、やられたらいいと思います。
阿修羅のカルト板は元来そうした主旨のものでなかったのに、ぺリマリ君とカネゴン君は迷惑です。勘違いが過ぎます。くだらない、としか言えませんな。
>>46
賛成!副島さんや、幼稚園の時の先生への呪詛は、個人的なサイトでしたらよろし!
おいらは外野。その立場から眺めると、ぜんぜん迷惑ではないし、くだらなくもない。むしろ副島VSアンチ副島は見どころ満載である。どんどんやってほしい。今や言論界に影響力を誇る副島言説に、はたして妥当性はあるのか、何が問題なのか、これらを明確にするためにも、大いに議論を戦わせてほしい。
まあ副島関係者以外、「迷惑」などと感じることはないだろうし、副島への批判を「呪詛」とごまかす者はいないだろう。興味・関心がなければ、読まなければいいわけだからな。あえて「くだらない」などとそれこそ「くだらない」コメントをつける43や46が、学問道場の会員か副島の弟子と見なされても、いたしかたないだろう。
アンチサイトを作るのもよいかもしれぬが、そんなものは所詮、遠吠えだ。
天下の公道、衆目に晒される阿修羅の場で、殴り合うことに意義がある。ディアレクティカは、古来産婆術だ。お互いスレを出し合い、叩きあい、スレを伸ばすことによって、何か新たな価値に到達できれば、これ幸いではないか。
喧嘩上等で売り出した副島隆彦。
その感化・薫陶をうけた弟子たちよ。
逃げるなよ。
Cu'mon.
まさか、副島カルト、あっ、ごめん、副島スコレ(学派)は他流試合を禁じているのかな?カネにならないから?
40. 2011年7月12日 07:26:56: JPFqiFVmJ2
39さん
38さんは週一個以上だと週に一個も転載できない。
八日に一個になるのではないか。
だから週に一個までの書き間違いですよね。
と確認しているだけだと思いますが。
前段はまともなのに、なぜ後段で珍解釈になったのかが
よくわかりません。
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/137.html#c40
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その7
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (8)ー2
●「長州ファイブ」とワンワールドの関係
江戸時代主として民営であった造幣事業は、近代国家では民営は馴染まないが、ここにもワンワールドの匂いが濃厚に漂う。大阪造幣局の起源は明治元年の貨幣司で、翌年2月に造幣局となり、知事に甲斐九郎が就いた。3月には大蔵省造幣寮となり、4年に操業を開始し、10年に造幣局と改称される。造幣印刷機はイギリス製で、それを香港から買い付けてきたワンワールドの政商グラバーが、造幣技術の指導のために香港印刷局長ウイリアム・キンダーを引き抜いてきた。キンダーは元陸軍少尉で、れっきとしたメーソンである。政府はイギリス系の東洋銀行に造幣工場の運営を委託し、キンダーを工場長とした。
長州ファイブの一人遠藤謹助は天保7(1836)年の生まれ、井上勝よりも7年の年長で、文久3年の密航時には27歳であった。英国では化学と造幣術を学んだが、肺結核のため慶応2年に帰国した。同年に行われた英国のキング提督と毛利敬信父子との会見では、井上馨とともに遠藤が通訳に当たった。明治元年に兵庫運上所司長を拝した遠藤は、翌2年3月に退官するが、10月には民部省に入って通商大佑に就き、3年6月には通商権正に昇進した。
明治4年9月から5年2月までの半年間と、明治6年6月から10年1月までの3年半の間、造幣頭は不在で、御雇い外人キンダーが工場長として工場運営を任され、日本側の実質的なトップは造幣権頭の遠藤であった。明治3年11月に造幣権頭となった遠藤は、7年7月にキンダーとの不仲から造幣局を去るが、その直後に政府に建白し、東洋銀行との契約を解除せしめ、且つキンダーを解雇せしめた。
遠藤は14年11月に造幣局長として復帰し、、以来制度の変遷で官名が変わることがあったが、26年6月まで12年間、実質的に造幣局長の地位に在り、権頭時代を含めると16年にも及ぶその経歴はまさに「日本造幣事業の父」と呼ばれるに相応しい。
造幣局発足時からの歴代トップ(造幣頭・造幣局長)と遠藤謹助との関係は表の通りである。表に見る通り、のほかには井上馨、伊藤博文、井上勝と、長州ファイブのうち山尾を除く四人までが造幣事業に携わっている。長州ファイブ以外の造幣頭(局長)は、馬渡悛偶・石丸安世と数日間だけの大野だけであるが、三人とも人名辞典に名を残していない人物で、経歴は分からない。長州ファイヴとワンワールド結社との関係は今から他書により証明されるだろう、本稿では深追いしないが、造幣事業がワンワールドの範疇にあるのを、右の人事は示唆していると思う。
郵便事業も江戸時代は民営の飛脚であった。明治4年7月29日、大久保利通の推薦により和歌山藩から浜口儀兵衛を召して初代駅逓頭とした。浜口の着任早々の8月15日、前年6月から欧州視察に出ていた駅逓権正・前島密が帰国し、浜口の郵便事業に対する見解を問う。浜口が民営を論ずると前島は激しくこれを反駁、大蔵大輔井上馨に自らを駅逓頭とするよう直訴し、8月17日を以て二代目に就いた。浜口は故山に帰り、紀州藩大参事となる。前島は新潟人だが、これを見ても長州ファイブの系列に属する帰化長州人というべきであろう。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)−3
●「翔ぶが如く」の典型というべき樺山資紀
上原勇作応援団の一人たる樺山資紀は、天保八(一八三七)年に薩摩藩士橋口家に生まれた。野津道貫より四歳、高島よりも七歳の年長の樺山は、幼名を覚之進と称した。生来剽樺な気質で知られ、その一端は津本陽の小説『薩南示現流』に記されている。すなわち、薩摩の若手侍が連れ立って京の市中を徘徊中、新撰組に襲われた時、朋友を見殺しにしてその場を逃れた同輩の首を、朋友の葬式の場で、橋口が一刀で断った話である。因みに、司馬遼太郎作のテレビドラマ『翔ぶが如く』は、川路利良を主人公とし、薩摩男児の言動を活写したものと言われているが、このドラマのタイトルこそ高鳥鞆之助か薩摩男児を形容した言葉である。
島津藩兵として二番進撃隊に属した樺山は慶応三年、禁裏守衛のために上京する。その際、京の薩摩屋敷を支配する吉井幸輔(友実)から女中頭吉薗ギンヅルを引き合わされたものと思う。戊辰親争の勲功で覚典禄八石を下賜された樺山は、西郷隆盛が行った献摩の藩献改革に参加し、明治二(一八六九)年六月加世田郷地頭(代官・後の郡長)に親くが、二年後に御親兵献進のことが起こる。
御親兵とは、明治四年二月に薩摩・土佐・長州の三藩が藩士を献進して明治政府直轄の兵力としたもので、廃藩置県はこの武力を背景に実行されたのである。同年四月、国内治安後持のために要地に鎮台を置くことになったが、鎮台兵には御親兵の一部が転じたが、ほかに全国の士族から志願兵を募った。これを「壮兵」という。四月に津山鎮台(石巻) ・西海鎮台(小倉)を置いたが、八月にはこれを廃して東京鎮台・大坂親台・鎮西鎮台(熊本) ・東北親台(石巻)の四鎮台とした(鎮西鎮台は五年四月熊本親台に、東北鎮台は六年一月仙台鎮台に改称された)。その一方、五年二月に近衛条例を制定し、天皇に直属する近衛都督の下に近衛兵を創設し、壮兵だけを以て編成した。六年一月制定の徴兵令による徴兵はすべて鎮台に配置され、近衛兵は壮兵だけを配備したので、両者は別系統である。
御親兵の献進に際して、薩摩藩では歩兵四大隊、砲兵四隊が上京する。野津兄弟や高島鞆之助は上京後だが、西郷は国元に残す常備隊の大隊長として、樺島を残した。四年八月、前進のように熊本に鎮西鎮台が置かれると、常備兵一大隊は鎮西鎮台に吸収され鹿児島弟二分営として編成されたので、大隊長樺山資紀は分営長に横滑りした。その辺りを『大日本人名辞書』には「九月二十七日付で大隊長となり、初任少後、鎮西鎮台の鹿児島分営長に輔せられ、五年に「大貳心得を拝す」と記す。親台は後の旅団(その後師団)に、また分営は後の部隊に相当する。鎮西鎮台には熊本本営のほかに広島の第一分営と鹿児島の第二分営があり、分営司令官の官名は大貳だが、分営長とも呼んだらしい。相当階級は中佐で、樺山の場合大蔵に「心得」が付いたのは、階級が少佐だったからである。
さて、次章のタイトルは、
●<並々ならぬ機微がある「征韓論」と「征台論」>
であるが、言い得て妙なるものだと思うし興味津々の一章。
あの、松岡正剛も近著『日本という方法』(NHK出版2006.9.30)で、めずらしくこう述べている。
「・・・ある大学の情報系の研究所で日韓関係の話題になったとき、・・・日清戦争前後の事情を説明した。・・そのとき「なぜ西郷が征韓論を唱えたかの説明がつかない限り、日本の近現代史は何も解けないですよ」といったことを口走りました。
・・・私もいまなお西郷が征韓論に追いこまれたことを簡潔に説明できないのですから・・・」
松岡氏には是非本稿にアクセスいただき、その編集力で、提議される「事実」の統合の力業を示してもらいたいものだ。「簡潔」にでなくとも結構、存分に「征韓論」を論じてもらいたい、と言っておこう。
以前本<読書日記>には次のような「檄」というか「ジャブ」と言おうか、落合氏からのコメントがあった。・・・
気付きにくいとこだろうから、あえてここに記す。
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-163.html#comment29
★ 加地氏(註:加治将一氏のこと)についてはよく知らないが、文筆界に登場のしかたと、著書の内 容からするとワンワールドから発信方に任ぜられたと感じる。簡単な愉快犯と見るべからず。
フルベッキ写真の原本は元来、古野直也氏の所有と本人から伺い、大室寅之佑にかんする共著を申し出られたが、当時はフルベッキ写真について疑義があり、お受けしなかった。
日蓮曰く、もしは信もしは謗、ともに仏道を成ぜんと。論駁大いに楽しみにしてます。
【2007/07/10 07:06】 URL | 落合莞爾 #- [ 編集]
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)−4
●並々ならぬ機微がある「征韓論と「征台論」
明治六年の政変は、西郷隆盛らの征韓論を大久保・岩倉・木戸らが封じたために生じたものである。征韓論と言うが、表面で争われたのは『国交を促す大使として西郷を朝鮮国に派遣する事の可否である。むろん、西郷を派遣して朝鮮王に開国を説かせれば、因循な朝鮮朝廷と重大な外交紛争が生ずることは想像に難くなかった。その西郷派遣はすで勅裁を得ており、ただ岩倉団の帰還を待ち、彼らに報告したうえで実行する段取りであったが、太政大臣三条実美が優柔不断でそれを押し通せなかったので、争論となった。薩長出身の高官たちは、どちらが正しいかは容易に判断できず、殊に第二級以下の人士はどちらに付くべきか分からず、右往左往した。薩人には、やがて西郷が官職に復帰するものと考えて、現職に止まっていた者も多かった。
この問題には並々ならぬ機微があるように思う。岩倉・大久保らの主旨が内治の改良を優先することにあったのは、蓋し岩倉使節団を編成して欧米を巡察してきた結果とされている。しかしながら、本当を言えばワンワールド首脳の意思が介在したのではないか。そもそもフルベッキが企画・周旋した岩倉使節団の真の目的は、岩倉・大久保・木戸以下の顕官が欧州各所のワンワールド拠点を訪れて秘かにその首脳にお目見えすることであった筈だ。そして旅行の途次、東京で征韓が論じられているのを知ったワンワールド首脳から、岩倉・大久保に対して、朝鮮問題に関する何らかの指示がなされたのではあるまいか。
当時の政府は、朝鮮問題のほかに台湾問題・樺太問題を抱えていた。台湾問題は、明治四年、台風により琉球御用船が台湾に漂着し、乗組員が原住民に虐殺された牡丹社事件に始まる。政府は清国に賠償を求めたが、琉球国は薩摩藩に属しながら清国にも朝貢していたので、清国は琉球人を日本国民と認めなかった。事件の根底には琉球の帰属問題が横たわっていたのである。そこで琉球国の宗主国たる薩摩藩から台湾征討が提議され、鹿児島県参事大山綱良も明治五年九月、台湾への軍隊派遣を提言した。樺山少佐は、熊本鎮台鹿児島第二分営大貳心得の身でありながら、積極的に暗躍策謀し、薩摩出の政府高官に建議した結果、十一月に樺山自身の清国・台湾視察命令を取り付けた。これを契機として樺山は以後台湾関係に精通することになる。
征韓派を一掃して実権を握った大久保利通が、内治改良を優先するためとの口先と完全に矛盾する台湾出兵に追い込まれたのは、伊藤痴遊の「明治裏面史」によれば、下記の事情があった。
西郷が参議を辞して薩摩に帰ったが、西郷が薩摩から連れてきた邏卒隊は東京に残って、公安警察業務に服していた。のちの警視庁に相当するものである。監督の坂本常光は素より西郷信者で、参議・黒田清隆に対し「費用と兵員が問題で征韓論を封じたのならば、我輩に許可を戴ければ邏卒隊を率いて独力で朝鮮を征服してくるから、是非再論議して貰いたい」とねじ込んだ。黒田が「樺太問題こそ焦眉の大事で、放置は許されない。朝鮮を討つ余力があるのなら、むしろロシアと事を構えるべきである」と応えたのは、実のところ樺太問題の処理については、すでに政府内で方針が定まっていたのに、嘘をついて坂本の鋭鋒を樺太に向けさせたのである。諸事他端な折、邏卒隊が遠征するなど到底不可能な情勢が黒田にこの嘘を言わしめたものである。これを怪しんだ坂本は黒田に同道を求め、二人で外務卿・副島種臣に会見するが、副島は黒田の嘘に同調しなかった。そこで坂本は大久保に会い、「西郷の復職か自分の朝鮮征伐のいずれかを認めよ」と迫るが、大久保は取りあわない。すると坂本は、岩倉から「西郷の下野は病気のためだから仕方ないが、朝鮮征討については考慮中だから近日政府方針を発表する」との言質を取り、それをメモにして岩倉に確認を求めた。このメモが台湾征伐の原因となった。
西郷の今後と征韓諸の先行きを案ずる薩摩健児たちを、坂本が静めて回ったのは、このメモを信じたからであるが、一向に事態は進展しない。業を煮やした坂本が大久保を詰問すると、大久保は「先日、岩倉が応えたのは征韓ではなく、征台の事だと思うが……」と言いだした。メモに征韓とあるのを見せても、「いや、これは聞違いじゃ」と言いだし、「事によると台湾征伐をやるかも知れぬ」と言うので、坂本はそれなりに納得した。しかしながら、台湾征討のことも進展しない。大久保は六年二月から副島外務卿を清国に派遣したが、談判は要領を得ず、七月に空しく帰ってきた。清国政府は福建省附属の行政機関として台湾府を置いていた台湾鳥を「化外の地」と説明したが、これは台湾を清国の実効支配の及ばない無主の地と宣言したに等しい。西郷派と長州人に挟撃されて苦しい国政運営のなかで、大久保はしだいに台湾征討の腹を固めていた。
六年の歳末、坂本は再び大久保を訪ねるが、大久保は「その時機には沙汰をするから待て」としか言わない。七年三月になっても大久保が確答しないから、坂本は決心し、薩摩から連れてきた三百数名の邏卒を率いて、政府に辞表を出した。大久保はじめ、黒田や西郷従道が宥めても聞かず、薩摩へ引き揚げてしまい、ために市中に邏卒の姿が消えた。
台湾征討を決意した大久保が閣議に諮ると、参議木戸孝允が「朝鮮出兵を否定しながら台湾征伐するのは矛盾ではないか」と非難するなど、政府部内でも反対が強まった。
長州の第二級高官すなわち山田顕義、島尾小弥太、三浦梧楼などが木戸を支援して動き回る。
ここに於いて、征台論は前年の征韓論とまったく同じで、薩長間の政争となった。すると陸奥宗光ら野心家が機会に乗じて薩長の離間を計り木戸を煽り立てたので、木戸は七年五月、参議兼内務卿を辞職する。代わって内務卿に就いた大久保は木戸の反対を無視し、七年四月、西郷従道を陸軍中将に任じ、台湾蕃地事務都督(征討軍司令官)に袖した。西郷従道は樺山資紀を従えて長崎に至り、出帆の準備をした。薩摩に帰っていた坂本は同志を集め、義勇兵を組織して都督西郷従道の部下になった。
木戸の辞職により政府部内で政争が起こり、台湾征討を機会に大騒乱に発展する虞が生じたので大久保は五月三日、計画の延期を伝えるため長崎に行くが、西郷はその前に独断でさっさと出航していた。尤もこれには、予め大久保との間に密約があったとの説がある。昨年の征韓が駄目なのに今年の征台が良いとは理屈の通る話でなく、やはり征韓に限ってワンワールド側から抑止指令があったと見るしかあるまい。それとも、大久保が独断で敢行した台湾征伐は、ワンワールドの指令に背いたものだったのか?
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)−5
●台湾征討軍から始まる
谷千城・樺山資紀コンビ
明治七年五月七日、征討軍の第一陣が早くも上陸し、西郷都督も二十二日に上陸した。以後、総勢三千六百名の兵員が、悪天候と風土病に悩まされながら、原住民を制圧した。六年六月、大久保は清国に乗り込み、談判の後で清国から償金五十万両を得たが、うち十万両は被害弁償金で、同十万両は軍事賠償金だが全戦費の一割にも満たなかった。しかし大久保は、十万両を被害者の遺族に与え、四十万両は清国に返還した。理田は「化外の民たる生蛮の行為について、清国政府が責任を認めたことに満足した日本政府は軍費を清国に負担させることを是とせず、この金は返還する」というもので、各国外交官の賞賛を得た。
台湾征討軍の司令官(台湾蕃地事務都督)は西郷従道中将、参謀長(台湾蕃純再務参謀)が谷干城少将、その下に樺山少佐がいた(中佐進級の時期は未詳)。海軍では海軍少将川村純義が蕃地事務局出仕に補せられた。土佐藩きっての武人とされた谷は樺山とは同年(天保八年生まれ)で、少時江戸に出て安井息軒に学び、幕末は国事に奔走し、戊辰戦争で功績を挙げて賞典録六十石。同年春の三藩の御神兵献進に加わり初任陸軍大佐、五年九月二日に陸軍少将に進級した時は三土六歳の若さであった。六年に熊本鎮台司令長官に就いた谷は、七年春の佐賀の乱を鎮圧した後、五月には台湾征討軍のナンバー・ツーとして出征した。
八年六月、凱旋した谷は熊本鎮台司令長官を辞し、後任に野津鎮夫
少将(道貫の兄)が就いた。ところが、野津の後を受けて九年六月司令官となった種田政明少将は、十月二十四日の「神風連の乱」で戦死する。十一月九日付けで谷が熊本鎮台司令長官に再任され、これに先立つ十月二十九日に樺山中佐が熊本鎮台の参謀長に補せられていたので、台湾征討軍における谷・樺山コンビが再び出現することとなった。
***(8)−5、完。
15. 2011年7月12日 07:33:13: yAZZCLUgJo
村井知事はどうして復興会議のメンバーに入ったのか疑問だった。
復興会議の趣旨は、増税を目的としており、スムーズな徴税システム構築も目先にあったのではないか。
漁業権を民間企業に開放する考えは、>>012さんのご指摘の思想に基づくものでしょう。
復興を企業誘致とすりかえたところに、論理の飛躍がある。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その8
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(9)
●民俗・集合(団)を越えた集合(体)であり 多くの代名詞(呼称)を持つ
私見によれば、ワンワールド戦略の淵源は古代オリエントに発祥した。元来シュメル人が立てた世界戦略で、ヴュルム氷河期以前からの旧種人類たるシュメルは、自らの体質的弱点を補うため、シュメル女に身体頑強なセム族長の子を生ませた,そのアブラハムを混血民族ヘブライの始祖とし、これにワンワールド戦略を受け継がせて、自らは姿を隠した。カナーンに定住した後、ヘブライは一神教のユダヤと多神教のイスラエルに分かれた。ユダヤは遊牧民族で、日常哺乳動物を殺害して食することに原罪意識を持ち、唯一神に救済を求めた。イスラエルは農耕民族で、万物に精霊の宿るを感じて多神教を奉じた。しかし、両支族とも基本的にはワンワールドの戦略を保持したのである。
アッシリアに滅ぼされた★イスラエル支族は東方に流移し、その末端は日本に至る(海部・物部・秦氏)。また新バビロニアに滅ぼされたユダヤ支族は各地を流浪してセファルディとなるが、トルコ系カサール族が新たにユダヤ教に入信してアシュケナジとなった。ユダヤ教の分派キリスト教はローマ世界に広まり、カソリック・正教・プロテスタントに分岐した。また一神教の別派としてアラビア半島に生まれた回教は、中東世界を席巻する。このような宗教分化にとらわれず、ワンワールド思想は諸民族・諸教徒の間に連綿として受け継がれた。ワンワールドは、世界統一戦略を保持する民族・宗教性を超えた集合であるが、アシュケナジを含めたユダヤ教徒が人目を引いたので、「ユダヤ」がその代名詞となった。幾つもある秘密結社のなかで世界に顕れたフリーメーソンもまた、その代名詞となる。両者を重ねた「ユダヤ・フリーメーソン」とは、より正確を期した表現である。
以来、年々積み重ねた知力と経済力で宗教・思想の分野をほぼ独占した彼らは、ユダヤ教、キリスト教に潜入(マラーノ)し、異教徒を改宗させて、精神的に支配した。経済分野では商業に励み、特に奴隷貿易・武器貿易と貴金属の流通を握るが、やがて、交易・金融に特化し、国際賞品市場と信用通貨制度を創設した。これを支配する特定家系の集団がすなわちワンワールド・バンカーで、武力に立脚する地域覇権を裏から操縦した。近代に共産主義を唱えて王国としたのも、世界戦略の発露で 現代の新戦術は情報分野の構築で メディアを支配することで世界戦略を効率化した。
(続)
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(9)
● ワンワールドからの「発信」がうかがえる
近年、在外不動産投資家を称する加治なる人物が文筆界に現れた。まず著書・『石の扉』によってフリーメーソンの実態を、外観的だが具体的に説明した。従来フリー・メーソン陰謀説を唱えた類書がすべて主観的論評に終始するのとは大違いで、世士に注目を浴びた。次いで著した『操られた龍馬』では坂本龍馬と秘密結社との関係を論じ、さらに最近出した『幕末維新の暗号』は小説仕立てながら、明治維新をフリーメーソンが指導したと主張した。一連の著作に当たり加治は、海外のフリーメーソン・ロッジで直接取材し、そこで得た生の情報を用いている。これが従来の類書になかった最大の特徴である。
本誌七月号本稿で、私は「加治が『幕末維新の暗号』でフルベッキ写真を持ち出して、佐賀藩士説に対する反論を提起したことに意義がある」と論じた。
理由の第一は、その少し前に「フルベッキ写真を客観的に分析した学者が、志士写真を否認する結論を出した」と聞いていたからである。かつて半信半疑というより、七信三疑でこの写真を眺めていた私は、志士否認の結論が出たと仄聞してがっかりし、以後関心を失っていた。そこへ、新たにこの写真を持ち出してきた加治に、強い自信と黒幕の存在を覚った。さらに、従来陸奥宗光とされてきた写真右端の人物を、加治が伊藤博文と指摘し、また中央の西郷隆盛とされてきた大男の着する黒服を、薩摩藩の軍服と説明した
ので、年来の疑問が部分的だが氷解し、改めてこの写真を思い起こしたからである。しかしこれは付けたりで、第一の理由が支配的である。
フリーメーソンから説き起こし、次いで坂本龍馬をメーソンの関係を論じた加治が、転じてフルベッキ写真を持ち出しだのは、平凡な作家の売文根性とは思えない。明治維新の真相を信頼できる筋から教えられ、史実を裏から把握した強い自信に基づく著作活動と見た方がよい。その証拠に加治は、「吉井友実こそメーソンと結託した恐ろしいほどの大物」と断定しながら、全く論証していない。七月号本で述べたように、吉井の経歴を調べるだけでも論証は大凡できる。にも関わらず、加治の論証なぞ問題にしない態度は、既に真相を知ったからその必要性を感じないものと思われる。また、第三作を小説仕立てにしたのは、ドキュメンタリー風に証拠を並べることを、情報元から禁じられたからではないか。
フルベッキ写真が志士写真であったとしても、その価値は、明治維新と秘密結社を結ぶ物証だからではない。そんなこと識者の間では既に明らかである。この写真の真価は、中央下部に長刀を抱いて斜に座し、深重の眼差しを遠方に投げる一少年の存在に尽きる。被写体に維新志士をそれぞれ当て嵌めて行くと、少年に該当する志士は大室寅之佑しかいない。反対に、もしこれが一般藩士の写真と結論されれば、少年が大室である可能性はないから、写真なぞ最早どうでも良い。志士否認の結論を聞いただけで私の関心が失せた所以である。しかし加治が、志士否認論が出たばかりの折からの逆風を衝いて、わざわざこれ持ち出してきたのは、迂闊だからではあるまい。大室問題を浮上させるための露払いではないか。そう思いつつ一連の作品を見るに、近代史の真相に迫れぬ本邦史学の空転を憐れみ、あるいは危ぶんで、ワンワールド側から問題を提起してきたフシがある。この種の活動を諜者の世界では「発信」と呼ぶらしい。『周蔵手記』においても、「芥川龍之介ハ海軍ノ発信」という風に用いている。
(続)
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(9)
●ネット上に異論出現 批評に回答し提案する
本誌七月号の拙稿についての批評をネット上で発見した。吉井友実を検索していたら偶然見つかったもので、『教育の原点を考える』を検索すれば出てくるが、お互い嫌ネット性の読者のために要約すると、@例の写真の撮影場所は、明治維新後に壊した屋敷跡の広場に白壁を建造し、黒幕を垂れた上野彦馬の屋外写場である。
Aフルベッキの子供は四歳に見えず、 ウイリアムでなくその姉で、着ているのは女児服である。
B落合は、被写体の佐賀藩士を「平凡な人生を送った」と言ったが、彼らの半分は海外留学までして明治の世を作ったのだから、それらの価値を掘り起こすのが「平凡な作家」の使命の筈で西郷や伊藤だけが歴史を作ったのではないことを落合に伝えよ
――との慶応大学准教授高橋信次なる人物のメッセージも付け加えてある。
偶然にせよ、知ったからには答えねばならず、また本稿の主旨にも関連するから、お答えする そもそも私は七月号に明言したように、この写真に関しては傍観者である。理由の第一は『周蔵手記』を今まで見た限りフルベッキにも大室寅之佑にも触れていないからで、解読者としてこの写真を解明する必要がない。
第二に、正直に明かせば、例の少年が大室であろうがなかろうが、私の大室論は左右されないからである。この写真が真に大室天皇説の物証ならば、その貴重性は当然だが、すでに大室説の真相を教わり、それを確信する私にとっては、物証は最早不要である。ただ写真の素性が分かればそれで良いわけで、論文内容や論者の名を敢えて探すまでもなかった。
以上から、ネット批評者に対する回答は、
@撮影場所についての論議が深まれぱ喜ばしいが、前述の理由により私は立ち入らない。
A服飾について意見はない。外人児童は、確かに四歳よりも老けて見えるが、私には男児と思える。
B維新の志士は維新後挙って「郷」に到達したが、一般佐賀藩士は「士大夫」に止まった。歴史形成者を大衆(民)と見るか英雄(卿)と見るかは史観の違いで、当否は決めがたい。郷と民の間に介在する士大夫(臣)も歴史形成者だが、彼らを平凡と呼ぶことの是非は表現の問題と思う。ただし、「平凡人の歴史に関わるのが平凡な作家の使命」との諭旨は、遺憾ながらその主意を解し得ない。
私なりの洞察を試みるに、例の写真はフルベッキを囲む重要な記念品として、被写体全員に配布された筈で、彼らが維新志士だとしたら、その後、写真の重大性を憂慮した指令があり、焼却されて消えうせたと見てよい。
反対に彼らが佐賀藩士で海外留学もしてそれなりに活躍した歴々だとすれば、写真は大事に保管されて家宝となった筈である。ゆえに無慮四十人の被写体の末裔のうち、十家や二十家が今に伝えている筈で、一枚も見つからないことこそ不自然ではないか。
されば、論者に勧むるに、今すぐ佐賀藩士の末裔に檄を飛ばし、もし夫れ該写真の家宝中に存せざるや否やを問うは如何? 或いは佐賀藩士中より、例の少年の面影をば捜し出し、「これ実は旧藩士にして後年何某をなせる何某の像」なることを証明し、以って世に問うは、如何。
(続)
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(9)
●フルベッキ写真と私 そして「大室天皇論」
そもそもフルベッキ写真を知ったのは、以前本誌に長く連載されたU博士と、十年ほど前に大室天皇を議論した時である。U博士が大室天皇完全否定説を述べられたので、勢い私はその反対側(非・完全否定説)に立った。大室天皇に関する伝承は維新の関係者が残しており、戦後皇室の将来が危ぶまれた時、宮内省関係の旧華族が回想ないし暴露の形で語ったのを聞いた人もまだ生きていた。物証・書証としてはフルベッキ写真のほかに、★『中山忠能日記』中の「慶応三年七月十八日、★★奇兵隊天皇来る正月上中旬の内に御元服云々」の条がある。これについてU博士は「これは(大室というより)誰かの仇名だろう」としか言われない。確かに誰かの仇名に違いないが、だからこそ大室を指す以外にないではないか、と思った。
写真についても、U博士は偽作論、私は「仮説としては完全否定はできない(容認できる)」との立場を取った。★原版そのままを焼いた写真では、画面の左前方に脱ぎ捨てられた下足が積み上がり、右側は壁で雨具らしきものが懸かっている(加治が「外套または人物?とするのは、原版を見ていないからと思う)。公開写真は原版画像の周囲を切り取り、体裁を良くしたもので、世に上野彦馬撮影と言うが、原版を見れば「写真師がこんな構図を選ぶのか」との素朴な疑問が湧く。また、公開写真の中に各人物像に志士の姓名を宛てたものがあり、有名志士に似た人物像(例えば大村益次郎)は確かに多い。右端の人物を陸奥宗光というのは首肯しがたいが、誤って陸奥を宛てたのなら写真全体は否定できないし、それが伊藤俊輔(博文)と分かれば尚のことである。★何よりも印象的なのは、たった一人志士の名を宛てられない人物が居ることで、その人こそ斜に構えて遠方を見るあの少年である。
巷間、ただの幕末写真だという人は多いが、風評ばかりで実がない。志士写真でないと断じるならば翻って被写体を究明せねばなるまいに、誰もそれをしない。こんな風説よりも偽造説の方がまだ合理的だから、私は「仮説的容認説」を持すことにした。
居ること数年、某出版社の編集者から「大室天皇に関する原稿を★F氏から頂いたが、出版には至らなかった」と関いた。原稿を拝読したいと思う裡、まだ会っていないF氏からの便りで「大室天皇論を共著でやらぬか」との申し出を受けた。あの後、興味を持った某雑誌社が★大室天皇説の真否を元宮内庁関係者に探りを入れた由で、その結果も聞いたが、ここに明かし得ない。国内出版は無理と考えた関係者が、外国で出版すべく翻訳の手配をしたが、★事故により不調に終わった由で、因って私に共著話が来たとおぼしい。平凡且つ不才の身には果報なことである。F氏によれば、写真の原版はフルベッキが日本を去る前に★雑誌『太陽』に与えた由で、明治二十八年刊行の『太陽』に載った。その後、関係者から原版を人手したF氏は、長らく大室天皇説を聞知しなかったが、近年耳にして興味を抱き書き上げたもので、未だ拝読していないが、主旨は史実として大室天皇説を認め、維新政府が国民を欺いたことを遺憾とするものらしい。当然フルベッキ写真が中心ネタになる。私が共著に気が進まなかったのは、中心ネタの写真に残る前述陸奥のごとき疑点のためではない。実は数年前、すでに大室天皇の真相を知り確信したが、永久封印と思うから共著どころではなく、証拠写真のごときも、もはや問題外だからである。
ところが加治が「発信」を始めた。加治の外にも『英国機密ファイルの昭和天皇』『天皇のロザリオ』などの新刊に著者の意図しない「発信」の臭いを感じる。あり得ないと思っていた封印解除の時機が到来したのか。となれば、例の写真は一応証拠力をチェックしおく方が良い。それには被写体の人定が必要だが、志士銘々の事歴を編年し身体形質・家紋などを照合するのは、わが能力を超える。奇特の士の研究を期待していたら、果せるかなその気配が生じたようで、豈これを喜ばざるべきや。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(10)
上原勇作応援団の華麗なる面々とその運命 落合莞爾
★忘れられた大物 伯爵・吉井友実
明治四年十二月、単身上京した上原(当時は龍岡姓)勇作は、野津道貫邸に下宿しながら南校へ通った。東京大学の前身である南校は、★宣教師・フルベッキが教頭として実質的に運営しており、陸海軍の士官養成学校と並ぶ、★ワンワールド高級人材の養成機関であった。勇作の学業資金を供給していたのは吉薗ギンヅルで、宮崎県西諸県郡小林村の吉薗家に常住し、周蔵によれば「村で今の保健婦のような」仕事をしていたが、裏では鹿児島市山下町に住む実業家日高尚剛を看板にして、自家薬の製造・販売事業を展開していた。男を表面に立てながら裏面で操縦するのは島津家の側室お山羅、徳川家定の御台所天璋院篤姫、さらには島津家から各豪家に嫁いだ貴婦人の面々に共通する、★島津女の在り方と評される。
学業資金といっても学資や生活費だけでなく、ギンヅルは上原応援団の銘々にも献金した。団長格の高鳥鞆之助(一八八四生)は長閥の桂太郎(一八四七生)に匹敵する薩閥の寵児であった。桂に木戸・山県の引きがあったのと同様、高島は薩摩三傑の贔屓を受け、西郷・大久保の亡き後は、生き残った吉井友実(一八二八生)に加え松方正養(一八三五生)の支援を受けた。世に西郷・大久保・木戸を維新の三傑と称えるが、島津図に限れば西郷・大久保・吉井を島津三傑と謂う。今は忘れられた吉井ほそれほどの傑物で、仮に維新の四傑を選べば、四人目は吉井か長州の広沢兵助になる。維新政府の軍務局判事となった吉井は、明治四年から宮内省に移り、ひたすら宮中政革に取り組み、時に侍講となって天皇親政への動きにも関係した。十二年から三年間、工部大輔と日本鉄道社長に就いたほかほほとんど世間に姿を表さなかったのは、宮中で明治王朝の基礎固めに腐心していたからである。日本鉄道社長桂は唐突の感があるが、財政難から華族資金に頼らざるを得ない鉄道事業の重責を担える者が他に居なかったからで、加えて日本の鉄道整備を急ぐワンワールドの強い要請を受けたこともあろう。伯爵に叙された程の吉井だが、職位は次宮・局長級に過ぎず、一度も参議・卿・大臣に就かなかった。これは新時代に適合しなかったのではなく、世の注目を避けるために本人が望んだものと思われる。
高島が吉井の次男友武を長女多嘉の婿養子とし、高島子爵家を継がせたことに両人の深い関係が窺われる。吉井と並んで高島を応援した松方正義は、吉井の上を行く傑物で二度首相になり、財政畑に君臨した。松方デフレを敢行し、日銀を創設し、金本位制を確立した業績は、すべて金融皇帝ロスチャイルドの意を受けたもので、★松方がワンワールドに属したことほ疑う余地がない。財政家松方と武官高島との深い関係は、地縁・血縁に始まりワンワールド内部で強化されたものだろう。蓋し、★宗教・金融と軍事がワンワールドの三大部門である。
高島を脇から支えた二人の副団長が野津道貫(一八四一生)と樺山資紀(一八三七生)である。高島の義弟(妹婿)に当たる野津の長女槙子(一八七三生)を上原は娶る。つまり上原の正室は野津の長女にして高島の姪でもあり、三家は縁戚として固く結ばれた。野津は生来の武弁で、政治性に欠けたが日清・日露の功績で大勲位、元帥、侯爵に昇り、軍人の栄位を極めた。樺山資紀は陸軍から警視総監を経て海軍に転じ、海相・軍令部長から初代台湾総督になり、高島副総督に助けられた後、一転して高島拓殖務相の監督を受ける立場になる。活動分野を陸と海に分けたこの二人が、陰に陽に相互扶助したのは、★「陸軍と海軍は人的に隔絶する」人事原則を逸脱した希有な事例である。
(続)
http://2006530.blog69.fc2.com/category2-25.html#pagetop
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/363.html
03. 2011年7月12日 07:38:34: NHX8MURqEE
>3200ベクレルの肉を100グラム食べた場合でも、0・00416ミリ・シーベルトしか被曝(ひばく)せず
それって、等価線量じゃない気がする...。
セシウムは筋肉だけじゃなくて甲状腺にも多く行くようです。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/202.html#c3
26. 2011年7月12日 07:38:39: OzsstiQrqA
>>03 ですが。
えらく伸びているので、性懲りもなく覗いてみました。
スポーツ、芸能というより韓国が問題だったんですね。
それではアジア板あたりが適当でしょうね。
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/125.html#c26
33. 2011年7月12日 07:39:12: Dq4WoVclSk
求人番号 09120-01911211
求人情報の種類 一般(フルタイム)
事業所名 有限会社 ウェルシ−ファーム
所在地 〒329-3225
栃木県那須郡那須町豊原丙4773
電話番号 090-3688-9931
FAX番号 0287-77-1439
事業内容 酪農業
職種 酪農
雇用形態 正社員
産業 農業,林業のうち畜産農業
就業形態 フルタイム
雇用期間 雇用期間の定めなし
年齢 40歳以下
年齢制限の理由
年齢制限禁止について 長期勤続によるキャリア形成のため若年者等を対象
就業時間 1)08:00〜17:00
休憩時間 150分
時間外 あり 月平均20時間
賃金
賃金形態 月給
a 基本給(月額平均)又は時間額
170,000円〜210,000円
b 定額的に支払われる手当
その他手当 〜10,000円
a + b
180,000円〜220,000円
c その他の手当等付記事項
皆勤手当
休日 他
週休二日 隔週
相談可
年間休日数 88日
育児休業取得実績 なし
就業場所 栃木県那須郡那須町
沿線
従業員数 企業全体:16人 うち就業場所:16人 うち女性:8人
加入保険 雇用 労災 健康 厚生
定年制 あり 一律 60歳
再雇用 あり 65歳まで
入居可能住宅
マイカー通勤 可
通勤手当 一定額 月額:15,000円
採用人数 2人
仕事の内容 乳牛の管理
飼料の混合
その他業務
学歴 不問
必要な経験等 不問
必要な免許・資格 普通自動車免許
受理日 平成23年7月4日
有効期限日 平成23年9月30日
受理安定所 黒磯公共職業安定所
http://www.asyura2.com/11/genpatu10/msg/681.html#c33
13. 2011年7月12日 07:44:12: dpp0eXCVak
マスコミは原発事故以来
出す学者出す学者、信用ならん御用学者ばかりで
もうすでにマスゴミ自体信用されていない!
で、震災以後各社の視聴率は低迷!
もうすでにTVという媒体に国民の興味はない!
子供と動物のみが視聴率がとれるだけになってしまった(笑)
142. 2011年7月12日 07:44:54: JRgEDJj6c6
皮咬は検察公判ぶっちょでしょ。
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak33/msg/299.html#c142
32. 2011年7月12日 07:45:00: iGs5H3qEUE
19さん、
海外の反応を当てにしてもだめですよ。みな自分のことしか考えてません。
日本人が危機にさらされているのだから、日本人自身が汚染食品をボイコットするしかありません。可能性はそれしかありません。みんなで話し合って、一人でも多く仲間をつくって、よっぽど態度を鮮明にしなければ、行政というものは動かないでしょ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/173.html#c32
10. 2011年7月12日 07:45:54: 7HtzkGgg1M
徳島市在住です。
すべての原発を止めてください。
電力は、節電より前に政令を出して、
電力会社に命じて、
自家発電を活用すれば、
十分まかなえます。
福島の事故をコントロールできない現状で、
安全を語る資格はあるわけないのに、堂々と政府や
電力会社が口にする、その異常さに、驚き、
うすら寒い感じがします。
このような危機に、表に出て、発言し、行動することが
できない政治家に、存在価値があるのでしょうか?
そして、子供を守るため、どうしたらいい
か、勇気が足りない自分にも腹が立ちます。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/162.html#c10
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その9
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (10)−2
★上原応援団「第二世代」 ワンワールドの逸材たち
上原応援団の第二世代も上原勇作(一八五六生)と関係が深い。
上原より一歳年長が吉井の長男・幸蔵(一八五五生)で、これが第二世代の頭と覚しい。男性は吉井の次男で高島の養嗣子・友武(一八六七生)、その義弟に当たる高島の次女球磨子の夫樺山資英(一八六八生)、樺山資紀の長・男愛輔(一八六五生)が並ぶ。女性では、野津道貰の長女で上原の妻・槙子(一八七三生)、高島の長女で友武の妻・多嘉(一八七三生)、高島の次女で資英の妻・球磨子(一八八一生)、以上が第ニ世代の主たる処だが男女別に互いの年齢が極めて接近しており、意思疎通が極めて円滑だったと想像される。
直系子女ではないがこれに準ずる樺出資英は、薩摩藩士で各所の知事を歴任した樺山資雄の次男である。姓名からして資紀と同族と分かるが、資紀自身は橋口家からの養子である。資英の実兄の阿多壮五郎は戊辰役で戦功あり、明治四年将兵創設に応じて上京、初任陸軍大尉。征韓論の破裂に際しては西郷に従って薩摩に帰り、西南役で奮戦死したが、今日まで伝わるその勇壮さから、西南役に巻き込まれていなかったら軍人として出世し、男爵くらいにはなったと思う。父の樺出資雄は、内務省にいたため西南役に巻き込まれずに済み、当時少年だった資英も西南役を免れて、明治二十一(一八八八)年に渡米、コロンビア大学からエ−ル大学に移り法学士、同大学院で法学修士と法学博士の学位を得た。この経歴で●資英がワンワールドの逸材ということは分かるが、学費は誰が支弁したのか不思議である。明治二十六年に帰朝した資英は、二十八年五月に台湾総督府が設置されるや陸軍省雇員・大本営付通訳官、更に台湾総督府参事官となるが、樺山総督の特命であろう。明治二十九年四月、拓殖務省が新設されるや同省に転じた資英は、大臣秘書官兼・官房秘書課長として初代大臣の高島に仕え、高島の次女・球磨子(一八八一生)を娶り、高島友武(旧吉井)と義兄弟となった。三十年八月、行政整理のために柘殖務省が廃止されるや、資英は第二次松方内閣の首相秘書官に転じるが、★吉井・高島・樺山の閨閥は金融ワンワールドの日本総帥たる松方正義とも近かった。
明治三十一年一月第三次伊藤内閣が成立するや辞官した資英は、六月の大隈内閣には仕官せず、十一月の第二次山県内閣で樺山資紀が文部大臣に就くのを待って大臣秘書官となる。三十三年十月の第四次伊藤内閣の成立により辞官した資英の、その後の十数年は未詳だが、大正三年から五年間を満鉄理事として過ごした後、大正十二年の山本権兵衛内閣で内閣書記長に挙げられた。
以後、大正十三年から昭和十六年の逝去時まで十七年にわたり貴族院議員を勤めた。授爵にはいたらなかったが相当の大物である。その余の第二世代の人物については、後で述べよう。
(続)
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (10)−3
●陸相時代の高島鞆之助とその後の「伸び悩み」の謎
明治十三年三月、一年にわたる仏独視察から帰国した陸軍少将高島鞆之助は、四月に熊本鎮台司令官に就き、翌年二月に大阪鎮台司令官に転じた。次いで西部監軍部長心得を経て、十六(一八八三)年二月に四十歳を以て中将に進級、西武監軍部長となった。以後は十八年九月に大阪鎮台司令官、二十一年五月に第四師団長となる。つまり明治二十四(一八九一)年に陸軍大臣に就くまでの十年間、ずっと大阪に駐在し、関西在住の陸軍トップとして諸般の事業に携わった。なかでも大阪鎮台指令官時代の二十一年四月、陸軍軍人の社交団体たる財団法人大阪偕行社に附属小学校を創設したことはよく知られている。現在追手門学院に発展した大阪偕行社附属小学校は、薩摩の郷中教育を建学の精神とし、さらに高島が外遊中に覚った外国語教育の必要性から、英語教育を行い国際感覚の研磨を目指し、西の学習院とも呼ばれた。
内閣制度の発足以来、八年間にわたり陸相を独占した大山巌(一八四二生)の後、第二代陸相を高島が継いだのは明治二四年五月十七日成立の第一次松方内閣である。海軍でも大山の海陸相兼任の時期を除き、西郷従道(一八四三生)が海相を独占していたが、二三年五月十七日に樺山資紀(一八三七生)に交替した。こうして第一次松方内閣の軍部大臣には高島と樺山が揃って就いたが、十一月から始まった第二国会において政府の軍拡予算案が否定され、これに対して樺山が打った蛮勇演説で議会が荒れたので、松方は衆議院を解散する。続く第二回総選挙で、松方内閣は歴史的な選挙大干渉を行うが、それでも民党が勝利した、選挙後内相に就いた河野敏鎌の善後処置は、干渉の最も激しかった佐賀・高知両県の知事すなわち樺山資雄と調所広丈の更迭であった。閣内で選挙干渉を叫んだ高島・樺山の両大臣は、これに反対して辞表を提出したので、明治二十五(一八九二)年八月八日を以て第一次松方内閣は倒壊した。
高島は予備役に編入、樺山も現役を退き共に枢密顧問官となる。時に高島は四十九歳、上原勇作の時代ならば陸軍少将が相当で、当然現役である。予備役入り後も陰の陸軍首脳だった高島が、日清間に戦雲渦巻く中で一体何をしていたのか、不思議である。
二十八年八月、日清講和が済んだ後、政府は予備中将・高島鞆之助を急遽台湾副総督に任じ、追って現役に復帰せしめた。樺山総督を支援する「土匪」平定の任務で、樺山の強い要請によるものである。南進司令官として土匪討伐を果たし、十二月凱旋した高島は、翌年四月に第三次伊藤内閲が新設した拓殖務省の初代大臣として台湾総督府の監督に当たる。九月に第二次松方内開が成立するや、再び陸相(兼職)となり、三十年九月行政整理で拓殖務省が廃された後は、陸相を本官として翌年一月までその職にあった。つまり、二十五年八月を以て予備役に編入した高島は、三年後に起用されて台湾副総督となり現役復帰、その後拓殖務省さらに陸相と、二年半にわたり最重職を歴任し来るべき日露戦に備うべく軍政の重責に任じた。こうして観るに、日清戦争の直前並びに戦中において、高島が一体何をしていたのか、やはり不思議である。日清戦役の前後において、右(*上)の重責を果たした高島が位階勲等の昇叙に全く与らなかったのも不思議である。日清戦役中は予備役だったし、現役復帰後の台湾掃討の軍功は大将進級には不足だったらしい。既に十七年に子爵に叙爵、二十年に勲一等旭日大綬章を授かっていたが、勲一等桐花大綬章の沙汰もなかった。つまり、すでに達していた勲等が高過ぎて昇叙の余地がなかったことになる。結局、恩賞の沙汰といえば、大正五年逝去に際して賜わる旭日桐花大綬章と正二位(首相級の位で、追贈と思う)だけでは世間の不審が偲ばれる。
高島は明治三十一年一月十二日陸相を辞し、長州閥の寵児桂太郎が後を継いだ。五十五歳で将官として最も油の乗る年頃での予備役編入は桂太郎による人事とされ、「その筋に大きな衝撃をもたらした出来事であった」(『日本陸軍とアジア政策』)とされる。同時に、陸軍参謀総長も小松宮彰仁親王から川上操六中将(一八四七生)に代わる。川上は薩摩藩士で、幕末に京の薩摩屋敷でギンヅルと知り合い、維新後に親密な仲になったという。桂と川上は同年の生まれで大佐進級も同日付、以後ずっと同日付で進級してきた好敵手で、軍政家の桂を陸軍大臣、軍略家の川上を参謀総長に配したのである。対露戦争計画を一身に委任された川上は、同年九月桂と並んで大将に進級したものの、翌年五月五十三歳で急逝してしまう。後任がいないので、陸軍は大変な騒ぎになるが、折しも一年半前まで陸相だった高島が予備役中将・枢密顧問官の閑職にいた。陸軍の最高首脳は高島を措いてなく、薩摩閥がその参謀総長の就任を図ったことは当然で、新発見の『宇都宮太郎日記』がその経緯を記しているが後稿で論じたい。結局参謀総長の選考から外れた高島は、四十五年四月の退役まで二度と現役に復帰せず一切の軍務に関わらず、大正五年逝去までの十八年間を枢密顧問官として過ごした。なぜ参謀総長になれなかったのか。世間は晩年の高島を評するに直情径行と才能の伸び悩みを以てするが、真相はそんな所にない。いずれ後稿で明らかにしたい。 (続)
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (10)−4
●鈴木商店と台湾樟脳 「実質は上原の会社」
日清戦役後、台湾副総督と拓殖務相を歴任した高島が最も意を用いたのは、台湾特産の砂糖・樟脳に加え、台湾で需要の多い阿片と煙草に処する政策であった。樟脳については、神戸の商人・鈴木商店を最大手業者に育て、その実際の経営を日高尚剛に任せたのは高島の処置と思う。なお、台湾阿片政策につき、★巷説は総督府民政長官・後藤新平の功績にすべてを帰すが、それは一面に過ぎず、★日本の阿片事業の発端には児玉・後藤系と高島・上原勇作系が並立していたのである。
鈴木商店とは大正時代、驚異的に発展した総合商社で、現在は双日となった日商の前身である。主人は「お家はん」と呼ばれた未亡人鈴木ヨネ(嘉永五・一八五三年生}で、父の西田忠右衛門は元来丹波の漆掻であったが、得意先の姫路米田町の塗師福田惣平の勧めで米田町に移り、塗り師に転じた。ヨネは当初福田の次男に嫁ぐが、やがて離婚、明治十(一八七七)年に二十六歳で神戸の砂糖商・鈴木岩次郎と再婚した。岩次郎の父は川越藩の足軽の次男で、飛脚をしていたが、貧乏のため岩次郎を奉公に出す。砂糖・菓子を扱う小商人にな
った岩次郎は、店舗を親族に与えて長崎に往き、菓子職人の修業を積んだ。神戸に帰ってきた岩次郎は、弁天浜の砂糖商・辰巳屋松原恒七の下で働くうち、商才を認められて店を譲られ、カネ辰・鈴木岩次郎商店と改称した。明治七年頃、すでに洋糖引取商・鈴木岩次郎商店の記録がある。進取の精神に富んだ岩次郎は十五年ころ神戸石油商会を設立し、取扱品目として砂糖のほか樟脳・薄荷(ハッカ)にも進出した。十九年、土佐国名野川村の貧家の伜、金子直吉が丁稚として入り、前年に入店した柳田富士松が砂糖、金子が樟脳と分担して、鈴木商店の業績は上がった。二十七年に主人岩次郎が急逝し、親族が廃業を取り沙汰するが、ヨネは決然と存続を唱えた(『黎明の女たち』より抜粋)。
しかし、ながら、後年の急拡入につながる要素は、この時点の鈴木商店には全く存在しない。★ヨネに存続を唱えさせた者が背後に居た筈と思う。
平成八年ころ「鈴木商店は日高尚剛の手の者が経営陣に入っていた。実質は上原の会社だった]と仄聞した私(落合)だが、まさかと思い、今日まで調べなかった。しかし十年あまりの間に、これに関わる情報を得た。作家★O氏との雑談中、以前帝入系の会社に勤めていたと聞き、思わず「帝入は人も知る鈴木商店の子会社だが、その鈴木商店が★実は上原元帥の持物だった」と言ったところ、O氏は「そういえば上原元帥の孫の尚作さんはウチの重役で、私らの仲人をお願いしました」と言いだし、続けて「どこかヨソの会社から突然来て超特急で昇進、あっという間に重役です」と加えた。言われてみれば、「尚作」は「勇作」と「尚剛」の融合のように見える。勇作の長男・七之助の子息上原尚作は大正十五年生まれ、昭和二十年五月一日に上原子爵家を継承した。ご存命なら、何を差し置いても教わりたいのは、大正九年吉薗周蔵が上原の親書を張作霖に届けた時、張作霖から金五百円で譲ってもらった壷が現在どこにあるのか、である。鉄袖で楚々とした秋草を描くその壺は、乾隆皇帝が秘宝として奉天北陵に秘蔵した焼物の一つで、陶磁学者上田恭輔が汝窯青磁と鑑定した。周蔵が奉天みやげとして上原閣下に献呈すると、非常に喜ばれ、後日大森邸に伺ったら家宝として応接室に飾っていた、と 『周蔵手記』にあるからだ。
結局、上原は高島の利権というか、事業を引き継いだわけである。防虫剤として知られる★天然樟脳はクスノキから採れるが、その生産技術は元禄年間に琉球から伝わったとの説と、正徳年間に朝鮮人から薩摩に伝わったとの説がある。★薩摩藩は樟脳を特許品として藩が独占的に買い上げ、一部を小売店に卸す以外は長崎に回し、オランダ・清国に輸出していた。明治二年頃、新素材の「セルロイド」が発明されると、その可塑剤として不可欠な天然樟脳は合成品が出来る大正後期まで、極めて重要な物資とされた。
江戸時代から輸出品だった樟脳の輸出は、明治初年から神戸港が中心で、鈴木商店も主要扱い品目とした。明治二十八年、日本領土となった台湾は世界的な樟脳の産地である。薩摩藩の樟脳専売制による利益を知っていた樺山総督と高島副総督は、樟脳製造事業に注目し、早くも同年十月「官有林野及樟脳製造業取締規則」を作り、樟脳製造に官許の制限を加えた,
翌二十九年から三十一年まで、初代拓殖務相として台湾経営の最高責任者なった高島は、台湾財政の柱として各種の官業政策を練る。二代目総督桂太郎は二十九年六月から十月まで短期間の腰掛けで実際には赴任せず、後を継いだ陸軍大将・乃木希典が三十一年二月まで総督であった。
★専売制度は三十年に阿片、三十二年に樟脳と食塩について実施されるが、右の経緯と時期を見ても、専売政策の根幹が高島によることは自明である。総督を監督する拓殖務相は、大阪偕行社以来の乃木の上司で媒酌までした高島である。乃木は高島の指揮を受け、高島の樟脳等官業路線に忠実に従った。
三十一年二月、児玉源太郎が第四代台湾総督となる。児玉がその後、総督の地位に固執したのはアヘンの価値を知悉していだからである。児玉は参謀次長や文部大臣を兼職しつつ、八年も総督に在任、民政長官に就けた後藤新平も八年間在職した。 その期間の長さのため、巷説では児玉・後藤コンビが強調され、桂・乃木時代の台湾行政に見るべきものはないと謂うが、★台湾の樟脳、煙草、阿片に関する基本政策は、実は高島拓殖務相・樺山総督時代に決まったものと観るしかない。
(10)完。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(11)ー1
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(11)
―― 薩摩ワンワールドの特殊権力を継承した上原勇作
★周蔵も製糖王・藤山雷太も“大畑者”上原の」配下
吉薗周蔵は日頃、「上原元帥は横浜と鈴木商店に関わっていた。藤山雷太を大日本精糖の社長にしたのも上原閣下である」と語っていた。明治32(1899)年、鈴木商店
は台湾樟脳の販売権を獲得し、飛躍の切っ掛けを掴む。鈴木商店は世間的には未亡人ヨネを主人と仰ぎながら、この頃から実質的に高島鞆之助と日高尚剛の隷下に入ったのであろう。
弘化元(1844)年生まれの高島は明治31年1月12日、54歳を以て陸軍大臣を辞し予備役に編入明治45年4月の退役まで陸軍には関与しなかった。高島は予備役に方向を転じ、明治32年枢密顧問官に就任、大正5年1月11日の他界までの18年間その地位にあったが、その間砂糖、煙草、阿片、国際金融などの分野で隠れた権力を振るったものと思う。高島の特殊権力は薩摩ワンワールドの首脳吉井友実・松方正義が築いたものである。大正5年に高島が逝去するや上原が譲り受け、さらに昭和8年に上原の他界によって、荒木貞夫にその一部が移ったものらしい。
周蔵と藤山雷太との関係については、『周蔵手記・本紀』大正8年10月30日条には周蔵が若松事務所で藤山を紹介され、食事に招かれたと記す。若松安太郎は、青森県下北郡大畑港の回船屋六代目堺屋甚兵衛の長男で本名、堺誠太郎、後に七代目甚兵衛を襲名した。その長男が日本文芸協会事務局長を務めた堺誠一郎で、八代目甚兵衛を継いだ。通名・甚兵衛の由来は、芭蕉の『奥の細道』にも「庄司が館は云々」として出てくる信夫庄司・佐藤甚兵衛基治にある。基治は藤原秀衡の参謀で、その子継信、忠信の兄弟が源義経に仕えたことは有名である。甚兵衛を通名とする旧家は全国に数十家存在し、概して山林地主で、紀州串本の矢倉甚兵衛、千葉成田の石川甚兵衛、福島須賀川の石井甚兵衛、秩父の大館甚兵衛、木曽の山村甚兵衛などみなこれである。元首相佐藤栄作家が基治の正統を称するが、右(*上)の石川家や石井家の近親にも佐藤姓が存在するから、各地の甚兵衛は本来みな佐藤姓なのであろう。
海人の堺屋は海軍と関係が深かったが、六代目甚兵衛の弟・忠次郎は函館を本拠に北海道開発事業に専心し、開拓使の陸軍中将・黒田清隆、同永山武四郎に仕えた。陸軍と海軍は明治中期頃から出入りの者を峻別し、一人が両方に仕えることができなくなったので、忠次郎は海民を表す堺姓から若松に変え、今も函館市若松町としてその名を留めている。日露戦争の際、堺屋は陸軍とも関係が生じた。六代目長男誠太郎は上原勇作の諜者として働く時、叔父・忠次郎の長男になりすまし、若松安太郎と称した。表看板は長崎の水産業者島田商会の支配人で、その際には本名を名乗ったので、『大畑町史』には堺誠太郎の名で出てくる。周蔵は上原の部下として、大正3年から安太郎の後見下に置かれていたので、昭和に入るまで右の事実を知らず、ひたすら若松を本名と信じていた。ゆえに、手記の記載は生涯「若松安太郎氏」で通している。安太郎の弟を装い、若松安次郎と称したのは、屯田兵司令官男爵・永山武四郎中将の子息である。
ところが『周蔵手記』別紙記載の『敗戦カラノ記』にも、大正14年頃、平野勇造から藤山・中上川を紹介されたと記す。前に述べたように、日本一の建築家といわれた平野は、三井物産社長・益田孝の孫婿で、曽祖父が大畑港の回船屋「カド枡堺屋」の三代目伊兵衛である。堺屋甚兵衛とは別の家系だが、元は摂津和泉をまたぐ堺tから出た同族である。三代目伊兵衛の弟が三国屋を称し、その子(あるいは孫)が堺常五郎、その次男庄太郎が徴兵逃れのために分家した時、先祖の姓池田を称した。先祖の 池田亀麿は『菅江真澄遊覧記』に出てくる文人である。つまり、平野は二代目堺屋伊兵衛の四代孫で、池田庄太郎が同じく三、四代の孫だから、二人は七〜八親等の血族であった。庄太郎の妻コトは若松忠次郎の姪で、安太郎には実のいとこにあたる。 庄太郎は大畑町で地方百貨店を営んだが、縁戚の安太郎と共同で時計や輸入雑貨の商売を行い、一糖に渡欧して、イギリスに滞在した。平野と池田と安太郎の三人は右のような親戚の関係で、極めて親しかった。
安太郎が東京築地の若松事務所で、製糖王・藤山雷太を周蔵に紹介したのは大正6年10月である。前年、血液型分離法の探索のためウィーン大学医学部ランドシュタイナー教室に潜入した周蔵は、6年6月に帰国した後、アヘン研究とその隠れ蓑として糖神カウンセラーの開設を上原大将に献策し、許可を得た。その秋は独立開業の時期で周蔵はいろんな人物に会う。偶然会った相手もいれば、上原の指令で引き合わされた相手も多かった。藤山雷太の紹介は多分上原の指令で、、周蔵にケシ研究を命じた関連で、配下の製糖王・藤山を紹介させたものと思う。藤山が初対面の周蔵を食事に招待したのも上原の配慮であろう。
8年後の大正14年ころ平野が周蔵に紹介した「藤山」なる人物は、息子の愛一郎(当時二十八歳)ではなく、親の雷太(当時63歳)と思える。平野の場合は縁者として周蔵を紹介したのだろうが、周蔵はあれ以来藤山と接触しておらず、改めての紹介となったわけだが、紹介者は両度とも大畑港の出身で、上原と大畑者との間は若松父子を介して極めて近かったから、結局は同じ意味になろう。
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★日本の金融王・松方正義、玄洋社・杉山茂丸の暗躍 へ<続>。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (11)−2
★日本の金融王・松方正義、玄洋社・杉山茂丸の暗躍
枢密顧問官・高島鞆之助の裏には、上原勇作の叔母で周蔵の祖母にあたる吉薗ギンヅルがいた。上原が台湾の砂糖・樟脳政策に関して有した特殊な権力は、高島の遺産を引き継いだものだが、ギンヅルが甥の勇作に残したものともいえる。横浜正金銀行に関しても、上原は同様な権力を持っていたと伝わる。上原の大森鹿島谷の私邸と上総一ノ宮の別荘には、旧一宮領主加納久宜子爵が絡んでいるように思うが、その御曹司・加納久朗が横浜正金の取締役となったことにも、上原の影がちらつく。『周蔵手記』には、世界大戦の戦雲迫る中でフランスヘ帰る藤田嗣治と薩摩治郎ハが必要とした為替を、周蔵が荒木大将に頼んで手当てしてやったことを記す。昭和8年死去するに当たり、上原は荒木貞夫を後継者とした。日本の金融制度を創った松方正義は、世界金融皇帝・ロスチャイルドの分身として、日本金融王であった。安田善次郎のごとき金貸しでなく、第一銀行創立者の渋沢栄一や、明治財政・産業支配人井上馨でもなく、日銀の民営化と金本位制の創設に関わった松方正義こそ、日本金融王なのである。松方が培った国際金融権力は高島経由で上原が受け継ぎ、荒木に移ったわけだ。
国際金融には謎が多いが、杉山茂丸が関係したことは確かである。玄洋社の客将で生涯無冠の浪人だった杉山が明治30年に渡米してアメリカの工業事情を視察し、翌年再び渡米して米国金融王J・P・モルガンと単独面会し、借款を取り決めて銀行設立を討議した。それがいかなる地歩に立ったものか明快に説く史家はいない。ウイキペディアには、「杉山の興業銀行設立運動は、伊藤博文と井上馨の支持を得たが議会の混乱のためになかなか通過せず、明治33年になり日本興業銀行法は成立したが、モルガンからの外資導入は貴族院に否決された。同31年(1898)に第四代台湾総督に陸軍大将児玉源太郎が就任し、民政長官に後藤新平を就けると、杉山は両人に対して製糖業の振興による台湾経済の確立を献策し、自ら製糖会社の設立に携わった。また台湾銀行の創設や台湾縦断鉄道の建設にも関与したといわれる」との解説がある。
要するに、経済問題では伊藤・井上、台湾軍政では児玉と、何でもかんでも長州閥を持ち出さねば世間は納得しないが、その実は、先ず軌道を敷いた薩摩人が故意に表面から隠れ、あて馬に長州閥を持ってきたものと思える。ともかく杉山が台湾銀行の創立に深く関与したのは事実で、帝大法学部同期の平岡定太郎が樺太庁長官の時、その下で第一部長に甘んじていた中川小十郎を抜擢し、台湾銀行副総裁に据えたのも杉山である。杉山は、台湾砂糖政策や台湾銀行の設立、台湾縦断鉄道の敷設などに関して、児玉のみならず背後の伊藤・井上らの長州閥を工作していたわけで、その使命は、拓殖務相・高島鞆之助と台湾総督樺山資紀とが建てた台湾基本政策を、児玉・後藤に踏襲せしめることにあったと思われる。砂糖・樟脳などは第一薩摩藩の薬籠中の物資で、長州人が関与すべくもない。杉山が籍を置いた玄洋社自体、表面は旧黒田藩士の結社と見せながら、実は薩摩ワンワールド首脳の指導下にあり、その背後には謎の貴公子・堀川辰吉郎が見え隠れする。上原勇作が後年玄洋社を私的機関のごとく使いこなしたのも、吉井・松方に始まり高島・樺山が受け継いだ薩摩ワンワールドの特殊権力を引き継いだからであろう。尤も両者の関係は注意深く隠され、史家はこれに気づいていない。上原の政治的ライヴァル後藤新平も不思議な人物である。俗流史観は児玉と後藤の関係を濃厚な癒着の如く修飾するが、果たしてその通りならば後藤を帰化長州人と呼ぶもおかしくはないが、真相はどうか。後藤の岳父安場保和は、明治19年福岡県令となるや、県下の鉱区権を悉く玄洋社に与え、玄洋社はそれを炭坑主に売却して活動費とした。年来安場の恩を受け女婿にもなった後藤が、安場が財政面で育てた玄洋社を拠り所としたことを示唆する巷間の噂に、
@後藤は満鉄総裁として自由に行動する目的で児玉を暗殺した、
A後藤は玄洋社員を使唆して原敬を暗殺せしめた・・・というものがある。
http://2006530.blog69.fc2.com/category2-24.html#pagetop
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/364.html
43. 2011年7月12日 07:47:25: 8qkp570kfE
養殖の魚とか一般の牛豚鶏肉の抗生物質は、脂の部分にたまりやすい、って聞いたような気がしますが。セシウムはどうなんでしょう。静岡で茶葉からセシウムが出てますが、他の地域の畜産は大丈夫なんでしょうか。豚肉鶏肉は大丈夫なんでしょうか
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/149.html#c43
福島第1原発:東芝協力企業の作業員死亡 労災申請へ
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110712k0000m040148000c.html
毎日新聞 2011年7月12日 2時30分(最終更新 7月12日 3時55分)
東芝(本社・東京都港区)の協力企業から派遣され東京電力福島第1原発事故の収束作業中に心筋梗塞(こうそく)で死亡した男性作業員の遺族が、「発症は短期間の過重業務が原因」として週内にも労災を申請することが11日、分かった。同原発事故の収束作業をめぐる労災申請は初めてとみられ、労働基準監督署の判断が注目される。【西嶋正信】
◇遺族「短期間の過重業務が原因」
作業員は5月14日に死亡した静岡県御前崎市池新田、配管工、大角信勝さん(当時60歳)で、タイ国籍の妻カニカさん(53)が、東芝の労災保険窓口となっている横浜南労働基準監督署(横浜市)に労災申請する。
東芝などの説明によると、大角さんは浜岡、島根原発などで作業経験があり、収束作業を請け負った東芝からみて4次下請けにあたる御前崎市内の建設会社の臨時雇いだった。
5月13日から午前6〜9時のシフトで集中廃棄物処理施設の配管工事などを担当し、2日目の14日午前6時50分ごろ、特殊のこぎりを運搬中に体調不良を訴えた。福島県いわき市内の病院に運ばれ、午前9時半過ぎ、心筋梗塞での死亡が確認された。作業の被ばく放射線量は計0・68ミリシーベルトと少なく、被ばくの影響はないとされた。
一方、大角さんが体調不良を訴えてから病院に着くまで2時間以上かかるなど救急体制の不備が指摘され、以降、東電は現場に常時医師を配置する措置を取っている。東電、東芝からカニカさんに見舞金や補償は支払われていない。代理人の大橋昭夫弁護士は「大角さんは防護服とマスクを装着する過酷な環境で働いていた。命がけで作業に従事した大角さんにあまりに冷たい対応」と話し、遺族が証言する遺体の状況から死因もより詳しく調べてほしいという。カニカさんは「健康上の特段の問題はなかった」とも話し、東電と東芝に損害賠償を求めることも検討している。
労災申請について東電は「(大角さんの死と)業務との関連性は高くないと考えている」と話している。また東芝広報室は「労働と心筋梗塞との因果関係は不明で、今の段階では労災だったかどうかは判断できない」としている。
◇「危ないと知らず送り出した」と悔やむ妻
「危ないところとは知らずに夫を送り出してしまった」。大角さんの妻カニカさんは悔やむ。配管工として全国の原発を転々とし、溶接で作業服によく穴を開けて帰ってきた。福島へ行く前日の5月10日、カニカさんは新しい作業服2着と靴や帽子などを買い、旅行かばんに入れた。
11日午後8時ごろ、福島第1原発の宿舎に到着した大角さんから電話があった。
「寂しい?」
「現場は暑いから気をつけてね」
「僕を心配しないで、自分のことを心配しなさい。あと2年働く。お前は言葉(日本語の読み書き)も分からないから、2年後は一緒にタイで農業をしよう」。それが夫婦の最後の会話だった。
「いつも私をかばってくれる思いやりのある夫でした」とカニカさんは声を震わせる。「最後まで私のことを心配してくれていました。たった3日で死んでしまうなんて……」
15日朝、福島県内の警察署で夫の遺体と対面した。両耳が濃い紫色に変色、ほおやあごに傷があった。でも、病死とされ、遺族には何の補償もない。
カニカさんは弁当製造のパートとして働いている。朝5時に家を出て職場に向かい、帰りは午後7時、残業があると午後10時ごろになる。1カ月の手取りは13万円ほどだ。家にはテレビはない。「夫がいないと道も分からない」と心細さに涙する。「ただいま」「おう、お帰り」という夫婦の会話を思い出す。
今でもカニカさんは1人で暮らすアパートで「ただいま」と声をかける。でも、返事は返ってこない。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/206.html
09. 2011年7月12日 07:53:55: NHX8MURqEE
よく引き合いに出される、リーマンショック後にアメリカ大手金融機関・証券にたいして行われたいわゆる「ストレステスト」、あれは合格させるためのテストで、まったくのお笑い種、実際、コメディのSaturday Night Liveのネタにされたくらいです。本来は倒産してしかるべき金融機関に対して、規制省庁(連邦準備銀行、財務省)と金融業界が一緒になって作った「テスト」をし、不合格者は出さず、単に増資などを若干の銀行で求めただけ。それでOK。
これでだまされたのは、最初から騙されたかった御用金融アナリスト、御用経済学者など。あとは、何もろくに注意を払っていなかった、大多数の国民。
おかげで、アメリカはリーマンショック後ほぼ3年近く経つのに、不況の真っ只中。オバマ恐慌(Obama Depression)と呼ぶ人もいます。国民を助けるどころか、大手銀行を助けるために莫大な金を国民から巻き上げ続けたからです。銀行がつぶれたら困るでしょう?というのが理由。
日本のストレステストやらも、似たようなことになるでしょう。テストをして、不具合を適当に見つけて、これを直すには莫大な費用がかかるが国民の安全のためにやらなくてはならない、電気がないと困るでしょう?そこで、新しい税金、電気料金の倍増をおこないます、かな。
東電がつぶれたら補償金が入りませんよ、という、チッソのパターンも有効です。
20. 宇宙一いい加減な博士 2011年7月12日 07:55:13: n4Wa2D7ip3fpM : FczAZaCmVs
18. 2011年7月12日 07:22:56: Xv65psv6gA
さっそくご回答ありがとうございます。やはり、コメントをいただくとうれしいものです。お互いに、朝が早いですね。結構年配の方ですか?いや、失礼しました。
極めて、興味深いご回答をいただきました。
>まず、あなた自身の意識を、よくせよ。
そうすれば、社会は、おのずと、良くなる。
これは、どう解釈すればいいのでしょうか。
つまり、「私=私たち」の意識が向上すれば、その人数に応じて、いわば直線的に比例的に社会がよくなるのか。
その通り、正解だ!
あるいは、
私個人の意識が向上すれば、「私一人」の社会=私の世界がよくなるのか。
これも正解。あなたの意識が向上すれば、その意識の波動が、
他者に、無意識に、伝播するのだ。
もし、後者の意味であるならば、博士にとっての社会には、もう、問題はないのでしょうか。
私は、まだ肉体を持つので、問題はある。
食わな、アカン、からね(爆笑)。
「私の世界」と「博士の世界」は共通なのでしょうか。違うものなのでしょうか。
良い質問だ、あなたも、私も、同じ暗黒想念の海の中に、いる。
したがって、影響しあう、のだ。ゆえに、共通の海の中。
どうも量子論のお話しと関わってくるように思えますが、
量子論が、不可視に、近い。
素粒子を、細かく、細かく、くだいていくと、光になる。
極めて興味深いです。先生とお話しができて楽しいです。よろしくお願いします。
19. 2011年7月12日 07:24:32: Xv65psv6gA
先生、その(爆笑)というのは、先生の品位を下げてますのでやめた方が言いと思いますよ。
即席不安定な弟子より
あなたは、授業中、居眠りを、したことは、ないですか?
おもろない話し、重要でない話し、では、飽きが来る。
ゆえに、笑いが出るような、話しを、入れるのだ。
マジメすぎるのも、アカンがなあ。 人間の幅が、ない。
笑うと、ストレス発散になる。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その10
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 11−(3)
★満洲の需要を外国資本から守るべく「東亜煙草」設立
鈴木商店のついでに東亜煙草について述べるのは、「東亜煙草は上原閣下が作り、最終的には周蔵がオーナーになった」と吉薗家に伝わるからである。その前に日本の煙草専売史を要約すると、専売制以前の煙草産業を支えたのは大小さまざまな煙草業者で、大手では天狗煙草の岩谷商会(薩摩川内市出身の岩谷松平)と、そのライヴァルでアメリカ・タバコと提携した村井兄弟商会(村井吉兵衛)が知られ、関西にはダルマ堂があった。政府は明治30年に葉煙草専売法を公布、翌年施行し、36年になると「煙草専売制度理由及施行順序」を公表し、翌年には猛反対を押し切って煙草専売法を施行した。日露戦の軍費に充てるためである。38年には台湾にも煙草専売法を施行し、 専売局が製造・販売を行い、民業は輸出業務だけとなった。
東亜煙草株式会社は、官煙の輪出・移出の特許に加え樺太全土の独占販売権を専売局から与えられた国策会社で、明治39年10月に創立、社長に佐々熊太郎が就任した。前年の日露戦争で日本の勢力圏となった満洲の煙草需要は大きかったが、BAT(英米煙草トラスト社)が前年に奉天工場を建設したことで内外業者による競争激化が予想された。専売局は、外国資本に対抗させるため、民製時代からの内地製煙草輸出業者を糾合して東亜煙草会社を設立せしめ、42年、同社に『朝日』『敷島』『ゴールデンバット』その他の官煙の製造を許可することとした。大正3年(1914)8月1日付の『京城日報』は「東亜煙草は朝鮮では巻煙草製造も行い、ソウルの製造所は建築広壮・設備完全で、職工3千人がいて、口つき両切り合計で日産5百万本を下らない。満洲でも各地に販売所を置き、英米煙草トラスト(BAT社)との角逐に備える」と報じている。
明治39年、第四軍参謀長・上原少将は1月17日を以て満洲から凱旋、2月6日付で本官の陸軍工兵監に復し、4月1日には軍功により功二級金鵄勲章と年金千円を賜わり、6月20日付で陸軍軍制調査委員を命ぜられ、7月6日付で陸軍中将に進級し、翌年の8月から第二師団ほか数個の師団の特命検閲使属員として地方に出張する。後に軍政家として知られた上原も軍令系統にいて専売局管轄の国策会社の設立に関与する機会はありえない。つまり、「上原が東亜煙草を作った」とは創立でなく「育成した」意味と解するほかはない。
★東亜煙草社長室に飾られていた佐伯祐三の代表作 へ<続>。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 11−(4)
★東亜煙草社長室に飾られていた佐伯祐三の代表作
本稿の前身は平成8年から本誌に掲載された『陸軍特務吉薗周蔵の手記』で、タイトルの通り『周蔵手記』を解読・解説したものである。平成8年の4月号の第1回以来、ひたすら手記の解読を続け、成果は本誌に毎月掲載してきた。周蔵が上原元帥の命を受けて大連・奉天に出張した大正元年5月条の解説はその第34回で、平成11年1月号に掲載された。解読の対象は『周蔵手記』別紙記載の『私文・張作霖氏の美術品を写したる釈明』で、出だしは次のように始まる。「五月六日に家を発ち大連に来たるは、上原閣下の自分に対する親心のやふなものと心得ている。満洲東亜煙草なる会社の設立の権利を、自分にも分けて下さる手筈のための目的であった。大連にて室原重成と会ひ、すべてやっつけて来るやふにと言はれていたが、会ってみると室原さんは自分の先輩であった・・(中略)・・持参なる三万円を渡し、自分も一人前に東亜煙草なる会社の権利者となる・・」。
右(上)の文から、上原が東亜煙草および満洲東亜煙草なる会社に関与したことは疑いないが、それ以外に手掛かりもなく、第34回は結局『私文』を字義通りに解釈した内容に終わった。ところがその後の調べで、東亜煙草が同年に新会社を設立した事実はないと分かった。つまり満洲煙草は実在したが、東亜煙草が明治11年に設立した子会社であって、大正9年の周蔵の大連行とはまず関係がない。周蔵の義妹池田チヤ(明治41年生)に確かめると、周蔵が関与したのは商号「満洲煙草商店」とのことで、株式会社かどうかも疑わしい。結局、大正9年に東亜煙草の満洲進出計画はあったが、法人化はしなかったらしい。後日、城山三郎の著『鼠』を読み、「鈴木子会社整理方針大綱」が示す関係会社49社の表の中に、「関係密接だが支配株のないもの」として東亜煙草の社名を見つけた。チヤも、東亜煙草の社長室に佐伯祐三の『郵便配達夫』を飾っていたことを思い出してくれた。それは昭和3年、早春のパリで祐三が独力で仕上げた油彩で、佐伯の死後吉薗家に届いた絵の一つである。その絵は、寄贈者の周蔵が東亜煙草に深く関係した証拠となる。高島鞆之助とギンヅルが、日高をダミーーとして間接操縦した鈴木商店は、東亜煙草に対する権利を有していた。それが後年、周蔵に渡ったのである。周蔵が「上原閣下の資本家」と評した日高は、実妹に三軒茶屋に家を持たせ、独身時代の勇作にあてがった。日高妹は勇作の監視役が任務で、勇作の正妻は野津道貫の長女槙子の成長待ちと決まっていたから、入籍はしなかった。高島の姪でもある野津槙子と勇作の縁組は素より、勇作に日高妹をあてがったのも高島がギンヅルの依頼で果たしたもので、日高尚剛はなぜかギンヅルに頭が上がらず、ギンヅルの言うなりにダミーを務めたと『周蔵手記』は記している。
*なお、中ほどの佐伯・「郵便配達夫」の写真は、ブロガー手許の書籍
からの撮影で見づらいでしょうが、不悪。
★周蔵の「満洲煙草商店」はケシ栽培を扱う闇業者? へ<続>。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 11−(5)
★周蔵の「満洲煙草商店」は、ケシ煙草を扱う闇業者?
さて大正9年5月、上原閣下の親心により、周蔵が大連で設立に参加した「満洲煙草商店」とは何だったか。仮称の段階で社名を「満洲東亜煙草」と称したので、東亜煙草の関連会社であることは確かである。『大阪毎日新聞』大正8年7月29日号によれば、朝鮮総督府の煙草専売制は韓国政府時代からの約束で、東亜煙草は本年を以て朝鮮における煙草製造販売権の一切を総督府に引継ぎ、今後は満洲・支那・シベリア・蒙古方面に雄飛する計画の下に「奉天に支店と製造所」「吉林付近で煙草栽培」のため姉妹会社を設立する予定とある。しかし、旧社員の回想録『東亜煙草社とともに』の年譜を見ても、大正8、9年には該当する動きがない。8年には、上海に本社を置き揚子江以南の東南アジア地域を活動地盤とする亜細亜煙草株式会社が創立されたが、同社は揚子江以北を東亜煙草、以南を亜細亜煙草に任せる専売局の二分案に基づく東亜煙草の対抗者だから、まず関係はあるまい。
東亜煙草の姉妹会社設立計画との関連すらはっきりしない「満洲煙草商店」だが、単なる煙草販売業ではないと思う。理由は、周蔵が常日頃、普通煙草を★「愚者の麻薬」として嘲笑していたからである。上原の指図で、煙草小売商・小山建一と名前を交換し、久原鉱業社内の煙草売店の売上金を小山名義で受け取ったが、これは久原房之助に売った★アヘン代金のロンダリングに過ぎない。つまり、満洲煙草商店とは、普通煙草業でなくケシ煙草業ではなかったか。
ケシ煙草は、アヘン採取後のケシのガラを細かく刻んで混ぜたもので、愛好者が多く利益率が高いから民業時代は多くの業者が関わり、その是非を巡って関係者の間で当時争いがあった。国内では非合法化のケシ煙草も、満洲など外地では製造販売が自由だったから、朝鮮で専売制実施のため満蒙への転進を余儀なくされた東亜煙草は、上原参謀総長の示唆により、ケシ煙草を扱う「満洲(東亜)煙草(会社)」の設立を一旦計画した。しかし、国際的にも微妙な問題があり、結局法人化を見送り、東亜煙草と無関係の闇業者「満洲煙草商店」を創立したものと思う。その経営者を室原重成と決めたのは上原である。周蔵が「自分の先輩である」と記した室原については、後日検討したい。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (11) <完>。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―1
―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡 落合莞爾
★吉薗家伝承に登場する「東亜煙草」関係情報
平成11年の初夏、大手出版社の編集者が、作家Sを連れて紀州に私を訪ねたいと言ってきた。平成8年出版したSの著書で触れた東亜煙草会社と日本民族学会について真相を探りたく、未知の資料を求めて、吉薗周蔵の義妹・池田チヤを遠野に訪ねた。
しかし、チヤからは「落合を通じるように」と言われたらしい。両人来訪の直前、周蔵の娘・吉薗明子が、チヤから「Sに伝えよ」と命じられた内容をファクスしてきた。曰く「叔母は資料をまだ大分持っているが、叔母がいうに、この資料はまず落合さんに渡すべきものと考えている。落合さんは何年も前から周蔵に関心を持ち、それを書きたといわれたのでお渡しした。同じように書きたいという人が別にもう一人おられるという訳だが、それは順序として落合さんに断らなければならず、自分としては落合さんに、有る資料は、もし後で出て来てもすべてお渡ししますよ。貴方の好きなようになされて良いですよ、と約束している」ので、「落合さんからご自身でお借りしてほしい。落合さんにはご自由にしてほしいと申し上げたのだから、落合さんがどなたにお貸ししようと自由ですから・・・と言いなさい」とある。
チヤから一件を託された形の私は、知ることはすべて話す所存で応対したが、両人は短時間にして席を立った。発つ前にSが「周蔵さんは望月郁三という人と間係があったか、それを間いて下さい」と言うので、明子に尋ねると「一緒に東亜煙草の仕事をした人」とだけ返ってきた。
右(上)のファクスに次の文が続く。曰く
「昭和五十五年頃、水之江殿之という人が、東亜煙草のことで何か資料などお持ちでないか、と訪ねて来られたことがありますが、その折現在は兼松江商にいると言われたので、小佐野さんの関係だと思い、何も出してあげなかった、とファクスの中に加えなさいとのことでした」。
東亜煙草の元社員で、半生を捧げた煙草事業を通じて十四歳年上の周蔵と交誼があった水之江殿之は、自伝『東亜煙草社とともに』の著作を志し、周蔵の遺した資料を求めてチヤを訪ねたが、チヤは資料を渡さなかった。「現在兼松江商にいると関いて、小佐野さんの関係で来たと思ったから」と言う意味は分からないが、私はすぐに水産物輸入業者兼松通商を思い出した。証券界で一時評判になった仕手で、社主・佐々木秀美が小佐野賢治の養子と称していたが、平成十年二月に倒産した。総合商社兼松江商とは無関係と思っていたが、チヤの言からすると兼松江商、小佐野および佐々木の間には、実際何かの関係があったようだ。水之江の自伝『東亜煙草社とともに』は昭和五十七年五月七日に刊行されたが、当時の私はそれを知らない。
すると明子からまたファクスが入り、「叔母に東亜煙草のことを聞きましたら、発起人として、上原勇作の一族の一人で日高さんの母方の、安達という人が入っている。多分安達りゅう一郎というと思うとのこと」とある。東亜煙草の設立発起人は煙草業者に限られた筈で、日高尚剛の母方といえば薩摩人だろうから、安達は国分の煙草業者なのか。いずれにせよ、日高ないし安達が、明治三十九年の創業時から東亜煙草に関与していた証拠である。
ファクスの続きは「また、よく彦根の話の中に出てきた菅野(すがや)という人で、高島屋の仕事をしていたとか何とかという、訳のわからない話のことで(略)この人は周蔵が株を一緒に持った人物で、菅野盛太郎という人だそうです」とある。
以前明子から「周蔵と一緒に仕事をした人に、高島屋の社長か重役だった菅野盛太郎がいると聞き、学友が高島屋社員だったので歴代社長を調べて貰ったがその名は出てこず、訳の分からぬ話に終わった。その菅野に関する情報だが、文脈からして菅野は東亜煙草と無縁と感じた。しばらくして明子が「広瀬安太郎 住所△△△ 野村xxxx(社名と肩書き)」と書かれたファクスが来た。そのファクスの所在を見失った今は、住所の具体的地名、社名(野村生命保険?)と肩書(専務?)をここに記すことができないが、この広瀬も東亜煙草での周蔵の関係者ということである。こうして東亜煙草の関係情報が幾つか寄せられ、また『東亜煙草社とともに』の第三章以下しかない不完全なコピーも人手した。しかし本誌連載中の旧『吉薗周蔵の手記』を急いでいた私は、東亜煙草関係を後回しにして、、平成十八年暮に本誌連載を終えてやっと調査する気になり、そのコピーを取り出して見て驚いた。
第三章のタイトルが何と「菅野盛次郎社長時代」であった。ファクスの菅野盛太郎と菅野盛次郎は兄弟か、或いは同一人物を明子が聞き違えたのか。取りあえず同人物と見なすと、菅野盛次郎は、東京税務監督局長から大正六年に東亜煙草社長に就任、十一年まで在任した。察するに、天下り社長の菅野が体面上株を待つのに必要な資金を、周蔵が出したのだ。それだけでなく、コピーには私自身の字で、「藤田謙一は上原勇作の隠し玉」「荒木大将が上原の真似をして尻尾を出した」「最終的には周蔵が東亜煙草のオーナーだが、室原と望月を表に立てた」「株は越前松平の殿様の一族に預けた」などと、当時チヤから聞いたままを書き込んでいたのである。
<続>
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―2
―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡 落合莞爾
★初代日商会頭・藤田謙一と台湾基本政策の転変
水之江の『東亜煙草社とともに』他によって東亜煙草社史を要約すると、以下のようになる。
東亜煙草株を買い集めた鈴木商店は、大正二年十二月二十四日の東亜煙草株主総会で★藤田謙一を取締役に送り込む。『弘前商工会議所』編集発行の『藤田謙一』によれば、藤田は豊臣方の武将・明石掃部の末裔で、明治六(一八七三)年、弘前藩士・明石栄吉の次男として生まれ、藤田家に養子入りした。東奥義塾中退後、青森県属・給仕となったが、明治二十四年に辞職して上京し、明治法律専門学枚(現在の明治大学)に入学、創立者・熊野敬三(注:明治大のHPでは、創立者に熊野の名はない)書生となる。三十二年二月、栃木県属となった藤田は九月に大蔵省専売局属に転じ、煙草専売制度を担当し、この時、蔵相・曽根荒助の知人後藤勝造と相識る。折から日清戦後の財政増収を図るため葉煙草専売法を公布、栽培業者の猛反対を押し切って三十一年に施行した直後である。生産・製造・販売一貫の完全専売制の実施が迫る中、大小の製造業者が乱立して過当競争に陥っていた。業界トップの岩谷商会も経営危機に瀕しており、社主の岩谷松平は後藤が推薦した藤田に商会の一切を委ねた。三十四年六月に専売局を退職した藤田は、翌年支配人として岩谷商会に入り、会社組織に変更して専務理事となる。藤田が英米煙草トラストに対抗して国産品天狗煙草を売り込み大成功を収めたので、三十七年の専売制度の完全実施に際して、政府による岩谷商会の買収金額は巨額に上った。四十年、藤田はまたも後藤に招かれ、名古屋の豪商・小栗家の整理に当たることとなり、四十二年五月小栗系の東洋製塩の取締役に就任し、翌年台湾塩業と改称し、建て直しに成功した。藤田の前に小栗家の整理に手を出して失敗した鈴木商店の大番頭・金子直吉は、藤田の手腕を見込み、招いて参謀とし、関東所在の傘下会社を任せた。鈴木商店の関連事業本部長といったところである。鈴木商店は大正年間に急成長した企業集団で、その沿革は前月号で述べたが、金子直吉が台湾民政長官・後藤新平に協力し、 三十二年台湾産・樟脳油の六五%の販売権を得たことが発展のきっかけとなった。
台湾の樟脳、煙草、阿片に関する基本政策の起こりは二十八年四月一日、第二次伊藤内閣に置いた台湾事務局で、有名な阿片漸減政策はこの時、内務省衛生局長・後藤新平が建白し、軍医総監陸軍省医務局長・石黒忠 も支持したので、伊藤総裁(兼務)が採用を決定した。台湾事務局は二十九年四月一日付で新設の拓殖務省となり、初代大臣に高島鞆之助が就き、三十年九月まで、台湾政策の策定と総督府の監督に任じた。高島の立場でこの経緯を見ると、初代総督(二八年五月〜二十年六月)の樺山資紀は高島の盟友で、高島のライヴァルで長州の寵児・桂太郎が二代総督になるが、四か月の腰掛けで実際には赴任しなかった。
三代総督(明治二十九年十月〜三十一年二月)乃木希典も長州人だが大阪時代から高島に親暚し、媒酌も依頼した仲である。折しも二十九年四月から三十年九月まで台湾政策を総覧し総督府を監督した拓殖務大臣は高島自身なのだから、乃木総督が台湾産業政策について高島路線に忠実だったのは当然である。乃木の後任が児玉源太郎である。巷説は児玉総督と後藤民政長官のコンビを強調し、桂・乃木時代の台湾治績に、見るべきものはないと言うが、それは土匪跳梁を抑圧しきれなかったことで、 児玉時代に土匪が帰順した。
従来、巷説が言う台湾統治とは、治安問題と社会政策的観点から見た阿片漸禁政策に重きを置き、産業政策を軽視している。台湾専売制度は三十年に阿片、三十二年に樟脳・食塩について実施された。ゆえに鈴木商店が販売権を得たのは、児玉・後藤の時期であるが、その政策に専売制度の根幹を作った高島の意向が影響して当然である。
また★後藤新平が曲者で、桂・児玉の長州系に繋がると見えながら、岳父・安場保和の関係で玄洋社にも通じていた。黒田藩浪人の結社たる★玄洋社は、真相は薩摩のダミーで、この関係は黒田斎清の女婿になった島津重豪の九男斎溥が黒田家を継いだことから始まり、後年の上原元帥に至っては頭山や中野正剛を私兵として使っていた。後藤の右腕の中村是公(漱石の友人)が、上原元帥の嗣子・七之肋に息女を嫁がせていることも後藤の隠れた一面を物語る(ここまで書いて、折よくこの見解を裏付ける★資料に際会したから、次稿で詳述する)。
ともかく高島が陸相の座を追われた三十一年頃から、高島と組んだ吉薗ギンヅルが日高尚剛をダミーとして鈴木商店に深く関わり、鈴木を通じて東亜煙草との関係も深まったと見てよい。その利権は、高島(大正五年逝去)の遺産として上原勇作が引き継いだのである。
後に東京商工会議所の第五代会頭として日本商工会議所の創設に奔走し、初代会頭に就いた藤田謙一は後藤新平四天王の一人と呼ばれ、後藤内閣が実現していたら大蔵大臣になったと評される(『藤田謙一』)。
玄洋社の頭山満と親交があった藤田には後藤も一目置き、商人扱いを超えた交誼があったというが、藤田は★薩摩ワンワールドの密命を受けて杉山茂丸の役割を承継し、後藤や長州軍人間との間を周旋していたのだろう。孫文ら亡命要人を匿い、ユダヤ満洲共和国の建国計画に参画した藤田は、フリーメーソンの日本代表と噂されたが、当否はともかく、何時の頃にか日本ワンワールドの上席に就いたものであろう。
<続>
04. 2011年7月12日 07:56:40: I1CF0z9UAk
12000世帯が、風評被害とだまされて、牛並に喰わされた。
生協といえば、歴史的な原水爆禁止運動の中で、放射線や放射性物質の害についての知識は十二分に蓄積してきたはず。
http://mytown.asahi.com/areanews/shiga/OSK201105160155.html
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/196.html#c4
09. 2011年7月12日 07:58:21: OzsstiQrqA
>>08
勘違いなさっているようなので一言。
投稿者はブログを書かれているご本人ですよ。確か。
ですから、どこからも苦情は出ませんし、主旨はここに書かれていること全てです。
これでお分かりになりましたか?
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/439.html#c9
21. 宇宙一いい加減な博士 2011年7月12日 07:58:30: n4Wa2D7ip3fpM : FczAZaCmVs
朝が早いですね。結構年配の方ですか
そう、もうすぐ、お迎えが来る歳でちゅ!
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/481.html#c21
06. 2011年7月12日 07:58:42: FjCxFOwQUM
まあ、菅は退陣するべきだな。
「脱原発」は、菅でなくてもできる。
脱原発派は、“原口総理”に期待。
反原発で言ったら原口さんが急先鋒でしょう #asanama
http://twitter.com/#!/uema2/status/84324794409037824
民主党代表を消去法で残すなら、原発政策に事故の大分以前から異を唱え、
福間原発の冷却系統回復の指示を首相に直訴し、被災地に足を運んで被災者の言葉を伝え、
被爆限度20ミリシーベルトの酷さを公言し撤回に奔走した原口一博氏が、何故候補に挙がらないのか。
http://twitter.com/#!/heliovoyage/status/78238870797418496
原口議員、次期首相出馬宣言! @kharaguchi 「原発自体は、巨大な不良債権を生み出す」
やはり、次期首相候補で期待が持てるのは、原口さんしかいません!応援しています!: @masason #genpatsu
http://twitter.com/#!/Kouno_Minato/status/82585865670492160
@webnatumi @Asagaokunn すべてを含めて、佐賀県出身の原口代議士に首相になって頂きたいのです。
http://twitter.com/#!/webnatumi/status/82838522482008065
民主・小沢氏「次の総理は若い原口君がいい」 原口氏、代表選出馬を宣言
http://twitter.com/#!/love_cocoa/status/78079744972816384
@kharaguchi 原口一博様 昨日TVを見ていて総理大臣に「俺がなる」と名乗りを上げられた時は、
応援している者として 思わず手をたたきました。ありがとうございました。
http://twitter.com/#!/kasad65/status/82615329754324992
@kharaguchi 原口総理を熱烈希望です。大連立などバカなことはやめてください。 #dpj #seiji
http://twitter.com/#!/tkaige/status/77611017085001729
菅首相辞任→原口首相(or総務大臣)→東京電力発送電分離→光の道…。。
http://twitter.com/#!/takurroo/status/79497677355745280
http://twitter.com/#!/rarineko/status/77652062711721984
小沢さんが補佐するのであれば、これは良い組み合わせ!
RT @genpatsu_news: 民主・小沢氏「次の総理は若い原口君がいい」 原口氏、代表選出馬を宣言
http://twitter.com/#!/tsukuba35/status/77603515865890816
@kharaguchi 次期代表選に絶対出てください。私たちは応援しますがハードルは高いのでしょうね。
この乱世を仕切れるのは原口さんしか居ない!あなたがビビッたら国は終りです。
http://twitter.com/#!/hajime_shimokaw/status/78650795511390208
この期に及んでも全然反省しない、「原発推進族」は本当に許せません!
いい加減、脱原発の対抗馬が次期首相に名乗りをあげて欲しいです!ねっ、原口さん!
@kharaguchi RT @YoichiTakahashi 経産相、原発政策堅持を明言
http://twitter.com/#!/Kouno_Minato/status/80757063793393666
@kharaguchi おはようございます。今日は夜勤なのでゆっくりとテレビ観てたのですが、
「特ダネ」では次期首相候補に原口さんのお名前がありません。
出馬されますよね、総裁選。否、ぜひとも政権をとっていただきたい。
「国民(庶民)目線」「多角的思考」をもった方でないと日本は救えない
http://twitter.com/#!/kyosuke_mori/status/78966074003042305
原口一博首相でいい。彼が政治的手腕があるかどうかなど正直どうでもいい。
今はビジョンを描ける人がいればいい。
その示したビジョンに向けて力ある人がそれぞれ自分の力を発揮すればいい。
そして何よりネットを使いこなせて透明化を確保出来る人。
これから先は誰も進んだ事のない道だ。進まなきゃ!
http://twitter.com/#!/herobridge/status/78408378317144064
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/187.html#c6
27. 2011年7月12日 08:00:27: M5gaM1UB7g
>>25 あなたは嘘つきだ。
>止めると言いながら、何故、止めないのか?
>>10
>あまりこの種の人は相手にしたくないのだが、・・・
>>17
>相手をするのは不毛だが、今日は俺も虫の居所が悪いので、やってやろうじゃないか。
>>22
>もうきりが無いから止めようと思ったんだが
>>25
>これって釣りか。抑えようとしたんだが、我慢できない。可笑しすぎる。本当に本当に最後の一言。
このコメントで最後にする。
日本と韓国の反目を煽りながら統治しようとしている輩がいる。
その輩の言葉で最後に、
You,Motherfucker,fuck off!
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/125.html#c27
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その11
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―3
―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡
★欧州大戦と安直戦争の波―高島=上原ラインの暗躍
話を元へ戻す。大正六(1917)年一月、東亜煙草は辞職する藤田謙一の後任取締役に鈴木系の長崎英造を選任した。同時に菅野盛次郎が社長に就任するが、周蔵は当時欧州探索中だから、東亜煙草株を菅野と共有したのはこの時でなく、大正八年の増資の際であろう。欧州大戦の影響で、満洲の経済界は好況に沸くが、英米煙草トラスト(BAT)の活動は朝鮮・満洲では消極的だったので、東亜煙草社の売上は急激に伸び、大正六年は前年同期比51%増にもなった。ロシア革命が起こり、翌七年八月のシベリア出兵も需要増加要因となり、上昇機運に乗じた東亜煙草は、上海のイタリア系オリエント煙草を買収し上海工場とした。八年の総会では長崎が取締役を辞め、後任に鈴木商店煙草部担当・岡田虎輔が就く。中華民国では日貨排斥が盛んになり、翌年の安直戦争で親英米の直隷派が親日政権の安徽派・段祺瑞に勝ったのを見て、BAT社は積極的姿勢に転じた。苦境に陥った東亜煙草は、十月には買収したばかりの上海工場を偽装運営することを余儀なくされ、翌年にはその名義を表面上外人に変更した。
『大阪毎日新聞』大正八年七月二十九日に増資の記事がある(概要は前月号にも述べた)。
「『東亜煙草開展』朝鮮煙草官営の結果、東亜煙草会社にては今回一千万円に増資する事となれるが、増資の内情に就いて聞くに、東亜の朝鮮における煙草製造販売権は本年限りを以て一切之を総督府に引継ぎ、進んで満洲・支那・シベリア・蒙古方面の煙草界に雄飛すべき目論見にて、奉天には支店及び製造所を設け、同時に吉林付近に一大煙草栽培業を経営せんため別に姉妹会社を建て、以て、英米トラスト等と対抗して其の勢に食い入るべく大計画を樹立するものの如く、既に総督府にては十分の了解を遂げおれりと伝えられ、総督府は東亜の進出と共にかつて韓国政府時代の約束に基づき、朝鮮内に於ける煙草の専売を愈々実行する 全鮮に亘る煙草製造会社或いは個人営工場二十八箇所を買収して、内地同様の制度を設けて煙草の製造・販売をなすべき計画の由なり」
この時の増資に際し、菅野が必要とした払い込み金を周蔵が立て替えたものか。東亜煙草は十年七月、鈴木商店と契約を交わし、同商店の海外販売力に期待するが、執拗な日貨排斥とBAT社の反攻により実績は上がらなかった。 同年、朝鮮に、いよいよ煙草専売制が実施され、最大の商圏を失う東亜煙草は朝鮮総督府に補償を要求する。東亜煙草は、朝鮮の煙草専売制に先行して、大小煙草業者を買収し、煙草事業の統一に努力したのに「専売制移行に対して総督府が引取る東亜煙草資産の評価と補償額が低過ぎる」と主張したのだが認められなかった。東亜煙草の経営危機が進むにつけて、鈴木色はますます強くなり、十一年五月二日の臨時株主総会では菅野社長を含む取締役全員が辞職し、補欠選挙で新取締役七人(鈴木系六人)、監査役三人(鈴水系二人。菅野は大蔵省出身ながら天下りの当初から上原勇作の隷下にあったことは間違いない。八年の増資に際して払込金を周蔵に仰いだのも、上原(その裏はギンヅル)の差し全で、周蔵は親方の命令に従っただけである。
東亜煙草の経営危機は更に進み、十一年の総会で菅野は辞職、取締役会は互選で新社長に南新吾、新専務に岡田虎補を選任するが、これは創立以来の「専務は専売局が推薦する専売局出身者に限る」という慣例を破るもので、「国益を担って国際市場でBAT社と戦っている国策会社の専務に鈴木商店子会社の社長が兼任するのはいかがなものか」と世間の批判を浴びたが、十四年に岡田専務が辞任して専売局出身の石原専務に代わったことで改善された。新社長・南新吾は元台湾銀行理事で、台湾銀行以来、南の側近たる松平慶猷(敬猷とも記す)も東亜煙草に入る。この松平こそ、チヤのいう★「越前松平の殿様の一族」と思われる。昭和金融恐慌の根源として日本近代史を揺るがせた★台湾銀行と鈴木商店の深い関係は、前者の実質的創業者が杉山茂丸、後者の実質的指導者が高島鞆之助→上原勇作と知れば、由来を容易に理解できるだろう。薩摩ワンワールド配下の台湾経済人から南と松平を選び、東亜煙草に入れたのは、上原勇作による人事であろう。ことほど左様に鈴木商店・東亜煙草は★高島鞆之助の遺産で、陰で上原勇作が牛耳っていたのである。
南社長の就任後も東亜煙草の経営難は続いた。朝鮮総督府に補償を請願するが捗らず、専売局からの支援もゴールデンバットの製造受託だけに止まり、活路を求めて昭和二年に競合会社の亜細亜煙草を合併した。昭和五年不況の進行で煙草需要も低迷して経営が困難を増す最中、南社長が急逝し(自殺とされる)、代わって大蔵省出身で鈴木商店幹部の金光傭男が社長となる。金光も大蔵省でなく、実質的に鈴木商店からの派遣で、背後にはやはり上原勇作がいた。
翌昭和六(1931)年、満洲事変(「9.18事変」)が勃発するや満洲の紙巻煙草需要は激増し、、東亜煙草の業容は一転して拡大気運となった。昭和十二年七月の支那事変(7・7盧溝橋)で華北の需要も増加したので、東亜煙草は同年11月の臨時株主総会で、関係会社として満洲東亜煙草・華北東亜煙草を新設する。前者の取締役の中に松平慶猷の名を見て、チヤの言「周蔵さんの株を越前松平の殿様の一族の人に預けた」を想起する。
松平は南の自殺後も東亜煙草に残り、十二年に満洲東亜煙草設立の際、役員になったのだ。八年に死去した上原の東亜煙草に関する権力は荒木貞夫が受け継ぎ、周蔵はその配下となる。関連会社設立を決めたのも荒木→周蔵のラインで、チヤの右の言は、満洲東亜煙草新設に際して、周蔵が自分の出資分の名義を新役員松平慶猷にしたことを意味するのではなかろうか。
<続>
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―4
―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡
★「雨蛙が大蛇を呑んだ」 満洲煙草へ突然の身売り
金光社長の経営下にあった東亜煙草は昭和十四年、突然身売りする。満洲煙草社、すなわち昭和九年十二月設立の満洲煙草股扮有限公司(社長:長谷川太郎吉)であった。同社設立にあたり資金援助した大和銀行から広瀬安太郎が取締役に入り、十年に新京に小さい工場を建てて操業を始めたが東亜煙草とは比較にならぬ規模であった。ところが金光康夫は十四年八月、拓務相就任を機に所有の東亜煙草株全部を長谷川太郎吉に譲渡し、旧役員も全員辞職、新役員には長谷川新社長系の人々が、就任し、株主の大和銀行からも広瀬が取締役に入った。「雨蛙が大蛇を呑んだ」と言われたこの買収劇は東亜煙草の社員一同にとって青天の霹靂で、青島工場長水之江は独新で上京し、専売局出身の金光秀文専務に真相を質したが要を得ず、金光社長にも聞くも同様だったこの満洲こそ、大正九年の大連で周蔵が三万円を出資してスタートした「満州煙草裁商店」の後身と推断するが、いかがであろう。野村合名傘下の大和銀行から出向した広瀬が、前述ファクスの広瀬安太郎であることは間違いない。「設立に当たって大和銀行がした資金援助」とは、大和銀行が周蔵資金を自行名義に仮装して株金を払い込んだので、役員として出向した広瀬はダミーであった。要するに、大正年設立当初から周蔵の所有であった満洲煙草社の実質的創業はずっと古く、大正九年に周蔵の三万円を元金として大連で開業したが、法人化せず個人企業「満洲煙草商店」と称し、室原重成を営業責任者としてケシ煙草を販売してきたものであろう。『東亜煙草とともに』の第四章で、同社営業幹部の名を掲げ「これらの人々は東亜煙草社が苦難に耐えて地盤の維持に獣身の努力を続けてきた販売の老練家である」とする中に奉天駐在所長・室原重盛の名がある。この室原重盛は重盛の別名か、それとも家族か、とにかく室原一家を挙げて、社の内外から東亜煙草に関係していたのである。
この年、専売局は東亜煙草に対する特許の認可を廃止した。これについては、辞めていった水之江も「明治三十九年、東亜煙草社が国策会社として創立され、昭和十四年に至るまでの長い間、連綿として継承してきた専売局交付の許認可事項が確たる説明もなく水泡のように消えたことは全く理解に苦しむことであった」と嘆く。これについて、Sは前述の著書で次のように述べる。
「元東亜煙草青島工場長の水之江殿之にインタビューした記事のなかに、この事件の背景についてふれられた箇所がある。『・・・推測しうることは、日中戦争という戦時下で、軍部が占領地政策推進の一環として、たばこの財政収入および生活必需物資としての重要性に鑑み、東亜煙草を専売局の監督から軍の管理統制下に組み入れようとしたところに重大な鍵が隠されているのではなかろうか』この事件の真相をおそらく知っていたであろう水之江も、『あの身売りには深い事情があった。しかし、いまだそれを明かすべきではない』というだけで、とうとう死ぬまで、この事件の真相を明かすことはなかった」
右の水之江のインタビュー記事は、昭和五十五年に『たばこ日本』に掲載されたものである。自伝では「理解に苦しむ」と嘆いた水之江は、インタビューでは「深い事情があったが、いまだ明かすべきではない」と述べている。後者が本音で、★深い事情とはケシ煙草の関係である。東亜煙草の身売りの真相は、専売局が東亜煙草に対する特許・監督権を解消する外見を装い、実は大蔵省の課税権を外すことで陸軍の外郭として経営の自由を保障したもので、一年前から準備し、実行にこぎつけたのは★某皇族の計らいであった。以後東亜煙草社は破天荒な利益を上げたが、軍部の後押しのため税務当局を怖がる必要もなく、決算報告は単なる作り物だった。経緯は後稿に回すが渋沢敬三と親しくなった周蔵は、東亜煙草の膨大な利益を渋沢の関わる民族学研究所に注ぎ込むが、周蔵は表面に出ず、望月郁三を介して行った。
Sが著書のなかで怪人物としてしきりに強調する望月は、チヤの話では「甘粕正彦さんの乾分(こぶん)で、東亜煙草のオーナーとなった周蔵さんが、宮原とともに東亜煙草の表側に出した人物」という。Sの著書に、民俗学研究所設立者の一人岡正雄(あの柳田の言を書名にした『本屋風情』の著者、岡書店店主*ブロガー註)が渋沢敬三の思い出を回顧するくだりがあり、「望月君という後で民族学協会の理事になったが、しまいには非常なでたらめをやっていっちゃったけれども、これが東亜煙草から金を出してもらって財団(落合註:民族学協会)の資金を作った」と証言したと記す。これが期せずして周蔵が東亜煙草に関与したことの傍証をなしている。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12) <完>。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―1
★知られざる大物『上原勇作伝』と『周蔵手記』に見る高島鞆之助
◆落合莞爾
ニューリーダー誌 2008.1月号
●杉山茂丸の一端を明らかにした『アジア連邦の夢』
(*『ドグラマグラ』の夢野久作=杉山直樹・泰道の父親)
前月号で、高島鞆之助・樺山資紀と児玉源太郎、後藤新平の関係を述べつつ、「ここまで書いて折よく、この見解を裏付ける資料に際会した」と書いた。その資料とは、平成18年に発行された堀雅昭著『杉山茂丸伝〔アジア連邦の夢〕』である。内容は後稿で紹介するが、玄洋社総帥の頭山満の指南役だった杉山茂丸が、伊藤博文・山県有朋・桂太郎など長州派首脳や後藤新平を操縦していく経緯を、原資料に当たりながら解説したもので、御用史家や売文史家が従来全く気づかなかった杉山の本質を明らかにしている。この著の価値は長州派首脳に取り入った杉山が、独自の政治的価値観を以て国策を進めたことを立証した点にあるが、その一方、一介の浪人・杉山がそのような地歩に立ち得た理由については考察及ばず、また杉山が近侍した謎の貴公子・堀川辰吉郎に全く触れていないのも遺憾がある。
尤も、かかる杉山の深奥部に関しては、そもそも直接資料なぞあるべくもなく、考察対象を原資料に限定する限り、已むを得ないものと思う。ともかく私としては、本誌の新連載で探究・推理を始めた日本近代史の核心部分、すなわち吉井友実・松方正義・高島ら薩摩ワンワールドと、その後継者たる上原勇作と上原に続く荒木貞夫につき「杉山茂丸という一本の補助線により極めて明瞭に裏付けられた」との実感がある。
これ幾何学の根本定理発見にも比すべき近来の快事と自画自賛し、すぐにも論考を開始したいが、実はその前に、高島鞆之助について一通り概観せねばならない。今日は勿論、明治・大正の昔でさえ一般世間は高島の実状を全く知らなかった。私も例外ではなかったが、たまたま『周蔵手記』にチラリと出てきた高島鞆之助を調べることで、薩摩ワンワールドの存在に気付き、彼らと長州派首脳を仲介した政治的触媒が必ず存在したことを確信した。杉山茂丸こそ其の人なるべし、との推測に至るまでは早かったが、杉山が漂う政治的空間が広過ぎて、全容が掴めなかった。霧が晴れるように、しだいに山容が見えてきたのは、堀川辰吉郎に関する情報が少づつ集まってきたからで、その堀川について、堀雅昭氏が黙しているのは、多分原資料がないからと推察するが、まあ現時点では堀川辰吉郎まで分析する必要はないかもしれない。薩摩ワンワールドの真相を、私は高島鞆之助の側から見たが、堀氏は杉山茂丸側から見たと言ってもよい。高島と杉山は、言わば相手側の隠された真実を互いに証明し合う関係にある。堀氏前掲著の出現は真に時宜を得たものと思わざるを得ない。
私が高島鞆之助の存在を知ったのは平成8年で、吉薗家から見せられた『周蔵手記』のなかの「別紙記載」にその名を見て、初めてその存在を意識した。記憶する限り、高島鞆之助なる軍人政治家の名は、それまで読んだ史書の何れにも特筆されておらず、史家から全く無視された存在であった。
まず、『周蔵手記』における高島鞆之助の登場ぶりを見てみよう。陸相・石本新六が急死し、その後釜に第十四師団長・上原勇作が就いたのは明治45年4月2日のことであった。陸相の座は、高島鞆之助が31年1月桂太郎に追われて以来、桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅と3代13年に亘り長州が独占してきたのだが、寺内が朝鮮総督専任となるに及んで、後任が兵庫出身の石本新六(士官一期)と上原(同二期)に絞られた。
結局、9年に亘り次官として寺内陸相に仕えたことが決め手となり、石本が44年8月寺内の後を襲い、陸相の座に就くが、僅か8か月で過労のために急死したとき、後任候補にはもはや上原しかいなかった。折から前年の辛亥革命で、東アジア情勢が一変し、これに備えるため数個師団の増設を欲する陸軍は、期待を上原一身に繋いだので、45年4月2日実に14年ぶりに薩派の陸相が生まれた。時に首相は西園寺公望であった。7月30日明治天皇の崩御により大正と改元、その2日後の大正元年8月2日、上総一宮の上原勇作別邸のお目見えから『周蔵手記』は始まる。
続く。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―2
●上原勇作、原敬激突「増師問題」の帰結と高島鞆之助
その間の事情を『元帥上原勇作伝』(以下、単に伝記とする)に見れば、元年12月22日、二個師団増設案を閣議に提出した上原陸相は、行政整理を打ち出した西国寺首相と真っ向から対立するが、何としても引っ込めない。西園寺に同情した枢密顧問官・高島鞆之肋は自ら上原陸相を訪問して、増師案の撤回と辞職を勧告する。元帥・大山巌も同様の周旋をしたが、上原は受けようとしない(註:高島が上原を説得したのは、誰かの依頼を受けたものと思う。蓋し、当時上原を説得できるのは高島しか居なかったからで、高島に説得された上原は、増師案を撤回して辞職する決心をしたが、山県元帥の工作を受けて変心し、増師案を提出したのが真相である。山県は、西園寺に増師案を呑ますことで内閣の延命を図ったが、それを西園寺が拒否したものらしい)。上原は当時、某人に向かい「自分が西園寺と直接懇談していたら、増師案の解決も困難でなかった。山本達雄蔵相は、自分に西園寺との会見を約束しておきながら、終にその機会を作らなかった。しかもその実、内閣の実権者として増師延期論の中心となっていたのは、内相原敬に相違なかった」と語った。この意味において、増師案問題は、実に上原と原の対決であった、と伝記は謂う。原敬と上原はここに悪因縁を生じ、それが後年の大事に繋がるのである。
閣議で増師案を否決された上原は、単身青山御所に参内し、陸相の辞表を提出した。これは、統帥権独立の下での帷幕上奏権によるもので、「閣僚辞職の場合は辞表を首相に預けるという従来の慣例を破る<暴挙>で、そのために西園寺内閣は、同月5日を以て倒壊するに至る。上原も自らこれを非立憲(ビリケン)的行動と称したほどで、暴挙を自覚していたが、陸軍内部では、軍のためなら内閣をも倒すという行動力が以後高く評価されることとなった。自然待命となった上原は、再び軍職に就かぬ覚悟をほのめかして都城に帰省、鹿児島の日高尚剛邸に静養し、翌年1月24日からは指宿温泉に逗留し、静養3週間に垂んとした。この間、陸軍中枢すなわち山県元帥、寺内朝鮮総督、楠瀬陸相らは上原の処遇について苦慮し、寺内大将が1月15日付書簡を以て、上原に軍職復帰を勧告する。寺内の手紙で心境一転した上原は、師団長への復職を希望し、政府も之を容れて名古屋の第三師団長を内定した。ところが、その通知がなかなか上原に届かない。山県元帥と政友会の原敬の意見が合わず、その調整に手間取っていたのである。ここにも原敬と上原の相剋が兆している。
現存する2月18日付の井戸川辰三中佐(陸軍省副官兼陸相秘書官)宛て手紙で、上原は「今18日夜11時まで待つも何事も申し来らず、誠に待ち長く候」と苛々する心境を述べ、勇作身上の発表まで僅かに10日位しかないので、発表有り次第直ちに名古屋へ赴任するが、東京へは寄らず、旅行先から直接名古屋へ赴任する。都城は25日までに引上げる予定で、すでに当地の研究も済ませたので、志布志、福島、飫肥、宮崎方面に出向きたい、との所存を告げた。文面通り都城を発った上原は25日から福島に出て、飫肥、宮崎を経て小林駅から乗車したと伝記には記すが、道順としては不自然で、伝記編集者が上記井戸川宛て書簡を根拠に、適当に書き流したものと思う。
続く。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―3
●大正天皇も憂えた上原の急病と浅山丸の神効
ところが上原は車中で熱病を発し、下関を過ぎるころ益々甚だしく、尋常一様の感冒ではあるまいと途中下車して広島か姫路の陸軍病院に入ろうかと迷うも、強いて名古屋に向かおうとした。しかし発熱が猛烈なため大阪で途中下車し、旅館で陸軍病院長の来診を受け、翌朝大阪赤十字病院に入院した。京都帝大の中西亀太郎博士が来院して診察したが病名すら分からず、疲労と腸の不調と判断し、強壮剤を与えただけであった。折しも千葉の陸軍歩兵学校に行幸された大正天皇から、侍従武官長に「上原の病状はどうか」とのご下問があった。前年、戸山学校から歩兵学校を分離して千葉に移転し歩兵学校とした、その実行者が上原陸相だったから、天皇は行幸先で上原を想起されて、その病気に思いを致されたのである。
武官長が病状を奏上すると、「有栖川宮の病状を診察するため、青山胤通博士が須磨の別荘に行くから、上原の病状も診察させよ」との御言葉があった。青山胤通は3月29日、大阪赤十字病院で上原を診察し、肺壊疸と診断し、「3年ほどは劇職は無理」と楠瀬陸相に告げた。青山の診断を聞いた上原は、当分軍務を断念して第三師団長の辞表を提出、6月9日付で待命となった。この間、見舞いに西下した槙子夫人にすぐに帰京を命じた、との逸話に添え、「彼の武士的責任感の鋭敏なることに就いては、元帥(上原)と乃木大将と共通の点があった」など、些細なことでも上原を褒めそやす伝記ではあるが、興味深い記述もある。
それは、「また高島鞆之助は、東京より西下して病院に来たり、元帥(上原)を見舞ふたが、玉木看護婦に対し『浅山丸を呑んでゐるか』と問い、玉木が『一日十五粒である』と答ふるや、『それでは足らぬ。一回に三十粒やれ』と命じたので、玉木は其の通り、一回三十粒を与えた。然るに、脈は善く、浣腸注射もやめる位になったが、翌朝に至り、元帥(上原)の眼球に斑点が生じたので、再び減量したと云ふ珍談もあった」との記事で、浅山丸の神効を語って余りある。
大阪日赤病院に飄然と現れた高島鞆之助は、当時枢密顧問官で、陸相を引退して15年経った当時も、決して世人に忘れられた存在ではなかった。陸相上原勇作の単独辞表提出を軍部の横暴と見た世論の憤激は、西園寺の後継首相に就いた桂太郎に向けられ、憲政擁護・閥族打破を主張する在野政党と、これに同調した院外団、言論界、一般民衆の、桂首相に対する攻撃はまことに凄まじいもので、第三次桂内閣は大正2年2月11日、わずか53日で倒壊し、戦前における民衆運動による倒閣の不完全ながら唯一の例となった。
桂内閣崩壊の後、組閣の大命を受けた山本権兵衛は、多数党の政友会の支持を条件にしたが、政党内閣実現の要求に湧く党員たちとの間で政策協定が結べず、政友会内部にも亀裂が生じたため、多数の確保が困難になる。世上では、護憲運動の先頭に立つ国民党の犬養毅を入閣させて、山本内閣を一気に成立させようとの動きがあり、また「山本が閥族で駄目というなら高島鞆之助でゆこう」と尾崎行雄が言いだした。高島も薩閥の一員には違いないが、政友会に入党して党員になるなら良いではないか、という理論で、高島人気がまだ裏えていなかった証拠である。
単独辞職後の上原の病気は、伝記の詳しく記す所であるが、その裏側の真相を記した資料が別に見つかった。
まず『周蔵手記・本紀』昭和十二年条で、「昨年十一月、牧野サンカラ女中ガ使ヒニ来ラルル」で始まる箇所を要約すると・・・昭和11年11月、淀橋の天真堂医院(牧野院長)に宇垣一成から連絡があり、伊豆長岡の自宅に来て貰いたいと周蔵に伝えよと言われたと、牧野の女中が連絡に来た。宇垣は、8月5日に朝鮮総督を辞めたばかりで狩野川の辺で静養していた。訪ねた周蔵に、宇垣は悠々自適をしきりに強調しながら、「君とは四度目だな」と切り出した。二回しか党えていない周蔵の怪訝な顔を察して、「大正二年、上原閣下が大阪の病院に入院していた時、あの折の病院の廊下で会った」と言いだす。それに驚いた周蔵が、当時を思い出すままに書き留めた。「・・・あの折は上原閣下から東京に呼ばれて、陸軍指定の旅館で待っていたが、連絡がなかなか来ず隠れて同行してくれた父・林次郎と大叔父・木場周助が随分心配した。結局、大阪赤十字病院に来いとの指令が届き、一行は大阪に移動した。閣下の病気は、ギンヅルから貰っていたケシ粉(阿片末)によって回復したが、閣下がそのような麻薬を用いていることにも、当時は驚いた」と記している。
●「先ノコト 閣下二任セテ心配ナヒヨ」
いま一つ、『周蔵手記』別紙記載の中の「1945年(昭和20年)9月末ピ 敗戦カラノ記」と題する文中、周蔵が上原に「草」として仕え始めた大正元年から2年の頃を回想した箇所があり、そこに高島が出てくる。
要約すると、大正元年8月2日、上原陸相の使いという前田治兵衛が周蔵宅に来て、千葉・一宮の上原別荘に会いに来い、との指令を伝えてきた。お目見えにも一人でゆく度胸のない周蔵は、前田治兵衛と大叔父の木場周助についてきて貰う。お目見えに合格して、その場で「草」を命じられた周蔵は、一旦帰郷して決心を固めるが、大正3年春、熊本に居た上原から、「前年からの事と今年からの将来の事を決めるために上京せよ」との指令を受ける。上原自身は広島に寄ってから上京するとの事であった。この時も、一人で行けない周蔵は、林次郎と周助に伴われて東京へ出て、指定の旅館で待っていたが、なかなか連絡が来ない。そのうち連絡があり、「閣下は病気になり、大阪で入院しておるので、大阪に移動せよ」との指令であった。「その時にそれ(ギンヅルの薬)を届けるように」と、親爺殿が持ってきてくれたのである。大阪に移動し、病院に軍人が屯しているなかを取り次いでもらうと、本人から頼まれたと称する高島なる人物が現れ、「薬を先に渡せ」と言った。閣下はその薬を待っていたようで、婆さんは二種類の薬を呉れたが、一つは一粒金丹と同種の丸薬で、もう一つは黒砂糖で固めた丸薬であった。後者を多く持参したことを告げると、高島さんは「さすがヲギンさんだ」と言われた。その折、高島さんから「先ノコト 閣下二任セテ心配ナヒヨ」とはっきり言われて自信が沸いた周蔵は、以後は父や大叔父に頼らなくなった。この薬は都城・島津藩の貴重薬で、ギンヅルが作り、藩主に届ける傍ら上原にも送っていたという。
以上が「敗戦カラノ記」の該当部分の要約である。ギンヅルの二種類の薬のうち、高島が欲していたのはむろん後者、すなわち伝記にも出てくる浅山丸である。ところが、その薬が大阪赤十字病院の上原に届いた経路が、傍線部で分かるようにニュアンスが異なり、はっきりしないが、強いて追究すべき問題でもあるまい。むしろ、高島と周蔵の初会見が大正2年春の大阪日赤病院だったこと、その際、高島が上原の親代わりのように振る舞っていたことが見えて面白い。それを周蔵が戦後まで覚えていたことで、周蔵の高島に対する感情と、高島との親密な関係がしのばれる。
日本中で「原発利権」の甘い罠 再稼動に前のめり 玄海町長に巨額九電マネー
(日刊ゲンダイ2011/7/11)
東電だけじゃない!
◆佐賀県知事には献金発覚
やっぱりだ。いまだ原発事故収束の見通しが立たない中、玄海原発の再稼働に「容認」の姿勢を見せていた佐賀県の古川康知事(52)が、“九電マネー”を手にしていた。九州電力の歴代佐賀支店長ら幹部から、過去4年間で計42万円の個人献金を受けていたのだ。
そもそも、古川知事の父親は九電社員で「玄海原発PR館」の館長だった人物。知事自身、かつて九電の社宅に住んでいた。地元では「献金? そりゃあ、もらっとるやろう」というあきらめの声も多いが、九電マネーをフトコロに入れていたのは古川知事だけじゃない。運転再開にイの一番に同意した(その後撤回)玄海町の岸本英雄町長(58)も九電とズブズブだ。実家は九電と取引がある老舗ゼネコン「岸本組」で、地元紙などによると、原発関連で九電から17億円以上もの工事を受注していた。要するに、県も町も
“九電ファミリー”。やらせメールは、そんな癒着構造の中で起こるべくして起きたのだ。
「岸本組は町長の実弟が社長を務めていて、町長は第3位の大株主です。この5年間で、株の売却益や配当で1000万円以上を手にしていました。岸本組は玄海町や九電、九電子会社の西日本プラント工業からの受注が多く、最近では玄海原発の温室熱供給設備設置の土木工事も請け負っている。ただ、長引く不況で経営が悪化しているため、これ以上、玄海原発が止まったままでは厳しい。それに、玄海町の今年度当初予算57億円の歳入のうち、原発関連は6割以上。玄海町と岸本組にとって、玄海原発はなくてはならない存在なのです。再稼働にシャカリキなのも当然でしょう」(環境ジャーナリスト)
玄海原発3号機は、使用済み核燃料を再処理して使う危険なプルサーマル発電だ。最悪の事態になれば、佐賀県はおろか、50キロ先の福岡市内も壊滅する。再稼働には反対の声が多いが、地元の首長連中がこれではどうしようもない。
東電も、地元や財界、学者にカネをジャブジャブつぎ込み、あの手この手の懐柔策を行ってきた。こんな調子で日本中が“原発利権”に牛耳られているのである。「脱原発」なんて夢のまた夢だ。
http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-3390.html
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/207.html
07. 2011年7月12日 08:08:01: I1CF0z9UAk
>>06さま
12000世帯が、風評被害とだまされて、牛並に放射性物質喰わされました。
生協といえば、歴史的な原水爆禁止運動の中で、放射線や放射性物質の害についての知識は十二分に蓄積してきたはず。
http://mytown.asahi.com/areanews/shiga/OSK201105160155.html
日共系の生協が、汚染地域の農産物を拡散しまくっているから、組織人として仕方なしということでは?
19. 2011年7月12日 08:08:01: DtCsI6Tk6E
この輩の言動を聞いていたら
胡散臭いのは前から分かっていたが..やはり荘だったか。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/154.html#c19
平成20年11月に亡くなったニュースキャスターでジャーナリストの筑紫哲也氏=享年
(73)=の遺族が、相続遺産をめぐって東京国税局の税務調査を受け、約5千万円の所得隠し
を指摘されていたことが7日、分かった。遺族側は修正申告を済ませたという。
遺族や関係者によると、筑紫氏の死後、妻ら遺族は筑紫氏の相続遺産を申告したが、税務
調査の結果、海外口座の資産約5千万円を除外していたという。口座には不動産の売却益が
入金されていたとされ、国税局はこうした行為が仮装・隠蔽にあたるとして所得隠しを指摘
したとみられる。
筑紫氏は早稲田大学を卒業後、朝日新聞社に入社。政治部記者や本土返還前の沖縄特派員、
ワシントン特派員などを歴任。「朝日ジャーナル」編集長などを経て、平成元年にTBS系
の報道番組「筑紫哲也NEWS23」のメーンキャスターに就任した。8年にはTBSの
スタッフがオウム真理教幹部に坂本堤弁護士のインタビュー映像を見せた問題で、「TBSは
死んだに等しい」と発言し、反響を呼んだ。19年5月、肺がんであることを番組内で告白。
20年8月11日放送の梅原猛氏との対談が最後の出演となった。
筑紫氏の妻は産経新聞の取材に「国税局に指摘され、昨年冬に修正申告して、もう終わった話」
としている。
産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110707/crm11070711410010-n1.htm
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/128.html
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その12
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―4
●「(ギンヅルが)来タル目的ハ 高島サンニ・・」
もう一つは『周蔵手記』の「別紙記載」で、「九月ニナルトハヤク婆サンガ上京出テ来タル」で始まる「京都探訪記」で、ここにも高島が出てくる。大正6年9月初頭から10月下旬にかけて、ギンヅルに同行して京都に行った周蔵が、祖父・提哲長の愛人だった渡辺ウメノを訪ね、その孫で外科医の渡辺政雄を東京に引き取った一件の記録に、高島の名が二箇所出てくる。まず冒頭部分に「(ギンヅルが上京し)来タル目的ハ 高島サンニ関フル事モアルヤフダシ、閣下二用モアルノデアラフガ、例ノ如クアノ人物ト同伴デアルニ 何カタクラム事デモ アルノデアラフ。閣下モ又マメニ ヨク手紙ヲ出スヤフデアルシ 婆サントニ人 薩摩ノ田舎ニオヒテ コノ國ノ情勢ヲ コマンカ事(細かなこと)マデ 手二取ッテヲラル・・・」とある。「アノ人物」とは日高尚剛で、日高を同伴してギンヅルが上京してきたことから、周蔵は、二人の用件が前年1月11日に死去した高島鞆之助の後始末、及び上原勇作との用件と察し、「上原閣下もまめに報告を欠かさないから、この二人は薩摩の田舎にいながら、この国の情勢を細かい事まで把握している」と記したのである。上原から中央の動向を報告させている事を以て、二人の行状の一端を想像すべきであろう。
同じ文のなかで「トコロデ 三居(ギンヅルのこと)ハ、哲長トハ最後マデ 妾トハ云へ 暮ラシテ来テヲリ、自分ガコノ頃 閣下ヤ高島サンカラ聞クニハ・・・」とある。ギンヅルの過去のことを、この頃になって上原と高島から聞いたというわけだ。この高島が鞆之助か養子高島友武か未詳だが、前者は前年1月11日に死去していた。後者は吉井友実の次男で鞆之助の女婿だが、当時は陸軍少将で第十九旅団長であった。十九旅団は京都十六師団麾下で、本部が伏見区藤森にあり、今はその後に京都教育大学が置かれている。周蔵は10月に京都へ行くが、その折高島友武を訪ね、そこでギンヅルの噂を聞いたというのだろうか。そこまでは分からぬが、何しろ高島鞆之助は戊辰戦争以来のギンヅルの辱知、しかもビジネス・パートナーの仲であった。大正2年春、大阪日赤病院で初めて会った周蔵だが、ギンヅルの孫として粗略にしなかったのは当然で、その関係が養嗣子の友武にも引き継がれていたものと観てよい。
余談ながら、明治から大正にかけて、東京新宿の淀橋に淀橋医院と称する個人医院があった。吉薗周蔵が大正六年以来、本願寺から預かっていた佐伯祐三の診療を頼んだ医院である。院長は日向・飫肥(おび)藩主・伊東家の血筋の人で、薬局部には遠藤与作という薬剤師がいた。伝承では、淀橋医院は高島鞆之助と川上操六が作ったもので、上原勇作が継承したという。特色はどうやら薬局部にあり、そこで阿片その他の薬学的研究を秘かに行っていたようである。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13) <了>
*************
*以下、参考までに、
天才佐伯祐三の真相 vol.4 より。
(★左下のリンク「佐伯祐三調査報告」からどうぞ)
http://www.rogho.com/saeki/vol-4.html
第三章 武生市発表「小林頼子報告書」なるもの
第二節 小林報告書の要点と誤り から
★B.周蔵と医学 を紹介しておきます。
**************
B.周蔵と医学
吉薗資料の内容
1.熊本高等工業を二年で中退し、山本権兵衛の紹介で帝国医専に裏口入学。「これを数ヶ月で中退して、ケルン大学へ留学」(小林氏の解釈)。
2.帰国後、中野に救命院を開設する傍ら、淀橋の牧野天心堂で手伝う。
3.牧野は佐伯の結核の主治医であったが、不在の折りは、中村彝の主治医であった遠藤が佐伯を診ていた。
4.周蔵は医師免許を取るため、額田の研究室に通って、医学の研究を続けた。額田たちは大正十四年(小林氏の解釈・本当は大正六年)の段階で、周蔵が血液型を分離する作業をみて驚嘆した。
●小林報告
1.周蔵は東亜鉄道学校(熊本)に大正元年十月一日から三年九月二十五日で在学していた。上京したというのは疑わしい。
2.帝国医学専門学校の存在は確認できない。
3.牧野の遺族は周蔵や佐伯の名前を知らなかった。
4.遠藤医師が、中村彝の主治医だった遠藤繁清のことだとすると、中村と知り合ったのは大正十年四月以後だから、大正六年十一月あたりに出てくる「救命院日誌」は怪しい。
5.淀橋病院は昭和七年の設立なのに、「救命院日誌」の大正六年十一月以降の条に出てくるのは、怪しい。
6.「救命院日誌」一九一六(本当は一九二六年)年四月三日の項に「額田兄弟の母(これは小林解釈)を大森に訪ねた」とあるが、額田医師の母上は前年九月十一日にすでに死亡しており、住居も大森ではなかった。
7.日本の血液型の研究は大正五年頃より、広範な分布調査がなされているのに、その九年も後で、額田が驚嘆したり、また「救命院日誌」一九二六年の条に「先月ノケルン大学カラノ雑誌デ、AB型ノ親カラO型ノ子供ハ生マレナイト知ッタ」とあるのは荒唐無稽である。ケルン大学へ問い合わせたが、当時雑誌を発行していた事実はない。
●落合報告
1.周蔵は飛び級で小学校を一年短縮し、都城中学に入るが、数日で退学し、その後、山本権兵衛の口利きで、熊本高等工業を裏口受験させて貰うが、試験をさぼった。その後、上京したが、大正元年八月、前陸軍大臣上原勇作中将の命令で、東亜鉄道学校へ入ったものである。
2.周蔵は、呉秀三医博の勧めで、大正九年十月から、帝国針灸漢方医学校へ通った。もとより実在の私塾で、校長は周居応という中国人であった。
3.牧野の娘は、周蔵の長男緑との恋に破れて、他家へ嫁いだとのことであるから、思い出したくないのではないか。
4.牧野の代診をしていた遠藤与作は、遠藤繁清の縁者で、当時もとより実在した淀橋医院の薬剤師であった。
5.牧野は確かに以前は中村画伯の主治医で、事情があって遠藤繁清に代わった。従来の中村の評伝は、これに関しては不正確なようである。
6.額田の兄の妾のいた大森の置屋の女将(養母かも知れぬ)のことを「額田ノ母サン」と「救命院日誌」に記したのを、小林頼子が誤解したものである。
7.額田らを驚嘆させたのは、周蔵がウイーンから帰国した直後の、大正六年秋のことである。小林頼子は吉薗資料に「帰国シタバカリ」とあるのを、強引に大正十四年のことにしている。
8.ケルン大学云々と「救命院日誌」にあるのは事実であるが、これを理解するには「救命院日誌」の本質を知らねばならない。「救命院日誌」は、裏で本願寺の諜者をしている佐伯祐三のアリバイ(バックグラウンド)作り目的の日誌であった。その内容は、佐伯が、事実に基づいて創作したものである。ケルン大学の雑誌の条は、佐伯の作文性が行き過ぎた例である。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―1
★知られざる大物『上原勇作伝』と『周蔵手記』に見る高島鞆之助
◆落合莞爾
ニューリーダー誌 2008.1月号
●杉山茂丸の一端を明らかにした『アジア連邦の夢』
(*『ドグラマグラ』の夢野久作=杉山直樹・泰道の父親)
前月号で、高島鞆之助・樺山資紀と児玉源太郎、後藤新平の関係を述べつつ、「ここまで書いて折よく、この見解を裏付ける資料に際会した」と書いた。その資料とは、平成十八年に発行された堀雅昭著『杉山茂丸伝〔アジア連邦の夢〕』である。内容は後稿で紹介するが、玄洋社総帥の頭山満の指南役だった杉山茂丸が、伊藤博文・山県有朋・桂太郎など長州派首脳や後藤新平を操縦していく経緯を、原資料に当たりながら解説したもので、御用史家や売文史家が従来全く気づかなかった杉山の本質を明らかにしている。この著の価値は長州派首脳に取り入った杉山が、独自の政治的価値観を以て国策を進めたことを立証した点にあるが、その一方、一介の浪人・杉山がそのような地歩に立ち得た理由については考察及ばず、また杉山が近侍した謎の貴公子・堀川辰吉郎に全く触れていないのも遺憾がある。
尤も、かかる杉山の深奥部に関しては、そもそも直接資料なぞあるべくもなく、考察対象を原資料に限定する限り、已むを得ないものと思う。ともかく私としては、本誌の新連載で探究・推理を始めた日本近代史の核心部分、すなわち吉井友実・根方正義・高島ら薩摩ワンワールドと、その後継者たる上原勇作と上原に続く荒木貞夫につき「杉山茂丸という一本の補助線により極めて明瞭に裏付けられた」との実感がある。
*****************
前に、こう紹介された(した)著作を読んでみます。
「目次」を先ず見てみると、「怪人」、「百魔」=杉山茂丸の一生が浮き出てくる「気配」が強く感じられます。
以下、紹介していきます。
先ず「目次」から。
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はじめに
第一章 自由民権の嵐
吉田磯吉と珍山尼
伊藤博文との出会い
士族たちの最後の戦い
藤田伝三郎との出会い
再上京の決意
文明開化の匂いの中で
井上馨と甲申事変
ねらわれた伊藤博文
北海道への逃亡
アンダーグランドの世界
頭山満との出会い
山田顕義と九州鉄道
山県有朋の保安条例
国権派新聞の誕生
『大阪毎日新聞』の創刊
井上馨と玄洋社の運転資金
「犬神博士」と炭鉱王
第二章 日清開戦の機運
戦争と炭鉱
井上馨を救った頭山満
大隈重信の右足
謎の「金受取証」
日清戦争の発案者
石炭貿易
日清貿易研究所
殉節三烈士
品川弥二郎との密約
選挙干渉の舞台裏
実業学校の開設
朝鮮沿海漁業と天佑侠
日清戦争への布石
山県有朋から出た工作資金
金玉均の暗殺
遼東半島割譲に反対する
李鴻章の狙撃
三浦梧楼と閔妃暗殺
第三章 膨張する視座
幻の『露西亜亡国論』
台湾鉄道の敷設
台湾銀行の創設
児玉神社
鄭成功伝説
京釜鉄道の敷設
青木周蔵と釜山港の埋築
経済策士の資本主義
第一回渡米と八幡製鉄所
第二回渡米とJ・P・モルガン
ニューヨーク
日本興業銀行
第四章 日露開戦への道
政友会の成立
日露開戦の七つの密約
日英同盟の裏側
第三回と第四回の渡米
京浜銀行の後始末
京阪電気鉄道の敷設
義太夫と日露戦争
最初の著書『帝国移民策新書』
ロシア革命とユダヤ人
機密情報の漏洩
児玉源太郎と南満洲鉄道
「凱旋釜」の石碑
第五章 アジア連邦の夢
支那は永遠に滅びぬ国
辛亥革命
東京大学の骨格標本
週刊誌『サンデー』の創刊
「日韓同祖論」と宋来峻
韓国統監になった伊藤博文
未完のアジア連邦
伊藤博文の韓国統監辞任
安重根発射の弾丸
日韓合邦記念塔
「遷都私議」と博多湾
築港
第一次世界大戦後の不況
消えた大分軽便鉄道計画
関門海底鉄道トンネル
第六章 第二維新の準備
お召し列車事件
南北朝正閏論と『乞食の勤王』
ラス・ビハリ・ボース
「中村屋」のカレー
フィリピン買収計画
ホルワット政権樹立構想
暗殺された原敬
国技館の再建
関東大震災と夢野久作
武智歌舞伎と『浄瑠璃素人講釈』
大杉栄と伊藤野技
田中義一と日魯漁業
雁の巣飛行場
五・一五事件と二・二六事件
交友五十年と祝賀披露会
茂丸の死
一行寺での玄洋社葬
杉山茂丸年譜
おわりに
主要参考文献
主要人名索引
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★次に巻頭言 (「はじめに」) です。
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はじめに
黒田藩馬廻組百三十石という侍の家に生まれた杉山茂丸だが、若い頃に小学校の代用教員をした以外、生涯浪人を貫いたアウトサイダーだった。その日暮らしを意味する「其日庵」(そのひあん、又は、きじつあん)を号にしたのもそのためだが、長州閥の政治家たちの裏側には必ず彼がいた。日韓併合を断行したといわれる伊藤博文、日清戦争を工作した山県有朋、日露戦争を戦った桂太郎、南満洲鉄道を計画し台湾総督になった児玉源太郎、朝鮮経営を実行した寺内正毅、昭和に首相になった田中義一、国際連盟を脱退して満鉄総裁に就任した松岡洋右。長州閥は陸軍閥なので、乱暴にいえば陸軍の背後で暗躍した人物といえなくもない。一方で福岡の国家主義団体「玄洋社」を率いた頭山満とも睨懇で、ある時期からは玄洋社の金庫番として頭山の指南役にもなった。そして自由に朝鮮や台湾に遊び、アメリカにまで雄飛して世界一の金融王J・P・モルガンと外資導入案をまとめたりもした。
そんなとらえどころのない輪郭により、いつしか「ほら丸」だの「策士」と揶揄されるようになる。
茂丸の面妖さがいか程であったかは、鵜崎鷺城が『当世策士伝』(大正三年刊)で語る次の一文でも察しがつくはずだ。「政治家にあらずして政界に関係を有し、実業家にあらずして財界に出没し、浪人の如くして浪人にあらず。堂々たる邸宅に住ひ、美服を身にし、自動車を駆って揚揚顕官紳士の邸に出入し、常に社会の秘密裏に飛躍しつつある杉山茂丸は、当代の怪物一種の策士として興味ある人物である」
幸い茂丸は『其日庵叢書第一篇』『乞食の勤王』『青年訓』『建白』『百魔』『百魔続編』『俗戦国策』といった著作を明治末から昭和期にかけて二〇冊以上も残した。息子の夢野久作も『近世快人伝』で父を語っているし、学者の研究書では未完ながら一又正雄の『杉山茂丸・明治大陸政策の源流』や室井廣一の「杉山茂丸論ノート」(東筑紫短期大学研究紀要)、血縁者が書いたものに野田美鴻(よしひろ)の『杉山茂丸伝・もぐらの記録』などがある。そこで私は、これらの資料を読み解き、茂丸の軌跡をたどることで、一人の魔人の視点から日本近代の舞台裏を眺めることにした。
(続く)
★次は「おわりに」と題した興味深い文章です。
違和感を感じる箇所(後ほど記す)もありますが、誠実さ(特に「附記」)は充分に伝わってきました。
****************
おわりに
この作品を書くのに、ほぼ全力投球で五年を費やしたが、そのことは杉山茂丸の評伝に苦戦したことをそのまま物語っている。そして執筆の終盤においてソウルを取材する気になったのは、茂丸の大きな目標であった日韓合邦(日韓併合)のその後を、自分の目で確かめたかったからだ。
ソウルには福岡国際空港から三時間で到着できた(仁川国際空港までは僅か一時間半)。まず、そのことが外国ではないという親近感を与えた。それに街の風景が日本と似ていたことで益々それを感じた。目の前に高層アパートが建ち並び、渋滞する自動車の排気ガスで霞がかった人ロ1000万人を越えるソウルの街は、出発地の福岡がそうであったように、日本のどこにでもある地方都市がそのまま肥大化した風情があった。自動車が左ハンドルで看板類がハングル語という以外、街そのものの空気はどこか懐かしい日本的な匂い示して、私の身体を拒絶するものは無いに等しい。
この街の発展は、ここ20年ほどのもので、具体的には1988(昭和63)年のソウルオリンピック以来のものといわれるが、街を歩いて感じるのは短期間で近代化がうまく進んでいるという印象である。わずかの期間で発展できたのは、大日本帝国が近代化の基礎を築いていたからであり、どこか懐かしいという印象も、たぶんその辺りに起因するものだろう。しかし、それ以上に感じるのは、大日本帝国が朝鮮に恋慕を抱いていたのではないかということである。
昭和九年に京城蓮建洞(よんこんどん)の興亜堂書店から『京城遷都論』なる本が日本人の豊川善嘩により発行された。京城(現在のソウル)を日本の首都にすべきと主張する書物が出版されたこと自体、この街で暮らす日本人の朝鮮に対する恋愛感情を示していた。日本政府が皇民化政策で打ち出した官製の「内鮮一体」以外に、民衆の内から芽生えた朝鮮への愛があっても不思議はないというのが、ソウルを歩いた実感である。
例えばソウル駅に隣接する赤レンガ造りの旧ソウル駅舎を見たときがそうだ。東京駅に匹敵する外観の美しさに、植民地主義以外の別モノを感じた。しかし韓国側にも似た心情があったようで、駅舎前の説明板に、「日本が中国大陸侵略の足場として、ソウルと新義州を結ぶ京義線と、ソウルと元山を結ぶ京元線を利用するために、1922年6月に着工、1925年9月に竣工した」と悪口風に書きつつも、実際には「史跡第ニ八四号」に指定して大切に保存していたからだ。日本国内でもそうであったように鉄道は軍事目的で敷設されながら、やがて近代化に大きな貢献を果たした。総工費94万5000円という当時としては膨大な予算を組み、朝鮮総督府が3年以上の歳月を費やして建設した豪華な駅舎は、この土地を愛した日本人のエ不ルギーが完成させた建造物という気がしてならない。
同じことはソウル市庁舎にもいえた。大日本帝国が造った京城府庁が、今なおソウル市庁舎として使われ、偉容を誇っていたからだ。この建物には首都にふさわしい威厳がある。階段や壁の大理石は朝鮮総督府の建材が流用されたというが、洗練された美しさが建物内部に保たれた理由も、入口の警備員の監視が一躍(?)かっているように見える。
市庁舎前の大通りは景福宮につながる世宗路である。景福宮は朝鮮を代表する宮殿だけあってこの道も近代的首都にふさわしい直線美を保っていた。しかしこの通りも日韓併合を成就させた大日本帝国が、パリ市街他計画を踏襲した拡張工事で建設したものであった。今、通りの中央分離帯に豊臣秀吉の朝鮮出兵を迎え撃った朝鮮側の英雄・李舜臣の巨像が建っているのが面白いが、いずれにしても今なおソウルを代表する通りで、朝鮮人たちが誇りとする道なのだ。ついでにいえば日本の統治が始まると景福宮の前庭に朝鮮総督府が建てられ、光化門が崩されることになった。ところが朝鮮人の発行する『朝鮮日報』や『東亜日報』は当時、これといった反対運動をしておらず、門を壊すのに最も強く反対したのは日本人の柳宗悦であった。
他にもまだある。市庁舎の南に位置する東京上野のアメ横に似た南大門市場も、杉山茂丸の親友だった末秉峻が大正10(1921)年に朝鮮農業株式会社を設立したことで開場した市場だった。更に、南大門市場に続くソウル一の繁華街となった明洞も、日帝時代の日本人商人たちが伝統的な鐘路(ちょんの)商圏に対抗して開拓した地域だった。
平成七(1995)年に、日本からの解放50周年記念として朝鮮総督府の建物が解体されたニュースを聞いた私は、うかつにも日帝時代の遺物は全て無くなったものと思い込んでいたのである。しかしソウルを歩くと、街の骨組みそのものが大日本帝国によりデザインされていたことが改めて理解できる。そして日本人が朝鮮を愛していたことも、だ。
私は日本人観先客がほとんど足を踏み入れないという開妃が暗殺された景福宮の一番奥に向かった。そこには焼却された閔妃の遺体が投げ込まれたという池が残っていた。案内してくれたのは国立民俗博物館のボランティアガイドを務める金激さんという老人だった。昭和8年にソウルで生まれた金さんは日帝時代の小学校で日本語を勉強したというだけあり流暢な日本語で説明したが、言葉の端々に当時を懐かしむ雰囲気さえ感じられた。ソウル出身者の多くがそうであったように、金さんの家も貴族階級の「両班」だったが、「李王朝を潰しだのは日本ではなく、両班の制度でした」と断言した。学問ばかりして実利的なことを何もしなかった朝鮮王朝は、その怠慢により滅びるべくして滅びたというのである。しかも、このような考え方は日帝時代を経験した朝鮮人に多かれ少なかれ共通していることも教えてくれた。それを今さら全て日本の責任として押し付けるのは筋違いといい、「韓国に近代化を教えてくれたのは日本です」、と閔妃の暗殺現場で語ったのである。
日本側が一方的に強行したという理由から、日韓併合が無効であるという主張を韓国政府は展開しているが、ソウル市庁舎の西にあった徳寿宮を見学したことで、私はそのことにも疑問を感じた。徳寿宮内の中和殿は第二次日韓協約が結ばれた舞台だが、同時にそこは国王の高宗が隠れ潜んだ場所であった。そしてこの宮殿は地下道を通じて近くのロシア公使館までつながっていた。このことは、日韓併合直前の高宗がロシアの手の中で政治を行っていたことを示していた。このとき早くも朝鮮王朝は独立国家の体を捨て、自国の統治能力を失っていたのである。日韓併合はこのような状況下で日韓双方から進められた朝鮮近代化の一手段に過ぎず、韓国政府がいうような一方的な併合ではなかったことになる。
意外な印象を受けたことは他にもある。朝鮮人は日帝時代の「京城」の呼び方を嫌うと聞いていたが、茂丸が敷設に関わった京城と釜山を結ぶ京釜鉄道は、今なお「京釜線」と呼ばれ、人々に親しまれていた。同じく日帝時代の「朝鮮」の呼称を嫌悪しているにもかかわらず、抗日運動で部数を伸ばした『朝鮮日報』でさえ「朝鮮」を冠した漢字名を新聞上部に刻印し、駅の購買所で堂々と売られていた。
歴史は後になって脚色され、その時々の政治体制に好都合な解釈をされるが、ソウルもまたそうだったのだろう。
本書が茂丸と彼の生きた近代日本の全貌をとらえた作品であるとは思っていない。本書も多くの謎を残したままである。この謎は茂丸個人の謎というより、日本近代史の謎であり、更に広くアジア近代史の謎といえる。この疑問が解明されるには、なお多くの時間と研究が必要であり、読者の中から解明に挑む研究者が出てくるなら、私は本書における自らの責任を果たしたことになろう。
思い起こせば執筆に取りかかるのと時を同じくして、茂丸の生誕地である福岡市街をはじめ、筑豊炭鉱や門司港近辺を歩き回った。あるいは明治の元勲を生み出した山口県の各地や長崎、熊本、東京などを旅した。ずいぶん長い旅であったが、その途中で、茂丸の孫である三苫鉄児氏からお話を伺うことができたし、長年、茂丸の研究を続けてきた東筑紫短期太学副学長(当時)の室井廣一氏から研究紀要の全てと、茂丸の滞在先であるニューヨークでの取材結果を教えていただけた。夢野久作に詳しい西原和海氏からは、久作の父としての茂丸像を語ってもらい、茂丸の創刊した週刊誌『サンデー』や月刊誌『黒白』の実物を見せてもらった。最晩年の西尾陽太郎氏から日韓併合問題の核心を聞けたことも、今となっては貴重な収穫となった。他にも国立国会図書館や福岡県立図書館、山口県立図書館、宇部市立図書館、玄洋社記念館の職員の方々にお世話になったし、ソウルでも金氏をはじめとした親日派の方々のお世話になった。その人たち全てに、お礼を申し上げるのはいうまでもないが、何よりこの5年間、執筆に苦悩し、途中で何度も筆を折りかけた私を励まし続けてくれた小野静男編集長に感謝しなければならない。おそらく氏の励ましが無ければ、私は執筆を断念したことは間違いないからだ。最後になったが本書の出版を快く承諾して下さった三原浩良社長にも、心からのお礼を申し上げたい。
2005年晩夏、ソウルにて 堀 雅昭
〔付記−本書刊行までの経緯について〕
本書は2005年11月末に刊行される予定だった。ところが印刷を終え、製本直前になって茂丸の曾孫にあたる杉山満丸氏より、いったんは出版社をまじえた協議の末に合意したはずの「杉山文庫」(福岡県立図書館に満丸氏が寄託)所収の諸資料・写真類の引用・使用をすべて許可しない旨の通告を受けた。
理由は、本稿が杉山茂丸の清濁両面を描いたからだと思われる。満丸氏は「濁」の部分のみの削除を求めたが、著者は「濁の部分もあってはじめて茂丸の実像に迫ることが出来、本稿の存在意義もある」と主張して譲らなかったため、前記の不許可となった。
氏が問題視したのは、条約改正をめぐる大隈重信への爆殺未遂事件及び金玉均、李鴻章、児玉源太郎、原敬、伊藤博文、大杉栄などの暗殺事件への茂丸の関与をうかがわせる“匂い”であった。
そこでやむなく、すでに刷り上がっていたものを全面廃棄し、「杉山文庫」所収の諸資材を引用・使用した部分を削除するなど修正を施し、また杉山家所蔵の写真類は著者が独自に収集したものと差し替えたうえで刊行することにした。こうした一連の作業のため刊行が大幅に遅れたことを記し、読者の皆様に心よりお詫び申し上げる次第である。
著者識
『杉山茂丸伝』 第一章 自由民権の嵐 より。
***************
●吉田磯吉と珍山尼
代々黒田藩士だった杉山茂丸の家が、住み慣れた福岡城下を離れて芦屋に移ったのは明治2(1869)年である。幕府が終われば侍は百姓に戻るべきであると茂丸の父・三郎平が「帰農在住」を藩主の黒田長溥(ながひろ)に進言し、明治4年の廃藩置県を待たずに自ら身分をなげうった結果だった。これにより杉山家は秩録公債という失業保険さえ貰えず、芦屋で苦しい生活を送ることになる。芦屋は遠賀川が玄海灘に注ぐ北九州の鄙びた海辺だった。
杉山一家を迎えたのが★トンコロリンの妙薬で財を成した勤皇派薬商・塩田久右衛門であった。三郎平は久右衛門の庇護のもと昼間は海で漁をし、夜は近所の子弟を集めて私塾を開いた。また、妻の紫芽(重喜)も近所の娘たちに裁縫を教えた。このような生活を久右衛門が亡くなる明治9年までの約7年間、芦屋で続けるのである。6歳から13歳までの間、今でいう小学生の時期を茂丸は芦屋で過ごしたことになる。
この土地で茂丸の身の回りに幾つかの出来事が起きた。第一が後に仁侠政治家として名を馳せる吉田磯吉との出会いである。3歳年下の磯吉との思い出を茂丸は次のように語る。*掲載写真(=磯吉の正装写真・略)の説明にはこうある。・・吉田磯吉。子分が神戸に流れ、山口組発足のきっかけを作った。また嗣子の敬太郎が初代若松市長となった(吉田淵世氏蔵)
・・・
「その頃が私の餓鬼大将の最も盛んな時で、敵味方に別れて戦をやる。私が采配を振って〈進め!〉というと、吉田がいつも真先に飛んでいったものだ。その後、だんだん大きくなるにつれて、私はそのようなことをいつとはなしに忘れてしまっていたが。ずっと後になって吉田が私を訪ねてきた時、少年時代の私の餓鬼大将ぶりの話をして、二人で大いに笑ったことがある」(『吉田磯吉翁伝』「餓鬼大将の時代から」)
磯吉はその後、遠賀川で筑豊の石炭を運ぶ川ヒラタの船頭となり、喧嘩で名を上げ、川筋者の顔役となる。つまり北九州任侠界の嚆矢だが、更に花柳界、炭鉱、興行界で力をつけ、大正4年に民政党から立候補して当選、侠客議員として中央政界に進出する。政界で手腕を発揮したのが大正10年に起きた郵船会社事件たった。それは国策会社の郵船会社の利権を政友会が一人占めしようとしたことで内紛が起き、このとき山県有朋が茂丸に相談したことで茂丸が磯吉を動かしたときである。結果、磯吉が手打ちを行い、事件は無事に解決した。
話を芦屋時代に戻すと、茂丸は母・紫芽をこの土地で失った。生活の苦労が災いしての死で、明治5年7月、茂丸8歳の時だった。これにより父・三郎平は後妻として親戚筋の林家から友(とも)を迎える。天然痘の跡が顔にあることで後に杉山家で「ジャンコ婆さん」と呼ばれる人である。ジャンコとは福岡地方の方言で顔に痘痕(あばた)かあることをいったからだが、ともあれこのときから彼女が茂丸の継母となった。
実母を亡くした失意の時期に、茂丸はもう一人別の女性と出会っていた。女医の珍山尼である。彼女は福岡藩の侍医であった青柳家に生まれ、本名を秀子といったが、祖父と父が長州勤皇派と関係したことで切腹させられ、その後、香月恕経(かつきひろつね)の叔父である小倉の医者・半田珍山に引き取られて養女になったことで珍山尼を名乗るようになった。このとき茂丸は彼女から歌の手ほどきを受け、勤皇思想の教えを受けた。
面白いのは後に茂丸の盟友となる頭山満も同じ頃、福岡で興志塾(人参畑塾)を開いていた眼科女医の高場乱(たかばおさむ)を訪ね、彼女から勤皇主義を教えられていたことである。国権派の代表格となる二人が国
権思想の基礎を教わったのは、いずれも女医だった。また茂丸は水戸学派の学者だった父・三郎平から『大学』などを教わり、「民を親にするに存り」というような独特の民主的天皇観や社会観の基礎を学んだ。
一方、書を習ったのが芦屋の海霊寺(天台宗)で、ここで和尚から法螺貝の吹き方を習ったことにより、後に「ホラ丸」の異名を持つようになったと『百魔続篇』で語っている。
●伊藤博文との出会い
「岩城山県立自然公園 伊藤公記念公園」。山口県大和町束荷(つかり)に、その公園はあった。周囲の田園風景を眺めながら坂道を上ると、二階建ての白亜の洋館が突然目の前に立ちふさがった。伊藤公記念館だ。清水組(現在の清水建設)が工事を請け負い、明治42年3月に着工したと入り口に書いてある。伊藤自らが基本設計をして、翌43年5月に完成したが、日韓併合前の同42年10月26日に彼自身は満洲国ハルビン駅頭で
安重根に暗殺された。つまり伊藤は、この洋館の完成を見ることなく死んだ。
隣に建っていたのが生誕150年を記念して平成9年に開館した資料館で、裏手の丘に以前、伊藤神社があった。「故伊藤公爵遺跡保存会」が大正8年5月に建立した神社だが、今は跡地に椅子に座した伊藤の銅像が据えられているだけだ。これらの施設が整備されているのは、そこが伊藤の生誕地のためで、実際、敷地の片隅には茅葺平屋の生家が復元移築されていた。伊藤はここで天保12(1841)年に生まれたが、当時はまだ★林利助の名で(林家の本家は束荷村の庄屋)、14歳で萩の下級武士・伊藤家の養子に入ったのである。そして萩において吉田松陰の松下村塾で尊攘思想を学び、そこで知り合った高杉晋作らと維新運動に参画した後、文久3(1863)年に脱藩してイギリスに密航、岩倉遣外使節団参加(明治5〜6年)を経て初代総理大臣に上り詰めるのだ。しかしその直前、伊藤は杉山茂丸に命を狙われた。
それは朝鮮で起きた甲申事変の処理で李鴻章と交渉するため、天津に旅立つ矢先のことだ。明治18年2月で、伊藤は43歳、茂丸は22歳。そのときの茂丸の風貌といえば、フンドシを硬く締め上げ素肌に着物をまとい、羽織の下にタスキを掛けるという、いかにも怪しげなものだった。身の丈170センチを越える巨体ゆえ、素手で伊藤を殺せると思っていた茂丸だが、実際に伊藤に会ってみると想像とはかなり違っていた。そのときの印象を次のように語っている。
「写真で見たとは大違ひで、ソンナ堂々とした人物ではございませぬ。すこぶる貧乏らしき顔をした小男であります」(『其日庵叢書第一編』)
それでも茂丸は激しく詰め寄った。しかし伊藤は驚いた様子もなく、子供をあやすかのように落ち着いて答えた。しかも★自分の若い頃とそっくりとまでいった。確かに伊藤も高槻藩士の宇野東桜や国学者の塙次郎を暗殺していたし、長井雅楽の暗殺未遂事件も起こしていた★元過激派だった。高杉晋作、久坂玄瑞、山田顕義たちと品川御殿山の英国公使館を焼き討ちしたこともある。攘夷から開国に転じたのは翌・文久3年に井上馨らとイギリス留学(密航)してからだ。そんな体験を語った伊藤は、自分を殺しても世の中は良くならないから、お互い国のために尽くそうと諭した。茂丸は納得した。実にこれが伊藤との初対面だった。
*林利助―俊助・・など当時の名前は多種にわたる。山県なども同様で名前はもちろん、系図など貧農・最下級武士の彼らにあるはずもないが、維新後冗談半分、勝手放題に作り変えた。
山口県図書館に問い合わせれば、資料を郵送してくれます。
*過激派というよりは、テロリスト、殺し屋のほうが実情に近い。
「自分の若いころに・・・」というのはそれの自認の言。
●士族たちの最後の戦い
明治維新の後、新政府の中枢部に上り詰めた長州人たちは萩町内会的というべき身内優先の政治に始終したため、各方面から憎まれた。福岡出身の杉山茂丸がそのシンボル的存在だった伊藤博文の暗殺を考えるに至ったのも、そのためだ。『俗戦国策』で、「水戸も筑前も、薩長藩閥の鳶に、尊王攘夷と云ふ油揚げを浚はれたと同じ事である」と語るように、茂丸の家をはじめとした筑前士族(筑前勤王派)が明治維新に貢猷したにもかかわらず、功績を薩摩と長州人脈が独り占めした怒りがあった。それは茂丸一人の憤慨ではなく、旧黒田藩士族の子弟たちに共通する憤りである。後に彼らが自由民権結社「玄洋社」を結成し、政府と妥協したかに見える国権伸長論を掲げた後も、反政府的な態度を裏に秘めた理由が、そこにある。
*写真:前原一誠らが処刑されたとされる新獄跡。頭山たちもここにいたようである(萩市恵美須町)
彼らが新政府の中枢から外されたのは、西郷隆盛の西南戦争に呼応して明治10(1877)年3月に福岡の変を決起したのが直接のきっかけだった。前年秋から熊本で神風連の変、福岡で秋月の変、年末には山口で萩の変が起きており、福岡の変もその延長線上の出来事だった。これらはいずれも廃刀令など旧士族の冷遇に不満を持った面々が一団となり、新政府に反旗を翻した事件だが、わずか14歳の茂丸もこのとき福岡の変に参加していた。しかし、「成年未満で無罪で返へされた」(『其日庵叢書第一篇』)のである。
そして全ての叛乱が鎮圧されると、残党たちはことごとく新政府の弾圧を受けた。もちろん茂丸の家も例外ではなく、一家をあげて筑前・山家宿(現福岡県筑紫野市に転居し、旧宿場医の加島家での居候生活となる。この加島家は山家に現存し、昭和38年に地元有志者たちが建てた「東洋国士 杉山茂丸遺蹟」の石碑が庭に残り、茂丸たちが暮らした部屋がわかる旧加島家の見取図も保存されている。それによると玄関脇の六畳と八畳間を間借りして、生活のために鍬や鎌の柄を作ったり、米の買い出しをしていたようである。
一方、福岡の変の痕跡は、福岡市郊外の平尾霊園で見ることができ、一郭に首謀者だった★武部小四郎の辞世の刻まれた「魂の碑」が建っている。事件後に再決起を考えていた武部であるが、少年たちが次々弾圧されていく様子を見兼ねて自首し、処刑されたのだ。その直前に武部が、「行くぞオオーオオオー」と絶叫したのを健児16名が床にひれ伏して聞いていたと夢野久作は『近世快人伝』で書いている。実に、この絶叫こそが、後の玄洋社を生み、茂丸が伊藤暗殺のために上京する原動力となった。
この時期、茂丸より9歳年上の頭山は、萩の変の首謀者である前原一誠と連絡をとっていたことで萩で拘禁されていた。頭山とともに後に玄洋社を興す★箱田六輔(第四代・玄洋社社長)や進藤喜平太(第二、五代玄洋社社長)も皆、萩の獄舎にいた。皮肉にも彼らは萩の変に連座したために一命をとりとめたのだ。
*・・一方、福岡の変の痕跡は、福岡市郊外の平尾霊園で見ることができ、一郭に首謀者だった★武部小四郎の辞世の刻まれた「魂の碑」が建っている。事件後に再決起を考えていた武部であるが、少年たちが次々弾圧されていく様子を見兼ねて自首し、処刑されたのだ。その直前に武部が、「行くぞオオーオオオー」と絶叫したのを健児16名が床にひれ伏して聞いていたと夢野久作は『近世快人伝』で書いている。実に、この絶叫こそが、後の玄洋社を生み、茂丸が伊藤暗殺のために上京する原動力となった。・・
以下、参考までにこの『近世快人伝』の印象的な一文を引用・紹介します。
「近世快人伝」 ★奈良原到 より。
(続く)
奈良原到 (上)
筑摩文庫版 夢野久作全集 11 より引用します。
前掲の頭山、杉山両氏が、あまりにも有名なのに反して、同氏の親友で両氏以上の快人であった故・奈良原到翁があまりにも有名でないのは悲しい事実である。のみならず同翁の死後と雖も、同翁の生涯を誹謗し、侮蔑する人々が少なくないのは、更に更に情ない事実である。
奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世に容れられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却されて、窮死した志士である。つまり戦国侍代と同様に滅亡した英雄の歴史は悪態に書かれる。劣敗者の死屍は土足にかけられ、唾せられても致方がないように考えられているようであるが、しかし斯様な人情の反覆の流行している現代は恥ずべき現代ではあるまいか。
これは筆者が故奈良原翁と特別に懇意であったから云うのではない。又は筆者の偏屈から云うのでもない。
志士としては成功、不成功なぞは徹頭徹尾問題にしていなかった翁の、徹底的に清廉、明快であった生涯に対して、今すこし幅広い寛容と、今すこし人間味の深い同情心とを以て、敬意を払い得る人の在りや無しやを問いたいために云うのである。
その真黒く、物凄く輝く眼光は常に鉄壁をも貫く正義観念を凝視していた。その怒った鼻。一文字にギューと締った唇。殺気を横たえた太い眉。その間に凝結、磅礴(ほうはく)している凄愴の気魂はさながらに鉄と火と血の中を突破して来た志士の生涯の断面そのものであった。青黒い地獄色の皮膚、前額に乱れかかった縮れ毛。鎧の仮面に似た黄褐色の悠髭、乱髯(らんぜん)。それ等に直面して、その黒い瞳に凝視されたならば、如何なる天魔鬼神でも一縮みに縮み上ったであろう。況んやその老いて益々筋骨隆々たる、精悍そのもののような巨躯に、一刀を提げて出迎えられたならば、如何なる無法者と雖も、手足が突張って動けなくなったであろう。どうかした人間だったら、その翁の真黒い直視に会った瞬間に「斬られたツ」という錯覚を起して引っくり返ったかも知れない。
事実、玄洋社の乱暴者の中ではこの奈良原翁ぐらい人を斬った人間は少かったであろう。そうしてその死骸を平気で蹴飛ばして瞬一つせずに立去り得る人間は殆んど居なかったであろう。奈良原到翁の風貌には、そうした冴え切った凄絶な性格が、ありのままに露出していた。微塵でも正義に背く奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人という感じに、一眼で打たれてしまうのであった。
この奈良僚翁の徹底した正義観念と、その戦慄に価する実行力が、世人の嫌忌を買ったのではあるまいか。そうしてその刀折れ矢尽きて現社会から敗退して行った翁の末路を見てホッとした連中が「それ見ろ。いい気味だ」といったような意味から、卑怯な嘲罵を翁の生涯に対して送ったのではあるまいか。
実際・・・筆者は物心付いてから今日まで、これほどの怖い、物すごい風采をした人物に出会った事がない。同時に又、如何なる意味に於ても、これ程に時代離れのした性格に接した事は、未だ曾て一度もないのである。
そうだ。奈良原翁は時代を間違えて生れた英傑の一人なのだ。・・・
略・・・
こうした事実は、奈良原翁と対等に膝を交えて談笑し、且つ、交際し得た人物が、前記頭山、杉山両氏のほかには、あまり居なかった。それ以外に奈良原翁の人格を云為(うんい)するものは皆、痩犬の遠吠えに過ぎなかった事実を見ても、容易に想像出来るであろう。
明治もまだ若かりし頃、福岡市外(現在は市内)住吉の人参畑という処に、高場乱子(たかばらんこ*ママ)女史の漢学塾があった。塾の名前は忘れたが、タカが女の学問塾と思って軽侮すると大間違い、頭山満を初め後年、明治史の裏面に血と爆弾の異臭をコビリ付かせた玄洋社の諸豪傑は皆、この高場乱子女史と名乗る変り者の婆さんの門下であったというのだから恐ろしい。・・・略・・・
(*奈良原少年もこの高場女史の薫陶をうけた。この塾に集う青少年が後に「健児社」を結成、時は西南戦争(事変)のころ。この「健児社」は「玄洋社」の前身をなす。)
・・・
そんな連中と健児社の箱田六輔氏等が落合って大事を密議している席上に、奈良原到以下14・5を頭くらいの少年連が16名ズラリと列席していたというのだから、その当時の密議なるものが如何に荒っぼいものであったかがわかる。密議の目的というのは薩摩の西郷さんに呼応する挙兵の時機の問題であったが、その謀議の最中に奈良原則少年が、突如として動議を提出した。
「時機なぞはいつでも宜しい。とりあえず福岡鎮台をタクキ潰せばええのでしょう。そうすれば藩内の不平士族が一時に武器を執って集まって来ましょう」・・・
これを聞いた少年連は皆、手を拍って奈良原の意見に賛成した。口々に、
「遣って下さい遣って下さい」
と連呼して詰め寄ったので並居る諸先輩は一人残らず泣かされたという。その中にも武部小四郎氏は、静かに涙を払って少年連を諌止した。
「その志は忝ないが、日本の前途はまだ暗澹たるものがある。万一吾々が失敗したならば貴公達が、吾々のあとを継いでこの皇国廓清の任に当らねばならぬ。・・・間違うても今死ぬ事はなりませぬぞ」
今度は少年連がシクシク泣出した。皆、武部先生のために死にたいが結局、小供たちは黙って引込んでおれというので折角の謀議から退けられて終った。
かくして武部小四郎の乱、宮崎車之肋の乱等が相次いで起り、相次いで潰滅し去った訳であるが、後から伝えられているところに依ると、これ等の諸先輩の挙兵が皆、鎮台と、警察に先手を打たれて一敗地に塗れた原因は、皆奈良県少年の失策に起因していた。奈良県少年が破鐘のように大きいのでその家を取巻く密偵の耳に筒抜けに聞えたに違いないという事になった。それ以来「奈良県の奴は密議に加えられない」という事になって同志の人は事ある毎に奈良県少年を敬遠したというのだから痛快である。・・・略・・
一方に盟主、武部小四郎は事敗れるや否や巧みに追捕の網を潜って逃れた。・・略・・とうとう大分まで逃げ延びた。ここまで来れば大丈夫。モウー足で目指す薩摩の国境という処まで来ていたが、そこで思いもかけぬ福岡の健児社の少年連が無法にも投獄拷問されているという事実を風聞すると天を仰いで浩嘆(こうたん)した。万事休すというので直に踵を返した。幾重にも張廻わしてある厳重を極めた警戒網を次から次に大手を振って突破して、一直線に福岡県庁に自首して出た時には、全県下の警察が舌を捲いて雲散したという。そこで武部小四郎は一切が自分の一存で決定した事である。健児社の連中は一人も謀議に参与していない事を明弁し、やはり兵営内に在る別棟の獄舎に繋がれた。
健児社の連中は、広い営庭の遥か向うの獄舎に武部先生が繋がれている事をどこからともなく聞き知った。多分獄吏の中の誰かが、健気な少年連の態度に心を動かして同情していたのであろう。・・・略・・
武部先生が、死を決して自分達を救いに御座ったものである事を皆、無言の裡に察知したのであった。
その翌日から、同じ獄舎に繋がれている少年達は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向って礼拝した。「先生。お早よう御座います」と口の中で云っていたが、そのうちに武部先生が一切の罪を負って斬られさっしやる・・俺達はお蔭で助かる・・という事実がハッキリとわかると、流石に眠る者が一人もなくなった。毎日毎晩、今か今かとその時機を待ってい るうちに或る朝の事、霜の真白い、月の白い営庭の向うの獄舎へ提灯が近付いてゴトゴト人声がし始めたので、素破こそと皆決起して正座し、その方向に向って両手を支えた。メソメソと泣出した少年も居た。
そのうちに4・5人の人影が固まって向うの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思うと、その中でも武部先生らしい一人がピッタリと立佇よって四方を見まわした。少年達のいる獄舎の位置を心探しにしている様子であったが、忽ち雄獅子の吼えるような颯爽たる声で、天も響けと絶叫した。
「行くぞオオー−一一オオオ−−」
健児社の健児16名。思わず獄舎の床に平伏して顔を上げ得なかった。オイオイ声を立てて泣出した者も在ったという。
「あれが先生の声の聞き納めじやったが、今でも骨の髄まで沁み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日まで自分(わし)の臓俯(はらわた)の腐り止めになっている。
貧乏というものは辛労い(きつい)もので、妻子が飢え死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。
藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、
腸がグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞオ』という気もちになる。貧乏が愉快になって来る。先生・・・先生と思うてなあ・・・」
と云ううちに 奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタと毀れ落ちるのを筆者は見た。
奈良原到少年の腸(はらわた)は、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかった。
奈良原到 (上) より。 略部あり。
10. 2011年7月12日 08:11:33: DtCsI6Tk6E
コイツ、糞だぜ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/181.html#c10
01. 2011年7月12日 08:11:41: roLicDtbXQ
あのクソ町長を裏であやつっているのは空電マネーであることは間違いないでしょう。
正義感も使命感もないクソゴミのようなカネだけが一番の町長と町民である。
わしだってカネとオンナが大好きだが、こと、国民レベルの問題だと、ふつう男気というものが出てくるものだが。
いやはや、この国の民は骨のずいまで腐って落ちてしまったね。
あの町長のみにくい、ゆがんだ顔をみよ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/207.html#c1
02. 2011年7月12日 08:11:55: FUviF2HWlS
原発事故が起きた時は、首相が「全責任は俺が取る」と言って、首相の個人資産を全て国民に差し出すならば、原発は安全安心だ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/198.html#c2
04. 2011年7月12日 08:14:08: roLicDtbXQ
テレビでコメントしているこの業者連中、「かわいそう」っていうから消費者の健康を心配しているのかとおもいきや、
同業者が「かわいそう」だと。こいつら、爪の垢ほどでも消費者へのおもいやりってねえのか???!
ったく、日本国民ってのはここまでこころが衰えてしまったか。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/202.html#c4
第四章
ウォール街と世界革命
あなた方急進主義者と、反対の見解を持つ我々が異なっている点は、目的ではなくむしろ手段であり、また、成し遂げられるべきことではなくむしろどのように成し遂げられるべきで成し遂げられ得るかということである。
アメリカン・インターナショナル社の重役オットー・H・カーン(Otto H. Kahn)と、その仲間であるロエブ(Loeb)商会のクーン(Kuhn)が、1924年12月30日、 League for Industrial Democracyに対してした演説
第一次世界大戦前、合衆国の金融と商取引の構造は二つの複合企業体、スタンダード・オイル社すなわちロックフェラー財閥、およびモルガン産業複合体すなわち金融・運輸会社群によって支配されていた。ロックフェラーとモルガンの企業連合体は、ウォール街だけではなく、連動している取締役職を通じて合衆国の全経済構造を支配していた。1 ロックフェラー財閥は石油とその関連産業を独占し、銅企業合同体、精錬業合同体、および巨大な煙草業合同体を支配していた。おまけに何百ものより小さい産業合同体、公共サービス事業、鉄道、および銀行業機関だけではなく、U.S.スティール社のような幾つかのモルガンの所有物に対しても影響力を持っていた。ナショナル・シティ・バンクは、ロックフェラーのスタンダード・オイル社の影響が及ぶ銀行のうちで最大の銀行であったが、金融支配は、主要な生命保険会社すなわちニューヨークのEquitable Life and Mutual だけではなく、United States Trust Company およびHanover National Bankにも及んでいた。
脚注
1 John Moody, The Truth about the Trusts (New York: Moody Publishing, 1904).
p. 49
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偉大なモルガン商会は、鋼鉄業、海運業、および電気産業を営んでいて、ジェネラル・エレクトリック社、ゴム業合同体、および鉄道会社が含まれていた。ロックフェラーと同じように、モルガンは金融会社すなわちNational Bank of Commerce、Chase National Bank、New York Life InsuranceおよびGuaranty Trust Companyを支配していた。J.P.モルガンとGuaranty Trust Companyの名前は、この本を通して繰り返し何度も現れる。20世紀の初期においてGuaranty Trust Companyはハリマン財閥によって支配されていた。大ハリマン(エドワード・ヘンリー(Edward Henry))が1909年に死んだとき、モルガンとその仲間はMutual LifeとNew York LifeだけではなくGuaranty Trustの株も買った。1919年、モルガンはEquitable Lifeの支配権も買って、Guaranty Trust Companyは、追加的に4社のより小さな信託会社を吸収合併した。その結果、第一次世界大戦の終わりには、Guaranty TrustとBankers Trustは、それぞれ合衆国における1番目および2番目に大きい信託会社になっていて、いずれもモルガン財閥によって支配されていた。2
これらのグループと提携したアメリカの金融業者は、まさに1917年前に金融革命に巻き込まれた。ウォール街法律事務所サリバン&クロムウェル(Sullivan & Cromwell)によるパナマ海峡論争への介入は1913年連邦議会の聴聞に記録されている。そのエピソードは連邦議会議員レイニー(Rainey)によって総括されている。
この政府[合衆国]の国会議員達がパナマ海峡に関する革命を可能にしたというのが私の主張である。この政府の介入がなかったならば、革命はたぶん成功しなかったであろう。私はこの政府が1846年の条約を破ったということを強く主張する。1903年11月3日、パナマで公布された独立宣言はここニューヨーク市で、すなわちウィルソン(Wilson)(原文のまま)・ネルソン・クロムウェルの事務所で準備され、パナマで実施されたものであるということを示す証拠を提出することができるであろう。3
脚注
2 J.P.モルガン会社は、1838年にGeorge Peabody and Co.として、元々ロンドンで創立され、1940年3月21日までは法人化されていなかった。その会社は1954年4月にGuaranty Trust Companyと合併した際に消滅したが、その最も重要な商業銀行を子会社とし、今日ではニューヨークのモルガンGuarantee Trust Companyとして知られている。
3 United States, House, Committee on Foreign Affairs, The Story of Panama, Hearings on the Rainey Resolution, 1913. p. 53.
p. 50
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パナマ革命家上層部の10〜12名に加えて、"ニューヨークのウィリアム・ネルソン・クロムウェル(William Nelson Cromwell)の支配下にあったパナマ鉄道&蒸気船会社の役員、およびワシントンの国務省官僚"だけが差し迫っていた革命について知っていたと、連邦議会議員レイニーは更に述べている。4 革命の目的は、当時パナマを領土の一部としていたコロンビアから4千万ドルを奪うこと、およびパナマ海峡の支配権を得ることであった。
ウォール街の革命への干渉に関して最も証拠のある例は、孫文によって指導された1912年の中国革命におけるニューヨーク債券引受団の操作である。その債券引受団の最終的な利益は不確かなままであるけれども、ニューヨーク金融グループの意図と役割は、金額、提携した中国秘密社会に関する情報、および購入された兵器の船積みリストに至るまで詳細に文書化されている。孫文革命のために組織されたニューヨーク銀行家債券引受団には、Hunt, Hill & Betts法律事務所の弁護士であるチャールズ・B・ヒル(Charles B. Hill)が含まれている。1912年に法律事務所はニューヨーク、ブロードウェイ165番地にあったが、1917年にはブロードウェイ120番地(この住所の意義については第8章を参照のこと)に移っている。チャールズ・B・ヒルは、Bryant Electric、Perkins Electric Switch、およびWestinghouse Lampを含む数社のウェスティングハウス社子会社の重役であり、これらの子会社はすべて、そのニューヨーク事務所もまたブロードウェイ120番地のWestinghouse Electric社の系列である。ロシアでウェスティングハウス社子会社を組織したチャールズ・R・クレーンは、ボルシェビキ革命の第一および第二局面において、有名な役割を担っていた(26ページを参照のこと)。
1910年の中国におけるヒル債券引受団の仕事は、フーバー研究所のローレンス・ブース論文に記録されている。5 これらの論文は、孫文からアメリカ人支援者宛の手紙や、彼らから孫文に宛てられた手紙を含む110以上の関連した項目を含んでいる。金融支援の見返りとして、孫文はヒル債券引受団に新革命中国における鉄道、銀行、通商上の特権を約束していた。
脚注
4Ibid., p. 60.
5Stanford, Calif. See also the Los Angeles Times, October 13, 1966.
p. 51
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ニューヨークの金融機関に支援された革命の他の事例は、1915−1916年のメキシコ革命に関係している。合衆国在住のドイツ人スパイであるバン・リンテレン(Von Rintelen)6は、ニューヨーク市での1917年5月に開かれた公判で告訴された。その告訴理由は、欧州における連合国に武器弾薬を迂回させて供給するために7、合衆国をメキシコや日本と反目させようと企んだということであった。合衆国からメキシコ革命家パンチョ・ヴィラ(Pancho Villa)に船で輸送された武器弾薬代は、Guaranty Trust 社を通して支払われた。バン・リンテレンの助言者であったソマーフェルド(Sommerfeld)は、エルパソ(訳者注:テキサス州西部の都市)までの輸送費とヴィラへの転送費としての38万ドルを、Guaranty Trust社とMississippi Valley Trust社を経由してイリノイ州アルトン(Alton)のWestern Cartridge社へ支払った。これは1915年の中頃のことであった。1916年1月10日にヴィラは、サンタイサベル(Santa Isabel )で17人の鉱山労働者を殺害し、1916年5月9日にニューメキシコのコロンバスを襲撃し、18人以上のアメリカ人を殺している。
これらのメキシコ国境で起こった襲撃におけるウォール街の関与は、アメリカ人共産主義者リンカーン・ステフェンスからウッドロー・ウィルソンの補佐官ハウス大佐への手紙(1916年10月6日付け)の主題であった。
親愛なるハウス大佐殿
先週の月曜日にニューヨークを出発する直前、"ウォール街"はメキシコの無法者による合衆国の襲撃をもう1回引き起こすためのアレンジを終えたということ、および、それは十分に時をわきまえて極悪非道に行われるので、選挙問題を解決するでしょうと告げられ、私は納得しました。8
かつて、メキシコの実権を握っていたカランザ(Carranza)政権は合衆国において追加的に武器を購入した。American Gun社は5千丁のマウザー銃を輸送する契約をし、戦争貿易省によって1万5千丁の銃と1千5百万発の弾丸の輸送許可証が発行された。アメリカのメキシコ駐在大使フレッチャー(Fletcher)は、「軍需品やライフル銃など如何なる物であろうとも、カランザに輸送することを推奨することや是認することをきっぱりと拒絶した。」9 しかしながら、国務長官ロバート・ランシング(Robert Lansing)が介入することによって、暫定的な延期に対する防壁が下げられてしまい、"しばらくして、[American Gun社]が船積みし配送する許可を得てしまった。"10
脚注
6 Later codirector with Hjalmar Schacht (Hitler's banker) and Emil Wittenberg, of the Nationalbank für Deutschland.
7 United States, Senate, Committee on Foreign Relations, Investigation of Mexican Affairs, 1920.
8 Lincoln Steffens, The Letters of Lincoln Steffens (New York: Harcourt, Brace, 1941, I:386
9 U.S., Senate, Committee on Foreign Relations, Investigation of Mexican Affairs, 1920, pts. 2, 18, p. 681.
10 Ibid.
p. 52
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ヴィラとカランザの軍による合衆国の襲撃は、ニューヨーク・タイムズ紙において"テキサス革命"(ボルシェビキ革命に対する一種の予行演習)として報じられたが、ドイツ人とボルシェビキ主義者が合同で企てたものである。1919年秋委員会におけるテキサス、ブラウンズヴィル(Brownsville)の地区検事であるジョン・A・ウォールズ(John A. Walls)の証言は、合衆国におけるボルシェビキ財閥およびドイツ活動家とメキシコにおけるカランザ軍との間の繋がりを証拠立てる書類となって残っている。11 したがって、世界で初めてソビエト型の(トロツキー主義者によって書かれた)憲法を持ったカランザ政権は、ウォール街の支援で成立した政権である。もし、アメリカの軍需品が無かったならば、カランザ革命はたぶん成功し得なかったであろうし、もしアメリカの助けが無かったならば、カランザは実際に続けられたほど長くは政権を維持できなかったであろう。12
ロシアにおける1917年のボルシェビキ革命においても、同じような介入がスウェーデンの銀行家にして仲介者であるオロフ・アシュベルグを軸に展開された。論理的に言えば、その物語はウォール街銀行債券引受団による革命以前におけるロシア帝政の公債から始まる。
アメリカの銀行家達とロシア帝政の公債
1914年8月、欧州は戦争に向かった。国際法に基づいて、中立国(1917年4月まで合衆国も中立であった)は交戦国のために公債を募ることができなかった。これは倫理だけではなく法律の問題でもあった。
モルガン商会が1915年に英国と仏国のために戦債を発行したとき、モルガンはこれらは戦債とは全く異なり、単に国際貿易を促進するための手段であると主張した。そのような区別は実は1914年10月ウィルソン大統領によって苦心して作られていた。彼は外国政府のために合衆国で債券を売ることは、交戦国に対して貯金を借りる効果があり、戦争に出資することにならないと説明していた。一方、財務省中期証券や物品の代償としての負債を証拠立てる他の書類の引き受けは、単に貿易を促進するための手段であって、戦争の試みに出資することに値しないと説明していた。13
国務省ファイルの文献は、スティルマンおよびロックフェラー財閥支配下のNational City Bankとモルガン財閥支配下のGuaranty Trustが、合衆国が参戦する前に交戦国ロシアのために多大な公債を募ったということや、国務省がこれらの会社に対して国際法に違反していると指摘したあとに、これらの公債が募られたということを立証している。更に、公債のための交渉は、国務省の最高水準を示す"緑の組み字(Green Cipher)"の描かれた封筒に入れて、公用の合衆国政府通信便を通して行われた。以下は、それを論証するであろう国務省電報からの抜粋である。
脚注
11 New York Times, January 23, 1919.
12 U.S., Senate, Committee on Foreign Relations, op. cit., pp. 795-96.
13 U.S., Senate, Hearings Before the Special Committee Investigating the Munitions Industry, 73-74th Cong., 1934-37, pt. 25, p. 7666.
p. 53
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1916年5月24日に、ペトログラード駐在フランシス大使は次の電報をワシントンの国務省に送り、それはフランク・アーサー・バンダーリップ(Frank Arthur Vanderlip)に、そしてそれからニューヨークのNational City Bankの頭取に転送された。
563, May 24, 1 p.m.
ニューヨーク、National City Bank のバンダーリップ様
5
我々の以前の意見は強化されたと思う。我々は電信で送った計画を安全な投資かつ非常に魅力的なルーブルへの投機として推奨する。為替レート保証の観点で、現在の市場レートより幾分高めにした。大幅に遅れたことによる好ましからぬ意見のため、自身の責任の下、2千5百万ドル分買うことを提案する。すべてのうちの大部分は銀行および関連機関によって保有されれるべきと思う。税に関する条項で、公債は1年ごとに1億5千万ドル以上の税の実利的な先取特権になり、たとえ債務不履行になったとしても完全に安全で、市場を守ることになる。公債に関して3つ(3年?)のオプションは非常に重要であり、そのため大量のルーブルの融資が集団によってあるいは親密な友人に割り当てることによって拡大されるべきである。American Internationalは障害物を片付けるできであり、我々は政府に知らせるであろう。集団は直ちに形成されるべきで、公債の発行は十分な共同保証を安全にすると考える。個人的にジャック(Jack)と会い、それらを本当に機能させ得るように全力を尽くしなさい、さもなくば" cooperation guarantee"に新しい集団を作らせなさい。来る10年の間、国家と産業の財産管理に有利な機会が非常に拡大するであろうし、この取引が確かに達成されるならば、確立されるべきである。返事を送る際には、電報に関する状況を心に留めよ。マクロバーツ・リッチ(MacRoberts Rich)
アメリカ大使フランシス14
上記電報に関して、引き続く物語を理解するために留意すべき点が幾つかある。先ず第一に、American International Corporation、モルガン商会、およびこの物語に繰り返し現れる名前に留意して下さい。第二に、"guarantee"はGuaranty Trust Companyのことを言っている。 第三に、マクロバーツは、National City Bankの副会長で執行役員であるサムエル・マクロバーツ(Samuel MacRoberts)である。
脚注
14 U.S. State Dept. Decimal File, 861.51/110 (316-116-682).
p. 54
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1916年5月24日に、フランシス大使はペトログラードのGuaranty Trust のロルフ・マーシュ(Rolph Marsh)からのメッセージをニューヨークのGuaranty Trust に電報で送っているが、この際にも、特別な"緑の組み字"と国務省の通信便を使っている。この電報には次のことが書かれている。
565、5月24日午後6時
ニューヨークのGuaranty Trust Company 宛て
3
新しい計画はオロフが立案したもので、あなたの名声を傷つけるよりもむしろ助けるだろうと、オロフと私自身は考えている。ここで大きな事が達成されるならば、そのような協力体制が必要である。ここでの全ての大きな計画を考慮し共同で行動するためにCityと協定を結ぶように強く懇願する。両者にとって利益のあることが決まっていて、互いに争うことが避けられるのである。Cityの代表者はそのような協力を欲している(手書き)。考慮されている計画は我々の債権とオプションを名目上は削除するが、我々は共に、計画の通り、公債オプション付きのルーブル債権を検討しているのである。第二項は驚くべき儲かる機会を与え、あなたの受諾を駆り立てる。Cityと結びついて行動することを全権限を持って私に電報で知らせてください。我々の愉快な計画は我々のために満足な状況であり、大きな事をするのを許すということをよく考えなさい。あなたが2千5百万ルーブルの債権を取ることを繰り返し懇願する。損する可能性はなく、投機的に有利なことは決まっている。副会長を早く説得するように再度お願いする。この効果は、決定的に良いであろう。専属の弁護士は同じ名声と重みを運ばない。これは、大使館を通して暗号でであるが、返答も同じようにしてくれ。機会があるたびに電報が届いてないかチェック願う。
ロルフ・マーシュ
フランシス
アメリカ大使
注:−
メッセージ全体は"緑の組み字"入り封筒内
電報室15
この電文における"オロフ"は、スェーデンの銀行家でストックホルムのNya Banken の社長であるオロフ・アシュベルグのことである。アシュベルグは1915年にニューヨークにいて、これらのロシア公債についてモルガン商会と協議していた。1916年のこの電文が発信されたときには、モルガン-ロックフェラー共同体のために公債の手はずを整えるべく、Guaranty Trustのロルフ・マーシュ、National City Bank(電文内では"City")のサムエル・マクロバーツおよびリッチとともにペトログラードにいた。後述するが、翌年、アシュベルグは"ボルシェビキの銀行家"として知られるようになり、彼自身の記憶もその呼称が適切であることを物語っている。
国務省ファイルはまた、National City BankとGuaranty Trustの電報を公費で発信することの合法性と妥当性に関して、フランシス大使、フランク・ポルク(Frank Polk)長官代理、およびロバート・ランシング国務大臣の間で交わされた一連の電文も含んでいる。1916年5月25日、フランシス大使は次のような電報を送っていて、2件の以前の電報に言及している。
脚注
15 U.S. State Dept. Decimal File, 861.51/112.
p. 55
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569、5月25日、午後1時
5月24日付けの私の電文563と565は、国際貿易を大いに活発化し、[外交関係を?]を著しく利するであろう公債を完成できるように取り組んでいる機関の地方の議員に送られている。成功の見込みは期待できる。ペトログラードの議員達は条項が非常に満足な内容で提案されると考えているが、もしここの政府がこれらの提案を知ったならば、彼らの機関が完成された公債を妨げるのではと議員達は恐れている。
フランシス、アメリカ大使16
電文を促進するためにフランシスが言及している基本的な理由は、"国際貿易を大いに活発化するであろう公債を完成できるように"である。国務省の設備を使っての商売上のメッセージの送信は禁止されていた。そして、1916年6月1日にポークはフランシスに電報を送っている。
842
1915年5月15日の回覧電報指示(転送商業メッセージの中止)17に含まれている国務省法規の観点で、何故、あなたの563、565、および575のメッセージが伝達されるべきかを説明願います。
今後は国務省指示に厳密に従ってください。
長官代理
ポーク
861.51/112
/110
それから1916年6月8日に、ランシング国務長官は禁止について説明し、提案されている公債は違法だと明確に述べている。
860 あなたの5月24日付けの535、565、5月25日午後1時付けの569。 バンデルリップとGuaranty Trust社にメッセージを送る前に、それらが何らかの種類のロシア政府公債に言及するものかどうかを質問しなければならない。もし、そうならば、残念ながら国務省はそれらの伝達をつかさどる団体ではあり得ない。そのような行為は、その敵対的な取引を実行する目的のために交戦国による公債取引においてこの政府を参画させようとするものだという筋の通った批判を甘んじて受けることになるだろうから。そのような参画は、中立国政府は交戦国による戦債の募集に力を貸すべきではないという国際法の一般的に認められているルールに反している。
脚注
16 U.S. State Dept. Decimal File, 861.51/111.
17 Handwritten in parentheses.
p. 56
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このランシングの電文の最後の行はペトログラードに発信されなかった。その最後の行には、"これらのメッセージはロシアのチャンネルを通して送るように図れないか?"とあった。
我々は、これらの電文とそこに登場する仲間達をどのように判断できるであろうか?
モルガン−ロックフェラー財閥は国際法の遵守に関心がなかった。これらの電文には、交戦国に公債を供給しようとする明確な意図がある。これらの企業のほうでは、交渉のために国務省の設備を拝借することに何のためらいも無かった。さらに、抗議してはいるが、国務省はメッセージが通過するのを放置していた。最後に、そして次の事件にとって最も興味深いことであるが、スェーデンの銀行家オロフ・アシュベルグは、Guaranty Trustのための交渉における著名な協力者で仲介者であった。それ故、オロフ・アシュベルグをより詳しく見てみよう。
1916年、ニューヨークでのオロフ・アシュベルグ
オロフ・アシュベルグ、"ボルシェビキ銀行家"(または、ドイツの新聞で呼称されていたように"Bankier der Weltrevolution")は、1912年ストックホルムに創立されたNya Bankenの所有者である。彼の共同取締役は、G.W.ダル(Dahl)、K.G.ロスリング(Rosling)、C.ゲルハルド・マグヌッスン(Gerhard Magnusson)を初めとして、スウェーデンの協同組合の著名なメンバーやスウェーデンの社会主義者を含んでいる。18 1918年にNya Bankenは、ドイツのために金融操作をしたとして連合国のブラックリストに載せられた。ブラックリストに載せられてしまったので、Nya Bankenはその名前をSvensk Ekonomiebolagetに変えた。その銀行はアシュベルグの支配下のままで、主に彼によって所有されていた。その銀行のロンドン代理店はBritish Bank of North Commerceであり、そのBritish Bank の頭取はセシル・ローズ(Cecil Rhodes)の以前の同僚であったアール・グレイ(Earl Grey)であった。アシュベルグの興味深い実業界仲間は、そのアール・グレイ以外に、ボルシェビキ革命(その時、第一党のボルシェビキとして浮かび上がるために彼は立場を変えた)まではペトログラードのSiemens-Schukertのロシア人経営者であったクラシン(Krassin)、最初のボルシェビキ政府の金融大臣であったカール・フルステンベルグ(Carl Furstenberg)。およびニューヨークのGuaranty Trust 社のための対外取引を管理していた副会長のマックス・メイ(Max May)であった。オロフ・アシュベルグはマックス・メイを非常に尊敬していたので、メイの写真がアシュベルグの本に載せられている。19
脚注
18 Olof Aschberg, En Vandrande Jude Frän Glasbruksgatan (Stockholm: Albert Bonniers Förlag, n.d.), pp. 98-99, which is included in Memoarer (Stockholm: Albert Bonniers Förlag, 1946). See also Gästboken (Stockholm: Tidens Förlag, 1955) for further material on Aschberg.
19 Aschberg, p. 123.
p. 57
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1916年の夏、Nya Bankenと帝政ロシアの金融大臣ピエール・バーク(Pierre Bark)の代理人として、オロフ・アシュベルグはニューヨークに居た。ニューヨークにおけるアシュベルグの主要な仕事は、New York Times紙(1916年8月4日版)によれば、スチルマン(Stillman)のNational City Bankによって率いられているアメリカの銀行債券引受団と、ロシア向けの5千万ドルの公債について交渉することであった。この仕事は、1916年6月5日に終結し、年7.5%の銀行手数料という条件でニューヨークでは5千万ドルのロシア債権、ロシアでは対応してNCB債券引受団向けの1億5千万ルーブルの債権という結果であった。 次に、ニューヨーク債券引受団は回れ右をして、合衆国市場において5千万ドル分の6.5%の証券を自身の名前で発行した。このようにして、NCB債券引受団はロシアへの5千万ドル公債に関して利益を得、それをアメリカ市場で売って更なる利益を得、ロシアで1億5千万ルーブルの債権を獲得した。
帝政ロシア政府のためにニューヨークに滞在している間、アシュベルグはロシアにおけるアメリカのための未来に関して予言的コメントをしている。
アメリカの資本とアメリカの企業心のための裂け目は、戦争によってもたらされた覚醒により、その戦いが終わったときに全国的になるであろう。今、ペトログラードには、大勢のアメリカ人すなわち状況に通じている企業代表者が居て、その変化が始まるや否や、ロシアとのアメリカの膨大な貿易が急に生じるであろう。20
ボルシェビキ革命におけるオロフ・アシュベルグ
この帝政ロシア公債の作戦がニューヨークで企てられている間、Nya Bankenとオロフ・アシュベルグは、ドイツ政府からの資金を、事実上"ケレンスキー委員会"を倒し、ボルシェビキ体制を確立しようとしていたロシア革命家達に流し込んでいた。
ボルシェビキ革命への融資にオロフ・アシュベルグが密接していたという証拠は、いくつかの情報源から浮かび上がるが、そのうちのいくつかは他のものよりも重要度が高い。Nya Bankenとオロフ・アシュベルグは、シッソン文献において際立って引用されている(第三章参照)。しかし、ジョージ・ケナンはこれらの論文をシステマチックに分析し、たぶん部分的には信頼できるデータに基づいているけれども、捏造されていることを証明している。他の証拠は、ケレンスキー政府の防諜活動を担当していたB・V・ニキチネ(B. V. Nikitine)大佐に由来し、ストックホルムからペトログラードへ、あるいはその逆に発信された、ボルシェビキの資金調達に関する29件の電文からなる。これらの電文のうちの3件は銀行に宛てられたもので、電文10と11はNya Banken宛て、電文14はペトログラードのRusso-Asiatic Bank宛てである。 電文10には次のように書かれている。
脚注
20 New York Times, August 4, 1916.
p. 58
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ギサ・フルステンベルグ・ソルトジョバデン(Gisa Furstenberg Saltsjobaden)殿 資金は余りにも少なすぎて助けにならない。本当に急ぐならば最後の支払いとして5百くれ。巨額な損失は本来絶望的なことを検討せよ。Nya Bankenに指示して更に十万を電信で送らせよ。(Funds very low cannot assist if really urgent give 500 as last payment pencils huge loss original hopeless instruct Nya Banken cable further 100 thousand) スメンソン(Sumenson)
電文11には
コルズロブスキー・セルギエフスカヤ(Kozlovsky Sergievskaya)殿 81. First letters received Nya Banken telegraphed cable who Soloman offering local telegraphic agency refers to Bronck Savelievich Avilov.
フルステンベルグは、パルヴァス(Parvus)(=アレクサンダー・I・ヘルファンド(Alexander I. Helphand)))とドイツ政府の仲介者である。これらの振込みについて、ミカエル・フトレル(Michael Futrell)は以下のように結論している。
最後の2〜3ヶ月の間に彼女[エベゲニヤ・スメンソン]は、ストックホルムのNya Banken経由でフルステンベルグからほぼ百万ルーブルを受け取ったこと、この資金がドイツに源を発していることが発見された。21
ニキチネの一連の電文のうちの14には、"(To) Furstenberg Saltsjöbaden。 Number 90。これが最後だ。Russo-Asiatic銀行に100,000振り込め。(from) Sumenson."とある。Russo-Asiatic銀行の合衆国の代理人は、ニューヨーク市、ブロードウェイ14番地のMacGregor Grant Companyであり、その銀行は合衆国のGuaranty Trust とスウェーデンのNya Bankenが出資している銀行であった。
ケレンスキー時代に出版された"ボルシェビキに不利な負債"においても、Nya Bankenについて述べられている。その中で特に注目に値するのは、ロシアの第二階級国会の以前のメンバーであるグレゴリー・アレキンスキー(Gregory Alexinsky)が署名している文献で、ボルシェビキへの金銭の振込みに関してのものである。以下は、その文献から一部抜き出したものである。
今受け取ったばかりの情報によれば、ストックホルムにおける信用できる人々は、"ハネスキー(Hanecki)"(=ガネツキー(Ganetskii))の名前の方でより知られているボルシェビキ主義者のヤコブ・フルステンベルグおよびパルヴァス(=ヘルファンド(Helfand)博士)であり、ペトログラードにおいては、ボルシェビキ弁護士のM・U・コズロフスキー(Kozlovsky)、ハネスキーの親戚の女性でハネスキーと同じ思惑で雇われている女性スメンソンらである。コズロフスキーはベルリンから"Disconto-Gesellschaft"を経由してストックホルム"Via Bank"に、そしてそれからペトログラードのSiberian Bankに送金されているドイツ資金の主要な受け取り手で、Siberian Bankにおける彼の口座には、現在2百万ルーブル以上の残高がある。軍の検閲は、ドイツ人エージェントとボルシェビキ指導者の間[ストックホルム-ペトログラード]において、政治的・金銭的性質を帯びた電報が妨害されないで交換されていることを暴いている。22
脚注
21 Michael Futrell, Northern Underground (London: Faber and Faber, 1963), p. 162.
22 See Robert Paul Browder and Alexander F. Kerensky, The Russian Provisional government, 1917 (Stanford, Calif.: Stanford University Perss, 1961), 3: 1365. "Via Bank"は明らかにNya Bankenのことである。
訳者注
十分理解できない箇所でも、大体の意味が分かるように和訳すべく努めたが、電文については降参せざるを得ない箇所もあった。それらについては、赤字で英文のままとしている。
p. 59
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更に、国務省ファイルに、1918年2月21日付けでノルウェイの(1925年にオスロと改名された)クリスチアニア駐在の合衆国大使からの"緑の組み字"の描かれた封筒に入れられたメッセージがあり、"Amは、ボルシェビキ資金がストックホルムのNya Bankenに預金されていると知らせた。ストックホルム公使館が知らせてくれた。シシュメデマン(Schmedeman)"23という内容である。
終わりに当たって、死の直前オルフ・アシュベルグにインタビューしたミカエル・フトレルは、ボルシェビキ資金は船で運ばれた品物の代金をよそおってドイツからNya Bankenとヤコブ・フルステンベルグを経由して確かに運ばれていたと結論している。フトレルによると、アシュベルグは彼に対して、フルステンベルグはNya Bankenと商取引をしていたこと、およびフルステンベルグは資金をペトログラードに送ってもいたことを確かなことだと認めた。これらの陳述は、アシュベルグの回想録において真実であることが確認されている(70ページ参照)。要するに、アシュベルグは彼のNya Bankenを通して、ボルシェビキ革命において使われた資金の経路であったことは疑いようがない。また、Guaranty Trustは、アシュベルグおよびニューヨークのMacGregor Grant 社におけるその関係者、別の伝達手段としてのRusso-Asiatic Bankを通して間接的に結び付けられていた。
Nya BankenとGuaranty TrustがRuskombankに参入
数年後の1922年秋に、ソビエトは最初の国際銀行を設立した。その銀行は、以前のロシア民間銀行家、およびドイツ、スウェーデン、アメリカ、英国の銀行家からの新しい資本を含む企業家連合に基礎を置いている。Ruskombank(Foreign Commercial Bankまたはthe Bank of Foreign Commerce)として知られているその銀行は、オロフ・アシュベルグによって率いられていて、その役員会は帝政ロシアの民間銀行家、ドイツ、スウェーデン、アメリカの銀行の代表者、および勿論ソビエト連邦の代表者からなっていた。合衆国のストックホルム公使館はこの問題についてワシントンに報告しており、アシュベルグに関して、「彼の評判は悪い。彼については、シッソン文献の書類54およびコペンハーゲンの公使館からの1921年1月4日付けの公文書No.138において言及されている」ということを特筆している。24
脚注
23 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/1130.
24 U.S. State Dept. Decimal File, 861.516/129, August 28, 1922. 1922年10月9日付けストックホルムからの国務省レポート(861.516/137)において、アシュベルグについて次のように書かれている。「私は数週間前にアシュベルグ氏に会った。彼との会話の中で、彼はこのレポートに書かれていること全てについて大いに述べたのである。彼はまた私に、彼が合衆国を訪問できるかどうか調べて欲しいと頼み、推薦者として著名な銀行のいくつかを挙げた。しかしながら、これに関して、シッソン文献の文献54や、この公使館が戦争中のこの男についてに書いた多くの他の公文書に注目して頂く様、国務省に箴言したい。彼の評判・信望は良くない。彼は疑いなくソ連と親密に活動していて、戦争の全期間中においてはドイツ人と緊密な協力関係にあった。」(U.S. State Dept. Decimal File, 861.516/137, Stockholm, October 9, 1922. このレポートにはIra N. Morrisも署名がある。).
p. 60
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Ruskombankが関わっている外国銀行業務共同体は、主に英国の資本に相当していた。その共同体はRusso-Asiatic Consolidated Limitedを含んでいて、Russo-Asiatic Consolidated Limitedはロシアの最大の民間債権者の一つであり、国有化に伴うソビエト連合内の資産損失を補償するためにソビエトによって3百万ルーブルを授けられていた。英国政府自身はロシアの民間銀行における相当な株を購入済であって、国務省レポートによれば、"英国政府は問題の共同体において多額を出資していた"。25
その共同体はロシアにおいて広範囲にわたる特権を授けられ、その銀行は1千万の金本位制ルーブルの株式資本を持っていた。デンマークの新聞National Titendeにおけるレポートは、「ソビエト政府と協力するための可能性が創造されたが、これは政治的干渉によって不可能になったであろうものである」と述べている。26 言い換えれば、その新聞が続けて述べているように、政治家達がソビエトとの協力を達成し損ねたが、「ロシアの資本主義的市場開拓がより明確な形を取り始めているということが当たり前のことと思われるかもしれない」。27
1922年10月上旬、オロフ・アシュベルグはベルリンでNationalbank fur Deutschlandの取締役エミール・ウィッテンベルグ(Emil Wittenberg)、およびRussian State Bankの取締役シェイマン(Scheinmann)と会っている。Ruskombankへドイツが参入することについて議論したあと、その三人の銀行家はストックホルムへ行き、Guaranty Trust Companyの副会長マックス・メイと会っている。マックス・メイはその当時、Ruskombankの外国部門の任命された取締役の一人で、他の取締役としてはMoscow Merchant Bankの前取締役シュレジンガー(Schlesinger)、Junker Bank の前取締役カラスチキン(Kalaschkin)、Siberian Bank の前取締役テルノフスキー(Ternoffsky)がいた。そのSiberian Bankは1918年に英国政府によって部分的に買われてしまっていた。スウェーデンのグスタフ・カセル(Gustav Cassell)教授はRuskombankの助言者として行動することに同意していた。カセルの見解はスウェーデンの新聞(1922年10月17日のSvenskadagbladet)において次のように引用されている。
脚注
25Ibid., 861.516/130, September 13, 1922.
26Ibid.
27Ibid.
p. 61
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純粋に銀行業務を処理するためにロシアで銀行が今スタートしたということは偉大な前進であり、この銀行はロシアにおける新しい経済生活を創造するための何かをするために創立されたと私には思える。ロシアが必要とするのは、国内および海外との商取引を生み出すための銀行である。もし、ロシアと他国との間に何らかの商取引が発生するならば、それを取り扱うための銀行が不可欠である。この前進はすべての方法で他国によって支援されるべきであり、私がアドバイスを求められたとき、それを与える準備があると述べた。私は、前向きでない政策には賛成しないし、積極的な再建のために役立つすべての機会をとらえるべきだと信じている。重要な問題は、ロシアの為替レートを如何にして正常に戻すかということである。複雑な問題であり、研究が必要であろう。この問題を解決するために、当然のことであるが、その研究に十二分に喜んで参画したい。ロシアをそれ自身の資源や運命に任せることは愚劣である。28
ペトログラードにあり、以前はSiberian Bank のものであった建物は、Ruskombankの本部として使われていた。Ruskombankの使命は、外国における短期公債の値を上げること、ソビエト連邦に外資を導入すること、および普通の業務としてロシアの海外貿易を容易にすることであった。それは1922年12月1日、ロシアにおいてオープンし、約300名の従業員が雇われた。
スウェーデンにおいては、Ruskombankはオロフ・アシュベルグのNya Bankenのことであるが、名前だけ変わったSvenska Ekonomibolagetから代表が送られ、ドイツにおいてはベルリンのGarantie und Creditbank fur Den Osten であった。合衆国においては、ニューヨークのから Guaranty Trust Companyから代表が送られていた。その銀行のオープニングに際して、オロフ・アシュベルグは次のようにコメントしている。
この新しい銀行は、英国および合衆国から機械類と原材料の購入に奉仕するであろう。 また、契約の達成のための保証を与えるであろう。 スウェーデンにおける購入の問題はまだ生じていないが、そのようなことが追って問題になることが望まれる。29
脚注
28 Ibid., 861.516/140, Stockholm, October 23, 1922.
29 Ibid., 861.516/147, December 8, 1922.
p. 62
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Ruskombankに参入するや否や、Guaranty Trustのマックス・メイは同じような事を述べている。
合衆国は、産業が十分発達した豊かな国であり、外国から何も輸入する必要はないが、生産物を他国に輸出することにおいて大いに関心があり、経済生活のすべての領域におけるロシアの巨大な要求を考慮するならば、ロシアはその目的のために最も適した市場だと考えられる。30
メイは、Russian Commercial Bankは"非常に重要"であり、それは"ロシアの産業のすべての領域に多額の資金を供給する"であろうと述べた。
まさに初めから、Ruskombankの操業はソビエトの外国貿易独占権によって制限されていた。その銀行は海外に届けられたロシアの商品に対する前渡し金を得ることに困難があった。それらはソビエト貿易委員団の名前で運ばれたため、多大なRuskombankの資金はRussian State Bankの預金内に閉じ込められていた。 1924年の初期になってやっと、Russian Commercial Bankはソビエトの外国貿易人民委員会と融和し、オロフ・アシュベルグはその銀行の地位から解任された。なぜならば、モスクワで主張されたことであるが、彼は銀行の資金を悪用したからである。銀行との彼の最初の関係はマキシム・リトヴィノフ(Maxim Litvinov)との親交のためであった。国務省レポートがそう述べていることであるが、このかかわり合いを通して、オロフ・アシュベルグは欧州におけるソビエトからの注文品の支払いに応じることを目的とした多額な金銭に接近していた。
これらの合計金額は外見上、アシュベルグ氏が所有する民間銀行であるEkonomibolagetに置かれていた。これらの資金の大部分は彼の個人口座に入れられ、アシュベルグ氏がそれを投資に流用していて、彼はこの金を保持することを通して銀行での彼の地位を維持しようと現在努めているということが今alledge(原文のまま)されている。私の情報提供者によると、アシュベルグ氏はソビエト資金の操作によって利益を得ている唯一の人物ではなく、Russian Commerce Bankにおける彼の任命に責任ある立場だった人々と利益を分け合っているが、その中にリトヴィノフが含まれている。31
Ruskombankはその後Vneshtorgになり、その名前で今日知られている。
我々は今我々のステップを注意して見直し、第一次世界大戦中における、アシュベルグのニューヨークの提携社であるGuaranty Trust Companyの行動に注目しなければならない。それは、ロシアでの革命時代におけるその役割検討の基礎を築くためである。
脚注
30 Ibid., 861.516/144, November 18, 1922.
31 Ibid., 861.316/197, Stockholm, March 7, 1924.
p. 63
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1914〜1917年、アメリカ合衆国におけるGuaranty Trustとドイツ人のスパイ行為 32
第一次大戦中、ドイツは、北米および南米におけるスパイ活動や秘密作戦のために、ニューヨークにおいて多額の資金を集めた。これらの資金の流れを書き留めることは重要である。なぜならば、その資金はボルシェビキ革命とその余波に関わったのと同じ会社−Guaranty TrustおよびAmerican International Corporation−から流れているからである。ドイツ政府がレーニンの革命活動にも資金提供していたという事実(第三章に概説済)は言うまでもない。
第一次大戦においてアメリカの銀行がドイツのために授けた融資の概要は、合衆国陸軍諜報機関によって1919年の上院監督委員会に与えられていた。その概要はカール・ヘイネン(Karl Heynen)の宣誓証言に基づくものであり、彼はドイツ政府の貿易・財政業務に関してアルバート博士を手伝うために1915年4月に合衆国に来ていた。ヘイネンの公式な仕事は、スウェーデン、スイス、およびオランダを経由して、合衆国からドイツへ商品を輸送することであった。しかし、実際は、彼は秘密作戦に没頭していた。
1915年から1918年の間に合衆国でまかなわれた主要なドイツへの融資は、ヘイネンによれば次の通りである。最初の融資は40万ドルで、1914年9月頃、投資銀行家であるLoeb & Co.のクーンによってであった。 2千5百万マルクの担保が、Loeb & Co.のクーンのドイツ人提携者であるハンブルグのマックス・M・ウォーブルグ(Max M. Warburg)によって供託された。合衆国陸軍諜報機関のジョージ・B・レスター(George B. Lester)大尉は上院に対して、「何故、あなたはLoeb & Co.のクーンのところへ行ったのか?」という質問に対するヘイネンの回答は、「我々はLoeb & Co.のクーンをドイツ政府およびReichsbankの道理にかなった銀行家だと考えているからである。」だったと告げている。
第二の融資は120万ドルで、合衆国から直接ではなく、Suedeutsche Disconto-Gesellschaftの代理人であるジョン・サイモン(John Simon)によって、ドイツへの船積み資金の支払いを保証するために処理された。
脚注
32 This section is based on the Overman Committee hearings, U.S., Senate, 「酒造業者、およびドイツとボルシェビキのプロパガンダ(Brewing and Liquor Interests and German and Bolshevik Propaganda)」, Hearings before the Subcommittee on the Judiciary, 65th Cong., 1919, 2:2154-74.
p. 64
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第三の融資は(モルガングループの)Chase National Bankからで、その額は300万ドルであった。第四の融資はMechanics and Metals National Bankからで、100万ドルであった。これらの融資金は合衆国とメキシコにおけるドイツのスパイ活動の資金となった。いくつかの資金は、バン・リンテレン(Von Rintelen)(別のドイツ人スパイ)の助言者であり、のちにヒジャルマー・シャチ(Hjalmar Schacht)とエミール・ウイッテンベルグと交際のあったソマーフェルドによって足跡がつけられている。ソマーフェルドはメキシコで使用するための弾薬を購入している。彼は、Guaranty Trust Companyに口座を持っていて、支払いはこの口座からイリノイのWestern Cartridge Co. of Altonに対してされた。弾薬はエルパソまで船で運ばれて、パンチョ・ビラの無法者達によってメキシコで使用された。約40万ドルが弾薬、メキシコでのプロパガンダ、および同様の活動に費やされた。
当時のドイツ大使カウント・バン・ベルンストルフ(Count Von Bernstorff)は、Amsinck & Co.の社長であるアドルフ・バン・パベンステッド(Adolph von Pavenstedt)との交際について詳しく述べている。そのAmsinck & Co.は、American International Corporationの支配下にあり、1917年11月には所有されていた。American Internationalは以下の章において際立ってよく現れる。その取締役会には、ウォール街における重要な名前であるロックフェラー、カーン、スチルマン、ドゥ・ポント(du Pont)、ウィンスロップ(Winthrop)などが含まれている。バン・ベルンストルフによれば、バン・パベンステッドは"大使館のすべてのメンバーと懇意"であった。33 バン・ベルンストルフ自身は、"ニューヨークにおける最も尊敬すべきで威厳のあるドイツ人を除けば"34 、バン・パベンステッドを最も尊敬すべき人々の一人と看做していた。実のところ、バン・パベンステッドは"この国において長年、ドイツのスパイシステムの給料支払い係長"35であった。言い換えれば、American International Corporationに支配されていたArmsinck & Co.が合衆国における戦時中のドイツのスパイ活動資金と密接に関連していたことは疑いの余地が無い。バン・ベルンストルフの最後の陳述に決着をつけるために、Amsinck & Co.を受取人とする1917年12月8日付け小切手の写真が存在するが、その日付はロシアにおけるボルシェビキ革命の開始からちょうど4週間後である。その小切手は、バン・パペン(Von Papen)(別のドイツ人スパイ活動員)によって署名されており、その小切手の半券部には"バン・W[すなわちバン・ウェデル(Von Wedell)]の旅費"という注釈が書き留められている。その写真を公表したフレンチ・ストロザーズ(French Strothers)36は、この小切手はバン・パペンが"アメリカの法律に背いた犯罪に対する事後共犯になった"証拠だと述べている。それはまた、Amsinck & Co.を同様の容疑にさらすものでもある。
脚注
33 Count Von Bernstorff, My Three Years in America (New York: Scribner's, 1920), p. 261.
34 Ibid.
35 Ibid.
36 French Strothers, Fighting Germany's Spies (Garden City, N.Y.: Doubleday, Page, 1918), p. 152.
p. 65
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ポール・ボロ-パシャ(Paul Bolo-Pasha)は、これまたドイツのスパイであり、エジプト政府に以前勤務していた著名なフランスの金融業者であるが、バン・パベンステッドへの紹介状を持って1916年3月にニューヨークに到着した。バン・パベンステッドを通じて、彼はベルリンのDeutsche Bankの取締役で、合衆国におけるその代表者であるヒューゴ・シュミット(Hugo Schmidt)に会った。ボロ-パシャのプロジェクトの一つは、外国の新聞を購入し、ドイツのためにそれらの社説を歪曲することであった。このプログラムのための資金は、Guaranty Trust Companyの貸金の形で、次にAmsinck & Co.に利用可能な貸金としてベルリンで用意された。Amsinck & Co.のアドルフ・バン・パベンステッドは順ぐりにボロ-パシャが利用できる資金を作った。
換言すれば、Guaranty Trust CompanyとAmerican International Corporationの子会社であるAmsinck & Co.は、合衆国におけるドイツの諜報などの活動の道具として直接関係していた。これらの企業から合衆国における主要なドイツの操作者 ―アルバート博士、カール・ヘイネン、バン・リンテレン、バン・パパン(Von Papan)、カウント・ジャクエス・ミノト(Count Jacques Minotto)(後述を参照)、およびポール・ボロ-パシャ― への数本の繋がりが確証され得る。
1919年に上院監督委員会は、 Guaranty Trust社が"非中立"の立場でドイツの第一次世界大戦の募金活動への融資に積極的な役割を演じたことも立証している。合衆国諜報員ベッカーの審問はこれを明らかにしている。
この使命において、[Deutsche Bank の]ヒューゴ・シュミットはあるアメリカの銀行業機関によって惜しみなく援助されました。それは、我が国が中立であった間であるが、彼らの行為は英国の権益に損害を与えました。私はこの点に関してGuaranty Trust Co.の行為について少なからずのデータを持っておりますが、委員会が私にそれについて詳しく論じることを望むかどうか知りたいです。
ネルソン上院議員:それはCity Bankの支店ですね?
ベッカー氏:いいえ。
上院議長:もし、それが英国の権益に反していたならば、中立ではなかったということであり、あなたはそれについて詳しく述べたほうが良いと思います。
キング上院議員:それは通常の銀行取引でしたか?
ベッカー氏:それは見解の問題でしょう。中立の手形であるかのよう見せかけるために手形を偽装することと関係があります。本当はドイツの手形であったものがロンドンの手形として処理されました。 Guaranty Trust Co.が1914年8月1日とアメリカが参戦した日の間に主に関与した操作の結果、Deutsche Bankeは南アメリカのその支店において戦時中に467万ポンドのロンドンの手形を処理するのに成功しました。
上院議長:それは合法的だと思います。37
脚注
37 U.S., Senate, Overman Committee, 2:2009.
p. 66
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本当に重要なことは、財政的な援助がドイツに与えられたという単なる非合法性にあるのではなく、Guaranty Trust社の取締役が同時に連合国も財政的に支援していたということである。換言すれば、Guaranty Trust社は紛争者の両方に出資していた。これはモラルの問題を提起する。
Guaranty Trust-ミノト(MINOTTO)-カイラウクス(CAILLAUX)を繋ぐ糸38
カウント・ジャクエス・ミノトは、ロシアでのボルシェビキ革命をドイツ銀行、合衆国におけるドイツの第一次世界大戦諜報員、ニューヨークのGuaranty Trust社、失敗したフランスでのボルシェビキ革命、およびフランスでの関連したカイラウクスとマルヴィ(Malvy)の諜報疑惑公判と結びつけた、最もありそうでないが立証できる永続的な糸である。
ジャクエス・ミノトは、1891年2月17日にベルリンで生まれ、イタリア貴族の子孫であるオーストラリア人の父親とドイツ人の母親の間に生まれた息子である。息子の方のミノトはベルリンで教育を受け、1912年にベルリンのDeutsche Bankに就職した。入社後ほとんど直ぐに、ミノトはDeutsche Bankの副会長でそのニューヨーク代表者であったヒューゴ・シュミットの助手として合衆国に派遣された。ニューヨークに1年居たあと、ミノトはDeutsche Bankの社命でロンドンに送られ、そこで著名な政治および外交関係のサークルを回って歩いた。第一次世界大戦の勃発で、ミノトは合衆国に戻り、直ぐにドイツ大使カウント・バン・ベルンストルフに会ったあと、ニューヨークのGuaranty Trust社に雇用された。Guaranty Trust社において、ミノトはその外国部門の重役であり、スウェーデンの銀行家オロフ・アシュベルグの仲間であるマックス・メイから直接の命令を受けた。ミノトはもはや下っ端の銀行員ではなかった。1919年パリにおけるカイラウクス公判の尋問は、ミノトがマックス・メイの直接の配下として働いたことを立証している。39
脚注
38 本節は、次の文献に基づいている (他で引用されている文献と同様に):Jean Bardanne, Le Colonel Nicolai: espion de genie (Paris: Editions Siboney, n.d.); Cours de Justice, Affaire Caillaux, Loustalot et Comby: Procedure Generale Interrogatoires (Paris, 1919), pp. 349-50, 937-46; Paul Vergnet, L'Affaire Caillaux (Paris 1918), especially the chapter titled "Marx de Mannheim"; Henri Guernut, Emile Kahn, and Camille M. Lemercier, Etudes documentaires sur L'Affaire Caillaux (Paris, n.d.), pp. 1012-15; and George Adam, Treason and Tragedy: An Account of French War Trials (London: Jonathan Cape, 1929).
39See p. 70.
p. 67
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1914年10月25日、Guaranty Trust社はジャクエス・ミノトを南米に送り、そこの政治・財政・貿易状況についてのレポートを作成させた。彼はロンドン、ワシントン、およびニューヨークでした様に、最上層の外交・政治サークルに近付いた。ラテンアメリカにおけるミノトの任務の一つの目的は、Guaranty Trust社が上述のドイツ公債をロンドン通貨市場で調達するための仲介者として使用できるようなメカニズムを確立することであったが、そのドイツ公債は第一次世界大戦のためその後ドイツによって償還を拒否された。ミノトは合衆国に戻り、カウント・バン・ベルンストルフとカウント・ルクスベルグ(Count Luxberg)との親交を回復し、続いて1916年に合衆国海軍諜報部に地位を得ようと試みた。このあと、彼は親ドイツ活動の罪で逮捕された。逮捕されたとき、ミノトは義理の父親で精肉業者であるSwift & Co.のシカゴ工場で働いていた。スウィフトはミノトを自由にするために5万ドルの保釈金を供出したが、Swift & Co.の弁護士ヘンリー・ビーダー(Henry Veeder)によって代行された。後日、ルイス・スウィフト自身も親ドイツ活動のために逮捕された。興味深く、重要でなくない偶然の一致として、ルイス・スウィフトの兄弟である"年長の方の"ハロルド・H・スウィフトは、ペトログラードへのウィリアム・ボイス・トンプソン1917年赤十字使節団のメンバーであった。この使節団は、彼らのロシア革命との密接な関係が後述されるところのウォール街弁護士やビジネスマンからなるグループの一つであった。ルイスおよびハロルド・スウィフトの姉妹であるヘレン・スウィフト・ネイルソンは、親共産主義者であるアブラハム・リンカーンCenter "Unity"と後に繋がりを持った。これは、ドイツ銀行、アメリカ銀行、ドイツ諜報、および後で分かるようにボルシェキビ革命の間のマイナーな繋がりを立証した。40
ジョセフ・カイラウクスは有名な(時には悪名高いと言われた)フランスの政治家である。彼は、Guaranty Trust社のためにラテンアメリカで工作活動をしたカウント・ミノトとも交友関係があり、ボルシェビキとの関係があった1919年の有名なフランスのスパイ事件に後に関与した。1911年にカイラウクスは財務相になり、その年のうちにフランスの首相になった。ジョン・ルイス・マルヴィはカイラウクス政権における国務次官になった。数年後、カイラウクス夫人は著名なパリの新聞Figaroの編集者であるガストン・カルメット(Gaston Calmette)を殺した。検察側は、カイラウクス夫人はある信用を傷つけるような書物の出版を阻止するためにカルメットを殺したと説示した。この事件の結果、カイラウクスと夫人はフランスを離れた。
脚注
40 この繋がりは、1919年の3巻からなる監督委員会レポートに詳しく述べられている。参考文献一覧を参照のこと。
p. 68
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そのカップルはラテンアメリカへ行って、そこでGuaranty Trust Companyの工作員で、ドイツの融資のための仲介者を確立しようとしてラテンアメリカに居たカウント・ミノトと会った。カウント・ミノトは、ブラジルのリオデジャネイロやサンパウロ、ウルグアイのモンテビデオ、およびアルゼンチンのブエノスアイレスにおいて、カイラウクス夫妻と社会的に関係を持っていた。換言すれば、カウント・ミノトは、カイラウクス夫妻がラテンアメリカにいる間、彼らの不断の仲間であった。41 フランスに戻るや否や、カイラウクスと夫人はポール・ボロ-パシャの客人として、ビアリッツに滞在したが、そのポール・ボロ-パシャもまた、既に述べたように合衆国とフランスにおけるドイツの諜報工作員であった。42 その後1915年7月に、カウント・ミノトはイタリアからフランスに到着し、カイラウクス夫妻と会っていて、同じ年にカイラウクス夫妻は再びブラジルのボロ-パシャを訪問している。換言すれば、1915年と1916年において、カイラウクスは合衆国におけるドイツのスパイであったカウント・ミノトおよびボロ-パシャと連続した社会的な関係を確立していた。
ボロ-パシャのフランスでの仕事は、パリの新聞Le TempsおよびFigaroにおいて、ドイツのために影響力を獲得することであった。ボロ-パシャはそれからニューヨークに行き、1916年2月24日に到着している。そこで、彼は2百万ドルの融資について交渉したが、著名なドイツ人スパイであるバン・パベンステッドおよびAmsinck & Co.と提携していた。43 著作「内部の敵」におけるセベランス・ジョンソン(Severance Johnson)は、カイラウクスとマルヴィを1918年の失敗したフランスボルシェビキ革命に関係させていて、もしその革命が成功していたならば、「マルヴィはフランスのトロツキー、カイラウクスはフランスのレーニンになっていたであろう」と述べている。44 カイラウクスとマルヴィは、ドイツの資金を使って、フランスに急進的な社会主義政党を作り、これらの破壊的な奮闘のために裁判にかけられた。1919年フランスにおけるスパイ裁判の法廷尋問は、ニューヨークの銀行家およびこれらのドイツ諜報工作員との彼らの関係について宣誓供述書をもたらしている。法廷尋問はまた、Guaranty Trust CompanyのDeutsche Bankとの関係、およびDeutsche Bankのヒューゴ・シュミットとGuaranty Trust Companyのマックス・メイの間の協力と同様に、カウント・ミノトとカイラウクスの繋がりを明らかにしている。そのフランスの法廷尋問(940ページ)は、カウント・ミノトのニューヨーク宣誓供述書からの次の抜粋(10ページ、フランス語からの再翻訳)を含んでいる。
脚注
41 See Rudolph Binion, Defeated Leaders (New York: Columbia University Press, 1960).
42 George Adam, Treason and Tragedy: An Account of French War Trials (London: Jonathan Cape, 1929).
43 Ibid.
44 「内部の敵(The Enemy Within)」 (London: George Allen & Unwin, 1920).
p. 69
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質問:Guaranty Trust社では誰の指揮下にあったのか?
返答:マックス・メイ氏の指揮下でした。
質問:彼は副会長だったのか?
返答:彼は副会長であり、かつ外国部門の部長でした。
その後1922年に、マックス・メイはSoviet Ruskom-bankの重役となり、その銀行におけるGuaranty Trust社の利権の代表者となった。フランスの法廷尋問は、ドイツの諜報工作員であるカウント・ミノトがGuaranty Trust Companyに雇われていたこと、マックス・メイが彼の上司であったこと、およびマックス・メイがボルシェビキ銀行家であるオロフ・アシュベルグとも親密な関係であったことを立証している。要約すれば、Guaranty Trust社のマックス・メイは、第一次世界大戦中の合衆国における非合法な資金調達とドイツの諜報活動に関係していた。彼はボルシェビキ革命に間接的に、またソビエト連邦の最初の国際銀行であるRuskombankの創設に直接的に関係していた。
この見るからに矛盾していて、非合法にして時には倫理に反する国際的な活動についての解明を試みるのは時期尚早である。一般的には、二つの説明が可能である。一番目は利益の容赦なき追求であり、二番目は、この章の題辞に示されたKuhn, Loeb & Co.とAmerican International Corporationのオットー・カーンの言葉と一致するが、社会主義者の目的であって、かつ非社会主義的手段によって成し遂げられるべき、成し遂げられえる目的の実現である。
p. 70
http://www.nn.em-net.ne.jp/~komoda/chap4.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/509.html
15. 2011年7月12日 08:15:23: FUviF2HWlS
議論がおかしい。
殺人事件で、致命傷が3箇所あれば、3人殺したことになるのだろうか?
無期懲役で済む犯罪で、死刑宣告されるようなものだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/152.html#c15
16. 2011年7月12日 08:16:21: U3n3rrhRKg
地震、噴火、異常気象、新種のウィルスの続発等で地球壊しを加速させ、国減らし人減らしのシナリオが進行中。
政府は人減らし担当のビルゲイツと手を組んだ。
世界各国でばらしだした政治家の実態。
日本の現実は、
http://tomiman-daitoku.blog.so-net.ne.jp/
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/152.html#c16
第五章
1917年、アメリカ赤十字社のロシア派遣団
気の毒なビリングス(Billings)氏は、ロシア解放のための学術的使節団を管理していると信じていた。彼は本当のところは仮面舞踏者以外の何者でもなかった。その派遣団の赤十字社としての顔色は見せかけに過ぎなかった。
ウィリアム・ボイス・トンプソンの助手コーネリアス・ケレハー(Cornelius Kelleher)(ジョージ・F・ケナン作「ロシアは戦争を残し去る」において)
1917年ロシアでのウォール街の計画事業は、赤十字社の派遣団をその作戦上の手段として使った。Guaranty Trust社とNational City Bankは革命時にロシアに代理人を置いていた。National City Bankのロシア支店のフレデリック・M・コース(Frederick M. Corse)はアメリカ赤十字社の派遣団に執着していたが、それについては後でたっぷりと述べよう。Guaranty Trust社はヘンリー・クロスビー・エメリィ(Henry Crosby Emery)によって代表されていた。エメリィは1918年にドイツ人達によって一時的に拘束されたが、その後移動して中国のGuaranty Trust社の代表者となった。
p. 71
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1915年頃までは、ワシントンD.C.のアメリカ赤十字国家本部における最も影響力のある人物はメイベル・ボードマン(Mabel Boardman)女史であった。活動的で精力的な主催者であったボードマン女史は、その基金がJ.P.モルガン、E.H.ハリマン(Harriman)女史、クリーブランド・H・ドッジ(Cleveland H. Dodge)、およびラッセル・セージ(Russell Sage)女史を含む裕福で著名な人々から出ていたけれども、赤十字事業を後援する機動力であった。たとえば、1910年の2百万ドルの資金調達キャンペーンが成功したのは、ニューヨーク市のこれらの裕福な住人によって支援されたからに過ぎない。J.P.モルガンは自身で10万ドルを寄付し、ニューヨーク市の他の7名の寄付者は30万ドルを集めた。ニューヨーク市以外ではただ一人だけが1万ドル以上の寄付をしたが、それはボードマン女史の父親であるウィリアム・J・ボードマン(William J. Boardman)であった。ヘンリー・P・ダヴィソン(Henry P. Davison)は1910年のニューヨーク資金調達委員会の議長であったが、後にアメリカ赤十字社の軍事会議の議長になった。換言すれば、第一次世界大戦において、赤十字はウォール街、特にモルガン商会に強く依存していた。
赤十字社は第一次世界大戦の要求に対処できず、事実上これらのニューヨーク銀行家に引き継がれた。ジョン・フォスター・ドゥレス(John Foster Dulles)によれば、これらのビジネスマンは「アメリカ赤十字社を政府の仮想軍隊と見ていて、彼らは戦争の勝利に計り知れない貢献をすることを目論んだ。」1 そうすることにおいて、彼らは赤十字のモットー"中立性と人間愛"を嘲笑した。
資金を集める見返りに、ウォール街は赤十字社軍事会議を求め、ウッドロー・ウィルソンの金融銀行家の一人であるクリーブランド・H・ドッジの薦めで、J.P.モルガン会社のパートナーであるヘンリー・P・ダヴィソンが議長になった。 その後、赤十字社の管理者リストはニューヨークの重役達、Anaconda Copper Companyの会長ジョン・D・リアン(口絵参照)、American Tobacco Companyの会長ジョージ・W・ヒル(George W. Hill)、Guaranty Trust Companyの副会長グレイソン・M・P・マーフィ(Grayson M.P. Murphy)、およびロックフェラーのための公的な関係の専門家アイヴィ・リー(Ivy Lee)の住所録の体裁を示し始めた。後にルーズベルト大統領のもとで名声を得るために、ハリー・ホプインス(Harry Hopkins)は、ワシントンD.C.における赤十字社総支配人補佐になった。
脚注
1 John Foster Dulles, アメリカ赤十字社(American Red Cross) (New York: Harper, 1950).
p. 72
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赤十字社のロシア派遣団は、1917年5月29日金曜日午前11時、ワシントンD.C.の赤十字社の建屋で開催されたこの再構築された軍事会議の第三回会合の前で問題となった。ダヴィソン議長はInternational Harvester Companyのアレクサンダー・レッジ(Alexander Legge)とともにそのアイデアを詮索することを委任された。その次に、ロシアにおいて相当な権益を持っていたInternational Harvester社が、ロシアでの任務への融資を助けるために20万ドルを提供した。もっとあとの会合で、ニューヨークの連邦準備銀行の重役ウィリアム・ボイス・トンプソンが「その軍事会議の全費用を払うと申し出ていた」ということが知らされた。この申し出は、「ロシアに関する軍事会議の費用を払うというあなたの申し出は非常に有り難く、我々の見解では非常に重要である」2という電文において受け入れられた。
その使節団のメンバーは無報酬であった。全費用はウィリアム・ボイス・トンプソンによって支払われ、International Harvester社からの20万ドルは、どうやら政治献金としてロシアで使われたようである。ペトログラードの合衆国大使館のファイルから、合衆国赤十字社は革命家達の解放のために大臣委員会の委員長であるプリンス・ルヴォフ(Prince Lvoff)に4,000ルーブルを、"政治的亡命者の解放"のためにケレンスキーに2度にわたって10,000ルーブルを与えたことが分かる。
1917年、アメリカ赤十字社のロシア派遣団
1917年8月、アメリカ赤十字社のロシア派遣団はアメリカ赤十字社と名ばかりの関係があっただけで、本当は歴史上最も異常な派遣団だったに違いない。制服 ―メンバーはすべて大佐、少佐、大尉、または中尉のいずれかであった― の代金を含んで全ての費用は、ウィリアム・ボイス・トンプソンのポケットマネーで賄われた。一人の同時期の観察者は、全員が将校からなるグループを"ハイチ軍"と呼んだ。
アメリカ赤十字派遣団、すなわち約40名の大佐、少佐、大尉、および中尉が昨日到着した。その派遣団はシカゴのビリングス大佐(博士)によって率いられていて、ウィリアム・B・トンプソン大佐、および多くの医師や市民を含んでいるが、全員が軍の肩書きを持っている。我々はその一団を"ハイチ軍"と呼ぶのは、兵卒がいないからである。彼らは、私に分かる限りでは、明確に定義された任務を果たす訳でもないのにやって来た。事実、しばらく前のことであるが、フランシス長官は私に、既にロシアにおいて様々な連合国から多くの使節団が来ているので、彼らが来るに及ばないと説得したのだと言った。どうやら、この派遣団はロシアにおいて医者と看護婦が緊急に必要になると想像していたらしい。実を言うと、現在、医療関連の人材や施設は過剰であり、田舎では現地の人や外国人の看護婦で溢れていて、大都市では多くの半分空いている病院がある。3
脚注
2 アメリカ赤十字社軍事会議議事録(Washington, D.C., May 1917)
3 ギブス(Gibbs)の日記, August 9, 1917. State Historical Society of Wisconsin.
p. 73
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その派遣団は、実のところ、軍の肩書きが中佐から中尉までの(40名ではなく)たった24名からなっていて、肩書き無しの団員として、3名の看護補助者、2名の映画製作カメラマン、および2名の通訳も付随していた。(24名中の)たった5名が医者であり、それに加えて2名の医療研究者がいた。派遣団は1917年8月シベリア経由でペトログラードに汽車で到着した。5名の医者と看護補助者は1ヶ月滞在したあと、9月11日に合衆国に帰国した。派遣団の名目上の団長にしてシカゴ大学の医学教授であるフランク・ビリングス博士は、派遣団の大多数が公然と政治的な活動をするのにうんざりしていると報告されていた。他の医療関係者は、ジョーンズホプキンス大学の医学教授ウィリアム・S・タイラー、フィラデルフィアのフィリップス結核研究予防研究所の特別研究員D・J・マッカーシー、コロンビア大学の食物化学教授ヘンリー・C・シャーマン、エール医科大学院の細菌学と衛生学の教授C.E.A.ウィンスロー、ラッシュ医科大学の医学教授ウィルバー・E・ポスト、アメリカ軍の医療将校予備軍のマルコルム・グロー博士、およびニューヨーク総合病院の臨床医学教授オリン・ウィットマンである。ジョージ・C・ホイップルは、ハーバード大学の衛生工学教授としてリストされているが、実際は工学コンサルタントであるHazen, Whipple & Fullerのニューヨーク事務所の仲間であった。これは意味深長である。なぜならば、マルコルム・ピルニィ ―彼については、後にもっと述べるが― は、衛生技術補助員としてリストされ、Hazen, Whipple & Fullerによって技術者として雇われていたからである。
派遣団の大半は、その表から分かるように、ニューヨークの金融地区からの弁護士、金融業者、および彼らの助手からなっていた。赤十字社の公的な配布文に"長官兼営業部長で、ニューーヨークの合衆国連邦銀行の重役"と述べられているウィリアム・B・トンプソンによって財務管理されていた。トンプソンはコーネリアス・ケラーを連れていた。彼女は派遣団の随行員と記載されているけれども、本当はトンプソンの秘書であり、住所がニューヨーク、ウォール街14番地と同じであった。派遣団の広報はヘンリー・S・ブラウンによって統御されたが、彼のアドレスも同じであった。トーマス・デイ・タチャーは彼の父親トーマス・タチャーによって1884年に創立された事務所Simpson, Thacher & Bartlettの弁護士で、鉄道の再構築と合併に目立って没頭した。息子の方のトーマスは最初家族の経営する会社で働き、ヘンリー・L・スティムソンの下で合衆国の弁護士補佐官になって、1909年に家族経営会社に戻った。若いタチャーはフェリックス・フランクフルターの親友で、後にレイモンド・ロビンスの補佐官になり、また赤十字派遣団にも参加した。1925年に彼はクーリッジ大統領の下で地方裁判所裁判官に任命され、ハーバート・フーバー大統領の下で法務長官になり、ウィリアム・ボイス・トンプソン研究所の所長であった。
p. 74
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1917年アメリカ赤十字社のロシア派遣団員リスト
ウォール街金融界およびその提携先からの団員
アンドリュース(Andrews)(Liggett & Myers Tobacco)
バー(Barr)(Chase National Bank)
ブラウン(Brown)(ウィリアム・B・トンプソン気付)
コクラン(Cochran)(McCann Co.)
ケラー(Kelleher)(ウィリアム・B・トンプソン気付)
ニコルソン(Nicholson)(Swirl & Co.)
ピルニー(Pirnie)(Hazen, Whipple & Fuller)
レッドフィールド(Redfield)(Stetson, Jennings & Russell)
ロビンスRobins (鉱工業のプロモータ)
スウィフト(Swift)(Swift & Co.)
タチャー(Thacher)(Simpson, Thacher & Bartlett)
トンプソン(Thompson)(Federal Reserve Bank of N.Y.)
ワードウェル(Wardwell)(Stetson, Jennings & Russell)
ホイップル(Whipple)(Hazen, Whipple & Fuller)
コース(Corse)(National City Bank)
マグヌッソン(Magnuson)(コロネル・トンプソンの腹心の代理人による推薦)
医者 看護補助者、通訳など
ビリングス(Billings)(博士) ブルックス(Brooks)(看護補助者)
グロー(Grow)(博士) クラーク(Clark)(看護補助者)
マッカーシー(McCarthy)(医療研究者、博士) ロッチア(Rocchia)(看護補助者)
ポスト(Post)(博士)
シャーマン(Sherman)(食物化学) トラビス(Travis)(映画)
タイラー(Thayer)(博士) ウィスコフ(Wyckoff)(映画)
ウィットマン(Wightman) (薬学) ハーディ(Hardy)(判事)
ウィンスロー(Winslow)(衛生学) ホーン(Horn)(輸送)
P. 75
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副団長にして団長秘書のアラン・ワードウェルは、ニューヨーク市ブロードストリート15番地のStetson, Jennings & Russell 法律事務所の弁護士で、H.B.レッドフィールドはワードウェルの法律秘書であった。ワードウェル少佐は、ニュージャージのStandard OilおよびニューヨークStandard Oilの経理部長を長年務めたウィリアム・トーマス・ワードウェルの息子であった。父親のワードウェルは、有名なStandard Oil trust agreementの署名者の一人で、スペイン-アメリカ戦争における赤十字社の活動を組織した委員会のメンバーで、Greenwich Savings Bankの重役であった。彼の息子アランは、Greenwich Savingsの重役であっただけではなく、Bank of New York and Trust Co.およびGeorgian Manganese Company の重役(Guaranty Trustの重役アヴェレル・ハリマンと一緒に)でもあった。1917年、アレン・ワードウェルはStetson, Jennings & Russellと提携し、後にDavis, Polk, Wardwell, Gardner & Read(フランク・L・ポークは、ボルシェビキ革命の間、国務長官代理であった)と結びついた。上院監督委員会は、ワードウェルはソビエト政権に好意的であると特筆している。その地位にあった国務省官僚プールが、父親のワードウェルはすべてのアメリカ人について最も広い個人的な恐れの認識を持っていると特筆している(316-23-1449)にもかかわらずである。1920年代に、ワードウェルはソビエトの貿易目標を促進することにおいて露米商工会議所と活発に活動した。
派遣団の会計は、セントルイスのLiggett & Myers Tobacco Companyの監査役ジェームス・アンドリュースが担当していた。別の団員ロバート・I・バールは副団長としてリストに載っているが、Chase Securities Company (ブロードウェイ120番地)とChase National Bankの副会長であった。広報としてリストされているのは、ニューヨーク市ブロードウェイ61番地のウィリアム・コクランである。鉱工業プロモータのレイモンド・ロビンスは副団長として含まれていて、"社会経済学者"と記述されている。最後になるが、その派遣団はシカゴの家畜飼育業組合のSwift & Companyの2名の団員を含んでいる。Swiftsが、第一次世界大戦中に合衆国におけるドイツ人スパイと繋がっていたことは既に述べた通りである。副団長のハロルド・H・スウィフトはwift & Companyの副会長の補佐人で、ウィリアム・G・ニコルソンは家畜飼育業組合のSwift & Companyの関係者であった。
p. 76
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派遣団のペトログラード到着後に二人の人物が非公式に加わった。その一人はペトログラードのNational City Bankの代表者であるフレデリック・M・コース(Frederick M. Corse)であった。もう一人は"ウィリアム・B・トンプソン大佐の中国における信頼できる諜報員であるジョン・W・フィンチ(John W. Finch)によって特別に推薦された"4ヘルベルト・A・マグヌソン(Herbert A. Magnuson)であった。
フーバー研究所に保管されているピルニー文書はその派遣団についての主要な資料を含んでいる。マルコルム・ピルニーは、ニューヨーク市42番街のコンサルティング会社Hazen, Whipple & Fullerによって雇われた技術者であった。ピルニーは派遣団の一員であって、衛生技術補助員として名簿にリストされている。その会社のパートナーであったジョージ・C・ホイップルもそのグループに含まれていた。ピルニー文書は、ウィリアム・B・トンプソンからのオリジナルの電文を含んでいる。その電文は、ロシアに出発する前に、彼および赤十字軍事会議の議長にしてJ.P.モルガン商会のパートナーでもあるヘンリー・P・ダヴィソンに会うようにと、衛生技術補助員ピルニーを招待したものであった。電文には次のように書かれている。
1917年6月21日、ニューヨーク、ウェスタンユニオン電報
マルコルム・ピルニー殿
私は君をニューヨーク16番通り5番街のメトロポリタンクラブでの食事に切に招きたい。明日金曜日の午後8時からで、そこでH.P.ダヴィソン氏と会わせたい。
W.B.トンプソン、ウォール街14番地
その書類一式は、モルガンのパートナーであるダヴィソンと連邦準備銀行の重役であるトンプソン(ニューヨークにおける最も有名な金融界の重鎮の二人)が、何故ロシアに発とうとしている衛生技術補助員と食事したかったのかを明らかにしていない。その書類一式は、ダヴィソンが何故その次にビリングス博士および派遣団そのものと会うことができなかったのかや、何故ピルニーにそうできないことを知らせる必要があったのかを説明していない。しかし、使節団の公的な見せかけ、すなわち赤十字の活動は、それらが何であったろうとも、トンプソン-プリニー活動よりも著しく興味が薄かったと推量して良いであろう。1917年6月25日にダヴィソンがビリング博士に次のように書き送っている。
脚注
4 Billings report to Henry P. Davison, October 22, 1917, American Red Cross Archives.
p. 77
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親愛なるビリングス博士
あなたの使節団のメンバーに全員そろってお会いできないのは、私および軍事会議における私の同僚にとって残念です。
この手紙のコピーは、モルガンの銀行家であるヘンリー・P・ダヴィソンからの私信を付けて、衛生技術補助員ピルニーにも送られている。その私信には次のように書かれている。
親愛なるピルニー殿
コピーを同封したが、ビリングス博士にその手紙を送った理由を君はきっと理解できるであろうと思う。それが送られた趣旨をわきまえてそれを受け取ってくれ。
ダヴィソンのビリングス博士宛の手紙の目的は、会えないことを派遣団とビリングスに謝罪することであった。それゆえ、ロシアにおける派遣団の活動に関してダヴィソンとピルニーの間で何らかの深い取り決めがなされ、これらの取り決めの内容はトンプソンに知らされていたと想像することは正当であろう。これらの活動の信じるに値する本質については後で述べる。5
アメリカの赤十字社派遣団(すなわち、ロシアへのウォール街派遣団と多分呼ぶべきであろう)は、3名のロシア語-英語通訳も雇った。ロシア人ボルシェビキ主義者のイロヴァイスキー大尉、ロシア人のアメリカ人で、後にレーニンの秘書に、またカール・ラデックのBureau of International Revolutionary Propaganda(このBureauはジョン・リードとアルバート・リス・ウィリアムスも雇った)の長となったボリス・レインステイン、およびボルシェビキの閣僚ゾリンの兄弟であるアレキサンダー・ガンベルグ(別名がベルグで本名がミカエル・グルゼンベルグ)の3名であった。ガンベルグはスカンジナヴィアにおけるボルシェビキ諜報員の頭でもあった。彼は、後に、Chase Bankの副会長リーヴ・シュレイの助言者になっただけではなく、合衆国におけるAtlas Corporationのフロイド・オドラムの腹心の補佐人にもなった。
脚注
5 ピルニー文書によって、その使節団のメンバーがロシアを去った日付も正確に知ることができる。ウィリアム・B・トンプソンの場合、その日付はこの本の議論に対して最重要である。 : トンプソンは1917年12月4日にペトログラードを去り、ロンドンに向かった。一方、ジョージ・F・ケナンは、トンプソンは1917年11月27日にペトログラードを去ったと述べている。 (Russia Leaves the War, p. 1140).
p. 78
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通り過ぎるに際し、問われなければならない。これらの通訳による翻訳はどのように有用であったのであろうか? 1918年9月13日に、ストックホルム駐在のアメリカ副領事H・A・ドゥーリトル(Doolittle)は、イロヴァイスキー(Ilovaisky)大尉(赤十字派遣団のロビンス大佐と個人的に親密であった人物)との、Murman Soviet と連合国の会合に関する会話について国務長官に報告している。Murmanへ上陸するように連合軍に求めるという提案がソ連政府で議論されたが、その場に連合国のために活動していた赤十字派遣団のタチャー少佐がいた。イロヴァイスキーはソ連に対するタチャーの見解を次のように解釈した。 「合衆国はそのような上陸や、ソ連とその政治の迅速な認定を急がせることを決して許さないであろう」という趣旨のことを、「イロヴァイスキーはかなり詳しくロシア語で話したが、その通訳はタチャーのためではなく本当はトロツキーのためだったと想像される」。6 どうやら、タチャーは誤訳されているのではと疑い、憤りを表したようである。しかしながら、「イロヴァイスキーは直ちにその骨子をボルシェビキ本部に電送し、その報道局を通してその骨子はすべての新聞に、タチャー少佐の所見に発していて、すべての真に公認のアメリカの代表者達の一般的な意見であるとして掲載された」。7
イロヴァイスキーはモスクワ駐在のアメリカ総領事マディン・サマーズ(Maddin Summers)に、次のように物語っている。何度かその領事館で、彼(イロヴァイスキー)と赤十字派遣団のレイモンド・ロビンスはボルシェビキ報道機関を、特に"フランシス大使の召還に関して"操っていた。彼は彼らが良心的ではなかったと認めたが、「彼らが公認のアメリカの代表者達の政略に如何に相反していようとも、彼らの正当性の見解に従って行動した」。8
これが1917年におけるアメリカ赤十字社のロシア派遣団だったのである。
アメリカ赤十字社のルーマニア派遣団
1917年にアメリカ赤十字社はルーマニアにも医療補助派遣団を送ったが、その後、ロシアの同盟者として中央政権と戦った。ロシアへ派遣されたアメリカ赤十字団のルーマニアへのそれとの比較は、ペトログラードに駐屯の赤十字社派遣団は赤十字社とほとんど公的な関係がなく、医療補助とさえ関係がなかった。ルーマニアに派遣された赤十字団は"人類愛"および"中立性"という赤十字の原則を雄々しく遵守したのに対し、ペトログラードの赤十字団は破廉恥にも両方を損ねた。
脚注
6 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/3644.
7 Ibid.
8 Ibid.
p. 79
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アメリカ赤十字社のルーマニア派遣団は1917年6月に合衆国を発ち、ジャーシィ(Jassy)に駐屯した。その派遣団はバージニア出身の弁護士であるヘンリー・W・アンダーソン団長の下、30名からなっていた。30名のうちの16名が医者または外科医であった。比較すると、ロシア派遣団29名のうち、他に4名が大学からであって医療関係分野のスペシャリストではあったけれども、医者はたったの3名であった。ルーマニア使節団の医療専門家が16名だったのに対し、ロシア使節団では医療専門家と分類されている人はせいぜい7名であった。両方の使節団にはほぼ同人数の医療補助員と看護婦がいた。しかし、意義深い比較は、ルーマニア使節団における弁護士は2名だけで、会計士が1名、および技術者が1名だったということである。ロシア派遣団には15名もの弁護士とビジネスマンが含まれていた。ルーマニア派遣団の弁護士と医師は、ただ一人の例外(ワシントンD.C.の司法省からの"オブザーバ")を除けば、ニューヨーク地区の近郊から来ている者はいなかったが、ロシア派遣団の弁護士およびビジネスマンはこぞってその近郊からであった。どういう訳か、ロシア派遣団の全団員のうちの半数以上がニューヨークの金融業地区から来ていた。換言するならば、これらの派遣団を相対的に比較することで、ルーマニア派遣団は医療行為という正当な目的を持っていたのに対し、ロシア派遣団は医療目的ではなく正確に政治的目的を持っていたと確認できる。ロシア派遣団の人員から商業的または金融的な派遣団だと分類できるが、行動からは破壊的な政治活動グループであった。
1917年のアメリカ赤十字社によるロシア派遣団とルーマニア派遣団の人員
人員 ロシア派遣団 ルーマニア派遣団
医療(医者または外科医) 7 16
医療補助員、看護婦 7 10
弁護士、ビジネスマン 15 4
合計 29 30
出典: American Red Cross, Washington, D.C.
U.S. Department of State, Petrograd embassy, Red Cross file, 1917.
p. 80
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赤十字社のルーマニア派遣団は、1917年の残りの間と1918年のある時点までジャシィの駐屯地に留まった。ロシアにおけるアメリカ赤十字派遣団の医療スタッフ、すなわち7名の医者は、1917年8月にうんざりして仕事をやめ、トンプソン大佐の政治活動に抗議し、合衆国に帰国した。したがって、1917年9月にルーマニア派遣団がジャシィに近付く危機状態において手助けしてくれるようにペトログラードのアメリカ人医者と看護婦に要請したときには、ルーマニアに行くとこが出来るアメリカ人医師や看護婦はもうロシアにいなかった。
ロシア派遣団の大半は内部の政治的策略にその時間を取っていたのに対し、ルーマニア派遣団は到着するや否や救援活動に身を投じた。1917年9月17日にルーマニア派遣団長のヘンリー・W・アンダーソンからペトログラード駐在のアメリカ大使フランシスに宛てた極秘電報は、ルーマニアにおける切迫した大惨事に対応するための当面緊急の援助として、5百万ドルを融通することを要求していた。その後、アンダーソンからフランシスに一連の手紙、電報、通信が続いたが、結局援助を得ることができなかった。
1917年9月28日、ルーマニアのアメリカ公使ボピカ(Vopicka)は、ワシントンへの取次ぎを求めてフランシスに長々と電報し、ルーマニアの大惨事および流行病発生の危険についてのアンダーソンの分析、更により悪いことに冬が間近に迫っていることを繰り返し告げた。
惨事を避けるためには、大量の資金と大胆な方策が必要とされている......。 権限があり、政府に接近できる人物のもとで状況に対処しようと試みないならば......。 資材の輸送、受取、および配付の世話をしてくれる適切な組織が必要だ。
すべてのルーマニアの資材と金融取引がペトログラードの赤十字社派遣団に統御されていたので、ボピカとアンダーソンの手は縛られていた。そして、トンプソンと彼の15名のウォール街の弁護士およびビジネスマンは、どうやらルーマニアの赤十字の仕事に深い関心を持っていたようである。合衆国国務省のペトログラード大使ファイルには、トンプソン、ロビンス、あるいはタチャーが1917年または1918年のいつの時点でもルーマニアにおける緊急状況に関与したことを暗示するしるしはない。ルーマニアからの通信は、フランシス大使または彼の大使館スタッフに届き、時には領事館を通してモスクワに届いた。
1917年10月までにルーマニアの状況は危機局面に達した。ボピカは10月5日に(ペトログラード経由で)ニューヨークのダヴィソンに電報を送った。
ここに最も緊急の問題が.....悲惨な結果が恐れられる....何とかして特別な出荷を手配して頂きたく....急がなければ間に合わない。
p. 81
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その後11月5日にアンダーソンはペトログラード大使館に電報を送り、援助が遅れていることで既に数千人の命が失われたと言っている。11月13日にアンダーソンは、ルーマニアの状況にトンプソンが興味を欠いていることに関して、フランシス大使に電報を送った。
受信したようにすべての出荷項目を供給するようにトンプソンに要求したが、相変わらず送られてこない。また彼には輸送状況について知らせるようにも要求したが、全くと言って良いほど音信がない。
その後、アンダーソンは、フランシス大使が彼のために、ルーマニア派遣団の資金をロンドンの別口座とし、直接アンダーソンに属し、トンプソンの派遣団の支配から脱出できるように、とりなすよう要求した。
ケレンスキーのロシアにおけるトンプソン
では赤十字派遣団は何をしていたのであろうか? トンプソンはペトログラードでの裕福な生活に対する世評を疑いなく知っていたが、どうやら彼は、ケレンスキーのロシアにおいて二つの主要プロジェクト、アメリカのプロパガンダ計画に対する支援およびロシアのLiberty Loanに対する支援だけ請け負っていた。ロシアに到着後間も無く、トンプソンはブレシコ-ブレシコヴスカヤ(Breshko-Breshkovskaya)夫人とケレンスキーの秘書デビッド・ソスキス(David Soskice)に会い、大衆教育委員会が自身の新聞を持ち、講演者スタッフを雇うことができるように、2百万ドル寄付すること、およびロシアがドイツとの戦争を続けるように扇動するというプロパガンダ目的の映画形式イラスト(861.00/ 1032)を提供することで合意した。ソスキスによれば、一束の5万ルーブルが、「あなたの最良の判断に従ってあなたのために、これを使ってください」という言明とともに、ブレシコ-ブレシコヴスカヤに与えられた。更に210万ルーブルが当座預金口座に預けられた。J.P.モルガンから国務省への手紙(861.51/190)から、モルガンがロシアののためのトンプソンの要求に応じて彼に42万5千ルーブルを送金したことが確認できる。J.P.モルガンはまた、"トンプソン氏を通して個人的出資をする知恵"に関してモルガン商会の利益をロシアのLiberty Loanに移転した。これらの金額はペトログラードのNational City Bankを通して送信された。
トンプソンがボルシェビキに100万ドルを与える
しかしながら、歴史的により重要なことは、最初トンプソンによって、その後1917年12月4日以降はレイモンド・ロビンスによってボルシェビキに与えられた援助であった。
ボルシェビキ運動へのトンプソンの寄付は同時代のアメリカの新聞に記録されていた。1918年2月2日の Washington Post 紙は次の小記事を載せていた。
p. 82
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ボルシェビキに百万を与える
赤十字の援助者であるW.B.トンプソンは政党が誤って伝えたと信じている。ニューヨーク、2月2日(1918年)。6月から11月末までペトログラードにいたウィリアム・B・トンプソンは、ボルシェビキの教義をドイツとオーストリアに広めるためにボルシェビキに百万ドルを個人的に寄付した。
トンプソン氏はアメリカ赤十字派遣団の団長としてロシアの状況を研究する機会を持ったが、その費用もまた大部分彼の個人的な寄付によって負担された。ボルシェビキはロシアにおける親ドイツ的気風に対抗する最大の力を与え、彼らのプロパガンダはGeneral Empiresの軍国主義的政権を徐々に衰えさせてきたと彼は信じている。
トンプソン氏はボルシェビキについてのアメリカ人の批評を非難している。彼は彼らが誤って伝えられてきたと信じていて、連合国の理想のためと同様、ロシアの未来のために使われるであろうとの信念のもと、ボルシェビキ運動に財政上の貢献をした。
ヘルマン・ハゲドーン(Hermann Hagedorn)の伝記「大事業家ウィリアム・ボイス・トンムソンと彼の時代(1869−1930年)」は、ニューヨークのJ.P.モルガンからW.B.トンプソンへの海外電信"ペトログラード、ホテルヨーロッパ、アメリカ赤十字社 気付"の写真を複製している。その電報には日付がスタンプされていて、1917年12月8日にペトログラードに届いていることが分かり、以下のような内容である。
ニューヨーク Y757/5 24W5 Nil —貴殿の2番目の電報を受け取った。教示されたとおり、百万ドルをNational City Bankに振り込んだ。— モルガン
ペトログラードのNational City Bank支店はボルシェビキの国有化命令から免除されていて、外国と自国を含めて唯一免除されていたロシアの銀行であった。トンプソンのNCB口座に振り込まれたこの百万ドルは"政治的な目的"のために使われたと、ハゲドーンは言っている。
社会主義者で採鉱振興者であるレイモンド・ロビンズ9
ウィリアム・B・トンプソンは1917年12月初旬にロシアを去り帰国した。彼はロンドン経由で旅したが、ロンドンではJ.P.モルガン商会のトーマス・ラモントと一緒にロイド・ジョージ首相を訪問した。それに関するエピソードについては次章で再開する。彼の副官レイモンド・ロビンスは赤十字ロシア派遣団に残った。ロビンス大佐が次の数ヶ月において見せた一般的な印象は新聞に見落とされなかった。ロシアの新聞Russkoe Slovoの言葉によると、ロビンスは「片方の手でアメリカの労働者を演じ、他方の手ではアメリカの資本家を演じており、ソ連政府を通してロシアの市場を獲得しようと努めている」。10
脚注
9 "Robins"が正しいスペルであるが、国務省ファイルでは一貫して"Robbins"と綴られている。
10 U.S. State Dept. Decimal File, 316-11-1265, March 19, 1918.
p. 83
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レイモンド・ロビンスはフロリダの硫黄会社購買部のマネージャとして人生を出発した。この土台から彼は陶土層を開発した後、19世紀末におけるテキサスとインディアンの領土を調査踏査した。アラスカへ北進して、ロビンスはクロンダイク(訳注:カナダ中西部の地域)のゴールドラッシュで一財産を築いた。その後、注目すべき理由もなく、社会主義者に転向し、改革運動に身を投げた。1912年までに彼はルーズベルトの進歩党の活動家になっていた。彼は、1917年のアメリカ赤十字派遣団に"社会主義経済学者"として加わった。
彼の改革論者としての社会的に見栄えのするアピールは、「独占主義者の告白」におけるフグレデリック・ハウエの示唆を思い出させるような、更なる権力と富を獲得するための偽装以上の何ものでもないということは、ロビンス自身の言説を含めて十分証拠がある。たとえば、1918年2月、アーサー・ブラード(Arthur Bullard)は公開情報に関する合衆国委員会とともにペトログラードにいて、エドワード・ハウス大佐のために長い覚書を書くのに従事していた。この覚書は、ワシントンD.C.のハウスに送る前に、コメントと批評を求めるために、ブラードによってロビンスに与えられた。ロビンスの非社会主義的で帝国主義的なコメントは、原稿は「著しく慧眼で洞察力があり良くできている」が、以下の一つまたは二つの条件付きとしたいという趣旨であった。特に、ボルシェビキの承認は長らく伸び伸びになっているが、直ちに発効されるべきで、合衆国がボルシェビキを承認するならば、「我々はロシアの過剰な資源を支配でき、国境のすべての地点で取締官を持つであろうと私は信じる」。11
"ロシアの過剰な資源の支配権"を得るというこの願望はロシア人にも明らかであった。これは、アメリカ赤十字社または帝国主義の実地訓練に従事していたウォール街の鉱工業プロモータによる社会主義改革のように聞こえるであろうか?
いずれにしても、ロビンスはボルシェビキ主義者に対して隠しだてなく援助した。12 革命のボルシェビキ段階がスタートした3週間後になってやっと、ロビンスは赤十字社本部のヘンリー・ダヴィソンに、「ボルシェビキ政権との交流継続必要性を大統領に主張して下さい」との電報を送った。興味深いことに、この電文はロビンスに宛てた「大統領は合衆国の代表者とボルシェビキ政府との間の直接の連絡を自制することを望んでいる」という電文に対する返答であった。13 数件の国務省レポートはロビンスの活動の遊撃兵的性質について不満を述べている。たとえば、1919年3月27日にウラジオストックのアメリカ領事ハリスは、ロビンスとの長い会話について意見を述べており、ロビンスのレポートにおける酷い不正確さに抗議している。ハリスは、「ロビンスは私に1918年5月までドイツまたはオーストラリアの戦争犯罪者がボルシェビキ軍に加わったことはないと述べた。彼はこの言明が真っ赤な嘘だと知っていた。」と書いている。それからハリスは続けてロビンスに適用できる証拠の詳細を提供している。14
注記
11 Bullard ms., U.S. State Dept. Decimal File, 316-11-1265.
12 New World Review (fall 1967, p. 40)は、ロビンスについて、彼は資本主義者であるにも関わらず、革命の目的に同調しているとコメントしている。
13 Petrograd embassy, Red Cross file.
14 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/4168.
p. 84
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1918年1月におけるボルシェビキ支配領域図 → クリック Limit of Area Controlled by Bolsheviks, January 1918
p. 85
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ハリスは、「ロビンスはその時ロシアに関する事実を故意に偽って述べたが、彼はその後ずっとそれをしてきた」と結論した。
1918年に合衆国に帰国するや否や、ロビンスはボルシェビキのための努力を継続した。ソビエト局のファイルがラスク(Lusk)委員会に押収されたとき、ロビンスがラドウィッグ・マルテンス(Ludwig Martens)および局の他のメンバー達と相当に通信していたということが分かった。押収されたより興味深い文書の一つは、合衆国における最初のソビエト代理人であるサンテリ・ニュオルテヴァ(Santeri Nuorteva)(別名:アレクサンダー・ニベルグ)からNew York Daily Forwardの編集員であるカハン(Cahan)同志への手紙であった。その手紙はレイモンド・ロビンスのために道を用意するようにと忠実な党員に頼んでいるものだった。
(To Daily) FORWARD 1918年7月6日
親愛なるカハン同志
社会主義者新聞が、赤十字派遣団長でロシアから帰ったばかりのレイモンド・ロビンス大佐はアメリカの人々への公的なレポートにおいて消息を聞かれるべきだという熱烈な叫びを直ちにあげることが最高に重要である。武装勢力による介入の危険が大いに増してきている。反動主義者達は侵略を起こすためにチェコスロバキア事件を利用している。ロビンスはこれとロシアにおける状況全般について全ての事実を握っている。彼は我々の見解を採用している。
議論の概略およびチェコスロバキア人についてのいくらかの事実を示すCall紙の社説のコピーを同封する。
友愛をもって
PS&AU サンテリ・ニュオルテヴァ
p. 86
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国際赤十字社と革命
赤十字の管理者は知らないが、赤十字社は革命活動の媒体または隠れ蓑として折々使われてきた。認可されていない目的のために赤十字の看板を使用することは珍しくない。ニコラス皇帝が、伝えられるところでは、自身の安全のために(この方向の移動は安全というよりもむしろ危険側であったけれども)ペトログラードからトボルスクに移動したとき、その列車は日本赤十字社のプラカードを備えていた。国務省ファイルは赤十字活動の隠れ蓑のもとでの革命活動の例を含んでいる。たとえば、ロシア人の赤十字社職員(チェルガノフ(Chelgajnov))は1919年に革命活動のために逮捕された(316-21-107)。1918年におけるベラ・クン(Bela Kun)によって指導されたハンガリーのボルシェビキ革命の間、赤十字のロシア人メンバー(ロシア赤十字社のメンバーとして従事している革命家)がウイーンやブダペストで発見された。1919年にロンドン駐在の合衆国大使がワシントンに驚くべきニュースを電信している。英国政府を通して、彼は「赤十字社の制服を身にまとってこの国に到着し、ボルシェビキ主義者だと名乗っている数名のアメリカ人がボルシェビキのプロパガンダを広めるためにフランスからスイスに進攻している」ということを知ったと述べている。その大使は約400名のアメリカ赤十字社の人々が1918年の11月と12月にロンドンに到着したことに言及している。そのメンバーのうち1/4は合衆国に帰国したが、「残りはフランスに侵攻することを主張している」と述べている。その後のレポートとして、1918年1月15日付けで、ロンドンの労働者新聞の編集者がドイツのボルシェビキに権限を委任することを提案する3名のアメリカ赤十字社職員によって、3回にわたりアプローチされたという趣旨のレポートがある。その編集者は合衆国大使にそれはアメリカ赤十字社職員を見張っていると示唆していた。合衆国国務省はこれらのレポートを真剣に受けとり、ポークは"もし本当ならば、最大の重要事だと思う"という電文を送っている(861.00/3602 および /3627)。
p. 87
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総括すると、1917年のアメリカ赤十字社のロシア派遣団に対して我々が抱いていたイメージは、中立の博愛主義のそれとはほど遠いものである。その派遣団は実際はウォール街金融業者の派遣団であって、ケレンスキーまたはボルシェビキ革命家を通して、ロシアの市場および資源を支配するための道を築くためのものであった。それ以外のいかなる説明も派遣団の活動を説明し得ないであろう。しかし、トンプソンもロビンスもボルシェビキ主義者ではなかった。首尾一貫した社会主義者でさえなかった。著者は、両名の社会主義者としてのアピールはより平凡な目的のための隠れ蓑であったという解釈に傾いている。両名には営利的意図があった。すなわち、ロシアでの政治的なプロセスを個人的な金儲けに利用しようとした。ロシアの人々がボルシェビキを望んでいるかどうかは無関心であった。ボルシェビキ体制が合衆国に不利に働くかどうか ―それは後に両立するように働いたのであるが― には無関心であった。唯一の圧倒的な目的は、そのイデオロギーがどうであろうとも、新しい体制への政治的および経済的影響力を獲得することであった。ウィリアム・ボイス・トンプソンが単独で行動したとしたならば、連邦準備銀行の取締役としての任期は重要ではなかったであろう。しかし、彼の派遣団がウォール街機関の代表者達によって支配されていたという事実は重大な問題、派遣団は事実上ウォール街シンジケートによって構想計画された作戦であったのかという問題を提起する。これについては、この物語の残りが述べられている間に、読者が自ら判断しなければならないであろう。
p. 88
http://www.nn.em-net.ne.jp/~komoda/chap5.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/510.html
08. 2011年7月12日 08:18:23: yAZZCLUgJo
今後は、福島産のものは買いません。
嘘つかれた立場に立ってみてください。
生協が販売していたんですか?
安全の保証みたいに、カリウムとセシウムが同じ等の言葉が使われますが、この言葉が出てきたら、危険と認識するようにします。
安全と誤認させる言葉遊びでしょう。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/200.html#c8
30. 2011年7月12日 08:19:03: lsRZ1M8bbw
また一人仏壇やの店主が県議になってしまった。
こんな楽な選挙はない。ただ創かの仏壇やだっただけ。
何をしたいか、なんでなったか不思議だ。
市議.県議から国会議員になりゆくゆくはデージンがお役目かな?
小さい管理組合,弱いPTAなどなのっとられているのが
現状だ、めんどくさがらどんどんと役員をやろう。
そして多数決の重さを感じよう。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/314.html#c30
01. 2011年7月12日 08:19:03: EV9qzPxecQ
>作業の被ばく放射線量は計0・68ミリシーベルトと少なく
オレはこの数字が全然信じられないんだよなあ。
数百mSv/hの環境、場所によってはもっと高い環境にあって作業してて、
どうすりゃ0.68mSv/hで収まるんだ?
サボってばっかりいた、ってこと!? まさかね。
計測に、なんかカラクリか不備ががあるはずだと思う。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/206.html#c1
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110712-00000399-reu-bus_all
イタリア国債・銀行株の急落、投機筋による攻撃=モンテパスキ銀幹部
ロイター 7月12日(火)4時44分配信
[ローマ 11日 ロイター] イタリアのモンテパスキ銀行<BMPS.MI>幹部は11日、同国の国債および銀行株の急落について、投機筋の攻撃によるもので、市場のファンダメンタルズを反映したものではないとの見方を示した。
同行のマネジングディレクター、アントニオ・ビグニ氏は電話会議で「過去数日間にわたり、イタリアを標的にした投機筋の攻撃が見られる。これはイタリアもしくは国内銀行のファンダメンタルズからは正当化されない」と述べた。
その上で、欧州連合(EU)首脳がギリシャ債務危機への対応策で合意し、事態が収束に向かうことを望むとした。
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最終更新:7月12日(火)4時46分
02. 島唄 2011年7月12日 08:20:27: ZW97PFZHjT5Lg : SeEE2PBaSI
江戸時代には浴衣とうちわしかなかったわけで、熱中症でぶっ倒れる本州のボケどもは根性がたりないと思われます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110712-00000412-reu-bus_all
米株大幅続落、米予算協議やユーロ圏危機めぐる懸念が圧迫
ロイター 7月12日(火)6時35分配信
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7月11日、米株市場は米予算協議やユーロ圏危機めぐる懸念が圧迫して大幅続落。ニューヨーク証券取引所で撮影(2011年 ロイター/Brendan McDermid)
[ニューヨーク 11日 ロイター] 11日の米国株式市場は大幅続落。米債務上限引き上げに向けた協議の難航やユーロ圏債務問題の拡大をめぐる懸念が圧迫材料となった。
ダウ工業株30種<.DJI>は151.44ドル(1.20%)安の1万2505.76ドル。
ナスダック総合指数<.IXIC>は57.19ポイント(2.00%)安の2802.62。
S&P総合500種<.SPX>は24.31ポイント(1.81%)安の1319.49。
S&P500はユーロ圏債務危機がイタリアにも波及するとの懸念が重しとなった。
シュワブ・センター・フォー・フィナンシャル・リサーチのトレーディング・デリバティブ部門ディレクター、ランディ・フレデリック氏は「きょうの下落は必ずしも調整局面入りを意味するものではないが、今週の米株式市場が荒れ模様となる可能性を示唆している」と述べた。
米株式相場は前週末、雇用統計が弱い内容となったことを嫌気して下落したが、ユーロ圏の債務問題で不透明感はいっそう増している。
フレデリック氏は「8日の失望を誘う雇用統計に加え、米予算協議や欧州の問題をめぐる懸念が相まって売りが広がった」との見方を示した。
米債務上限引き上げをめぐっては、オバマ大統領と議会指導部による10日の協議に期待が高まっていたものの、進展はほとんど見られなかった。
金融株や景気に敏感なその他のセクターで下げが目立ち、バンク・オブ・アメリカ(バンカメ)<BAC.N>は3.3%安、S&P金融株指数<.GSPF>は2.8%安。フリーポート・マクモラン<FCX.N>も3.3%下落した。
ニューズ・コープ<NWSA.O>は7.6%急落。傘下にあった英大衆紙による盗聴疑惑が取り沙汰されるなか、英放送大手BスカイB<BSY.L>の完全子会社化計画をめぐり英政府が規制当局に新たな見解を求めていることが明らかになった。
取引終了後にアルコア<AA.N>が発表した第2・四半期決算は、アルミやアルミナの価格上昇が寄与して大幅増益となった。同社株は引け後の時間外取引で0.3%上昇している。
(カッコ内は前営業日比)
ダウ工業株30種(ドル)<.DJI>
終値 12505.76(‐151.44)
前営業日終値 12657.20(‐62.29)
ナスダック総合<.IXIC>
終値 2802.62(‐57.19)
前営業日終値 2859.81(‐12.85)
S&P総合500種<.SPX>
終値 1319.49(‐24.31)
前営業日終値 1343.80(‐9.42)
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最終更新:7月12日(火)6時37分
2 81 +−
17. 2011年7月12日 08:22:16: cAsKlziW2E
一昔前、小谷正一という稀有なプロデューサーがいた。野球のセパ両リーグを作り、ファン投票による夢のオールスター戦を計画。さらに日本シリーズを企画した男である。井上靖氏の芥川作品「闘牛」をはじめ彼の数々の作品の主人公のモデルである。さらに山崎豊子氏の「仮装集団」をはじめ民放開局のヒーローとして名高い。そんな彼を慕う文化人も少なくなった。なぜ慕うのか?
彼は新聞社としてマスを相手に物事を発想したからである。大局観に優れ、面白くて人々のためになることを次々と発想して行ったのである。日本よりもアメリカやフランスでの知名度が高く、ニューヨークタイムズ紙などは赤絨毯を引いて社内を案内した男である。日本で始めて開かれた大阪万博のプロデューサーとして住友館やいま話題になっている電力館などを総合プロデュースし、政府館へのアイデアを提供し、大成功にもたらせた日本が誇った影の大物である。いま彼の薫陶を受けた人材が眠っている。金と組織でハゲタカのように被災地の獲物を狙っている、役立たずの総研なる組織は、大衆目線でなく、自らの扱い高を競っている。いやこれだけのプロジェクトである。談合して利益の分捕りである。大手ゼネコンのダム建設と同じ図式である。こんな連中に運を任せちゃいけない。未来を任せたらむちゃくちゃな文化となってしまう。地方らしさは消え、押し付けインフラの象徴として、景観を失うのは見えている。文化を破壊するコンクリートの堤防が、万里の長城のような金の浪費、物欲の残骸が造成されることだろう。私欲を捨てて、地方のために心を残す、心ある影の大物の意見を下に、地方の人々が主役に復興して行かねばならない。所詮、総研の彼らは、独自のアイデアなどなく、やれ、サンフランシスコだとか、オランダとか、地中海などのモデルを持ち込む程度の浅いものである。
このままだとむちゃくちゃにされてしまう。地方のアイデンテティを発揮し貰いたい。-飛車角-
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/460.html#c17
02. 2011年7月12日 08:24:12: lZqTc91b1Y
心筋梗塞も確か被爆症状にあった気がするが
「短期間の過重業務が原因」で労災申請の方が確実なんだろうな。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/206.html#c2
04. 2011年7月12日 08:32:31: yAZZCLUgJo
内閣府原子力安全委員会の班目(まだらめ)春樹委員長
このおじさん、まだいたの?
原発事故対応不手際の責任をとって、とっくに辞めていると思ってた。
無責任ですね。あんな不手際を示して、まだお給金をもらっているなんて!
恥ずかしくないのかしら。今年は、しがみついている人、多いんですね。
安全保安院も原子力安全委員会も、事故を防げなかった事を反省し、給料返上するならまだしも、さらに原発安全の基準作成に関与し仕事を続けるなんて、民間では考えられません。
このような機関は、まるで温泉のように一度入ると気持ちよくて、出られないものなのでしょうね。
なんかしていれば、お給料をもらえるなんてどうかしてますね。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/199.html#c4
22. 海幸彦 2011年7月12日 08:39:41: jY0c1QUHK1KaM : SeEE2PBaSI
お〜い、山幸、あまりにもアバウトなことばっかり言ってると塩まくぞ。
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/746.html#c22
11. しろねこ 2011年7月12日 08:42:54: peEqAehxC9z/g : 4MOkTJHcnB
福井県の原発のある湾に高浜という浜がある。
ここには何故か(学者が何故かといっている)貝殻で出来た砂があつまり、白い美しい浜辺を作る。波の加減で海水は白い貝殻の砂でにごりエメラルドブルーの海になるときもある。
しかし、湾内の波に砕けた貝殻があつまるとはどういうことだろう?この美しい白い浜は、湾内の貝殻があつまるように、もしかしたら放射能のたまり場かもしれないのだ。
原発ができるまでは、塩水の味のする水道が通る、朽ち果てかけた漁村であった。そんな町に万博のころ原発ができた。
今でも海では遊ぶが、昔からこの周辺でとれた魚は食べない。むろん野菜もである。
理由は単に気持ちわるいから。ただそれだけ。これからも、やはり食べない。原発があるから。
福島がいつ福井になるのだろうか?ぶくぶくと関電からの金で太った政治家や電力会社のリモコンテレビ局がいるかぎり、そう遠くない未来じゃないのかな。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/181.html#c11
05. 2011年7月12日 08:43:22: biAueSuAUw
仲介業者が間にはいるかぎり、偽装は起こりうる。食肉に限らずこれから生産者から消費者団体または個人が直接購入する時代になるだろう。ただし、産地のごまかしはしにくくなるので産地間の価格差が大きくなり、所得層間の内部被ばく量の差はますます大きくなるだろう。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/202.html#c5
10. 2011年7月12日 08:43:38: vR63vrWUbc
放射線のうち、ガンマ線は電磁波で他は原子核を構成しているものですね。
放射線を大量に浴びるとまずそのエネルギーでやけどをします。
放射線による火傷は治りが悪いのだそうです。次に浴びた放射線のうち、α線以外は人体の中に入り、細胞にダメージを与えその細胞を死滅させるか、DNAにダメージを与え多くは、正常な分裂が出来なくなり、それらの器官の機能がなくなって血液中の血小板、白血球などがダメになって全臓器にダメージを与え臓器不全などでなくなるわけで、晩発生放射線障害と直接は想像できませんね。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/157.html#c10
http://www.kantei.go.jp/saigai/senmonka_g3.html
チェルノブイリ事故との比較(平成23年4月15日)
チェルノブイリ事故の健康に対する影響は、20年目にWHO, IAEAなど8つの国際機関と被害を受けた3共和国が合同で発表(注1)し、25年目の今年は国連科学委員会がまとめを発表(注2)した。これらの国際機関の発表と東電福島原発事故を比較する。
原発内で被ばくした方
*チェルノブイリでは、134名の急性放射線障害が確認され、3週間以内に28名が亡くなっている。その後現在までに19名が亡くなっているが、放射線被ばくとの関係は認められない。
*福島では、原発作業者に急性放射線障害はゼロ(注3)。
事故後、清掃作業に従事した方
*チェルノブイリでは、24万人の被ばく線量は平均100ミリシーベルトで、健康に影響はなかった。
*福島では、この部分はまだ該当者なし。
周辺住民
*チェルノブイリでは、高線量汚染地の27万人は50ミリシーベルト以上、低線量汚染地の500万人は10〜20ミリシーベルトの被ばく線量と計算されているが、健康には影響は認められない。例外は小児の甲状腺がんで、汚染された牛乳を無制限に飲用した子供の中で6000人が手術を受け、現在までに15名が亡くなっている。福島の牛乳に関しては、暫定基準300(乳児は100)ベクレル/キログラムを守って、100ベクレル/キログラムを超える牛乳は流通していないので、問題ない。
*福島の周辺住民の現在の被ばく線量は、20ミリシーベルト以下になっているので、放射線の影響は起こらない。
一般論としてIAEAは、「レベル7の放射能漏出があると、広範囲で確率的影響(発がん)のリスクが高まり、確定的影響(身体的障害)も起こり得る」としているが、各論を具体的に検証してみると、上記の通りで福島とチェルノブイリの差異は明らかである。
長瀧 重信 長崎大学名誉教授
(元(財)放射線影響研究所理事長、国際被ばく医療協会名誉会長)
佐々木 康人 (社)日本アイソトープ協会 常務理事
(前 放射線医学総合研究所 理事長)
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原典は以下の通り。
[注1]. Health effect of the Chernobyl accident : an overview Fact sheet303 April 2006 (2006年公表)
http://www.who.int/mediacentre/factsheets/fs303/en/index.html
[注2]. United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation, SOURCES AND EFFECTS OF IONIZING RADIATION UNSCEAR 2008 Report: Sources, Report to the General Assembly Scientific Annexes VOLUMEU Scientific Annex D HEALTH EFFECTS DUE TO RADIATION FROM THE CHERNOBYL ACCIDENT Z. GENERAL CONCLUSIONS (2008年原題/2011年公表) P64〜
http://www.unscear.org/docs/reports/2008/11-80076_Report_2008_Annex_D.pdf
[注3]. (独)放射線医学総合研究所プレスリリース「3月24日に被ばくした作業員が経過観察で放医研を受診」2011.4.11
http://www.nirs.go.jp/data/pdf/110411.pdf
-------------------------------------------------------------------------------
(コメント)
政府は常に過小評価とされてきた過去のデータばかり取り上げているが、
25年経ったチェルノブイリでさえ28人〜100万人とその被害者の数は定かではない…
だが、この文章や今までの流れを見ると25年後に語られる福島の被害者数も
きっと同じく過小評価されるに違いない…
これ以上出ないのだ、と決め込んでいるようにも伺える文章である…
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/186.html(放射能を恐れすぎるな、フクシマの危機は過ぎた。 アルチュニャン博士 (BLOGOS))からも同じ事が感じられる。
原発事故との因果関係は認められないと言うのは簡単だろう、
原発事故が原因で何人自殺者が出ようと理由をつけて直接的な関係は無いと言う事も可能だろう…
だが、そういう事をこれ以上歴史の闇に葬ってはならない…
100万人(ぶらぶら病など病気とは認められないので、影響だけで考えるとこの数字にも収まらないだろう…)規模の実害を隠蔽させてはならない!
小出先生の言うこれは戦争である!という言葉もこうした事を考えるとまさにそういう事なのだろうと思う、一人ひとりが放射能による侵略を受けているという事実はもっと国民一人一人が意識しないと25年後は再び福島原発事故は過小評価されるだろう…
過小評価は必ずまた事故を繰り返す事になる。
http://www.youtube.com/watch?v=pUU0I74UNp0&feature=related
"死の灰"の放射線 世界初の確認
こうした研究にも大いに頑張って欲しい、事故との関連を見つけにくいという事も推進派が事故後に責任逃れをする強みの一つとなっている事は大きな問題である。
推進派が核の開発のほとんどの権限を持つ世の中ではまともな議論一つ出来ない、
推進派・反対派平等に権限を持たない限りまともな結果は生まれない…
核のゴミ捨て場も知らない、人間に対する影響も知らない、事故処理の方法さえ知らない…だけど推進したい…
余りにも無責任ではないか?
どうしても必要だというのなら、そういった事すべてをフォローするのが筋だろうと思う、その上で初めて必要かどうかの話に入れると言うものなのではないだろうか?
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1877.html
03. 2011年7月12日 08:48:30: wIcpB1Tc7I
>今夏、どれだけのPCがコケるか(業務なら辛い)
>2chで話題になるは必至、色々拾い集められそう
電力供給不足時にパソコンを自動休止させることができる節電対策ソフト
http://www.vector.co.jp/magazine/softnews/110712/n1107121.html
http://www.vector.co.jp/magazine/softnews/110712/n11071212_pic.html
作者のホームページ
http://www.cpslabo.com/
NoBlackout 電力供給不足時にパソコンを自動休止節電対策ソフト
http://www.vector.co.jp/soft/winnt/util/se491148.html
検索→ PC冷却 マニア
検索→ PC冷却 水冷 ・2010年 モスクワ 130年ぶり
検索→ PC冷却 工夫 ・外気温 37.4℃ 38.2℃
検索→ PC冷却 荒業 ・来年〜もあり、試す価値あり?
検索→ USB扇風機
HDDは、温度が15℃上がると寿命は約1/2に、55℃だと1/4になるとか。
モバイル、ノートPCを厚いナイロン袋に入れ水没や専用保冷箱へなど、
工作好きな皆さん方も猛暑でPC冷却にあれこれ必死? 否 楽しみ?
【PC Watch】 夏到来! USB扇風機13製品を試す
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/topic/feature/20100702_377991.html
CPUやHDDの温度を表示できるノートPC向けハード情報取得ソフト「MobileMeter」
http://www.forest.impress.co.jp/article/2004/02/25/mobilemeter.html
MobileMeter Home Page (グラフのν外す)(複数ソフト併用確認選択)
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/8259/
クーラーと扇風機をつけて寝たら死ぬのか? 実際に試し嘔吐、危険状態に。
http://rocketnews24.com/?p=44509
400W=10時間85円? この猛暑、クーラー電気代を計算してみる
電気料金計算プログラム エネカルク Enecalc Version 1.10
http://hp.vector.co.jp/authors/VA004777/enecalc.html
パソコンや周辺機器の年間の電気代はどれ位? 1年間で5,000円程度。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20051215/226300/
同じ風を受けたら大人より子供がより冷える、ノートPCの小さいHDD温度は
デスクPCのHDDより冷却効率が良い、と温度ソフトでやっと気付いた。
気温35度でシャットダウン?:iPadに集団訴訟 wiredvision.jp
http://wiredvision.jp/news/201007/2010072922.html
03. 2011年7月12日 08:49:30: yAZZCLUgJo
「視点が抜けていると思うのは、ひとつは、事故が起こったときに誰がどのように責任をとるのか、あるいは責任がとれるのかの問題」
どういう対応をとれば、責任をとったことになるんでしょう?
放射能被害を受けた人々に、被曝前の状態に戻すことができるんでしょうか?
首相が「全責任は俺が取る」といって、全財産を投げ出して責任をとったことになるんですか?
自殺されても困りますよね。ごみがふえるだけでしょう?
「放射能は被曝しないこと」が全てだと思います。
http://mytown.asahi.com/saga/news.php?k_id=42000001107110001
玄海原発 九電やらせメール 対応に抗議(朝日新聞)
2011年07月12日
九州電力玄海原発2、3号機の再稼働問題で、九電のやらせメールや、再稼働についての県の対応に抗議する申し入れが相次いだ。
県平和運動センターのメンバーら約25人は11日、佐賀市の同社佐賀支社で、責任の所在、再稼働について県民の不安への丁寧な対応などを求め真部利応社長宛ての文書で申し入れた。
また、市民団体「NO!プルサーマル佐賀ん会」は、国の安全指針が改訂するまで再稼働の判断をしないよう古川康知事宛てに求める要望書を県に提出した。同団体は、インターネット調査会社に依頼して5、6日、県内の有権者208人に意識調査を実施。再稼働に「もうちょっと待つ」「稼働しない方がよい」「今すぐ稼働しないと言うべきだ」の合計が6割を超えた。同団体共同代表の満岡聰(さとる)さん(51)は「公正な議論を重ねた上で、再稼働について県民投票を行うべきだ」と話した。
(*写真はこちらから ⇒ http://pub.ne.jp/yukoya/?entry_id=3770339)
玄海町の町民会館では10日、「原発から撤退集会」が開かれ、約450人が参加した。地元の玄海原発対策住民会議など各団体でつくる実行委員会が主催。原発からの撤退を求めるアピールを決議、玄海原発の広報担当者に手渡した。
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原発再稼働やめよ/玄海町で撤退求め集会 佐賀
「しんぶん赤旗」 2011年7月12日付 4面
九州電力玄海原子力発電所再稼働が重大な焦点となっている佐賀県玄海町で10日、2、3号機の再稼働反対と原発からの撤退、自然エネルギーヘの転換を求める「原発から撤退しゅう(集)会」(同実行委主催)が開かれました。佐賀県をはじめ、長崎、福岡両県などから約450人が参加しました。
玄海原発対策住民会議副会長の仲秋喜道さんは、玄海原発の危険性として@3号機で実施されているプルサーマル発電A全国最悪水準の1号機老朽化B使用済み核燃料プールの詰め込みの計画―を告発しました。
米ゼネラル・エレクトロニック(GE)社の元技術者で福島第1原発建設にも携わった菊地洋一さんは「原発は膨大な被ばく労働に支えられています。原子力は“きれい”でも“安全”でもない。原発のことを学び、撤退に向け、立ち上がらなくてはなりません」と訴えました。
日本共産党前参院議員の仁比聡平さんは、九電の“やらせメール”問題を追及して原
発再稼働のシナリオを崩壊させたたたかいを紹介。「原発からの撤退は、社会のゆがみを正すたたかい」と訴え、幅広い共同を呼びかけました。
玄海原発から5・5`の佐賀県肥前町から主婦仲間3人で来たという女性(60)は「原
発の危険性や再稼働を許さない声を広げていくことが大事だと思いました。周りの人にどんどん話していきたい」と語りました。
19. 2011年7月12日 08:52:39: eJcwQUA9aU
埋蔵電力は余剰電力ではない。余剰電力は企業が自家消費して余った電力である。余剰電力は安く売っても良いが、売る為の電力を発電するには高い燃料を仕入れなければならない。電力会社が燃料代に見合う高い価格で買い取ってくれなければ埋蔵電力とは見做されない。
企業が最大出力の半分しか使っていないから残り半分は埋蔵電力であると早合点している。埋蔵電力は生産可能電力であり、企業は損と判断すれば埋蔵電力は生産されない。
生産可能電力は3000万kWあるが、調査したところ、供給可能な埋蔵電力はたったの150万kWであった。これは、いうまでも無く、企業の余剰電力である。
埋蔵電力を実現する為には、企業が受け入れる買取価格を提示しない限り不可能である。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/185.html#c19
16. 2011年7月12日 08:52:55: U3n3rrhRKg
どの国も政治家は、奴らの手先。
この国に政治と言えるものは存在していない。
国壊し、人減らしに協力しているだけ。
この国の現実は、
http://tomiman-daitoku.blog.so-net.ne.jp/
こんな状況の中でも、国民のしっかりしているイタリア、スイス、ドイツは原発停止を決めた。
彼らにできることは、この国でもできる。
日本には、世界的な天才がいっぱいいる。
知恵も技術も持っているのは、国民だ。
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/348.html#c16
06. 2011年7月12日 08:54:58: kjqKfDWXEA
国内外にはびこる悪魔を退治するために戦う浜田和幸先生を、みんなで応援しましょう。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/461.html#c6
http://ameblo.jp/wagnerian0849/entry-10950842501.html
浜田復興政務官、大地震はアメリカの地震兵器の可能性‥
2011-07-11 23:37:22NEW !
テーマ:危機管理
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110711/plc11071121050010-n1.htm 探偵にアームチェア探偵という分野があります。自らは現場に赴かず自宅などでの推理だけで結論を出してしまう探偵の事ですね。復興大臣に仕えるこの政務官ですけど、彼自身は一度も被災地には出かけた事がありません。でも友人・知人などの伝聞だけで彼にとっては充分なんですね。さて、今回の東日本大震災ですけど、終に来たのが地震兵器です。どうして今回、日本に用いたのかど言うと、日本を恫喝により隷属化に置く事が目的なんでしょうか。以前。カリフォルニアでも大地震が発生しましたが、カリフォルニアは民主党の牙城です。打撃を与える事がこの地震発生機を有しているだろうペンタゴンの利益に適っている事は言うまでもないでしょう。その場合、さてどうしたら良いのか。その上で震災復興を図るのであれば、アメリカの援助などトンでもない、という事になりますね。総理が当初、アメリカ軍の援助を断ったのも頷けます。まさに陰謀の中にこの地震列島があるわけで、来るべき東海大地震や首都直下型地震を防ぐ為には、アメリカに更に貢ぐか、戦うしかないでしょう。そこで浜田政務官の果たすべき役割って何でしょうか。告発ですか? 恭順ですか? 自民党は惜しい人材をなくしたものですね。民主党はこの憂国の士をその戦陣に加えて活躍して貰わなくてはなりませんね。
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ご参考
http://d.hatena.ne.jp/zions/20110711/1310398671
2011-07-11
浜田政務官発言文字おこし
00:37 |
2011年7月11日 (月)衆議院TV震災復興特別委員会
http://www.shugiintv.go.jp/jp/wmpdyna.asx?deli_id=41127&media_type=wb&lang=j&spkid=20027&time=04:06:45.3
11:19から16:09まで
柿澤未途(みんなの党)
浜田政務官の国際政治経済学者時代の論文を、今日は資料として配付をさせて頂きました。
「スマトラ沖地震に隠された仰天情報」
私なりに要約すると、アメリカが気象コントロール技術の研究をしていて、2004年のインドネシアスマトラ沖地震と巨大津波も、アメリカの開発した地震兵器、津波兵器が引き起こしたものである疑いがある、文字通り、仰天をするような内容がここに書いてあります。
資料の三枚目、
アメリカの思惑として、地震と津波の襲ったこの地域は、熱烈なビンラディン支持者が多い。東チモールの独立勢力も一掃された。アメリカの石油資本にとって、長年の敵が消滅し、願っても無い自然災害だった、と書いてある。
最後にはですね、悪の枢軸国に対しては地震や津波兵器を使うこともいとわぬアメリカ、こういう風に書いてあります。
で、えー、浜田政務官がこのような発言をしたり論文を書いたりしたのは一度や二度ではありません。いわば浜田政務官の持論であり、信念であると言って差し支えないと思います。
ま、こういう方をですね、公認して選挙に擁立した自民党も、なかなか勇気あるな、ゆう風に思いますけれども、えー、菅総理に至っては、この、この海外の人脈やパイプを生かして、国際的な震災復興の協力態勢を築いて欲しい。
何をどうして欲しいっていうんでしょうかね。
正直、スマトラ沖地震と津波は、アメリカの地震津波兵器の仕業だ。と言われたら国際的な震災復興の協力態勢と言ったって、むしろアメリカだって、こんな人を登用するなんて、日本国政府は何を考えているんだと、思われてしまうのでは無いかという風に心配をいたします。
どう思われます?浜田政務官。
浜田政務官
えー、お答えいたします。
えー、地震兵器とか自然改変装置というのは、別にアメリカだけでは無くて、旧ソ連も今のロシアも中国も、多くの国々がですね、研究開発に余念無く取り組んできた事実があります。しかも地震、あるいは津波、人工的に起こすということは、実は技術的には十分可能だと言われているのは、国際政治、軍事上においては常識化されているわけであります。そういった意味で、スマトラ沖の問題にしても、そういう可能性がある、と言うことを十分踏まえた上で、世界の国際政治の現実、ということを捉える必要がある、と言うのが私の基本的な考え方であります。
だからと言って、そのことによってアメリカ政府や、アメリカの様々な企業が日本のために援助をしない、そんなことは決してありません。現実に、様々なですね、アメリカの軍の関係の技術、国立の様々な研究所からですね、今回の大震災に関して、技術的な協力をしたい、と言う申し出が寄せられているという事実があるわけであります。
以上です。
柿澤未途(みんなの党)
まぁ、日本政府の一員の方が、このような答弁をされると言うことに、私はいささか驚きを覚えてしまいます。えー、先ほど平野大臣自身が仰られた、この経験、知識、知見を正に震災復興に生かしたいと、ま、こういうことを、平野大臣は言ったことに、なってしまうわけです。
えー、ま、先ほど申し上げたとおり、浜田政務官の、総務大臣政務官として与えられた仕事は唯一、復興対策本部との連絡、これだけですので、この方を通じて総務省と連絡を取り、復興に当たってのパートナーとして仕事をして、いく、わけであります。
まー、平野大臣、このご発言、どう思われますか。
私率直に、うー、ご感想というかですね、感懐をお伺いしたいと思うんです。
平野大臣
えー、、、今の、先ほどの、おー、柿澤委員のご指摘、この論文に対するご指摘、
それから、それに対する浜田政務官の答弁、まー少なくとも今回の震災復興には、
全く関係の無い話だという風に思います。
柿澤未途(みんなの党)
あの、こういうですね、本当に四ヶ月経っても、まだまだ避難所の問題や、あるいは、今日は本当は石巻の、学校給食の問題等も取り上げたかったんですけども、本当に震災からの復旧も復興も満足に進んでいない、こういう中で復興担当政務官という名の下に引き抜かれた方が、総務省でも復興担当本部でも、事実上、居場所も無くなんの機能も果たしていないこれで良いのかと、私は申し上げたい、いう風に思います。
この人事に関して極めて強い、疑問を呈して、えー、時間は過ぎておりますので質問は終らせて頂きます。ありがとうございました。
浜田政務官はよどみなく、答えを間違えた教え子を諭すような答弁。
まごうことなき、真性。
この方は鳥取県選出の参議院議員で、158,445票の支持に支えられて活動してる。
http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/514628/2309senkyoku_kai_2.pdf
参議院鳥取選挙区は有権者の数が最も少なく、一票の格差が最大となる選挙区である。
産経新聞がなぜ地震兵器関連ではなく、被災地の未訪問を見出しに掲げたのか、答弁を最後まで見た今なら理解できる。復興担当政務官としての適格性を追及するには、地震兵器発言は突拍子なさ過ぎだ。
74. 2011年7月12日 08:56:03: 6A1QsVIKOU
板違い投稿です。
筑紫哲也さん遺族、5000万円所得隠し 海外口座資産除外 東京国税局指摘(産経新聞)
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/128.html
投稿者 元引籠り 日時 2011 年 7 月 12 日 08:08:26: dkOnWN./sADdA
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/103.html#c74
04. 2011年7月12日 08:57:20: MoJp1THWBI
> 電通を潰せないのでしょうか?
合法的にするなら、テレビを見ない。
見るなら
テレビCMを出している企業に、クレームをつける。
「こんなマスゴミに載せるなら、不買する」
CMが減れば、かなりのボディーブローになるはず。
我々が東電のせいで、余計な出費をしているのと同じ。
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/127.html#c4
06. 2011年7月12日 08:58:43: PacvjesIyA
ミリで言わずマイクロで言え。
計算根拠が分からん。
単位時間がわからん。
バカマスコミが。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/202.html#c6
首都圏直撃!9・11巨大余震…地震列島不気味な1カ月周期 (zakzak)
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/461.html
投稿者 赤かぶ 日時 2011 年 7 月 11 日 17:17:23: igsppGRN/E9PQ
首都圏直撃!9・11巨大余震…地震列島不気味な1カ月周期
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110711/dms1107111551012-n1.htm
2011.07.11 夕刊フジ
3・11の震災以降、初めて津波を観測した地震(マグニチュード7・3、最大震度4)が10日、三陸沖で発生した。きょう11日で本震から4カ月。振り返ると福島県いわき市などで震度6弱を観測した4月11日の余震など、強い揺れはなぜか11日前後にやってきている。専門家の中には「まだ最大余震は発生していない」との指摘もあり、8・11、さらに9・11の巨大余震も不気味に気になる。
10日の地震は岩手県、宮城県、福島県で震度4を観測し、北海道から近畿にかけて広い範囲で揺れを感じた。気象庁は岩手、宮城、福島3県の太平洋沿岸に津波注意報を発表。岩手県の大船渡と、福島県の相馬で10センチの津波を観測した。3月11日の東日本大震災以降で実際に津波が観測されたのは初めて。
東日本大震災の余震域で、M7・0以上が観測されたのは、4月11日に福島県浜通りで発生したM7・0(最大震度6弱)以来という。
昨日の地震といい、忘れた頃の強い余震はその月の11日前後にやってくる。5月10日にも茨城県北部、6月12日は福島県沖でそれぞれ最大震度4の地震があった。琉球大名誉教授(地震学)の木村政昭氏は「M8級の余震はこれから起こる」とした上で、奇妙な“1カ月周期”をこう解説した。
「4月11日に大きな余震が起こったことで、1カ月ごとに特徴ある動きを見せる地震とも考えられる。その後、再びストレスを蓄積してガス抜きの余震が起こる。今回は7月10日だったが、次の8月11日、さらに9月11日と油断はできない」
木村氏が指摘するように、ガス抜きができなければエネルギーはたまり続け、より大きな地震が発生するリスクが高まる。8・11に何ごともなければ、逆に9・11にM8級の巨大余震が起きる危険性が増大するわけだ。
「今のところ、強い余震は茨城沖までの範囲にとどまり、その南側では起こっていない。ただ、(東北など)北側のストレスが抜けてバランスが崩れたのだから、南側に別のストレスがかかる。千葉東方沖など首都圏に影響を及ぼす大きな余震の可能性も否定できない」(木村氏)
気象庁地震津波監視課は、今後の余震について「M3〜5クラスが相次ぐ中、時々活発化する。今後も年単位の警戒が必要」とみている。いまだ激甚災害のまっただ中にいることを忘れてはいけない。
22. 2011年7月12日 09:06:18: PcUPyVlFDY
先生、コメントありがとうございます。
博士は、信頼のおける人だと私は思いました。
今後ともいろいろとご相談させてください。
よろしくお願いします。
でも、ひとつだけ。(爆笑)といれても、あまり面白くは、ありません。
先生よりは多少はヤングな弟子 チョイスケ より
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/481.html#c22
07. 2011年7月12日 09:07:43: C2rVeolZYQ
生産者も、原発が煙噴いた時点でこうなることがわかっていたはずなんだけど。
それでも育てて出荷して、案の定牛の被曝が判明して、「何をいまさら・・・・」
というのが正直な感想。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/202.html#c7
44. 2011年7月12日 09:07:55: PacvjesIyA
福島のものはもう買わない。農家の方々、関係者の方々が信用ならない。
原発関係者と一緒だ。
日本国民の敵だ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/149.html#c44
08. 2011年7月12日 09:08:11: lZqTc91b1Y
肉、魚、野菜の生産者やそれに係わる業者で食の安全や人命など一切考えず
商売の事しか考えられない輩やその家族らも現実には他の国民と同様に三度の飯で被爆。
結局自分達の首も絞めることになっていることにいつ気がつくのだろうか。
この人達にだって子供達や孫、親類縁者がいるだろうに。
身内が癌や白血病になってから改めて後悔するなよ?
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/202.html#c8
03. 島唄 2011年7月12日 09:08:39: ZW97PFZHjT5Lg : SeEE2PBaSI
NHK調査
支持政党
民主:14%
自民:24%
わかりまへん:42%
ボケなす・ジャパン
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/477.html#c3
03. 2011年7月12日 09:08:53: BDZ2zZ1IPc
>>経済の拡大に貢献することは否定はしないがその
問題は、経済学者や政治家の中に、熱力学第二法則を理解していない人がいるということだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/194.html#c3
26. 2011年7月12日 09:09:26: 8qkp570kfE
温暖化の原因が二酸化炭素じゃなくても、原発止めても電気足りても、だったらガンガン使っていい、ってんじゃないと思いますし。節電はしますよ。今まで通り+α。だらだらテレビ見ないとか。動く歩道、には乗らないとか。せめて下りはエスカレーター使わないとか。
パチンコ屋がよく矢面に立たされてますが、私は渋ちんなせいか、スポーツジムの方が勿体無いことしてる気が....電気使って走ったり自転車こいだり。ジムまでの往復が車って、おい....パチンコ屋の主が誰だとか、博打だとか言うのと節電は別でしょう
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/166.html#c26
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2812289/7487493?utm_source=afpbb&utm_medium=topics&utm_campaign=txt_topics
シリア政権支持する群衆、米仏大使館を襲撃
2011年07月12日 07:51 発信地:ダマスカス/シリア
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シリア・ダマスカス(Damascus)のフランス大使館で、バッシャール・アサド(Bashar al-Assad)大統領支持派の群衆に破壊され、大統領のポスターが立てられた車(2011年7月11日撮影)。(c)AFP/LOUAI BESHARA
関連写真1/1ページ全4枚
【7月12日 AFP】シリアの首都ダマスカス(Damascus)で11日、バッシャール・アサド(Bashar al-Assad)大統領を支持する群衆が、米国、フランスの両大使館を襲撃する事件が起きた。
反体制派の抗議活動が続くハマ(Hama)が政府軍の戦車に包囲され、弾圧が懸念されるなか、米仏両大使が前週、ハマを訪問したが、これに対する抗議行動とみられる。
仏外務省によると、襲撃を受けて守衛が3回、威嚇発砲した。群衆との衝突で大使館員3人が負傷したという。一方、米政府当局は「けが人は出なかった」と述べている。
仏政府報道官によれば、群衆は破壊槌を使って大使館の敷地内に侵入し、建物の窓や車を破壊した。仏大使館に駆け付けたAFP通信のカメラマンによると、「大使館専用車が破壊され、アサド大統領のポスターが立てられた」という。(c)AFP
「汐留」駅まで直通4分アパートメンツタワー勝どき
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1日2回更新本日の必読記事:7月11日 午後版
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak48/msg/723.html
99. 2011年7月12日 09:12:19: Qc3GPVaHGU
再爆発あれば東京にも放射能の危機がせまり逃げ出さねばならなく事を心配しています。一億玉砕戦法で原発と心中する原発推進派の国賊はまだ、原発を運転するつもりで策動しています。菅総理が決断して、8月のヒロシマ原発忌で「脱原発」を世界へ向けて高らかに宣言して欲しい。「脱原発」にメドをつけるまで総理を辞めたらダメだ。世論調査などは原発推進派の国賊たちが得意の情報操作で捏造したものだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu13/msg/869.html#c99
26. 2011年7月12日 09:14:56: YLoYRDFctQ
ロシア板御用学者、中川、山下、大橋よりまだひどい。スカタン東電でもメルトスルーは認めているのに、炉心に燃料はあると言う。事故があると、被爆者を闇にほほむるために、出てくるカビのはえたカス学者。東電がよんだか?もっと真面目な話ないのか?
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/186.html#c26
サプリメントが相変わらず人気だ。薬と違い、「副作用」がなく手軽なこと、心なしか効果を感じられるところが、人気の原因ではないだろうか。体が不調を訴えたとき、手軽に対応でき、慢性化してしまっている人も多いだろう。
本来、人間は、自然治癒力を持っている。身体が不調を訴えたとき、サプリを飲んで解消すると、人間が本来持っている自然治癒力が発揮できず、その本能を弱める。この身体の不調解消とサプリメント、自然治癒力の劣化という仕組みの理解が、今こそ必要ではないだろうか。
現在の生活スタイルは、サプリに見るように、利便と効率追求の上に成り立っている。そして、それは原発の問題も同じである。これだけの事故が起きても、原発はいやだが、電気は必要という矛盾した考えがあることは確かだ。
それを、安全技術の進歩が解決してくれるという、技術信仰の人たちがいる。だが人間が抱える問題は、全て技術で解決できるのか?
また安全神話が崩壊したのに、政府は原発再稼働で安全宣言をし、自治体の同意を求めた。ストレステストも同じで、お上任せの仕組みは変わらない。他人任せではなく、自分のことは、自分で決める。原発の問題も、住民が自分たちで決めることだ。
これは、菅さん一人の責任ではなく、国民が思考停止状態にあることが問題なのではないだろうか。大事なことは、一人一人が自立し、足りないところは補い合うこと。依存したり、押しつけられたりするのではなく共生すること。
まず、そのために個人では、今こそ生活スタイルを考え直すことが必要だ。サプリや原発に頼る生き方というのは、果たして自然に適ったものだろうか?そして企業は、損得勘定だけではなく、仕事が社会に貢献することも大切だ。
本来、人間が持つ働きを見直し、生活スタイルを変革する。また家族や地域を再生させ、原発やサプリと共に、お上に依存しない社会。これを、もう一度考えてみませんか?
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/209.html
05. 2011年7月12日 09:19:34: yAZZCLUgJo
原子力安全委員会の班目春樹委員長は「明らかにいいことではない」と苦言
「いいこと」は「運転すること?」「停止すること?」どちらがいいの?
どちらともとれる発言は、さすが「・・らめ」委員長!
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110711/plc11071121320011-n1.htm
高速鉄道輸出に政府及び腰 ブラジル応札、事業リスクなど「民間には限界」
2011.7.11 21:30 (1/2ページ)
クリックして拡大する
世界の主な高速鉄道プロジェクト
民主党政権が成長戦略の一つに掲げる高速鉄道輸出に関し、ブラジル高速鉄道の入札が12日未明、締め切られる。ブラジル側の過大な需要予測や甘い建設費見通しなどから計画の採算性が疑問視され、日本や欧州、中国勢が参加に難色を示し、韓国勢にも撤退を表明する企業が出ている。ただ、日本はインフラ輸出の柱だった原子力発電所に逆風が吹き、高速鉄道は原発に代わる重要な存在。親日国ブラジルでの実績がベトナムや米国での受注につながると期待されたものの政府は及び腰で、「官民連携」も掛け声倒れだ。
ブラジル初の高速鉄道計画は当初、昨年11月の入札予定だったが、日本や欧州勢が参加を見送り、2度にわたって延期された。
日本勢は、三井物産や三菱重工業など民間の日本連合が、40年間の運営義務や土地買収が難航した場合の遅延など入札の障害になる条件について、ブラジル側に事業リスクを考慮した変更を求めてきた。「最低限の運賃収入の保証がないと事業が成り立たない」(日本連合)ためだ。
しかし、日本の輸出戦略のライバルには、日本などの技術を使った「中国版新幹線」車両の特許の申請手続きを米国やブラジルで進める中国、採算度外視の60年間の超長期運転保証でアラブ首長国連邦(UAE)の原発を受注した韓国が居並ぶ。
日本連合は、ブラジル側に入札条件の変更を求めると同時に、「民間交渉には限界がある」としてブラジル政府との交渉を日本政府に求めている。
20. 2011年7月12日 09:22:23: BDZ2zZ1IPc
川内議員のおっしゃることはごもっとも、小出先生の話にも賛同してくださっているので、貴重な方だ。頑張って欲しいと思う。ただし、川内議員は多くの脱原発の人が言っていることを言っているだけのように思う。帰納的なので、行動力は素晴らしいと思うが、
本当に、時間、空間、エネルギーという概念がしっかりと定義できているかというと怪しいと思っている。菅首相はその点では物理を学んでいるので、演繹的に自分の頭で考えることができる。だから、特定のことに関しては確信を持って行動することができる。しかし、それではなかなか周りの協力を得ることは難しいので、自分勝手なこうどう、冷たい人と評されるだろう。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/185.html#c20
11. 2011年7月12日 09:26:28: BDZ2zZ1IPc
あと中性子線の場合は人体のナトリウムに当たるとナトリウム自身が放射能になると聞きました。放射化ですか?そうなると、体の内部から放射能を出すようになると。恐ろしいですね。中性子線は。3月15日までに、浴びた人はいなかったのでしょうか?
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/157.html#c11
http://gigazine.net/news/20110709_uighur-demo/
2011年07月09日 13時00分38秒
「一番の希望は出国」、2009年騒乱が起きたウイグルでみた中国の占領政策
こんにちは、自転車世界一周の周藤卓也@チャリダーマンです。2009年7月ウイグル自治区で騒乱が起きました。それから2ヶ月経ったウイグルを自転車で走った記録です。広い広い中国だからこそ、ウイグルは中国ではありませんでした。騒乱の直後でもあり、テレビからは報道の名を借りたプロパカンダが流されていました。
全域でインターネットが規制されている中、とある宿のパソコンでは暴動が起きた際の監視カメラの動画が流れていました。その中でお世話になった一人のウイグル人の青年は「一番の希望は出国」と答えました。
2009年7月5日にウイグル自治区で起きた騒乱では、省都ウルムチでウイグル人住民が、漢住民および武装警察と衝突し多数の犠牲者が出ました。2008年の北京五輪前のチベット騒乱の惨状が頭にうかびます。ウイグルの騒乱が起きたときは内陸の西安を旅していましたが、これから進むつもりだったウイグルの混乱に不安が募りました。
西安→蘭州→西寧→青海湖→と進んで甘粛省に入ります。どんどんと西方へ進んで酒泉、万里の長城が終わる嘉峪関、玉門を抜けると、荒涼とした景色が広がりました。約500km先のウイグル自治区のハミまで大きな街はありません。「ここから先は中国じゃない」と体感しました。
荒涼とした大地に一本の道路が続きます。
何も見あたらない地平線
地の果て
こんな非常時のウイグルに入る際には検問こそあれど、なにごともなく通過できました。平常時でさえ入ることのできないチベットと比較すると、この中国政府の対応は対照的です。ですが、ウイグルに入って最初の大きな街ハミで驚愕の事実を知りました。インターネットが使えません。ウイグルに住む2000万人をインターネットや国際電話といった外界との接触から隔離したのです。そのときでも理解できませんでしたし、今でも信じられません。このような政策を気持ち悪いと感じました。
今回の騒乱が起きたウルムチへ向かう道中、漢人には「毒針で刺されるから気をつけなさいよ」といたるところで注意されました。暴動からしばらく経っていたのですが、ウイグル人が背後から静かに毒針を刺して逃げるという事件が頻発していて、死者も出ていました。ウイグル人はウイグル人で道を尋ねても嫌な顔をされます。でも日本人だと分ると「日本人は友達だ、漢人は…」と言って、にやっと笑い、軽く拳を振る動作をしていました。
そのウルムチに入る前には厳重な検問。市街に入ってからも、至る所に30人位の銃を持った武装部隊の詰め所がありました。警棒、銃、銃、警棒の四人一組の小隊が行進をしながらストリートを巡回もしています。街は平常通り動いているのですが、どこの店に入るにしてもバッグを開いて危険物がないとことを見せないといけません。小さな店を物色しているときに漢人の若い男性たちが、伸縮する警棒を買っていきました。嫌な空気を感じました。
ウルムチのメインストリート
巨大なウルムチの市場
警備の銃を見るのは三度目でした。東ティモールの国連軍、ラオスの山賊対策の警察。ただ今回の場合の銃に違和感を感じるのは、持っている側が中国政府であって、それが正義かというと疑問に感じたからです。ウイグルは中国政府によって一方的な支配を受けています。ウルムチの街に限らず、ウイグル内では民族共和が高々と叫ばれる状況でした。ただ、それと同時に民族独立を叫ぶことができない状況では、白々しいだけにしかなりません。宿でテレビのニュースをみていたら、人民解放軍がモスクを清掃したり、ウイグル人の農家の手伝いをする映像や、ウイグル人の軍人が一つの国家を説く美談が流れていました。それは報道でもなく、ただのプロパカンダです。見ていて嫌な気分になりました。
加強草原保護建設、発展繁栄少数民族地区経済、実現共同富裕、促進各民族大団結
団結穏定是福、分裂動乱是禍
とある宿でパソコンに映し出されるウイグル暴動の画像や動画。どこから流出したのか、これがネットの時代でしょうか。だから、なんとしてもインターネットを規制したかった。それでも、中国人が見ています。知っている人は知っているのです。
出回っていた動画は監視カメラが暴動が起きた当日8時のストリートを映し出されていました。暴動に加わるウイグル人が持っているのは棒のようなもの。それを振り回しています。路線バスが止められたら、乗客は蜘蛛の子を散らすように逃げ出しました。でも、逃げ遅れた人が囲まれて暴行を受けます。その人を介抱している女性も襲われます。自転車に乗っていた人も、やはり囲まれていて暴行を受けていました。路上に横たわるその人に、自転車が投げつけられます。
車に乗っていた人は群集から逃げ切れず、窓ガラスも粉々に砕かれて、引き摺り出されて袋叩きにあっていました。車には50人以上の人だかりができ、その人が動かなくなった後に、一部のウイグル人が拳を空に掲げて歩き出します。主を失った車のワイパーだけが、左右に静かに動くのが不気味でした。暴動には男性だけでなく、スカーフを被った女性の姿も見ることができます。そんな混乱をよそに、何もなかったかのようにウイグルの夫婦が間の子どもの手つないで通り過ぎるのが印象的でした。似たような動画をウイグルを抜けてからYouTubeで見かけました。
ウイグル文字と漢字。
そのウイグルで一人の青年との出会いました。長身で見た目も中国人らしくない彼を、初めてのカザフスタン人だと思って勝手に興奮していました。話はなかなか通じません、彼はウイグルの人でした。「旅しているのか、ちょっとうちで1泊していったらどうだい」と彼の家にお世話になりました。彼の家は街の中心から離れます。後からやって来た漢族が作った中心街と郊外に連なるウイグルの人たちの家。家にはぶどう畑があり、ヤギも飼われています。彼らは、ずっとこうやって生きてきたのでしょう。
彼とはいろいろな話をしました。「自分たちの民族はトルコからやってきた」と自らの出自を知っています。筆談をするのですが彼の漢字は今ひとつでした。それもアラビア系のウイグル文字で表記されるウイグル語が彼らの母語ですから仕方ありません。「ウイグルやチベットに資源が眠るから、共産党は占領を続ける」と彼は真面目な顔で話します。資源が出てくる限り占領は続くでしょう。自国の通貨を安くすることで輸出を支える中国にとって、安い通貨で外国から資源を輸入するより、占領地内の資源を使い尽くすほうがコストパフォーマンスがいいはずですから。
彼が砂漠に湧きでる泉の場所に連れて行ってくれました。そこは荒涼としたあたり一帯でも緑のある穏やかな場所になります。ちょっとしたテーブルとベンチが設けられているのですが、その角にごみが散乱していました。彼は「漢族が置いていく」と苦い顔をして言いました。投げ棄てるようにして吐き出したその言葉に、今回のウイグル騒動の根本をみました。
彼の家を出発する朝に「中国政府は好きか嫌いか」と聞きました。「不好」と答えた彼に「漢族は?」と続けると、しばし迷った顔をして「嫌いだ」と言いました。
そんな彼の答えに、ウイグルの現実を思い知らされました。旅をしている自分は、「中国政府は嫌いだ、でも中国人民(漢族)はよかった」と言えます。でも、それは同じ国家に住むことがないからです。彼らのマナーがいくら悪くても、それをどうこういう立場ではありません。自分は観光客で、いずれ日本に帰ります。でも彼には、ウイグルの人にはそれができません。チベットも同じ状況でしょう。「一番の希望はこの国を出ること」彼はたしかにそう言いました。
ヨーロッパに入ってドイツの首都ベルリンを通過したときにベルリンの壁崩壊、東欧革命、旧ソ連崩壊に関連したパネル展示がやっていました。その一角に天安門事件に関連した展示があって意表をつかれました。日本にいて、これらを一つの流れとして考えていなかったからです。体制の崩壊も体制の維持も同じ流れの結果。それと同時にドイツにおける、中国への厳しい視線に驚きました。
分裂のドイツは苦難の時代だったかもしれません。悲しいくらいの人の波
ソビエト連邦だったバルト三国のエストニア
天安門事件
死体と群集
そして、2010年獄中にある中国人民主化活動家が、ノーベル平和賞を受賞したいうニュースを聞いて心が躍りました。「世界は中国共産党を放っておかない」「アメリカやヨーロッパ、先進国の人たちは中国のやり方を認めない」とウイグルの彼に言ったからです。そしてその通りとなりました。「たとえ国家が黙っていても、人々は気付いている。その良心は侵されることはない。だから世界は変わる。中国は変わる。ウイグルは変わる」。日本でも尖閣衝突の真実は黙殺されました。だけど、私たちが中国に関して何を考えるかは自由です。
ウイグル人の家族
ウイグルの人たち
「考える材料になれば」と、この記事を書きました。ウイグルの彼との出会いもこの為でしょう。日本でもウイグルについて考えてくれる人が増えると嬉しいです。ウイグルの人はそれを願っているでしょうから。
(文・写真:周藤卓也@チャリダーマン
自転車世界一周取材中 http://shuutak.com)
18. 2011年7月12日 09:29:56: vfBWJn6RgM
フクシマの影響を考慮にいれなければ、自力復興には賛成だった。
しかし、今、フクシマの放射能被害から農漁林業を守るには、
大規模化、集約化を実施して、「放射線管理区域(特区)」として徹底した管理を行い、そこでの産出品について安全を保障する必要があるのではないかと考えるようになりました。
地元主導では、風評には勝てないと思われます。
外資云々については、参入比率を制限するしかないと考えます。
私は、そのあたりを論旨にパブリックコメントを入れてみようと考えてます。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/460.html#c18
10. 2011年7月12日 09:30:32: FUviF2HWlS
官僚や政治家だけでない。
この国のどの階層の人たちも、同じ思考だ。
調整運転を継続の2原発、保安院「法令上問題」
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110712-OYT1T00223.htm?from=top
2011年7月12日08時53分 読売新聞
経済産業省原子力安全・保安院の森山善範・原子力災害対策監は11日、北海道電力泊原子力発電所3号機と関西電力大飯原発1号機が約4か月にわたり、定期検査を終えないまま「調整運転」を続けていることについて、「法令上、問題がある可能性がある」と指摘し、両電力に早急に検査申請を出すよう求める方針を示した。
保安院によると、定期検査中だった両機は、3月上旬に運転を開始した。通常なら1か月以内に保安院の最終的な試験を受け、そのまま営業運転入りするが、試験を受けずに東日本大震災後も調整運転を続けている。電力会社は電気事業法で原子炉の定期検査を13か月に1回受けるよう定められており、いまだに検査を終えていない両機は、これに抵触する可能性が高いという。
◇
原発、検査中なのにフル稼働 泊・大飯、手続き先送り
http://www.asahi.com/business/update/0705/TKY201107050731.html
2011年7月6日3時0分 朝日新聞
定期検査中の原発の運転再開が遅れている問題で、北海道電力の泊原発3号機(北海道)と関西電力の大飯(おおい)原発1号機(福井県)が、定検終了直前の「調整運転」を4カ月近く続けている。フル稼働で送電しており営業運転と同じだが、国と電力会社、立地自治体が安全評価の責任を押し付け合い、定検中のまま手続きの先送りを3カ月近く続ける異例の事態になっている。
両機が13カ月に1度の定検に入ったのは、昨年12月から今年1月。約50項目の検査を終え、泊3号機は3月7日、大飯1号機は3月10日と、いずれも大震災直前に原子炉を起動し、調整運転に入っていた。
調整運転は通常、約1カ月行われる。徐々に出力を上げ、フル稼働時点で、経済産業省原子力安全・保安院から、正常に作動しているかを最終チェックする総合負荷性能検査を受ける。
両機とも4月上旬に営業運転に移る予定だったが、震災と原発事故で状況は一変した。保安院は3月と先月、緊急の安全対策を指示。海江田万里経済産業相は先月18日、両機を含む原発について「対策は適切」と再開を認めた。
だが北海道電と関電はその後も最終検査を受けず、営業運転に踏み切らない。理由については両社とも「地元自治体の理解が得られていないので……」と歯切れが悪い。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/210.html
11. 2011年7月12日 09:33:10: 8qkp570kfE
全国的に梅雨明けし、これからが夏本番。湿度が下がれば汗が蒸発しやすくなって、体温調節しやすいという話もありますが。だからって暑いものは暑い。皆様くれぐれもご自愛くださいますよう....これ以上熱中症患者出したら、推進派が調子づいちゃって不快指数倍増。
安全な原発から稼動させろ!!
笑っちゃうよね。電力会社のことも政府のこともボロカスで『お前らの言う事は信じられん!』のに、安全な原発。
放射能で死者は出てないが熱中症で死んでる!!
彼らにセシウムの出た牛肉を買い上げていただきましょうよ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/162.html#c11
14. 2011年7月12日 09:33:53: BDZ2zZ1IPc
非暴力、直接行動でいきたいです。
以前、イラク戦争の時、ピースチョイスというホームページを見かけたことがあります。
議員を選ぶだけが選挙でないということです。
原発がなくなるような金融機関にお金を預ける。
原発がなくなるような企業から製品を購入する
原発がなくなるような新聞を購読する。
などなど。
みなさんはもうすでにそうされていると思いますが、
そういったリストを並べたHPはないでしょうか?
作るか?脱原発チョイスHP
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/174.html#c14
http://www.amakiblog.com/archives/2011/07/12/
「とにかく止めろ」
これは7月12日の東京新聞一面トップの見出しだ。
原発を止めろと言っているのではない。
漁民が汚染水を海に流出するのを止めてくれと叫んでいるのだ。
どの新聞もストレステストのニュースを一面トップに掲げる中で、東京
新聞だけが放射線の食物汚染を最優先して書いていた。
福島県南相馬市の肉用牛11頭から基準値を大きく超える放射性セシウム
が検出され、それが全国に流通、消費されていたという。
このニュースほど深刻なものはない。
それにもかかわらずメディアはストレステストばかりを取り上げる。
それは脱原発問題が、もはや政局になったからだ。政局だからメディアは
こちらのほうを大きく取り上げる。わかりやすい。書きやすい。書いても
実害はない。
しかし福島県産食肉牛のセシウム汚染問題ははるかに重く、深刻だ。
その汚染は限りなく拡がっているに違いない。
解決策は見当たらない。しかし被災民にとって、農家、酪農家、
漁民にとっては死活問題だ。
国民にとっても最大の不安問題だ。
なぜこの問題をメディアはもっと深刻に報道しないのか。
菅・枝野民主党政権の情報隠蔽や無責任さを糾弾しないのか。
それは問題があまりにも深刻であるからだ。解決策が見当たらない
からだ・・・
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/129.html
41. 2011年7月12日 09:39:39: 3g4Twz5NHQ
40さん
受け取り方は立場によりいろいろあると思いますよ。
結局の所
管理人さんのおっしゃられる
>(ryuubufanのジオログ)を1週間に1個以上転載してはならない。
この設定を守れば、阿修羅での投稿は問題ないということなのでしょう。
2個の可能性があるかどうかは、確認の必要もないとのお立場なんですね?
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/137.html#c41
33. 2011年7月12日 09:42:14: jTVDZJraHk
あのー信じるのは別に勝手ですけど、この文章かなりおかしいですよ。
まず冒頭で触れてるチェルノブイリの甲状腺がんの話が後述の文に全く関係ないですし、
牛乳について慎重に調査した結果の情報が完全に欠落しています。
というかチェルノブイリでの甲状腺がん多発の原因となった放射性ヨウ素の危険性が、中段の焼却灰の文章では否定されてますし…
先生のおっしゃるとおり、放射性ヨウ素の半減期は8日と短く、ヨウ素による甲状腺がんは現在出荷されている牛乳ではちょっと考えられないです。
文中で牛乳と放射性ヨウ素を絡めていないのはわざとなんでしょうか…?
大学でこの手の論法のレポート提出したらC判定食らいそうです…。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/173.html#c33
12. 2011年7月12日 09:42:42: SEG0FtGR5A
>05. 2011年7月11日 15:37:57: 1fijZaXOTI
>海江田さんのいう国民投票で少しでも意思を伝えていくことが
>方法のひとつなのでしょうか。
言っときますが海江田が言っているんではないですよ!!!!
海江田は仕方なしにあいずちをうっているだけでしょうが!
海江田は何が何でも原発稼動派デスよ!
全く菅派はそろいもそろって口と腹が別物ばっかりなんだから、腹が立つったらありゃぁしない!
口じゃ何とでも上手い事言えるよ、その時だけならさぁ!!!!
もし海江田が原発稼動なら国民投票することが一番正しいと思うんだったら、何で急いで今恫喝してまで稼動なんだよ!
恫喝してるだろ!
政府主導でも稼動していくって!
言っただろう!
国民がこれだけ反対している声を知らないわけは無いだろうに!!!!!
国民は食べる物も、飲む水も、魚も肉も、住む所も、生きを吸う空気さえも心配しながら生活してるのに、ふざけるんじゃないよ!海江田!!!
お前が出てきて白々しい事を抜かし始めると、吐き気がするんだよ!!!
28. 2011年7月12日 09:42:54: esmsVHFkrM
27、
''You, Motherfucker, fuck off!''
それ、日本語に訳すと、「お前の母さん、でべそ」だぞ。
うーん、ちょっと「意訳」に過ぎたかな。でも「問題ない」か。32字以内だし。
しかし、俺も意志の弱い人間だな。もう本当に止めよう。
01. 爺さん 2011年7月12日 09:43:14: pkMRoq8j2xu8g : TsNzNDdwYk
こんな状況で紛らわしいことを書くな。
書くなら、効果的なサプリの使用方法と注意点を書け。
御託を並べるより、まともな医者の書いた文の一つでも訳せ。
3月から4月に花盛りだった、「昆布を食うな」を思い出す。
昆布はストロンチウムの排泄や、人によってはプルトニウムにも効くと言っている。
そこで「昆布を食うな」とネットばかりでなく生協や果ては市広報でまでに言われた時は、こいつら本気で人を殺したいのだなと思った。癌フェチかと思った。
いい加減にしろよ。あほったれ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/209.html#c1
23. 2011年7月12日 09:43:18: FL3HBMFVVs
ウオッチャー
自由の女神の息子たちやIBM、米国政府高官など 私の頭では
チンプンカンプンです 誰がなにやらさっぱりですが くもの巣を
上を下に、右を左にまたぐ者 戻るもの 縦横無尽だそうですその頃は?
おそらく 裏切ったり寝返ったりの事だとおもいます
軋轢にまけたり お金にまけたり 恐怖にまけたり
雨の中をぬれずに 歩き通したものは誰も居らんだそうです?(あたりまえ)
最初に転んだのは 太った人です
21. 2011年7月12日 09:43:46: FYrDbsX6aE
まずは送発分離がすべての前提ですね。
これがなくって自然エネルギーはない。
これを言っていない時点で菅は何も考えていない。
ストレス試験もどうせ孫かなんかに入れ知恵されたんでしょうね。時間稼ぎに。脱原発するならストレス試験なんか不要ですよ。ヤメればいいんだから。
私は小出信者じゃないが、小出さんの原発の代わりは化燃料でという考えは支持できる。太陽光発電へ一挙にシフトなんか言っているやつは、結局自然エネルギー村をつくろうとしているだけ。
菅はあまりにも軽薄で卑しい人間性も発想もこんな人間にこの国の未来のことを任せられない。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/185.html#c21
24. 2011年7月12日 09:48:23: FL3HBMFVVs
ウオッチャー
海の人は 主観的な人ですね 躓くと切れます でもいやみが無いです。
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/746.html#c24
01. 2011年7月12日 09:49:35: 90cN14Vcbk
もうめちゃくちゃ!
やり放題!
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/210.html#c1
07. 2011年7月12日 09:50:05: C2rVeolZYQ
>>02
震度で考えるなよ。
思考の基礎部分で誤ってる。
研究者は規模(マグニチュード)で語ってんだ。震度っつーのは客観的尺度には
ならんだろ。場所が変われば数字も変わるんだから。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/461.html#c7
35. 2011年7月12日 09:50:44: Pj82T22SRI
>>31 いちばん最初の核酸とたんぱく質はどのようにしてできたの?
自分で勉強したら
>>32
>その宇宙法則はどうしてできた?偶然にできたというのではないでしょうね。作った誰か、または何かが必要なのでは。
繰り返しだが人間原理で十分だ
なぜ、そんなに人格としての第一者を必要とするかを自問した方がいい
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/443.html#c35
60. おっさんZ 2011年7月12日 09:50:45: vf1pLsPn/FgHY : G5q49oTzcE
産経は『産業経済新聞』つまり財界の広報誌。
いかに庶民を騙して財界の利益を図るかが目的の新聞です。
>>41
もし手に入るなら『ジャパッシュ』という漫画を読まれるべし。
面白いぞ。
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/122.html#c60
05. 2011年7月12日 09:55:26: C2rVeolZYQ
そもそも政争がなかったとしても、菅直人の下では何も進まんよ。
現に3月、4月、5月とぐだぐだだったじゃん。
危機状況下で首相がぐだぐだってのは、それだけで立派な刑事犯罪。
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/447.html#c5
08. 2011年7月12日 09:57:12: FUviF2HWlS
地震国の日本で、もし安全に運転を続けられていたら、赤い点のある国のすべてに日本の原発を輸出することができたかも知れない。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/195.html#c8
08. 2011年7月12日 09:58:43: FYrDbsX6aE
共産主義者は今の管をみるといい。
共産主義は机上の空論だという証拠のような物。
人間は一度権力を握れば離したくない、権力は金を呼び、金は権力を呼ぶ。
市場原理主義と共産主義は表裏一体。
http://www.asyura2.com/11/genpatu13/msg/768.html#c8
09. 爺さん 2011年7月12日 09:59:20: pkMRoq8j2xu8g : TsNzNDdwYk
あっしらさんのコメントにうなずきます。
ただ、私は安斎名誉教授は「悪質な学者」だと判断します。
彼の事故後からの発言を追ってみて下さい。ネット、ホームページ、あかはた・・・
彼が庶民の健康と命を大切にしてきたとは、私には百歩譲っても思えません。
彼の言葉に従っていたら私の子供たちの寿命は縮まると判断し、彼の発言は冗談と受け取っています。
怒られちゃいますかな?
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/200.html#c9
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/14786
夏に向かい福島もますます暑くなる中、東京電力福島第二非常勤産業医として6月28日から現地入りし、福島第一、第二発電所所員の健康管理の支援を7月1日まで行ってきました。
同時に、現地の協力企業の方とも話ができ、以下のような声を聞きました。
●熱中症対策として、東電では防護服の下に着るクールベストを用意し、休憩所も用意しているが、クールベストは30〜60分で熱くなることや、重いことから嫌う人もいる。
●炎天下で全面マスクをすることにより、特に眼鏡をかけている人はマスクが曇り、作業が困難である。
●休憩所まで現場が遠い所がある。
今回の滞在中にいわき市内で内科を開業されている先生にお願いして機会を利用して、原発作業員のための、万が一の高線量被曝に備えた事前の自己末梢血幹細胞採取・保存(虎の門病院、谷口プロジェクト)に関して電離放射線従事者健診を受診された東電の関連企業に勤務する原発作業員の方々数名にアンケートを実施して頂きました。
原発作業員、そのご家族、現地の医師の生の声をご紹介させて頂きます。なお、参議院議員会館で行われた本件の勉強会の模様(1、2、3)もご覧頂ければ幸いです。
【アンケート内容】
1.高線量被曝の危険性について
2.谷口プロジェクトについて
3.採取・保存の希望
4.希望しない理由
5.自由意見
【50代女性、弟が関連企業勤務】
1.大変不安、2.知らない、3.よく分からない、4.薬の副作用が心配、時間がない
5.作業員が勝手に受けてもいいのか、個人で希望しても会社側の休みの調整が取れるのか、今後の家族や生活の保障が十分されるのかが分からない。一時的な作業員というだけで流されてしまう感じがする。不安だ。一部の現場の人間しか事の重大さを感じていない。国全体で守ってほしい。
【40代男性、関連企業勤務】
1.あまり不安を感じない、2.知らない、3.はい、4.非該当
5.現在行っている建物周辺の作業においては、採取・保存の処置は必要ないでしょう。しかし、建物内部に入って作業を行う人は実施した方がよいと思われます。まずは原発(1F)をどのように廃炉まで持っていくのか、それを提示できるようにすることが大切だと思っています。
その中でリスクの高い作業が見えてくると思うのですが・・・。特に、国や東電からの被曝上限引き上げに対し、「No」を言えない会社の人は絶対やった方がいいと思う。
【40代男性、関連企業勤務】
1.大変不安、2.知っている、3.はい、4.非該当
5.内部被曝してからの影響のデータが少なすぎると思います。子供と接した時、その子供への影響も心配です。家族は当然現場へ行ってほしくないと思いますが、行くしかないのも現状です。
ならば最大限の健康管理はしてほしいものです。作業員を取り巻く環境は決して良くありません。ホールボディカウンタすら、1カ月経過しても受けられない状態です。すべて個人任せでは困るのですが。
【50代男性、関連企業勤務】
1.少し不安、2.知らない、3.よく分からない、4.時間がない、費用負担が大きい
【40代男性、関連企業勤務】
1.不安、2.知らない、3.よく分からない、4.副作用が心配、時間がない、費用負担が大きい、
5.熱中症患者がほぼ毎日出ている状況で、作業量は増加しています。今後さらに気温が上がりますので心配です。世論や国の方からの圧力等の影響もありますので、作業が次々と増えるのではと思います。
夏の間は最低限の作業以外は中止にしてほしいのが本音です。線量は下がっていますが、それは下がってきた場所で作業を始めていくというだけで、少し離れると表面で10ミリシーベルト毎時、高いところでは100ミリシーベルト毎時もザラです。
瓦礫の撤去や遮蔽よりも作業を優先している感じです。線量の年度末のリセットも疑問です。5年間のしばりもありますが・・・。
今は朝の4時に起きて、仕事に向かいます。その分、終了時刻は15時ですが、実際に旅館に帰るのは17〜19時の間くらいで、これから夏の間はサマータイムとして続きます。正直、現在の全面マスク・防護服などの装備と寝不足で夏場は死にますよね?
【40代、内科開業医】
事故後、毎日4〜5人の原発作業員の健康診断をしています。食事は生ごみを出せないため、レトルト、カップめん、パンなどの状態で、部屋の中も50マイクロシーベルトあり、マスクを外して食事をするのも不安だと作業員は話していました。
不衛生な状態のようです。劣悪な環境での仕事で、熱中症も毎日発生していると、ある関連企業の方は話していました。
谷口プロジェクトの話は、質問した人のほとんどが知らないと答えています。コストの面があるのかもしれませんが、個人で希望される方は必ずいると思います。
会社と無関係で手続きができるようにするのも、1つの考えではないでしょうか。原発作業員に対して電離放射線健診をこれから毎月やっていくと思いますが、世界でも未曾有の放射線被曝者を診察していかなくてはならず、地元の医師は専門知識がなく不安です。
谷口プロジェクトが国に認められなくても、必ず必要とされるであろう、良い方法であるのなら、地元の医師のためにも真剣に話し合いをして頂きたいと切に思います。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/211.html
01. 2011年7月12日 09:59:42: 7J4AF19MkM
短期的には急激に上昇した その反動で140ドル下がっただけと見る方が正しい
其の前日までは連騰で800ドル上昇してるんだから
これくらいの下げは当たりまえ、むしろ正常値
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/383.html#c1
『アフリカ・ドゴン族に伝わるシュメール文明』〔始まりに向かって〕
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/e31d45073b83e74e2c248f84ffb55b13
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/754.html
05. 2011年7月12日 10:00:44: 90cN14Vcbk
02番さんって、
いつも小出さんを非難するコメントを書く人ですか?
以前からの小出さんのお話を聞いたり、本を読めば、
「大きなお世話」なんて普通言えないけどね。
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/197.html#c5
06. 2011年7月12日 10:02:44: Pj82T22SRI
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/14725
混迷するユーロ危機、格付け機関を責めるな
2011.07.12(Tue) Financial Times
バローゾEU委員長、飢餓・貧困対策で10億ユーロの支援を提案
ムーディーズによるポルトガル国債格下げに対し、ジョゼ・マヌエル・バローゾ欧州委員会委員長(写真)らから一斉に非難の声が上がった〔AFPBB News〕
ユーロ圏の危機の温度は常に、責任の擦り合いによって測ることができる。
先週、重要人物が揃って、格付け機関が欧州に対する陰謀にかかわっていると非難した時、耳障りな論争が一時的にやんだ。ムーディーズ・インベスターズ・サービスがポルトガルの格付けを投機的水準であるジャンクに引き下げた翌日のことだ。
こうした反応の激しさは、危機解決のプロセスがまたしても極めて危うい状況にあることを物語っている。
ムーディーズの格付けの最も興味深い側面は、格下げそのものではなく、その根拠だった。同社は、ポルトガルはギリシャと同様に追加融資が必要になると考えている。また、ポルトガルへの追加支援を巡っても政治がゴタゴタすると見ている。ドイツは再び、支援の条件として民間部門の参加を求めるのではないか? もちろん、そうだろう。
ムーディーズとS&Pの判断が示す先行き
ムーディーズは、筆者の見るところ正しく、欧州連合(EU)の厄介な政治が懸念を抱く理由になると結論づけた。今回の危機を当初から観察してきた筆者も、この見方に同意する。ユーロ圏の危機は、債務危機であるのと同じくらい政策協調の危機なのだ。
ムーディーズの格下げの少し前、スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)はフランスが提案した債務のロールオーバー(国債への再投資)について、実施されれば、選択的デフォルト(債務不履行)に相当すると宣告した。S&Pとムーディーズのコメントを総合すると、行く手に待ち受ける不穏な力学がどんなものかが何となく分かる。
仮に、ユーロ圏諸国の政府がギリシャに債務の一部をデフォルトさせることにし、格付け機関がギリシャ国債に選択的デフォルトの格付けを付与したとしよう。
読者の皆さんもムーディーズと同様に、ポルトガルもギリシャと同じ境遇に陥り、追加の融資を要請せざるを得なくなると考えるのであれば、民間部門の参加に関する同じ規則がポルトガルにも適用されるはずだ。また、ポルトガルもある時点で選択的デフォルトの格付けを与えられることになる。
アイルランドも恐らく第2次金融支援が必要になるだろう。債券市場がスペインとイタリアの国債を評価し直してきたことも、筆者には全く意外ではない。どちらの国もデフォルトする危険はないが、周縁国がデフォルトしたら、両国の格付けもジャンク級に引き下げられるからだ。
誰もが格付け機関を嫌っているが、ヨーロッパ人以上に嫌っている人はいない。格付け機関は間違いなく信用バブルの一因だった。だが先週は、格付け機関は我々に恩恵を施してくれた。ポピュリズムがうまくいかないことを示してくれたのだ。
この点について、欧州中央銀行(ECB)は絶対的に正しい。ギリシャのデフォルトは、ユーロ圏の金融の安定、さらにはユーロ圏の存続そのものをも脅かす強力なプロセスを解き放つことになる。
短期的にも長期的にも解決策はたった1つ
「祝!定年生活」、通行人に1ユーロ配る ドイツ
ユーロ圏の危機を解決する方法は・・・〔AFPBB News〕
今の手詰まり状態の結果、我々に残される短期的な解決策はたった1つしかない。また、長期的にも解決策はたった1つしかない。実際、この2つは同一だ。
短期的には、民間部門を自発的な枠組みに引き込む唯一の方法は、欧州金融安定機関(EFSF)が編成する債務スワップだ。
現状では、EFSFは流通市場での債券購入を許されていないため、この対策は実行不可能だ。特にドイツは、この問題に対する立場を変えなければならない。
だが、ドイツは最も強硬に民間部門の参加を求めている国の1つだ。過去1年半に何度もそうしてきたように、ドイツが再び心変わりしても筆者は驚かない。
現状の規則が緩和されたら、EFSFはトリプルAマイナス格付けのEFSF債と引き換えに、例えば20%割引してギリシャ債務を買い上げることを提案できる。売り手は損失を計上しなければならないが、少なくとも手元には優良な証券が残る。この場合、格付け機関が格付けを変更する理由はない。
長期的には、唯一の解決策はユーロ圏債だ。これは、EFSFによる流通市場での国債買い入れ策の拡大版と見なすことができる。短期的な解決策と長期的な解決策が同一であるのは、このためだ。
もちろん、この債券はユーロ圏債とは呼ばれない。ドイツには、再統一にかかる資金を払うために発行した債券を表す「Sondervermögen(特別財産)」という素晴らしい婉曲表現があった。EUも、これと似たような誤解を招く名前を思いつくだろう。しかし、自分をごまかしてはいけない。実態はユーロ圏債なのだ。
先週、欧州の元首脳のグループが本紙(英フィナンシャル・タイムズ)への寄稿で、ユーロ圏債の発行に欧州投資銀行(EIB)を活用することを提案した。これは興味をそそる案だ。EIBの活用には、少なくとも差し当たりは欧州条約を改正せずに済むという大きな利点がある。
テクニカルに見た場合、最も重要な点は、呼び方は何であれ、ユーロ圏債が「共同かつ複数」の原則に基づいて発行されることだ。つまり、共同名義の銀行口座の貸し越しのように、すべての国が総額に対して責任を持つということだ。
ユーロ圏債は「デフォルトオプション」
これが何か夢想的なもの、有権者が国民投票で承認しなければならないものだと思ってはならない。実際は正反対だ。ユーロ圏債はまさに文字通り、この危機における「デフォルトオプション」だ。何も起きなければ、これが起きるのである。
各国政府は、ユーロ圏債か国家間の財政移転かという選択を迫られれば、前者を選ぶ。ドイツはそれを受け入れるだけではない。ドイツがそれを提案するだろう。
どの戦略が実行可能で、どの戦略が実行不可能かというより明確なビジョンをユーロ圏の政策立案者たちに与えてくれたことについて、我々は格付け機関に感謝しなければならない。真剣になる時が来た。
By Wolfgang Münchau
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/378.html#c6
36. 2011年7月12日 10:03:40: rgWQN0ETiM
>なぜ、そんなに人格としての第一者を必要とするかを自問した方がいい
芯化ロンの考え方じゃ話しにならないからじゃね?
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/443.html#c36
01. 2011年7月12日 10:04:49: qQVsDABEhk
>それは問題があまりにも深刻であるからだ
まあね、
でもホントの事言っちゃうけど
体内に取り込まれたセシュウムが健康被害を起こしたと言う
科学的記録やデーターは無い
その辺はヨウ素やストロンチュウムとは違う
ほぼ無害と考える学者もいる
>解決策が見当たらないからだ
いやあ、地道に対策を一つずつやっていく
手間がかかるがこれが一番
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/129.html#c1
22. 2011年7月12日 10:05:35: SEG0FtGR5A
>20. 2011年7月12日 09:22:23: BDZ2zZ1IPc
>川内議員は多くの脱原発の人が言っていることを言っているだけのように思う。
>本当に、時間、空間、エネルギーという概念がしっかりと定義できているかというと怪しいと思っている。
>菅首相はその点では本当に、時間、空間、エネルギーという概念がしっかりと定義できているかというと怪しいと思っている。菅首相はその点では物理を学んでいるので、演繹的に自分の頭で考えることができる。はぁ?
あなたの思考力が怪しいと思ってしまうよ。
菅総理は「私は原子力にはとても詳しいです。」と言った口で「臨界って何ですか?」と自分のそばにはべらせた原子力の専門家に聞いたとか漏れ聞こえてきましたが。
それでも菅総理は本当に、時間、空間、エネルギーという概念がしっかりと定義できているので、演繹的に自分の頭で考えることができる。
って思えるあなたの思考力の事ですよ!
http://www.asyura2.com/11/genpatu14/msg/185.html#c22
34. he8 2011年7月12日 10:06:42: /XGAlxEUgVRGw : XkPvYI279I
1mmの世界は、目に見える、清浄の世界。日常感覚で、対応可能。全日本人は、躾で対応。優秀。
その1/1000の1μmの世界は、清潔の世界。細菌の世界。対応には、医学的な清潔教育が必要。煮沸等。
日本の医学施設等は、ほぼ、対応。日本医学が優秀とは、このレベルの話。
口蹄疫は、このレベルの話だったので、対応は、早かった。
その1/1000の1nmの世界は、化学の世界。化学化合物、医薬品の世界。遺伝子組み替えの世界。iPS細胞なども。
通常の医学教育では、対応不能。
化学・生化学の最前線の現役研究者だけが、ある一分野のみ俯瞰できる。
産業の多くは、リスクの見積もりをせず、(正確には、不可能)この分野に、参入している。
水俣病は、このレベルの話だったので、対応は、遅く、状況把握、対策は、困難を極めている(今も)。
その1/1000の1pmの世界は、核物理の世界。核分裂、放射能の世界。直接的な操作不能の世界。
医者は、もちろん、専門の核物理学者でも、対応不能。
真っ暗な坑道を、アリアドーネの糸を、頼りに、強気な盲目が、弱気な盲目の手を引いて進んでいる構図。
やっぱり、ミノタウロスが、出て来た。
原発事故は、このレベルの話。
黙示録的感覚をもつ者にしか、現実を語る事はできないという、超現実的状況のオーラが、天地を覆っている。
http://markethack.net/archives/51749408.html
このところイタリア国債の人気が急に無くなっています。
イタリアの10年債の利回りはついに5.4%に乗せました。ギリシャ問題などの経験から、利回りが6%を超えると「赤信号」です。
なぜ急にイタリア国債が売られているのでしょうか?
欧州周辺国は「PIIGS(ブタ)」と揶揄されることが多いです。
PIIGSはポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペインの頭文字を取ったアクロニムです。
これらの国は「欧州の劣等生」ということでひと括りにされているわけですけど、実体経済の動向に関してはさらに2つのグループに分けることが出来ると僕は考えています。
それはFast-moving situation 、つまり状況が刻々変化している国々とSlow-moving situation、つまりゆっくりとしか変化していない国、ないしは経済にぜんぜん変化が無い国という2つのグループです。
この場合、変化(movement)とは「悪い方」への変化を指します。
いま状況が刻々悪化している(ないしは悪化していた)国はギリシャ、スペイン、アイルランドなどです。
一方、状況にほとんど変化が無い国はポルトガルです。イタリアもこちらのグループに入ると思います。
(=イタリアのファンダメンタルズがゆっくりと動いていることに関しては以前の記事に書きました。)
それでは何が刻々とした状況変化を作り出しているのか?といえば、それは資産価格、もっと平たく言えば住宅市場の暗転です。
アイルランド、スペインではサブプライム・バブルが弾けた時に不動産市場が影響を受け、それ以来、住宅市場が冷え込んでいます。
ギリシャの場合は政権交代の時に新政権が旧政権の「ごまかし」を暴いたことが急激な状況変化の直接のきっかけになりました。
さて、前置きが長くなりましたけど上に述べてきたような経緯でイタリアの場合はそれほど「病状」に変化はなく、これまでは持病のようにぐずぐずした展開でした。
ところが最近、急に投資家の態度が冷たくなったのはイタリアの側ではなく、投資家の側に「心変わり」が起きたからです。
その心変わりの第一番目の理由はギリシャ問題の処理の一環として「民間の投資家にも痛み分けというカタチでコスト負担を強いるべきではないか?」という議論です。
つまり額面の100で満額償還するのではなく、30%引きとか50%引きという事にして投資家にも負担をさせないとモラルハザードになるという議論です。
これに対しては反論もあります。
なぜなら本来、100のお金が返って来るところを70しか貰えなければ、残りは「損金」というカタチで決算の際、報告しなければいけません。その際、赤字が出た分は銀行の自己資本が吹っ飛ぶわけです。
従って余り損が大きいようだと銀行の自己資本が十分か?という議論になり、銀行の安定経営を脅かしかねません。
これらの事から「やばい国の債券は早目に処分しよう」という心が働くわけです。
さらに問題を複雑にしているのは「そうなると大変だから、何とかデフォルトは無かったことにして、皆で仲良くギリシャのロールオーバー(借金の借り換え)を助けよう」というシナリオの場合、これはこれで頭の痛い問題が生じるからです。
つまり、折角、デフォルト・スワップ(=デフォルトに対する保険)を購入していた投資家は「一体、どうしてくれるのだ?」という話になるわけです。
ギリシャが支払い不能に陥ることを正確に予想し、それにたいする保険を購入したにもかかわらず、それがデフォルトなしのロールオーバーという事で話をウヤムヤにされたら、「ちゃんと予習をした投資家がバカを見る」ということになるのです。
(デフォルト・スワップなんて、徒労だな)
そう投資家が感じてしまうと次からはデフォルト保険つきでも危ない国の国債は買いたくなくなってしまいます。
これは喩えれば生命保険の未払いが大々的に公認されたら、もう次からは誰もアホらしくて生面保険などに入らなくなるのと同じ理屈です。
いまギリシャ問題の処理を巡って「デフォルト無しのロールオーバー」が議論されているのは、だから生命保険の保険証書が紙クズ化するかどうかに似た大事な議論なのです。
これは難しい議論なのでなかなか結論は出ないと思います。
でもいろいろな「安全メカニズム」の信頼性が保証できなくなった現況では、ヤバい投資対象を手仕舞って、キャッシュにした方が良いわけです。
またクレジット・デフォルト・スワップのような洗練されたヘッジ・ツールが「政治的な理由で使えない」ということになると、もっとシンプルな方法でリスクをヘッジする途を模索しなければいけません。
最近、イタリアの株式市場がつるべ落としに下がっているひとつの理由は「有事にはシンプルなソリューションの方が信頼度が高い」という金融の世界の大原則に沿ってイタリア株をショートすることでリスク・ヘッジする、セオリー通りの投資行動が起こっているからです
07. 2011年7月12日 10:08:44: Pj82T22SRI
ユーロ圏財務相、ギリシャ債買い戻し案復活、イタリアに危機飛び火(1
7月12日(ブルームバーグ):ユーロ圏財務相会合(ユーログループ)はギリシャ支援策の1つの選択肢として以前に断念した同国債買い戻し案の活用を検討した。債務危機が欧州大陸で3番目の経済規模を持つイタリアに飛び火したことが背景。
投資家や欧州中央銀行(ECB)からの風当たりが強まる中、ユーログループは、昨年設立した救済基金を流通市場での債券購入に活用する可能性などを明らかにしたほか、ギリシャ向け融資金利の一段の引き下げも提案した。
イタリアとスペインの債券利回りが急上昇し、債務危機がユーロ圏の中心部に迫る中で、危機解決策を模索する欧州はドイツが今年断念させた案を復活させた格好だ。
レーン欧州委員(経済・通貨担当)は11日の会合後に記者団に対し、「柔軟性を高める多様な方法がある」と述べ、買い戻しは「その1つだ。現段階では私はどんな選択肢も排除しない。われわれはこれらの可能性を検討している」と語った。
救済基金である欧州金融安定ファシリティー(EFSF)の強化に向けて見直しを決めた背景には、ギリシャ債のロールオーバー(借り換え)への自発的な参加をめぐる債券保有者との協議にECBの横やりが入ったことがある。
金融市場ではこうした危機解決の遅れが嫌気され、多額の債務を抱える域内周辺国の国債が軒並み急落。ユーロは7週間ぶりの安値に沈み、銀行・保険株を中心に欧州株も売られた。
9時間にわたる協議後にユーログループは声明を発表し、1年9カ月に及ぶ危機を「すぐに」封じ込める新戦略の詳細を具体化すると表明したが、スケジュールは示さなかった。ギリシャはこの声明で唯一言及された国だった。ユーログループのユンケル議長(ルクセンブルク首相兼国庫相)はこの公約がスペインやイタリアをめぐる懸念にも「十分な対応となる」との見解を示した。
記事についての記者への問い合わせ先:James G. Neuger in Brussels at jneuger@bloomberg.net;Jonathan Stearns in Brussels at jstearns2@bloomberg.net
記事に関するエディターへの問い合わせ先:James Hertling at jhertling@bloomberg.net
更新日時: 2011/07/12 09:15 JST
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/378.html#c7
◇宇宙太陽光発電、実証実験へ…電力を電波に変換
人工衛星を使った太陽光発電の実用化に向け、三菱電機や京大、宇宙航空研究開発機構などが、
電力をマイクロ波に変換する技術の実証実験をこの春にも始めることが22日、わかった。
宇宙を模した空間でマイクロ波を10メートル伝送するもので、成功すれば、2025年以降の
宇宙太陽光発電の実用化に弾みがつきそうだ。
宇宙太陽光発電は、地上の太陽光発電よりも10倍も高効率とされ、夢の発電システムとして
注目されている。宇宙での太陽光の強さは地上の2倍で、日照時間は、雲などで遮られる
ことがある地上の4〜5倍になるためだ。
三菱電機は、長さ約200メートルの楕円(だえん)形の発電システムを備えた
小型衛星を40基打ち上げ、原子力発電所1基分(約100万キロ・ワット)の電力をまかなう
「ソーラーバード」構想を提唱している。
具体的には、赤道上空3万6000キロの静止軌道にある人工衛星で、光を鏡で集めて発電し、
電力をマイクロ波に変換して地上に送る仕組みだ。マイクロ波は、人体に影響のない電波に
調整し、海上などに設けた数キロ四方の受電設備で受け取り、再び電力に変換する。
(2011年1月22日14時35分 読売新聞)
______________
▽記事引用元 YOMIURI ONLINE 「リンク切れ」
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110122-OYT1T00460.htm
http://www.asyura2.com/09/eg02/msg/398.html
キング・クリムゾンの黄金期(と私は思っている)の
4人組、フリップ、ウェットン、ブラフォード、クロスの
ライブアルバムUSAからお届けします。
フリップ先生・・クロスの演奏に不満があったらしく・・
太陽と戦慄パートUのヴァイオリン、クロスの演奏を削除して
エディ・ジョブソンにスタジオ録音で入れ直している・・
クロスも気の毒だ・・しょうがないが・・
クロスのコメントでは、モニターからウェットンのベースの音と
ドラムの音が大きくて・・ライブではウンザリしていたようだ・・
私は、ヴァイオリンには無知なので不明だが、
クロスの場合、チューニングなのか、技術なのか音程がいまいちという気がする
バカでかいベース音でモニターで自分の音が聞こえなくなって、
音程が不安定になったのか?その辺は不明だが・・
結果としていいライブである。
いまだに、このCDカーステで、ほとんど毎日聞いていて、
ドラムの完全コピーを目指している・・
King Crimson - 01 - Larks' Tongues in Aspic, Part Two
http://www.youtube.com/watch?v=6-9D96uvKGg&feature=related
King Crimson - Lament - 1974 Live
http://www.youtube.com/watch?v=JDvQnZpLMyM&feature=related
King Crimson - Exiles (live)
http://www.youtube.com/watch?v=R8zbPRvVIwA&feature=related
King Crimson - Asbury Park - 1974 Live
http://www.youtube.com/watch?v=SMYCQa5keaI&feature=related
King Crimson - Easy Money (live)
http://www.youtube.com/watch?v=pSb72uMGPTA&feature=related
King Crimson - 21st Century Schizoid Man (06-30-1974)
http://www.youtube.com/watch?v=8Qa0hvtEvn4&feature=related
おまけ
KING CRIMSON - THE NIGHT WATCH
http://www.youtube.com/watch?v=ncgC7pDzcrQ&feature=related
King Crimson – Lament
http://www.youtube.com/watch?v=8VqjjFG0_60
23. 2011年7月12日 10:12:05: SEG0FtGR5A
22です
誤 >菅首相はその点では本当に、時間、空間、エネルギーという概念がしっかりと定義できているかというと怪しいと思っている。菅首相はその点では物理を学んでいるので、演繹的に自分の頭で考えることができる。はぁ?
コピーする部分を間違えました。
>菅首相はその点では本当に、時間、空間、エネルギーという概念がしっかりと定義できているかというと怪しいと思っている。の部分を削除して読んで下さい。
正 >菅首相はその点では物理を学んでいるので、演繹的に自分の頭で考えることができる?はぁ?
01. 2011年7月12日 10:12:53: Pj82T22SRI
ユーロ対円で約4カ月ぶり安値更新、債務危機の域内波及懸念強まる
7月12日(ブルームバーグ):午前の東京外国為替市場では、再びユーロ売りが活発化しており、対円では一時1ユーロ=112円32銭と、3月18日以来の安値を更新している。欧州の重債務国から端を発した危機が域内に広がるとの懸念が強まる中、ユーロ売り圧力が根強く残っている。
前日の海外市場で112円35銭まで下落していたユーロの対円相場はこの日の日本時間朝方に112円95銭まで値を戻す場面が見られていた。しかし、ユーロの上値は限定的で再び売り圧力が戻る格好となっており、午前9時50分現在は112円47銭付近で取引されている。
ユーロ・ドル相場は前日の海外市場で一時1ユーロ=1.3987ドルと、5月23日以来の水準までユーロ安が進行。日本時間早朝の取引では1.4062ドルまで水準を切り上げたが、1.4010ドルに押し戻されており、午前9時50分現在は1.4025ドル付近での取引となっている。
クレディ・スイス証券外国為替調査部の深谷幸司チーフ通貨ストラテジストは、ユーロの下落が一服したのかどうかは微妙だが、とりあえずレベル的にはこれまでの取引レンジの下限付近で、下げ止まる形になっていると指摘。ただ、イタリアへの危機波及で悲観に傾いたセンチメントをひっくり返すのはかなり難しく、欧米の10年債利回り格差がこれまで以上に「ドル優位」となるなか、リスクは引き続きユーロ安・ドル高方向にあるとみている。
一方、ドル・円相場は前日の海外市場で欧州債務懸念を背景にリスク回避の動きが広がった影響で、一時は1ドル=80円11銭と、6月22日以来の水準まで円買いが進んだ。日本時間午前9時50分現在は80円19銭付近で推移している。
欧州債務懸念根強い
前日の欧州債市場では、イタリアとスペインの国債が急落した。イタリア国債の利回りは5.71%と、2000年以来の水準に上昇。ドイツ10年債とのスプレッドは303ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)に拡大し、ユーロ導入以後の最高となった。スペイン10年債利回りの対独スプレッドも拡大している。
格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスは、ギリシャ救済に民間銀行の参加を求める欧州各国政府の姿勢は市場での資金調達が困難な国の格付けにマイナスの影響を与えるとの見解を示した。
ムーディーズの欧州クレジット責任者ウィルソン氏は週間リポートで、当局の「発表や提案は、弱い回復見通しと市場での資金調達難という問題を抱えるギリシャおよびその他の欧州高債務国の債権者にとってリスクが増していることを示唆している」と指摘。「民間市場が財政難に陥っている国による市場からの資金調達を数カ月あるいは数年にわたって拒否し、欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)の支援が長期間にわたり必要となることが、ますます明白になりつつある」と解説している。
ユーロ圏財務相会合(ユーログループ)のユンケル議長(ルクセンブルク首相兼国庫相)は11日、ブリュッセルでの記者会見で、ユーロ圏財務相がギリシャの支援策の1つの選択肢として、流通市場でのギリシャ債購入でのファイナンスの可能性について検討していることを明らかにした。
また、ユーロ圏財務相は11日、ブリュッセルで声明を発表し、「欧州金融安定ファシリティー(EFSF)の柔軟性と範囲の強化や、融資の償還期間の長期化や金利引き下げを含めて、感染リスクに抵抗するユーロ圏の金融システムの能力改善のために、新たな措置を取る準備がある」ことを表明した。
記事に関する記者への問い合わせ先:東京 三浦和美 Kazumi Miura kmiura1@bloomberg.net
記事に関するエディターへの問い合わせ先:東京 大久保 義人 Yoshito Okubo yokubo1@bloomberg.netRocky Swift rswift5@bloomberg.net
更新日時: 2011/07/12 09:52 JST
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/384.html#c1
02. 2011年7月12日 10:14:04: Pj82T22SRI
ユーロ圏安定に向け新たな措置へ、財務相会合で合意
2011年 07月 12日 08:49 JST
7月11日、ユーロ圏財務相会合で、ユーロ圏の安定確保に向け、新たな措置を間もなく講じることで合意した。写真は会合に出席したトリシェECB総裁(中央)ら(2011年 ロイター/Thierry Roge)
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ユーロ全面安、イタリアへの危機波及懸念でリスク回避強まる
欧州首脳の緊急会合、ギリシャ追加支援やユーロ圏動向を協議=EU大統領
米株大幅続落、米予算協議やユーロ圏危機めぐる懸念が圧迫
[ブリュッセル 11日 ロイター] 11日に開催されたユーロ圏財務相会合では、ギリシャなどのユーロ参加国を救済するため、債務の期間延長や金利引き下げ、救済ファンドの柔軟性向上など、新たな措置を講じることで合意した。
各国財務相は、ユーロ圏の安定確保に向け、新たな措置を間もなく講じることで合意したものの、具体的な日程は決定されなかった。
声明は「務相は(危機)波及リスクを食い止めるユーロ圏のシステミックな能力を改善するため、さらなる措置を講じる用意がある。それには、欧州金融安定ファシリティー(EFSF)の柔軟性および範囲の拡大、ローンの満期延長や金利引き下げが含まれ、必要に応じて担保に関する調整も活用される」としている。
11日の欧州市場では、イタリアとスペインの株式市場は下落、ユーロも大幅に下落した。
イタリアのベルルスコーニ首相が、緊縮財政を推進するトレモンティ財務相の基盤を揺るがせようとしている、との見方から、イタリアの金融市場は先週から不安定となっていた。
イタリア債務の経済に対する比率はギリシャに次いで大きく、仮にイタリアでも債務危機が発生すれば、欧州金融安定ファシリティーは現在の規模では不十分になる。
財務相はユーログループの作業部会に対し、ギリシャ危機に対する現在の政策対応を強化する対策を提案するよう要請した。ユーログループの作業部会は、新たな複数年にわたる調整プログラムをファイナンスする手法や、利払いコストを削減し、公的債務の持続可能性を改善する手段を探ることになる。
ユーログループのユンケル議長は記者会見で、新たなギリシャ支援民間部門の関与があると明言し、どのように行うかを早急にまとめる考えを示した。
議長は「ギリシャの債務負担が下方に修正された場合や金利が引き下げられた場合、また、償還期間が延長された場合、これがギリシャにとり大きな支援になるとの印象を受けるだろう」と述べた。
この日はイタリア国債の保証コストが過去最高に上昇した。また、同国国債のドイツ連邦債に対する利回りスプレッドはユーロ導入以来の高水準を記録した。
イタリアの債務の経済に対する比率はギリシャに次いで大きく、仮にイタリアでも債務危機が発生すれば、欧州金融安定ファシリティーは現在の規模では不十分になる。
ドイツのメルケル首相は11日、イタリアについて、ユーロ圏の信頼回復に向け求められる財政改革への取り組みを示さねばならないとし、同国はそれを遂行すると確信しているとの考えを明らかにした
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http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/384.html#c2
http://tamurah.iza.ne.jp/blog/entry/2352964/
IMF(国際通貨基金)のラガルド新専務理事はさっそく副専務理事の定員(3人)をひとり増やし、中国代表を選んだ。日本財務省は以前から副専務理事を送り込んでいるが、もちろんアジアの代表でもあった。中国代表の追加で中国は国際金融社会でいよいよ存在感を増すことになる。
気になるのは、日本は今回の専務理事選任劇でも何ら発言力、影響力を発揮しないまま、中国の影響力増大になすすべもなかったことだ。
IMFという国際金融マフィアの社会は実は米英とユーロ欧州の利害調整機関であり、カネも出せば口ももっと出す。米欧の利益になるように巧妙に世界をリードするのは、グローバル金融の世界では当たり前のことだ。だまって従うだけの存在はアングロサクソンとユーロ世界にとって貴重だが、感謝するまでもない。自宅のパーティーに日本代表を招いてちやほやすればよいだけだ。
それをよいことにしているのか、日本国財務省はIMFの対日増税勧告などを引き出し、悦に入っている。
実は、日本の増税はギリシャ問題に悩む米欧にとって大歓迎すべき政策である。日本人は対外資産を取り崩さず、相変わらず米欧さらに新興国に投融資する。大震災の国内復興も社会保障財源も増税で済ませば、国際金融市場にマイナスの影響はない。増税しても、勤勉な日本人だから相変わらず貯蓄に励む。その貯蓄は金融機関を通じて海外に流れる。だからロンドン、ニューヨークも市場は安定する。
残るのは、日本のデフレ深刻化だけだが、世界にとっては何でもない。日本の政府債務の95%は国内貯蓄で賄われるのだか、日本国債暴落なぞありえないから、投機ファンドは日本国債を買い、円高に持って行き、利ざやを大きく上乗せする。円高で日本の対外資産は大きく目減りする。
日本はますます貧しくなる道理だ。
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