http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20110313/1299970117
福島原発爆発が、多数の被爆者まで現れて、米・中・露など、国際社会も異常な関心をもって見つめるほど、いよいよ深刻な事態になりつつある。しかもこの福島原発事故という問題は、天災から始まったとはいえ、次第に人災の疑いが高まりつつある。枝野官房長官の記者会見に見られるように、日本政府が、福島原発事故に関しては、明らかに重要情報を隠蔽し、情報統制に近い報道管制を強行していることは明らかである。ところで、いつものように「意気込み」だけはいいのだが、その意気込みの動機が不純なために、意気込みとはまったく逆の結果が出てしまうというのが菅直人政権のパターンだが、今回の巨大地震対応策も、まったく同じような展開になりつつあるようだ。「12日朝」、菅直人は突然、福島原発視察を自分から言い出したらしく、約一時間も現場責任者たちを振り回し、翻弄したことになるわけだが、ちょうどその頃、原発は深刻な事態を迎えつつあったということになる。要するに、皮肉なことに、政権維持の人気取りとして見えないような、突然の菅直人の「現場視察」というパフォーマンスが、事態をより深刻なものにする原因の一つになってしまったということである。むろん僕は、菅直人の「意気込み」や「地震対策」を批判するつもりはない。が、政治は意気込みではなく結果である。いずれにしろ、多くの国民からの信頼を失っている無知無能なリーダーの「居座り」は、国民にとっては不幸の元凶そのものというしかないと思う。予算が成立したら、即刻、総辞職し、次のリーダーに代わるべきである。菅直人首相が「意気込み」を見せるべきは、東日本巨大地震対策が一段落したら、即刻「辞める」ことであるように思われる。さて、この巨大地震であらためて再確認したことだが、今、日本が直面しているのは「中国脅威論」でも「米国陰謀論」でもないということである。日本が直面しているのは、日本人自身が思想的に衰弱しつつあるという「日本人劣化論」である。地震学者にせよ、原発関係の科学者たちにせよ、巨大地震に直面して茫然自失と言う感じだが、彼らが、日頃の盲目的な科学主義にもっと思想的な疑いを持っていたら、もっと違った対応になっていただろう。政治学にしろ経済学にしろ、まったく同じだろう。科学者にしろ、政治学者や経済学者にしろ、彼らに「分らないこと」が、「分かること」より、はるかに多いのである。そこに日本人自身の思想的な「劣化」があると言わなければならない。さて、話は変わるが、地震や津波の話で、僕が思い出すのは、小学生時代に読んだことのある濱口梧陵の話だ。江戸時代、地震が起きた時、海が急に引いていくのを見て津波の到来を予感した濱口梧陵が、「米藁」に火をつけて火事をおこし、村民に津波を警告し、丘の上に避難させ、村を救ったという話(美談)である。ラフカディオ・ハーンがこの話を小説にしたために、日本国内だけでなく世界中に知れ渡ることになり、しかも学校の教科書にまで載せられるようになった「美談」である。洪水対策として植林を続けた「金原明善」の話とともに、僕の深層意識にまで浸透している話で、この話を僕は、学校の教科書で読んだように記憶していたが、実は、この話は戦後は教科書には載っていないらしい。ということは、僕は紙芝居か、あるいは絵本かなんかで読んだのだろうが、地震や津波の恐怖と共に、いつまでも記憶しているから不思議だ。海岸線の町や村の場合、小学校はしばしば山や丘の上にあるものだが、それは、地震と津波を前提にしてそうしていたのではないだろうか、とふと思う。今回の巨大地震で小学生の集団が津波にさらわれているらしいという話を聞くと、先人たちの智慧をもっと大事にしなければならない、と思う。(続く)