きのうの
http://twitter.com/#!/munetomoando/status/27035209014710272>安藤至大氏の一連のつぶやきについて、ややこしい話なのでツイッターでは書けなかった点を少し補足。
長期雇用契約を結ぶ際に,使用者側は水準以上の人を雇っているはずです。採用に関しては広範囲の自由が認められているからです。しかし,その中に大活躍する人やうまくいかない人がいることは避けられません。
だから長期契約を守るために窓際族を抱えることも必要だというのは一理ある。
http://www.economics.harvard.edu/faculty/shleifer/files/breach_of_trust.pdf>Shleifer-Summersは、敵対的企業買収は労働者に対する長期の「暗黙の契約」を破って彼らの企業への人的投資の成果を事後的に搾取することによって利益を上げるものだと論じた。
労働者は長期的に雇ってもらうことを前提にその会社でしか役に立たない
企業特殊的技能を蓄積する。その技能が必要なくなっても経営者は解雇できないが、企業買収によって彼らを解雇すると企業の業績は上がる。これは「約束を破る」ことによって労働者の企業への投資を搾取するからだ。
このようなホールドアップが頻発すると、労働者は企業特殊的技能に投資しなくなり、生産性は低下する。終身雇用は、暗黙の契約を守ることによって労働者の人的資本への投資を促進するシステムと考えることができる。他方、それは企業特殊的技能が必要なくなってからも社内失業を抱えることによる非効率性をもたらす。
このメリットとデメリットのどっちが大きいかは、業務の性格に依存する。自動車のように部品の補完性が強くチームワークが重要な場合には、長期雇用によって労働者のコミットメントを強めることが重要だが、コンピュータのように工程がモジュール化されると、企業特殊的技能の重要性が低下するので、企業買収で約束を破ることが合理的になる。
だから自動車産業では今でも長期雇用が合理的なので、解雇規制を撤廃してもトヨタは正社員には終身雇用を保障するだろう。しかしすべての企業がそういう雇用慣行をとるのは非効率的である。特に情報産業ではソフトウェアとハードウェアの補完性はないので、たとえばアップルは工場をすべて売却してハードウェアはアジアで製造している。
「義理と人情」で窓際族の面倒をみる終身雇用という規範は、部品の組み合わせが複雑で漸進的な改良が頻繁に必要になる知識集約型の製造業では合理的だったが、そういう「すり合わせ」の優位はデジタル技術によって失われつつある。だから雇用契約の自由度を上げて契約を多様化すべきである。
これは政府が指導する必要はなく、現在の(法律および判例による)解雇制限を緩和すれば、雇用はおのずから多様化するだろう。だからhttp://twitter.com/#!/munetomoando/status/27054485771653120>安藤氏もいうように「整理解雇の要件は緩和というか合理化と明確化をすべきだ」というのが多くの労働経済学者の意見である。
マクロ経済の問題は、特殊な術語が出てきて一般にはわかりにくいので、朝生でも田原さんに「むずかしい話はやめてくれ」などとさえぎられて話が深まらないが、本質的にはわかりやすい(そして経済政策の本質にかかわる)問題である。ここでは、なるべく専門用語を使わないで解説してみよう。
貨幣数量説が成り立つかどうかというのは経済学上の大問題で、私の学生のころ論争が行なわれていた。第1の争点は、1930年代の大恐慌の原因は何かということだ。これについてはケインズの「有効需要」説が通説だったが。
Friedman-Schwartzの記念碑的な業績によって、FRBが金本位制に固執して不況のさなかに通貨供給を絞ったことが原因だという説が有力になった。
第2の争点は、裁量的なケインズ政策がいいのか一律のルールがいいのかという問題である。これについては、裁量的な財政政策は無効だというフリードマンの主張が
自然失業率の理論として確立され、彼はノーベル賞を受賞した。この理論によってケインジアンは敗北し、思想的には非裁量的なルールによって運営すべきだというマネタリストが勝利した。
しかし問題は、その目標として何を設定するかだ。フリードマンは「マネーストックが年率k%で増大するように中央銀行が通貨供給量を調節する」というルールを提唱したが、このとき中銀がマネーストックをコントロールできるかどうかが焦点となる。1980年代に英米で行なわれた「実験」によれば、中銀の供給するマネタリーベースと市中に流通するマネーストックには安定した関係がないことが判明し、k%ルールは棄却された。つまりケインジアンもマネタリストも敗北し、80年代にこの論争は終わった。
これを受けて90年代から有力になったのが、インフレ目標である。これはインフレを抑制する目標としては機能するが、デフレをインフレにする手段はない。それを実現する方法として、中央銀行が「4%のインフレを15年続けると宣言する」という政策を提案したのがクルーグマンである。しかしこれには「中銀が無責任になることにコミットする」という難点があり、最近では彼はこの政策を放棄して財政政策の必要を主張している。
つまりケインジアン対マネタリストの論争の本質は、裁量かルールかということで、経済政策全般にも当てはまるのだ。個別の産業に補助金をばらまくターゲティング政策や、ゾンビ企業を救済するベイルアウト政策は、結果的には予想を変化させて企業の「甘え」を増長させ、経済を混乱させて不況を長期化する。
したがって予想可能なルールで政府や中央銀行を拘束し、民間はそのルールに従って行動すべきだ、という法の支配がインフレ目標の理念である。この点からいうと、リフレ派のいう「日銀が100兆円ばらまいてインフレにしろ」といった極端に裁量的な金融政策は、インフレ目標の思想に反する。
しかしこの種のルールには、それが適切かどうかを評価するルールがない、というメタレベルの難点がある。今回の金融危機では銀行の債務超過が最大の問題であり、これを解決するには、インフレ目標は何の役にも立たない。結果的に、FRBは従来のルールにこだわらないで銀行への資本注入と大幅な金融緩和を行なったが、それが正しいかどうかを判断するルールは存在しない。
現在の世界の金融専門家の大方のコンセンサスは、法的拘束力のない柔軟なインフレ目標が望ましいということだろう。平時には予想可能な物価上昇率を設けることで民間の経済活動がスムーズになるが、「有事」にはそんな機械的な目標を絶対視しないで機動的な金融調整を行なうべきだ。これは日銀やFRBが現に採用している目標であり、ベストとはいえないかもしれないが、経験的には妥当なところだろう。
ツイッターでややこしい質問があったので、ここで説明しておく(リフレを信じてない人は読む必要はない)。
私が何度も説明したように
マネタリーベースと物価に相関はない。これは高橋洋一氏も認め、ニコ生のときは「福井さんがもう少し長くやっていれば・・・」などと言い訳していたが、今度は
各国比較を出して、「世界各国の通貨量増減率と物価上昇率の関係をみると、相関係数は0.7程度とかなり相関がある(図4参照)」と書いている。
この図4は出所も国名も書かれておらず、「通貨量」とはマネーストックなのかマネタリーベースなのかわからないが、前者だと思われる。通貨統計でマネタリーベースが問題になることはまずなく、日本の場合は無相関なので飛び離れた値になるはずだからである。マネーストックと物価に(弱い)相関があることは、
貨幣数量方程式として知られている。
MV=PY ・・・(1)
ここでMはマネーストック、Vは流通速度、Pは物価、YはGDPである。これは恒等式なので、Yを所与とすれば、Vが安定している場合には
M=P ・・・(2)
という関係が近似的に成り立つことがある。つまり物価がマネーストックで決まるという関係がある。しかし2000年代の日本では、図のように(2)式のような関係は見られず、むしろマネーストックと物価の変化は逆相関しているようにも見える。
マネーストックと消費者物価の変化率(対前年同月比、%)この原因は、ゼロ金利状態で資金需要が飽和したため、通貨供給が増えても資金需要が増えない「デフレの罠」に入ったためと考えられる。つまり(1)式で貨幣のマネーストック(M)が増えても流通速度(V)がそれを相殺するように減るため、結果として(2)が成り立たないのだ。しかもこれはマネーストックと物価の相関であり、何度も紹介したように(日銀の供給する)マネタリーベースと物価にはまったく相関がない。
数学科出身の高橋氏が、まさかこんな初歩的な統計を理解していないはずがないのに、「一般物価は中央銀行の出す通貨量で決まる」などという事実誤認を繰り返し表明するのは、モリタクと同じく政治的な意図によるデマゴギーといわざるをえない。老婆心ながら言っておくと、複数の元上司や元同僚から「高橋は昔は優秀だったのに、最近はおかしくなった」という嘆きを聞かされたが、私も元同僚として残念に思う。
きのうのアゴラ連続セミナーでは『資本論』を読んだ。この準備のために、10年ぶりぐらいに訳本を読んだが、あらためてすごい本だと思った。といっても、昨今のマルクス本のように「プレカリアートの味方」だとか「人間疎外を告発した」とかいう話ではない。マルクスは、そういう凡庸な平等主義を否定していた。
一般には、マルクスの価値論はリカードの焼き直しだと思われているが、
廣松渉も指摘するように、彼は価値実体論を疑い、あと一歩で労働価値説を否定するところまで行っている。たとえば等価形態を説明する部分には、有名な次のような叙述がある:
この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが彼らは反対に、彼が王だから自分たちは臣下だと思うのである。
これは「価値は距離のようなもので、一物の価値というのはありえない」とリカードを批判した
ベイリーの相対的価値論の剽窃なのだが、マルクスはベイリーを「俗流経済学者」として罵倒し、彼は労働価値説を理解していなかったのだという。しかし価値が王の地位のように主観的なものであれば、それが労働時間で決まるはずがない。
デリダが指摘したように、価値が「幽霊のような対象性」だと述べたマルクスと、労働価値説のマルクスは矛盾しているのだ。
マルクスは商品の「物神性」を論じ、その延長で貨幣の王に似た性格を論じる(これは岩井克人氏の『貨幣論』でよく知られているが、彼の議論はマルクスと宇野弘蔵の焼き直し)。貨幣はそれが貨幣と認められるがゆえに貨幣であるという同語反復的な存在だが、ふだんは人々は貨幣が王のように内在的な権威をもつと信じている。
ゲーム理論でいうと、これは共有知識の問題である。Aumannなどの厳密な基礎論によれば、ナッシュ均衡の存在する必要条件は、全員が他人の利得をすべて知っていることを全員が知っている・・・という完璧な共有知識である。貨幣が存在する状態は協調ゲームの均衡だが、誰かが「王様は裸じゃないか」と疑い始めると均衡は崩壊し、取り付けやハイパーインフレが起こる。
これはマルクスの恐慌論を理解する上で重要だ。恐慌の原因は「私的所有と社会的生産の矛盾」によってつねに過剰生産や過少消費が起こることだが、これは「恐慌の可能性を示すに過ぎない」とマルクスはいう。景気循環は市場で調整できるからだ。
しかし人々の貨幣への信仰が過剰になると、それがもともとトートロジーであるがゆえに「資産価格が上がると信じる人々が増えれば資産価格が上がる」という危険な正のフィードバックが発生する。これによってバブルとその崩壊する金融恐慌は、必然的かつ定期的に起こるのである。
マルクスの予言は、不幸なことに21世紀になっても正しいことが証明された。これは今回の金融危機で注目されたミンスキーの理論とよく似ているが、マルクスはそれを単なる予想形成の問題ではなく、人々が人的非依存性のもとで分業する近代社会の本質的な矛盾だと考えていた。
伝統的社会では人的依存性によって互いをよく知っていた人々が都会に出てくると、彼らを結びつけるのは商品と貨幣によるく物的依存性だけになる。人々は互いに不可知のモナドになるが、かろうじて貨幣という神への信仰でつながっている。しかし神も王も貨幣もトートロジーなので、人々が取り付けに走ると、すべての銀行は破綻する。
スミスが明るくうたい上げた分業や市民社会の影の面を、マルクスはきわめて深いレベルで見ていた。貨幣は私的な分業によって分裂した近代社会の抱える根源的な不安を覆い隠す「イチジクの葉」であり、金融工学がいくら高度に発達してもそれを克服することはできない。だからバブルも金融危機も、また起こるだろう。それは資本主義の不治の病なのだ。
きのうの
安藤至大氏の一連のつぶやきについて、ややこしい話なのでツイッターでは書けなかった点を少し補足。
長期雇用契約を結ぶ際に,使用者側は水準以上の人を雇っているはずです。採用に関しては広範囲の自由が認められているからです。しかし,その中に大活躍する人やうまくいかない人がいることは避けられません。
だから長期契約を守るために窓際族を抱えることも必要だというのは一理ある。
Shleifer-Summersは、敵対的企業買収は労働者に対する長期の「暗黙の契約」を破って彼らの企業への人的投資の成果を事後的に搾取することによって利益を上げるものだと論じた。
労働者は長期的に雇ってもらうことを前提にその会社でしか役に立たない
企業特殊的技能を蓄積する。その技能が必要なくなっても経営者は解雇できないが、企業買収によって彼らを解雇すると企業の業績は上がる。これは「約束を破る」ことによって労働者の企業への投資を搾取するからだ。
このようなホールドアップが頻発すると、労働者は企業特殊的技能に投資しなくなり、生産性は低下する。終身雇用は、暗黙の契約を守ることによって労働者の人的資本への投資を促進するシステムと考えることができる。他方、それは企業特殊的技能が必要なくなってからも社内失業を抱えることによる非効率性をもたらす。
このメリットとデメリットのどっちが大きいかは、業務の性格に依存する。自動車のように部品の補完性が強くチームワークが重要な場合には、長期雇用によって労働者のコミットメントを強めることが重要だが、コンピュータのように工程がモジュール化されると、企業特殊的技能の重要性が低下するので、企業買収で約束を破ることが合理的になる。
だから自動車産業では今でも長期雇用が合理的なので、解雇規制を撤廃してもトヨタは正社員には終身雇用を保障するだろう。しかしすべての企業がそういう雇用慣行をとるのは非効率的である。特に情報産業ではソフトウェアとハードウェアの補完性はないので、たとえばアップルは工場をすべて売却してハードウェアはアジアで製造している。
「義理と人情」で窓際族の面倒をみる終身雇用という規範は、部品の組み合わせが複雑で漸進的な改良が頻繁に必要になる知識集約型の製造業では合理的だったが、そういう「すり合わせ」の優位はデジタル技術によって失われつつある。だから雇用契約の自由度を上げて契約を多様化すべきである。
これは政府が指導する必要はなく、現在の(法律および判例による)解雇制限を緩和すれば、雇用はおのずから多様化するだろう。だから安藤氏もいうように「整理解雇の要件は緩和というか合理化と明確化をすべきだ」というのが多くの労働経済学者の意見である。
記事 [雑談専用39] Re: 包み込む力 おおきな心 まるい心 平常心 無心
似た言葉は数あるが
私の使わせていただいた言葉で例えれば
「寛容なる自身の心を楽しむ状態」という言葉のニュアンスと
「寛容なる自身の心を"喜べている"状態」というニュアンスでは
言葉は似ていてもその言葉の発する中身はまるで違う
前者は他者を小さく感じて
自己を大きく感じようとする分離した自己の現れをも含んでおり
後者は周囲の如何なる状況にも調和し揺るがない
自己の一体性を保つ状態を指すのである
後者の状態に於いては
「一切の煩わしさから開放された自己」を堪能出来ているのである
それは堪え難きを堪え徐々に何かを乗り越えたのちに達成出来るものだなどとは
私は到底思っていない
それは親や学校の教師が今尚子供らに教えている
形式だけに「心」を借りた「分離した道徳観」だ
前者のように他者の振る舞いを気にかけて
堪えて我慢している状態からは後者の状態には辿り着かない
後者の状態とは自我を超越した状態に誘導されている状態である
物事を「静観し安息する」魂の本質そのものの状態といえるのである
その違いは大きい
後者の状態に辿り着くにはまず
「晴れ晴れとした気持ち」に到達するところから始まる
すべての状況を喜べており
すべての状況を迎え入れ
楽しむだけの状態から導かれるもの
それは喜怒哀楽を人間の基本的性質と誤って謳った
混ぜこぜの倫理観からは想像するに難しいものである事は認めよう
「怒り」「悲しみ」はその一体性なる魂の本質からは大きく遠ざかる
それら分離した自己の表現は一体性の自己(本心)からのみ認識される
自身の想いとは裏腹の行為によって分離が進行すれば
魂の本分から剥離していく自己の不安と恐れによって
自我は強化されあらゆる表情を生み出す
自我とは恐れと不安によってその枠組みが確立されていく
自然に発露する「泣く」行為とは
それは一体性への回帰を促す本心から受けとる自我へ向けて贈られた手紙である
自らの魂の本質は自己の分離を憂いても
常に様々な形で寄り添い
本来の一体性に誘導するのである
そこに自らアクセスするには「自己の内省」をおいて他には無い
そして常時一体性を取り戻すにはすぐにそこから「完全なる諦め」と「赦し」
そしてすぐに「感謝」と「愛」の念に移行する
一体性の意識である「安堵」と「喜び」の中でしか
物事は真理性をもって動き出さないのである
自己の一体性の中でのみ純粋に「諦めない」状態は保たれ
それはすべてを可能にするのだろう
だが分離した状態の自己においては「諦めない」は
益々自己を分離の状態へもっていくと言えるだろう
単なる言葉の問題ではなく
その言葉のもつ二面性
または言葉にそうした二面性を付与する立場としての
「自己の在り方」その方向性の問題を理解しなくてはならない
本来の一体性の自己と分離した自己
いまどちらに自分は居るのかに対する気付き
それさえ忘れなければ人は自然界と一体となる
植物と同じく多種多様な存在として花を咲かせ
同じ環境下のもとで鬩ぎあう事など無く
共にいつまでも成長し続ける
あなたはすべてに包まれているのだ
何にも変え難い真理の愛に包まれている
その存在を感じる事が出来るだろうか
あなたの感性だけがそれをあなたに赦すのだ
あなたにはあなたがもっとも望む
常に傍に居てほしい人物は居るだろうか
あなたがそれを赦せばその存在は常に傍に居るのだ
それを赦し入れその人の暖もりを出来るだけ長く感じようとなさい
あなたがそれをあなたに赦せる場所に辿り着いたなら
常にそこにあなたを置きなさい
そこからまず初めなさい
私は神を語ろうとはしているのではなく
私は私の理想を語っているのであり
その理想の中に神はあり
私はその神に惚れているのである
それはあなたの言葉では人格神という存在かもしれない
まずはそれで良い
それは私の居る学びの段階のひとつであるのだから
私は人と生まれたからには人として
同時に魂として自身としての理想を追い求め続ける
私は私の自由の為に理想を貫き通し続ける
その私が言うことは私にとって絶対である
私はそうした存在である
言葉の違いなどどうでもよい
人と争いたくば争えば良い
仲間と競いたくば競えば良い
あなたはあなた
私は私の理想をどこまでも行く
私はあらゆる考えの人間を集めて組織立てれば
数の論理で何かを替えられるとは思っていない
人を力で押さえつければ思うような理想が実現できるなどとも
それによって私や他のものにとっての環境や周囲の状況が
良く成るなどといった考えは持っていない
目には目を
策略には策略を
数には数をの方法論など
そんな事は私の追い求める所ではなく
そんな事は私にとって過去のものですらもないのだから
そうして理想を追求する事で
私は日々新たにその信仰の心を強化していく
直感と経験だけが私を私足らしめる
人を容易に批評し批判したり欺けば
分離した私に私自身が気づくだろう
例え肉体世界では語られる事の無い
崇高なる存在との接触を感じ得ても
感想を漏らすことには注意しなければならない
肉体ある意識は飛躍を赦さない
例えすべてを見たとしても
それは今在る段階での自身の解釈に留まる
さらにそれは言葉に表現出来る程度のものに置き換えられて
次に繋がる筈の感性の高鳴りはすぐに止んでしまうだろう
真実は歪曲された解釈のままに
世に対する疑惑や思い込みが蔓延すればその違和感によって
すぐに直感を取り戻す為に動くだろう
それを私は私自身に望む
そして私自身が再び一体性の自己を
完全に取り戻す事が出来るように
正しく知識を使える存在としての自己の在り方を願うだろう
私自身の方法論をもって常に私を快を導くだろう
人間どうにもならないところまで辿り来たら
「何故私はどうにもならないとばかり考えているのだろうか」
とそう自問せずには居られなくなる
出来ないと考える事を辞められずにいながら
そして執着心も手放せないままでいるなら
それは「最初から必要ないのだ」と
棄てた方が身の為だということを快く受け入れられる
純粋な願いと欲の違いはそれだ
言葉の持つ二面性というものを理解するのは
自己の一体性を理解すると云う事で可能になる
「なんとかどうにか納まるだろう」
と考えていればその通り
どうにかなんとかなるだろう
思い煩うのも分離した自己が為せる業であるのだから
一体性の中においては判断に悩む事は何一つない
あなたが倖せで居る事が他人が願う倖せで在る筈だ
あなたにとって大事なのは
まず自己との調和を心がける事と
あなたとあなた以外の全ての存在の倖せなのだ
その違いを指摘したりそれを統合したり調整する事は誰の仕事でもない
あなたが他人を迫害し非難し
または非難されたり迫害されているような感情に浸りながら
他人を赦す事もそれをしない自身を赦す事も出来はしない
ひとりひとりが自分の人生において唯一の責任者であるのだ
その所在を自身に明らかにすることをせず
政治や社会という枠組みを非難し責任転嫁だけするというのは
とりあえずマスコミに雇われ続けるおなじみの面々にまかせておけば良い
そしてそのコメントであなたが違和感を感じ
自己の分離分裂をきたすのであれば
即座にテレビラジオのスイッチを切れば良いのである
放っておけば良いということだ
そしてすぐに一体性を取り戻すよう務めるのだ
ひとりひとりがそれら批評家や評論家の真似をするだけでも
そのことのひとつひとつが
世界を分離分裂させる為だけに働いてしまう
ひとりひとりが病を蔓延らせる媒体としての存在を獲得するだけだ
自身の見ている世界だけでも
綺麗に見えるよう自身が他を活かし自身を活かす努力する事が大事であり
それが唯一他ならぬあなたにとっての成長であり倖せであり
実際それが世界を進歩させ組み替えていく唯一の方法なのだ
習慣とはいえ
テレビを囲むとこぞって政治タタキをし
次から次へと環境を悪化させる人々を逐一敵視していれば
あなたがあなたの見る世界を美しい元の世界へ還す為の
日々の善行としての努力も元の木網 水の泡である
「ゴミ拾い」をしながら
傍らでは「ゴミを捨てていく人を睨んで注視しつづけること」は
善行とは到底いえるものではない
分離した自己がなせる分離した善行であるのだ
そこに悪を生み対立の図式を常に抱えるあなたを生み出してしまうのだ
あなた自身がそうした他人の行為を気にかけることすらなく
輝いた存在として人々の目に映る事が善行なのだ
努力し続けている体(てい)で
不満を口々に言い合いしていれば
誰も何もやる気を起こさず
理想を持たず
何も進歩がないばかりか悪化していく一方であるのは当前である
組織に入り込む一方で
ひとりひとりの責任の所在を自身に明らかにせず
個人の責任はただ大きな枠組みに転嫁していくだけなのである
一体性の自己においてはすべての行為とその責任は喜びとともに果たされる
いつまでも変わり映えのしない対立批判の図式
気にかけなければくたびれず
あくびをしてる間にも自己の為すべきをやれば良い
そうして待てば良いのだ
怒れる事には馴染んでしまう
皆がそうしていれば尚更の事
怒りを正当化するのはいいが
それは分離した自身を正当化することになり
いくら正論を披露してみせても
それは分離した自己を追い込むことだ
一旦は落ち着いてみせても
ますます他者を受け入れられずに
卑屈にネガティヴになっていく・・
そして正統性によってそれは正しい怒りと格上げされ・・
更にまたそれはより崇高な怒りへと目覚めていき・・
正義なる正しきものの怒りとの一体なるを貫き通し・・
弱者の代弁者たる怒りの使者として怒れる神と一体となり・・
怒りの化身そのものに移りすがり・・
ははは
その力で何かを爆発させ推進させようとしても
常にそこには同じ存在である筈の対立させられる存在がいるのである
今やエネルギーの増殖炉なる怒りへの魅力に魅せられ
そこへの執着から離れる事すら出来ないのだ
そうなれば対立し続ける為にそれは稼働し続けるだろう
大きな力が一旦生まれればそれを納めることは容易ではない
それに変わる新しい力を育んでいく事が大事なのだ
火に油を注ぎつづけるものが居る限り
なかなか鎮火する筈がないのである
助けを求める者が目の前に居たら助ければ良い
だが普段からそうした人間を捜して歩く真似はどうなのか
怒りを助長する事そのものから離れなければ
自己は本来の目的を見失い成長をストップさせてしまう
今や助けを求めているのは他ならぬ政治家である
ならば政治家の手助けをするものはいないのか
差さえ合おうとする考えは何故生まれないのか
今の政府を立て直す為に援助の手を差し向けよう
何故そう思えないのか
「何故私は怒りつづけているのだろう」
「それは誰の責任だといえるのだろう」
その責任は全てあなたに在る
あなたが国を支えたいのであれば
それは国民として政治を転覆させるような真似をしないことだ
世界を変えたければ日本を変え
日本を変えたければ自身を変えなさい
そして次の世代にあなたが受けた教育と違う事を伝えなさい
それにより人の目を変え
人の意識を変える事が出来る
その為にすぐにでも怒りから離れ
分離する自己から本心を呼び止め
自己の一体性を維持するトレーニングを欠かさず続ける事だ
今生まれてくる子らはみな聡明な存在だから
親が例えどんなに既存の教育に対し熱心に施しをしても
分離の為の教育など自ら断つ術を心得ているだろう
「余計な」心配はせぬ
「必要な」心配などない
分離の状態とは一体性からの剥離の状態であり
不安に苛まれている状態であるのだから
さあもういい加減この話題から離れよう
自然界に於いて神と自己は一体性のものであるとの認識に
欠ける所は見当たらないように思える
あなたが世界のパーツである事を自覚している存在であるのなら
あなた自身がよりよく変わる事がなによりも先決なのだ
世界は有りのままのあなたであり
世界はあなたの目を通してあなたの口を通して発せられる
あなたに卑屈な態度が在れば
人々の住む世界は矮小な環境としてあなたはあなたに語り継ぐ
他者の口を通してどんなにそうではないと言葉で言い聞かせても
分離しているあなたは本来のあなたの声に反応しない
本来の自己とはすべてなるものとの一体性であることを理解していれば
他者の言葉に常に一理を汲み取ることができる
あなたはありのままの世界を精確に捉え
次の世代に愛を精確に伝える事が出来る
いつだってあなたは「晴れ晴れとした心」で
その肌を伝う冷たくも心地良い春の風と
そのバルコニーからの町の眺めを思い出し
澄み切った純粋な心であなたは
ありのままの「あなたの見る世界」を受け入れることができる
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/176.html
記事 [議論30] 宮城県、性犯罪前歴者のGPS監視検討に思う(まるこ姫の独り言) 日本も監視社会になりつつあるようだ。
監視カメラは、日本中どこの市町村にもあるようになった。
もちろん、犯罪の抑止や、犯罪を犯したものを探すと言うメリット
もあるだろうが、行き過ぎは息苦しいとともに恐ろしい。
宮城県では、性犯罪前歴者のGPS端末の常時携帯義務付けも
条例化する動きにあると言う。
>宮城県、性犯罪前歴者のGPS監視検討 唐突な表明に不信
感も 河北新報 1月23日(日)10時9分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110123-00000018-khk-l04
>宮城県の村井嘉浩知事が22日、性犯罪の前歴者などに対す
る衛星利用測位システム(GPS)端末の常時携帯義務付けやD
NA提出などを条例化する方針を正式表明した。
性犯罪者は再犯率が高いとは言うものの、当局に目をつけられた
ら一生、その人生は当局の意のままになると言う事か。
初めから、要注意人物の烙印を押されると言うのは、生きていて
も楽しいとは思えないがどうなんだろう。
どうも、県民の間での議論もなく、唐突に正式表明されても県民
の反発はないのだろうか。
私はこんな社会はとても嫌だ。
犯罪者ではなかったらそんなに拒否反応を示さなくても良いと言
う人もいるだろうが、国家にすべて管理される社会が健全な社会
と言えるだろうか。
つい最近読んだ、東野圭吾の“プラチナデータ”が現実になった
感じだ。
本を読んだ時、近未来の出来事を書いた本だと思っていたがどう
も、それがもう現実化しているような感もある。
もう、他人事ではない社会がすぐそこに来ている。
DNA提出を義務化すれば、検挙率が飛躍的に上がるかもしれ
ないそして、GPSを義務付けなどと言えば一件良さげに見えるが、
行きすぎると、普通に生きる人にもそれが及ぶ恐れがある。
そして管理する方には色んなメリットがあるかもしれないし、管理
し易いのが一番なんだろうが、管理される方の人権はどうなるの
か。
この制度は便利だとばかりに、この条例に追随する他県がある
かもしれない。
管理者の考えそうな事だ。それがもっと恐ろしい、
そうなれば、恐ろしい暗黒社会の出来上がりだ。
似たようなことで、今、菅政権では、自分に都合の悪い議員を排
除する傾向にあるがそれは、本当によいことなのだろうか。
いろんな多様な意見があり、いろんな考え方を認めると言うのが、
民主主義国家だと思うが、同じ考え方の人間だけが是と認めら
れる政権、党、それこそが”独裁”だと私は捉える。
>『また罪を犯すかもしれない』というだけで危険人物の烙印を
押し、常時監視するのは過剰な規制だ。犯した罪は事後に処罰
するという近代の法原則を覆すことになる
まさにその通りだと思う。
危険人物の烙印を押し、その人物を常に監視するのは、まるでブ
ロイラーのようなものだろう。
人間以下の取り扱いと言ったらよいだろうか。
アメリカや韓国ではなじめても、日本に導入となるとどうなんだろ
う。
すべて排除の姿勢だけでは、物事の解決にはならないと思うが。
しかし総理自ら、排除の論理だと他の自治体にも飛び火しそうだ。
http://jxd12569and.cocolog-nifty.com/raihu/2011/01/post-000f.html
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/364.html