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三宅久之と田崎史郎ー「官房機密費」まみれの政治評論家たちの「小沢一郎批判」こそ、もう古いよ。
毎日新聞の政治記者上がりの政治評論家・三宅久之と、時事通信政治記者(解説委員)・田崎史郎の下品な顔は、そのあまりにも低次元の、薄っぺらな政治漫談とともに、テレビ画面でよく見かける顔だが、おそらくこの二人は、いわゆる「官房機密費」なるものと、もっとも深く関っている政治評論家だと思われる。それ故に、この二人の政界分析や政治家論は、明らかに買収されたものであり、とてもまともに聞く気になれないが、珍しく、「週刊現代」(10/2号)で、民主党代表選挙の結果を受けて、対談を行っているので、興味半分、面白半分ながら、読んでみた。むろん、読むまでもなく、分かっていることだが、そのあまりにも低次元の話の連続に、新聞社の政治記者というものが、いかに愚鈍で、能天気で、恥知らずな存在なのかを、ああらためて確認した次第だ。彼等が、小沢一郎や菅直人について語っていることは、すでに各所で語りつくされたことでばかりで、新鮮な話は皆無である。こういう二番煎じ、三番煎じの話を、恥も外部もなく垂れ流し続けるそのド根性には頭が下がるが、こういう連中が、毎日のようにテレビ画面で、荒唐無稽な政治漫談を繰り返し、テレビしか見ないだろう「B層の国民」を相手に、日夜、洗脳活動を続けているとすれば、やはりその言論を無視するわけにはいかない。たとえば、田崎史郎は、こう言っている。「ですから、今回の代表選は菅総理の勝利ではなく、国民世論の勝利でした。」と。田崎史郎よ、よく言うよ。国民世論とは、新聞社やテレビ局がデッチアゲたものろう。とすれば、マスコミの勝利と言うべきだ。つまり、何故、はっきり、今回の民主党代表選は、菅直人の勝利でも国民世論の勝利でもなく、様々な形で「小沢一郎攻撃」を繰り返した、いわゆるマスコミと検察と米国…の連合軍の勝利だった、と言わないのか。むろん、口が裂けても、そんなことは、「官房機密費」まみれの新聞記者には言えないのである。しかるに、この二人の新聞社系の政治評論家は、そろって、あれほど選挙前に執拗に繰り返した「政治とカネ」問題に一言も触れようとしない。そして小沢一郎は、結局、「権力闘争に負けのだ」という話に摩り替えようとする。「ところが、206票という菅総理の得票から推測すると、1年生議員の半分は菅総理に投票したようですね。それは、世論の支持を意識した面もあるでしょうが、小沢さんの掌握力が案外弱かったということでもある。いわゆる『小沢神話』『不敗神話』は、いよいよ幕を下ろす時がきたのかもしれません。」(田崎史郎)と言うから、小沢時代は終わった、小沢復活はありえない、と言っているのかと思うと、そうではないらしい。年度末に、国会のねじれにより、予算関連法案がとらない可能性があり、菅内閣は行き詰まり、その時は、小沢一郎の出番があり、今回の200票という議員得票を考えるならば、小沢サイドに十分に勝ち目があるというのである。馬鹿も休み休み言えと言いたい。それならば、小沢時代は、依然として続いているということではないか。この二人が、密に恐れているように、小沢一郎の時代は終わっていない。小沢一郎は権力闘争に負けてもいない。マスコミと検察と米国・・・に「負けた」かのように見えるだけである。要するに、三宅久之と田崎史郎等のような新聞記者には、仕方がないことかもしれないが、ウォルフレンが論じているような、たとえば、「小沢は今日の国際社会において、もっとも卓越した手腕を持つ政治家のひとりである。ヨーロッパには彼に比肩し得るリーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスをよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない」(アムステルダム大学教授、カレル・ヴァン・ウォルフレン)というような視点はない。小沢一郎という政治家の人間的な深さや、あるいは政治家としての存在の本質がまったく見えていない。三宅久之と田崎史郎等は、小沢一郎に対する芸能週刊誌レベルの批判・中傷は出来るかもしれないが、まともな政治論や政治家論は無理である。したがって、終わったのは、この程度の茶飲み話レベルの政治漫談を政治評論だと錯覚しているような政治評論家たちの時代ではないのか。