1. 白人は何故あんなに美しくなったのか
白人が美しいというのは厳然たる事実
なにしろ白人は遊牧・牧畜民で遺伝子操作のプロですから.
劣った遺伝子はすべて淘汰する. これが白人の考え方.
白人が他民族を征服した場合はいい女だけ残して他は女と男は全員殺す.
魔女狩りでもいい女だけ残してブスは全員殺した.
これを1万年の間 毎日毎日繰り返して やっと今の美しい金髪碧眼の白人ができたんですね.
一方、農耕民のアジア人やアフリカ人には遺伝子操作ができないから不細工な人間も淘汰されないで生き延び、サル人間の姿から変わらなかった.
我こそが真の神なるぞ!
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白人はなぜ白人か
「白人」は白人の自称である。これに対して、黒人、黄色人種等は、白人による他称である。
では、白人はなぜ白人か。 まず第一に、遺伝によってである。
彼らは日本の一般人以上に、はっきりと血統を重んずる。
さらに、伝統的に、日本人よりはるかに「容貌」にこだわってきた。
血統と婚姻関係と容貌とが、ずっと昔から、大のおとなの男子によっても強く意識されてきたのである。
そのような意識の下で、彼らは交配を繰り返し、半ば人為的に現在の「白人」を作り上げてきたのである。
さらに、その自らの人為について、誇りすら持っている。
これは白人に直接に接してみればわかることだが、彼らは容貌について実に細かいところを気にしている。
日本人のように、鼻が高いか、目が二重であるか、顔が小さいかというような大雑把なものではない。
彼らは、高級飼猫や競走馬の毛並みを気にするような目で、人間の容姿をも見るのである。
日本人が、金があるのに歯並びなどの容姿を修正しようとしないのを、彼らは奇異に感じている。
日本人が自然であることを評価するのとは全く違った容姿に対する感性を彼らはもつ。
そもそも彼ら自身が(理性による)人工的な製作物なのだ。
彼らの「血統」と「伝統文化」と「容貌」のコングロマリットに関する強烈な意識は、たとえばトーマスマンの「ブッデンブローク家の人びと」のような小説にもその率直な表現を見ることができると思う。
彼らの先祖はイラン高原(またはロシア南部)を出てヨーロッパに広まったといわれる。またインドにも侵入し先住民の文明を滅ぼした。
彼らはヨーロッパにおいては先住民の文化を消滅させ、人口稠密であったインドにおいてはカースト制度を考案し、これを先住民に課して苛烈な支配収奪を行なった。
このようにヨーロッパ白人は、「征服して根絶やしにする」こと、すなわち「ホロコースト」「民族浄化」によって自らを確立した人種なのである。
すなわち白人は、その人種としての成立においてすでに、「ホロコースト」の刻印をもつ。
白人はその遺伝的な貪欲さ、攻撃性、粗暴さ、征服欲の強さ、そして他者を顧慮しないで平気でいられる傍若無人な特性によって、その覇権を拡大したのである。
白人はこのような遺伝的素質によって人種的な版図を拡大した後、彼らのうちの特権層・貴族階級が、自らの眷族の中において、牧畜経営で覚えたとおりの人工的な交配を繰り返すことによってその血統的なアイデンティティおよびある種のブランド価値を確立していくのであるが、白人「市民」革命は、この特権貴族層の血統的アイデンティティ即ち身分的「優越」の意識を、「白色人種」の人種的アイデンティティ即ち人種的「優越」の意識へと移行・拡散させ、これを全白人に平等に共有せしめたのである。
その背景にはいうまでもなく、新大陸の「発見」と植民地支配と奴隷制とがあった。
「世界の拡大」にともなう新しい他者たる「新しい野蛮」の発見と、新植民地および「奴隷」の獲得とが、物質的にのみならずイデオロギー的にも、白人全体のある種の貴族化・特権層化を可能にした。
「野蛮」と「奴隷」との現出が、白人全体の「市民」化を可能にしたのである。(「市民」とは昔から有産者のことであり、城塞で保護された都市・市場の中に「特権的な地位を有する者」のことである。
ただし必ずしも城塞の内側に住む必要はない。都市の原型ともいうべき塀で囲まれた小さな市場は、夜は鍵をかけられて閉鎖され無人になるのが通例である。)
即ち、白人「市民」革命は、イデオロギー的にも、「野蛮の再発見」と植民地支配および人種的奴隷制なくしては成立し得なかった。
「自由な市民」は常に「野蛮」と「奴隷」とを要件とするのである。
彼ら白人には、われわれ日本人が普通に考えるような「人間的な」感情はない。
根が極端にセルフィッシュなので、彼らがまともな社会を築くためには、外から強力な道徳規範を特別に叩き込まれる必要があった。
そうされないと何でもやってしまうDNAだからである。
この外から叩き込まれなければならない道徳規範が、キリスト教であったり、現在の人権思想や環境保護思想だったりするのである。
白人は、われわれにとっては自然な感情のように思われる道徳規範さえ、宗教的権威によってドグマとして与えられなければならなかった。
彼らは「自然な」罪の意識というものを持たない。
キリスト教の教義によって教えられた「罪」しか持たないのである。
日本人にはホンネとタテマエの区別があるといわれる。それは、日本人がしばしばホンネを漏らしてしまうということにすぎない。白人にその区別がないように見えるとすれば、それは彼らが言葉ではタテマエ以外は決して語らず、ホンネの部分は有無を言わさず強力に実行し、永久に隠蔽してしまうからである。
彼らのホロコーストの後には何も残らない。
したがってホロコーストもなかったことになる。
アジアにおいてはさまざまな系統の言語が錯綜していて日本語のような系統不明の言語も散見されるのに対し、ヨーロッパは、後に侵入したモンゴル系の言語やバスク語などごくわずかな例外を除き、ほとんどが「インドヨーロッパ語族」一色である。
このこともまた、ヨーロッパ人種がその始原において「ホロコースト」「民族浄化」を要件として成立したことを意味する。
「ホロコースト」「民族浄化」の衝動は、白色人種の持って生まれた刻印(性格)なのである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6354425/index.html
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2. 白人はコーカソイドを品種改良して生まれた新人類
コーカソイドの品種改良は何故行われたか
長い間、北ヨーロッパの諸民族は、北方に起源をもつ「純枠種」であるという神話が、定説であるかのように、語りつづけられてきた。
しかし、形質人類学、つまり、人類の生物学的研究が進むにつれ、北欧神話はくずれはじめた。
たとえば、アメリカの人類学者、クーン、ガーン、バードセル(以下、クーンを代表とする)の3人の共著による、『人種』という本では、北ヨーロッパ人の中にみられる高身長で鼻の細くとがった骨格は、「紀元前5000年をこえないある時期に、おそらくイランから農耕民・牧畜民としてユーラシアの草原に入ってきた」人々がもたらしたもの、と説明されている。
では、その当時、イラン高原にいた人々はどんな肌色をしていたかというと、クーンは、「淡褐色の皮膚、褐色の眼」をしていたと考えている。
そして、イラン高原からインドに侵入した、いわゆるアーリア人についても、従来主張されてきたようなブロンド人種ではなかった、と説明している。
では、淡褐色の肌色、褐色の眼の人々は、どういう時期に北ヨーロッパに移住し、ブロンド型になっていったのであろうか。
「その頃ウラル山脈の氷河の融解によって地表をあらわした地域は曇りがちであった。
彼らは紀元前2000年代に中央および北西ヨーロッパに到達した。
彼らがここに来たのは雲多い時代の終末期であった。
彼らは第一には原住民との混血により、第二には環境的淘汰によって、あるいはこの2つの経過にしたがって、皮膚、毛、眼に関するブロンディズムの遺伝子を獲得したのだろう」(『人種』、p.114)
では、「原住民」は、どんな人種的特徴を持っていたのであろうか。
そして、ブロンディズムとは、どのようなものであり、どのような自然環境の中で発生したものであろうか。
ブロンディズムは、雲や霧の多い、氷河期の北ヨーロッパ特有の気候の中で発生した。
基本的には「白皮症」である。つまり、色素細胞の機能消滅である。
この現象はどの地方でも発生するが、太陽光線のとぼしい環境の中では、これが、かえって有利な条件となった。
しかもこの環境はほぼ、紀元前の2200年までつづいた。
ホメーロスも、北ヨーロッパについて、霧多き国とうたっていたほどである。
このことからすれば、北ヨーロッパ人の「純粋性」を主張する際には、もっとも色素沈着のすくない住民をあげなくてはならないだろう。事実、クーンは、こう書いている。
「灰色ブロンドの毛はバルト海地方の東方および南方の中部ヨーロッパの、皮膚の青く、灰色の眼をした住民の間ではもっとも普通である」(同前、p.113)
つまり、いわゆる金髪青眼ではなくて、銀髪灰眼の方が、北ヨーロッパの古くからの現住民だった。
バルト海は北ヨーロッパの中心部であり、凍りついた海の上には、ツンドラ草原がひろがっていた。曇りがちな空の下で、狩猟民が紀元前3000年もしくは2000年頃まで、つまり古代エジプト帝国がアフリカ大陸からオリエントに進出していたころまで、氷河期と同じ生活をつづけていた。
現在のバルト海沿岸には、「白眼」とよばれる人々さえいる。
では、この銀髪灰眼の人々は、どんな骨格をしていたのだろうか。
「この種の色素をもつ人々の多くはずんぐりしており、顔は幅ひろく獅子鼻である。
彼らはモンゴロイドが完成した寒地適応の路を部分的にたどってきたのであった」(同前、p.113)
つまり、人類そのものの生物学的な研究によれば、ずんぐりした身体つきの方が、表面積が少なくて、体熱の発散をふせぐ。この方が寒地適応型なのだ。
もちろん、ここでモンゴロイドの典型とされているのは、氷原の狩猟民族、エスキモー人のことである。
結論として北ヨーロッパの原住民は、銀髪灰眼、ずんぐり型であったと考えられる。
高身長、細鼻の骨格形質は、クーンによれば、イラン高原に由来する。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/shoten-afmag-45.html
78 :名無しさん@お腹いっぱい[]:04/09/16 19:51:23 ID:UHhOaVTt
印欧語族の起源は、中央アジアだと思われます。
紀元前数千年前に現在のイラク地方から農耕が伝わりました。
この農耕から牧畜が発生しました。
中央アジアは馬の原産地でもあります。
騎馬の技術を発明したのも印欧語族が最初です。
本来の印欧語族は、現在のイラン人のような容貌をしていたと考えられます。
髪の毛も目の色も黒かったと思われます。
そして、人口の増加と騎馬により、印欧語族は東、西、南へと拡散することになります。
紀元前2千前のことだと思われます。
東に向かった印欧語族はタリム盆地あたりまで進みますが、そのころ黄河文明を起こしつつあったモンゴロイドの漢民族がいたため、それ以上、進むことは出来ませんでした。
南に向かった印欧語族はアフガニスタンからパキスタンに入り(紀元前1700年ごろ)、インダス文明を興していたドラビダ系民族を滅ぼしました。
西に向かった印欧語族は、無人の野を行くが如く、欧州を駆け抜けて行きました。
北ヨーロッパにいた、ブロンデイズムを獲得していたコーカソイドを征服し、彼らと混血していったのです。
82 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/01 22:14:49 ID:cN0KVvfg
トルコ系、モンゴル系などの中央ユーラシア遊牧民族は、もともとが、モンゴロイドなのか、そうでないのかわからない。
そもそも草原の道とかいう中央アジアなどは、インド・ヨーロッパ語族のベースとなった、アナトリア(今のトルコのあるところ)とも関係が深い。
でもって、アナトリアよりもちょっと上、黒海、カスピ海となると、カフカスであり、これぞコーカソイドとよばれていたりするわけだが、結局、いま、人種という概念がなくなったのは、こういうアジア系とヨーロッパ系などと分けることが無意味になったからだ。
どうやら、紀元前1000年ごろに、地中海民族(イタリアとか)が大挙して、アジアにやってきたらしいのもわかっている。
紀元前500年ごろまでには、中国各地にこういう人々がいた可能性がある。
いまのところ、彼らの存在が確認されているのは、中国の西域(例のローランの少女ミイラ)や、山東半島だ。
山東半島は、完全にヨーロッパ系ばかりが紀元前500年ごろには、住んでいたことが判明している。
そのほか、考古学的にわかるのは、遊牧民族の文化が違いにあまり区別できないということだ。カフカス系のスキタイの文化は、あきらかに、中国まできているどころか、朝鮮半島南部まで来ている。
もちろん、日本にきた証拠はないものの、朝鮮半島南部、いわゆる任那ともよばれた加羅や新羅までは来ている。
とすれば、これらは、ステップ民族であり、この系統がアジア系とか、ヨーロッパ系(いわゆるコーカソイド)とか区別できるもので はない。
ようするに、2000年前の民族がどういう系統かとか論じるのがそもそも無意味に近い。
http://www.unkar.org/read/academy6.2ch.net/geo/1093685431
80:名無しさん@お腹いっぱい。[] /05/08 08:51 ID:aXAhx3AV(1)
インド人の一部がコーカソイドと言えども、イギリス人の植民地統治は容赦がなかった。
インド人は黒または褐色の有色人種でアフリカのニグロに対する扱いと基本的に同じだった。
気に入らないインド人を射殺するのは白人の自由であり、動物と間違って 撃ったと言えば無罪放免であった。
インド人がインド・ヨーロッパ語族であろうと、アラブ人がコーカソイドであろうとほとんどのヨーロッパ人からみて彼らが「白人」ではないことは明白な事実である。
87:名無しさん@お腹いっぱい。[] /05/09 15:36 ID:q1J7uQci(1)
イタリア人はアメリカ移民当初、白人認定されず、かなりの差別を受けてたみたいだ。
だからアル・カポネのようなアウトローが出てきたとも言える。
イタリア人でもローマから北は白人っぽいが、南は刑事コロンボやイタリア語講座の先生のように、もろ地中海系。
狭義ではアルプス以北というか、地中海に飛び出たイタリアとイベリア半島はヨーロッパでも別格だね。
195:名無しさん@お腹いっぱい。[] /07/27 20:55 ID:9l8nU5QU(1)
インドのガンジーは若き弁護士時代を南アで過ごすが、完全に ニグロ(黒人)扱いを受けた。
いくらコーカソイドでくくって、インド人やアラブ人を欧米系と同じ人種と定義しても、当の欧米系はインド、アラブ系とははるかかなたに分かれたのであって、意識上他人種と考えている。
115 + 1:名無しさん@お腹いっぱい。[] /05/21 00:21 ID:cvT+ciN3(1)
白人は自分に近くて似ているけど異なる者が嫌いなんだよ。
アラブ人のことも大嫌い。
317 + 1:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 05/05/21(土) 14:17:44 ID:W+akTwxs(3)
戦前に両親の都合でポーランドの奥地に送られたドイツの子供(髪も目も黒)が 金髪碧眼しかいない小さな農村で苛められる話があります。
そのポーランドの田舎は千年このかた、髪の黒い人など見たこともなくこいつは白人ではない、ユダヤ人かアジア人に違いないと言われます。
もちろん少年はふつうのドイツ人で、ユダヤ人やジプシーではないのですが髪が黒いというだけで人間あつかいされない。
外の世界など見たこともない金髪碧眼の村で、テレビもない時代ですからね。
彼らは安物アメリカ映画ふうの、差別はいけないなどという考えもない。
生活も千年前そのままで、女が浮気すると、相手を斧で殴り殺し目をえぐりだす
まさにキリスト教伝来前、ローマ時代のヴァイキングの生活。
二十世紀でこんな村があることが不思議におもえますが、広大なポーランドのこと、
領主は税さえおさめれば農民など一切かまわなかったのでしょう。
古いヴァイキングの血は、不毛の島とか、ポーランド内陸の田舎などに保存されて
のこってる。
320:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 05/05/21(土) 17:02:39 ID:W+akTwxs(3)
北欧ではフィンランド人が古い人種でしょう。
スウェーデン人に次第に北に押しやられて凄い差別を受けてました。
そのスウェーデン人は南方から来たわけで・・・
スウェーデンやノルウェーには内陸に差別を受ける少数民族がいます。
かれらが本当の北欧原住民で、非キリスト教徒として迫害され、ほとんど滅んだ。
http://read2ch.com/r/geo/1036574273/
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3. コーカソイドの品種改良はどの様にして行われたか
コーカソイドとは元々アナトリア〜コーカサス〜イランあたりに定住していた薄褐色系の人達が本流
ヨーロッパの肌の白い系はその亜種
コーカソイドとは本来バングラデシュ人のように色はかなり濃い。
「自称」白人はコーカソイドの奇形。
なぜヨーロッパの各人種が、人類の進化の速度としては、かくも最近かつ急速に白い肌、青い目、ブロンドの髪を持つようになったのかは、長年の疑問であった。
このような変化が通常の進化の過程(自然淘汰)で起こったのであれば、約85万年の歳月が必要となった筈である。
しかし現代の人類は、アフリカからヨーロッパまでの移住を成し遂げるまでに、僅か3万5000年から4万年の期間しか費やしていない。
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1) 白皙
ヨーロッパ人の皮膚は黒かった「5万年前」
人類の旅は5万年前、東アフリカのサバンナにいた5000人の集団のうち、150人がアフリカを出たことに始まる。
人類の皮膚の色。祖先の皮膚は当初青白かった。
アフリカでは日光が葉酸を破壊し生殖能力を低下させるのを防ぐため、黒い皮膚になった。
2万年前からヨーロッパ人とアジア人は濃淡の皮膚に変化した。日光によく当たればビタミンDの生成効率が向上する。
人類は農耕を開始する前に定住していた。1万年前に氷期が終わり、現在の完新世になり、定住が始まった。
トルコ南東部から地中海東岸あたりで、麦類が栽培化された。
Y染色体の分析によると、新石器時代トルコ中南部から農民がヨーロッパに入り地元の集団と混血していった。
近東からヨーロッパに移住して農耕を伝えた人々は実は少人数で、ヨーロッパの先住民は彼らの農耕技術と言語を取り入れた。
http://blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/21701503.html
ペンシルバニア州立大学のChengらは、ヒトのSLC24A5という遺伝子の1アミノ酸変異がヨーロッパ人の肌色を薄く(白く)しているらしいと報告した(Science (2005)310, 1882-1786)。
Chengの研究室の大学院生だったNortonは、アリゾナ大学の遺伝学者Hammerの研究室に移ってから、この遺伝子内部および近辺の遺伝子の変異の頻度を調べた。
そして、その変異速度から問題のSLC24A5の変異が1.2万年前〜6千年前に生じた、と推定した。
そうすると、1.8-1.4万年前の旧石器時代末期にアルタミラの見事な洞窟壁画を残した人たちは、色の黒い人たちだったということになる。
現生人類の祖先は約4万年前にアフリカを出て、ユーラシア大陸に進出した。
ヨーロッパに進出した一派は、進出後すぐに色白になった、というのが今までの通説であった。
それに比べるとNortonの推定は、エジプトで古代王朝が始まるころにようやくヨーロッパ人の肌色は褐色から白色になったというのだから、その進化の新しさに驚く。
4万年前に色白になったというのは古すぎる、という意見は以前からあった。
ヨーロッパ人は長い間、狩猟主体の生活だったのでその獲物の内臓から充分なビタミンDを摂っていた、だから肌色は黒いままでよかった、というのである。
この場合は、農耕主体の生活になってから、あるいは、衣類が発達して皮膚表面の大部分を覆うようになってから、始めて皮膚の色は白くなった、と考える。
http://www.res.titech.ac.jp/~seibutu/yoshida/blackandwhite.html
2) 碧眼
★青い目の人は全て1万年前の共通の祖先の子孫、デンマーク人研究者
【Technobahn 2008/2/1 19:12】
デンマーク人研究者によるDNA調査によって青い目の人は今から6000〜1万年前に突然現れた青い目を持った祖先の子孫であるということが1月31日までに明らかとなった。。
この研究を行ったのはデンマークのコペンハーゲン大学のハンス・アイベルク(Hans Eiberg)教授を中心とする研究グループ。
研究グループではメラニン色素の生成に関与するOCA2遺伝子に着目。
その上でこの遺伝子の部分的に機能しなくなったことにより青い目のを持つ人が誕生したこと、更に、OCA2遺伝子の追跡調査により、青い目を持つ人は6000〜10000年前に現れた共通の祖先から枝分かれした子孫であるということ突き止めた。
現在、ヨーロッパの全人口の20〜40%は青い目を持つ。
6000〜1万年前に生まれた青い目の祖先からここまで青い目の人口が拡大したことに関して、研究グループでは、この祖先が持っていた遺伝子は青い目を形成するOCA2遺伝子以外に、別の面で子孫を繁栄させる面で何かしら有利となる特徴を持っていたのではないかと、述べている。
研究グループでは恐らく6000〜1万年より以前には青い目をした人は居なかったとも述べている。
http://kousyoublog.jp/?eid=1423
3) 金髪
最近の遺伝情報学に基づけば、ヨーロッパにおいて金髪の人口がはっきりと増加しだしたのは、最後の氷河期である約1万1000年前から約1万年前のことである可能性が高い。
これ以前のヨーロッパ人は、他の人種の支配的な特徴である焦茶色の髪と暗い色の瞳を持っていた。
『The History and Geography of Human Genes』(1994年)によれば、金髪は紀元前3000年頃に現在リトアニアとして知られる地域において、インド・ヨーロッパ祖語族の間でヨーロッパの支配的な頭髪の色となった(現在においても、リトアニアは金髪人口の比率が最も高い国として知られている)。
金髪(ブロンド)は人間には比較的に稀にしか見られない髪色で、全人口の内で1.7パーセントから2パーセントしか見られず、天然の金髪の大部分は白人のものである。
金髪は北ヨーロッパ、特にオランダ、北欧諸国、ドイツの人々の典型的な特徴であり、このため非常に明るい金髪は、しばしば「ノルディック・ブロンド(北欧のブロンド)」と呼ばれる。
これより暗い色合いの金髪は、ヨーロッパ全域はもちろん、現在のシリア人やレバノン人、ペルシャ人、クルド人や、イラン、アフガン、パキスタンのイラン人などの、中東の様々な地域でも見られる。
ただし北欧三国(ノルディック)を除けば概ねどの地域もブロンドは少数に過ぎず、ロシアで10%、イギリスに至っては3%しか存在しないとするデータも存在する。
男性が金髪の女性を魅力的であると見なすようになったために、この特徴はスカンジナビアへの移住が行われた際にも、性淘汰によって急速に広まったのであると考えられる。
なぜヨーロッパの各人種が、人類の進化の速度としては、かくも最近かつ急速にこのような高確率で金髪(と多様な虹彩の色)を持つようになったのかは、長年の疑問であった。
このような変化が通常の進化の過程(自然淘汰)で起こったのであれば、約85万年の歳月が必要となった筈である[1]。しかし現代の人類は、アフリカからヨーロッパまでの移住を成し遂げるまでに、僅か3万5000年から4万年の期間しか費やしていない[1]。
セント・アンドルーズ大学の後援を受けたカナダの人類学者ピーター・フロストは、最後の氷河期の終わりにおいて金髪の人種が急速な発生を見たのは、性淘汰の結果であるとの説を、2006年3月に Evolution and Human Behavior において発表した。
この研究によれば、多くのヨーロッパの地域において金髪と青い瞳を持つ女性は、乏しい数の男性を相手にした過酷な配偶者獲得競争において、彼女らの競争相手より優位に立てたのである。
ヨーロッパ圏において食糧不足の為にクロマニヨン人の人口が低下していた1万1千年前から1万年前の時期において、金髪は増加を見たのであると、研究は主張する。
ヨーロッパ北部におけるほとんど唯一の食料源は放浪するマンモスやトナカイ、野牛、野馬の群れのみであり、それらの獲物を発見するためには長く困難な狩りのための遠出が必要であり、狩りの間に多くの男性が命を落としたために、生き残った男性と女性の比率の不均衡が生じた。
この仮説では、金髪の女性はその際立った特徴が男性を獲得する際に役立ったために、その結果として金髪の人口の増加につながったのであると主張されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%AB%AA
要するに、異民族だけでなく同族であっても容姿が醜い人間は容赦無く抹殺していって、現在の美しい金髪碧眼の白人が誕生したという事ですね。
白人は遊牧・牧畜民で遺伝子操作のプロ
劣った遺伝子はすべて淘汰する. これが白人の考え方.
白人が他民族を征服した場合はいい女だけ残して他は女と男は全員殺す.
たとえ自分の身内であっても劣った遺伝子を持った人間には容赦しない。
これを1万年間 毎日毎日繰り返していたのです.
コーカソイドの中から白い肌、青い目、ブロンドの髪を持った見た目の良い品種だけが残された。
不細工な人間はみんな殺され、ホロコーストを 生き延びた人間が白人種になった。
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4. 白人女性の品種改良 _ こういう品種改良なら大歓迎
いい女だけ残してブスは全員殺した西洋の魔女狩り
魔女狩りも単なる白人女性の品種改良運動でキリスト教とは無関係だったのです。
白人種は性を敵視し、母性的な女性を魔女のイメージとして定着させ、魔女狩りによって抹殺した。
一般に
ブスは子供だけが生きがいだから母性的になる
美人は子供をほったらかして色々な男と遊びまわる
なので
母性的な女性を淘汰する = ブスを淘汰する
という事になります。
メデタシ、メデタシ
キリスト教が社会的に力を持ち、文化的に大きな基盤となっていくと、性については厳しい管理が行われるようになった。特に中世においては、性行為のできる日、できない日までも細かく規定していた。
厳格的な禁欲体制が行われていたのである。とはいえ、売春制度があったので、男性のみが禁欲体制を回避する手段を持っていたといえるかも知れない。 娼婦でもない限り、女性が性的行為に能動的であるのは非常に問題視された。
教会は性生活に関して、厳しい規則を作り上げた。そして、魔女妄想が始まると、淫蕩な女性も目をつけられることとなったのである。魔女妄想と女性の性が結びついて作り上げられたのが、「サバト」と考えられる。ここにおいて、悪魔と交わると考えられていた。
魔女に仕立て上げられた女性は、寡婦や薬草などの知識に長けた女性が多かったようである。中には、共同体からはみだされた女性が巻き込まれることもあったようである。
女性が憎んでいる女性を告発することもあったようである。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/1460/colum/e-middle.html
魔女に具体的なイメージを与えたのは、中世ヨーロパで「産婆」として活躍した女性たちでした。
まだ医者という専門職がなかった時代、彼女らは村人の出産を助けただけでなく、病を治し心を癒しました。イギリスでは「Midwifery」と名付けられ、フランス(sage femme)やドイツ(weise frau)では「賢い女」と呼ばれました。
彼女らの治療法は薬草を使うもの。教会が「産みの苦しみはイヴに下された正当な罪」などと言っていたとき、彼女らは陣痛に麦角(ergot)を利用しました。ジギタリス(digitalis)は今でも心臓疾患の治療に欠かせませんが、もともと彼女らの薬草リストの一つ。真夜中に薬草を摘みに出かけたのも、明け方の植物が一番薬草として効果が高いことを経験的に知っていたから。
彼女たちはその有能さゆえ、周囲から神秘的でマジカルな存在と見なされるようになりました。「賢い女」たちは尊敬されると同時に恐れられるようになりました。教会もまた、彼女らが調合する薬草の効果があればあるほど脅威に感じました。そしてある時村に天災が襲い、作物の不作が続くとそれは彼女らの「魔術」のせいではないかと考えるように。
『魔女の槌』(魔女裁判の手引き書)は「教会にとって産婆ほど有害なものはない」と説きました。魔女狩りの最初のターゲットが「産婆」たちだったことはよく知られています。13世紀にイスラム世界から医療教育が伝わり、医療の専門職が男性によって独占されると、産婆たちは真っ先に火あぶりにされました。
http://history.husigi.com/VHv2/koneta61.htm
それらの責めを負う人間は、女性に、特にもっとも年老いたもっとも貧しい者の中に求められた。それらの人々は、口伝えの経験的な(薬草等の)治療法の知識を受け継いでおり、病気を治す秘法を知っていたが、同時に呪いのかけ方にも通じているのではないかと疑われたのである。
夫を亡くした女性も孤立していた(当時の神学者は、生まれつき男性より悪魔の幻覚に惑わされやすいとされる女性の弱点について、とかく問題にする傾向があった)。
その他不意に起こった死、病気、事故はすべて妖術のせいとされる可能性があった。
こどもを何人も死産したり、梯子の天辺から仰向けに墜落したり、口論の最中に「悪魔にさらわれてしまえ」と言ったり、特殊な性習慣の持ち主だったり、頻繁に転居したり、これ見よがしに教会に行ったり等々ということは、すべて疑いを招く原因となった。
http://www.ne.jp/asahi/happy/jollyboy/akuma02.htm
こうして、魔女狩りの時代を生き伸びる事ができたのは 見た目は良いが母性の欠如した感情の無い女性だけだったのです。
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5. 有色人種も白人種によって品種改良されて現在の姿になった
ミトコンドリアDNAが母系で受け継がれるのに対し、Y染色体は父系で受け継がれる。
ミトコンドリアDNA解析は過去10万年の人類の移動を明らかにしたが、正確には女性の移動なので、ヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略のような男性主体の移動は検知することができない。男性の移動を明らかにするにはY染色体の解析が必要である。
女性は妊娠によってしかDNAを残せないのに対し、男はその場限りのセックスで子孫を残せるので、Y染色体はミトコンドリアDNAよりも寡占が起きやすい。
ミトコンドリアDNAのハプロタイプを図であらわすとクラスターがきれいに並ぶのに対し、Y染色体のクラスターは不揃いで不規則だ。
大半のY染色体は途中で失われ、少数のY染色体のみが栄えるというのがY染色体の現実なのだ。
サイクスの本には900年前に死んだサマーレッドという武将のY染色体が40万人に、チンギス汗のY染色体は1600万人に受け継がれているとか、南アメリカのインディオのY染色体はヨーロッパ系ばかりだとか、恐ろしいことがたくさん書いてある
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/04/y.html
分子遺伝学を研究した人間はY染色体もしくはミトコンドリアどちらかのDNAばかりに気を取られてふたつの違いについて注目しようとしなかった。
『イヴの七人の娘たち』でブライアン・サイクス博士はミトコンドリアの研究によって母系図をたどってさかのぼった。今回は父系祖先をたどるためにY染色体ツリーを書き上げた。
サイクス博士はカヌーでの海を渡り、ハワイ、イースター島、ニュージーランドにまで定住を広げたポリネシアの人々を調査をしていた。
ラトロンガ人の血液サンプルによるとポリネシアの女性史を解明してみると、彼女たちのほとんどが東南アジアを起源としており、南米からの移住説は消えた。
ところがポリネシア人の男性史をたどると女性よりもバラエティ豊かなY染色体を持っていることが判明した。 それは主に3つのクラスターに分けられた(その3つをA,B,Cと呼ぶ)。
一番数の多かったAクラスターは島々に最初に入植したポリネシア人の末裔だった。
Bクラスターは数は少ないもののAクラスターに非常に近かった。
最初の入植者のまた別の染色体セットだと考えられた。
CクラスターはA・Bとは近い関係にないことが解った。
Cクラスターはヨーロッパ男性のY染色体だったのである。
wikipedia クック諸島
普通、このことを純粋な男女の混血だとして描写されることはないだろう。
これをヨーロッパ人の到着を男女の出会い、精子と卵子の出会いと考えるようにする。
ヨーロッパの卵子はそこに届かず精子だけがポリネシア女性と出会った。
これが遺伝子としての戦いだとするとヨーロッパのY染色体はポリネシア固有のY染色体をもつ男から3分の1を奪って勝った。
ヨーロッパ人の植民地化はY染色体の繁殖において大きな影響を及ぼしている。
ペルーでは自分達は純血のアメリカインディアンだと考えているパスコーとリマの住民に対して調査が行なわれた。
結果は95%以上のミトコンドリアDNAがアメリカインディアンの末裔であるのにY染色体の半分がヨーロッパのものであると判明した。
スペインが一番最初に入植した南米の地アンティオクイアではY染色体の94%がヨーロッパ、5%がアフリカ、たった1%がアメリカインディアンだった。
奴隷貿易によって大西洋からもたらされたアフリカのY染色体の方が多い。
ミトコンドリアDNAは90%がアメリカインディアンのもので、残りがヨーロッパとアフリカのものだった。
つまりヨーロッパとアフリカの精子が大量のアメリカインディアン女性の卵子に受精し、アメリカインディアン精子は生き残りの上で敗者となったのである。
アフリカ系アメリカ人やアフリカ系カリブ人における母系祖先がアフリカからのミトコンドリアDNAなのに対してY染色体はヨーロッパ父系がいる。
こういった遺伝的名残は植民地の歴史を物語る。
細胞内のY染色体には独占欲が刻み込まれているようである。
http://renzan.org/columnist/nishida/adam5.html
>最新のDNA調査技術を駆使し、南米でサンプル検査を行なったところ、先住民のDNAはミトコンドリアDNA(母から子に継承)では82.8%、Y染色体(父から男子へ継承)は8.6%だったそうです。(ソースはNHK教育『サイエンスZERO』)
インカ文明やマヤ文明やアステカ文明を滅亡させたスペイン人が南米で何をしでかしたのか、実際のところはよく伝わっていません。
しかしDNA検査が示す結果によると、どうやら先住民族の男は事実上皆殺しにあったようです。
先住民のY染色体が8.6%というのは、衝撃的ですね。
Y染色体8.6%のデータを発表するさい、NHKはわざわざこのデータは過疎の山間部まで含まれていると断りを入れていました。
スペインは原住民男子を完全抹殺を徹底的かつ緻密に行なったものの、完全リセットできなかったモレの部分が8.6%ということなんでしょうね。
それにしてもDNAは嘘をつきませんね。
>ロシア人は南米の逆のような気がしています。
ロシア人はスラブ人だということで、ウィキペディアなんかを読んでも、ロシア人の正体はよくわかりません。しかしイワン雷帝とかモスクワ大公とか、ロシアの支配階層をたどっていくと、完全にモンゴル(タタール)にたどりつくんですよね。
ロシア人は、一見見かけ上はヨーロッパ人のようです。おそらく母方でヨーロッパの血が入っていったのでは?と推定しています。
羊の雄というのは哀れなもので、そのほとんどが殺されるか去勢され、群れはおおよそ雄1:雌20の比率で構成されるそうですが、モンゴルはロシア平原に於いてロシア人に対し、それに類したことをなしたのではないのでしょうか。
雄1とは無論モンゴル兵のことで、雌20とはロシア女のことです。
オスマントルコも似たようなことをしたのかもしれませんね。
事実、元々キリスト教徒の子供であったイェリチェリはどんな戦功をあげようとも、その栄華は一代限りのもので子を残すことは許されませんでしたし、ハーレムの女たちのその多くがキリスト教徒だったことは有名な話ですよね。
トルコ共和国の人間の外形はヨーロッパのそれによく似ていますが、templeさんのことばを借りるならば、"母方でヨーロッパの血が入って行ったのでは"ないのでしょうか。そしてそれは、小アジアだけではなくギリシャやブルガリアも同様でしょうね。
http://temple.iza.ne.jp/blog/entry/1126896/
インドへのアーリア人侵入説
「アーリア人侵入説」は、言語学の分野から持ち上がってきたものだ。
「インド・ヨーロッパ語族」という分類から、北インドのヒンズー支配層は、BC3000〜8000年に、欧州・中東・小アジア・コーカサスから移動してきた西ヨーロッパ人ではないか、と推理されるようになった。
つまり「白人、金髪、青い目」の侵略者たちが、先住民のドラヴィダ語族の民族を南に押しやり、北インドではカーストの支配者となったのではないか、という話なのだ。
アメリカのユタ大学とインド南部のアンドラプラデシュ大学による共同研究
インドのカースト別のDNA分析から、侵攻したのは「コーカソイドの男子」であり、先住民の下層階級の女子と混血してきたことが証明された。
インドのカースト制度は、「4階層+不可触民」で、実質5階層になっている。
1930年にイギリスがとった人口統計によれば、
1)バラモン(僧侶)・・・・5%
2)クシャトリア(武士)・・・・7%
3)ヴァイシャ(商人)・・・・3%
4)シュードラ(農民工民)・・・・60%
5)アンタッチャブル(穢多非人)・・・・15%
という比率で、これにイスラム教、シーク教、キリスト教、ゾロアスター教などの「異教徒10%」をたすと、100%になる。
1930年以来、1度も統計調査がないというも驚きだが、不可触民(穢多非人)の「15%」という比率は、実際はもっと高いと言われている。
DNA分析の共同研究では、
上層カースト(バラモン+クシャトリア+ヴァイシャ)、
中層カースト(シュードラ)、
下層カースト(アンタッチャブル)
に分類し、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人のDNAと比較している。
表内の数字は、小さいほど関係性の距離が短い(先祖の共通性が高い)ことを示す。
http://jorde-lab.genetics.utah.edu/elibrary/Bamshad_2001a.pdf
■Y染色体のSTR分析
アフリカ人 アジア人 ヨーロッパ人
上層カースト 0.0166 0.0104 0.0092
中層カースト 0.0156 0.0110 0.0108
低層カースト 0.0131 0.0088 0.0108
日本の皇位継承問題でもおなじみの「Y染色体」だが、これは男系の遺伝を示す。
インド人の「男系遺伝子」は、ヨーロッパ人とアジア人と同じぐらいの距離にある。
カースト別でいうと、上層カーストとヨーロッパ人の関係がもっとも近い。
低層カーストはアジア人にもっとも近い。
■ミトコンドリア染色体のHVR1分析
アフリカ人 アジア人 ヨーロッパ人
上層カースト 0.0179 0.0037 0.0100
中層カースト 0.0182 0.0025 0.0086
低層カースト 0.0163 0.0023 0.0113
ミトコンドリアのDNAは、母親のものだけが子供に伝わり、父親のものは次世代にはまったく関与しない「母系遺伝」になっているので、母系分析に使われる。
この分析によると、インド人の「先祖の女性」は、歴然とした数値をもって、アジア人に近い。
低層カーストがもっとも近く、上層になるにつれて距離が離れていく。
以上の研究から、インド人の母系と父系に明らかな「系統」が生じており、
1)「アーリア人の男性」が「ワンランク下の先住女性」と混血を繰り返した、
2)「低いカーストの男性」が「高いカーストの女性」と結婚するケースはほとんどなかった、
という結論になる。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1354332
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6. アボリジニーの品種改良
ハクジンの作り方
先日、アボリジニー女性と長く話をする機会があった。
彼女は推定40歳弱のアボリジニー女性。明日、生まれて以来一度もあったことのない姉に会うのに、とても緊張している、と言う。
私は、家庭の事情か、とちょっと思ったけれど(馬鹿な私)、よく聞いてみると、まだ一度もあっていない弟もいて、母親とは、3年ほど前、生まれて初めて会えた。という。
ベルギーに住んでいる弟もいるのよ。と写真を見せてくれた。
ヨーロッパ政府の先住民政策のことを少しでも知っている人ならすぐにわかると思うが、そう、これは、イギリス政府 (後にはオーストラリア政府)の先住民同化政策のひとつで、アボリジニー女性から生まれた赤ちゃんを出産後 母乳をやるのも許さず、すぐ取り上げ、ハクジン夫婦のもとで育てさせる。というもの。
こうすることにより、アボリジニーのこども達は、親から文化を継承せず、イギリス人化する と考えたのだ。
私は知識としては知っていたけれど、まさか、こんな若い人がまだ、その政策の当事者として存在していることが、驚きだった。
私の勉強不足のせい、なのですが、ただ、この事実を豪州政府は公にはしない。
事実をしるためには、アボリジニーから聞いた話をドキュメンタリーにした本やビデオしかないのだ。
彼女曰く、この政策は、1980年まで続いた。だから今26歳以上のアボリジニ−は、みんな親を知らないで育った。
「そんな最近まで!!」私には衝撃だった。
自分のこどもが、政府によって取り上げられ、2度と会えないのだ。親は子供の写真を見ることも、消息を知らされることも この制度が廃止されるまではなかったという。
たとえ、海外に行っても、死亡しても、知らされなかったのだ、と言う。
これだけでも、悲しいのに、彼女の話は終らない。
この制度は、ただアボリジニーを先祖から引き離し、イギリス人文化に馴染ませるためだけのものではなく、アボリジニーを抹殺するかわりに、彼らの肌を白くする政策でもあったのだ。
アボリジニーをひきとる親のほとんどは、女児を好む。
女児なら大きくなれば強姦し放題だからだ。
そして妊娠させる。
そしてその赤ちゃんの肌は母親より少し白くなる。
だから、政府はそれをよしとしたのだ。
強姦したいハクジンの父親は、早ければ8歳くらいには、強姦すると言う。
彼女の周りでも、たくさんのアボリジニー女性がまだ幼い頃に強姦され、12、13歳で妊娠した人がいっぱいいたはずだ、と言う。
もちろん 強姦された挙句生んだ赤ちゃんは、すぐ政府によって取り上げられるのだ。
そしてその子も女児なら、運が良くなければ、強姦される運命だ。
男児はどうなるのか。
地方や役人によっては、男児は、何の役にも立たないので、(アボリジニー女性は、ハクジン男性の性の遊びの役に立つが、アボリジニー男性がハクジン女性とセックスするのは、許されないし、アボリジニー女性と性交渉をすると、二人の赤ちゃんの肌の色は白くならない) 不必要として、生まれた直後 近くの壁にたたきつけて殺したのだ と言う。
私には、言葉も出なかった。
彼女は自分を育ててくれたハクジン両親はいい人で、とても幸運だったという。
統計などなくてわからないけれど、幸運なアボリジニーは少ない と言った。
彼女は自分の父親が誰だか知らないという。あるとき、病気で医者に行った時、医者から、両親にその病気をしたことがあるか、聞いていらっしゃい、それが予防に役立つと言われ、母親に父親の所在を聞いた。
母親が インド人の男性だ、と教えてもらい、会いに行く直前、母親から止められて、何事かと思ったら、よく考えたら違うと言う。
笑いながら、インド人だったら、あなたの肌はこんなに白くないわよね、と娘の肌をさすりながら言った と言う。で、父親は、アイルランド人、ハクジンだと言って、でも死んだのだ、と。
彼女は 父親に会うのはあきらめた、と言った。母親が話したがらないから。と。
考えてみればこのお母さんも 親から引き離されて、ハクジンの親の元、苦労して育ったわけだから、何があったかは、想像にかたくない。
彼女は、自分の肌をさすりながら、豪州政府はこの肌でもまだ白さが足りない、と言うわ。といった。肌の白さ、をこれほどまでに気にしながら生きていかなければならのは、信じられないほど理不尽だと思った。
彼女は言う。過去も悲しいけれど、今も悲しい。
なぜかと言うと、時折話す、オーストラリア人(ハクジンだと思うけれど)は、総じてこの話を信じないと言う。
政府がそんなことするはずない、と。
彼女は、じゃあ、なぜ多くのアボリジニーがこんな都市に住んでいるの?
各地にあった、トライブにいないの?
なぜアボリジニーの言葉が話せないの?
と聞くのだそう。
私には、ハクジンオーストラリア人が政府の行ったこの蛮行をしらないのはありえるとして、その本人からこういうことをされた、と言われて、政府がするわけない、と否定するその気持ちがよくわからない。
それほどまでに、政府を信じきっている気持ちが。いや、政府というか、ハクジンがそんな残酷なことをするわけない、とおもっているのかもしれない。
イギリス政府が行った数々の蛮行、植民地支配も何もかも習わず、海賊も彼らの誇り、アメリカ大陸の”発見”と勉強するし、あの土地の近代化をひたすら美化し、第一次大戦も、その後のすべての戦争も (ベトナム戦争、湾岸、今の戦争も)ひたすら、正義の戦いとして教わってきているからね。
彼らは。ベトナムは、やるべきでなかった、とはいうけれど、政府には、ちょっと批判的でも、自国の兵士への同情だけ(ベトナムへはなし、)。
反省の”は”の字もない。
ここまで、国際社会の中で(おそらく、対非ハクジン国、民族にかぎって)イギリス系の自分達が間違っているわけない、という、強い信仰があるのだろうな。
一般の日本人が、沖縄の人から、占領された後、こういうひどいことを日本政府から、組織的にされた、と言われたら、頭から否定するかな。
特に、強姦とか、殺人とか、そういうものは、抑圧につきものだし、あるかも、と思うのが、普通だと考えてしまう。
まあ、それはともかく、私はこの話をきいて、この国にいまでもひたすら起こりつづけている、先住民女児への、先住民男性からの強姦、性暴力事件の深層が、こういうところにあるのではないかと感じました。(下の方に投稿してあります。)
また、アボリジニー女性が強姦された事件で、容疑者がハクジン男性、アボリジニー男性にかかわらず、裁判員に女性が複数いても(ハクジンのみ裁判員)、裁判で有罪にならず、釈放されてくる事実を見て、アボリジニー女性らが、「私達が強姦されても、とにかく、ハクジン達は、彼らが女性であるか、男性であるかにかかわらず、同情はけっしてされない。どういうわけか、私達は、強姦されてもいい生き物と思われている」、と言った言葉の裏の意味が、今少し理解できる。
さらに、大学時代、クラスで見た(女性学の授業、フェミニスト系の女性教授の中には、アボリジニーのことを理解しようとする人はいる)まだ、上陸したばかりのイギリス軍がアボリジニ−を虐殺する物語のビデオですが、クライマックスは、偶然に森に入っていた9歳くらいの少女は殺されるのをまぬがれ、じっと木の陰から、自分の親、兄弟、姉妹を含む、部族全員がイギリス軍の手によって銃殺されるのを目撃する というような話だったのですが、悲しすぎて、涙がとまらなかった。
明かりがついて、60人くらいの生徒の誰ひとり(私以外全員ハクジン女性(一応見た目ですが)、涙ひとつ、うるうるした様子ひとつないのには、映画の内容以上に驚いたことを覚えています。が今、その理由がわかります。
ついでに書きますが、こちらでは、もちろん、ハクジンが全員ひどいのではありません。何とかしようとするハクジンだっているのです。
最近こういう不満がハクジンから出され、報道されました。
今では、アボリジニーの赤ちゃんが母親から強制的に奪われることはなくなりましたが、アボリジニー家庭はすさみ、アルコール中毒やら暴力やらで、親としてきちんと子育てできない家庭が多く、中には、ハクジン夫婦が 好意で親が落ち着くまで預かる制度があります。(これは、ある程度管理されていて、強姦などはできないようですが)
そのハクジンの親で、それは 自分の子供のように一生懸命面倒見る人もいるわけです。
その中で、学校にきちんと行かせ、宿題をさせ、ドラッグをすわないように ある意味愛情こめてしつけている親がいました。政府はその親に対し、こういう”質のいい”子育てをするのは、契約違反だから、すぐ止めないと、告訴する、というのです。
腹を立てた親が、テレビ局に話して公になったわけです。
政府いわく、先住民のこどもはいずれ、ドラッグを吸い、しつけもろくにできない親元に返るのだから、かけ離れたことをするのは だめ。ということです。
ハクジン親は、親がたとえ吸っても、あなたは自分の身体のため、やめなさい。と教えて何が悪い、また、勉強に興味を持ち、学校に行く習慣ができれば、その子の将来の利益になる、と主張しました。
また、別の アボリジニーの子供をあずかった親からも こんな政府への不満がテレビ局にとどきました。
このこどもが自分のこどものように可愛く、将来は頑張って欲しいから、その子と別れる時、将来大学に行きたくなったら私に連絡しなさい。援助してあげる、と言ったそうです。
それを知った政府にそんなことはするなと言われた、と。不公平だと。
あづかった親は、言う。政府は他の子に対し不公平だというが、本当の理由は違う。
彼らは、アボリジニーに、その地位を向上してほしくないのだ。
http://www.asyura2.com/0601/social3/msg/428.html
●谷底に突き落とす殺し方で…
オーストラリアが近代の歴史に顔を出すきっかけとなったのは、1776年の米国の独立戦争だった。
それまで米国というか、アメリカ大陸にあった英国植民地は、開拓民の送り込みの地としてだけでなく、本国でさんざん悪さをした犯罪者の流刑地でもあった。
それが英本国の財政逼迫につき、アメリカの植民地に印紙税をかけたのが発端となってついには独立戦争にまで発展した。
そして米国は独立する。英国は植民地を失ったのも痛手だが、それ以上に困ったのが流刑地を失ったことだった。
それでオーストラリアが急浮上し、1776年以降、新しい遠流の地とされた。
しかし行ってみると気候はいい、冬の寒さも本国英国よりはるかにしのぎやすい。先住民アボリジニはいるものの、いたって穏やかだし、最大の害獣が野生化した大ディンゴくらいで、毒蛇とか致死性の風土病とか、生活を舜かすものは何もなかった。
こんないいところを、犯罪人専用とするのはもったいない。英政府は1801年、ここを安全で有望な移住地に切り替えた。
移住してきた人々は、それまでの流刑者とは違うという意味で「1801年以降の市民」と名乗った。
しかし、彼ら移住者の程度は流刑者よりもお粗末たったことを歴史は伝えている。
彼らは奥地に向かって開拓を始めるが、それば先住民の虐殺と同義語だった。
彼らはあらゆる殺し方をした。
アボリジニの集落の飲み水に毒薬を入れたり、米大陸のインディアン殺戮と同じに襲撃しては撃ち殺したりした。
しかし、最もポピュラーな殺し方は、丘陵地に住む彼らをI人ずつ谷底に突き落としていくというものだった。
羊と同じ、抵抗することを知らないアボリジニは黙って突き落とされていった、という。
●強姦されて混血児を生む母親
20世紀に入っても、オーストラリア人は虐殺をやめなかった。
アボリジニ狩りの日を決めてはハンティングを愉しんだ。
ニュー・サウスウェールズ州の図書館にはその狩りの記録が残されている。
1928年のある目の記録には狩りの成果として「アボリジニ17匹」とある。
歯止めない殺戮は、例えば約50万人のアボリジニが住んでいたタスマニア島ではわずか四半世紀で彼らを根絶やしにした。最後の何百人かは岩だらけの孤島に移し、全員を飢え死にさせている。
300万人というのが、1801年当時のアボリジニの控えめな人口だが、20世紀の半ばでそれは30万人に減り、今も決して増えてはいない。
それは表向き社会保障制度の充実という形を取る。アボリジニは農地も奪われ、かといって街では就職口もない。それで政府は失業手当(Dole)を与え、施設に収容する。
というと聞こえはいいが、収容施設は米国のインディアン居留地と同じ、鳥も通わぬ辺鄙な場所に作られ、そこに押し込まれればもう外の世界には戻れない。ナチスが民族浄化に使ったゲットーと大差はない。
先住民の女性はもっと過酷な生き方が強いられる。彼女たちは実にしばしば白人の慰みものにされ、混血児を生まされる。
しかし子供の父親ははっきりしない。つまり強姦されているのだ。
そうすると政府が出てきて、混血児は母親から引き離され、白人の里親のもとに送られて教育と生きる権利を与えられる。
有色人種は虐殺か淘汰だが、一滴でも白人の血が入れば彼らは生かされる。
かつてメキシコを征服したスペインは原住民の男は殺したが、女を強姦して子供を生ませた。
メキシコはその混血のメスチゾが国民の過半を占める。それと同じことを今、やっている。
そのオーストラリアで、シドニー五輪が聞かれた。大会のテーマは友愛と和解だった。
豪州の暗い過去、つまりアボリジニヘの非人道的な対応はやめた、今は白人と先住民は和解し、友愛が生まれたという主張だ。
それを象徴するように混血の女性アスリートが聖火ランナーを務め、開会式の祭典では多数のアボリジニの男女が会場いっぱいに踊りまわってみせた。
しかし、それは彼らのいう「Bull shit(たわごと)」でしかなかった。
和解の象徴のように扱われた女性アスリートは自分の生母がだれかも知らない。白人の血が混じったというだけで、彼女もまた生母から無理やり引き離されたひとりだった。
開会式で踊った先住民も、実は白人が体を黒く塗ったニセ者だった。本物の彼らは出演を拒否し、華やかな会場の外で「私たちを減ばさないで」と座り込み抗議をしていた。
APもロイターもそれは流さず、彼らの声はかき消された。
http://ayarin.iza.ne.jp/blog/entry/562736/
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7. インディオの品種改良
ブラジルの人種混交
大航海時代における、アメリカ大陸の異文化との接触においてブラジルは特異な状況にあった。インカ帝国のように高度な文明を保持した国はその文化への反発から壊滅され、何もない状態から文化を植え付ける作業を行われたが、ブラジルの先住民インディオは十分な文明を持っていないと認識されたことによって、文化の壊滅的な破壊を免れることになった。
ジョゼー・デ・アレンカールが記したセアラーの伝承「イラセマ」に記されたように、ブラジル人は混血によって生まれたのだといわれている。
ブラジル人が混血によって誕生した原因は、ポルトガルが植民の際に女性を連れてこなかったことに起因する。
また、純真なインディオがかつてのヨーロッパ人のように、旅人への好意として女性が体をささげるという習慣があったためでもあり、また性行為に対する感覚も白人とは違っていた。
インディオのもつ純真さに対して、ポルトガル植民は邪心に満ちていた。
何より、初期のポルトガル植民に犯罪者や追放者、冒険家などのごろつきが多かったのである。
当初は一時の肉体関係のみであったが、広大な大地を征服するためにポルトガル王朝が混血を推進したこともあり、インディオの一夫多妻の習慣はポルトガル植民にすぐに受け入れられインディオの女性は性的な搾取の対象となった。
この悪習はイエズス会が介入するまで続けられていた。そのために多くの混血が生まれ、ジルベルト・フレイレがブラジル的家族の母としてインディオを挙げる要因となったのだ。
それぞれ言葉が違うインディオを統率するためにポルトガル人は人工の言語を作り、教育を施すために教会はインディオの子どもを森から連れてきて学校に押し込んだ。子どものレベルから教育を施し、それが大人へと伝わっていくことを目論んでいたのである。
しかし、インディオの経済基盤を確保せずに混血を勧め、文化を押しつけたために混血児やインディオが生活出来なくなるという弊害が現れることになったのだ。そして、ヨーロッパからの疫病や、虐殺などによってインディオ自体の数が減ってしまったのである。
そのため、インディオに代わって黒人奴隷が投入されるようになったのだ。
黒人奴隷もやはりインディオの奴隷と同じ道をたどり、男性は労働力として、女性は性的搾取の対象として扱われた。
黒人女性は家事を行ったり、白人の子どもに乳を与えて育てたり、言葉を教えたりする一方で、農園の主の妾として働いた。そのため、黒人は白人の異常な性愛と家庭生活に強く影響したのだ。
大農園の家父長制や奴隷制は、支配階級にある白人達に倒錯した性生活を与えた。
若い頃から性的な関係を持ち、親が子に金を渡してでも女を抱かせ、次々と奴隷に手を出していったことで性病が広まり、一方で性病を治すには若い処女とセックスすることが一番の治療であるという迷信まで広まった。
奴隷制の主従関係はまた、白人にサディズムを植え付けるという効果をもたらした。
白人の子どもに与えられた奴隷の遊び相手は、殴られるだけのサンドバッグのようであり、そこからはぐくまれたサディズムは、時に黒人に対しての不条理な行為となった。
http://www.cruzados.info/caminhos/brasil/brasil_00.html
メキシコ南部、チアパス州の山間にあるマヤ族の村チョモラスは妙な言い方だが、人工の村である。
密林の奥深く、焼き畑農業を営んできたマヤの人々に住む家を提供し、手に職を与え、子供たちは学校に通わせて、というメキシコ政府の定住化政策で生まれたモデル村、という経歴をもつ。
その村の中央にはキリスト教会がそびえる。あの栄光のマヤ文明を生んだ彼らのための新しい村というよりはスペイン辺りの村を模したようにも見える。
教会の中は、しかし少しもスペイン風ではなかった。祭壇には十字架ではなく聖母子像が置かれているのはともかく、礼拝の広間は中央通路(Aisle)を挟んで左右に連なる礼拝席がない。まるで体育館のようにただのタイル張りの床が広がるだけなのだ。
その日はたまたま日曜日で、マヤの人々のミサを見ることができた。彼らは申し合わせたように大きな袋をかつぎ、ヤギかあるいは鶏を抱えていた。
袋の中身は松葉だ。広間のどこかに場所を決めると、その松葉を床に敷く。一家族で畳二枚分ぐらいのスペースだろうか。そして周囲を縁取るようにロウソクを立てて火を灯す。薄暗い聖堂の底がロウソクの火で満たされると、そこここから低音の“読経”がわきだしてくる。
声の主はチャマンと呼ばれるマヤ人の福音読みで、彼らは十ペソほどの祈祷料をもらって各家族のもとでマヤ語で福音を語る。
家族は松葉のじゅうたんに座り、チャマンの言葉を聞きながらポッシュという強い地酒を飲み回す。小さな子供もその輪に加わっていた。
長い読経が終わると家族は連れてきたヤギや鶏の喉をナイフで切る。
マリアさまに捧げる生け贄というわけだ。
この礼拝の景色はマヤ信仰と多くの類似性をもつ。
有名な生け贄の儀式では生け贄にされる者も、その家族も司祭もすべてがポッシュを飲み、今は麻薬に指定されているメキシカンマッシュルームも併せ噛んだ、という。
神の声はそういう陶酔の中で聞く。
マヤの伝統を見る思いだった。
この村は排他性が強い。
よそ者にはうるさく、写真撮影でもしようものなら警棒をもった自警団に袋だたきにされる、と同行した民族学研究家N氏が忠告する。
一見、白人にも見える彼はスペインの血が混じるメスティソで、マヤの風俗や言葉に精通している。
彼は「村人の気持ちは複雑だ」という。
ここにスペイン人がきたのは十六世紀。
ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」にあるようにスペイン人はここでもマヤの人々を冷酷に殺しまくった。
ラス・カサスは三百万の島民が六十年足らずで殺され尽くしたエスパニョラ島やキューバについて、
「黄金のありかを白状させるためにローストチキンのように火で何日もあぶった」。
「スペイン人の上官がそのうめき声がうるさいからと部下に命じてインディオに猿轡をさせた」、
「腹をすかせた猟犬のためにインディオの赤ん坊をちぎって食べさせた」
などと描写する。
しかし、この地に至ったころにはスペイン人は皆殺しを少し緩和した。
略奪と殺戮であとはペンペン草も生えないという方針から、いわゆる植民地化へと移行し始めた。
先住民の教化と引き換えに荘園の使役に使うエンコミエンダ(委託)である。
それこそペンペン草も生えなくなったエスパニョラ島などでは死滅した先住民に代わって黒人奴隷を入れて砂糖などの生産が行われている。
無差別には殺されなくなったものの、先住民、インディオの地獄は続いた。
男は重労働を強いられるだけでなく社会的断種、自分たちの子孫を残すことは認められず、女はスペイン人の強姦の対象とされた。
この強姦は植民地支配の政策として実行されていたことがトーマス・クック章を受賞した英国人紀行家ノーマン・ルイスの東ティモール紀行の中に書かれている。
「(ティモール軍の)古参兵は色は黒いけれど、目鼻立ちは西欧人のそれを思わせるのはポルトガル人の兵団がここに子孫を残したことを示す。
新たな植民地を防衛するのに必要な兵力を自分の息子でまかなうべく現地の娘と進んで結婚せよ、との命令に兵士たちは喜んで従った結果である」。
先住民の女に子供を産ませる強姦を国家が積極的に奨励していたのだ。
そうして産まれてきたハーフカスト(混血児)はその血筋を栄誉として本国(白人)に忠誠を誓い、植民地防衛の先兵として敵と戦うことが期待された。
その敵には当然、植民地支配を拒絶する人々、つまり彼らの血の半分を共有する先住民もいた。
混血児にこういう苛酷な義務を負わせる政策を征服者側はInterfaith Marriageとか通婚政策と今でも美しく表現する。
ポルトガルの好敵手だったスペインもこれにならった。
延べにして十万単位ほどのスペイン人が二百年間にわたって行った強姦政策の結果が今、メキシコ人口の六割約五千万人に及ぶメスティソになる。
それがいかに徹底して行われたかを示している。
このときマヤの民は抵抗し山に逃れた。
シナカンテコス、ラカンドニス、そして九〇年代、NAFTA調印に抵抗してチアパスで蜂起したトホラワレスはその末裔になる。
彼らの祖先は山に逃れて彼らの文化と純血を守ってきた。
今、彼らは定住化政策で山を下りてきて、そこで見た現実に戸惑った。
N氏が「複雑な気持ち」と指摘したのはその戸惑いを言う。
メキシコ社会は一割の白人を頂点に、その下に八割のメスティソが位置する。
メスティソも白人度の高い者、つまり白人の血が濃いほどいい学校に入れ、いい会社に就職でき、社会的に高い地位も入手できる。
逆に白人との混血度が低ければ社会的地位も下がる。
しかしマヤの民には白人の血は一滴も入っていない。
定住村から先の現代社会に入ろうにも現実は拒絶の壁が立ち塞がる。
それが命懸けで純血を守った代償だった。
なぜ自分たちの祖先を蔑み、なぜ野蛮な征服者の血に憧れるのか、と彼らはN氏に語るという。
その一方で、ポッシュに酔った勢いで若い娘たちがなぜ祖先は山に逃げ通婚政策を拒否したのか、その残酷さを受け入れていてくれれば私たちは村を降りられたのにと愚痴るのも聞かされた。
重い言葉で、返す言葉もなかったという。
「私たちメスティソ、それも白人に近い方のメスティソにもこの村の人々には絶対聞かせられない悩みがある」。
N氏は結婚して八年になる。
子供が産まれるたびにその恐怖がわいてくるという。
「産まれてくる子が何色なのか、それが白いと分かるまで眠ることができない」。
二つの血のどっちが強くでるか。
それは心の中で自分の本来の祖先の血を呪っていることにもなる。
頭ではそうした差別はいけないと考えてもわが子となると話は別になる。
「メキシコ・シティのハードロック・カフェに入ろうとしたメスティソの兄弟の兄が入店を断られた。
遺伝子のいたずらで白人ぽくなかったからだ。
でも私たちはそれを批判したり笑ったりする気にはならない」。
メキシコの純血の民は今、一千万人いる。
中米グアテマラも南米ペルーもコロンビアも状況は同じだ。
アルゼンチンは一八七〇年代、「国家の近代化」という名の下に組織的にインディオを虐殺した。
それでもパタゴニアなどに祖先の血を全うする人々がひっそりと生き延びている。
http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/41/no41takayama.html
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8. 黒人奴隷の品種改良
アメリカでの黒人奴隷制度は1705年のヴァージニア奴隷法により確立されました。
「海路または陸路によって、本植民地に輸入されたサーヴァントであり、その出身地での非キリスト教徒はすべて奴隷とされる。彼らは以後キリスト教徒に改宗しても売買の対象とする」
また、その子供は「奴隷の子どもの身分が自由か不自由かは、その母親の身分に従うもの」とされました。 つまり、
黒人奴隷間に産まれた子供は奴隷(親を所有しているプランターの所有物)、
更に白人男が黒人女に産ませた子供も奴隷としました
勿論白人と黒人の結婚は禁止されていました。
奴隷貿易が禁止されていく中で、奴隷の再生産は奴隷の出産によって行われるようになりました。
白人プランターは家畜を種付け・交配するような感覚で黒人奴隷に子を産ませていたこと、
特に「混血は肌の色が薄いゆえに純粋な黒人より高く売れる」という価値観から、プランターが黒人女性奴隷をレイプし(これは「奴隷は人ではない」がゆえに犯罪とすらされなかった)て産ませるという事態が頻繁に見られたことは忘れられてはならないでしょう。
http://oshiete.eibi.co.jp/qa997815.html
アメリカにおける黒人差別には、聖書やコロニアリズムに由来する黒人差別とは異なるアメリカ特有の歴史的背景がある。
アメリカで白人が黒人を差別する理由は、 黒人の8割が白人との混血だから。
正確にいうと、ほぼ100%に白人の血が入っている。
黒人奴隷の時代に、奴隷を増やして売るための種付け専門の白人男がいた。
つまり女奴隷を何人も買い込み、セックスする仕事。
白人農場主は、子供から仕込んだほうが素直であるとよろこんだ。
そして白人との混血女だと値が上がった。これは夜の奉仕の為。
農場主は黒人メイドに種を仕込んで子を産ませ、それで生産量、財力をふやした。
アメリカ大統領ジェファーソンも、その趣味に打ち込んでいたといわれる。
人の少ない開拓地では人口=財力。
これを嫌ったのは妻の白人女性で、それで東部は奴隷解放を支持した。
アメリカ東部はアイルランドやドイツ人を満載した移民船がぞくぞく着いて白人労働者が余り、もはや黒人奴隷になど頼る必要はなかった。
ただ田舎では深刻な人不足、女不足に悩んでおり、黒人奴隷も家族のように大切という違いがあった。
つまりアメリカ黒人は生まれが卑しく、先祖をたどればすべて種付け男と奴隷のアイノコだと白人延いてはアフリカの黒人からもしばしば罵倒されるのだ。
公民権ムーヴメント以来様々な理論武装を試みてきたアメリカの黒人達も、これについてばかりは全く反論できない。
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アメリカという国は、過去に何百万という黒人をアフリカから強制連行してきて、奴隷としてこき使った国です。
若い女の奴隷は、所有者である白人農場主の性的な慰みものになり、文字通り、性奴隷として扱われました。
黒人の女奴隷が生んだ白人農園主の子供はやはり奴隷にされたといいます。
白人の農場主は黒人の女奴隷とセックスすることで、性的な楽しみを得ると同時に、彼女たちとセックスして子供を産ませることで奴隷という自分の財産を増やすという二重の利益を得ていたのです。
アメリカの第二代と第三代の大統領であったトーマス・ジェファーソンは、アメリカ史上に残る立派な大統領という評価を得ているそうですが、彼は多数の奴隷を所有する裕福な農場主で、黒人の女奴隷に何人もの子供を産ませたことで知られています。
みずから奴隷を所有し、女奴隷に子供を産ませた人間が大統領になっている国は、世界広しといえど、アメリカぐらいなものでしょう。
http://jack4afric.exblog.jp/4997042/
1813年にノースカロライナで奴隷の家庭に生まれたハリエット・ジェイコブズの例を挙げてみよう。
彼女は12歳の時にジェームズ・ノーカムに売られ、彼はほどなく彼女に対して性的交渉を持ち始めた。その後ジェイコブズが彼女のメモワールで回顧しているように、ノーカムは彼女に「私は彼の持ち物だった;全てにおいて彼の意志に服従しなければならない」と告げたのだ。
そして、彼女はそうした。ジェイコブズは時には所有者の手をなんとか逃れる事が出来たとはいえ、彼は確かに彼女を所有していた。
彼女とセックスをする為に、ノーカムは時には彼女に新しい洋服や他のプレゼントを約束した。時には単純に彼女の喉元に剃刀を突き付けた。
そしてそれは、我がアメリカの同胞よ、我々がレイプと呼ぶ行為だ。
算数をしよう。1850年から1860年の間に、黒人奴隷の数は約20%増加した。
だが、歴史家のジョエル・ウィリアムソンが計算した通り、奴隷にされた「ムラート(混血奴隷)」の数は驚きの67%も増加したのだ。もっと率直に言えば、黒人奴隷の肌は色が薄くなっていった。
白人の所有者達が彼等をレイプしたからだった、という事だ。
本当に単純な事だ…そして、酷い事だ。
偉大なるアフリカ系アメリカ人奴隷廃止論者フレデリック・ダグラスが自伝で物語った通り、黒人女性奴隷は「彼女の所有者の父親、息子、もしくは兄弟のなすがまま」だったのである。
黒人女性は奴隷商人にも虐待され、彼等は次の白人に彼女達を売り飛ばす前によくレイプした…
そして、次の性的強制劇に入る。
疑いの余地もなく、所有者とセックスする為に選ばれたかもしれない奴隷はいただろう。だが、間違った選択肢が自分を売り飛ばしたり、酷い時には殺されたりすると知っている場合に、セックスを「選択する」とはどういう意味なのか?
所有者の中には生活スペースを共有したり、この関係から産まれた子供達を可愛がったりして、奴隷を伴侶のように扱った所有者達も中にはいるようだ。
だが、もっと頻繁には、彼等は何事もなかったように振る舞っただけだった。
自分達の鼻先で起こっている事態を無視した所有者の白人の妻や娘も同じだった。
そのようなわけで、我々もやっている。
何人のアメリカ人の子供が独立宣言の父であるトマス・ジェファーソンが彼の奴隷に子供を産ませた事を知っているだろうか?
そして、どれだけのアメリカ人の両親が子供達にこれを知って欲しいと思っているのだろうか?
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/7253a111def132e53dc3d00f01e92977
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9. 白人の起源
1) ヨーロッパ人の遺伝子
@ Y染色体(男系遺伝子)による分類
Y-DNAは、父から男子にしか伝わらない為、基本的に父と子のDNAは同じものが遺伝する。
同一グループの遺伝子であれば、男系は同一の祖先を持つ。
突然変異した遺伝子の一部が突然変異を起こすことが有るため、亜種が存在する。
• B, E:サハラ砂漠以南にアフリカの家系に見られ ます。
• E, G, H, I, J, R :ヨーロッパ、中東、西アジアの家系から見られます。
• C, D, N, O, Q, R:アジアの集団で見られます。
• P, Q, F:インディアンの家系に見られ ます。
http://www.rocus.co.jp/roots/dnaroots.htm
Y-DNA ハブログループの時系列変化
• K => 40,000 years ago (probably arose in northern Iran)
• T => 30,000 years ago (around the Red Sea)
• J => 30,000 years ago (in the Middle East)
• R => 28,000 years ago (in the Central Asia)
• E1b1b => 26,000 years ago (in southern Africa)
• I => 25,000 years ago (in the Balkans)
• R1a1 => 21,000 years ago (in southern Russia)
• R1b => 20,000 years ago (around the Caspian Sea or Central Asia)
• E-M78 => 18,000 years ago (in north-eastern Africa)
• G => 17,000 years ago (between India and the Caucasus)
• I2 => 17,000 years ago (in the Balkans)
• J2 => 15,000 years ago (in northern Mesopotamia)
• I2b => 13,000 years ago (in Central Europe)
• N1c1 => 12,000 years ago (in Siberia)
• I2a => 11,000 years ago (in the Balkans)
• R1b1b2 => 10,000 years ago (north or south of the Caucasus)
• J1 => 10,000 years ago (in the Arabian peninsula)
• E-V13 => 10,000 years ago (in the Balkans)
• I2b1 => 9,000 years ago (in Germany)
• I2a1 => 8,000 years ago (in Sardinia)
• I2a2 => 7,500 years ago (in the Dinaric Alps)
• E-M81 => 5,500 years ago (in the Maghreb)
• I1 => 5,000 years ago (in Scandinavia)
• R1b-L21 => 4,000 years ago (in Central or Eastern Europe)
• R1b-S28 => 3,500 years ago (around the Alps)
• R1b-S21 => 3,000 years ago (in Frisia or Central Europe)
• I2b1a => less than 3,000 years ago (in Britain)
http://www.eupedia.com/europe/origins_haplogroups_europe.shtml
ヨーロッパと近東に於ける新石器時代・青銅器時代の民族移動
http://www.eupedia.com/europe/neolithic_europe_map.shtml
Y染色体ハブログループの移動
http://www.kerchner.com/images/dna/ydna_migrationmap_%28FTDNA2006%29.jpg
Aミトコンドリア遺伝子による分類
ミトコンドリア遺伝子は母親のモノしか伝わらない為、母系を調べる事が可能。
ミトコンドリア遺伝子が同一であれば、先祖は必ず同じ母親にたどり着く。
• L1, L2, L3--サハラ砂漠以南のアフリカの家系
• H, I, J, K, T, U, V, W, X--ヨーロッパ、北アフリカ、西アジアの白人グループ。
• A, B, C, D, E, F, G, M--アジア人、オセアニア、およびインディアン
世界中のDNAに関する研究から編纂されたこのDNA移動パターンマップは、
最初の人類がおよそ13-18万年前にアフリカで生まれたことを示しています。
a)アフリカではmtDNAマクロ家系L
b)ユーラシアとオーストラリアではmtDNAマクロ家系MとN
c)西ユーラシアではmtDNA家系H, I, J, K, T, N, U, V, W, X
d)アジアとオセアニアではmtDNA家系A, B, C, D, E, F, G, M, P, Q, Z
e)アメリカ大陸ではmtDNA家系A, B, C, D, X
http://www.rocus.co.jp/roots/dnaroots.htm
ミトコンドリアDNAハブログループの時系列変化
• N => 75,000 years ago (arose in North-East Africa)
• R => 70,000 years ago (in South-West Asia)
• U => 60,000 years ago (in North-East Africa or South-West Asia)
• pre-JT => 55,000 years ago (in the Middle East)
• JT => 50,000 years ago (in the Middle East)
• U5 => 50,000 years ago (in Western Asia)
• U6 => 50,000 years ago (in North Africa)
• U8 => 50,000 years ago (in Western Asia)
• pre-HV => 50,000 years ago (in the Near East)
• J => 45,000 years ago (in the Near East or Caucasus)
• HV => 40,000 years ago (in the Near East)
• H => over 35,000 years ago (in the Near East or Southern Europe)
• X => over 30,000 years ago (in north-east Europe)
• U5a1 => 30,000 years ago (in Europe)
• I => 30,000 years ago (Caucasus or north-east Europe)
• J1a => 27,000 years ago (in the Near East)
• W => 25,000 years ago (in north-east Europe or north-west Asia)
• U4 => 25,000 years ago (in Central Asia)
• J1b => 23,000 years ago (in the Near East)
• T => 17,000 years ago (in Mesopotamia)
• K => 16,000 years ago (in the Near East)
• V => 15,000 years ago (arose in Iberia and moved to Scandinavia)
• H1b => 13,000 years ago (in Europe)
• K1 => 12,000 years ago (in the Near East)
• H3 => 10,000 years ago (in Western Europe)
http://www.eupedia.com/europe/origins_haplogroups_europe.shtml
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2) 前インドヨーロッパ人
前期旧石器時代(Lower Paleolithic、250万年前〜12万年前)
この時代の人類はホモ・ハビリスおよびホモ・エレクトスが主流であった。
中期旧石器時代(Middle Paleolithic、30万年前〜3万年前)
ネアンデルタール人が広がった。
極東アジアの中期石器文化はヨーロッパから来たネアンデルタール人に依ったものではなく、アジアの原人から進化した古代型新人によって形成された。
後期旧石器時代(Upper Paleolithic、3万年前〜1万年前)
クロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が主流となり、他の化石人類は急速に姿を消した。
クロマニョン人は後期旧石器時代にヨーロッパに分布した人類で、現代人と同じホモ=サピエンス(Homo sapiens)に属し、白色人種に入ると考えられる。 身長は男性で180cm前後。
クロマニョン人はそのままヨーロッパ人へと遺伝的に繋がっている。
クロマニョン洞窟での発見以来、同種の人類化石がヨーロッパ各地で発見された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A8%E3%83%B3%E4%BA%BA
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最初期の現生人類 — ホモ・サピエンス・サピエンス — がヨーロッパへ入ったのはおそらく50,000年ほど前、長い間氷期のとくに気候が穏やかな、ヨーロッパが比較的温暖で、食料が豊富だった時期の間である。
南フランスにあるラスコーの洞窟壁画のような、世界最古の芸術作品のいくつかはこの移住から程ない時期であると年代測定可能である。
ネアンデルタール人はすでに約15万年もそこにいたと考えられているが、おそらく寒冷期に現代人との争いに敗れ、約30,000前に絶滅したようである。
最後の氷期にヨーロッパははるかに寒冷で厳しい環境となり、北部の大部分は荒涼たる氷河に覆われた。氷河が後退し始めた、およそ20,000年前[14]、人類は再び北方へ移住した。
ヨーロッパにおける中石器時代は、更新世終期(約10,000年前)に始まり、農業の開始(世界の地域により時期が異なる)までで終わる。
近東地域(地中海沿岸のシリア、エジプト、小アジアなどの地域)では、更新世終期には農業は始まっていた為、中石器時代は短い、或いは無いと分類されており、一般にはヨーロッパの西・北部の文化が典型とされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
紀元前7千年紀中石器時代のヨーロッパで新石器時代の文化がアナトリアからヨーロッパに入り始めた。
もし新石器時代のヨーロッパへの移民が本当にインド・ヨーロッパ語族であったなら、非インド・ヨーロッパ語族を話す人々は明らかに中石器時代の生き残りの候補である。
ピレネー山脈のバスク人が最も強力な事例を提示している。
なぜならば彼らの言語は世界の他のどの言語とも関係なく、バスクの人々には類のない遺伝的特徴があるからである。
北東ヨーロッパの、ウラル語族を話す人々(たとえばフィン人)が中石器時代の人々の生き残りであることも示唆されている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91
ヨーロッパ ヨーロッパの多くの地域の定住は、西アジア起源の農牧に基礎をもつものです。
西アジア起源の農牧導入以前にあった採集・狩猟・漁労による移動生活と入れ替わって農耕を基礎にした定住生活が定着したのです。
ヨーロッパで最初に定住生活が始まるのは、7500〜8000年前のバルカン半島です。
ここが西アジアに近く、気候条件も似ているからでしょう。
農牧に伴う定住は、1000年ほどバルカン半島に留まります。
ここでヨーロッパの森林地帯に適応できるように体制を整えていたのでしょう。
6500年ほど前にダニューブ川からライン川沿いに大西洋岸まで一気に農牧を基にした定住が広がります。
ダニューブ文化と呼ばれています。
家畜はヤギ・ヒツジからウシに替わっています。
同じ頃、貝殻文土器文化が地中海沿いに広がりますが、農耕の要素は希薄で、定住は疑問です。
5000年前には北ヨーロッパを除く広い地域に西アジア起源の農牧を基にした定住が定着します。
北アフリカ、南・中央アジア この3地域はヨーロッパと同じように西アジア起源の農牧を基にして定住します。
それまでの生業を西アジア起源の農牧に置き換えて定住するようになります。
ナイル川流域では、オオムギの栽培とウシの飼養が独自に開始された可能性があります。
土器も独自に作られたと思います。
採集・狩猟・漁労に栽培と飼養を組み合わせた半定住的な生活があったと考えられています。
これが西アジア起源の農牧に置き換わります。
北アフリカの他の地域は採集・狩猟・漁労に西アジア起源の農牧を組み合わせた半定住的な暮らしが3000〜4000年前まで続きます。
この時期の乾燥化を契機にオアシス周辺で農耕による定住、乾燥地で牧畜という生活に変化します。
インダス川流域では独自の定住は明らかではありません。西アジア起源の農牧により定住したと考えられます。
他の地域の様相はよくわかりませんが、ガンジス川流域ではイネの独自の栽培化で定住したものと思われます。
中央アジアは西アジアの農牧の波及でオアシス周辺が定住化したものと考えられます。
乾燥地には牧畜だけの生活があります。4000年前にはここで遊牧が誕生したと思われます。
西アジア起源の定住の波及 西アジア起源の農牧は、ヨーロッパ、北アフリカ、南・中央アジアに定住をもたらします。
ナイル川、インダス川流域ではそれを基にして個性ある文明を出現させます。
http://www.mahoron.fks.ed.jp/kancyou/19kancyou4.htm
新石器時代のヨーロッパ
新石器時代のヨーロッパは、およそ紀元前7000年(初めて農耕社会がギリシアに現れたおよその時期)から紀元前1700年(北西ヨーロッパで青銅器時代が始まった)までの時代である。
• 南東ヨーロッパではおよそ4000年間(紀元前7000年–紀元前3000年)
• 北西ヨーロッパでは3000年以下(紀元前4500年–紀元前1700年)
新石器時代の人々は西南アジアからヨーロッパへと拡大していき、インド・ヨーロッパ語の話者の導入と同時に中石器時代の文化に取って代わった。
氷河期の終わりに西南アジアのレバント地域で初めて食料生産社会が出現し、紀元前8千年紀に地域的に独特な多数の文化へ発展した。
エーゲの食料生産社会の遺跡は放射性炭素でクノッソス、フランキティ洞窟(en:Franchthi Cave)、およびテッサリアの多数の大陸の遺跡は年代がおよそ紀元前6500年であると測定された。
そのすぐ後、新石器時代のグループがバルカンと南中央ヨーロッパに現れた。
南東ヨーロッパ(バルカン、イタリア、およびエーゲ)の新石器時代の文化は、西南アジアやアナトリア(たとえばチャタル・ヒュユク)のグループとある程度の連続性を示している。
現在の証拠は新石器時代の物質的文化が西アナトリアを経由してヨーロッパに伝わり、そして北アフリカや黒海の草原地帯の文化との類似点はヨーロッパ「から」の伝播によるものであることを示唆している。
放射性炭素年代測定による解析は、中石器時代と新石器時代の集団は1000年程度ヨーロッパの多くの部分、とくにイベリア半島と大西洋岸沿いで、並んで共存していたことを明確に示している[3]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91
ストーンヘンジ
やはり紀元前3000年頃、アフリカ大陸からジブラルタル海峡をわたって、西ヨーロッパにひろがった人々の存在が確かめられている。
彼らは、イベリア半島、フランスのブルターニュ、ブリテン諸島などに、有名な巨石文化(イギリスのストーン・へンジなど)や農業遺跡を残している。
このアフリカ起源の人々は、イベリア半島を第二次の起点としたので、イベロ族とか、イベリア人とかよばれている。
そして、イギリスの歴史学者、モートンは、彼らについてつぎのように書いている。
「コーンワル、アイアランドおよびウェールズとスコットランドの海岸にそって、紀元前3000年から2000年のあいだにブリテンに移住したイベリア人ないし巨石文化人の残した遺跡が群がっている。
……かれらは、短身、暗色の皮膚、長頭の人種で、……かれらの遺跡の大きさとみごとさとは、かれらが多数のよく組織された人びとであったことを物語っている。
なん千人もの人びとが、大きな土塁を盛りあげるのに共同で労働をおこなったにちがいない。
そして、輸送路が、整然たるやり方で定住地と定住地とを結んでいるのである。
したがって、イクニールド路は、ノーファクのブレクランドにある大規模な火打石採集場たるグライムズ・グレイブズという産業の中心地とエイヴベリの宗教的中心地とをつないでいるのである。
丘原地帯の段々は、鍬や鋤で集約的な農業がおこなわれたことを示している。……
イベリア人の社会構造のより直接的な証拠は長い塚である。しばしば長さ200フィート《約60メートル》をこえるこれらの塚は、埋葬地であって、明確な階級区分が存在したことを示している」
(『イングランド人民の歴史』、p.16〜17)
この民族は、最初は、新石器文化の段階にあったようだ。
この時代に、輸送路、火打石鉱山、宗教的中心地(ストーン・ヘンジのこと)、段々畑の集約農耕がみられ、しかも、その起源はアフリカに求められている。
おそらくは、サハラ農業文化地帯の出身者であろう。
西アフリカにも、同様な巨石文化があった。
現在のガンビアにある巨石の遺跡は、イギリスのストーン・へンジよりは小さいが、同じ型のものである。
そこには古墳もある。そして、同じような古代遺跡が、ニジェール河中流域にもみられる。
イベリア人のほかにも、やはりイベリア半島の南端から西ヨーロッパにひろがった人々がいる。
彼らは、全属精練用のルツボを各地に残した。
このルツボが、つり鐘(ベル)をさかさまにしたような形なので、ベル・ビーカー人とよばれている。
彼らも、おそらくアフリカ大陸の出身者であろう。
イベリア人やベル・ビーカー人のあとから、ケルト語を使用する民族がやってきた。
そして、現在の調査においても、「ケルト語族とくにウェルシュ人は小さくて皮膚も濃色であることが明らかになった」(『人種とは何か』、p.182)。
つまり、イングランド南部、ウェールズ地方の住民には、かつてアフリカ大陸からわたってきた先住民の特徴が、残されている。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/shoten-afmag-44.html
イベリア人
イベリア人(Ibero)は先史、古代からイベリア半島に住んでいた前インドヨーロッパ人(Pre-Indo-European)の人々を指す。
西ヨーロッパ巨石文明の人々、子孫(遺伝学的に証明されている)。
ケルト人に紀元前1000年紀に征服されたアイルランド、ブリテン、フランスの人々と同じで、アルカディア人、ピクト人、イタリアのエトルリア人などと同じ、前インドヨーロッパ人に属する。
紀元前3000年期(紀元前4000年近く)地中海東部、或は北アフリカから来たとされる。
よって最初にスペイン東部沿岸に定着し、イベリア半島地域に分布したと考えられる。
ケルト人は紀元前1000年紀に2度に渡ってスペインを訪れ、イベリア人が南部に住む一方、ケルト人は北部と西部に定住した。
その結果、中央部で文化がミックスされた、ケルト・イベリア文化ケルティベリアが生まれ、東部沿岸にも広まった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
バスク人
スペインの北東からフランス南西部のピレネー山脈周辺にかけて居住する。
バスク人は85%がRh-型の血液である。このことから、バスク人はヨーロッパで最も古い種族ではないかと推測されている。
現在最も有力な仮説とされているのは、イベリア半島における現生人類の第一居住民とされるイベリア人(イベリア語)集団がローマ化されないままに現在のバスク地方に残り、彼らの話していた言語が語彙的に周辺のオック語やカスティーリャ語などの影響を受けたのではないかという説である。
現在のバスクの領域には、後期旧石器時代から人間が住み続けてきた。アルタミラ洞窟(スペイン・カンタブリア州)やラスコー洞窟(フランス・ドルドーニュ県)同様、フランコ・カンタブリア美術に属する洞窟絵画の遺跡が、バスク地方から見つかっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%AF%E4%BA%BA
38 :出土地不明:04/06/12 06:14 ID:xlNkTUS9
ケルト進出前のストーンヘッジなどの文化はエジプトのハム系の文化です。
彼らはイベリア人と呼ばれる。
39 :出土地不明:04/06/12 06:23 ID:xlNkTUS9
インドヨーロッパ語族のギリシア人やラテン人が南欧に進出したのが紀元前2千年前頃からといわれているよね。
それより少し前にアルプスやフランス、スペイン、イギリスに進出したのがインドヨーロッパ語族ケルト人。
それ以前は南欧ではフェニキア人などのセム系が都市国家を構築していたと言われている。
問題はアルプス以北の地域だが少数のハム系や原始コーカソイドが住んでいるだけで人がほとんど住んでいなかったと思う。
42 :出土地不明:04/06/13 10:36 ID:kvy3Iwbn
アイスマンの例にみられるように、ヨーロッパには紀元前3、4千年前から北欧人が住んでいたのだとおもう。
しかし当時もっとも先進的だったハム人がヨーロッパへの進出を試みたが結局中途半端なものに終わり、ストーンヘッジなどの遺跡を残す程度に終わった。
南欧ではフェニキア人に代表されるセム系の人々が大活躍をしラテン人やギリシア人の進出以後も色黒セム人の遺伝は色濃く残った。
68 :カミル:2005/07/09(土) 16:52:25 ID:gJzUHUQv
ドナウ文化はハム系じゃなく印欧語族ですよ。
紀元前7500年ごろから定住を始めています。
これが印欧語の形成期です。
東方から農耕と牧畜の両方の技術を持つ集団が進入してきて、ドナウ河畔の豊かな土地で人口を増やしました。
ここから印欧語族は各地に部族ごとに順々に移動分化していったわけです。
現在の印欧語族集団の分化時期もそれぞれかなりはっきりわかっています。
印欧語族の形成期以前から西欧に現在クロマニヨン人と呼ばれる狩猟採集文化の人々がいました。
バスク人はクロマニヨン人とイコールではありません。
バスクはドナウ文化が形成される前に東方から進入した原始的農耕集団とクロマニヨン人との混血です。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1068222807/
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3) アーリア人
前2000年紀の人口移動
前5000年から前3000年の間、地球はこの1万年間でもっとも温暖だったといわれている。
現在と比べ、サハラでは1〜2℃、スカンジナビア半島は2〜5℃、チベットでは4〜6℃も気温が高かった。
海面は今より2mほど高く、関東平野の大部分は海の下にあった。
この時期、世界各地で人口が増加し、農耕・牧畜を中心とする生活が北へ拡大した。
その中で注目されるのが、ドナウ川下流や黒海北岸の地域である。
ここに住む人々は小アジア方面から伝わったムギやヒツジ・ヤギを取り入れると同時に、馬を飼育しはじめたのである。
さて、前2000年頃になると地球の気候は大きく変化した。
気温が下がりはじめ、北に広がっていた農耕地帯の多くが危機におちいった。
黒海北岸や中央アジアでも、気温の低下と降水量の減少によって生活が維持できなくなり、人々は馬を連れて四方に移動していった。
西へ向かったギリシア人やイタリア人、ケルト人などをはじめ、インドに侵入したアーリヤ人や、イラン高原に定着したイラン人(ペルシア人)などがそれにあたる。
ヨーロッパやイラン、北インドで話される言語はインド・ヨーロッパ語族と分類され、共通の祖語から枝分かれしたとされている。
印欧祖語の故郷は、確証はないものの、ドナウ下流や黒海北岸と思われる。
ここには最古の馬飼育の跡(前4000年頃)があり、最初に馬が家畜化された場所でもある。
ここで、印欧語のひとつヒッタイト語の問題がでてくる。
ヒッタイト人は前2000年頃コーカサスから小アジアに移住してきたとされることが多いが、根拠はない。
遺物の関連から、ドナウ方面の出身ともいわれる。
しかし、ヒッタイト語は前2000年よりはるか前に分岐したことが確実であり、その時期に小アジアからドナウへ農耕が伝わっていることから、次のように考えた方が自然ではないだろうか。
すなわち、印欧祖語はもともと小アジアで話されていた。
前4000年以前の温暖な時期、その話者の一部がムギやヒツジを持ってドナウやウクライナに移住し、馬と出会ってこれを家畜化した後、前2000年以後の寒冷化で各地に散らばっていった。
ヒッタイトは、小アジアに残った集団がつくった国である。
ヒッタイト人がもともと馬を知らなかったことから考えても整合的な気がする。
http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history07.html
元来ヒッタイトあるいはハットゥサというのはヒッタイト人が支配する前からいた原住民が称した名と考えられる。その言語はやはりヒッタイトの文書の中に用いられているが、ヒッタイト語とは全く別系統であり、区別するためにハッティ語(原ハッティ語)などと呼ばれる。
実は、(原)ハッティ語を使っていたハッティ族こそが、本来のアナトリア高原の現住民族でした。 旧約聖書に出てくるヘテ人、もしくは、アッカド語のハッティも本来はこの民族とその言語のことだったのです。
http://homepage1.nifty.com/teruminasu/gaiyou.html
インド・ヨーロッパ語族
2003年にニュージーランド・オークランド大学のラッセル・グレー博士らが、分子進化学の方法(DNA配列の類似度から生物種が枝分かれしてきた道筋を明らかにする系統分析)を応用して印欧語族の87言語を対象に2449の基本語を調べ、言語間の近縁関係を数値化しコンピュータ処理して言語の系統樹を作った。
その結果紀元前6700年ごろヒッタイト語と分かれた言語がインド・ヨーロッパ語族の起源であり、ここから紀元前5000年までにギリシャ語派やアルメニア語派が分かれ、紀元前3000年までにゲルマン語派やイタリック語派が出来たことが明らかになったという。
インド・ヨーロッパ語族の起源として考古学的には、紀元前4000年頃の南ロシアのクルガン文化と、紀元前7000年頃のアナトリア農耕文化の2つの説が有力視されていたが、以上の結果は時代的にはアナトリア説を支持するものである(Russell D. Gray and Quentin D. Atkinson, Nature 2003, 426(6965):435-9.)。
ただし従来ヒッタイト人は紀元前2000年頃に黒海方面から南下したというのが通説であり、彼らが一貫してアナトリアにいたという証拠はない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E8%AA%9E
クルガン仮説 (Kurgan hypothesis) は、ロシア南部に存在した「クルガン文化」がインド・ヨーロッパ祖語の話し手であったとする仮説である。
クルガン(кургáн, kurgan)は、ユーラシア大陸中緯度のステップ帯に分布する、青銅器時代の土による墳丘を伴う墓もしくは積石塚のマウンドを伴う墳墓である。
ギンブタスは、明確な墳丘「クルガン」を伴う墳墓を持った「文化」を仮に「クルガン文化」と呼び、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパへの伝播していったことをつきとめた。
ステップを越えてひろがるクルガン文化は、高度に発展した文化となり、紀元前2500年前後では、西方ではバルカン半島に住み着くことになる原ギリシャ人の球状アンフォーラを伴う文化となり、東方では、インド・イラン系の遊牧民文化を形成した。
馬の家畜化は、馬を使用した戦車を生み出すことになり、クルガン文化を大きく変貌させ、クルガン文化がヤームナヤ地方全域に波及するのを促進させた。
「原郷 (Urheimat) 」と考えられている場所は、地図上は、ヴォルガ川の近くであって、最初に乗馬という習慣が発生したと考えられる場所とされている。
そしてこれは、最初のインド・ヨーロッパ語族ないし先行インド・ヨーロッパ語族の核をなす民族の発生した紀元前5千年紀に対応するものと考えられている。
クルガン文化の担い手の遺伝的特徴
Y染色体ハプロタイプSNPマーカーR1a という特殊な遺伝的形質をもつ人々は、いくつかの点でクルガン文化と関連性がある。
この遺伝的形質は、中央アジアから西アジア、インド、イラン、東ヨーロッパのスラヴ人、ヨーロッパ中部や北部のゲルマン人に見られる特徴である。
全般的にR1aが最も顕著に出る民族集団はスラヴ人である。
一方、このR1aはヨーロッパの最西端にあたるバスク地方、イベリア半島西部、ブリテン島西部までは広がらなかったようである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E4%BB%AE%E8%AA%AC
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4) コーカソイドの歴史
36 :24=31 :02/09/07 12:32 ID:xdhlp+le (3 回発言)
まずは、現世人類のアウトオブアメリカを果たした約10万年前から約5万年前の時代で
す。
アフリカからアウトオブアフリカを果たした人類は、中近東から、中央アジア、そして東南アジア、そしてオーストラリアまで、亜熱帯の海岸づたいに一気に進みます。
そして、地理的隔離により、大まかに分けて、中東・中央アジアおよび東南アジアさらにオーストラリアにおいて人種分化が進行したと思われます。
そして、中近東・中央アジアにおいては、高緯度地方への進出による寒冷対応や高地対応による淘汰や遺伝的浮動により、原コーカソイドとも呼ぶべき人種形質が形成され、その影響は、アフリカ北部にも影響が及んだと考えられます。
一方、東南アジア(南方モンゴロイド)やオーストラリア(オーストロイド)においては、アフリカ進出時とあまり変わらない環境が維持されたため、外見の形質は比較的保たれたままであったようです。
で、前記のような状況の中、中東・中央アジアで分化した原コーカソイドは大型動物の狩猟技術および暖房技術を手に入れヨーロッパ、およびシベリア、チベットなどの広大なエリアに進出しそれとともに形質分化が少しずつ進行していったと思われます。
そして、約2万年前前後の氷河期(最寒冷期)による気候変動が人口の減少とともに人種分化は一気に促進され、原コーカソイドはいくつかのグループに分かれたと思われます。
大まかに地理的に分けると、
西ヨーロッパ人、
北欧ヨーロッパ人、
中近東人、
中央アジア人、
チベット高原人、
シベリア人、
北方中国人、 そして氷河期中にアメリカ大陸に進出した
原アメリカ人、
てな感じです。
※北方中国人については、前記の東南アジア(南方モンゴロイド)が北に進出し形質を変化させたものかもしれません。
そして、氷河期が開けた後、約1万年前に農業・牧畜が発明され耕地や牧草を求めた、人口増加を伴う人類移動により、ヨーロッパ・中近東エリアとアジアエリアにおいて人類のシャッフル(混血)が促進されます。
ヨーロッパエリアにおいては、西ヨーロッパ人、北欧ヨーロッパ人、中近東人、中央アジア人が、混じりあった(一部北アフリカ人)と思われます。
(それらの人々をひっくるめて現在は、コーカソイドと呼んでいることが多い)
一方、アジアエリアにおいては、氷河期開けと共に、シベリア人の南下、チベット高原人の拡散が起こり、(チベット高原人は後に大きな移動を伴う遊牧を確立しヨーロッパにも影響を与えた。)
また、農業の発明と共に、北方中国人が南下及び拡散したと思われます。しかしながら、北方中国人の南下はヨーロッパに比べ緩やかなもので、大きな影響を与えたのはベトナムあたりまでであった思われます。
また、しかしながら、北方中国人の一派は約5000年くらい前に太平洋の島々に進出、その過程で形質を大幅に替え、ポリネシア人の遺伝子的基層をなしていると考えられています。
(これらの人々と、前記の東南アジア人、原アメリカ人をひっくるめてかつてモンゴロイドと呼んでいた。そして近年では、チベット高原人、シベリア人、北方中国人を新モンゴロイドと呼んで区別している。)
40 :名無しさん@お腹いっぱい。 :02/09/08 08:36 ID:h2uwlZMu (2 回発言)
オレの考える人類拡散のストーリーもちょっと書いておくよ。
出アフリカ後の現世人類はまず東に移動した。
オーストラリア大陸に渡ったのは5万年ほど前で、ヨーロッパや北アジアに現世人類が出現するより早い時期である。
この時代、アラビアからペルシャ湾、インド、東南アジアにかけて似たような人々が分布していた。
一方、北へ移り住むのは東へ移るよりもずっと時間がかかった。これは防寒対策が必要だったため。
コーカソイドや新モンゴロイドは寒冷適応しているといわれるが、それより防寒具の開発が不可欠。靴ひとつなくても北へは行けない。
そして、寒冷地に適応した後は速やかに東西に拡散した。
この時点で、ユーラシア大陸の人種は大きく北方系と南方系に分かれていた。
北方系は氷河時代に居住地域が分かれた結果、西の連中がコーカソイドの先祖、東の連中がモンゴロイドの先祖となった。
また、北方系は拡散が終わると、今度は南方へ逆流し始めた。
歴史を見ればその動きが一貫していることが分かる。
東アジアを見ると、まず北方系民族(モンゴル、トルコ、ツングース)の華北への流入があり
漢民族の華南への流入(ここにはビルマ系やタイ系、ベトナム系の諸民族がもともと住んでいた)
ビルマ、タイ、ベトナム、オーストロネシア系(もと台湾居住)は東南アジアに移り住んだ。
それぞれの地域で混血が行われた。東南アジア人は北方系と南方系の混血。
インドにおいても、印欧語系の民族はイラン方面からやってきたが、ドラビダ語を話す人たちもやはりイラン方面からやってきたと言われている。
原住民である南方系と混血した結果が今のインド人。
日本人の先祖も、北か、もしくは西からやって来た。
一部の人類学者が主張するような、縄文人はスンダ大陸(今の東南アジア)から来たという説は誤り。
逆の動き(南→北)がなかったのは、やはり寒冷地への適応の難しさからだろう。
166 :40 :2006/01/15(日) 18:14:09 ID:FgxDCVlB (2 回発言)
さて、出アフリカ後の現人類はまず東に拡散したということを>40に書いた。
その後のDNA調査ではそれを裏付けるような結果が出てきた。
http://medical.tanabe.co.jp/public/science/2005_5_13/sci_jap.shtml#research
Science誌 '05.5.13号
Single, Rapid Coastal Settlement of Asia Revealed by Analysis of Complete Mitochondrial Genomes
全ミトコンドリアゲノム解析から、人類のアジアへの移住は一度に急激に海岸地域におこなわれたことが判明した
内容は、現世人類の出アフリカはインド洋沿岸沿いの移住だったというもの。
インドやマレーシアの少数民族、あるいはアンダマン島民のDNA調査により判明した。
「まず東に拡散した」理由は防寒具の発明が不可欠だったから。
ユーラシア大陸には裸で住めるような地域は、 アラビア半島やインドの南端やマレー半島などごく一部。 ほとんどの地域では靴一つ無くても冬が越せない。
最近の大雪のニュースを聞いてもわかると思うが、 気候の異なる地域、特に北国で暮らすためにはいろいろな知識・技術の積み重ねが不可欠で人類の拡散が東西南北で同じ方向に行われたはずがない。
だから、現世人類はまず東に拡散し、オーストラリア大陸に到達するのも早かった。
北に拡がるのはずっと時間がかかったはずだが、 いったん北国で生活が出来るだけの生活の知識や技術が確立されたら次は適応できた緯度で東西に速やかに拡がった。
これがコーカソイドとモンゴロイドの祖先だろう。
「寒冷適応」という観点で見ると、ネアンデルタール人や東アジアのホモ・エレクトス(いわゆるジャワ原人や北京原人)は「裸のサル」だったのか、あるいは有毛だったのか、というのは興味深い。
上記のように、もし無毛だったら防寒具を開発していたはずだが、一口に防寒具といっても簡単じゃない。 例えば、針と糸がいるが、どちらも技術の積み重ねが無いと出来ない。
それには現世人類に近い高度な言語能力が不可欠だ。
ちょっと整理すると
ネアンデルタール人やホモ・エレクトスが
高度な言語能力がない → 防寒具が作れない → 有毛だった
一方
高度な言語能力があった → 防寒具が作れた → 現世人類同様、無毛だった可能性がある。
個人的には、ネアンデルタール人の使っていた道具が、クロマニョン人に比べてかなり原始的だったらしいことから彼らは有毛だったんじゃないかと考えている。
それから、ネアンデルタール人もホモ・エレクトスも、3万年前頃まではまだ生息していて 現世人類とは共存していたらしいことがわかってきたんだが、 ということは、昔の人はネアンデルタール人やホモ・エレクトスを見かけていたはずだし伝説として残っていても不思議じゃないな。
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/geo/1031221220/
93 + 2:名無しさん@お腹いっぱい。[] /05/12 11:12 ID:f4Ye4oL/(1)
漢代から唐代における古代中国の資料には中央〜北方アジアにその時代コーカソイド的特徴をもった遊牧系民族のことが記されている(匈奴、古代キルギス、突厥、烏孫など)。
最近の(特にロシアの手による)モンゴルから中央アジアの多数のクルガン(古代遊牧民族の墓)で発見された匈奴・突厥などの人骨のDNA調査などから、これらの民族が北欧型コーカソイドに属していた可能性が考古学・人種学の分野で補強されている。
さて、匈奴や突厥などはテュルク系に属していたと考えるのが一般的であるがそれはあくまで古代文献調査をベースとする言語学のみに拠った結果であり、人種についてはほとんど考慮されていなかった。
しかし先述した考古学・人種学分野でのこれらの民族の調査から、フン襲来以前からすでにヴォルガ地域に散在していたフィン系(マジャールやモルドヴィン人、ジリアン人 チェレミス人などー総称してヴォルガフィン系という)にあてはめられる「ウラル人種」ときわめて酷似していることもわかってきているのである。
マジャール人に ごく稀に出る蒙古斑はむしろアヴァールや他のプロト・テュルク人(フン族)との混血の結果であり、原マジャールは「朱髪、高身、長頭型)の中央アジア型北欧人種に帰属すべきと考えられている。
つまり古代中央・北方アジアにおける北欧型コーカソイドの普遍性という史実と、「ウラル人種」とそれとの人種的類似という点よりマジャールは元来白色人種、それも北欧型、またはそれに近いコーカソイドではなかったか、とされている。
346:名無しさん@お腹いっぱい。[] 05/06/10(金) 00:16:29 ID:iTgvt+Xx(1)
中国の西域を 支配してきたコーカソイドは殆どイラン系だからね。
目の青い人や高い鼻の率は西方に近づくにつれて高くなる。
ウィグルよりもウズベクの方がずっと白人より。イラン系のタジクはコーカソイドそのものに近い。
ウィグルはほぼモンゴロイド。単にウィグルが人種の交わる最東端 なだけ。
証拠にウィグルに近づくにつれてモンゴロイドの特徴が 断然強くなるからね。
351:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 05/06/11(土) 11:35:50 ID:qH4/f2qw(1)
ウクライナから中央アジアにかけては 昔はイラン系が主力だった
それが現在スラブ化、あるいはトルコ化してる
ウクライナは2000年ぐらい前はイラン系、スラブ系、ゲルマン系、フィン・ウゴル系など いろんな言語グループが住んでいたようだ
そう考えるウクライナから中央アジアには もともといろんなグループがいてイラン系が一番強力だったということかも
http://read2ch.com/r/geo/1036574273/
94 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/06/26(金) 21:09:57 ID:B9Kqx+Zw (4 回発言)
最近のミトコンドリアDNAの研究によると
コーカソイドには中東から地中海、南欧州に分散したものと、カシミール、中央アジアから東欧、北欧に分散した二つの系統があることが明らかになっている。
96 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/06/26(金) 21:39:23 ID:B9Kqx+Zw (4 回発言)
コーカソイドの形成はイランのザグロス山脈。
初期のネグローオーストラロイドからコーカサス的な形式を持った集団が分化したのだろう。
隔離された寒冷な気候と推測する。
現在この初期型に近いのがアルメノイドから地中海人。
アルメノイドがカシミールで分化して中央アジアを通って北欧人が形成された。
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/geo/1172577304/
74 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/16 11:44:33 ID:jyIeMGT7
ラップ人とかフィン人は北方ゲルマン・北方スラブ・北方バルト(すべて北方人種=ノルディック)との混血。
民族的にはとくに北方ゲルマンとの混血。スカンジナビア人は純潔民族ではない。
http://www.unkar.org/read/academy6.2ch.net/geo/1093685431
320:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 05/05/21(土) 17:02:39 ID:W+akTwxs(3)
北欧ではフィンランド人が古い人種でしょう。
スウェーデン人に次第に北に押しやられて凄い差別を受けてました。
そのスウェーデン人は南方から来たわけで・・・
スウェーデンやノルウェーには内陸に差別を受ける少数民族がいます。
かれらが本当の北欧原住民で、非キリスト教徒として迫害され、ほとんど滅んだ。
http://read2ch.com/r/geo/1036574273/
307 + 1:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 05/05/19(木) 04:14:49 ID:DXBpxITD(8)
ノルディック至上主義者などは、サクソン人というのは本来スカンジナビア人と同類でその民族集団が徐々に南下して北ドイツなどに定住したと考えたいようです。
これはそれほどおかしな意見ではなくて、特定のイデオロギーに 染まって無くてもそのように考える方が普通かもしれません。
でもそうではなくて、住民の移動は殆どなくて北ドイツ周辺の住民がゲルマン語化の波にさらわれたとしたら、味気ないですね。
北ドイツとスカンジナビアは人種的にやや異なる。
この原因をどー捉えるか。それは人種の混交というより、地域的、気候的な人種の差であるのか。
人種の混交であるならば、それは特定の民族集団(ゲルマン人)がやってきてゲルマン人の移動と人種の変容は比例的に行われていたのか。
それとも、北方系の人種とその他の人種との混交は、民族の移動とは関係なく進められていたのか?
が気になります。
308 + 1:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 05/05/19(木) 11:44:23 ID:3kw3wqIZ(9)
>>307
それは全部当てはまると思いますよ
ゲルマン語を話す集団が北方の先住民と同化してバルト海沿岸に定住して
これは大体5千年ぐらい前だと思いますがその後も緩慢に周辺諸民族と混合しただろうし
ゲルマンの母集団はノルディツクではなかったと思います
後、住む地域によって形質が変わっていくのも非常に緩慢だけど進んでいきます
大体3000年ぐらい前から先住民と同化したゲルマン人はこれまた緩慢に南下していき今の南ドイツから黒海沿岸まで広がっていきます
ゲルマン人大移動のの頃のゲルマン人はノルディツクからアルプス人種、東欧人種まで含む人種的には多様な混合体だっと思います
ただ混血があったことは確実ですがどの程度か判別するのはそれは地域や時代によって異なるでしょうし
欧米の研究論文でも読みあさってもわかるかどうか
323 + 1:名無しさん@お腹いっぱい。[] 05/05/22(日) 01:46:31 ID:QxrA3Zgm(4)
>>308
アングロ・サクソン人に関してはユトレヒト半島くらいまで遡れるらしい。
これは推測なのか歴史的証拠があるからかはしらないが、彼らは一応スカンジナビア半島辺りから南下したと考えられている。
ブルグンド族やヴァンダル族(アフリカまで行ってる)も原住地はスカンジナビア半島とされてるけど、これはちゃんとした証拠があって言ってるのだろうか?
ゴート族にいたって東ヨーロッパから中央アジア一帯まで広がってるけど、ここまで広がっていると、どこから来たのか分かりにくい。
ただスウェーデン人の研究によると彼らの原住地はスウェーデンの島と特定されているのだが。
バルト海沿岸、スカンジナビア半島が 原住地でいいのでは?
324:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 05/05/22(日) 02:05:48 ID:QxrA3Zgm(4)
ゴート、ブルグンド、ヴァンダル辺りの原住地は結局推測となってしまうのかな。
考古学的に生存が決定付けられる地域から様々な条件を考え合わすと、バルト海やスカンジナビア周辺と考えた方がずっと自然ということではなかろうか。
まあ北欧の学者がそれなりに信頼性があるのではないかと思う。
ところで印欧語族のプロトタイプ人種はどのようなものか?
という記事をネットで読んだのですが 学者の間ではイスラム化する前のイラン系が最も近かったのではないかという意見が主流になっているそうです。
現在で言うと、南スラブ人やコーカサス人などがそれに当るとか。
今のイラン人ともやや違うと思われます。もちろん金髪碧眼は 多くなかったでしょうけど。
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10.「ホロコースト」,「民族浄化」は遺伝子操作による人類の品種改良運動だった
中東の生活環境は日本と異なり牧畜的、遊牧的である。
牧畜を営む民族にとって重要なことは不純な血が混じることである。
アラブ民族ばかりかユダヤ民族においても血の純潔は集団世界を維持する唯一の方法である。
彼らがその人生において最も神経を使うことは結婚であり、男女の交わりだ。
ユダヤ教、イスラーム教ともに男女の中を規制する律法の厳しさは群を抜いている。
不義密通をしたものは石打の刑が科せられ死罪を免れない。
最も重い犯罪として裁かれる。
このような感覚は遊牧、牧畜の生活にとって最も重要な方法であり、それが生存の道であった。
悪い血を持つ家畜は間引きされ、その子孫が生まれ、集団が破壊されるのを防いだ。
それは遊牧、牧畜民の知恵であった。
中東で生まれたキリストは「汝の敵を愛せよ」と説いたが、それはユダヤ世界には理解できないものであった。
ヨーロッパに渡ったキリスト教がそこで根付くことができたのは、中東ほどではないにしろヨーロッパ世界もまた牧畜的世界であったからであろう。
http://www.fusoujyuku.jp/lectures/islam/vol07.html
1 ) 古代ギリシア・ローマ時代から存在し続けた「優生学」
「優生学とは、遺伝的原理を適用することによって人間集団の質を改善する研究である」
最初に目にしたときには、この定義はよい科学的定義がつねにそうでなくてはならないように、無害で、特別の価値判断を交えてはいないように思える。
だがよく見ると、そこにはひづめの割れた悪魔の足先がのぞいている「人間集団の質」という言葉にである。
どのように人間の“質”を定義すればよいのか? 誰がそれを定義するのか?
それは、遺伝病の場合には簡単なことのように思える。
色盲や血友病、ハンテントン舞踏病といった病気を根絶し、その拡大を防ごうとすること自体に誤りや批判はないだろう。
このような優生学、すなわち身体的・精神的障害の除去の研究は「消極的優生学」と呼ばれる。
これに対して「積極的優生学」は、人間集団の中でより望ましい性質の出現頻度を高めようとするものである。
これは、特定のタイプの人間を生み出すことを目的にする一種の“生殖プログラム”ということができる。
「消極的優生学」は、人類社会においては決して目新しいものではない。
ローマ人は、著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊をローマ広場の近くにある切り立ったタルペイア岩から投げ落とした(罪人もここで同じようにして処刑された)。
スパルタ人にも同様の慣習があった。
多くの原始的な社会でも同じ理由から子殺しが行なわれていた。
ギリシア人やローマ人だけでなく、中世ヨーロッパのキリスト教社会ではどこにおいても、社会的に望まれない子どもが大規模に遺棄された。
通常、このような子どもたちは、両親に彼らを食べさせていくだけの余裕がない、あるいは私生児であるがゆえに社会に彼らの居場所がないなどを理由に捨てられた。
その多くは、誰かに拾ってもらえるのではないかと願う親たちによって公共の場に置き去りにされた。
だがそれとわかる異常のある子を拾おうとする人はおらず、彼らはたいてい置き去りにされたままになった。
今日でも、ロシアやインド、中国、その他多くの国々では先天的障害をもつ子どもの遺棄が続けられている。
これらの国では、親たちに障害をもつ子どもを世話するだけの経済的余裕がない。
他方、「積極的優生学」にもまた長い歴史がある。
古代ギリシアの哲学者プラトンは、理想の社会として哲学者の王たちが支配する独裁的エリート社会を構想した。
プラトンは、理想社会の支配者たるガーディアン(守護者)は、ひそかに、“望ましい男女”が交合するように手配すべきであると示唆した。
ガーディアンたちは、戦争で並はずれて勇敢に振る舞う男がセックスにおいても余分の機会が得られ、それによって彼らが可能なかぎり多くの子を残せるようにすべきである──。
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2)「優生学」を強く支持した20世紀初頭のアメリカ
優生学の支持者であることを自ら公然と任じていたのが、20世紀初頭のアメリカ大統領でノーベル平和賞を受賞してもいるセオドア・ルーズベルトである。
彼は、アングロサクソン人の系統の男女が十分な数の子どもを残すことができなければ、それは“人種的自殺”につながると警告した。
セオドア・ルーズベルトが優生学的な理想を支持したのは、今世紀前半を通じて優生学が人々に及ぼしていた影響力の反映であった。
1905〜10年の間、優生学はアメリカで発行されていた一般雑誌で2番目によく取り上げられたテーマであった。その支持者には、保守派もリベラル派も、そして革新派も自由主義者もいた。
アメリカは連邦レベルでは「断種法」を成立させたことはないものの、約30の州が、精神疾患や精神遅滞の人々を対象にする強制的な断種法を制定した。
1907〜60年までの間に少なくとも6万人がそれらの法律の適用を受けて不妊にさせられた。
この政策の全盛期にあたる1930年代に断種された人の数は平均して毎年約5000人に達した。
ダニエル・ケブルズの非常によく読まれた本『優生学の名のもとに』では、バージニア州のある目撃者が1930年代にどうやってこの法律が施行されたかを記述している。
彼は、州の不妊政策当局が山岳地帯に住む“不適合の”家族全員を摘発したときのことを次のように思い起こしている。
「そのころ生活保護を受けていた者は全員が“そうされる”のではないかとおびえていた。
彼らは山々の間に隠れ住んでいたため、保安官とその部下たちは彼らを追って山を登らねばならなかった。」
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3) 優生学者のスポンサーとなっていたのは 「ロックフェラー財団」だった
ヨーロッパ各国で成立した「断種法」とナチスの「安楽死計画」
いくつかの国もアメリカの例にならった。カナダのアルバータ州は、1928〜60年まで同様の積極的計画を採用し、その法律に従って数千人が不妊化されることになった。
ヨーロッパで最初に「断種法」を成立させたのは1929年のデンマークであり、ついで1933年にドイツが法案を成立させ、1934年にはノルウェー、1935年にスウェーデンとフィンランド、1936年にエストニア、さらに1937年にはアイスランドが続いた。
子ども好きだったヒトラーはアーリア人種の純血保存に力を注いだ。
1920年代のドイツでは優生学的制度はまだ強い反発を招くものだった。
実際、1925年に、遺伝的理由で盲目だったり耳が聞こえない人、てんかん患者、精神薄弱者に対する強制的断種を規定した法案が提出されたが、ドイツ国会ではまったく賛意を得られなかった。
それが劇的に変化したのは1933年にナチ党が政権を握ってからである。
WASP勢力の中心に君臨しているロックフェラー一族
ドイツの優生学者に資金援助をし、ヒトラーの人種純化政策を支援していた
ドイツの優生学者のスポンサーとなっていたのは、アメリカのロックフェラーやハリマンなどの一族である。
彼らは1834年に死去したトーマス・マルサスの理論の信奉者であった。
ダーウィンの血を受け継ぐマルサスは、非白人種や“劣等な”白人種を、家畜のようにえり分けることを提唱していた。
マルサスは、経済学者仲間のジョン・スチュアート・ミルとともに、「金髪碧眼のアーリア人種は、この世界へと贈られた神からの賜物である」と言っている。
優等な白人種が無知な有色人種を支配するべきである、と彼ら二人は言うのである。
結局、ナチスも英米のエスタブリッシュメントも、言うことに違いはない。
彼らは同じ穴のムジナなのだ。
◆アメリカとドイツの緊密な関係を支えていたのは、ドイツの優生学研究を確立させようと企てたアメリカの財団の熱烈な資金援助だった。
もっとも重要な後ろ盾は、ニューヨークの「ロックフェラー財団」だった。
1920年代初期に、「ロックフェラー財団」はドイツの人種衛生学者アグネス・ブルームの遺伝とアルコール中毒の研究に資金援助を行なっている。
1926年12月に財団の職員がヨーロッパへ赴き、その後「ロックフェラー財団」はヘルマン・ポール、アルフレート・グロートヤーン、ハンス・ナハツハイムといったドイツの優生学者に資金援助を開始した。「カイザー・ヴィルヘルム精神医学研究所」、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」など、ドイツの重要な優生学研究所の設立と資金援助に関して、「ロックフェラー財団」は中心的な役割を演じている。
〈中略〉
1928年、研究所を新築するために「ロックフェラー財団」は32万5000ドルを寄贈した。
「ロックフェラー財団」がミュンヘンの「精神医学研究所」に資金提供をしたために、アメリカの他のスポンサーもあとに続くことになる。
実際、ベルリンにあった「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」の建物の一部もロックフェラー財団の援助金で建設されたものだった。
〈中略〉
世界が大恐慌に陥ってから数年間、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」は深刻な財政問題を抱え、閉鎖の危機に追い込まれたが、「ロックフェラー財団」は赤字が出ないよう資金援助を続けた。
所長のオトマール・フォン・フェアシュアー男爵は重要な局面に何度か「ロックフェラー財団」の代表者と会見している。
1932年3月、「ロックフェラー財団」のパリ支部に宛てた手紙のなかで、彼はさらに6つの研究計画に対する資金援助を依頼した。2カ月後、「ロックフェラー財団」は肯定的な返事をする。
「ナチス」がドイツ科学を支配してからもなお、「ロックフェラー財団」はドイツの優生学者に資金援助を続けた。
我こそが真の神なるぞ!
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1934年、アメリカの優生学者ハリー・ハミルトン・ローリンのモデル法案にもとづいてドイツの「人種衛生法」が起草された。
この法案が「強制断種」への道を開いた。
地域の医師や精神疾患施設の責任者は、断種法の適用候補者をリストアップして当局に提出した。
これにもとづいて、「遺伝衛生判定所」が対象者を断種するかどうかを決定することになった。
もし断種が承認されれば、たとえ本人の意志に反していても不妊化させられた──必要なら国家警察の手をも借りて。
この法律の施行後、最初の2年間でナチの「遺伝衛生判定所」は8万人近くの断種の適用候補者を審査した。
彼らは申請のうちのかなり多くを承認し、その結果ドイツではたった2年間で、アメリカで60年間に行なわれたより遥かに多くの人々が断種されることになった。
この初期の時代(1934〜38年)には、ナチの不妊化政策は、第一義的には遺伝子プールを改良しようと試みていたわけではなかった。
それは“無駄めし食い”、すなわち生産には何ら貢献せず、資源を消費するだけの人々を社会から排除することを目的としていた。
だがドイツの優生的政策は次第にエスカレートしてより忌まわしいものになっていき、ついには精神遅滞者、精神病患者、その他の“望ましくない人々”を大量殺害するまでに至った。
1939年、当局はドイツの病院に入院していた精神疾患および身体障害をもつ特定の分類の人々に対して「安楽死計画」を開始した。
約7万人もの患者が安楽死の対象として選ばれた。
初期のグループは単純に銃殺され、後には犠牲者たちは一部屋に集められてガス死させられた。
この安楽死計画は基本的に、後に何百万人ものユダヤ人を殺戮したガス室の原型であったといえる。
にもかかわらず、1930年代を通して、ドイツの優生学施策はしばしば他の国々の模範例となっていた。
スウェーデンが「不妊法」を取り入れたのは1935年だったが、その前にスウェーデン国会が、不妊化に関する委員会を編成すると、委員たちは優生学の調査のため、ドイツを視察した。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb700.html
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4) 人類の未来の為に日夜闘い続ける欧米のエリート達
ヘルマン・ミューラーの言葉を借りれば、優生学にはより遠い目標がある。
それは「社会が意識的に目指すべき人間の生物的進化の方向性」だというのである。
だがそれは強制によって達成されてはならない。「改良優生学」と呼ばれるこの見方のある代弁者はこう述べた。
「優生学の進展は、解放された男性と女性による自発的冒険であるべきであり、それ以外の何ものでもない。
これを成し遂げるための基本的な方法──それは、才能あるすぐれた男性の精子を用いた人工授精であろう。
このような生殖プログラムは、第1に人間の大多数を占める平均的な人々と劣った人々を現在の優秀な人々のレベルに引き上げ、第2に現在もっとも優秀な人々を超人へと進化させることになろう。」
X線を照射された生物の遺伝子に突然変異が生じることを発見してノーベル賞を受賞したヘルマン・ミューラーは別の観点をもち込んだ。
「おそらく人口の20%近くが遺伝的欠陥を受け継いでいる。
もしこの推定が正しければ、人類の遺伝的劣化を阻止するために、その20%の人々は子孫を残すことを許されるべきではない。」
このミューラーは率直な発言で知られる社会主義者であり、1930年代の数年間、ソ連(当時)で研究をしていた。
彼の生涯にわたる関心事は人間社会の改善と遺伝学にあり、彼は自分がその目標に対して重要な責務を果たしたと信じていた。
彼の同僚であるジョシュア・レーダーバーグは細菌遺伝学の研究でノーベル賞を勝ち得た人物だが、レーダーバーグもまた同様の考えを示した。
「人間の出産状況は暗い。
もし我々が遺伝的な改良という創造的可能性を無視するなら、我々は罪深くも、知識の宝庫を無駄にすることになるのではなかろうか?」
彼はこう問いかけ、次のように結んだ。
「最近の分子生物学の進展は、人類がこの目的に到達するためのすぐれた優生学的手段を提供してくれる。」
これらの男たちはいずれも(現在生きている者もすでに死んだ者も)傑出した科学者であり、その分野をきわめた専門家であり、高い名声を勝ち得ている。
フランシス・クリックをはじめとするこれらの生物学者たちは「優生学」について肯定的に論じている。
トランジスターを発明してノーベル賞を受賞したウィリアム・ショックリー
黒人の知能の劣等性を主張する運動を展開した
アメリカでは遺伝主義者側が議論を一歩進め、そこに「知能」の問題をもち込んだ。
それは、知能には人種にもとづく違いが存在するのかということだった。
この論争は1969年、カリフォルニア大学バークレー校の教育学教授アーサー・ジェンセンによって引き金が引かれた。
彼は黒人の知能指数(IQ)が白人のそれよりも低いことを示す研究結果を発表した。
それによれば、黒人の知能テストの成績の平均値は白人のそれより15点も低かった。
そこでジェンセンは、知能の遺伝性は高いと考えられることから、知能テストの成績における人種間の違いについて「遺伝的因子が部分的役割を果たしているかもしれない」と結論した。
1970年代はじめ、スタンフォード大学の物理学者ウィリアム・ショックリーは、アーサー・ジェンセンの研究にもとづき、黒人の知能の劣等性を主張する運動を展開した。
ショックリーはトランジスターを発明してノーベル賞を受賞したが、彼はまた「社会工学」という基本的に優生学的な政策を提案したことでも知られている。
この論争はその後20年以上もたった1995年に再燃した。
リチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが『ベル曲線』を発表したのである。
彼らはこの本の中で、貧困で大家族の家庭では知能の低い者が平均を上回って多いと論じた。
一方、知能指数が最高レベルの人々(彼らはまた今日の技術社会では最上の階級に属していることが多い)は子どもの数がもっとも少ないとも指摘した。
ハーンスタインとマレイはさらに、別々の環境で育てられた一卵性双生児について行なった知能の遺伝的研究を引用した。
これらの研究は、人間の知能の40〜80%は遺伝的要素によるものだと結論している。
これらの研究や世界各地で行なわれた知能に関する研究をもとにして彼らは、知能指数の高い男女がより多くの子どもをもつよう奨励する一方、知能指数の低い男女の子どもの数がより少なくなるような何らかの政治的措置を講じないかぎり、アメリカ人の平均知能指数は10年ごとに約1%ずつ低下していくだろうと警告したのである。
ハーンスタインとマレイは貧困層の女性の出産に対するさまざまな補助を打ち切るべきだ──いいかえれば、福祉やその他の社会保障制度は廃止すべきだと主張したのである。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc550.html
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11. 人類の未来の為にはサル人間の遺伝子を抹殺しなければならない
1) サル人間は無意識でも識別できる
サブリミナル実験から、白人の潜在意識では「黒人≒類人猿」であることが判明(米研究)
「Not Yet Human: Implicit Knowledge, Historical Dehumanization and Contemporary Consequences(人間未満:暗黙知、非人間化の歴史、そして現代への影響)」と題された研究レポートは、スタンフォード大学、ペンシルバニア州立大学、カリフォルニア大学バークレー校の心理学者らによる6年にわたる共同研究の集大成である。
それによると、多くのヨーロッパ系アメリカ人(白人)は意識下でアフリカ系アメリカ人(黒人)を類人猿と結びつけて見ていることが判明した。
サブリミナル実験に参加した被験者のほとんどは、白人の男子学生だ。
実験は、彼等に黒人男性あるいは白人男性の顔をスクリーン上でほんの一瞬見せた後、ぼやけた類人猿のスケッチを見せて、それが何か識別させるというもの。
黒人男性の顔のフラッシュを先行して見せられた場合、白人男性のそれを見せられた場合に比べ、被験者はずっと早くそのスケッチが類人猿のものであることを識別したという。
次セクションで少し詳しく説明するが、米国ではかつて黒人を類人猿になぞらえ、黒人差別を正当化していたのだが、被験者たちはこの黒人ー類人猿アソシエーションを知らない。
にもかかわらず、被験者たちの潜在意識の中にはこのアソシエーションが存在していることが、同実験から判明したわけである。
「黒人はいまだに人間として認められていないのです。
この国では、我々は今でも類人猿と同列に見られているのです。」
同研究では米ローカル紙の一つ『Philadelphia Inquirer』が1979年ー1999年の20年間に掲載した数百のニュースを調べているが、極刑の有罪判決を受けた黒人は、同じく極刑判決を受けた白人に比べて「野蛮な」「けだもの」「凶暴な」「残酷な」「気の荒い」等、類人猿と関連性のある言葉で表現される頻度が4倍もあったという。
また、「これらのニュースで、暗に類人猿であるかのように描写された者たちは、そうでない者たちに比べ、州政府により処刑されやすい傾向にあることも判明している。
「黒人≒類人猿」と本人が考えているというのではなく、無意識にそう捉えているというのは、差別される側にとって、かなり厳しい現実である。
意識下ということは、本人もコントロールしにくい領域であるからだ。
http://omoroid.blog103.fc2.com/blog-entry-177.html
恐怖の人体実験
アラバマ州タスキギーで行われたことからタスキギー研究と呼ばれる人体実験は1932年秋から1972年まで行われた。
米公衆衛生局の医師たちは被験者である貧しい黒人小作農夫600人に梅毒を注射した。
医師たちは、399人を「実験」、201人を「コントロール」に分け、「実験」の399人には治療を行わず、梅毒の進行過程を観察した。
タスキギー梅毒人体実験とも呼ばれるこの行為が40年間にわたって行われたのだ。
無料で治療を受けられるとの宣伝で集められた600人の被験者は、まず胸部レントゲン写真と心電図などを取られ、完全な健康診断をされた。血液検査が繰り返された後で、全員が「血液に悪性の病気があり、治療のため長期にわたって注射をしなければならない」と申し渡された。「治療」の名の下に梅毒が注射されたのである。
こうして始まった研究は、日常的には地元の郡保健省と公衆衛生看護婦が維持した。
地元の人間で、被験者の生活を知っていた看護婦たちは、医者と被験者とのコミュニケーション役でもあった。医者と被験者たちの言葉が通じないこともあったのだ。
注射は25年間打ち続けられた。人体実験の観察は40年間続いた。人体実験の期間中、注射を打ちに来た被験者たちには食事、鎮痛剤のような付随的な薬物か偽薬が無料であてがわれた他、最終的に50ドルが渡された
1950年代にはペニシリンが簡単に利用できるようになったし、実際に使用されたが、「実験」に分類された399人、タスキギー400と呼ばれる人々にペニシリンは使われなかった。
人体実験のため梅毒で死んだのは100人。これははっきりと確定できる数だ。
彼らは梅毒の症状で苦しみぬいて死んでいった。
1936年には治療を受けた「コントロール」の39%が発病し、「実験」の84%が発病していた。1942年には治療を受けていた被験者の13.9%が死亡し、「実験」の24.6%が死亡していた。1952年には「コントロール」の20%、「実験」の40%が死亡していた。生きていた被験者たちの多くが病苦の中にあった。
毎年、血液検査をされていた人々が、こうした状態にあり、放置されていただけではなく、治療を阻止されていたのである。
人体実験の目的は、梅毒の進行過程の観察であった。医師たちは治療をしなければどうなるか知りたかったのだ。
1969年に公衆衛生局の調査団は、タスキギー研究からは医学的な知識は得られないと報告した。タスキギー研究は、医学的には無価値であると公衆衛生局の調査団が認定したのだ。しかし、報告書にはそれでも被験者の治療はされるべきでないとあった。
1996年には、タスキギー梅毒人体実験の生存者は11人だけとなっていた。
アメリカ政府と大統領は謝罪を拒否し続けて来た。実験そのものにくわえて、政府の姿勢が黒人や少数民族の不信を深めた。
タスキギー研究は黒人の大量虐殺だったという噂が絶えない。
今でも黒人たちの多くが内科治療を避ける傾向があるのも、この人体実験のせいだという。
http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/medical_experiments.html
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2) 人類の未来の為にサル人間とゴキブリは絶滅させなければならない
西洋人の日本人観
チャーチル 「日本人は中国娘と猿との野合の末に生まれた類人猿のようなもの」
ルーズベルト「日本人は獣である」
「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。
一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。 当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。
「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」
「普通の日本人は知性が低く、無知である。
たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」
当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。
「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。
人間と猿の中間にあると言っていい。
文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。
日本人を根絶しなければならない!」
ウィリアム・ハルゼー海軍元帥
日本軍との戦闘に際し
「敵を殺せ!敵をもっと殺せ!猿肉をもっと作れ!」
など度々過激な発言を繰り返したことで知られている。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#ex15
ハイドパーク協定
1944(昭和19)年9月18日
フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相が
米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆投下と将来の核管理について
申し合わせた秘密協定
1972(昭和47)年に初めて公開された
ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸でルーズベルトと会談した英国の
ロナルド・キャンベル大使がルーズベルトから「劣等アジア人種」の品種改良と
いうとんでもない提案を受けたと本国に宛てた書簡に書き残している。
「インド系、あるいはユーラシア系とアジア系を、さらにはヨーロッパ人とアジア
人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。
ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」
ハル・ノート:日本が対米開戦を決断した無理な米国側の要求。
米国に潜伏するソ連スパイが日米を衝突させるために作成した。
http://mikomo.hp.infoseek.co.jp/a-f2.htm#03
トルーマンのカバートへの返事
1945年8月11日
日本人の理解する唯一の言語は、彼らを爆撃することのように思われます。
獣と相対したときは、獣として扱う他はありません。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/RE_sammuel_1945_8_11.htm
トルーマン回想録
"Japanese are beast. So are treated as"(「日本人は獣だ。だから、そのように扱った」)
アメリカからみると対独戦より対日戦の方が、はるかに「人種戦争」という面が濃厚であった。
ダワー教授によれば、アメリカ側の、日本人に対するステレオタイプの典型は「猿」であり、野蛮人、劣等人間、人間以下、害虫、と続いた。それは、個性もなく次々とわいてくるものであったという。
ところがアメリカのヨーロッパでの敵は、ドイツ人自体ではなくヒトラー一派であり、ジャーナリズムも、日本軍の残虐行為については盛んに報道したという。
ダワー教授は、このような相手を人間以下とみなす発想は、日本人に対して初めてではなく、歴史上繰り返してきた非白人に対する蔑視、具体的にはインディアンと黒人に投げつけてきた表現が噴出したものにすぎないとしている。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#ex15
原爆の対日使用は「人体実験」だった。
被爆者治療せず 50年代の米公文書
原爆投下後に広島、長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)をめぐり、米政府が「原爆は特別な兵器ではない」との主張が揺らぐのを避ける意図で、被爆者の治療をさせなかったことが50年代の米公文書で明らかになった。
ABCCは被爆者を検査してデータを収集したが治療はせず、被爆者の間に批判があった。 http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/atomic_bomb.html
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカ
の覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への
『人体実験』である。
だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状について
の報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。
第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・
長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者の
ケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。
第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。
第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」
広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。
「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉
ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。
これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。
そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。
治療は全く受けませんでした。
そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実です。
私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。
あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html
英語教育の先生が、今日本でやられている英語教育について書いていたが、南北アメリカ大陸で7000万〜8000万人いたインディアンの皆殺しをやり、残った者は同化政策で、子どもを親から切り離して寄宿舎に入れて英語教育をやり、言葉も歴史も全部奪っていったのにそっくりだと指摘している。
民族の歴史も文化も言葉も奪っていく絶滅作戦だ。
第二次大戦から「イエローモンキー」といって人間扱いではないが、それはインディアンのときから続いている。
民主主義というのは白人の為のもので、黄色人種や褐色人種を従わせるのが民主主義だ、それを受け入れるのが未開の者の務めで、従わない者は殺してもいいという考えだ。
「これは神の明白な運命」というのが、清教徒がアメリカ大陸に渡り、東部から西部に行くうえでの基本理念だ。
それでアメリカ全土のインディアンを皆殺しにし、生き残った者は囲い込む。その後太平洋まで来てハワイ、フィリピン、日本、中国と全部アメリカの基準で支配するのが使命だというのが一貫している。だからフィリピンでも相当殺された。
この理念でフィリピン人も日本人も遊び感覚で殺しまくる。インディアンのときには「頭皮狩り」といって、戦利品として耳を切りとり、頭蓋骨を集めた者が最も偉大な民主主義者だとやってきた。
第二次大戦でも日本に対して「インディアンと同じようにやれ」とハルゼーなどがかなりやっている。
アメリカの若い兵隊はフロンティア精神とかカウボーイみたいな感覚で、日本の子どもらが逃げまどっているのに、グラマンで笑いながら撃ち殺す。
人道主義というが、ハルゼーも「捕虜はとらなくていい。とにかく殺せ」とやっている。
「死んだインディアンがいいインディアンだ」というのをもじって、
「6カ月前に死んだジャップがいいジャップだ」
といった。
これは単にハルゼー個人の考えではなく、当時アメリカのマスコミや新聞、雑誌などで強烈にやっていたことだ。
戦争体験者がテニアンに行ったときホテルに飾り物として日本人の頭蓋骨が金粉を塗られて飾ってあった。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/genzainitudukunihonminzokuzetumetusakusen.html
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3) 人類のアセンションを目指して
ロスチャイルドは、スマートにおしゃれに、ナイスに振舞いながら、人生をゲームとして謳歌し、微笑みながら、人間大量虐殺の報告のみを、部下より聞く。
とってもナイスな人物に世間では映る。
唯、感覚が違うのだ。
ロスチャイルドの瞳には、自分達以外の人間が、チェスの駒としか映らないのだ。
かつてベルギー領であったアフリカのコンゴでは、ベルギー国王レオポルト2世の経営する無数の大規模ゴム農園で、黒人が凄まじい奴隷労働を強制された事実があります。
この奴隷農園を経営していた実働部隊が、ロスチャイルド一族とその盟友・銀行ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジックです(拙稿「核兵器の密売人フランス」参照)。
本書p28には、ロスチャイルドによって手首を切り落とされた黒人の少年の写真が掲載されております。
黒人には1日に採集するゴムの量が1人1人割り当てられていました。
1日でもその割り当てノルマが達成できないと、ロスチャイルドはその黒人奴隷の手首をオノで切断し、制裁を加えたのでした。
相手が少年であっても容赦などされなかったのです。
本書に掲載されている写真が残されている事は、「写真という技術が登場し、しかもアフリカの奥地にまで持ち込める携帯用のカメラが開発・販売されるようになったつい近年まで、ロスチャイルドによる黒人奴隷の手首切断が実行されていた」事実を指し示しています。
この有色人種を奴隷とし人間とも思わない一族が、今後、中国を支配し、原発と核兵器を大量生産する事になるでしょう。
原発の事故が起こり、核戦争が起こり、アジア人=有色人種が死のうとロスチャイルドが「何とも思わない」事、むしろ不要な人種が死んで喜ぶ事を、この写真は事実として示しているとおもいます。
今後、国連の中心となり、国連という国際機関を「動かす」中心国となるベルギーとロスチャイルドによる、この黒人・有色人種虐殺の犠牲者は、数百万人に上ります(p33)。
国連が平和維持活動と称しPKO部隊を送り込み、有色人種の国々で虐殺を繰り返している事実は、このベルギーとロスチャイルドによるコンゴでの大虐殺に「同一起源・源流」を持つと考えられます。
p79にも、切り落とされた黒人奴隷の手首を持つ黒人の写真が掲載されており、ロスチャイルドは、逆らった黒人、病気・ケガで働けなくなった黒人を射殺する事を農園の監督人に命じました。
しかしライフル銃の弾丸を節約するために、殺害に使用した弾丸の数と同一の数の黒人の手首を持ち帰る事を監督人に要求したのです。
殺害された黒人1名につき弾丸1個しか使用してはならない、という弾丸の節約命令が出されていた訳です。
黒人の命より、弾丸1個の方が「もったいない」という事でしょう。
一方、監督人は木の棒等で黒人を撲殺し、弾丸を未使用のまま残し、「黒人が逆らったので銃殺した」とウソの報告を行い、弾丸を銃器販売店に「横流しし」、その利益を「小遣い」として着服する事が常態化していたらしいのです。
つまり逆らってもいない黒人を撲殺し、弾丸を横流し販売する事で「小遣い」が得られたのです。
ロスチャイルドの監督人達は、ビール1杯を飲む小銭のために、逆らってもいない黒人を殴り殺し続けて来た事になります。
このベルギー国王(英国王室と同族のザクセン・コブルク・ゴータ一族)とロスチャイルドの行った大虐殺を知り、写真を撮り世界に知らせた勇敢なジャーナリストが三名おりました。
最初の告発者ワシントン・ウィリアムズは、わずか32歳の若さで何者かに毒殺されてしまいました。
盟友の毒殺にも屈せず政府とロスチャイルドの告発を行ったジャーナリスト、ロジャー・ケースメントは「国家反逆罪」で、ベルギー政府の手で逮捕され「絞首刑」となり処刑されてしまいました。
3人目のE・D・モレルも逮捕され、ケースメントと同一の刑務所に収監され、出獄後、病死しています。
こうした写真は、この勇敢なジャーナリスト達が自分の命と引き換えに撮影してきたものです。
p142には、南アフリカで絞首刑にされ、「さらし者」にされている3名の黒人奴隷の木に吊り下げられた死体の写真が掲載されています。
裁判抜きで、白人が「気に入らない黒人を自由にリンチ処刑している」。
同時に、リンチにされた黒人の姿を「満足気に葉巻を吸いながら眺めている白人達の姿」も撮影されています。
有色人種をリンチ殺害する事は、大好物の葉巻を吸いながらそれを眺める程、「最もリラックスできる楽しい時間」であった事を、この写真は物語っています。
これは、携帯用の小型カメラが世界中に販売されるようになった時代のリンチであり、「つい最近」の出来事である事を、写真撮影という事実が示しています。
そしてコンゴだけでなく、南アというロスチャイルドの支配下に入った国・地域では、どこでもリンチ殺人が行われていた事実を、こうした写真は示しているのです。
コンゴは、ゴムだけでなく核兵器原料のウランの最大手の生産国であり、ロスチャイルドの核兵器原料企業ソルベイ社が、コンゴでのウラン採掘と世界への販売を担当してきた。
このソルベイ社とベルギー国王が「国連所在地のブリュッセル」で3年に1度開催する「ソルベイ会議」は、世界中の核兵器メーカーと核物理学者が集まり、今後の核兵器販売計画を密談する、ソルベイ社から招待された者だけが参加可能な、マスコミにも情報を出さない「隠密会議」となっているようです。
かつて、第5回ソルベイ会議に出席したアインシュタインが、ソルベイ社に説得され、米国のルーズベルト大統領に書簡を送り、原爆開発の推進を「提言」した事実は有名である。著名であったアインシュタインの書簡であれば米国大統領も「核兵器開発を認め、説得されるであろう」と計算したソルベイ会議は、アインシュタインを「上手に誘導し説得した」のでした。
このソルベイ会議が無ければ、日本の広島・長崎への原爆投下も原爆開発も無かったでしょう。
この会議を開催している者が、ロスチャイルドとベルギー王室、つまりコンゴの奴隷虐殺者達。
日本人という有色人種を大量に虐殺した広島・長崎への原爆投下と、コンゴでの有色人種=黒人大虐殺が、同じ「論理」、同じ企業・人間達によって行われてきた事実が浮かび上がってきます。
その論理とは「有色人種虐殺」である。
この企業・人間達が、今後アジアの盟主として中国の政権中枢を担当することになるのです。
その金融面での動きがアジア統一通貨の形成であり、それは欧米・ロスチャイルドの新しい支配戦略です。
アジア通貨の誕生をドル支配からのアジアの独立である等という寝呆けた主張は、国際情勢への無知か、自分がロスチャイルドの「手先」である事を自白していることになります。
なお、ベルギーによるコンゴ支配を描いた小説「闇の奥」の作家ジョセフ・コンラッドは、「ベルギーのような遅れた国がこうした虐殺を行うが、自分達、英国人であれば、こうした虐殺は行わない」と英国人を自画自賛しています。
英国王室とベルギー王室が同一一族である事実を知識人コンラッドが知らないはずは無く、悪質なデマをコンラッドは流している事になります。
こうした悪質なデマを流し、真実を隠す作家でなければ「大作家」「人種差別に最初に気付いた知識人」などと言う「名誉ある称号」は手に入らないのでしょう。
またコンラッドの小説を映画化し「地獄の黙示録」を製作した映画監督・「巨匠」フランシス・コッポラは、ベルギー政府とロスチャイルドの行った、この残虐な黒人奴隷の手首切断をベトナムに舞台を移し、「ベトナム共産軍の行った野蛮な行為」として描き出しています。
ベトナム戦争でベトナム共産軍を敵として戦争を行った米国政府の「ご機嫌を伺うために」、ベルギー政府の行った虐殺を「ネジ曲げ」、米国政府の敵=共産軍が行った野蛮な行為として手首切断を、「巨匠」コッポラは描いています。
手首切断を行ったロスチャイルドの米国支部はロックフェラーであり、そのロックフェラーこそがベトナム戦争を行った米国政府中枢である事を、無知からか意図的にかコッポラは無視し、デマを世界中にタレ流しているのです。
こうした悪質なデマを流し、真実を隠す作家でなければ「巨匠・映画監督」にはなれないという事なのでしょう。
真実を語るものは絞首刑になり、デマを「タレ流す」者だけが「大作家」、「巨匠」になる。
現代世界と芸術界は、ニセ者だけが表通りを歩く事の出来る肥溜めと化しているのか?
http://www.studiosugi.com/blog/labels/44Ot44K544OB44Oj44Kk44Or44OJ.html
● 人類のアセンションに必要なのは地球人口を減らす事
有色人種は地球環境を汚染し貴重な資源を食い尽くすサル人間です。
人類のアセンションの為にはどうしてもサル人間を抹殺しなければいけないのです。
ロスチャイルドは、環境に優しい地球人口を10億人としており、世界大戦を起こしてサル人間を抹殺すべしと考えています。
サル人間の居なくなって初めて地球は神が祝福する新しきエルサレムとなるのです。
我こそが真の神なるぞ!
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ヨハネの默示録 第21章
21:1我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。
21:2我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許をいで、天より降るを見たり。
21:3また大なる聲の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、
21:4かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく、悲歎も號叫も苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり』
21:5かくて御座に坐し給ふもの言ひたまふ『視よ、われ一切のものを新にするなり』また言ひたまふ『書き記せ、これらの言は信ずべきなり、眞なり』
21:6また我に言ひたまふ『事すでに成れり、我はアルパなり、オメガなり、始なり、終なり、渇く者には價なくして生命の水の泉より飮むことを許さん。
21:7勝を得る者は此等のものを嗣がん、我はその神となり、彼は我が子とならん。
21:8されど臆するもの、信ぜぬもの、憎むべきもの、人を殺すもの、淫行のもの、咒術をなすもの、偶像を拜する者および凡て僞る者は、火と硫黄との燃ゆる池にて其の報を受くべし、これ第二の死なり』
21:9最後の七つの苦難の滿ちたる七つの鉢を持てる七人の御使の一人きたり、我に語りて言ふ『來れ、われ羔羊の妻なる新婦を汝に見せん』
21:10御使、御靈に感じたる我を携へて大なる高き山にゆき、聖なる都エルサレムの、神の榮光をもて神の許を出でて天より降るを見せたり。
21:11その都の光輝はいと貴き玉のごとく、透徹る碧玉のごとし。
21:12此處に大なる高き石垣ありて十二の門あり、門の側らに一人づつ十二の御使あり、門の上に一つづつイスラエルの子孫の十二の族の名を記せり。
21:13東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門あり。
21:14都の石垣には十二の基あり、これに羔羊の十二の使徒の十二の名を記せり。
21:15我と語る者は都と門と石垣とを測らん爲に金の間竿を持てり。
21:16都は方形にして、その長さ廣さ相均し。彼は間竿にて都を測りしに一千二百町あり、長さ廣さ高さみな相均し。
21:17また石垣を測りしに、人の度すなはち御使の度に據れば百四十四尺あり。
21:18石垣は碧玉にて築き、都は清らかなる玻璃のごとき純金にて造れり。
21:19都の石垣の基はさまざまの寶石にて飾れり。第一の基は碧玉、第二は瑠璃、第三は玉髓、第四は緑玉、
21:20第五は紅縞瑪瑙、第六は赤瑪瑙、第七は貴橄欖石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十は緑玉髓、第十一は青玉、第十二は紫水晶なり。
21:21十二の門は十二の眞珠なり、おのおのの門は一つの眞珠より成り、都の大路は透徹る玻璃のごとき純金なり。
21:22われ都の内にて宮を見ざりき、主なる全能の神および羔羊はその宮なり。
21:23都は日月の照すを要せず、神の榮光これを照し、羔羊はその燈火なり。
21:24諸國の民は都の光のなかを歩み、地の王たちは己が光榮を此處にたづさへきたる。
21:25都の門は終日閉ぢず(此處に夜あることなし)
21:26人々は諸國の民の光榮と尊貴とを此處にたづさえ來らん。
21:27凡て穢れたる者また憎むべき事と虚僞とを行ふ者は、此處に入らず、羔羊の生命の書に記されたる者のみ此處に入るなり。
ヨハネの默示録 第22章
22:1御使また水晶のごとく透徹れる生命の水の河を我に見せたり。この河は神と羔羊との御座より出でて都の大路の眞中を流る。
22:2河の左右に生命の樹ありて十二種の實を結び、その實は月毎に生じ、その樹の葉は諸國の民を醫すなり。
22:3今よりのち詛はるべき者は一つもなかるべし。神と羔羊との御座は都の中にあり。その僕らは之に事へ、
22:4且その御顏を見ん、その御名は彼らの額にあるべし。
22:5今よりのち夜ある事なし、燈火の光をも日の光をも要せず、主なる神かれらを照し給へばなり。彼らは世々限りなく王たるべし。
22:6彼また我に言ふ『これらの言は信ずべきなり、眞なり、預言者たちの靈魂の神たる主は、速かに起るべき事をその僕どもに示さんとて、御使を遣し給へるなり。
22:7視よ、われ速かに到らん、この書の預言の言を守る者は幸福なり』
22:8これらの事を聞き、かつ見し者は我ヨハネなり。かくて見聞せしとき我これらの事を示したる御使の足下に平伏して拜せんとせしに、
22:9かれ言ふ『つつしみて然すな、われは汝および汝の兄弟たる預言者、また此の書の言を守る者と等しく僕たるなり、なんじ神を拜せよ』
22:10また我に言ふ『この書の預言の言を封ずな、時近ければなり。
22:11不義をなす者はいよいよ不義をなし不淨なる者はいよいよ不淨をなし、義なる者はいよいよ義をおこなひ、清き者はいよいよ清くすべし。
22:12視よ、われ報をもて速かに到らん、各人の行爲に隨ひて之を與ふべし。
22:13我はアルパなり、オメガなり、最先なり、最後なり、始なり、終なり、
22:14おのが衣を洗ふ者は幸福なり、彼らは生命の樹にゆく權威を與へられ、門を通りて都に入ることを得るなり。
22:15犬および咒術をなすもの、淫行のもの、人を殺すもの、偶像を拜する者、また凡て虚僞を愛して之を行ふ者は外にあり。
22:16われイエスは我が使を遣して諸教會のために此等のことを汝らに證せり。我はダビデの萠蘗また其の裔なり、輝ける曙の明星なり』
22:17御靈も新婦もいふ『來りたまへ』聞く者も言へ『きたり給へ』と、渇く者はきたれ、望む者は價なくして生命の水を受けよ。
22:18われ凡てこの書の預言の言を聞く者に證す。もし之に加ふる者あらば、神はこの書に記されたる苦難を彼に加へ給はん。
22:19若しこの預言の書の言を省く者あらば、神はこの書に記されたる生命の樹、また聖なる都より彼の受くべき分を省き給はん。
22:20これらの事を證する者いひ給ふ『然り、われ速かに到らん』アァメン、主イエスよ、來りたまへ。
22:21願はくは主イエスの恩惠なんぢら凡ての者と偕に在らんことを。
http://bible.salterrae.net/taisho/xml/revelation.xml
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