26. 2010年7月30日 22:29:28: PkApY5CoUA
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>冷戦構造事態が過去存在した事は何ら否定して居ないのに、粘着の余り「今が冷戦時代でない」事実認識から段々と話がずれるんだな。
その通りです。少し話がずれましたね。それで、
冷戦が終わったのなら、なぜ南北朝鮮があり、北朝鮮に独裁体制があるのか。また、なぜ大陸中国と台湾があり、大陸中国に民主主義がないのか。
に対するご意見はいかがですか。
★阿修羅♪ > アーカイブ > 2010年7月 > 30日22時29分 〜 ★阿修羅♪ |
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>冷戦構造事態が過去存在した事は何ら否定して居ないのに、粘着の余り「今が冷戦時代でない」事実認識から段々と話がずれるんだな。
その通りです。少し話がずれましたね。それで、
冷戦が終わったのなら、なぜ南北朝鮮があり、北朝鮮に独裁体制があるのか。また、なぜ大陸中国と台湾があり、大陸中国に民主主義がないのか。
に対するご意見はいかがですか。
民主デフレ脱却議連、インフレ目標導入など財務相に提言
2010年 07月 30日 13:53 JST[東京 30日 ロイター] 民主党の有志議員による「デフレから脱却し景気回復を目指す議員連盟」(会長:松原仁衆院議員)は、デフレ脱却と経済成長の実現に向け、インフレ目標の導入などを柱とした提言をとりまとめ、同日昼、野田佳彦財務相に申し入れた。
野田財務相は提言を受け、「真摯に受けとめる」と語った。提言では、デフレ脱却にはインフレターゲット政策などのリフレ政策が必須とし、政府が毎年、物価上昇目標を決定・公表して日銀に通達することなどを明記。具体的な物価目標については、消費者物価指数2─3%の間とし、日銀に対して目標の上下1%以内を維持するよう課すとしている。デフレ脱却議連では今後、同提言を党の政策調査会などでも議論していく意向で、議員立法の可能性を含めて検討する。
松原会長ら議連メンバーが財務省を訪れ、野田財務相と池田元久財務副大臣に提言を手渡した。会談終了後、野田財務相は一部記者団に対し、デフレ脱却議連の提案について「デフレ脱却は政府が全力をあげて取り組む課題だ。いろいろな提案を真摯に受けとめたい」と語った。また、松原会長は、池田副大臣が同議連の顧問を務めていたことから、「(池田副大臣が)野田大臣に強く進言してくれるだろう」と政府の対応に期待感を示した。
午前に開催された同議連の総会では、松原会長が冒頭にあいさつし、日本経済の現在の最大の課題はデフレ脱却とし、先の参院選敗北の要因について「デフレ脱却の方策を打ち出すことなく、増税論議に持ち込んだことにある」と指摘。その上で、デフレ脱却に向けて「日銀はすべての手法をとっているとは言い難い。菅政権は日銀ときちんと向き合ってほしい」と訴えた。
「デフレ脱却・経済成長プログラム」と題した提言では、デフレから脱却し、内需拡大を図るには「積極的な金融緩和政策の策定と実行が不可欠」とする一方、「現在の日銀の金融政策からは、本気でこの未曾有の経済状況を克服しようとする思いが伝わってこない」と日銀の対応を批判し、大胆な金融政策運営を求めている。
具体策として、政府内に日本版CEA(大統領経済諮問委員会)など経済政策の司令塔の設置を提言。そこに日銀総裁をオブザーバーとして参加させ、「政府と日銀の意思疎通の場とする」ことを盛り込んだ。
インフレ目標は、政府が毎年、年末の予算編成にあわせて次年度の物価上昇率目標を決定・公表し、日銀に通達する。具体的な物価水準としては、消費税物価指数(CPI)で「プラス2%から3%の間」とし、日銀に対して目標の「上下1%以内に維持することを課す」とした。
こうしたインフレ目標を「直ちに導入し、日銀が(目標を)達成できなかった場合に説明責任を課す」。
達成手段については、日銀の自主性を維持しながらも、長期国債買い切りオペの増額や「場合によっては、株式、REIT(不動産投資信託)、中小企業を含む低格付けのCP・社債も対象にすべき」と指摘。金融機関の企業向けローン債権の購入も検討すべきとしている。さらに、日銀のガバナンス向上のため、日銀法改正にも言及。「デフレ・円高不況の原因は日銀による金融失政」と位置づけ、金融政策の目標に「雇用の最大化(失業の最小化)」を加えることを盛り込んだ。
これに関連し、日銀政策委員の選任方法の変更も提言。審議委員について「これまでの業界代表を指名していたやり方をあらため、金融や経済の専門家を中心に指名し、活性化を図る」ことが必要としている。
先の参院選で躍進を遂げたみんなの党も、インフレ目標導入や日銀法改正などを柱とした「デフレ脱却法案」を臨時国会に提出すべく準備中だが、宮崎岳志、金子洋一の両事務局長はみんなの党との連携の可能性について「今のところは白紙だ。具体的な意見交換の予定はない」と指摘。
デフレ傾向を強める現在の円高への対応については、為替市場介入ではなく、金融緩和の結果として適切な水準に収めるべきとの認識を示した。
(ロイターニュース 伊藤 純夫記者)
◆関連
松原仁オフィシャルサイト
http://www.jin-m.com/diary/bn2010_06.html
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/387.html
宮崎の場合は事を大きくしてしまった。農水省とJAと製薬企業と共同で国税を当てにしてやったことでしょう。
これが税金で落とせないと分かれば、180度対策は変わっていたでしょう。
専門家チームなど名前ばっかりで、内実は政策にそってしか行わない、御用専門家チームです。「専門家」などという言葉に騙されていては本質は見えてきません。
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/765.html#c9
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◆関連
「クリーン」で「国民主権」は守れない (田中良紹の「国会探検」)
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2010/06/post_221.html
http://www.asyura2.com/09/hihyo10/msg/763.html
あと、どうせなら、元のこちらを引用した方がよいだろう
http://ntdtv.com/xtr/b5/2010/07/27/a415857.html (中国語)
【新唐人2010年7月28日付ニュース】中国の不動産バブルははじけるのか。本日はハーバード大学の教授やエンロン事件を予測した投資家などにお伺いします。
あるドイツの新聞は、かつてIMFの経済顧問を務めたことのある、ハーバード大学のロゴフ教授の話として、中国バブルの崩壊を伝えました。
中国の経済学者、茅さんも「中国の不動産バブルは、近い将来崩壊するだろう」と予測します。
茅さんによると、2〜3年前に出現した中国の不動産バブルは、一部富裕層が不動産の値上がりを待って売り抜けたのが原因です。政府の景気刺激策による銀行の貸付金の増加も、バブルに拍車をかけました。
しかも、バブルは消化よりも崩壊する可能性のほうが高く、その上、崩壊したら長期的な不況を招く恐れがあると指摘します。
中国の著名経済学者 茅於軾
「バブルが崩壊したら、その影響は長期化し、10〜15年にわたるかもしれません。各産業がこの影響を受けます。中国経済がここまで来たら、仕方がありません…消化するなど、不可能に近いです」
ロゴフ教授は、バブル崩壊後の中国経済成長率は2%にまで下がるとし、高度成長に慣れた中国にとって、これは深刻な経済危機だと指摘。これには茅さんも同感します。
中国の著名経済学者 茅於軾
「バブル崩壊後は、家の新規着工が減ります。中古物件が売れ残るから、そうなると、雇用に響きます。建設業は雇用を創出しますから。家電や内装、家具業界も関係があるので、影響を受けます。だから雇用が大きく減り、GDPも下がります」
実際今、中国の建設業界は需要が低迷しているため、鉄鋼価格も下落しています。
中国政府は不動産投機を防ぐ一連の対策を発表。中国の中央銀行、人民銀行は今年、貸付を22%減らす予定です。しかしロゴフ教授は、「これらは不動産市場の低迷とインフレを招くだけだ」と述べます。
また、バブル崩壊の危険はすでに現れ、しかも崩壊すれば銀行にとっては大打撃だとも予測。しかし、その打撃を和らげるのは、簡単なことではないと指摘しました。
当時、アメリカ史上最大といわれたエンロン社の破綻を予言したアメリカの投資家、チャノスさんは、「過剰な刺激策を受けた中国経済は崩壊に向かっている。多くの経済学者が言うような繁栄は続かない」と予測。投機マネーに支えられている中国は、「ドバイ危機よりも1000倍以上深刻だ」と警告します。
さらに、中国バブルの最大の原因は資産価値の過大評価ではなく、過度な貸付だといい、中国より深刻な国は他にないとも指摘しました。
新唐人記者がお送りしました。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/383.html#c1
新・ウィーン楽派の元締めと言えるアーノルド・シェーンベルクが台本を書き、作曲もしたオペラ「モーゼとアロン」です。
第2幕までは1932年に完成させ、第3幕は結局は未完に終わった作品。
このオペラをご存知のない方でも、旧約聖書にあるモーゼとアロンの兄弟の軋轢の話は、ご存知でしょう。
この「モーゼとアロン」というオペラを、「理解者と協力者の乖離」という観点からみることは、「アラベラ」よりも、はるかに容易ですよね?
何と言っても、アロンはモーゼの言葉を理解していない。
しかし、モーゼが受けた神からの言葉を広めるのに当たって最大の協力者である・・それくらいは、簡単に読めること。
自分のことや言っている中身を理解していないアロンに頼らないといけないモーゼは、それゆえに苦悩する。
シュトラウスとホフマンスタールの「アラベラ」が、洗練された外観を持ちながら、内容的には悲痛な心情を含んでいる。
いや、悲痛な面を持っているのはホフマンスタールの台本だけかな?
それに対し、シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、シリアスな外観を持っていますが、ギャグ満載の爆笑オペラなんですね。
20世紀のオペラで、これほど笑える作品って、他にあるのかしら?
オペラ「モーゼとアロン」ですが、基本的なストーリーは旧約聖書のモーゼとアロンのエピソードによっています。
簡単にまとめると、下記のとおり。
1. モーゼが神から言葉を受ける。
2. その言葉を自分で直接民衆に伝えようと思っても、うまく伝えることができない。
3. だから、言葉を上手に伝える能力を持っている、モーゼの兄のアロンと一緒に活動することになる。
4. アロンは見事にモーゼの言葉を語る。
5. 民衆は、モーゼよりアロンの方を絶賛し、「これぞ!奇跡だ!」
6. 民衆より絶賛を受けたアロンは、「その気」になって、どんどんと民衆を喜ばせる方向に、言葉を変えて行ってしまう。
7. モーゼは「まっ、とりあえずアロンに任せておくか・・・」と、引っ込んでしまう。
8. 民衆の期待に応えたアロンは、乱痴気騒ぎの大集会。
9. こうなると、本来のモーゼの言葉は、どこかに行ってしまう。
10. ここでモーゼが乗り込んできて、
「こらぁ!ええ加減にせんかい!」
「ワシの言葉を忠実に伝えろよ!」
11. アロンは、
「だってぇ・・・だってぇ・・・そもそもアンタが、民衆から離れすぎているのがいけないんじゃないか!」
と反論。
12. モーゼは
「じゃかぁしいんじゃ!最後にはワシの方が勝つんじゃ!」
基本的なあらすじは、こんなところ。
いやぁ・・・笑える。
モーゼにとっては、アロンは重要な協力者。
しかし、理解者とは言えない。
だから、どうしても、このような齟齬が起こってしまう。
さて、このオペラ「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をしたシェーンベルクは、基本的には作曲家。
作曲家にとって、親類とも言える身近な存在で、重要な協力者と言えるけど・・・残念なことに、理解者とは、とても言えない存在って、何?
それは演奏家でしょ?
作曲家が作曲した作品を、実際に音にし、多くの人に聞いてもらうに当たって、演奏を本職とする演奏家の協力は、現実的には、不可欠。
しかし、演奏家は、その作品の本当の意味がわからないので、どうしても民衆の好みに合わせてしまう。
おまけに音楽家の中でマジョリティーなのは演奏家の側であって作曲家ではない。
演奏家は自分たちの常識が、音楽界の常識と思ってしまうわけ。
それに演奏家は直接聴衆と接するので、「結果」が出やすい。
それに、演奏家と作曲家ではどちらが、「実際的な力」を持っているのか?
それについては言うまでもないことでしょ?
音楽界の常識は、往々にして演奏家の常識であって、作曲家の常識ではないわけ。
演奏家と作曲家が分業して以来、音楽史においては、そんな作曲家と演奏家のぶつかり合いって、よく出てきますよね?
まあ、批評家のような存在は、作曲家にとっては、そもそも理解者でも協力者でもなく単なるオジャマ虫なんだから、扱いがラク。
しかし、演奏家は、作曲家にとって必要な協力者であっても、理解者ではない・・・だからこそ扱いが難しいわけ。
作曲家も演奏家も、本来は、同じ音楽の神を父とする兄弟同士なんだから、最初は一緒に行動するけど、方向性の違いから、やがては諍いとなってしまう。
あらまあ!なんとコミカルな悲劇だこと!!
この「モーゼとアロン」というオペラにおいて、モーゼを作曲家、アロンを演奏家としてみると、ツボを押さえたギャグ満載のオペラになるわけ。
基本的には、こんな調子。
1. 作曲家が神から霊感を受ける。
2. 作曲家は自分では自分の曲をうまく演奏できない。
3. と言うことで、演奏が本職の演奏家が登場。とりあえず一緒に活動することになる。
4. 演奏家は見事に演奏する。
5. 見事な「演奏」に民衆は感激!
「感動した!これぞ奇跡だ!」
6. 民衆から絶賛されて「その気」になった演奏家は、もともとの作品にどんどんと手を入れ、ますます民衆を喜ばせる方向に向かってしまう。
7. 作曲家は、
「まっ、とりあえず演奏家に任せておくか・・・」
と、引っ込んで、新たな作曲活動。
8. 民衆の絶賛を浴びた演奏家は、大規模な演奏会を主催して、ますます民衆を喜ばせる。
9. そうなると、もともとの作曲家の意図が完全にどこかに行ってしまう。
10. とんでもない状態になっていることに気が付いた作曲家は、演奏家の元に乗り込んできて、
「こらっ!ええ加減にせんかい!
ものには限度というものがあるんじゃ!
楽譜に忠実に演奏しろよ!」
11. 作曲家の立腹に対し、演奏家は
「そもそもアンタの作品が民衆の理解からかけ離れすぎているのが悪いんじゃないか!」
と反論。
12. 演奏家からの反論を受けながら、
「最後に業績が残るのは作曲家の方なんじゃ!」
と締める。
私個人は作曲家でも演奏家でもありませんが、まあ、上記のようなやり取りって、音楽創造の現場では、ありがちなことではないの?
逆に、そんなぶつかり合いもない状態だったら、創造現場とは言えないでしょ?
オペラに限らず作品の解釈に当たっては、一義的ではないでしょう。
受け手の様々な解釈も許容される・・・原理的にはそのとおり。
しかし、ここまでツボを押さえているのだから、作曲をした・・・と言うか台本を書いたシェーンベルクが、モーゼ=作曲家、アロン=演奏家 という役割を考えなかったわけがないでしょ?
そもそも、シェーンベルクはウィーンに生まれたユダヤ人ですが、もともとはユダヤ教徒ではありませんでした。
もともとはキリスト教徒だったわけ。
だからユダヤ教徒歴よりも作曲家歴の方が長いわけ。
シェーンベルクは、まずは、作曲家なんですね。
もちろん、このオペラには、旧約聖書におけるユダヤ人の信仰の問題もあるでしょう。
ユダヤ人のアイデンティティの問題だってないわけがない。
音楽創造現場の問題とユダヤ人の信仰の問題のどっちがメインのテーマなのかは別として、モーゼとアロンというユダヤの有名人が出てくるんだから、信仰の問題がないわけがない。
しかし、ユダヤの問題をメインに扱った作品と考えるには、かなり無理がある。
この「モーゼとアロン」というオペラは、どうして、その歌詞がドイツ語なの?
ウィーン生まれのシェーンベルクにしてみれば、ドイツ語はいわば母国語。
自分の考えをまとめたり、歌詞を一番書きやすい言語。
だからドイツ語でオペラの歌詞を書いた。それはそうでしょう。
しかし、ユダヤ人の信仰の問題を主に扱うのなら、どうせならヘブライ語にした方がいいでしょ?
ドイツ語で台本を書いて、後でヘブライ語に翻訳して、それに音楽をつける・・・
この流れでオペラを作っていけば、たとえヘブライ語が母国語でなくても、台本を書き作曲もできるでしょ?
どうせドイツ語のままだって、演奏頻度が高くなるわけではないでしょ?
そもそもユダヤ人の問題を扱うに当たって、ドイツ語なんて、一番微妙な言語でしょ?
むしろドイツ語だけはやめておく・・・そう考えるのが自然じゃないの?
何と言っても、台本を書き始めた1930年代は、ナチスの台頭などがあったわけですからね。
ドイツにおけるユダヤ人差別って、身に染みていた頃でしょ?
あるいは、どうせなら、ドイツ語ではなく、英語にする方法だってあるわけですしね。
シェーンベルクは後にアメリカに亡命したわけですから、後になってオペラの歌詞を英語に変更するくらいわけがないでしょう。
最初の構想はともかく、ドイツ語のままで台本を書き、作曲を進め、後で修正もせずに、そのまま初演を行うということは、明らかにヘンなんですね。
初演は1954年で、シェーンベルクはもうお亡くなりになっていましたが、初演までは結構時間もあったわけですし、翻訳作業は人に任せることもできるでしょ?
翻訳作業を協力してくれる人はいっぱいいますよ。
よりにもよって、第2次大戦直後に、苦難に満ちたユダヤ人のドラマをドイツ語で歌い上げられても、それこそがお笑いですよ。
せめて、英語ヴァージョンを別に用意して、ドイツ語以外でも歌えるようにしておくのがマトモでしょ?
だから、ユダヤの信仰の問題や苦難に満ちたユダヤ人の問題は、決して、このオペラ「モーゼとアロン」のメインのテーマではないわけ。
しかし、この「モーゼとアロン」というオペラが、「理解者と協力者の乖離」という一般論、孤高の人と大衆迎合の人との対立、超越的な存在と、現世的な存在の対比。あるいは、音楽創造の現場における「作曲家と演奏家の対立」というテーマから見れば、ドイツ語の歌詞で何の問題もない。
まさにドイツオペラのおなじみの伝統的なテーマであり、「モーゼとアロン」はその変奏に過ぎないわけ。
シェーンベルクは台本を書きながら、
「あのヤロー!よくもあの時はオレの作品をムチャクチャに演奏しやがったな!」
と特定の演奏家なり、演奏のシーンを思い出して台本を書いていたのでは?
まあ、台本を書きながら、アタマから湯気が出ているのが簡単に想像できますよ。
アロンの歌詞に付けられた多彩な音楽表情には、自分が作曲した作品を演奏される際に、心ならずも「付けられてしまった」トンチンカンな音楽表情が具体的に反映しているのでは?
それこそ作曲しながら、
「あの時は、よくも・・・よくも・・・オレの曲に余計な表情をつけて・・・」
と、髪を掻き毟りながら作曲していたのでは?これはちょっと想像できないけど・・・
まあ、演奏において、多少はトンチンカンな表情もしょうがないところもあるけど、やっぱり限度があるでしょ?
しかし、民衆から絶賛を浴びて「巨匠」の気分になっている演奏家は、どんどんと暴走して行くばかり。
しかし、民衆の趣味に合っているがゆえに、ますます民衆から絶賛を浴びる。
そうして大規模な演奏会へ!
第2幕の有名な黄金の子牛のシーンおいて、70人の長老たち語る言葉があります。
「人々は至福の境地だが、奇跡が示したのは、酩酊や恍惚がなんたるかということだ。
変わらぬものはいない。皆が高められている、感動せぬものはいない、皆が感動している。
人間の徳が再び力強く目覚めた・・・」
このセリフって、コンサートと言うか演奏家を絶賛する批評の言葉そのものでしょ?
皆さんだって、上記のような批評の文章を読んだことがあるでしょ?
まったく、ツボを押さえまくり。ギャグ満載ですよ。
まあ、延々と饗宴が続く黄金の子牛のシーンって、ザルツブルグ・フェスティヴァルのようなものをイメージしているのでは?
だからこそ、モーゼつまり作曲家が、アロンつまり演奏家に「オマエなんて、所詮は、民衆の側じゃないか!」なんて言い渡す。
気持ちが入ったギャグだねぇ・・・
まあ、オペラにおけるモーゼの持っている石版を楽譜にして、アロンが持っている杖を、指揮棒にする・・・そのように演出しても、何の違和感もないでしょ?
シェーンベルクも恨み骨髄だねぇ・・・こりゃ、確かに、晩年でないと発表できませんよ。
これほどわかりやすいメタファーなんだから、本来なら誰でもわかるはずなのに・・・
私個人はそんなことを書いてある解説を見たことがありません。
まあ、作曲家の方々なら、簡単にわかるんでしょうが、おおっぴらには言えないのかな?
まさに諸般の事情というか大人の事情があるんでしょうね。
ちなみに上記の歌詞は、作曲家でもあるピエール・ブーレーズが指揮したCDから取っています。
そのCDに添付されている解説書で
「アナタはご自身を、モーゼだと思う?アロンだと思う?」
なんて質問しているインタビューがあります。
いやぁ・・・エゲツナイ。
ブーレーズは、当然のこととして、お茶を濁したような回答。
「つーか・・・よりにもよって、このオレに、そんなこと聞くなよ!」
と思ったのでしょうね。
シェーンベルクだけでなくブーレーズだって怒っちゃうよ。
もちろん、この作品において、シェーンベルクが単純に、「演奏家への恨み」をオペラにしたわけではないでしょう。
自分が神からの霊感を受けて作曲した作品をメチャクチャに演奏する演奏家に向かって、
「勝手にオレの曲に手を入れるなよ!ええ加減にせんかい!このタコ!」
と、心の中で怒鳴っているシェーンベルクに対して、
「タコはオマエだろう!」
そんな言葉も言う人もいるんじゃないの?
たとえばシュテファン・ゲオルゲやライオネル・マリア・リルケ。
ゲオルゲやリルケが、神からの霊感を受けて文学作品にしたのに、それに勝手に音楽をつけたのは、いったい誰?
後から付けられた音楽が、詩人の意に沿ったものなの?
と言うか、リルケなんて挿絵すらいやがりましたよね?
自分の詩に音楽を付けるなんて絶対に容認しないと思うけどなぁ・・・
まあ、デーメルのような三流詩人に音楽を付けるのはともかく、ゲオルゲのような一流の詩に勝手に音楽をつけてはダメでしょ?
音楽を付けた分だけ、「広まりやすい」とは言えますが、それが本当に詩の本質を伝えることに役に立っているの?
そうなんですね!
シェーンベルクは作曲家として、演奏家が勝手につけてしまう不適切な音楽表情に抗議する側、つまりモーゼのような立場であるとともに、作曲に当たって題材とした文学作品の作者から、抗議される側、つまりアロンでもあるわけ。
「ああ!オレもタコだったんだぁ〜!」
これは色々な意味でそのとおり。
しかし、まさにアロンのように、
「だってぇ、だってぇ・・・こうすると、みんなにわかってもらいやすいしぃ・・・みんなも喜んでくれているしぃ・・・」
と言わざるを得ない。
しかし、本当に民衆にわかってもらえるの?
民衆との間に、共通の認識・・・いわゆる「理解」と言う次元に到達できたの?
表現において、発し手が想定しているとおりに、受け手が理解する・・・そんなことは実にレアケース。
神から霊感を受けて文章を書いて、それに音楽をつけると、最初の霊感からズレてしまう。
それを演奏したら、演奏家の理解によって、ますますズレてしまう。
それを一般聴衆がどう聞くの?
もう、とんでもない伝言ゲーム状態。
最初に創作者が受けた神の言葉はどこに行ってしまったの?
最初の意図が伝わらないのなら、表現っていったい何?
「おお!言葉よ、言葉、私に欠けているのはおまえなのだ!」
第2幕最後にあるモーゼの有名なセリフです。
この場合の「欠けている言葉」は、狭義で言うと、まさに演奏能力となる。
もう少し一般化すると表現能力というか伝達能力になるわけ。
しかし、そのセリフの前の部分
「想像を超える神よ!
語ることはできない意味あまたなる想念よ!」
と言う言葉と組み合わせてみると、別の面も見えてくる。
言葉が欠けているのではなく、言葉によって生み出される関係性が欠けている・・・そう言えるわけ。
言葉、あるいは表現によって、発し手と受け手で認識を共有できる。
その共有化された認識がモーゼには欠けていて、アロンには備わっている。
いや!
備わっているというより、アロンはそもそも民衆の側なんだから、「見ているもの」も、民衆と共通している。
しかし、モーゼは民衆と見ているものが元から違っているわけ。
言葉そのものは同じでも、その意味するところが違っている。
だから、言語によって関係性が生み出されることはない。
そのような意味で、この「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をした1874年にウィーンに生まれたユダヤ人のシェーンベルクは、言語表現に懐疑のまなざしを向けた「チャンドス卿の手紙」の作者・・・1874年にウィーンに生まれたユダヤ系のホフマンスタールと全く共通しているわけ。
そして、その共通性は、
「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」
と言う命題を持つ「論理哲学論考」の作者である哲学者ウィットゲンシュタインと全く共通しています。
「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」
と言うウィトゲンシュタインの言葉と、
「想像を超える神よ!語ることはできない意味あまたなる想念よ!」
というシェーンベルクの言葉って・・・笑っちゃうほどよく似ている。
ウィットゲンシュタインは、1889年にウィーンで産まれたユダヤ人。
ちなみに、彼の父親はプロテスタント。母親はカトリックです。
シェーンベルクは前に書いたようにユダヤ人なのに、当初はカトリックで後にプロテスタントに改宗、その後になって、今度はユダヤ教に改宗。
それにホフマンスタールが、ユダヤ系なのにカトリックだったことも・・・ご存知でしょ?
そのようなマイノリティは、コミュニケーションに対する無条件の信頼が、もともとないわけ。表現によって、自分の意図が人々に理解され、関係性が広がっていく・・・とは単純に考えない。
もちろん、このようなことは言語の向こうにある心理を読もうとした1856年のウィーンに生まれたユダヤ人フロイトにも見られることでしょ?
言語によって関係性、あるいは相互理解が生み出されないという点においては、
「もし、ライオンが言葉を話せても、言っていることは我々にはわからないだろう。」
というウィットゲンシュタインの「言葉」が見事に語っています。
真に創造的な領域では、人の言葉ではなく、神の言葉が支配する。
だから表現によって、民衆との間に新たなる関係性が生み出されることはない。
じゃあ、どうして表現するの?
アンタが言うように語らないのが本来の姿じゃないの?
どうせ語ってもわかってくれないんだし・・・
まったくもって、おっしゃるとおりなんですが・・・
それがわかっていながら作品を作る、いや!わかっているからこそ、作品を作るわけ。
目の前の人よりも、自分が知らない人に宛てて、作品という形で自分の認識を伝えようとする。
語りえぬものだからこそ、語る必要があるわけでしょ?
これは別の言い方をすると、受け手が理解できないものだからこそ、作品にする必要があるとも言えますよね?
このことは作品を作る際には、難しく、わかりにくく書くという問題ではないわけ。
何を語るのか?(=WHAT)と言う点において語りえぬものであって、どう語るのか?(=HOW)の問題ではないわけ。
わかりやすく語っていても、語りたい中身そのものが受け手に受け入れられない、というか、多くの人には見えないもの。
しかし、だからこそ、語る必要がある。
受け手が見えないとわかっているものを、何とかして語ろうとするわけ。
しかし、だからこそ、ますます閉塞する。
そして、自分が直面しているそんな閉塞を打破する協力者がほしい。
しかし、協力者であっても理解者ではないので、そんな協力者との共同作業によって、結局は、傷つき、ますます閉塞してしまう。
そのような点でモーゼも、シェーンベルクも、ホフマンスタールも、そして映画「ソフィーの選択」におけるソフィーやネイサンも、そして映画「ウィットゲンシュタイン」におけるウィットゲンシュタインもまったく同じ。
いやぁ!苦笑いせずにはいられない。
「モーゼとアロン」というオペラは、古代のユダヤが舞台と言うより、まさに当時のウィーンの芸術創造現場を、そしてその閉塞感を反映しているわけ。
ああ!ウィーンって街は、何て閉塞が似合う街なんだろう!
そのように見てみると「モーゼとアロン」は実に笑えるオペラでしょ?
このような気持ちが入ったギャグって、笑うだけでは済まないけど。
まあ、このような悲痛で自虐的なギャグは、ユダヤ的なギャグの典型ですよね?
そう言う意味では、この「モーゼとアロン」というオペラは、まさにユダヤ的なオペラと言っていいのかも?
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-09/07-09-27.htm
__________
3. リヒャルト・ワーグナー「ワルキューレ」
芸術家とは、神から出でた存在であり、神からの霊感を一般の人間に伝え、後生に残すのがその使命。
逆に言うと、ドラマにおいて、神からの言葉を伝えている存在は、芸術家としての自分自身を描いているケースが多いわけ。
しかし、神からの言葉を語るがゆえに、一般の人間には理解されない。
それゆえに、神からの言葉を受けたものは、一般社会の中で孤立し、苦悩することになる。
孤立の中で、自分の理解者を必死で探したり、神からの言葉を伝えようと、自分の協力者を得ようとして無理をして、その無理によってますます孤立してしまう。
結局は、その苦悩がますます深くなる。
しかし、一般社会からの孤立ゆえに、神からの霊感は、特定の人や集団を相手とする直接的な語りではなく、客観的な作品として結実することになる。
さて、そんな流れを持つオペラ(正式には舞台祭典劇)の「ワルキューレ」を考えて見ましょう。
題材としては、ゲルマン神話を元にしているわけですが、そのテーマとしては、芸術家としての意識という点から見ると、実に理解しやすいわけ。
このオペラの主要人物であるジークムントのキャラクターなり、ドラマにおける役割・・・それがまさに芸術家の姿そのままなんですね。
さて、そのジークムントは、神々の長であるヴォータンの血を引いている。
つまり、神から出でし存在。
そして、そのヴォータンからの使命を果たすべく、行動することになる。
つまり、神からの言葉を実現させる存在。
しかし、ヴォータンからの使命を実現させようとするがゆえに、周囲と諍いが起こる。
つまり、神からの言葉を実現させようとすると、周囲の一般人とモメることになる。
ジークムントは、自分と同じように神から出でし存在であるジークリンデに入れ込む。
つまり、芸術家は同類同士だと実に理解が早い。
一番困った時に、ヴォータンからの剣ノートゥングが現れる。
つまり、芸術家が真に苦悩した時こそ、神からの霊感が訪れる。
ジークムントとジークリンデとの結びつきに対し、一般人のフンディングがジャマをする。
つまり、芸術家同士の結びつきには、一般人からの妨害がつきもの。
結局は、ジークムントは、一般人であるフンディングにやられてしまう。
つまり、芸術家は、一般人には、この世では勝つことができない。
しかし、ジークムントとジークリンデは、ジークフリートを残すことになる。
つまり、芸術家が死んでも、その後まで作品は残ることになる。
そのジークフリートには、ヴォータンの娘であるブリュンヒルデが助ける。
つまり、芸術家による作品は、芸術的なルーツを持つ同類のサポートによって、世界に出て行くことになる。
ジークフリートによって、この世界が浄化される。
つまり、芸術家の作品によって、世界が堕落することを防ぐことになり、まさに神の意思が実現される。
と、まあ、芸術家の苦悩と成果と言う視点で見ると、実にツボを押さえた設定になっている。
作者であるワーグナーが、自分自身の苦悩なり、芸術家としての意識や役割を踏まえた上で、台本を書いたのがよくわかる。
神からの言葉を語るがゆえに、この一般社会からは理解されないとなると、以前にシェーンベルクのオペラ「モーゼとアロン」を考えております。
シェーンベルクは、神からの言葉を直接的に聞くモーゼに自分自身を重ねている。
しかし、一般社会に神の言葉を伝えるためには、神の言葉を直接的に聞くことができない一般人であるアロンを協力者にしなければならない。
この「モーゼとアロン」というオペラの場合は、台本を制作した作曲家のシェーンベルクにしてみれば、モーゼ=作曲者,アロン=演奏家 の役割を負っていることはすぐにわかること。
神からの言葉を直接聞くものは、その言葉を多くの人たちに伝えなければならないという使命感と、対象とする一般人の理解力の低さの間の齟齬で苦悩する。
そんな苦悩は、歴史を紐解けば、いくらでも出てきますよ。
それこそ、キリストだって、まさにそのパターン。
あるいは、画家のゴッホとかミケランジェロとか、レンブラントとか・・・ほとんどがそのパターンでしょ?逆に言うと、一般人と上手に付き合うことができたルーベンスが、芸術家の立ち位置の理想形として、ウィーダの「フランダースの犬」に出てくることになる。
それだけレアケースというわけ。
芸術家は、神からの言葉を聞くがゆえに、一般人から迫害され、殺される。
しかし、その言葉は後世まで残ることになる。
神からの言葉に執りつかれた人間は、本当の意味での自由意思はない。
神からの言葉は、当人にとって圧倒的な存在であるがゆえに、それ以外の存在が霞んでしまう。
だから、遮二無二行動して、どうしても一般人とのやり取りがうまく行かない。
それこそ、この「ワルキューレ」の中のジークムントのセリフを取り上げてみましょう。
「♪・・・私は人に会う限り、何度でも飽きずに、友を求めたり、女を得ようとしたのですが、私はただ追放されるばかりでした。
何か不吉なものが私の上にありました。
私が正しいと考えるものが、他人には悪いことのように思われたのです。
私には悪いと思えることを、ほかの人は好んでしたのでした。
どこへ行っても反目の中に落とされ、私の行く先々で怒りに襲われたのです・・・♪」
この言葉を、そのままゴッホの伝記に入れても、何も違和感がないでしょ?
あるいは、ベートーヴェンでもOK。
ミケランジェロでも、基本的には、OKでしょうが、まあ、ミケランジェロは「女を得よう」とはしなかったでしょうね。しかし、彼もトラブルを巻き起こしてばかりでしょ?
しかし、それでも作品は残る。
自分の死後も残るものを作る・・・それが芸術家の使命。
神よりも、一般人を向いていたら、神の言葉はもう降りてこない。
神は嫉み深いもの。
一般社会から疎外された極限の状態にこそ、ノートゥングが現れ、作品のキーとなる霊感が訪れる。
しかし、その神の言葉ゆえに、この社会では生きることができない。
結局は、神からの言葉をまとめた作品を制作する創作者だけでなく、その作品を守ろうとした人間までが迫害されてしまう。
まるで、ブリュンヒルデが炎に幽閉されたように。
しかし、そんな幽閉された芸術家を解き放つのも、神からの言葉をまとめあげた作品。
芸術の歴史とは、見方を変えると、まさにこんな感じになっているものでしょ?
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-12/10-04-26.html
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/608.html#c3
【ニューヨーク山科武司】国連内部査察室トップの事務次長が、
潘基文(バン・キムン)事務総長を「彼の行動は嘆かわしいだけでなく厳しく非難されるべきだ」
などと批判して退任したことが20日、分かった。
スウェーデン出身のインガブリット・アレニウス前事務次長(71)は14日に
事務総長に提出した50ページにわたる報告書で「国連は活動の透明性も説明義務も果たしていない」と指弾。
「事務総局は腐敗しつつあり、戦略なき無責任な運営は、国連の改革をもたらさないどころか国連の弱体化を招いている」などと述べた。
内部査察室の強化を図る人事が潘事務総長の側近らに反対されたことなどから、前事務次長と事務総長側が対立していたという。
内部査察室は国連の組織が効果的かつ透明性を保って活動しているか監査する目的で94年発足。
スウェーデン政府の会計検査院トップなどを務めたアレニウス氏は05年、事務次長に就任した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100721-00000020-mai-int
参考
世界で最も危険な韓国人、潘基文
http://newsweekjapan.jp/stories/world/2009/06/post-234.php
歴史的にレベルの低い国連事務総長のなかでも際立って無能。
核拡散の脅威や難民危機にも関心を示さない潘のおかげで、国連はあってもなくても関係ない存在に堕ちた
オフィスの壁にサムスン電子の薄型テレビを並べ、上級顧問に韓国人の仲間たちを選ぶなど、
韓国経済の利益を図ったという点を除けば、彼の足跡はほとんど無視できるほどでしかない。
↑
106 セラピスト(福岡県) 2010/07/21(水) 16:03:06.99 ID:wDohBxJP(※工作員)
>世界で最も危険な韓国人、潘基文
>彼の足跡はほとんど無視できるほどでしかない。
どっちなんだよw
無視できるんなら全然危険じゃないだろw
113 路面標示施工技能士(愛媛県) 2010/07/21(水) 16:53:28.09 ID:wr8Iixj9
>>106
重大な案件から逃げて国連を機能不全に
陥らせてるのが危険だってんだよ
言わせんな恥ずかしい
※そしてなぜか非難を受ける日本
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| ___) |)_フ
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制作・著作 高麗棒子
(コメント)
スウェーデンもユダヤ系に乗っ取られたんでしたっけ?
http://www.asyura2.com/09/kokusai4/msg/850.html
それぞれのポイントの価値は市場の評価で決めればいい。
「通貨発行特権自体を疑え」というのは、画期的な視座だと思う。
極端に言えば、「最大多数の最大幸福ポイント」を勝手に発行しても良い訳だ。
誰も受け取らんだろうけど(笑)
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/365.html#c14
相変わらず朝日の「経済気象台」は、わかってない感じを漂わせているが。
これは世界全体が長期デフレ経済(CPI&名目GDPの長期下落)になるという意味だろうか?
だとしたら、まず、その予測は外れるだろう。
巨額の円建て国内金融資産を持つ日本や、地方自治体の連合国家である欧州と違い、米国や中国、英国など多くの中央銀行と政府にとって、為替安とインフレの政治的ダメージは小さい。
政治的反発を、それほど心配しないで、緩和とバラマキを続けることができる。
(欧州だって、為替安でインフレ圧力があるから、安心して緊縮財政を行うことができる。そして日銀という良い見本?もいるw)
日本だけは、年末を底にしばらくはデフレ気味だが、世界全体がデフレになることはなく、そう遠くないスパンで回復していくだろう(2年後あたりがピーク?)。
その頃に、空洞化が進展してデフレギャップが消え去っていれば、日本もインフレになっていくのだろう。
予想通り日銀への緩和圧力が目に見える形で表れてきた。
銀行が保有国債の下落リスクを抑えるために、今後CDSの買いを増やしていきそうだ。
そろそろ日本国債CDSの買いの転換点かもしれない。
とは言え、売り手の逆張り投資銀行、ヘッジファンドなどが保証能力を超えて破綻ということもあるので、
相手選びが慎重になれば、CDSのコストも上昇して、なかなかリスクヘッジも十分できず、
郵貯などの運用者は、今後、胃が痛い世界に入っていかざるをえないだろう。
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