松井孝冶 HP の抜粋
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投稿者 matuoka yuuji 日時 2010 年 7 月 22 日
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:以下の通り
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◆「蛍の光」が目覚し時計
◆ 私は、昭和35年(1960年)4月に京都市中京区の旅館の次男として生まれました。両親は古い気質の持ち主で、家族4人は旅館の中の一室に住み込んでおりました。団体旅館の朝は早く、毎朝母は5時起きでした。そして7時過ぎには修学旅行生の皆さんをお送りする「蛍の光」が流れます。毎朝「蛍の光」で起床する、ちょっと奇妙な少年時代でした。夜は夜で、父も母も接客でほとんど家族の団欒などのない毎日、それが私が生まれ育った環境です。▲神社で。ちょっとおすまし。 ◆神様への恩返し
◆私の上には、9歳違いの兄がおります。実を申しますと、この兄の出産後に母は 「もう子供は産めない身体やから、 お子さんは大切に育てて下さい」と産婦人科の先生に宣告を受けていました。9年後に私を産んだ母に誰もが 「よくそんな身体で子どもを産めたなあ…」と私の誕生を祝ってくれました。そんな母は、私によくこんなことを言ってくれました。 「おまえは神さんからの貰いもんや。 将来は、この家の商売はお兄ちゃんにまかせて 何か世の中のお役に立てる、 そんな仕事をせなあかん。 そのことで神様にご恩返しせな、なあ。」思えばこの母親の言葉が、私が行政の、そして今や政治の道を歩む原点のひとつだったのかもしれません。
■学 歴
▼小さいころの私(散髪中)
◆幼稚園・小学校
◆幼稚園・小学校を通じて京都市立の日彰校(現高倉小学校)に通いました。地元の方々は皆さんご承知のことですが、日彰校に限らず街中の市立小学校はなべて伝統校で、日彰小学校では、確か私が3年生の時に100周年のお祝いがありました。ドーナツ化の影響で、1年生の1年間を除いて、あとの5年間は1学年1クラス。みんなが互いのことを知り尽くしたような仲のよい学年でした。私は、低学年のころは柔道部、高学年のころは短い間ですが吹奏楽部でトランペットを吹いていました。飼育部での動物の世話や理科部での実験も大好きでした。(粘土で作った火山に穴を開けて その中で砂糖と塩化カリウムをかき混ぜているうちに 爆発して髪の毛がちりちりになった思い出があります)今の私の事務所の斜め向かいにある御射山公園では、毎日のように三角ベースやビー玉、泥巡(集団かくれんぼ)と真っ暗になるまで遊んでいました。卒業後はそれこそみんなまったく別々の道を歩んだ仲間でしたが、本当に楽しい6年間でした。 ★卒業式での一コマ。 緊張してます。◆中学校・高等学校◆そんな私ですが、運良く洛星中学に入学。中学時代は勉強もせず、天文部に所属し、実家の屋上から星ばかりを眺めていました。外部の評判とは裏腹に、洛星というのはのんびりした学校で、中学時代はまともに勉強している仲間は、ほとんどいませんでしたが、それでもみな優秀なのにはただただ驚きました。高校進学後さまざまな本を読むうちに、 「将来は、国際的な仕事がしたい。 そのためには一度、狭い京都を飛び出して 東京で学んでみたい」という志を抱くようになりました。 東大の教養学部・教養学科というところに、国際関係論という専攻分科があることを知り、 (今、思い出そうとしてもどこでどうやって情報を仕入れたのか定かでないのですが・・・)そこを目指すことにしました。それまでの4年間(中学3年間と高1)とは打って変わって高2、高3の2年間は受験勉強に励み、無事入学を果たすことができたのです。
◆大学校
◆東大というと「冷たい」「近寄りがたい」イメージが強いのかもしれませんが、私にとってはとても充実した4年間でした。大学1年のときはセツルメント活動に打ち込み、タクシー運転手さんの労災問題の法律相談などを行いました。その関係で実現した、タクシー24時間乗車体験などは、今思い起こしても、タクシー勤務という厳しい職場環境を知ることができた良い思い出です。大学2年生になると進学振り分けにより、念願の教養学科国際関係論分科に進学しました。少人数ゼミ形式の授業も楽しかったですし、同時に自治会活動にも精を出した日々でもありました。東大でなんといっても驚いたのは、そこに集まる人種の多種多様なことでした。私が所属する文科T・U類19組というクラスだけを見ても、半端でない量の勉強をする奴もいれば、まったく勉強などしなくても済んでしまう天才的な人物もいる。演劇や東南アジア舞踊にとりつかれたような男もいれば、ボートや陸上などに打ち込む男もいる。彼らとの交友は一生の財産となっています。また、セツルメントなどの課外活動では学外の首都圏の幅広い大学に在籍する学生とも交流できました。大学生活の後半の2年間は、法学部、経済学部という本郷キャンパスの伝統ある学部ではなく、駒場キャンパスに新しく創設された学科の自由な雰囲気のなかで、国際的な視点から法律、経済、政治を学ばせていただいたことは大きな収穫でした。ついでに言えば、当時の法律、経済といったような伝統学部にはほとんど女子学生がいませんでしたが、わが教養学部教養学科の三分の一は女性で、美女才女にめぐまれていたことも私の学生生活を彩り豊かなものにしてくれた大きな要因でした。
■職 歴▼日米半導体交渉の一コマ
◆通常残業省
◆ 卒業後すぐに私は、通産省へと入省しました。通商産業省は、またの名を通常残業省と申します。私の場合もご多分にもれず、特に入省後数年間はほとんど電車では家に帰れず、しばしば役所で寝泊りしていました。月の残業が300時間を越えるときもありました。でも、そこまでしないと気がすまなかったし、辛くも楽しい経験でした。私は大学で特に法学や経済を専攻したわけではありません。ですが、周りはその分野で学んだ者ばかりです。楽しく、でも懸命に仕事をしました。「世の中のお役に立つ」には、こいつらに負けてはならぬ。その一心で…。
◆日米半導体交渉
◆次第に周りの私を見る目が変わってきました。それと同時に、いろいろなプロジェクトチームへの勧誘がありました。徐々に周囲の評価が上がっていくのが、手に取るようにわかりました。 その後、アジア太平洋経済協力(APEC)とか、日米半導体交渉など、非常に重要な仕事を任せられるようにまでなりました。「組織の中で自分は評価されているのだ。」その喜びが自信へとつながり、それが明日の仕事へのやる気につながるそんな日々でした。日米半導体交渉で、苦労をしながら米国とは厳しい交渉を重ね、日本の業界の方々に対しては粘り強く説得と調整を行って、なんとか米国からの制裁を回避し、交渉を纏め上げることができた際、省内での私の評価はさらに上がりました。私自身も結果に満足でした。その件が落ち着いた後、みんなで業界の方々と役所の仲間で慰労会をしました。ほんとに楽しい、そしてうれしい慰労会でした。みんな盛り上がって、2次会へと繰り出します。その中で、30数年半導体業界一筋に尽くしてこられた方がいらっしゃいまして、その方と話をしていました。最初のうちはその方も喜んでおられたのですが、徐々に酔いが回って来るに連れて、その方は目に溢れんばかりの涙をためて、
◆「松井さん、本当にこれでよかったのでしょうか?」と問われるのです。アメリカ側にいい顔をするために、日本のいろんなところで犠牲になっている方々がいる。通産省は輸出企業の市場を守り、米国との関係を損ねないために、芸術的なまでの調整を行って、結果として、日本企業は、外国製の半導体を無理やり買わされ、米国の半導体業界が一番喜んでいる。日本の産業の競争力はどんどん衰えていく、こんな状況をあなたは本当に正しいと思われますか、とまるで怒鳴るように、訴えかけるのです。
◆世の中の役に立っているのか?
◆私はその時、あることに気づきました。
「俺は何の為にこのことを、こんなに一生懸命にやってきたのだろう。
もしかしたら、組織の面子の為?
何か物事を治める為?
いや、ただ自分がよく思われたい、高く評価されたいが為ではないだろうか…。
自分のこれまでの仕事は本当に世の中の役に立っているのだろうか…。」洛星に行く。
東大に入る。
通産省に入る。
通産省の中で出世して、いいポストを歩む。それは一体なんだったのだろう…。自分は他人の物差しでしか、自分を満足させられない、そんな状態に陥っているのではないだろうか…。
◆ばっかもん!
◆そのことに気づいたとき、私は、初めてこの役所を辞めようと思いました。 半導体担当部署での残りの一年間、ひたすら日本の半導体産業の競争力整備のために努力をし、少なくとも、泣いて私に抗議をされた方々に対する、自分なりのけじめがついたと思った時期、私の半導体担当としての任期はほとんど終わりに近づいていました。5月の異動期を前にした3月、私は人事担当の先輩に役所を辞めたいという気持ちを伝えました。都心ではありますが、鄙びた場所にある汚い焼肉屋で、煙がもうもうと立ち込める中で、ミノをつまみ、眞露をのみながらのことでした。今でも尊敬するその先輩は、一瞬、箸を止め、眞露を一口飲んだ後、まず、
「ばっかもん」と私を罵倒した上で、
「君はまだまだ行政というものの真髄を見ていない。
通産省みたいな狭い世界が行政だと思うな。
やめるんなら止めやせんが、行政の、そして権力の本当の中枢ちゅうもんを見てから辞めろ」と言い捨てて、眞露を飲み干し、何事もなかったようにミノを食べ続けました。
▼首相官邸
◆首相官邸へ出向
◆2ヵ月後、その先輩は、こともあろうに、辞めたいという人間を、なんと官邸に出向させたのです。官邸での内閣副参事官としての2年間は、後の行革会議への出向と並んで、私の官僚人生でもっとも充実し、政と官との関係について刺激を与えてくれた日々でした。当時私は30代の半ばでしたが、それこそ体力の限界まで働きました。私の仕事は、国会の閉会中は、総理の国会演説などのスピーチライターであり、国会開会中は、国会の質問の収集から、各省への割り振り、答弁資料の最終仕上げまでの責任者でした。国会開会中は、毎日午前3時まで仕事をして、休みの日は死んだように寝ていました。閉会中は、土日もなく演説ネタを考えていました。時間がある合間を縫って、日本の役所で初めて、官邸にサーバーを導入し、ホームページを立ち上げました。
◆過去の自分も・・・・
◆官邸で気づいたことは、官僚にもいろんな人間がいるけれど、真の国益を考えている人間が、こんなにも少ないのかということです。自分の省庁に都合のいいことは、どの省庁もやりたがるけれど、自分の省庁に都合の悪いことは誰もやらない。国益は、省益に省益は局益にどんどん矮小化されている現実に大きな失望を感じました。しかし、同時にそうした経験を通じて、あらためて、自分自身がつい一年前まではまさにそうした存在であったのだと気づかされました。自分の役所の利益を追求する。役所から評価される仕事をやる。そういう過去の自分に、官邸で、総理に仕える立場から、霞が関の各省庁の官僚たちと付き合ってみて改めて強く気づかされたのです。同時に、政治家にも、利益団体の手先のような政治家もいれば、極めて誠実に国益というものを考えている人々も少なからずいることも知りました。これまで、政治家といえば「利用する」対象としてしか見ていなかった自分を恥じました。
◆国益を貫こう!
◆官邸生活を通じて、ともかく、自分だけは、親元の通産省からクビになってでも、自分の信じる国益を貫こうと固く誓いました。そして政治家になることを現実の選択肢として真剣に考え始めたのも丁度このころからでした。充実した官邸生活でしたし、中には通産省にもどらず官邸に残ってはどうかとのお誘いもありました。官邸を最後に、官僚生活を終えようかという迷いもありました。でもローテーション人事の哀しさ、私はもう一度通産省へ戻ることになります。
◆むなしさ
◆私に示された、通産省での配属は、大臣官房総務課課長補佐(法令審査委員)でした。やるからには、自分の良心に照らして恥ずかしくないように懸命にやろうと心に誓いました。しかし、官房総務課法令審査委員というのは、通産省のコントロールタワーともいえるポジションです。法令を審査するというよりは、通産省全体の政策を審議する若手中心の役員会の副議長兼次期議長のようなポジションです。通産省という大組織の中で一生懸命省益のために働いている人間を叱咤激励し、さらに省の利益のために働かせるのがその任務です。ありていに言えば、通産省の権益を守り、拡張するその門番のようなポジションです。通産省という役所は霞が関の中ではもっともリベラルな役所ですが、それでも、権限折衝の際などは、官房総務課が筆頭となって、省益を追及する立場になります。私は、着任後3ヶ月で、国益というものの価値を知ってしまった人間が、省益追及を任務とする職についたときのむなしさを、いやというほど味わうことになります。次第に再び「退職」の文字が頭をよぎっていくようになるのです。でも一つだけ、辞めるのであればこの仕事をやってから去りたい、その思いを強く訴えかけた仕事があります。それが「行政改革」でした。
◆行政改革をやって辞めよう!
◆個人的に行政改革について記述したメモが、ある人を介して、権力中枢に入りました。突如として行革が政権の主要課題になります。私の考えも反映される形で、総理直属の行革会議が発足することになり、主要官庁から一人ずつ若手のエースを投入することが決定されました。私は、当然のことながら、自分が行革会議に出向したいと志願を致しました。 何度も退職を口にしている私のようなものを行政改革のメンバーに入れるのはどうか?という議論や、また逆の意味で、 通産省のコントロールタワーである官房総務課次期筆頭課長補佐(筆頭法令審査委員)を 出向させることは、省内の秩序を壊すのではないか?など、いろいろと議論が飛び交いました。ですが、通産省から誰か一人といったとき、橋本行革の基本コンセプトを描き、官邸経験もあるこいつにやらせるしかないだろうと、すったもんだの挙句に行政改革会議に出向させていただけることになりました。
◆政治力
◆行革会議での経験は書き出すと一冊の書物になってしまいます。ひとつだけ申し上げられるのは、当時の総理大臣、橋本龍太郎さんについては、橋本派のトップということでいろんな評価もありますが、こと行革に関する限り凄い政治家であるということです。ともかくも、明治以来の省庁体制を壊す大仕事を自らの責任で提案・実行された、その胆力だけでもきちんと評価を行うべきです。その下で仕事をさせていただいたその時期に、私は政治の力の素晴らしさを味わうことができました。また、政治を補佐する仕事のやりがいも感じることができました。
◆分身
◆そんな中、ひとつの出来事が私の中に残っています。行革会議の中間集中審議というのがありまして、そのために昼夜問わず資料作成に没頭していました。ある日の会議の中で、ある官庁が分断される決定が申し渡されました。それを聞いた私の同僚が会議が終わった夕刻にこう言うのです。 「松井さん、悪い…。本当に気分が悪いから、…今日は帰らせてもらう…。」集中審議の途中ですから、会議が終わったからと言って帰れるものではありません。仕事は山ほど残っています。しかし、その同僚は本当に真っ青な顔をして、這うようにして帰って行きました。
「少し前の自分を見ているようだ…。」私は思いました。
組織と自分を一体化している人がいる。組織が分断されるということは、その人の身が切り裂かれるのと同じような気分なのだ。たぶん、数年前の自分が同じ状況にあれば、彼のようになっていたのかもしれない…。
◆水の泡
◆その後、行革は意外な展開を迎えることになります。橋本総理の影響力が低下するや、族議員の猛烈な巻き返しが始まり、行革チームは政治の力に連戦連敗を繰り返します。結論から申せば、私たちが精魂込めて作り上げてきた改革案もほとんど水の泡に帰することになるのです。その宣告のあっけないこと。
「最後の重要事項はこれこれ、懸案事項はこれこれ。
そして議論の上、こういうことになりました。受け入れてください。」以上。数十回の議論を行ってきた行革会議の委員の方々も最後は疲れ果て、挫折感を胸に秘めながらも、まぁやむをえないでしょう、よくここまで来ましたよ、というよりほかにありません。
◆官僚と政治
◆何とも言えない、この敗北感。どういう理由でひっくり返ったのかという理屈は一切なし。省庁の数を半分にする、官邸主導の内閣を作るという案を出したのも政治ならば、その案をその会議の委員に十分説明もできずにひっくり返すのも政治。 これがこの国の社会の現実…。官僚と政治の関係とは、こういうことなのだと痛感させられました。
◆通産研究所
◆その後の2年間、私は、通産研究所の独立行政法人化というプロジェクトに取り組むことになります。霞が関の外側に、霞が関と対抗できる、真のシンクタンクを作りたい。政治主導の社会を作るにしても、族議員と業界が仕切るそんな政治主導では意味がない。そのためには、 霞が関 = 業界団体 = 族議員という鉄のトライアングルに楔を打ち込むことのできるような、まともな政策集団が必要だというそんな思いで、仕事をさせていただきました。この仕事はおそらく今後5年、10年ではなく、私のライフワークのひとつになると思います。青木昌彦先生という、スタンフォード大学教授で世界的な経済学者の下にあって、ライフワークになるような課題を、官僚生活最後の仕事として担わせていただいたのは、私にとって何よりの幸福でした。 そして、2000年10月3日。私は官僚を辞めました。 偏差値で序列をつけるような内部評価。それに委ねた官僚の昇進システム。その価値観で(ある時期まで)生きてきた自分の官僚生活に、ついに終止符を打ちました。◆政治の世界◆私は政治の世界に飛び込みました。政治の世界のダイナミックな動き、行政が議論に議論を重ねても、最後に決めるのは政治であるという事実。そして、その政治家を選ぶのは国民。官僚とは重みが違います。しかし現実に政治を動かしているのは、あまりに利権誘導的な動きであり、これを変えなくては、この国のかたちは変わりません。自分の官邸生活においても、最後の行革会議における土壇場の逆転劇を含め、いろんなドラマを見てきてつくづく感じたのは、自分が本当にやりたいことを実現するためには、やはり政治の道を志し、政治の世界を変革するよりほかにないということです。官僚が黒子として、いかに政治家を操っていようとも、黒子には、政治を、そして、社会を変えることはできません。官僚は、例えば弾避けの塹壕の中から弾を撃っている、そんな存在です。敵が退いたと思ったら、弾を撃つ。だけど敵が攻めてきたら、塹壕に隠れてしまう。所詮自分の身体を張っていないのです。しかし政治家は違います。白兵戦で弾避けのない場所で、お互いに向き合っているのですから。ある意味、これは素晴らしいことだと思うのです。結局最後は、自らの身を弾除けのない大地に置けるものしか、大事を決することはできません。所詮、白兵戦に打って出られない人間がどんなに立派なことを言っても、それは戦場で戦う戦士から見れば書生論に過ぎません。 男なら、男なら、やってみな。城山三郎さんの小説、「官僚たちの夏」の主人公、風越信吾の口ずさむ唄の文句です。やるんなら、最終的に自分自身が責任を取るしかない政治の世界でやるしかない。そんなつもりで、私は、政治の世界に飛び込みました。
◆参議院議員
◆皆さんに頂いた貴重な貴重な6年間のこの任期。 私、松井孝治がどのような生き様をするか、どうか、皆様に、しかと見届けていただきたいと思います。 皆さんの熱い視線に耐えられる、そんな政治家でなければ、政治をやる意味はありません。 松井の政治生活は始まったばかり、大口をたたいた以上、今後、私の政治姿勢がこの文章に照らして恥じるようなものとなった場合、私には政治を行う資格はなくなります。読者の皆様の叱咤激励を心からお願い申し上げます。
2001年12月16日
参議院議員 松井孝冶
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