2010年6月29日13時45分 朝日
http://www.asahi.com/business/update/0629/TKY201006290235.html
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak40/msg/693.html
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http://www.asyura2.com/10/lunchbreak40/msg/693.html
・・・
IMFの報告書全体を読んでいません。しかし報告書の最初にこんな文章が出てきます。引用。
This report is based on discussions held in Tokyo during May 10–19.
・・・a seminar co-hosted by OAP and the Ministry of Finance on reshaping the global financial landscape and the implications for Asia.
Counterparts. The mission met with Bank of Japan (BoJ) Governor Shirakawa, Senior Vice Minister of Finance Noda, Senior Vice Minister of the Cabinet Office Furukawa,Senior Vice Minister of the Cabinet Office Ohtsuka, Vice Minister of Finance for International Affairs Tamaki, BoJ Deputy Governors Nishimura and Yamaguchi, and other
senior officials, academics, and private sector representatives.
完全にIMFと言うより財務省案件です。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/208.html
芸術というものは、「切れ目」があるもの。
音はつながっていても、その流れの中に明確な「切れ目」がある。
だって、そもそも芸術作品というものは、創作する人間に神の言葉が降り降りたから、永遠に残る作品になったわけでしょ?
その瞬間は、人間の発想の「流れ」は、切れますよ。
逆に言うと、だら〜とつながっている「流れ」を持つ作品は、たとえ音に切れ目があっても、人間の思考の範疇にあるわけ。
以前にマルグリット・デュラスの「インディア・ソング」を考えた際に触れましたが、「最適化とまり」の作品と言えるわけ。そんな作品は、「夜明け」に到達できないnormalな量産品ですよ。
最適化の作業を超えた神の声。
そんな瞬間には、時間の流れが止まってしまうもの。
だから、「切れ目」が発生することになる。
音がつながっていても、「流れ」が切れるわけ。
もちろん、音楽作品において、そんな「切れ目」があれば、音が一端切れることもありますし、音楽の音色の変化となるケースもありますし、テンポが変わるパターンもある。音楽の表情の変化には色々なパターンがあるもの。
しかし、音楽を聞いていて「ああ!この箇所で、単に音が変化したのではなく、世界が変わったなぁ・・・」と思うこともあるでしょ?
表現された「世界の切れ目」は、現実的には、音楽の流れにおいても切れ目となる。だから、音楽の切れ目に注目すれば、表現された「世界の変化」あるいは、その作品に現れた創造者の声も、見えてくる。
日頃から創造的な日々を送っていれば、そんな「切れ目」に対する反応が鋭くなるわけですし、ルーティーンな日々を送っていれば、明確な切れ目があっても、見過ごしてしまう。
今回取り上げるのは、音楽映画「フルトヴェングラー その生涯の秘密」と言うもの。
芸術的な映画と言うより、記録映画に近い映画です。
この映画を元に、フルトヴェングラーという人を考えて見たいと思っているわけ。
フルトヴェングラーと言う人は、第2次大戦を挟んでベルリン・フィルの指揮者だった人でした。
1954年にお亡くなりになっています。没後50年以上経っているのに、今でも崇拝者はいたりしますよね?
フルトヴェングラーは当代随一の大指揮者であったとともに、作曲も、しました。
第2次大戦という困難な時代に、よりにもよって、ベルリン・フィルの指揮者だったため、ナチとの関係が色々と指摘されることになる。
その映画でも、そんなシーンが出てきます。
ナチとの関係は、後で考えてみます。
とりあえず、ここで考えてみるのは、切れ目の問題です。
実は、このDVDの解説が、結構面白い。
日本の音楽関係者さんが解説をなさっておられるようですが・・・
「切れ目」への反応が・・・何と言うか・・・うーん・・・と言わざるを得ないもの。
実は、このDVDの終わりの方に、第2次大戦の終結前にフルトヴェングラーがワーグナーの「マイスタージンガー」の前奏曲を指揮するシーンがあります。
フルトヴェングラーとオーケストラはコンサート会場(と言っても体育館かな?)で演奏している。そこにはナチのカギ十字の旗が掛かっている。軍需工場の慰問の意味もあるのかな?
そして映画では聴衆が映っているわけです。フルトヴェングラーとオーケストラの演奏シーンがあって、聴衆が真剣に聞いている映像が流れて、そしてまた演奏シーンがあって、そして、聴衆のシーン・・・と繰り返される。
映っている聴衆は、実に、真剣な、表情。
DVDの解説では、「スゴイ演奏だ!だから、聴衆がこんなにも真剣に聞いている!」なんて書かれていますが、読んだ私はその言葉にビックリ。
映像を見れば疑問に思うはずですが、フルトヴェングラーとオーケストラによる演奏シーンと、真剣に聞く聴衆のシーンって、同時に収録したものなの?
聴衆のシーンは別撮りじゃないの?
そして、後で編集したのでは?
同時収録の聴衆もいるでしょうが、全部が全部同時収録なの?
映っている聴衆に当たっている光の具合って、実際のコンサート会場ではありえない場合がある。
それに聴衆と演奏家が一緒に映っているシーンがほとんどない。聴衆の映像に、音楽が流れるだけ。
それに、フルトヴェングラーのコンサートなのに、それに特に正装している服装ではないのに、まあ、映っている聴衆の周囲がスカスカで、一人しか映っていない場合もある。
安い席なら、もっと聴衆を詰め込むでしょ?ただでさえ希望者が多いんだから・・・
真剣な表情で音楽に聞き入っている聴衆の姿って・・・まあ、演技のプロなら当然ですよ。
そもそも当時のドイツは純然たる独裁国家。そのイベントを収録した映像に映っている人物が、まるっきりのカタギと言うわけには行かないでしょ?
それこそ今だったら、北朝鮮政府が映した映像で映っている「一般国民」が、どんな素性の「一般国民」なのか?ちょっと考えればわかるはず。
それに当然のこととして、当時のカメラは巨大なもの。ゴダールの「勝手にしやがれ」のように手持ちカメラでの撮影と言うわけにはいかない。自分の目の前にそんな巨大なカメラがあったら、落ち着いて演奏を聞くどころではないでしょ?
そして、当然のこととして、相当の光を当てないと、当時の感度の低いフィルムには収められませんよ。映っている「聴衆」にも、相当の光が当たっていたはず。それに、当時の政治体制を考えれば、聴衆だって「ミスは許されない」状態。こりゃ、「真剣」にもなりますよ。命が掛かっているもん。
「一般の聴衆が、こんなに真剣な表情で!」
・・・なんて・・・素直ないい子だねぇ・・・
何も私はその「解説」を失笑しているわけではありませんヨ。
シーンの切れ目に対する反応の鈍さについて考えているだけです。
演奏シーンがあって、聴衆のシーンへと続く・・・
その「切れ目」に何があり、どんな意図があったのか?
日頃から創造的なことをやっている人だったら、そんな切れ目を見逃すはずはないんですね。
逆に言うとルーティーンな日々を送っている人は、そのような「切れ目」に反応することは難しいんでしょう。
これはしょうがない。日本の音楽現場と言うものは創造現場とは距離があるんでしょうね。
創造的な瞬間、人間の思考が途切れる絶対的な瞬間・・・
そんな瞬間とは無縁なんでしょう。申し分のない立派な市民と言えるんでしょうが、芸術家とは言えませんね。
まあ、その「解説」は切れ目への反応の鈍さの実例。逆に、切れ目への反応の鋭さの実例というと、実は、このDVDで典型的な箇所があります。
映画に登場しているドイツの音楽研究者さんがフルトヴェングラーが演奏したバッハのブランデンブルク協奏曲の第5番について考えている箇所。その演奏が持つ切れ目がすばらしい。
フルトヴェングラー指揮による、バッハのブランデンブルク協奏曲・・・そんな組み合わせの方に、21世紀に生きる我々は失笑してしまう・・・そんなものでは?
フルトヴェングラーが活動していた時代から、バッハの演奏スタイルは大きく変わってしまいましたからね。
実際に、この演奏でもチェンバロではなくピアノが鳴り響く。現代的と言うか、古いというか・・・
しかし、これがまたビックリするくらいに面白い。
単に、古楽器による演奏に馴れた我々の耳に、逆に新鮮に響く、と言うものではなく、音楽の「切れ目」が生きている。
音楽の切れ目から、神からの霊感そのものが、鮮やかに浮かび上がる。
「ああ!ここでバッハに、神から霊感があったんだなぁ・・・」って、誰だってわかるのでは?
私はその「切れ目」の部分で、魂が身体からスーと抜けて行く感じがしたくらい。
演奏スタイルが古いとか正統的とかの議論よりも、創作者に降り降りた神の言葉を再現することの方が重要でしょ?
フルトヴェングラーの演奏を聞いていると、その切れ目から、まさに「神の言葉」が聞こえてくる。
創造的な音楽は、音楽の流れの中に、たまたま切れ目があるのではなく、切れ目をつなぐために、メロディーがある、むしろそっちのスタイルに近いもの。
それこそフルトヴェングラー指揮の有名なバイロイトでのベートーヴェンの第9交響曲の演奏ですが、あの「歓喜に寄す」のメロディーが、「入ってくる」その切れ目のすばらしさ・・・
それは誰だって認めるでしょ?全体が問題ではなく、切れ目が問題と言えるのでは?
神は切れ目に宿るわけ。
切れ目への鋭い反応。そしてそれを再現する技量。
フルトヴェングラーが、確かに、当代随一の指揮者であったのも、よくわかりますよ。
さて、前にも書きましたが、このフルトヴェングラーは、ナチとの関係が色々と指摘されたりします。
多くの芸術家がドイツを後にしたのに、ドイツ国内に留まった。
もちろん、彼もナチに対して抗議の声を上げたのだけど、どうも「あいまい」な態度。
あるいは、このDVDに登場する画家のココシュカの言い方をすると、「とまどう」態度。
駆け出しの演奏家ならいざ知らず、指揮者としては当代随一の人だったんだから、生活の問題はないはず。心情的にはナチにシンパシーを持っていたのでは?
そんな指摘が、ナチの蛮行が本格化する前から、フルトヴェングラーに寄せられていたわけ。
それに対し、
「音楽は政治とは関係ない!」
「私はドイツ音楽に忠誠を誓っているのであって、ナチに忠誠を誓っているのではないんだ!」
「ドイツ音楽を守るためにも、ドイツに残る。」
彼はそのような発言をしたわけ。
「芸術と政治は関係ない!」という主張は、別の言い方をすると、「政治と芸術の間には切れ目がある。」と言う主張とも言えるでしょう。
その主張はともかく、もっと明確な態度でもよかっただろうし、取ることもできたのでは?
政治と関係ないと積極的に思うのなら、政治的な場所から切れて、積極的に距離を置けばいいだけ。
ただ、その動乱の時代の当事者でない部外者が、もっともらしくコメントしても意味がない。
ただ、ナチとの関係が「あいまい」であったとは言えるでしょう。
だって、他の多くの音楽家は、もっと明確な態度で臨んだわけですし、そのような断固とした態度をフルトヴェングラーに勧めた人も大勢いた。
つまりフルトヴェングラーには他の選択肢を知っていて、その選択の可能性もあったわけ。
いっそのこと、ナチに忠誠を誓っても、それは個人の政治信条の問題。
ナチに反対して、さっさと亡命して、他の国から「ナチからの解放」を呼びかけるのも、立派な態度。
フルトヴェングラーは、「あいまい」なんですね。
しかし、フルトヴェングラーの「あいまいさ」って、ナチとの関係だけではない。
音楽家にとって、もっと重要な問題においても、実にあいまい。
音楽家であることはいいとして、演奏家なのか?作曲家なのか?
その問題と真摯に向き合ったりはしない。
「ボクは本当は作曲家なんだ!」なんて言うのはいいとして、実際に作曲をするわけではない。作曲する時間があっても、何とかして逃げ出そうとする。
第1次大戦において、それこそ若いフルトヴェングラーは率先して兵役に付こうとしたらしい・・・
せっかく、徴兵検査で不合格になったのに・・・志願するなんて・・・
愛するドイツのため・・・は、いいとして、そのドイツの芸術を発展させることの方が、創作活動をする者の重要な仕事でしょ?
「ベートーヴェンやブラームスを産んだ祖国を守る!」なんてお題目はいいとして、だったら、なおのこと自分が作曲することでベートーヴェンやブラームス以上の作品を残した方が祖国ドイツにとっても価値があるのでは?
フルトヴェングラーは、作曲の時間ができると、何かに首を突っ込んで、その作曲できる時間をつぶしてしまう。そんなことの繰り返し。
その点は、ナチとの「あいまい」な関係で非難された作曲家のR.シュトラウスとは全然違っている。
シュトラウスは、要は自分が作曲できて、自分の作品が上演されれば、それでいい・・・と、割り切っている。
ナチに対しても、いつの時代にも存在する、単なる「よくある障害物」くらいの認識。
気に入らないヤツらだけど、明確には敵にする必要はない・・・それよりも、アイツらを、うまく使ってやれ!
シュトラウスはナチとはあいまいであっても、音楽活動に対しては、実に明確なんですね。
シュトラウスが取ったこのような態度は、分野は違っていますが、ロケット開発のフォン・ブラウンとも共通しています。
自分が本当にやりたいことがわかっているものの発想。これこそが天才というものですよ。
それに対しフルトヴェングラーは、「あいまい」な態度ということでは首尾一貫している。
ナチともあいまい。作曲活動もあいまい。
あるいは、フルトヴェングラーのライヴァル関係であったトスカニーニとの関係もあいまい。
トスカニーニを嫌いなら嫌いでいいわけですが、「敵にしたくない!」「嫌われたくない!」あるいは、「嫌ってはいけない!」なんて心情が見えてくる。
いつだって誰に対してだって判断保留の状態。
トスカニーニにして見れば、フルトヴェングラーは、
指揮者としては偉大。
政治的には無能。
友人とはいえない。
と明確。トスカニーニだって他の指揮者についての評価や関係についてウジウジ考えているヒマなんてありませんよ。どうせ共演するわけでもないし・・・割り切って前に進むしかないでしょ?
フルトヴェングラーの行動なり発言を読んでいると、
「で、アンタ・・・いったいどうしたいの?」
なんて思ってしまう。
フルトヴェングラーに対するトスカニーニなり、F.ブッシュの怒りも、そのあたりなのでは?
もちろん、「芸術と政治は関係ない!」という正論は正論。
現実は、そんなものじゃないけど・・・
しかし、「芸術は政治とは関係ない」と言う理屈はいいとして、そうなると、芸術作品に対する理解ってどうなるの?
そう思いませんか?
だって、ナチの活動なんて、共感できないのはいいとして、考える価値のあるものですよ。
たとえば、ナチの活動を見ながら、「愛を断念することによって、世界の支配をもくろむ」アルベリヒを連想しなかったのかな?
復讐だけがそのアイデンティティとなったハーゲンを連想しないのかな?
好人物であるがゆえに利用されたグンターと、ヒンデンブルク大統領の相似性を考えなかったのかな?
というか、悪企みの「弾除け」にされた好人物グンターの役回りを、フルトヴェングラーはどう思ったのだろう?
ヒンデンブルク大統領とは別に、この役回りを見事に演じた人が、まさに、いたわけでしょ?
フルトヴェングラーはグンターのことを「自分の背景で悪企みが進行しているのに気がつかないなんて・・・バッカだなぁ・・・コイツ!」なんて思ったのかな?
ナチは自分たちのことをジークフリートに例えていたのでしょうが、むしろアルベリヒやハーゲンにそっくりですよ。
そして、最後のカタストロフも、オペラのまま。
ヒトラーと初めて会って話をしたフルトヴェングラーは、ヒトラーのことを「取るに足らない人物」と評したそう。
そんな単純な見解って、人に対する洞察力が、いちじるしく劣ると言うことでしょ?
だって、その直前に、フルトヴェングラーは、ジークフリート・ワーグナーの未亡人でありバイロイトでの覇権を目指すヴィニフレート・ワーグナーと衝突しました。
ヴィニフレートは音楽について、明確な知識もない人間なのに、指揮者に色々と指図して、フルトヴェングラーは「もう、やっとれんわいっ!」とブチ切れたわけ。
バイロイトの主人として、バイロイトを盛り立てる・・・その意欲は意欲としていいのですが、音楽面でフルトヴェングラーに指図してもしょうがないでしょ?
しかし、コンプレックスの強い人間ほど、そんな無用な指図をやりたがるもの。
それだけ自分を実態以上に「大きく」みせようとするわけ。
そして自分自身から逃避したいわけ。
そんなヴィニフレードとの衝突の後で、ヒトラーと会談して、ヒトラーとヴィニフレートとのメンタル的な共通性を感じなかったのかな?
芸術の分野も、政治の分野も、その主体は人間でしょ?
その間には明確な「切れ目」なんて無いんですね。
芸術作品に登場する人物の心理を理解できても、実際の人間のキャラクターはまったく理解できないって、やっぱりヘン。
実際の人間も、オペラなどでの描かれている人間も、似たキャラクターの場合って多いものでしょ?
この点について、実に笑える話があります。
第2次大戦の終結の後、ナチとの関係を理由に裁判にかけられるフルトヴェングラー。
その証人として、とあるオペラ歌手が出てきたそう。
そのオペラ歌手は、フルトヴェングラーとナチとの関係について、ウソ八百ならべて、フルトヴェングラーを陥れようとしたらしい・・・
しかし、そのオペラ歌手には、フルトヴェングラーとの間に過去に個人的な「いさかい」があり、その個人的な感情で、フルトヴェングラーに嫌がらせをしたんだそう。
それは「マイスタージンガー」のベックメッサーの役をやりたくて応募したけど、フルトヴェングラーがその歌手を採用しなかったので、その「恨み」を持っていて、それを裁判という場違いな場でぶつけたわけ。
いやぁ!ベックメッサーになれなかった歌手の、見事なベックメッサー振り。
芸術作品を理解するのに、最良の資料は、自分たちの目の前にあるものなんですね。
あるいは、教養人とされるフルトヴェングラーですが、ヒトラー,ゲッペルス,ゲーリングのナチの3巨頭のキャラを、フランス革命のロベルピエール,マラー,ダントンの3巨頭とのキャラとの関連で、見るようなことはなかったのかな?
禁欲主義者,マスコミ対応,享楽家と、組み合わせもちょうど合っている。
教養人フルトヴェングラーの教養って何だろう?
書かれた楽譜なり、本での記述は理解していても、実際の人間を洞察するのには、何もできない。
フルトヴェングラーって「ブンカジン」だなぁ・・・と思ってしまう。
まあ、そんな実際の人間に対する洞察力が著しく劣っていても、演奏家としては何とかなるんでしょう。
それこそブルッックナーのような作品を演奏するのだったら、それでもいいのかも?
しかし、そんな人が、作曲などの新しい作品を作ることができるの?
ゼロから創作することができるの?
現実を見る目がそんなにない状態から、ゼロから創作するインスピレーションなんて、沸き起こって来るの?
フルトヴェングラーは、楽譜から「神の言葉」を読む取る能力はすばらしいけど、神の言葉を直接聞ける人間なのかな?
R.シュトラウスが要領よく立ち回ったのは、それだけ「人を見る目」があったからでしょ?
逆に言うと、そんな目がないとオペラなんて書けませんよ。
フルトヴェングラーが言う「時間がなくて、作曲できない・・・」は、理由としてポピュラーですが、作曲なんて基本的にはアタマの中でやるものでしょ?
電車で移動している最中にもできるじゃないの?
あるいは、アルキメデスのようにお風呂に入った時にすばらしいアイデアなんて浮かばなかったの?
そのようなアイデアをしっかりコンポーズするには、まとまった時間も必要でしょうが、アタマの中でラフスケッチくらいはできますよ。
それなのに、どうして20年以上も作曲に手をつけないの?
それって、「どうしても曲にまとめ上げたい!」という霊感やアイデアがなかったからでしょ?
だって、目の前にいる実際の人間に対する洞察力が、これだけ劣る人なんだから、霊感なんて来ませんよ。
もし霊感があったら、とりあえずは、小さな作品からでも、作曲するでしょ?
まずは小さい規模の作品を制作しながら、自分自身の本当の霊感なり、作品にする問題点を自覚できるわけでしょ?
その後、大規模な作品に進んでいけばいいじゃないの?
作曲活動それ自体が、そして自分が作った「小さな作品」それ自体が、自分自身がやりたい作曲活動の方向性を教えてくれることがあるわけ。
いきなり大規模な作品を制作って、ヘンですよ。
彼の作曲した作品ですが・・・
DVDの映像では、カイルベルトとバレンボイムが、肯定的な評価をしています。
しかし、どうしてコメントがカイルベルトとバレンボイムによるものなの?
実は、この映画には、もっと適役が登場しています。
それは、テオドール・アドルノ。
シェーンベルクに作曲を習い、マーラー以降のドイツ音楽について一家言以上のものを持つフランクフルト学派の哲学者アドルノが、フルトヴェングラーが作曲した音楽を、「理詰め」で絶賛すれば、この私などは「ははぁ!わかりました!わかりました!もうわかったから勘弁してよ!」って泣きを入れますよ。
ところがアドルノは、フルトヴェングラーの指揮を絶賛しても、作曲した作品には何も語らない。
当然のこととして、この映画を制作した人は、アドルノに対して、作曲家としてのフルトヴェングラーについて聞いたはずです。
カイルベルトやバレンボイムにも聞いたくらいなんですから、当然でしょ?
アドルノは、まあ、その話題を避けたんでしょうね。
ウソは言えないし、故人を冒涜するようなことはしたくないし・・・
まあ、アドルノが言いたくないレヴェルの作品というわけなんでしょう。
技術的な問題はともかく、「どうしてもこれを表現したい!」という気持ちが入っていないと、それ以前の問題ですよ。
彼の作曲した音楽からは「どうしてもこれを表現したい!」「これだけでもわかってほしい!」という強い意志が感じ取れない。
しかし、彼の「指揮した」演奏を聞いて、「どうしてもこれを表現したい!」という強い意志が聞きとれない人はいないでしょう?
そして、演奏には、明確な「切れ目」もある。
その切れ目が、人間の発想から、神の発想への「切れ目」となっている。
そして、その「切れ目」を通ることによって、音楽の高みが、「より」高みへと通じ、深みが「より」深みへとなっていく。
彼が指揮した音楽が作り出す「切れ目」を、彼と一緒にくぐることによって、我々聞き手も「より」深淵へと、到達できる。
『ここで作曲者に神の言葉が降り降りたんだ!』
って、フルトヴェングラーの指揮した音楽からは明確にわかる。
彼は演奏家としては、あいまいさからは無縁。
彼としては、演奏している時だけが、自分になれた・・・というより、完全なオコチャマになれた・・・のでは?
それ以外の時は、周囲に配慮しすぎですよ。
完全なオコチャマになり、幼児のように心を虚しくしているので、まさに天国の門は開かれる。
「オレは本当は指揮者ではなく作曲家なんだ!」
「本当は指揮などをしている場合じゃないんだ!」
「作曲をしないと行けない!」
と思っているので、指揮そのものは一期一会になる。フルトヴェングラーにしてみれば指揮は禁忌のものなんですね。
禁忌のものだからこそ、なおのこと惹かれるって、人間誰しもそんなもの。
おまけにそっちの才能は人並み外れているんだし・・・やってはいけないものだからこそ、火事場のバカ力も出たりする。
だからますますやっていて楽しい。
火事場のバカ力なので、精神的に落ち着くと、周囲に配慮した「いい子」になってしまう。
自分に自信がない人は人から誉められることを渇望するもの。
それだけ自分自身が本当にしたいことがわからないので、人からの評価に依存してしまうわけ。
しかし、「いい子」では、逆に神の言葉は聞けないでしょ?
だって、「心を虚しくしている」幼児は、決して「いい子」ではないでしょ?
「いい子」って、それだけ外面的なことにこだわっているということ。人の評価に依存しているということ。それだけ神からは遠いわけ。
フルトヴェングラーの父親は、なんとアドルフという名前らしい・・・考古学の教授をなさっておられました。
そのアドルフさんは、息子の才能を認め、サポートした・・・のはいいとして、息子の意見を聞いたの?フランクな会話があったの?
どうも、そのアドルフさんは厳格な人だったらしい。
厳格と言っても様々なヴァリエーションがあります。
自分に厳しいというパターンから、問答無用で強圧的というパターンまで。
息子のウィルヘルム・フルトヴェングラーが極端なまでに「いい子」でいようとしたことからみて、まあ、問答無用の父親のパターンでしょうね。
そうなると、一般的に子供は抑圧的になってしまう。
自分で自分を抑圧するようになるわけ。まさに「いい子」でいなきゃ!って強迫的に思ってしまう。
彼も、自分の父親アドルフの問題を真剣に考えればいいのでしょうが、どうもそこから逃げている。
父親アドルフの問題から逃げていれば、総統アドルフの問題を考えることからも逃げるようになりますよ。だから眼前にどんな事件があっても、鈍い反応しか示せない。
自分が一番よく知っている人物の問題から逃避する人は、眼前にある具体的な人物や事例から考えることを逃避してしまうものなんですね。
それこそ、フェミニズム運動をなさっておられる女性たちは、自分の父親の問題については絶対に言及しないものでしょ?
一番よく知っている男性の問題を考えなくて、男女の問題云々もないじゃないの?
同じように、フルトヴェングラーは、一番よく知っている人間の問題から逃避して、具体的な現実の人間の問題から次々と逃避しだす。
そして、最後には指揮台に追い込まれ、もう逃げようがないとなると、爆発してトランス状態になり火事場のバカ力が出る・・・
普段は逃げ回っている作曲家フルトヴェングラーなり、人間フルトヴェングラーも、指揮台に上るという「切れ目」を経ると、「あいまいさ」から解き放たれ、神懸かりとなって、神の言葉が聞けてしまう。
指揮台に上るという「切れ目」を経ることによって、「切れ目」を作り出すことができる芸術家になる。
指揮台に上る前は、アドルフから逃げ、アドルフの言葉を聞く状態。
指揮台に上ったら、神の言葉が聞こえる。
そういう意味で、作曲から逃げ出すこと自体が、神懸かり的な演奏をするエネルギーになる。
しかし、そんな彼は、本当に、「作曲をしなくてはならない。」という状況になったら、どこに逃げるんだろう?
フルトヴェングラーにとっては、演奏は、仕事でもなく使命でもなく、いわば治療とか療法に近いもの。しかし、だからこそ、彼にとっては必然でもある。作曲では彼は救済されないわけ。
個人的なことですが、私が彼の演奏のレコードを聞いたのはシューベルトの長いハ長調の交響曲の録音。オケはベルリン・フィル。
その演奏を聞いて、まずは最初のホルンにビックリしたものです。
「これが20年後に、パリのオーケストラよりもラヴェルらしいラヴェルがやれると自慢されてしまうオケの姿なのか?」
最初もビックリですが、第1楽章の最後の部分にもビックリ。
オケのメンバーが、気が狂ったように演奏しているのがよくわかる。
オーケストラのメンバーや聴衆に「感動」を与えられる指揮者は結構いるでしょうが、オーケストラのメンバーや聴衆を「発狂」させるのは、ハンパじゃありませんよ。
とてもじゃないけど、人間業ではできないこと。
そして、そのシューベルトの演奏を聞いていると、この演奏家が、死に場所を探して暴走していることがスグにわかる。
彼は逃げて、逃げて、死に場所を探して暴走し、その暴走がオーケストラや聴衆に伝わる・・・
死に場所を探すエネルギーが、演奏のエネルギーになり、生きるエネルギーになる・・・って、矛盾しているようですが、まあ、芸術・・・特にドイツ芸術って、そんな傾向があったりするでしょ?
ドイツ精神主義なんて言葉もありますが、フルトヴェングラーの音楽を聞いていると、そんな主義主張よりも、彼岸にあこがれる心情の方が強いのでは?
しかし、彼岸に憧れ続ける心情が何をもたらすか?
そんな一期一会の絶妙な均衡が、彼の音楽をかけがえのないものにしている・・・
演奏専従だったら、演奏だってルーティーンなものになってしまって、一期一会にはならないわけですからね。
この点は、他の演奏家にはないこと。彼は演奏家になりきれなかったから、偉大な演奏家になった・・・
あるいは、職業としての演奏家としては不十分であったために、一期一会の演奏は達成できた。
相変わらずの、反語的な言い回しですが、偉大な表現者って、反語的な存在なんですね。
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-11/07-11-01.htm
「作曲家としてのフルトヴェングラー」
彼は、ある意味において、実に面白い人物。
私ごときが指揮者としての彼の能力を語ることはできるわけがない。
天才の発想なんて読めませんよ。
しかし、指揮台に上がっていない彼の、普段の行動なり作曲家としての彼のスタイルは、意外なほどに「読みやすい」もの。
よく、彼の行動を評して
「どうしてナチに対してあいまいであったのか?」とか
「どうして大した才能もないのに、作曲家であることにこだわったのか?
そもそも大作曲家の作品に親しんでいる彼なんだから、自分の作品のデキについてわからないわけがなかろう?」
どうしてなんだろう?そんな疑問が提示されたりするものでしょ?
ナチや自分の作品の価値についても、ちょっとでも自分で判断すれば、結論を出すことは難しくはない。
しかし、世の中には判断することから逃避するような人間もいたりするもの。
フルトヴェングラーがその典型だとすると、彼の行動も、簡単に理解できてしまう。
判断を間違ったのではなく、判断することから逃避する人間のタイプなんですね。
以前にエルフリーデ・イェリネクさん原作の「ピアニスト」と言う作品を考えた際に、抑圧と言う言葉を多く用いました。
表現者としては、「自分がやりたいこと」、あるいは「表現者として人々に伝えたいことは何だろうか?」その問題意識が重要でしょ?
自分自身を抑圧すると、そのようなことを考えることから逃避するようになってしまう。
そんな人は、「何を伝えるのか?」と言う問題から逃避して、「どうやって伝えるのか?」と言う問題にすり替えてしまうんですね。
自分がどうしてもやりたいこと、あるいは自分がどうしても伝えたいこと・・・それはいわばWHATの問題。
どうやって伝えるのかの問題は、いわばHOWの問題。
自分自身に抑圧を課す、それなりに知性のある人間は、自分自身のWHATの問題から逃避して、あらゆることをHOWの問題にしてしまう。
なまじっか、それなりに知識があり、HOWの問題について語ることができるので、WHATの問題から逃避していることが、自分でも気が付かない。
自分からの逃避と言う状態においても、それなりに洗練されてしまうわけ。
さて、フルトヴェングラーの逃避の問題ですが、この映画で実に典型的なシーンが出てきます。
青年時代のフルトヴェングラーが、家庭教師と一緒にイタリアのフィレンツェに旅行をした。ミケランジェロの作品に圧倒的な印象を受けた青年フルトヴェングラーは、その場から離れ、一人でその印象を楽譜にしたためていたらしい・・・
映画においても、その「圧倒的な印象から逃げて・・・」なんて言われちゃっています。
もうこの頃から、逃避傾向があるわけです。
と言っても、皆さんは思うかもしれません。
「せっかく、ミケランジェロの彫刻からすばらしい印象を受けたのだから、それを音楽作品にまとめようとするのは、作曲家志望の青年としては当然のことではないのか?」
その感想は、ある意味において、正しいでしょう。
しかし、圧倒的な印象を受けたのなら、それをその場で楽譜に残す必要はないんですね。
だって、圧倒的な印象だったら、いつまで経っても忘れませんよ。何もその場で音楽作品にする必要なんてない。むしろ、アタマの中で寝かせておいて、その印象が充実してくるようにした方が、適切な方法。アタマの中でその時の印象と別の機会での体験を組み合わせたり、他の経験と共通性を考えたり、当然のこととして、その表現方法だって色々と考えられる。
素材をどう広げるのか?
あるいはまとめるのか?
どのようにコンポーズするのか?
それを考えるのが作曲家でしょ?
その時点で音楽にして楽譜に書いてしまうと、もう考えなくてもよくなってしまう。
ただ、アタマの中での試行錯誤は、結構シンドイもの。常に考えなくてはならないわけですから、精神的に負担になるんですね。
それこそ、コンピュターのメモリーで常にアクセスできる状態のようなもの。
引き出しやすいけど、電力は常に使う状態なのでスウィッチは切れない。
それに比べて、ハードディスクに保存すると、保存性はよくなるけど、アクセスは出来にくい。だから加工は難しい。これが紙にプリントアウトしてしまうと、もういじれない。
しかし、だからこそ精神的にはラクと言える。
フルトヴェングラーだって、本当に作品を作れる人間だったら、そんな強い印象を受けたのなら、スグに楽譜にまとめることなんてしないはず。
スグに楽譜にメモしなくてはならないのは、むしろ小ネタの方。
だってちょっとしたネタだったら、それこそスグにメモならないと忘れちゃうでしょ?
「あの部分の切り返しのところは、このような方法にしよう!」とか、「ちょっとしたエピソードとして、こんなネタを挟もう!」なんて、ちょっとしたアイデアも、作品を作る上では必要ですよ。
そんな小ネタだったら忘れないようにメモらないとね。
よく「引き出し」なんて言い方がありますが、そんな小ネタもやっぱり必要なもの。
それこそ引き出しにしまっておかないと。
しかし、自分にとって最重要な問題、いわば大ネタは、忘れるわけがないから、メモる必要もない。
スグにまとめちゃうということは、アタマの中で寝かして試行錯誤し続ける精神的な負担に耐え切れない心の弱さを表しているものなんですね。
ミケランジェロからの印象を、さっさと楽譜にまとめてしまう態度では、「強い」作品にはならないわけ。
こんなことを書くと、いまだに現存するフルトヴェングラーの崇拝者の方はご立腹なさるでしょうが、今ここで私が考えているのは、作曲家としてのフルトヴェングラーであって、指揮者としてのフルトヴェングラーではありません。
指揮者としては、あれほど圧倒的な音楽を作れるのに、どうして作曲家としては「いい子」、あるいは規格品とまりなの?と言うか、それこそ、作曲なんて止めてしまって指揮者専業でも何も問題ないはず。
作曲をすること自体を楽しむことができる人間だったら、それこそミケランジェロから受けた強い印象をアタマの中で色々といじって、長く検討して行くものでしょ?
スグに作品にまとめるって、「イヤなことは、早く忘れたい!」「つらいことから、早く逃げ出したい!」そんな心情が、無意識的にあるということ。
自己への抑圧と言うものは、そのような自己からの逃避というスタイルになることが多いんですね。自分自身のWHATから逃避するわけ。
自分が何をしたいのか?
何を人に伝えたいのか?
それについて考えないようになってしまう。
そのような傾向は、強圧的な父親の元で育ったアダルトチルドレンに典型的なもの。
問答無用の環境だったので、自分がしたいことを抑圧するようになるわけ。
実は、フルトヴェングラーの行動も、抑圧的なアダルトチルドレンの習性がわかっていると、簡単に予想できてしまう。
発想が常に減点法。人から嫌われてはいけない。よい子でいないといけない。もちろん、親に迷惑が掛かってはいけない。
そんなことを常に考えている。減点を意識しているので、自分で判断できない。
彼の場合は、それが特に深刻で、共依存状態にある。
「共依存」とは、相手に依存「させる関係」に依存すると言うもの。
「共依存」と言う考え方は、夫婦間でドメスティック・ヴァイオレンスに陥ったり、あるいは若い人たちがボランティアに入れ込むようになる心理を説明する際におなじみのものです。
あるいは、「ウチの子はいつまでも経っても甘えんぼうで・・・ずっと、ワタシがついていないとダメだわ!」なんて言うバカ親の心理もこれですよね。
あるいは、もっと深刻だとストーカーの心理もこれです。ストーカーは「オレにはアイツが必要だ!」と自分で『認識』しているのではなく、「アイツにはオレが必要だ!」と勝手に『認定』しているわけ。
自分自身の精神状況の自覚ではなく、相手の幸福のスタイルを勝手に認定しているわけ。だからタチが悪い。当人としては善意で相手に付きまとっている。だから周囲が何を言ってもダメ。
バカ親の心理もそうですが、基本的にはアダルトチルドレンに典型的な症状です。
それだけ、自分自身が何をしたいのか?自分でもわかっていない。
そしてわかろうとしないし、自分から逃避しようとする。精神的に自立していない。だから他者との関係性に依存せざるを得ない。
こんな心理を持っていたら、たとえナチスに共感がなくても、ドイツから離れられませんよ。だって、共依存症状にある人にしてみれば、ナチス支配下のドイツなんて天国ですよ。
だって、自分を頼ってくる人がいっぱいいるわけですからね。
つまり自分の役割について自分で考えなくてもいいわけ。
簡単に自己逃避できるわけでしょ?
何もフルトヴェングラーの人格に対し攻撃しようなんて思っているわけではありませんよ。芸術家なんて、その作品がすべてですよ。
それこそ画家のカラヴァッジョや作曲家のジェズアルドや劇作家カルデロンのように人殺しまで居るのがアーティストの業界。
たかがアダルトチルドレンくらい・・・まだまだ甘いよ。いや!「あいまい」ですよ。
前回でフルトヴェングラーは首尾一貫して「あいまい」という点を書きました。
「あいまい」であると言うことについては、実に「あいまい」ではないわけ。
この点は、彼の作曲した音楽にも明確に見えてくるでしょ?
彼の交響曲第2番はCDになっていて、まさしく彼の演奏で聞くことができます。
これが、また、「あいまい」な音楽。
何も、時代に合わせてモダンな12音技法でないとダメとか、ショスタコーヴィッチばりのポストモダンな引用技法が展開されていないといけないとか・・・そう言うことを申し上げているわけではありません。
「これだけはどうしてもわかってほしい!」とか、
「消しようがないほどに明確な音響イメージがあって、それを表現したい!」
なんて強い意志なり、覚悟がある音楽なの?
と言うことなんですね。
自己表現が目的と言うより、自己弁護の音楽。
えーとぉ・・・ボクはこんな事情があって・・・
色々と面倒なことがあったから、作曲できなくて・・・
まあ、ちゃんと作曲もやっているでしょ?
サボっているわけじゃあないよ。
そんな弁解がましい表情が延々と続く音楽。
音響的にはフランクやショーソンの交響曲のような感じで、ブルックナーの交響曲から「聞いたことがある」音響が出てくる。なんともまぁ・・・
フルトヴェングラーが作曲した作品は聞き手に真摯な緊張を要求する・・・
そんな音楽なんだから、だからオマエはその価値や内容がわからないんだよ!
そうとも言えるでしょうが・・・
どんな小難しい音楽でも、後世まで残る作品には「これっ!」という瞬間があって、その決定的な瞬間から、全体の理解もだんだんと深まっていくモノ。
ところが、フルトヴェングラーの交響曲には、「これっ!」と言う「切れ目」がない。
これは楽章の切れ目云々ではなく、音楽の流れに切れ目がないため、神の言葉が降り降りた瞬間が出てこないんですね。
演奏においてなら、「切れ目」の大家と言えるフルトヴェングラーなのに、作曲した作品には「切れ目」がない。
つまり神の言葉ではなく、人間の言葉が支配している「音楽」といえるわけ。
自分の存在証明ではなく、自分の正当性の証明に近い。
しかし、正当性を証明しようとするほど、芸術家としての存在証明から遠くなる。
なぜなら人間の言葉で正当性を証明するほど、神の言葉から遠くなるもの。
幼児のように、心を虚しくして、神の言葉を受け入れたときに、芸術家としての存在証明になる・・・芸術作品とはそんなものでしょ?
神の言葉を伝えるのが、芸術家の使命でしょ?
天才は自分の正当性などと言った弁解のための仕事などはしないもの。
弁解が通用しない世界・・・それが修羅場でしょ?
フルトヴェングラーにとって指揮台こそが、その修羅場。
だから指揮においては、弁解のための仕事はせずに、神の言葉を直接聞くことができて、それを伝えることができる。
しかし、作曲をしている時には、精神的に余裕があって、修羅場ではない・・・だから弁解ばかり。
フルトヴェングラーが作曲した作品は、実に人間的な音楽とも言えますが、逆に言うと人間とまり。
あるいは、まさしく最適化止まり。これでは作曲していても、面白くないでしょう。
たしかに、25年以上も作曲から遠ざかることを、事実上選択するわけですよ。
しかし、作曲の才能がなくても、創作の霊感が訪れなくても、何も問題はないはずでしょ?
当代随一の指揮者と言う称号があるんだから、それでいいんじゃないの?
そもそも、フルトヴェングラーさんよ!アンタは作曲が好きなの?
そんな根本的な疑問をもってしまう。
作曲を好きなのに才能がないのか?
そもそも好きでないのに、自分を押し殺して作曲したのか?
「ボクは本当は作曲家なんだ!」と言うのはいいとして、25年以上も作曲から遠ざかり、やっと作曲したら、自己弁護に終始。使命感を持って作曲している人がやることではありませんし、そんな音楽ではありませんよ。
逆に言うと、特に才能があるわけでもないし、使命感があるわけでもないし、好きでもないし、実際の作曲活動はしないのに、どうして「ボクは本当は作曲家なんだ!」なんて言うの?
フルトヴェングラーは、子供の頃から音楽の才能を発揮して、周囲から、「将来は偉大な作曲家に!」なんて言われたそう。これはDVDに出てきます。
家族も、その才能に惜しみない援助を与え、教育の機会を与えた・・・
そう言う点では、「作曲家」フルトヴェングラーは実に恵まれている。
作曲家になるに当たって、こんなに周囲から物心両面からのサポートを受けることなんて滅多にありませんよ。
一般的には、「ボクは作曲家になりたいんだ!」なんて言おうとしたら、「何を、夢みたいなことを言っているんだ!カタギの仕事をしろ!」と言われるのがオチ。
しかし、少年フルトヴェングラーは家族から励まされる環境。
それこそ、父親との間にこんなシーンがあったのでは?
少年フルトヴェングラーと、父親アドルフが、冬の夜に空を見上げる。
父
「おい!ウィルヘルム!
北の空にひときわ大きく輝く星があるだろう!
あの星はドイツ作曲家の星だ!
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー・・・
オマエも将来、あの星になるんだ!」
子
「父さん!わかったよ!
ボクはドイツ音楽の星になるんだ!ボクはやるよ!」
・ ・・拳を握りしめ、瞳から炎がメラメラと・・・このシーンのBGMは当然・・・
輝くドイツ音楽の星。それもバッハやベートーヴェンやワーグナーなどに並ぶ地位に。
「さあ!これが、ドイツ音楽作曲家養成ギブスだ!」
「これをつけて親子一緒にガンバロウ!」
そんな感じで言われちゃったら、子供の頃はともかく、実際に作曲するにあたってはプレッシャーになるんじゃないの?
しかし、フルトヴェングラーが音楽活動を始めた頃は、その星々につながる意志を持っていたのは明白。
彼が1906年の指揮者としてのデビューで取り上げた曲は、後に交響曲第1番の第1楽章となった自作の「ラルゴ ロ短調」と、ブルックナーの第9交響曲の組み合わせでした。
ブルックナー最後の未完の交響曲なんて・・・デビューの曲目にしては荷が重いだろう・・・と思うのは誰でもでしょうが、この「組み合わせ」・・・あるいは、以前書いた言い方でモンタージュは、簡単にその意図が読めますよね?
それはこれ。
「ブルックナーが完成させられなかったドイツ音楽の系譜を、このボクが完成させるんだ!」
まあ、その心意気や良し!・・・なんですが・・・
系譜につながることは結果であって、目的ではないでしょ?
それこそブルックナーだって、先輩作曲家ベートーヴェンを尊敬していたでしょうが、その列につながるために作曲をしたわけではないでしょ?
自分自身の霊感を永遠に残すために作曲したわけでしょ?
曲のまとめ方などに当たって、当然のこととして先輩の方法を参考にする・・・
だから、結果としてドイツ音楽の作曲家の系譜になる。
そんなものでしょ?
まずは、自分がどうしても表現したいものは何なのか?
その自問自答の方が先でしょ?
しかし、フルトヴェングラーは、ドイツ音楽の作曲家の系譜が強く意識されてしまっているので、
「ボクもそのレヴェルでないと行けない!」
「巨匠たちの名誉を汚さぬように!」
「あんな音楽を書かなきゃ!」
なんて強迫的に思ってしまう。いわば、形から入る状態。
形から入っているので、フルトヴェングラーが作曲した作品って、交響曲とかの立派なジャンルばかりですよね?
そして長さも結構ある。まさに立派な外観をもっている。
しかし、外観はいいとして、中身はどうなの?
そもそも芸術作品にとってジャンルとか外観は、二の次でしょ?
マーラーの交響曲が、交響曲なのか?歌曲でしかないのか?そんなことを議論する人もいますが、それ以前に中身の問題が重要でしょ?
マーラーの音楽は中身で勝負できる。
しかし、フルトヴェングラーの作品の中身っていったい何?
逆に言うと、中身で勝負できないから、ますます外観にこだわらざるをえない。
それでは自分なりの作曲なんてできないでしょ?
作曲家フルトヴェングラーは伝統的な芸術の系譜を意識するあまり、芸術の伝統の系譜からは外れてしまった。
「伝統的な芸術の系譜」と「芸術の伝統の系譜」なんて、言葉としては似ていますが、中身は全然違うモノ。
それこそベートーヴェンだって、彼自身は「伝統的な芸術の系譜」ではなく、「芸術の伝統の系譜」の一員と言えるでしょ?
まあ、作曲の才能が「全く」ないのなら、まだ、「しょうがない」で済みますが、フルトヴェングラーの場合は、最初は神童扱いだったわけですし、周囲からのサポートを受け期待もされた。
作曲から逃げる理由がないわけ。
しかし、逃げる理由がないからこそ、懸命になって逃げざるをえない。
そもそも、やっぱり作曲家という存在は、音楽家の中では最高位でしょ?
だからこそ、作曲家であることをあきらめることは、序列的に下に安住することを意味しますよね?
「父さん!ボクは作曲なんてしたくはないんだ!指揮の方が好きなんだ!」
なんて言っても、心の中にいる父親がこう言うでしょう。
「どうしてオマエは、そんなに自分に甘いんだ!
自分は才能が無いなんて言葉は、努力放棄の言い訳に過ぎない!バカモノ!」
そして「北の空を見よ!ひときわ輝く星がオマエの目指すべきドイツ音楽の星だ!」
とお説教の声。
そんな父親の言葉が心の中で響いてしまう。
だから周囲には「ボクは本当は作曲家なんだ!」と、言い訳をしなくてはいけない。
フルトヴェングラーはなまじ指揮者なんだから、タチが悪い。
彼がピアニストとかヴァイオリニストだったら、作曲活動にも、距離を取りやすい。
作曲をしなくても、誰も不思議に思わない。
しかし、指揮なんて、そもそもが作曲家の仕事の一部だったわけでしょ?
しかし、才能はないし・・・それだけでなく、ドイツ音楽の星としての要求される「基準」もある。あのレヴェルの曲を書かないといけない!
これでは、自分なりに作曲するなんてことはできないわけ。
さあ!どうする?
と言うことで、作曲しなくてもいいように、余計なことに首を突っ込むわけ。
「あそこに困っている人がいるから・・・」
「ボクが助けないとダメだ!」
「あの人たちを助けられるのはボクだけ・・・」
と言うことで、ますます共依存症状が進行することになる。
そもそも指揮者フルトヴェングラーが作品に向き合う際には、「作曲された音楽が作曲される前の状態まで考え、それを再構成する」のがフルトヴェングラー。
そんな発想は、まあ、私には実に親近感がある。だからそんな態度を、フルトヴェングラーの「作品」に適用しているだけです。
創作者の発想を読みながら演奏したフルトヴェングラー自身の発想を、この私が読んでいるだけです。
重要なことは作品を評価することではなく、その前の霊感を考えることでしょ?
逆に、ナチスは「芸術家にとって作品などは、どうでもいい!人格が問題なんだ!」と言ったそう。
その人格と言ってもナチスに対する忠誠となるんでしょう。人格で作品を否定するなんて、それこそがナチスですよ。
しかし、その人格重視のナチスがワーグナーを賞賛ってのも、また矛盾なんですが。
そもそもアーティストなんてオコチャマなのがデフォルト。
その瞬間に充足し、次には、その充足を破壊していく・・・
「わあ!これって、おもしろいなぁ!」それがすべて。
そんなオコチャマこそが芸術家のメンタリティ。
逆に言うと、フルトヴェングラーは、アダルトチルドレンだけあって、ある意味オトナ。この面でもあいまい。
あまりに周囲に配慮しすぎ。発想が減点法。
別の言い方をすると、「いい子」。
彼の行動も、作曲した作品も、まさに「いい子」がやりそうなものですよ。
自己の確立していないアダルトチルドレンは、往々にして権威主義。
その価値を自分自身で説明することができないので、人々が「権威ある」と認めるものに乗っかろうとするわけ。
実は、このような点で、フルトヴェングラーとゲッペルスは、腹の底では共感しあっていたようです。
フルトヴェングラーは何か相談事があると、まずゲッペルスを訪ねたようです。ゲッペルスもフルトヴェングラーのことは、気にかけていたそう。いわばカウンターパートナーの間柄。
フルトヴェングラーもゲッペルスも、「何を言うのか?」と言うWHATの問題よりも、「どう伝えるのか?」つまりHOWの問題の大家ですよね?
それに、権威ある思想に乗りかかって自己を表現するスタイルも共通。
序列思考が強く、族長的な存在に盲目的に従おうとする。
彼らは、いわば隷従することが好きなタイプ。
以前に取り上げたエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」を考えた際に用いた言い方をすると、「犬」のタイプ。
ゲッペルスに対して、
「アナタはヒトラーの犬じゃないか?」なんて言っても、「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」なんて言われるだけでしょ?
ゲッペルスは、ヒトラーに最後まで付き従いましたよね?
その点ではゲーリングやヒムラーよりも忠犬。たぶん、ゲッペルスの父親も強圧的な人だったのでは?
同じように、フルトヴェングラーに対して「アンタはベートーヴェンの犬じゃないか?」なんて言ったらフルトヴェングラーはどう答えるのでしょうか?
やっぱりゲッペルスと同じじゃないの?「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」
ゲッペルスは、信念を持って、アドルフに隷従していたわけ。フルトヴェングラーも深層心理的にアドルフに隷従していたわけですが、彼の場合はアドルフと言っても、ヒトラーではありませんが。
ベート−ヴェンの犬なんて言葉はともかく、フルトヴェングラーはそれでいいと思っていたでしょう。立派なベートーヴェンの音楽を人々に伝えるのが、自分の使命だ!
そう考えることは、立派なこと。
しかし、作曲家志望だったら、そんな崇め奉るだけではダメでしょ?
立派な権威としてベートーヴェンを見るのではなく、すばらしい業績を残した先輩として見る必要もあるのでは?
第2次大戦が終結した後で、フルトヴェングラーはR.シュトラウスを訪ねた。
R.シュトラウスは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の楽譜を見ながら、「ファゴットの使い方がすばらしいねぇ!」と言ったそう。
こんな言葉から、R.シュトラウスは、ワーグナーをすばらしい業績を上げた先輩と見ていることがわかりますよね?
作品を受けてのリアクションにおいて、意味ある細部を指摘できるのは、全体がわかっている証拠。そして自分自身についてもわかっているからできること。
シュトラウスとしては同じ作曲家仲間として、ワーグナーの作品を参考にする・・・そんな態度が見えてくるわけ。
他の人の作品を見るにあたっても、普段からの自分の問題意識が反映されることになる。だから具体的な細部の各論を中心に見ることになる。
「自分だったら、どうするのか?」
「今、自分は、ちょっと壁にぶち当たっているけど、この人はどんな解決をしたんだろう?」
そんな発想が常に存在しているわけ。
フルトヴェングラーの場合は、尊敬すべき先輩というより、ひれ伏さざるを得ない権威としてベートーヴェンやワーグナーを見ているのでは?
あるいは、規範として見ている。そうとも言えるでしょう。
つまり作曲家としての問題意識がない状態で、他の作曲家の作品を見ている。
そのような見方は、指揮者としては問題なくても、作曲家としては問題でしょ?
規範として見るような発想は、「それ以外を認めない」と言うことになり、ある意味、自分で考えることから逃避できる。
これはエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」でのエリカもそうでした。音楽を聞く際においても、ベートーヴェンを規範としてみたり、あるいは演奏家としてのフルトヴェングラーを規範として見ることは、聞き手の自己逃避の一種なんですね。
規範を重視と言うか、形から入る・・・いわば、「形と中身の乖離」となると、ブラームスがいます。
フルトヴェングラーも、そのような観点において、ブラームスを同類と認識していた面もあるようです。
しかし、ブラームスは、中身と形式の乖離の問題はありますが、逆に言うと中身がある。しかし、フルトヴェングラーの作品には中身があるの?
乖離云々以前に中身がないのでは?
伝えたいと思う中身と、伝えるに際し用いた形式の間に乖離があると言うより、彼が伝えたいという中身って何?
抑圧状況に陥ると、まさにその問題を自問自答することから逃避するようになってしまう。
以前取り上げたギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」の冒頭に掲げられたプラトンの言葉は
「魂でさえ、自らを知るために、魂を覗き込む。」と言うもの。
「魂を覗き込む」ことから逃避している人間が、創造なんてできるわけがない。
そのようなアンゲロプロスの問題意識が、あの作品にあったわけですし、そのもっとも典型的な実例が作曲家フルトヴェングラーなのでは?
自分自身を見つめることができる人だからこそ、自分の魂を覗き込むことができる人だからこそ、そんな人には「世界の声」「神の声」が集まってくる。
つまり自分自身の魂の声を聞くことによって、結果的に世界の声が聞ける。
ユングの言う「元型」に近いものが見えるわけ。
自分から逃避している人には、世界の声も降り降りてこない・・・
だから、結局は「世界の声」も表現できない
フルトヴェングラーは「他人の魂は覗きこめるけど、自分の魂は覗きこめない。」
これでは創作なんてできませんよ。
「ベートーヴェンの気持ちが理解できるのはオレだけ!
ブルックナーの創造性が理解できるのは自分だけ!」
そう思うのはいいとして、じゃあ、自分自身の気持ちや創造性をどのように理解していたの?
自らの魂の中にあるWHATから逃避していくので、どんどんと「どのように伝えるのか?」というHOWの問題に逃げ込んでしまうわけ。
しかし、「何を伝えるのか?」という問題意識から逃避してしまっているので、作曲することで作品を制作しても「じゃあ、結果として伝わったのか?」と聞かれると返答ができない。だって受け手は何をわかればいいの?
そもそも伝えたいものが、自分でもわかっていないから、結局は伝わらない。
本来なら、「この点は誤解されたけど、最重要なこの点は伝わったようだから、まあ、とりあえずよしとしようか・・・」なんて考えることができるはずですよね?
あるいは伝わらなくても「まっ、そもそもアイツにはどうせわからないよ!」なんて言えるでしょ?
それは、自分が伝えたいWHATがわかっているからできること。
しかし、そのWHATが自分でもわかっていなくて、発想が加点法ではなく減点法なんだから、そのようには考えられない。
結果的に思うような結果が得られないので、そんな抑圧傾向の人は、「上手く行かない理由」「減点の原因となったもの」としての犯人を捜すようになるわけ。
それに抑圧傾向の人は、日頃から発想が加点法ではなく減点法なので、減点への反応はそれなりに鋭いものがある。だからスグに逆上する傾向が強い。
「アイツのせいで、ダメだったんだ!」
あるいは
「あの施設がないせいで、上手く行かなかったんだ!」
「これが足りないせいで、失敗した!」
「政治が悪い!時代が悪い!」
そんな言葉を聞かされると、「じゃあ、何をわかればいいの?」「そもそもアンタは何をしたいの?」と思ってしまうものでしょ?
アンゲロプロス監督の描くギリシャの人たちもそんな感じでしたよね?
というか、そもそも当時のドイツがそんな感じでしょ?
あるいは実に顕著に見られるのが、韓国人の発言ですよね?
韓国人の発言は、自分で自分を抑圧しているものの典型なんですね。
日本人の我々としては、韓国人の言動を聞いても「で、アンタたちは結局は何をしたいの?何を言いたいの?」そう思うことって多いでしょ?
あるいは、上記の言い訳と犯人探しのスタイルは、音楽関係者の発言にも典型的に見られるでしょ?
「どう伝えるのか?」の問題に拘ることは、「何を伝えるのか?」という問題からの逃避のケースが多いわけ。
「何を伝えるのか?」が自分でも明確ではないので、そんな人はコミュニケーション能力がヘタ。だからコミュニケーションが対等の会話ではなく、命令と服従の上下関係しかなくなってしまう。
だから常に「どっちが上か?下か?」という序列を基に考えるようになる。
韓国人がまさにそうですし、いわゆる音楽批評の世界でもおなじみの文言でしょ?
本来なら表現と言うものは、対象となるもの、と言うか、表現したいWHATに、「どこから光を当てるのか?」そして「どのような視点から表現するのか?」そのような問題が重要でしょ?
しかし、抑圧が進んでしまうと、個々の多彩な思考を理解する意欲もなくなるので、「どっちが上か?下か?」の序列問題ですべて解決しようとするわけ。
ベストワンとか、最高傑作などの文言が登場してしまう。表現におけるWHATが消失してしまうわけ。そして減点部分だけに目が行って、反論されると逆上。
他人による様々な表現を通じて自分自身の問題を考えていく・・・表現を受けても、そんな発想にならないわけ。
他者の作品から自分自身を逆照射することはできない。むしろ様々な作品を順番にならべて、「どっちが上か?下か?」と決定してオシマイとなる。
他者の順番だけの問題にしてしまうことは、要は自己逃避なんですね。
以前に、イェリネクさんの「ピアニスト」という作品を考えるに当たって、演奏家という存在と精神的抑圧の強い相関関係について考えて見ました。特に中間領域の演奏家からは抑圧された精神が明確に見えて取れることが多い。
人々に伝えたいものが明確に自覚できているのなら、何も演奏というスタイルではなくても、作曲という手段で伝えてもいいわけですし、素人的でも文章を書いたり、美術作品を制作すると言う方法だってあるでしょ?
伝えたいこと、やりたいことが自覚できないがゆえに、権威あるものに隷従し、HOWの問題だけに逃避する。
そして上手く行かなくなると犯人さがし。
抑圧的な人間はそんな行動をするものです。
ナチスがそうですし、韓国人もそんなパターンですし、音楽批評もそんなパターンでしょ?いわば抑圧状況の典型なんですね。
ナチスが台頭する背景として、ドイツ全体のそんな精神状況もあったわけ。ナチスはいいところを突いているんですね。
その抑圧的な状況の中での知的エリートがゲッペルスであり、フルトヴェングラーなのでは?
フルトヴェングラーだって、自分自身の抑圧を客体化することができれば、それを作品にすることもできたでしょう。それこそイェリネクさんが小説としてまとめあげたように。あるいは、共依存症状によるストーカー行為だって、それを客体化できれば、ベルリオーズのように交響曲にできる。
しかし彼は抑圧された人間そのものとして生きた。
「自分は何をしたいのか?」と言う問題から逃避しているので、自分の目の前の状況が判断できない。
常に『いい子』願望があって、人から否定されることを極端に怖がる。
「いい子」って、要は減点法でしょ?
いい子が成し得た成果って、歴史上ないでしょ?
フルトヴェングラーに関する本などを読んでいると、私などは忸怩たる思いに陥ってしまいます。
「どうしてゲシュタボの連中はフルトヴェングラーを追い込まなかったのだろう?」
「私に任してくれたら1年以内に必ず自殺させることができるのに・・・」
まあ、ゲシュタボも真正面からは追い込んだようですが、フルトヴェングラーのような共依存症状の人間に、真正面からプレッシャーを掛けて、困難な状況を作っても、むしろ「生きる張合い」になるだけ。
それこそ人助けがいっぱいできるわけだから、喜んでそっちに逃避してしまう。
ストーカーに対して、正面から力による解決を図ってもますます善意を持ってストーキングするだけでしょ?
「こんな困難な状況の中でアイツを救ってやれるのはオレだけ!」そのように、より強く思い込むだけ。そして当人の『善意』が、より熱くなるだけ。
まあ、ゲシュタボも所詮はドイツ人なんでしょうね。素朴で人がいいよ。
人を精神的に追い込むことに関しては、むしろフランス人の方が上でしょう。あるいはロシア人とか・・・
まあ、ゲシュタボがフランス人の著作から拷問のノウハウを学ぶ必要があったのもよくわかりますよ。
フルトヴェングラーを追い込むのは実に簡単なんですね。
彼のような頭がよくて、プライドがある人は言葉で追い込めるから、追い込むのもラク。
オバカさんのように逆上することもできないのだから、あっという間に追い込めますよ
たとえば作品を委嘱すれば、それでOK。
「ドイツ音楽の栄光を表現する立派な交響曲を作曲してくれ!」
「時間は十分に上げるから・・・」
「キミは本当は、それをしたかったんだろう?」
なんて言えば、自分で勝手に追い込まれていきますよ。
何と言っても作曲は自分自身と真摯に向き合わないとできないことでしょ?
フルトヴェングラーはそれが出来ない人なんですからね。
もし、それこそ交響曲第2番のような作品が出てきたとしたら、
「ふんっ、なにこれ?」
「アンタは、本当にこれをドイツ音楽の栄光だと思ってるの?」
「へぇ・・・これがドイツ音楽の栄光の成れの果てなんだねぇ・・・」
なんて薄目を開けて鼻の先で笑えば済む話。
あるいは、「アナタのおかげで、アウシュビッツで多くのユダヤ人を殺すことができました!ありがとう!」
なんて感謝してみなさいな。アウシュビッツの写真などを一枚一枚見せながらね。
そして、最後に決めセリフ。
「君の父上もさぞよろこんでいるだろうよ!」。
もうこうなると、ドイツ芸術の守護者としての彼のアイデンティティが崩壊して、あっという間にドッカーンですよ。まあ、1週間以内でことが終了するでしょうね。
あるいは、前回言及した「ニーベルングの指環」のグンターのバカぶりを、描写してもいいわけでしょ?
「グンターってバカだよな!
だって、こんなこともわからないだからさっ。
君もそう思うだろ?グンター君!」
といって、指で額でもつついて上げればどうなるかな?
いずれにせよ、1週間あれば十分ですよ。
相手の一番弱いところはどこなのか?
そこを瞬時に見つけ出し、そこをチクチクとニヤニヤと突いていく楽しみをドイツ人はわかっていないねぇ・・・
「いい子」と言う存在は、一番追い込みやすいもの。
結局は、「人から自分はどう見られるのか?」という面にこだわってしまって、自分自身が本当にしたいことが自分でもわかっていないわけ。と言うか、そこから逃避している。
前も書きましたが、そんな精神状況では、作曲はできませんよ。
それこそR.シュトラウスはナチとの関係で、戦争終結後になってモメましたが、シュトラウス自身は実に明確。
自分がやりたいことが自分でもわかっている。
ナチから頼まれると、ナチの役職には就いたり、あるいは手紙にも「ハイル!ヒトラー!」なんて平気で書いたりしていますが、彼自身はナチに対して協力的ではない。
というか、戦争が終結する直前に、負傷した人たちがシュトラウスの山荘に逃げてきたそう。
そんな命からがら逃げてきた人たちに対しシュトラウスは、
「おい!アンタたち、作曲のジャマだから出て行ってくれよ!」
なんて言ったそう。そんな対応をナチから怒られたシュトラウスは、
「いやぁ・・・オレが戦争を始めたわけじゃないんだから・・・そんなこと知るかよ!」
なんて言ったらしい。
いやぁ・・・外道だねぇ・・・
シュトラウスの発想は、ナチを支持するしない以前に、人間的に外れていますよね?
まあ、「猫」的と言えるのかも?「アンタはアンタ、ワタシはワタシ」の精神。
しかし、そんなシュトラウスだからこそ、あの混じり気なしのオーボエ協奏曲が書けるわけでしょ?
傲岸不遜で周囲の人間の犠牲を踏み越えて、自分の創作を推し進めるR.シュトラウスと、人助けに逃げ込んで、自分では創作しないフルトヴェングラーの関係は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルードヴィッヒ」におけるリヒャルト・ワーグナーとルードヴィッヒの関係と同じ。
ルードヴィッヒだって、芸術家をサポートして喜んでいるよりも、ヘタはヘタなりにオペラの台本でも書けばいいじゃないの?
彼も、「立派な作品でないといけない!」なんて思っていたのでしょうね。
だからとりあえず手をつけてみると言うことができない。しかし、だからこそ、自分を表現することができず、ますます自分から逃避してしまう。
ルードヴィッヒもフルトヴェングラーもプライドが高い人ですが、逆に言うと、腰を曲げても実現したいものがないと言うことでしょ?
その点、リヒャルトは、手段を選ばず、周囲のことなどお構いなしに、どんどんと創作活動。
フルトヴェングラーだったら逆立ちしても出来ませんよ。
共依存症状のフルトヴェングラーだったら、シュトラウスのような事態になったら、喜んで人助けしますよ。
他者から依存される関係に依存する、この共依存状態では、自分単独で作曲することなんて出来ませんよ。しかし、この症状は、作曲には不適でも、演奏にはフィットしていますよね?
「アイツにはオレが必要なんだ!」「アイツのことを理解できるのはオレだけ!」なんて勝手に思ってストーキングするのは大迷惑ですが、「ブルックナーにはオレが必要なんだ!」「ベートーヴェンのことを理解できるのは、このオレだけ!」
そう思うくらいの思い込みはいいのでは?
それが演奏することの使命感につながるわけでしょ?
そんな使命感があるのなら、本来なら、指揮者専業で行けばよかったのでしょうが、そんな判断から逃げるのが抑圧的なアダルトチルドレン。
だから自分が何をしたいのかわからずに、他者との関係性に依存するようになる。
こんな態度ではプロの演奏家というか、職業としての演奏家としては失格ですよ。
しかし、逆に言うと、それくらいの「思い込み」がないと、芸術的な演奏にはならないでしょ?
そんな依存があるがゆえに、他人である作曲家との緊密な関係が築けたともいえるんでしょうね。
抑圧が創造性につながった稀有な例と言えるのかも?
抑圧も極限まで進行し、ブレークスルーを経ることによって、ある種、突き抜けた境地になってしまう。
この点は、フルトヴェングラーだけでなく、ゲッペルスもそのパターンなのでは?
自己を徹底的に抑圧することによって、自己解放を実現する。
それが、フルトヴェングラーにとっての演奏。
それは幸運な成果なの?
確かにその「成果」を、聴衆である我々は楽しむことができた。
しかし、それって、まさにホフマンスタールの言う「私のこの苦しみから甘い汁を、吸おうとしたっただめだよ!」そのものでしょ?
もしかしたら、フルトヴェングラーは、そのセリフの意味を、R.シュトラウス以上にわかっていたのかも?
しかし、「だったら、それを作品にしなよ!」ってやっぱり思ってしまうのは無理なことなのかな?
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-11/07-11-08.htm
朝鮮半島を38度線で、南北に分断したのは、米ソ=「米ユダヤ資本(ソ連の生みの親)」である。
戦後、日本をアジアから孤立させ、再起不能にする為に、米GHQが行ったのが、アジア分断心理作戦。それが、
・中国=南京大虐殺(日中分断工作)
・韓国=従軍慰安婦(日韓 〃 )
・北朝鮮=日本人拉致(北朝鮮建国以来、裏で操っているのは、米資本であり、拉致を企画、指示をしたのも、米白人資本である)
他にも、このユダヤ資本がやった、大嘘心理作戦劇として、
・ホロコースト=イスラエル建国の為のでっち上げ工作。
・米ソ冷戦=ソ連を建国した米資本が、米軍需資本自身の儲けの為に演出工作。
・911事変=米資本による中東侵略の為の、でっち上げ工作。
・韓国哨戒艦爆破=米資本による南北朝鮮対立構造構築の為。
韓国哨戒艦工作といい今なぜ、朝鮮半島の南北対立を煽り立てるのか?それは、
「アジア大戦争誘導作戦」の為である。
北朝鮮を裏で操り、悪を捏造。そして正義の仮面を被って登場するのが、米軍である。
そうすれば、米軍の必要性が正当化され、米軍産資本は世界で再び認知され、儲け続け、米型軍事暴力資本主義支配が維持できる。全てはこの為である。
http://www.asyura2.com/10/warb5/msg/331.html#c3
プライドの高いということは
反面弱点隠しなのかな?
しかし、日本に安定をもたらせようとしているのだけは確かだ。
地方のしかもへんぴな街から、選挙運動をはじめてきたから、
いかに疲弊しているかを身をもって知っている。
枝野は左翼出身だが、とにかく、頭だけで考えて実態をしらない。
今回の選挙も昔失敗した空中戦選挙をやりまくった結果だ。
日本を再生するには、まず、国民全体をとにかくまともな、市場参加者つまり消費者として
再生させることだ。
需要ないところに市場は生まれない。これは鉄則だ。フリードマンは金融市場こそが経済を支配するといって
大衆を極端に過小評価した。
米国の市場原理主義は、市場原理どころか実際には、1%の富裕層が95%の国内総資産を独占する社会だったが
これのどこが、自由競争市場なのだろうか?これはりっぱな独占市場だ。
市場原理主義=富の独占主義だ。
これだけの資産を極端に少数者が独占するということは人類史上ありえなかった。
パリ大革命時代のフランスの国王や最盛期のイギリス女王より
今の米国の資産家は富を独占して栄華をきわめているのだ。
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak40/msg/694.html
千葉も宮崎も東京も・・タレントもどきを知事にするから、こんなに「悪く」なる。
こんな奴らに票を入れたおバカB層の年金者。この人達から年金剥奪して(笑)
これからの時代を担う子供に教科書・文具・制服・給食費とかを払って差し上げた
ほうが、日本が活性化していきそお。老害っていらないよ!!
http://www.asyura2.com/09/buta02/msg/754.html#c13
批判のポイントがずれている。
本稿は資本移動の自由化を糾弾しているが、貿易や自由な商売を責めているのではない。
人類長い間、商売やものづくりは普通にやってきた。
20世紀に入ってから、ホットマネーや中央銀行による通貨の独占が始まり、少数による多数支配が進行した、と言っている。
共産主義は自由な商売を規制したから失敗したのであって、資本の自由化をしなかったからではない。
日本にしろ、アジア諸国が発展でいたのは、商売は自由に行う一方で、資本には規制をかけ、自国の資産を守ってきたからだ。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/204.html#c2
アメリカにどれだけ銭が、流れているか、知らないんだなあ。
アメリカに貢ぐ金を、国内に使ったら、ええねん。
みんな、生き返るで。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/192.html#c11
このハナシをもっと詳しく聞きたいのですがどなたか語っていただけませんか?
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/203.html#c2
しかし一般に、オバマなど内外の政治家は、日本やドイツ等の黒字国には早急な財政再建を求めていない(中長期的には別だが)。黒字国が景気後退で輸入が減ることを恐れているのだろう。
管は経済音痴だから、財務省や一部の経済学者に振り回されているのかもしれないが、このままだとレイムダックで何もできず9月で交代ではないか。
ただし、既に国民から支持を失った社民党や国民新党と一緒に、郵貯実質官営化や派遣禁止など、将来の空洞化促進&国民負担の大きい政策だけは、実行してくれそうな感じではある。
IMFの消費増税提言、財務相「財政健全化に向け頑張る」
2010/7/15 20:38
野田佳彦財務相は15日、国際通貨基金(IMF)が日本の財政健全化に向けて2011年度からの段階的な消費税率引き上げを提言したことについて「財政運営戦略と新しい成長戦略に沿って財政の健全化を頑張っていきたい」との考えを表明した。IMFが例示した15%などの消費税率に関しては「IMFが決めることではない。これから(税制改正の)超党派の協議を呼びかけていく。いま税率の話をする段階ではない」と述べるにとどめた。財務省内で記者団に語った。
一方、池田元久財務副大臣は同日の記者会見で「(IMFは)日本の現状を数値的にみて、機械的にいっているのではないか」と指摘。消費税率引き上げの議論は「日々暮らしている方のことを考えて判断していかなければならない」と述べ、慎重に進める必要があるとの考えを示した。
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http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/206.html#c6
キリストを解く鍵は日本にあり!2
http://www.youtube.com/watch?v=3Cx2X8dWnok&feature=channel
キリストを解く鍵は日本にあり!3
http://www.youtube.com/watch?v=lnmHGx1J8Ck&feature=channel
決勝は、どちらが勝っても初優勝というフレッシュな対決だった。
ブラジル、ドイツなど、優勝経験のある7カ国が、次々と倒れた。
強国瓦解の背景から、世界サッカーの新しいうねりを読む。──
欧州開催以外で欧州勢の優勝が初なら、欧州と南米が交互に優勝という法則も消滅した。
大国の明暗を分けたキーワードは、「多国籍」だ。
オランダが、旧植民地の移民の血を引く選手を取り入れたのは、1980年代。その後、チーム内に人種の対立が起き、試合後、白人選手が黒人選手との抱擁を拒否する場面もあった。
W杯でも毎回、優勝候補にあげられながら、チームメートや監督への批判が頻発した。ファンマルウェイク監督は規律を重視した戦術を打ち出し、選手選考にも細心の注意を払った。今回、レギュラー選手中、移民組は2人だった。
2大会連続ベスト4のドイツは、その過程をなぞる。2年前の欧州選手権でスペインに敗れたレーウ監督は、スペインに対抗するために技術の高い選手を選考。21歳以下欧州選手権で優勝した若手を重用した。21歳のMFエジルらが台頭した。
背景にあるのが、メンバーの多国籍化だ。1999年にドイツ政府が移民政策の一環として国籍法を改正。移民2世に国籍が与えられるようになった。FWポドルスキはポーランド、エジルはトルコ、MFケディラはチュニジア、DFボアテングはガーナの血を引く。多彩な個性が将来を照らす一方で、純血主義で継承してきた不屈の「ゲルマン魂」が、影を潜めた。スペイン戦で1点を追う反撃は執念が感じられなかった。
■フランスではタブー
大会前、ドイツ元主将で監督のベッケンバウアー氏が、試合前に国歌を歌わない選手たちを、
「われわれの時代はみんなで歌って士気を高めたものだ」
と批判したが、若手選手は、
「特に必要は感じない」
と涼しい顔だった。トルコ人の両親を持つエジルは試合前、イスラム教の経典「コーラン」を唱えて、ピッチに向かった。
前回準優勝のフランスは、1勝もできずに敗退した。
98年大会の優勝は、多国籍の勝利だった。MFジダンの両親はアルジェリア移民。アフリカ系などの有色人選手がメンバーの大半を占めた。それから12年、アーセナルのフランス人監督ベンゲルが指摘した。
「このチームには、高いレベルの相手に勝つ技術がない」
メンバーがアスリート系の黒人に偏り、技術のある選手がいないという指摘はささやかれてきた。ただ、モンペリエの市長が「代表が黒人ばかりなのは、ゆゆしきこと」と発言して所属政党から除名されたように、この問題を指摘するのはタブーだ。
今回の代表でも、MFリベリらの「黒人+イスラムグループ」と、MFグルキュフらの「白人組」の対立があった。グルキュフは、大会時23歳の技巧派でジダンの後継者と言われたが、完全にチームで浮いていた。
大会中には監督に対する黒人FWアネルカの暴言に端を発した練習ボイコットも起きた。フランス政府が事情聴取にまで乗り出したのは、この事件に、社会問題になっている青少年の品性低下を見たからだという。
「学校の授業ボイコットのような子どもレベルの振るまいだった。学校内の生徒の教員に対する暴力や、サッカーの試合中の選手の審判に対する暴力は、近年、フランス全体で大きな問題になっている。郊外で自動車を燃やすなど、問題を起こす若者に有色系、移民系が多いことから、移民を受け入れ過ぎと指摘する声もある」(在フランスのジャーナリスト木村かや子氏)
星占いで先発を決めることもあったドメネクに代わり、98年組の白人ブランが新監督になるが、現在の21歳以下代表も、25人中、白人は5人だけだ。
■カペロ監督「続投」の事情
逆に、イタリアは、「移民選手」への門を閉ざす。
前回優勝のリッピ監督が、DFカンナバロらベテランを残したのが裏目に出て、フランスと同じくグループリーグ最下位。若手にも好選手がいたが、多くは中小クラブ所属で、チャンピオンズリーグなど大舞台の経験が不足していた。欧州王者インテルのスタメンは、ほぼ全員が外国人(EU内の外国人に人数制限はない)。自国選手が育たないという問題が、噴出した。
サッカー連盟は、EU外外国人の新規登録を1人に制限することを決めた。同時にクラブの育成機関の充実を図る方針を打ち出した。イタリアではもともと、選手を売って稼ぐことを目的にした小クラブ以外は、下部組織に力を入れていない。が、近年はスターを派手に売り買いする資金がないため、自主栽培を見直す機運が出てきた。代表は育成に定評のあるプランデッリ新監督の下でスタートする。
「ただ、EU外選手の制限も、アルゼンチン人に国籍を与えるなどの操作は日常茶飯事なので、さほど効果はない」(現地のスポーツ記者)
2回目の優勝が期待されながらベスト16で敗退したイングランドは、イタリア人のカペロ監督の「続投」が決まった。90年代以降、自国人監督での低迷が続いており、外国人に委ねた路線を継ぐ。カペロ本人が意欲満々で、解任すれば十数億円規模の違約金が発生するという現実的な事情も大きい。
若手を起用しなかったチーム編成に疑問の声もあるが、それ以前に若手育成の問題を指摘する声は多い。サッカー協会はこれまで各クラブのアカデミー(育成組織を兼ねた学校)に任せていた育成方針を統一して「教科書」を作成。エリート少年を集めた「ナショナルフットボールセンター」を開校する。
敗退後、若手選手を中心にした「宴会」の模様が写った写真が新聞に掲載された。メディアの論調を集約すると、こうだ。
「ドイツ人の若手の半分の情熱もない。不適切なまでに高額な報酬を得る彼らは甘やかされてふやけている」
■マラドーナ「留任を」
南米では、今大会は、小国が輝いた。ベスト4になったウルグアイは、06年に就任したタバレス監督が20歳以下代表に力を入れて育成を強化した。
「タバレスは、90年代から選手の海外移籍や試合の放映権など、サッカー界全体に強い影響力を持ってきたエージェントの人物を排除した。この人物の息がかかった協会上層部が予選中に監督解任に動いたが、屈しなかった」(「ラ・レプブリカ」紙のリカルド・アセベド記者)
一方、スター監督のアルゼンチンとブラジルは、失速した。
「メッシをスターにする」
そう宣言したアルゼンチンのマラドーナ監督は、奇抜な言動で注目を集めたが、攻撃と守備を分業化する陣形をドイツに突かれた。が、選手の間からは留任を望む声がわき上がった。
「マラドーナは、自分がすべての注目を浴びて、選手がプレーに集中できるようにしていた」(サッカージャーナリストの西部謙司氏)
采配は天性の勘頼り。周囲が物を言えない雰囲気になっているが、協会がどう判断するか。
ブラジルのドゥンガ監督は、大会前半で、最大手紙「グロボ」の記者と口論。マスコミを敵に回してしまった。逆転負けしたオランダ戦では、いらいらした態度が選手に伝染した。大会後に解任された。
4年後は自国開催。ブラジルサッカー連盟のリカルド・テイシェイラ会長があげる次期監督の条件は、「地元優勝の重圧に負けない経験」「若返りを図れる」「20歳以下や23歳以下など若手育成も担当する」など。有力なのは、02年日韓大会の優勝監督スコラーリだ。グロボが実施した読者投票では、46%の支持を集めた。元鹿島アントラーズのレオナルドは7%。ACミラン監督を1年だけ務めたレオナルドは、「経験」という条件で不利だが、こう話す。
「経験がなくても、若くても、優勝する時は、優勝する。監督選びは賭けだ」
編集部 伊東武彦
http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/637.html
7月15日(ブルームバーグ):青山学院大学教授の榊原英資元財務官は15日午後、都内で講演し、債務危機に直面する欧州は「解体の局面」に入っており、ユーロ相場は年内に1ユーロ=100円まで下落すると予想した。参院選で焦点となった消費税率の引き上げは「いずれは」不可避だが、「財政は今は危機的な状況ではない」と強調した。
榊原氏(69)は、ギリシャは緊急融資を受ける条件を満たせないだろうと懸念。同国の財政危機がもたらす歴史的な意義について、欧州は第1次大戦後に没落し、第2次大戦後は復活してきたが「非常に長い目で見ると、再び没落が始まった」と分析。欧州連合(EU)や統一通貨ユーロが直ちに崩壊するわけではないが、「再び解体の局面に入った」との見方を示した。
欧州は米国に対抗できるような地域を時間をかけて作り上げてきた結果、「少なくとも5割以上は統合が完成した」と評価。1999年のユーロ導入などにより「金融・為替については統合に成功し、あとは財政だ」という段階まで漕ぎ着けたが、世界的な金融危機が発生。域内の重債務国を救済する負担を迫られた経済大国「ドイツは欧州をけん引する機関車であることを放棄してしまった」と述べた。
ギリシャの財政危機に端を発した債務不安がEU内の重債務国にも広がる中、ユーロ圏16カ国政府は5月9日のEU緊急財務相理事会で、国際通貨基金(IMF)からの2500億ユーロを含め、最大7500億ユーロを投機に見舞われた圏内諸国に融資する枠組みで合意。欧州中央銀行(ECB)も公社債の購入を通じ、市場の緊張緩和を促すとした。
ギリシャは融資条件満たせず
ユーロ相場は急落。6月7日には対ドルで一時1ユーロ=1.1877ドルと2006年3月以来、円に対しても29日に1ユーロ=107円32銭と01年11月以来の安値をつける場面があった。その後はユーロ安が一服。EU域内の銀行に対するストレステスト(健全性審査)の結果は7月23日公表される。
榊原氏は、EUとIMFが決めた融資の枠組みについて、「前倒しで膨大な資金を出し、ファンドを作ったことには意義がある」と評価した。ただ、融資を受けるには公務員の給与削減と年金カット、消費税増税という政治的に困難な条件が付いていると指摘。ギリシャがこの「非常にシビアな条件をクリアできるか、おそらく出来ないだろう」と述べた。
もはや、欧州では「インソルベント(支払い不能)になった国をどうするか」が焦点となっていると指摘。経済規模が最大で財政の健全性にも優れているドイツを中心に財政支援をするしかないが、ドイツは緊急性が高くない自国の財政再建策に向かっていると説明した。
日本の財政は「危機的でない」
榊原氏は、日本の財政再建に関しては「今、危機的な状況にはない」と強調。先進国で「財政赤字は一番大きいが、金融資産も一番大きい。国債の約95%は国内で消化しており、長期金利は1.1%前後で安定している」と話した。
11日の参院選で焦点となった消費税率の引き上げは「いずれは」必要になるが、「少なくともあと4、5年は大量に国債を発行しても問題はない」と述べた。
日本の公的債務残高は国内総生産(GDP)の約1.8倍と主要国で最悪。財務省によると、国債・借入金・政府短期証券を合わせた国の債務残高は2010年3月末に過去最大の882兆9235億円に達した。日本銀行の統計では、公的債務の国内消化余力の目安となる家計の純金融資産は1079兆2631億円だった。
6月8日に就任した菅首相は22日、国債費などを除く歳出の大枠を11年度からの3年間、今年度並みの年71兆円以下に抑えるとした「中期財政フレーム」を閣議決定。基礎的財政収支の対GDP比赤字幅を遅くとも15年度までに半減し、20年度までに黒字化する目標も掲げた。歳入面では個人所得税、法人税、消費税、資産課税など税制の抜本的な改革を行うと表明。11年度の新規国債発行額を今年度の約44.3兆円以下に抑制する方針も示した。
榊原氏は1965年に大蔵省(現・財務省)に入省。国際通貨基金(IMF)出向や米ハーバード大客員準教授などを経て、95年6月に国際金融局長。円売り介入に加え、米国や日本銀行との政策協調も講じて円高・ドル安を是正し、同年9月には100円台を回復させた。アジア経済危機が発生した97年7月からは財務官を務め、円買い介入も実施。「ミスター円」の異名を取った。99年7月に退任。2010年4月、青山学院大学教授に就任した。
http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/209.html
最初の投稿は明らかに、
一、民営化・・
二、資本市場の自由化
三、市場に基づいた価格決定・・
四、自由貿易・・
を、あたかも絶対的な害悪であるかのように書いているが
それは間違いだろう。
例えば、確かに、資本の自由化には、弊害も大きく、投機マネーによるバブルとその崩壊は、未成熟な国家にとって非常に危険だ。だから途上国には様々な規制をかけて保護することが許されている。
ただし完全に規制したら、資本主義は成立しない。日本人だって国内だけしか投資できなかったら、今後、急速に貧困化していくしかない。
また日本や中国を始め、多くの途上国も諸外国からの直接投資があったから、これほど急速に経済成長できたし、米国の20世紀後半から21世紀の急成長も金融技術の発展の恩恵は大きい。
何でもそうだが、メリットとデメリットを最適化し、システムが崩壊しないような最低限の規制が必要であり、試行錯誤しながらやっていくしかないということだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=4sSOkSpKYe8&feature=related
オーストラリア実業家が日本から無断で持ち出した苗。それから作られた「さくらんぼ」が世界各地に輸出されている。
オーストラリアに奪われた日本のさくらんぼ(2/3)
http://www.youtube.com/watch?v=kzqmbjrXdMg&feature=related
10年かけて苦心の末に日本人が生み出した品種だったが、オーストラリアに奪われてしまった。オーストラリア農場主は「登録品種とは知らなかった」と言い逃れをしている。
オーストラリアに奪われた日本のさくらんぼ(3/3)
http://www.youtube.com/watch?v=iXrGvb4ltDs&feature=related
中国人や韓国人による苗木盗難も深刻な被害を招いている。彼らは農業見学の際に苗を盗んでいく。
日本政府はこうした不法行為と筋道を通して戦い、日本人の努力を守っていただきたいのです
韓国は退職した日本人技術者を使って増強をはかっている。またしても日本は彼らに裏切られるのだろうか? 日本人の善意が通るかは、少し前までの彼らの態度と発言でわかるはずなのだが
http://www.youtube.com/watch?v=_qej3nyWkFs&feature=related
ローエンドを中国に奪われつつある韓国企業は、プレミアム戦略で日本進出だってさw
韓国企業のプレミアム戦略??その2
http://www.youtube.com/watch?v=ACW226mna_g&feature=channel
プレミアム戦略、ヒュンダイの場合。
品質戦略なんてできるのか??w
2010年4月25日北海道帯広で行われた、石川知裕衆議院議員後援会主催による佐藤優氏講演
29 July 1951 Bayreuth Fes. Orc. Concert Live(Bavarian Radio)
Beethoven:Sym.No.9
●7月29日 ベートーヴェン/合唱 バイロイト祝祭o バイロイト音楽祭最終リハーサル&実況 EMI収録 EMI所蔵
LP/PR: EMI(GB)ALP1286-7(55/11)Pathe(F)FALP381-2(55/12)WALP(G)1286-7('55)
●7月29日 ベートーヴェン/合唱 バイロイト祝祭o バイロイト音楽祭実況 バイエルン放送収録 バイエルン放送所蔵
▼shin-pが最初に聞いたバイロイト合唱のブライトクランク盤LPは音質が芳しくなかったが、CDになってからは若干こもりぎみながらも比較的明瞭なサウンドで聴くことができるようになった−と思っていた。
ところが2000年になってコレクターの方に各国初出盤LPを聞かせていただいてから考え方は大きく変わった。英独仏初出盤のなかでは仏パテFALP381-2(55/12)がもっとも明瞭なサウンドを聞かせ、終演後の拍手もドイツの聴衆らしく整然とした印象。ついで英盤。
独盤は音がこもり気味で、日本初出盤に近いクオリティ。終演後の拍手もなぜか日独盤は共通して唐突なテープ編集がなされている。英仏盤も含めてEMI系のLP/CDは全て拍手の編集があるという説もある。
原盤マトリクスは同じながら各国で別テープを使用しているようだ。00/07レコ芸相談室によると演奏前の足音入りテープは現在日本にしか存在しないという。また2000年東芝全集盤でも61年当時英EMIから送られてきたテープを使用してリマスターしているという。
MythosNR5009(03/05)は初出盤ALP1286-7(55/11)を板おこしした話題のCD-R。
足音入りの部分は演奏部分に比べて音が明瞭、マイクの位置もステージ際と思われ、聴衆ノイズの少ない演奏部分とは別のマイク位置による収録と思われる。
さらに、もしこの足音部分のみバイエルン放送テープを使ったとすれば、同局が収録した他の音源と比べて51年録音としては明瞭すぎ、出所については疑問が残る。
足音や終演後の拍手のみならず詳細に聞けば、残響が不自然にとぎれ、いたるところでテープ編集されているのがわかる。
この演奏は同年のカラヤン「ワルキューレ3幕」と共にEMIのレッグが収録。
これだけの記念碑的大演奏会だけにリハーサルからテープは回っていると考えるのが順当だろう。
英ART盤の解説によれば
「終演後、レッグがWFの控室を訪れ『良い演奏だったが、今まで以上にすばらしい演奏とは言えなかった』と実演の感想を述べた」
ことが書かれている。オルセンによれば、実況録音はバイエルン放送が生中継し、テープも所蔵しているという。
EMIが現在「バイロイト盤」として発売している最終リハーサルを中心としたテープおよびバイエルン放送が本番の実況を録音したテープの2種の録音の存在が推定された。
2007年7月ついに日本WFセンターが、バイエルン放送のテープを使った真正実況を頒布。これの録音状態は、51年放送録音としては標準的なもの。
EMI盤は3楽章をはじめとして若干の実況を含んだ「最終リハーサル」を中心とした編集版である可能性がさらに強まった。
さらに、EMI盤とセンター盤の同じ演奏部分の収録状況の違いから、真正実況もEMIとバイエルン放送の2つの音源があり、51年バイロイトに関しては計3種テープの存在が07年時点で推定される。日本協会が8月頒布で1954年バイロイトのオリジナル音源盤を発表しており、さらに、謎は解かれつつある。
クナの神々をデッカが収録しているが、音質ではEMIはデッカに及ばなかった−という世評。ただ、初出盤などを聞くにつけ、もっといい音で残されている期待もある。
演奏については、唯一「コーダの決めが録音のせいかあやふやな感じで終わっている」といった趣旨の演奏評も多いが、この切れたような終わりかたこそshin-pはこの曲にふさわしいと思える。
至る所で編集がされていたとしてもこの演奏の偉大さは変わらない。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/
▼日本WFセンターから51年バイロイト真正実況が頒布された。
まず、音質だが、翌年2月の独協会ウィーン盤には劣るが、1ヵ月後のザルツブルクorfeo盤よりは良好。高域は明快だが、低域が弱く、終始管楽器が強いなどのバランスと持続的に聞こえるノイズに若干の問題がある。
バイエルン放送はワンポイントマイクを使ったのだろうか、EMIが収録した「最終リハーサル」と思われる録音に比べて、強奏部で楽器の分離が悪く、個々の楽器の音色に劣る。それでも、これは他のCDと比較した場合の問題点で、鑑賞自体に大きな支障はない。
さらに、EMIの「足音」部分とセンター盤の一楽章冒頭はどうしても同じセッションのものとは思えず、レッグがこのバイロイト盤発売に際して試聴したとされる、54年バイロイトの良好音源もどこかに存在するという思いを強くした。
演奏は、冒頭からEMI盤とは全く別物だとわかる。
部分的にEMIが使った演奏が顔を出す個所もあるのだろうが、1,2回の試聴ではよくわからない。
全体的に多少荒れた印象もあるが、これは録音のせいだと思われ、整然としたEMIとは違ってライブらしい熱気が感じられる。
1楽章の前半部に大きな咳払いがあるが、その他は聴衆ノイズが少なく、良好にこの記念碑的真正実況が聞けるのはありがたい。
バイロイト盤の白眉は、歓喜の主題が低弦で静かに演奏されはじめる部分にあるとshin-pは信じているが、残念なことにセンター盤はその直前の「間」にテープの継ぎ目があり、低弦の出だしが切れている。演奏前後の拍手などはカットされているが、楽章間の聴衆ノイズが収録されており臨場感は満点だ。
やっと、「真正実況」が聴ける歓びが大きいのは間違いない。
しかし、全曲を通して聴いた感動は、EMI盤の方が大きい。
生演奏は、録音された瞬間に「アーカイブ」という別物に変わってしまうのだ。
何度も繰り返し再生され、なおも愛好家を増やしつつあるEMIバイロイト盤の「レコード芸術」としての歴史に、残念ながらセンター盤「真正実況盤」は敵わないように思う。
あれほどまでに聴きたいと思いつづけてきた「真正実況」だが、「今まで以上に優れたものではなかった」というレッグの実演に対する評価が、大きな実感としてshin-pの胸にのしかかった−(07/07/19)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/
フルトベングラーの「第9」、別の音源見つかる
1951年のドイツ・バイロイト音楽祭でフルトベングラーが指揮したベートーベンの「交響曲第9番」(EMI)はクラシックの伝説的名盤といわれる。
ところで最近、この同じ演奏を、バイエルン放送が録音した音源が見つかった。
状態は良く、演奏の細部が明確に聞きとれる。
すると、こんな推論が浮上した。
「伝説的名盤」は、本番の録音にリハーサルなどを取り込んで大胆に編集したものなのではないか――。
ライブ録音は、うわさを聞いたチェロ奏者カルテンボルンが06年にバイエルン放送に照会し、後日、資料室で見つかった。放送記録も残り、箱に録音技師の名前もあった。同年10月に同放送関係者や音楽家らが試聴審査し、「51年のバイロイト」と判断したという。
しかし、この「バイエルン版」は、EMI盤と様々に違っていた。
例えば第3楽章冒頭はバイオリンの出が早い。
終楽章でコーラスが「vor Gott」と歌う部分に激しい音量変化がない。聴衆のせきも、第1楽章から明確に聞こえた。
カルテンボルンと親交がある、日本の「フルトヴェングラー・センター」の中村政行会長も、現地の審査会に参加した。中村会長は
「EMI盤は聴衆ノイズを消すため、一部をリハーサルと差し替えたのではないか。様々に『化粧』を施したことになるが、スタジオ録音が中心だった当時ならありうることだ」
と語る。
「センター」の顧問で、半世紀にわたりフルトベングラーの音源を聴いてきた檜山浩介さんは比較の上で、こう語る。
「EMI盤は、全体の4分の3が編集したものではないか。
当時の流儀からして、ライブ録音以外に音源を使うならリハーサルだろう。
バイエルン版は、EMI盤では破綻(はたん)がある合唱の出来がよく、終楽章の最後の凝縮感もすごい。戦後の新時代に向けたフルトベングラーの思いが伝わる」
EMI盤には、実は以前から「一部が編集されているのでは」と想像を巡らすファンがいた。
ただ、古い録音に詳しい音楽評論家の山崎浩太郎さんは言う。
「編集が加わったものだとしても、EMI盤の芸術的価値は下がらない。
優劣を論じず、虚心に聴き比べ、フルトベングラーの神格化を避けて、多面的に音楽を楽しむことが重要だ」
http://takenoko-ent.blog.so-net.ne.jp/2007-09-27-2
ベートーベンの第9のCDといえばフルトヴェングラーのバイロイト盤にとどめをさす。
戦後、再開されたバイロイト音楽祭1951年の初日、7月29日の公演のライブ録音。
もちろんモノラル録音だ。のちに録音のいいステレオ盤がたくさん発売されたが、レコード芸術などの評論家や読者を対象とした雑誌のアンケート調査でもいつもこれが1位になっていた。僕自身、録音のいいステレオ盤をいろいろ聞いていたが、このフルトヴェングラー盤に出会って第9の神髄に触れることができた。
有名な録音だけにいろいろ憶測が言われてきた。詳しくはあとで述べるが、この録音は 英EMIによって録音された。レコード化を目的としていたかは、実際のところわからない。
EMIはウイーンフィルやフィルハーモニアオーケストラを使ってスタジオ録音を始めていた。SP時代をのぞくと、レコード化を目的としたライブの録音は他には知らない。この年(1951年)カラヤン指揮のワーグナーの楽劇を録音するため、EMIは録音チームを送った。ついでにフルトヴェングラーの第9を録音してみようという話になったのだろうか。
公演は29日1回だけだったらしいが、現地のラジオ局(バイエルン放送協会)も録音してラジオで放送されたらしい。それで放送局にEMIとは別の録音テープがあるのではないかといううわさが以前からあった。
そのうわさされていたバイエルン放送局所蔵の録音テープが出てきて、2007年に日本フルトヴェングラーセンターがCD化し会員向けに頒布された。大げさかもしれないがファンにとっては衝撃的なニュースだった。
案内されてきたCDは会費込で6000円した。あまり高すぎるため、聴きたかったが、買わなかった。そうしたらその年(2007年)の12月にORFEOから通常販売され入手できた。
(ORFEO C754081B、写真)
この録音の発掘は当然、かなりの話題になった。2007年9月号のレコード芸術に感想記事が寄せられている。フルトヴェングラーセンター会長中村政行、フルトヴェングラー研究家桧山浩介、そして音楽学者(評論家)金子建志の3人。まだORFEO盤は発売されていないので、センター盤を聴いてでの感想ということになる。
いままでEMI盤で言われてきたのはゲネプロ(総練習)をメインに使用し、本番のテープも一部使用した、という説(テープを編集した跡がある)。
ほぼこれは当たっていると思う。バイエルン放送局のテープは咳ばらいなどの聴衆のオーディエンスノイズがはっきり聞き取れる。部分的にEMI盤と同一と思われる個所もあるらしいが、あきらかに別録音という印象を受けた。
中村、桧山両氏はバイエルン放送局盤を29日の本番だと指摘。演奏の完成度もEMIより高いという意見を述べられているが、金子氏はまったく逆の意見だ。
その根拠は、演奏の仕上がりの完成度はEMI盤の方が高くバイエルン放送局盤は楽器のバランスやアンサンブルの点で最終し上がりの前の状態で完成度が低いと指摘している。金子氏の指摘はスコアを使用して詳細を極めている。
ぼくはスコアは持っておらず、金子氏の指摘についての確認は出来ないが、バイエルン放送局盤の演奏にEMIより完成度が低いという印象は持てなかった。金子氏の指摘で判るのは、終楽章のソロトロンボーンの箇所と、ピッコロ、トランペットが突出しているところ。ピッコロとトランペットの箇所は、マイクアレンジの差かもしれないが、仮に、EMI盤が本番として、フルトヴェングラーが修正した、という説は、十分考えられる。しかし、咳などの聴衆のノイズについては、オーケストラの楽員もしくはコーラスの団員が発したものではないか、という説は無理があると思う。第一楽章初めのあたりの咳はマイクに近く、オーケストラ団員というのはわかるが、マイクから遠い会場ノイズがあちこちに散見できるからだ。
金子氏がバイエルン放送局盤をゲネプロと指摘する根拠がほかにもある。第3楽章のまえにソリストが入場する足音が聞かれる個所のことだ。(ORFEO盤はここのところはカットされていてる。)本番ならソリストが入場すれば拍手がおこるはずと指摘している。
これはたしかにそのとおりだと思うが、一方でゲネプロならソリストの入場は第4楽章のまえでいいのではないかとも思うが。バイエルン放送局盤は第3楽章が終ってすぐ第4楽章が始まっているので、たとえゲネプロであっても本番と同様に演奏したい、というフルトヴェングラーの要望があったのではと、憶測もできる。
EMI盤の憶測がいくつか明らかになった。
第4楽章中間あたり、”vor Gott"と合唱がフォルテで歌い、声を長く伸ばす、有名な箇所があるが、最後、瞬間的に合唱、トランペットのレベル(音量)が上がる。
これは、レコード制作時にわざとレベルを上げて、演出したのではないかという疑問だ。
バイエルン放送局盤はそのような音量の変化はない。
したがって作られたものだと判った。
さらに、その"vor Gott"のあと、長大なゲネラルパウゼ(総休止)がある。これが異常に長い。それも疑問がもたれた。
しかしバイエルン放送局盤も同様に長く、この点については特に元テープを触ってないということがわかった。
僕自身、どうにもわからない点がある。それは最後のつめの箇所。フルトヴェングラーの第9の最後のところは、猛烈なクレッシェンドをかけて終わる。
フルトヴェングラーの第9の録音はかなりあって、ほとんどCDで聴くことができ、この終結のところはどれもうまくいっているが、このEMI盤はオケが混乱して終わっている。
まったく縦の線がそろっていない。誰が聴いてもこれはわかる。
バイエルン放送局盤はこの箇所がうまくいっていて問題ない。レコード化にあたってなぜバイエルン放送局盤を採用しなかったのか。結局、新たな疑問が生じた。
バイエルン放送局盤はバイエルン放送局が録音したと言われている。関係者の証言もあるみたいだ。
しかし、僕はこれはEMIが収録したものだと思う。理由はいろいろあるが、それまでバイロイトでのコンサートの録音の経験はなかったはずで、マイクのセッティングに手間がかかり、本番、ゲネプロの収録までにいろいろ試行錯誤(マイクテスト)しているはずで、別々にしているとは考えにくい。それと、マイクアレンジや音質は別、という意見があるが、ぼくが聴いた限りでは、「同じマイクアレンジ」だと思う。たしかに、先に書いたピッコロやトランペットのバランスの問題はあるが全体の音の印象はEMI盤と同じ、という印象だ。根拠はもう一つ。当時のラジオ放送局にこれだけバランスのいい録音が出来る技術は持ってなかったという点だ。
フルトヴェングラーは1954年にもバイロイトで同じ第9を公演していて、この方は間違いなくバイエルン放送協会が録音したテープが残されている。それはCDで聴くことができる。かなりバランスの悪い録音で、はっきりいって鑑賞に耐えられるような代物でなく、3年後という技術の進歩も考えても、バイエルン放送局盤がバイエルン放送局の技術で録音されたとは考えられない。ほかのケースを例に出してもいい、51年、52年、53年のウイーン、51年のザルツブルグ、54年のルツエルン、バイロイトなど、いずれも放送局の録音での第9が残されて聴くことができるが、いずれも録音のクオリティは51年のバイロイト盤には遠く及ばない。
僕の解釈、ゲネプロと本番をEMIが収録した。おそらく、録音権でEMIとバイエルン放送協会とのあいだに争いがあったのではないかと思う。
録音はEMIが収録し、本番かゲネプロのどちらかのテープをEMIがバイエルン側に提供する。放送は1回限りで、コピーテープを他の放送局に提供しない、という契約をしたのではないかと思う。
コピーテープはスエーデンにあるらしいが、放送時に局が録音したのではないかと思う。今回のバイエルン放送協会で発見されたテープには、「たとえ部分的にでも、放送することは禁止」と書かれているという。一度放送した後で記述されたとおもわれ、EMIとの契約を意味しているのではないだろうか。
1970年代後半から80年ころにかけて、放送局が所蔵していた音源からの流出と思われる、コンサートライブのレコードがチェトラ、BWS(ブルーノワルターソサエティ)、メロドラムといったレーベルから大量に発売された。フルトヴェングラーのライブもたくさん出てきた。それ以降も、放送局所蔵の録音テープの発掘が続けられて、散発的に発売されていた。それらのなかに、今回のバイロイトの録音テープは発売されなかった。つまり、バイエルン放送局で厳重に管理され、再放送はもちろんコピーテープも作られなかったということだ。
このEMIの録音についていくつかヒントを与えたい。1999年に歴史的録音を発掘してCDを発売しているテスタメントからオットー・クレンペラーの第9のライブ録音が発売された。1957年11月15日の公演の録音。放送局が録音したのならよくあるケースだが、録音はEMIがした。当然、録音のクオリティは高い。クレンペラーの第9はこの演奏会に前後して、まったく同じメンバーでセッション録音された。レコードとして発売されたのはもちろんセッション録音の方。ライブの方は99年にテスタメントが発売するまで録音の存在さえ知られていなかった。似たケースがほかにもある。53年8月ザルツブルグでシュワルツコップフのヴォルフリサイタルがおこなわれた。ピアノはフルトヴェングラー。シュワルツコップの夫でEMIで力を持っていたウオルター・レッグが私的に聴くために、このコンサートの録音を指示した。結果的には選曲してEMIからレコード化されたが、珍しいケースだと思う。いままであえて名前を出さなかったが、バイロイトのフルトヴェングラーの録音やクレンペラーの第9の録音はレッグの指示だと思う。
EMIはフルトヴェングラーのベートーベンの交響曲をウイーンフィルで順次録音していた。1954年フルトヴェングラーが亡くなって、2番、8番、9番は録音されなかった。9番がセッション録音がされていたら、51年のバイロイトの録音はクレンペラーのケースのようにお蔵入りになっていたと思う。
えらい長いブログになってしまったが、EMI盤とバイエルン放送局盤の比較だが、バイエルン放送局盤の方が演奏がいいと思う。全体が有機的に連続しており、EMI盤のような編集の痕もなく自然。それに録音は明らかにバイエルン放送局盤に軍配が上がる。EMI盤のLPの海外、国内の初期盤、後の盤(70年代)とも比較したがバイエルン放送局盤の方が音質がいい。同じ収録なのになんで差があるのか謎である。バイエルン放送局の別録音の根拠になるが、どうしてもそれは信じられない。
1点だけ問題がある。第4楽章はじめ有名な歓喜の主題がチェロで静かに始まるところ、有名な箇所だがEMI盤はほとんど聞き取れないほどのピアニッシモで開始されるが、バイエルン放送局盤はラジオ放送のためそのままでは聞こえないので、音量を上げている。金子氏が指摘している通りでここでノイズレベルが上がる。再発売の際にはここはもとのダイナミックスに修正してほしい。感興をそぐ。
http://blogs.yahoo.co.jp/zen32510/60907627.html
第二次世界大戦後、6年を経てようやく再開されることとなったバイロイト音楽祭のオープニングを飾ったこの歴史的な演奏は、そのライヴ録音と記されたEMI盤によって、これまで半世紀以上に渡り、音楽好きの人々の間で広く鑑賞されてきたのですが、今回登場するバイエルン放送音源は、同じ日のライヴという記載条件ながら、なぜかそれとは異なる演奏となっているのです。
おそらくどちらかがゲネプロ録音で、どちらかが本番録音ということにでもなるのでしょうが、当時の演奏に関わった人の明確な証言が得られない以上は、どのような意見も推測の域を出ないというのが実際のところでしょうか。
ただはっきりしているのは、終楽章コーダのアンサンブルはEMI音源が崩壊しているのに対し、バイエルン放送音源では何とか持ちこたえていたり、第3楽章のヴァイオリンの出が違ったり、トランペットやトロンボーンのバランスが大きく異なるなど、演奏そのものの差異が認められる部分が多いにも関わらず、部分的には両者が完全に一致するところも存在するということです。
この事実は、どちらかが2種のテープの継ぎはぎをしたということを示すことにほかならないため、1955年に商品として発売されたEMI盤が、「より良い状態にするための編集」というレコード会社がよく採用する方法論を反映したものであるという仮説が有力とも思われます(ブルックナー8番の例も)。
しかし、明確な証拠が無い以上はやはり断定は難しいところですし、しかもバイエルン放送のテープの箱には、「放送に使用することは禁止」という文言も記載されているということなので、さらに事情はややこしくなります。
http://luke.jugem.cc/?eid=675
ベートーヴェン
交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(アルト)
ハンス・ホップ(テノール)
オットー・エーデルマン(バス)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団、同合唱団
録音:1951年7月29日、バイロイト
EMI(輸入盤 7243 5 66953 2 0)
この録音を聴いたのは大学に入ってからだったと思います。最も印象的だったのは第4楽章の終結部でした。威風堂々と奏でられてきたこの曲は、最後の最後で歓喜の絶頂に達します。フルトヴェングラーはそこで猛烈なアップテンポでオーケストラを煽り、信じがたいほどの狂騒の中で曲を終わらせます。そのわずか数分のできごとに私は呆気にとられたものでした。これが私の「第九」体験のひとつです。その後、「第九」を聴くときには、最後の最後でフルトヴェングラー的な極度の高揚感を求める癖がしばらくついてしまいました。
もちろん、そのような癖があっても、現実がそれを矯正しました。もはや世の中にフルトヴェングラーのような指揮をできる指揮者も、それを受け入れるオーケストラもなかったためです。
考えてみれば、EMIはよくもまあこのような録音を発売したものです。フルトヴェングラーという巨人の名前がクレジットされていなければ、おそらくはとてつもない珍盤とされていた可能性があります。フルトヴェングラーが狂ったように指揮棒を振り回し、テンポを上げていくものですから、オーケストラはついていくのがやっとです。そのすさまじさに圧倒されるものの、演奏はハチャメチャに聞こえます。それどころか、きちんと最後の音まで辿り着いていないように思えました。
それだけではありません。第4楽章で合唱が「vor Gott」と叫ぶと、それが延々と続きます。フェルマータがついているとはいえ、一体どこまで伸ばすのか、と思うくらい伸ばします。しかも、その最後でクレッシェンドしているではないですか。絶叫の上に絶叫であります。そして、それからの長い長い沈黙。大まじめにやっているのですごい迫力があります。
これを何度も聴いていくと「第九」とはこう演奏すべき曲なのだと思ってしまうのです。「ライブ録音」と明記してあることも手伝って、一頃まで私がライブにこうした極端とも言える激しさを求めるようになってしまったのは、この録音の影響だったのかもしれません。その後にクレンペラー盤やジュリーニ盤などを聴くに至って私の偏向的な聴き方は緩和され、現在に至っています。
しかし、フルトヴェングラーの音楽が持つ生命力は半端ではありません。
今年2007年になって大きな動きがありました。フルトヴェングラー・センターから会員向けにバイロイトの「第九」が発売されたのです。それも、編集がない、正真正銘のライブ盤だとか。
フルトヴェングラー・センター(会員向けCD WFHC-013)
何と、1951年7月29日のテープがバイエルン放送局の倉庫に眠っていたのですね。それが21世紀になって発掘されたわけですが、この「センター盤」が出現したことで、EMI盤が当時のプロデューサー、ウォルター・レッグによる編集を経て作られたことがほぼ明らかになりました。
例えば、EMI盤にあった「vor Gott」のクレッシェンドは「センター盤」にはありません。というより、「センター盤」は全体的に音楽の流れがとても自然です。つぎはぎをされたらとてもこのように自然な流れにならないでしょう。
気になったのは第4楽章の終結部です。もしかすると普通のテンポになっていないかと興味津々で聴いたのですが、猛烈なスピードで畳みかけるのは一緒ですが、音はよく揃っていて「ハチャメチャ」な感じは全くしません。見事に最後の音に着地しています。
こうなるとますます奇妙です。レッグはわざわざハチャメチャな方を編集材料に選んだことになります。また、「vor Gott」にクレッシェンドをつけて強力に厚化粧をしています。ライブ盤と銘打って発売するからにはこれくらいのことをしておいた方がインパクトがあると考えたのでしょうか。実際に多くのファンに強烈な印象を与え続けたわけですから、レッグの目論見は完全に成功したと言えます。
「ここがこのように違う」という指摘はいくつもできるでしょうし、おそらく専門家や好事家の間でその一覧表でも作られているに違いありません。しかし、こうしたことは枝葉末節なのかもしれません。全体としてみればこの「センター盤」もレッグ編集のEMI盤もフルトヴェングラーの演奏を充分に伝えています。
いずれにせよ、死後50年も経過している指揮者の録音が今も話題になり続けていることは興味深いです。ベスト盤を選定することに意味がないと考える私ですが、フルトヴェングラーはベートーヴェンに真剣に取り組むその姿勢が最も顕著に音に現れている指揮者の一人であるとは思っています。復刻盤が出たらまた買ってしまうことでしょう。古いモノラル録音であるのに。
http://www.kapelle.jp/classic/9th_symphony/beethoven.html
もう一つのフルトヴェングラー/バイロイト「第9」を聴いて
昨年暮れにオルフェオから出たフルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管の別テイク(バイエルン放送)のベートーヴェン「第9」をようやく聴きました。
朝日新聞にセンセーショナルな記事が出たこともあり、おそらく昨年のクラシック音楽界でも最大の話題となったCDの一つでしょう。私もずっと気にはなっていました。
要するに、あの不滅の名盤と言われている1951年のバイロイトの「第9」ライヴ(EMI)が、実はゲネプロの録音ないしはゲネプロと本番の継ぎはぎの編集によるものであって、今回の別テイクこそが、世に出なかった本物のバイロイトの本番の演奏ではないかという疑惑が出されていたわけです。
その後、金子建志さんが「レコード芸術」誌で詳細な分析を行い、むしろ今回出た録音の方がゲネプロなのではないかという意見を出されていたのも印象的でした。
そして、ようやく聴いてみた私の直観的感想を言えば、やはり金子さんと同じく、今回のオルフェオ盤はゲネプロの演奏ではないかという気がします。第1楽章の最初の方で咳が聴こえたりする臨場感はあるものの、やはり全体的に、演奏そのもののテンションがEMI盤に比べると若干低いというか、どことなく模索的な印象を受けます(特に第1楽章の前半)。とはいうものの、それはほんのわずかの差であって、オルフェオ盤においてもフルトヴェングラーならではの呪縛的な世界が展開していることは間違いなく、気がつけばのめりこむように聴き、久しぶりに出会うフルトヴェングラーの「第9」に興奮している自分がいました。録音状態も、フルトヴェングラーのものとしては最良の部類。第3楽章の弦の表情など生々しい感激があります。
今回のバイロイトのもう一つの「第9」を聴いて、私はフルトヴェングラーの演奏に宿されている、一種の「憑依」という特性について改めて考えさせられました。
つまり、オルフェオ盤・EMI盤のどちらにせよ、なぜこんなにゲネプロでも燃えまくってしまうのか。
それはおそらく、ゲネプロであろうが本番であろうが、ついつい
「降りてきてしまう」「とりつかれてしまう」要素をフルトヴェングラーの棒が持っていたからなのではないでしょうか。
以前、ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者だった頃のライナー・ツェペリッツにインタヴューしたときに、フルトヴェングラーのことについて聞いてみたことがあります。「一体フルトヴェングラーとは何だったのか? 今のベルリン・フィルにフルトヴェングラー時代の響きは残っているのか?」という質問をしたのです。彼はフルトヴェングラー時代を知る最古参のベルリン・フィル楽団員の一人でしたから。
それに対するツェペリッツの答えはこうでした。
「う〜ん…フルトヴェングラーの響きは、少しだけ、残っていると思うね」
「それはどんなときに感じるのですか?」
ツェペリッツは目を閉じて、右手をスローモーションのように動かしながら答えました。
「今でもときどき、ベルリン・フィル全体が、微妙に動いて…揺れる瞬間がある。あれは――フルトヴェングラーなんだ」
指揮者が意図的に誘導して動かすのでもない、オーケストラ全体が、集合的無意識のように、不思議な揺れ方をする、その瞬間がフルトヴェングラーだ、とツェペリッツは言いたかったんだと思います。
我々はそれを作曲家の霊が憑依したように(まるで今音楽が生まれたばかりであるかのように)感じるのかもしれません。
もちろん、今回のオルフェオ盤にも、それは充分に感じられました。聴く者すべてを狂わせてしまうような、あの暗い魔力はフルトヴェングラーならでは。ファンならぜひとも聴いておくべき1枚でしょう。
http://linden.weblogs.jp/blog/2008/01/9-d41c.html
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