<■700行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> 沖縄戦最初の戦死 歴史に葬られた特攻隊長 伊舎堂用久 正論2025年4月号 作家 将口康浩 大陸に対し、海に弧を描き、鹿児島から沖縄の島々が連なっている。 国境に近い最西端、八重山諸島の中心が石垣島。 沖縄本島から400km、台湾との距離は僅か270kmしか離れていない。 石垣島の北170kmに点在する尖閣諸島では中国船の頻繁な領空侵犯を受けている。 かつて沖縄は、東から攻め上がった米軍との戦いの地となった。 今、西からの攻勢に晒されている。 尖閣諸島最大の魚釣島の地番は沖縄県石垣市登野城尖閣2392番地。 ちょうど80年前の昭和20(1945)年、石垣島から出撃、慶良間諸島沖で米艦隊に体当たり攻撃を行った伊舎堂用久大尉の生まれは石垣市登野城156番地。 自分の郷土は自分で守ると、特攻隊長として故郷から出撃した。 石垣島西部に陸軍白保飛行場が広がっていた。 昭和20(1945)年3月25日午後11時50分、指揮所前に陸軍特別攻撃隊 「誠第17飛行隊」 と、その護衛に当たる 「独立飛行第23中隊」 の隊員、関係部隊長40名が集合していた。本25日1650、慶良間群島周辺に空母2、特設空母4以上よりなる敵機動部隊遊弋中なり 飛行団は敵機動部隊を攻撃せんとす 中央気象台石垣島測候所は昭和20(1945)年3月26日の天候は快晴と予報していた。 海上に浮かぶ眼下の敵を発見しやすい絶好の飛行日和だった。 昭和20(1945)年3月26日午前4時。 見送りを受け、初めに第23中隊所属の直掩機6機、続いて誠第17飛行隊の特攻機4機が離陸した。 11歳だった石垣島宮良の小浜義勝はその日をよく覚えている。 迫る米軍艦艇に体当たりをする特攻機が石垣島から出撃することは子供でも知っている公然の秘密だった。 日の出は午前6時37分、まだ月が残っていた。 「飛行機が飛んでいる」 姉の声がした。 布団にくるまり、眠っていた小浜義勝はすぐに飛び起きた。 耳を澄ますと、聞き慣れた陸軍機の爆音がする。 急いで庭に出て、北の空の機影に姉と2人で懸命に手を振った。 傍らでは、目を閉じたままの母は手を合わせて拝み、父は言葉もなく呆然と見送っていた。 その日、米空母に突撃して戦死したと聞いた。 戦後も生まれた石垣島で暮らし、老齢となった小浜義勝は伊舎堂用久の戦死についてこう語っていた。 「国を思う国民の心なくして平和も人権も生活もあり得ない」 「伊舎堂用久中佐が故郷を守ってくれたからこそ、こうやって今、我々は生きている」 熾烈を極めた沖縄戦は石垣島の白保飛行場から飛び立った伊舎堂用久隊が口火を切る。 伊舎堂用久率いる10名が沖縄戦最初の戦死者となった。 しかし、この事実を知る者は少ない。 ■「用久元気」空からの手紙 中国戦線から1年ぶりに帰国、静岡県浜松で新型機に乗り換えるための訓練を受ける。 僅か1カ月ほどの浜松滞在後、那覇経由で台湾花蓮港(現・花蓮市)に向かう。 途中、石垣島の生家上空を旋回、通信筒を落とす。 帰省することができない伊舎堂用久からの空からの手紙だった。 用久元気 台湾花蓮港ニ居ルコトニナリマシタ 今前進スル途中 最早故郷の地を踏むことはない、珊瑚礁に当たる砕ける波と白浜、緑深い山々、港に続く懐かしい家並み。 空からこれが見納めとじっくりと眺めたに違いない。 手紙を受け取った父の伊舎堂用和、母の伊舎堂ミツも同じ心持ちだっただろう。 だが、10カ月後、再び故郷の地を踏む。 帰るに帰れなかった石垣島に7年ぶりの帰郷を果たす。 そこが最期の地となった。 昭和19(1944)年10月25日、レイテ沖海戦で初めての特攻攻撃が行われた。 同年昭和19(1944)年11月中旬、花蓮港からフィリピンのルソン島ツゲガラオ基地まで、伊舎堂用久は99式軍偵察機で飛行、米軍の進攻状況や特攻隊の現況などを10日間に渡り偵察分析する。 整備の岡本泰憲曹長だけが同行した。 夕食後、ツゲガラオ基地の宿舎を抜け、2人で空を見上げる。 交わす言葉はなく、無言のままだった。 岡本泰憲曹長が手記に残している。 「群青色に澄んだ夜空に散らばる南十字星を伊舎堂中尉と感無量の想いで眺めた思い出は忘れられない」 この時点では台湾での特攻隊編成は決まっていなかった。 しかし、伊舎堂用久を単機で現地視察に行かせた理由は1つしかない。 沖縄で特攻隊出撃命令を下す際、敵を迎え撃つ沖縄県民と後続の陸軍航空兵の士気を高める上で、第8飛行士団幹部は郷里の英雄を最初の隊長にすべきと当初から考慮していた。 無論、伊舎堂用久自身もその意を汲んでいた。 昭和19(1944)年11月末、同師団に特攻隊編成指示が出された。 死に向かう道しかない集団の団結心と1人1人の闘志の高揚、持続だった。 そのためには集団を率いる隊長の責任感や統率力、人柄、技量が重要になる。 部下にこの人とならば、と思わせるような男でなければならない。 編成を任された作戦主任参謀の石川寛一中佐は隊長に伊舎堂用久を指名した。 石川寛一中佐は偵察出身で、伊舎堂用久との関係も深く、知悉の間柄でもあった。 伊舎堂用久を司令部に呼び出し隊長就任を要請した。 何の迷いも躊躇いもなく、伊舎堂用久が即答する。 「私にやらせて下さい」 昭和19(1944)年12月8日、 「誠第17飛行隊」 が編成された。 伊舎堂用久は昭和19(1944)年12月1日、大尉に昇級した。 希少な石垣島出身の飛行隊長が郷土から特攻出撃する筋書きが完成した。 伊舎堂用久大尉 陸士55期、24歳、沖縄出身 石垣仁中尉 陸士56期、23歳、山形出身 安原正文少尉 幹部候補生9期、24歳、高知出身 川瀬嘉紀少尉 特別操縦見習士官1期、24歳、東京出身 大門修一少尉 特別操縦見習士官1期、24歳、茨城出身 久保元治郎少尉 金沢大、特別操縦見習士官1期、22歳、千葉出身 芝崎茂少尉 特別操縦見習士官1期、23歳、埼玉出身 黒田釈伍長 少年飛行兵、21歳、愛媛出身 有馬達郎伍長 少年飛行兵、17歳、鹿児島出身 林至寛伍長 少年飛行兵、17歳、東京出身 小林茂兵長 少年飛行兵、16歳、東京出身 誠第17飛行隊11名のうち生き残った者は誰1人としていなかった。 昭和20(1945)年2月28日、誠第17飛行隊は石垣白保飛行場に到着した。 伊舎堂用久にとって7年ぶりの故郷で過ごす最期の37日間だった。 隊員は飛行場近くのオーセと呼ばれる拝所がある白保集落の中心に分宿する。 毎朝、オーセ前に集合し、全員で体操を行う。 その後、隊長宿舎前で点呼を取り、その日の作業日程やその日の行動確認を行い、最後に隊長が訓示をするのが日課だった。 門前で伊舎堂用久がキビキビと名前を呼び、隊員が返事をする光景を見た前盛家の嫁、敏子は規則を厳格に守る軍隊の様子に驚かされる。 「物腰の柔らかい方で、隊長は部下に対しても、温情みある態度で接し、叱り付けるようなことはありませんでした」 死にだけ向かっていく伊舎堂用久の心中を慮り、話しかけたこともあった。 「夜はきちんと熟睡できますか」 「出撃の日を待つのみですから、何も考えずに、その日を来るのを待っています。今はただ、明鏡止水の心境です」 比ぶなき幸い哉我選まれて今南海の雲と散り征く 石垣仁中尉 死生有命不足論 只祈必中撃沈 安原正文少尉 指折りつ 待ちに待ちたる 機ぞきたる 千尋の海に 散るぞ楽しき 伊舎堂用久大尉 人間到処在青山 芝崎茂少尉 きづなをば たちて飛びゆく 白雲の無心の境地 機にまかせて 大門修一少尉 残された寄せ書きが5名の遺書となった。 ■「部下のことを・・・」家族との面会拒む 地元出身の有名人だったが前盛家の家族以外、他の島民たちと接触することはほとんどなかった。 伊舎堂用久の母ミツと姉の3女トヨ子、妹の4女節子が隊長宿舎を訪ねてきたことがある。 前盛家の長男、善助がそのことを伝えると、伊舎堂用久は毅然として面会を断った。 「部下は本土出身で、帰りたくても帰ることができない」 「部下の気持ちを思うと、自分だけ家族に会うことはできない」 陸軍士官学校入校以来、故郷に帰ることが叶わず、あれほど会いたかった母と姉妹たちだ。 しかし歓喜するどころか、すげなく追い返す。 「大尉殿は会うことはできないと言っている」 母たちに善助が申し訳なさそうに言った。 自宅のある登野城と白保は10km近くある。 子供の足では3時間近くかかるだろう。 会えないまま、落胆し帰って行った。 「公私の区別について、かなり厳格に考えていた」 「妹さんが手作りのご馳走を持参して面会に来ても会わなかったようだ」 「せっかく訪ねてきたのだから、堅苦しく考えずに会ってあげたらどうか、と勧めたことがある」 「しかし、部下は帰ろうと思っても帰る所もない」 「いくら肉親でも部下の手前、忍びないと拒み通したことは並みの人のできることではない」 「こういうことなどで部下たちは心服していた」 上司の第9飛行団長の柳本栄喜大佐は戦後、こう書き記す。 柳本栄喜大佐も面会を勧めるが、伊舎堂用久は頑なに拒んでいた。 「家に帰って1度、両親に顔を見せてはどうか」 石垣島に駐屯していた第69飛行場大隊長の浅沼紀平少佐は伊舎堂用久に顔を合わせる度に、帰宅を促していた。 しかし、伊舎堂用久の返事は変わらなかった。 「部下の事を考えれば、そういうわけにはいきません」 誠第17飛行隊の整備兵が戦後、こう語っている。 「伊舎堂隊長は石垣島に実家があり、お父さんも妹さんもいらっしゃる」 「それなのに隊長は家に帰らぬ」 「皆で是非、家に帰ったら如何ですかと言っても、 『戦争をしているんだ』 と言って、部下の訓練をしていた」 「あの隊長のためなら喜んで命を捨てることができる」 部下にとって、伊舎堂用久と行動を共にすることは当然の成り行きだった。 しかしながら、出撃が間近となった時、浅沼紀平少佐の再三再四の要請に根負けし、浅沼紀平少佐と共に車で登野城にある実家に向かった。 玄関で出迎えた父、伊舎堂用和は伊舎堂用久を上座に座らせた。 厳格な父は3男と根性の別れになることを悟っていた。 特攻隊長就任の経緯も、戦死後の処遇も、戦局の行方も語らず、2人は静かに杯を交わす。 帰りの車中で漏らした言葉が浅沼紀平少佐の脳裡で渦巻く。 「いずれ、敵が沖縄に上陸すれば、私は第1次特攻隊として特攻することになる」 「死ぬことは何とも思わないが、私たちが死んだ後、祖国日本はどうなるだろうか」 「それが心残りです」 如何に特攻機で戦艦を撃沈させようとも、挽回しようがないところまで追い込まれていた。 既に日本は敗戦すると腹を括っていた。 「我々が残っているから心配ない」 それしか浅沼紀平少佐には返す言葉がなかった。 昭和20(1945)年3月25日正午、台湾の第10戦隊が那覇西方海上で米空母2隻を含む大規模な艦隊を発見する。 第9飛行団長は明26日早朝、誠第17飛行隊を基幹とする特別攻撃隊をもって慶良間群島周辺の敵機動部隊に対し左のごとく攻撃すべし 攻撃時刻 0550 編成および攻撃方式 甲編成第1方式 直掩機の装備 爆装備 連絡を受け、隊員たちの賄いをしていた仲宗根千代も大急ぎで弁当を作り、持って行った。 飛行中、機上で食べることができるように、竹の皮に包んだ握り飯弁当だった。 昭和20(1945)年3月25日午後11時50分、戦闘指揮所に隊員や関係者が集合する。 第9飛行団長の柳本栄喜大佐が最後の命令を下す。 「敵はいよいよ我が国土に侵寇しようとしている」 「諸君の成功を祈る」 別れの杯に酒を満たし、白鉢巻き姿の隊員が酌み交わす。 仲宗根千代が食事を作っていた隊員の鉢巻きには 「お母さんお先に」 と書かれていた。 「いずれ私たちも祖国のため殉死する運命を免れないと思っていたので、特別な感情は浮かばなかったけど、今でもあの時の姿が浮かんでくる」 ■戦死知らずに面会 出撃時刻は翌昭和20(1945)年3月26日午前4時だった。 「伊舎堂隊長の出撃です。すぐ来てください」 姉・伊舎堂トヨ子の夫である石垣信純の兵舎に整備兵が飛び込んで来た。 石垣信純は現地招集の工兵隊中隊長だった。 兵舎から飛行場まで約1km。 自動車もなく、これが義弟との別れになる。 息を切らせ、走りに走った。 到着した時、伊舎堂用久機は既にエンジンを掛け、プロペラが回り始めている。 もう駄目だ、遅かったと呆然と立ち尽くす。 そこへ誰かが石垣信純の手を取り、急いで搭乗機の近くまで連れて行く。 既に特攻機を守る直掩機は離陸し、上空で待機している。 操縦席で眼前を伊舎堂用久はまさに飛び立とうとしていた。 思わず石垣信純は動こうとする搭乗機にしがみつく。 伊舎堂用久はようやく義兄の姿に気付く。 言葉は一言だけだった。 「姉さんによろしく」 石垣信純が何か言う間もなく、滑走路を駆け、伊舎堂用久機が空に舞い上がる。 言葉も声も無く、その場に崩れ落ちる。 慶良間諸島沖合に艦隊を発見、大型空母2隻、小型空母2隻を含む大艦隊だった。 一斉に駆逐艦の対空砲火が始まり、凄まじい米軍の火力を見せつける。 いまより我、突入す 予定時刻の昭和20(1945)年3月26日午前5時50分、芝崎茂少尉、川瀬嘉紀少尉、黒田釈伍長の順に打電が入る。 伊舎堂用久大尉も体当たり攻撃を敢行する。 昭和20(1945)年6月23日まで続く、沖縄戦の最初の戦いだった。 弁当を届けた仲宗根千代はそのまま司令部に残り、連絡を待っていた。 伊舎堂用久隊突入、成功の報が届く。 歓喜の声も、泣き叫ぶ声もなく、司令部全員が同時に合掌、隊員たちの冥福を祈った。 ただ一人、伊舎堂用久の当番下士官だけが泣き叫び、床に座り込んでいた。 仲宗根千代は忘れられない。 「往時に思いを致す時、あの若さで異性を知ることもなく、青春を楽しむこともなく、只々祖国の安泰と慈母の穏やかなることを念じ、黙々として死の首途に赴いた少年特攻兵の面影は今でも忘れることは出来ません」 「司令部のその時の一種悲壮、感動的な光景は今尚脳裡に浮かんできます」 第1団に引き続き、昭和20(1945)年3月29日に安原正文少尉、昭和20(1945)年4月2日に久保元治郎少尉と有馬達郎伍長、昭和20(1945)年4月8日に林至寛伍長が出撃、昭和20(1945)年5月14日に大門修一少尉、伊舎堂用久隊全員が散華した。 石垣仁中尉は昭和20(1945)年3月22日、台湾沖で戦死、小林茂兵長は台湾での訓練中に事故死していた。 伊舎堂用久が戦死した昭和20(1945)年3月26日、事情を知らない父と母、姉、妹が揃って白保飛行場を訪れる。 出撃が近付いていることを察知、最期になるかもしれないと心づくしのご馳走を携えていた。 いずれ、この日が来ることの心積もりはあったとはいえ、茫然自失となる4人。 周囲も憚らず、地面にうつ伏せて泣きじゃくる母。 姉と妹も母の背に追いすがり声を上げる。 子に先立たれる母ほど、哀切なものはない。 泣き崩れる親子の姿に周りの者も涙を流す。 「武人としての本望ではないか」 父・伊舎堂用和だけは気丈に振る舞うが、心中は慟哭していただろう。 ■歌われなくなった唄 伊舎堂用久隊に感状が授与され、ラジオや新聞各紙が一斉に報道する。 石垣島出身の毎日新聞、宮良高夫記者が 「伊舎堂大尉よ。あなたの武勲はふるさとの海に咲く赤い花とともに永久に故郷を飾るのだ」 と記事に書いた。 武功を讃える 「伊舎堂隊の唄」 はかつて、沖縄に暮らす老若男女誰もが知らぬ者がいなかった。 伊舎堂用久の陸士同期、藤森正義の義弟が那覇航空測候所に勤務していた。 日本復帰間もない頃、義弟から那覇の街でよく歌われていると手紙で知らされ、 「沖縄県民の心の中に生き続けていることを嬉しく思う」 と藤森は書き残す。 だが、いつしか伊舎堂用久の武勲が故郷で語り継がれることも、歌が口ずさまれることもなくなった。 伊舎堂用久の長兄の伊舎堂用展、伊舎堂用展の妻・伊舎堂ハツは戦争で命を失った。 伊舎堂用久の父の伊舎堂用和も終戦翌日昭和20(1945)年8月16日に病死した。 八重山諸島では米軍上陸に備え、マラリア有病地域の山間部に疎開して罹患、約3000人が死亡。 「戦争マラリア」 と呼ばれている。 伊舎堂ハツもマラリアで死亡した。 伊舎堂用八7歳を残したままの38歳だった。 伊舎堂用展は米軍と交戦の末、戦死。 両親を失った伊舎堂用八は4女、伊舎堂節子の手で育てられる。 八重山高校教諭などを務め、家を継いだ伊舎堂用八が叔父、伊舎堂用久の志を語ることができる唯一の遺族となった。 「伊舎堂用久戦死の意義は沖縄人の誇りと、自分の故郷は自分で守る気概を持ってほしいというメッセージを後世の沖縄人に伝えようとしたこと」 沖縄県糸満市の平和祈念公園に 「空華(くげ)之塔」 が建立されている。 沖縄戦で戦死した陸海軍の航空将兵を祀っている。 昭和39(1964)年11月1日、遺族を代表して母・伊舎堂ミツが除幕を行った。 それほどに伊舎堂用久の名は重いものだった。 「昭和20年(1945)3月26日は沖縄戦が開始された日として地元紙は大きく報道されるが、沖縄戦第1号の特攻には何も触れられない」 「沖縄県民が特攻史を何も知らない」 意図的に忘却されている歴史の真実に伊舎堂用八は憤怒する。 伊舎堂用八も老齢となった。 伊舎堂用久の位牌や写真、手紙などの遺品は今後どうなるのか、処遇も不明である。 石垣市南ぬ浜町で、平成25(2013)年8月15日に 「伊舎堂中佐と隊員の顕彰碑」 の除幕式が行われた。 戦死から68年後、ようやく建立にこぎつけた。 忘れ去られたまま、月日が経過していた。 顕彰碑建立期成会が発足後、寄付の申し出が殺到、2000人以上、700万円の寄付金が集まる。 寄付者の手紙にこう書かれていた。 顕彰碑が立派に建立され、尖閣を含む沖縄の地の守り神としての役割を果たさんことを祈念しています。 碑には 「郷土と国を愛し、悠久の大義に生きる精神により散華した伊舎堂用久中佐と隊員の遺功」 と記された。 伊舎堂用久の遺詠 「指折りつ 待ちに待ちたる 機ぞきたる 千尋の海に 散るぞ楽しき」 とともに、石垣島から出撃した特攻隊31名全員の氏名、年齢、出身地が刻銘された。 蒼海を望む高台に碑はある。 北には尖閣諸島、西には八重山の島々、その先には台湾がある。 更に先には中国大陸がある。 「祖国日本はどうなるか、それだけが心残り」 出撃直前、魂の底から絞り出された言葉だった。 伊舎堂用久が我々に問いかけている。 国を守るということは何か。 国を守ることは故郷を守り、そこに暮らす父母や兄弟姉妹、祖父母、親戚、友人を守ることだった。 今の祖国を見てどう感じるだろうか。 こんな日本になりましたと伊舎堂用久に見せることが出来るだろうか。 尖閣諸島を跋扈する中国船舶を見せることが出来るだろうか。 日本人として突き付けられている。 歴史の1ページとして郷土から出撃、戦死した伊舎堂用久の人柄、生き方。 現代に生きる我々が先人の犠牲の上にあることを忘れないと共に、もう起きてはならない戦争の凄惨な真実を残すためにも語り継がなければならない。 伊舎堂用久隊出撃から今年2025年でちょうど80年を迎える。 沖縄戦が始まった昭和20年(1945)3月26日。 これからも忘れてはならない日。 石垣島から出撃した誠第17飛行隊。 沖縄戦最初の戦死。 郷土を守ろうとした伊舎堂用久。 日本人が決して忘れてはならない名である。 ■地元紙連載が単行本に 当時は軍神とまで崇められながら、戦後は歴史から消されてしまった伊舎堂用久中佐。 せめて地元の人たちには沖縄戦の最初の戦死者について知ってほしいと、筆者は昨年2024年3月から8月に渡り石垣市を拠点とする地元紙・八重山日報で伊舎堂用久中佐について連載した。 その連載が 『歴史に葬られた特攻隊長 〜故郷・石垣島から出撃した伊舎堂用久中佐』 として2025年3月20日、徳間書店から刊行される。 ぜひ一読を乞いたい。 <産経抄>沖縄戦の特攻から80年、忘れてはならないこと 2025/3/27 5:00 https://www.sankei.com/article/20250327-KZCWPGKNIZLJTMJ2FMPZ46PSSM/?674170 日本の悪口を書くのは熱心でも、命を懸けて国を守った先人の歩みを教えるのは苦手だ。 戦後教育の弊害は教科書になお顕著だ。 高校教科書の検定を見て改めて思う。 ▼だからこそ知ってほしい。 「死ぬことは何とも思わない。祖国日本はどうなるか。それだけが心残りだ」。 こんな思いを残し、特攻で散華(さんげ)した若者がいる。 80年前、沖縄戦が始まった3月26日早暁(そうぎょう)、伊舎堂用久(いしゃどう・ようきゅう)中佐らの飛行隊は、沖縄県の石垣島にあった白保飛行場から出撃して、慶良間(けらま)諸島沖の米艦隊に突入した。 伊舎堂はそのとき24歳。 ▼沖縄戦の陸軍特攻第1号だが、その名は歴史の陰に隠れてきた。 八重山日報(本社・石垣市)の連載をもとに刊行された 『歴史に葬られた特攻隊長』(将口泰浩著、徳間書店) に詳しい。 沖縄では 「軍人を美化するな」 とされ、特攻を知らない人が多い。 顕彰碑が、伊舎堂の故郷の石垣島に建てられたのも、ようやく、戦後68年を経てだ。 ▼同書では伊舎堂の人柄が丹念に描かれている。 旧制中学から進んだ陸軍予科士官学校時代のエピソードもある。 陸軍では作文教育を重視した。 刻々と変わる戦況などを伝える正確な文章力が求められるためだ。 毛筆、文語で書く修練も。伊舎堂の文は達筆、簡潔で力強かった。 ▼伊舎堂が戦死した日、事情を知らない家族らは心づくしのご馳走を携えて白保飛行場を訪ねた。 戦死の報に泣き崩れる母の傍ら、父は 「本望ではないか」 と気丈に語ったという。 婚約者との再会は、叶わなかった。 ▼それから80年の2025年3月26日、海を望む顕彰碑前で慰霊祭が行われた。 碑には伊舎堂隊だけでなく石垣島から出撃した特攻隊ら32人の氏名、年齢、出身地が記されている。 忘れてはならない歴史である。 「特攻隊員は任務と覚悟、最後まで貫いた」宮本雅史編集委員が講演 沖縄「正論」友の会 2025/1/17 17:40 https://www.sankei.com/article/20250117-FEPV2NRRTFJ4NNHNMZ7G4H6WYQ/ 沖縄「正論」友の会第65回セミナーが2025年1月17日、那覇市内で開かれ、特攻隊の元隊員や遺族への取材を続けている産経新聞の宮本雅史客員編集委員が 「特攻と沖縄〜特攻隊唯一の目撃者・沖縄県民〜」 と題して講演した。 宮本氏は先の大戦末期、陸軍特攻の先陣を切った石垣島出身の伊舎堂用久中佐はじめ、米軍の沖縄侵攻を阻止するために出撃し、命を散らせた特攻隊員のエピソードを紹介。 「沖縄の海で亡くなった特攻隊員を最後に目撃したのは沖縄の人たちだった」 と指摘した。 沖縄戦を巡り、日本が沖縄を 「捨て石」 にしたという非難があることに触れ、 「『捨て石』のために死んだというのか」 「そんな失礼なことは申し訳なくて言えない」 と強調。 「任務と覚悟。若い彼らはそれを最後まで貫いた」 と述べた。 また、戦後80年を振り返り、 「日本は裕福になったかもしれないが、権利ばかり主張し、義務という言葉を忘れてしまった」 と憂慮した。 すすり泣き漏れる客席 沖縄で特攻隊題材に演劇舞台 石垣市長「平和のありがたみ感じた」 2024/10/19 19:18 https://www.sankei.com/article/20241019-5Q55Z5O4XZIH5EMDVZQ3E523PU/ 先の大戦末期、米軍の沖縄侵攻を阻止するため出撃していった特攻隊員を題材にした演劇舞台 「未来へつむぐ〜今をありがとう」 の沖縄公演が2024年10月19日、那覇市のパレット市民劇場で開催された。「特攻を美化してはいけない」 「しかし特攻の事実は絶対に風化させてはならない」 との思いが込められた作品で、客席からは何度もすすり泣きが漏れた。 公演は2024年10月20日まで。 いじめを受けていた現代の女子学生(廣木葵)が元特攻隊員の曽祖父(尾藤イサオ)から靖国神社に行くよう勧められ、そこで79年前の知覧飛行場にタイムスリップするというストーリー。 女子学生は飛行場で、出撃を待つ若かりし日の曽祖父(長谷川幹)と出会い、特攻隊員らの身の回りの世話をしていた 「なでしこ隊」 の一員として過ごし、命の尊さや人を思いやる大切さを知る。 知覧特攻平和会館(鹿児島県)の初代館長を務め、平成27年に90歳で亡くなった元陸軍特攻隊員の板津忠正さんがモデルとなっている。 日本文化を広めている一般社団法人「つむぎジャパン」(東京)代表の野田憲晴(けんせつ)さん(59)が、板津さんの長男、昌利さん(67)に取材し、脚本を書いた。 ■ようやく実現した沖縄公演 主催者によると、 「未来へつむぐ」 の初演は平成26年だが、沖縄公演の実現には時間がかかったという。 特攻隊に対する県民感情などを考慮していたためだ。 ところが2年前、当時県立高校の教諭だった赤嶺剛さん(51)がたまたま東京公演を観劇。 「沖縄では 『日本兵に悪いことをされた』 と語られる一方、特攻隊のことは何も伝えられていない」 「沖縄の子供たちにこの事実を伝えるべきだ」 と沖縄での上演を強く求めたことがきっかけとなり、昨年2023年8月に初めて沖縄公演が実現した。 好評を博し、今年2024年も開催することになったという。 沖縄戦を巡っては、日本が沖縄を 「捨て石」 にしたとの批判があるが、実際は、沖縄を守ろうと九州などから陸海軍の特攻機2571機や空挺隊が出撃しており、戦艦「大和」も沖縄への海上特攻作戦で沈み、3千人以上が戦死している。 劇中でも、特攻隊員たちが 「沖縄を守り、本土を守るのは自分しかない」 と決意し、上官も 「一刻も早く米軍から沖縄を守り、本土への攻撃を防ごう」 と語る場面があった。 ■先陣切った伊舎堂中佐 今回の沖縄公演では、沖縄戦の陸軍特攻第1号として先陣を切った石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどうようきゅう)中佐も登場している。 米軍の沖縄侵攻を阻止するために飛び立ち、命を散らせた旧日本陸軍特攻隊員1036人の一人だ。 伊舎堂中佐の郷里・沖縄県石垣市の中山義隆市長も2024年10月19日の公演に駆け付けた。 中山市長は 「特攻隊の皆さんの気持ちがリアルに伝わってきた」 「平和の有難味を改めて感じた」 と公演を振り返り、 「沖縄を守ろうとして亡くなっていった人たちがいた」 「特攻隊の歴史を伝えていかなければならない」 と強調した。 2024年10月20日の公演は2回。 午前11時半と午後3時にそれぞれ開演する。 まだ席に余裕があるといい、2024年10月19日の公演終了後、 「なでしこ隊」 率いる教師役を好演した女優の小田茜さん(45)は 「お待ちしています」 と、1人でも多くの県民の来場を呼びかけていた。 先陣切った石垣島出身の特攻隊長・伊舎堂中佐 「沖縄で伝えられていない歴史」那覇で公演 沖縄考(49) 那覇支局長・大竹直樹 2024/10/9 9:00 https://www.sankei.com/article/20241009-XKO5UBQTEFLSPONW6CX7L2XR6E/ ■沖縄県民の拒絶反応 「こら、いらないわ」 受け取ったチラシを一瞥(いちべつ)すると、そう言ってすぐに突き返されたという。 特攻隊員を題材にした演劇舞台の沖縄公演。 プロデューサーを務める石神隆弘さん(57)は 「公演の支援を求め沖縄の経営者を回ったが、4割くらいの人が拒絶反応を示し、チラシも受け取ってくれなかった」 と述懐する。 資料・撮影協力の欄に、靖国神社や鹿児島県の知覧特攻平和会館と記載されていたのが理由ではないかと、石神さんはみる。 演劇舞台 「未来へつむぐ〜今をありがとう」 は、知覧特攻平和会館の初代館長を務め、平成27年に90歳で亡くなった板津忠正さんをモデルにしたオリジナル作品だ。 板津さんは元陸軍特攻隊員の生き残りで、戦後は特攻隊員の遺影や遺品を集めて回った。 日本文化を広めている一般社団法人「つむぎジャパン」(東京)代表の野田憲晴(けんせつ)さん(59)が、板津さんの長男、昌利さん(67)に取材し、脚本を書いた。 いじめを受けていた現代の女子学生が元特攻隊員の曽祖父から靖国神社に行くよう勧められ、靖国神社で79年前の知覧飛行場(鹿児島県)にタイムスリップ。 出撃を待つ若かりし日の曽祖父と出会い、特攻隊員らの身の回りの世話をしていた 「なでしこ隊」 の一員として過ごし、命の尊さや人を思いやる大切さを知る−というストーリーである。 今月2024年10月19、20日に那覇市のパレット市民劇場で行われる沖縄公演では、脚本の一部を変更し、石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどうようきゅう)中佐が回想シーンに登場する。 先の大戦末期、米軍の沖縄侵攻を阻止するために飛び立ち、命を散らせた旧日本陸軍特攻隊員1036人の1人だ。 誠第17飛行隊を率いる伊舎堂中佐は昭和20年3月26日、沖縄戦の陸軍特攻第1号として郷里の石垣島にあった白保飛行場から出撃。 慶良間(けらま)諸島沖の米艦隊に突入した。 24歳であった。 ■「避けてきた」沖縄公演 「未来へつむぐ」 の初演は平成26年。 以来、年2回の頻度で全国各地で上演されてきたが、特攻隊に対する県民感情を考慮し、沖縄公演は 「ずっと避けてきた」(石神さん) という。 そこに、転機が訪れる。 那覇市で教育コンサルタントを務める赤嶺剛さん(51)との出会いだ。 今から2年前2022年、当時県立高校の国語科教諭だった赤嶺さんは 「未来へつむぐ」 の東京公演をたまたま観劇。 「沖縄では 『日本兵に悪いことをされた』 と語られる一方、特攻隊のことは何も伝えられていない」 と衝撃を受け、 「沖縄の子供たちにこの事実を伝えるべきだ」 と痛感したという。 教諭時代は沖縄県教職員組合に所属していたが、 「未来へつむぐ」 の東京公演を見て、赤嶺さんは 「沖縄で伝えられていない歴史」 に気付いたのだ。 初の沖縄公演に向けて奔走。 残念ながら、県教育委員会には後援依頼を断られてしまったが、公演自体は昨年2023年8月、那覇市で実現した。 観客席では涙を拭う人が絶えず、若い学生らから 「真実を教えてくれてありがとう」 といった反応も寄せられた。 同世代の特攻隊員たちの至情に接し、きっと万感胸に迫るものがあったのだろうと推察する。 同世代といえば、パリ五輪で戦った卓球女子メダリストの早田ひな選手(24)は2024年8月、帰国後の記者会見で 「鹿児島の特攻資料館に行き、生きていること、そして、卓球が当たり前にできていることが、当たり前ではないというのを感じたい」 と語っていた。 この発言が中国や韓国で物議を醸したと報じられた。 戦争を肯定したわけでも特攻隊を美化したわけでもなく、平和な時代に生きていることに感謝し、戦争と平和の意味を考えたいという、この言葉のどこをどう曲解すればそんな反応になるのか。 理解に苦しむ。 ■タブー視された特攻隊と日の丸 沖縄では、平和を守るための防衛力強化でも 「戦場にするな」 「軍拡やめろ」 との批判が渦巻く。 軍は 「悪」 と否定されてきた経緯があり、特攻隊や靖国神社という言葉に拒絶反応を示す県民がいるのも事実だ。 こうした県民の反応は、沖縄が歩んできた歴史と密接に関係している。 大戦末期に始まった沖縄戦では、米軍が空襲や艦砲射撃など猛攻撃を加えた 「鉄の暴風」 が吹き荒れた。 当時の県民の4人に1人が犠牲になり、戦後は米軍統治を経験している。 県民は心から早期の本土復帰を願った。 願いを込めて旧国鉄の特急列車に 「なは」 と命名したほどである。 だが、本土から革新勢力が流入し、県民の思いとは裏腹に、組織的な反米軍基地闘争や反日運動へと復帰運動が変質。 革新勢力は沖縄の教育界や言論界に大きな影響を及ぼしていく。 復帰の象徴だった日の丸すら、戦争のエンブレムであるがごとくタブー視された。 いわんや、国や家族を思う一心で尊い命を捧げた特攻隊員をや、である。 伊舎堂中佐の郷里である石垣市の中山義隆市長(57)は今月の沖縄公演を観劇する予定だという。 「演劇舞台を通じ沖縄出身の特攻隊員がいたということを多くの県民に知ってもらいたい」 と語っていた。 沖縄県民の代表として選ばれた玉城デニー知事にも是非、虚心坦懐の気持ちで沖縄公演をご覧頂きたいものだ。 旧日本軍が特攻を始めて今月2024年10月25日で80年。 陸軍特攻の先陣を切り、石垣島の白保飛行場を飛び立った沖縄出身の伊舎堂中佐ら特攻隊員たちに思いを馳せてほしいと願っている。 早田ひなさん「特攻資料館に行きたい」発言の背景 「先人への感謝」抱く若者たち 正論モーニング 2024/10/30 7:00 https://www.sankei.com/article/20241030-GZPMY6WJ75K7HCMZZZC6GXTZFU/ 先の大戦で、爆弾を抱いた航空機や潜水艇などで米軍艦艇に体当たりした 「特別攻撃(特攻)」 を帝国陸海軍が開始して、今月2024年10月で80年。 この夏には、パリ五輪・卓球女子メダリストの早田ひなさんの 「鹿児島の特攻資料館に行きたい」 発言が反響を呼んだ。 スポーツ選手と 「戦争」 の組み合わせには意外性も感じるが、実は 「鹿児島の特攻資料館」 には、スポーツ合宿や社員研修で訪れるアスリートや企業が相次いでいるという。 ■映画・小説に感銘受ける? 早田さんは2つのメダルを獲得したパリ五輪から帰国した今年2024年8月13日の記者会見で、 「今やりたいこと」 を問われ、 「鹿児島の特攻資料館に行って、生きていること、そして自分が卓球がこうやって当たり前にできていることというのが、当たり前じゃないというのを感じてみたい」 と発言した。 散華した特攻隊員たちに感謝する発言が保守層から好意的に受け止められた一方で、中国や韓国からは 「軍国主義を賛美している」 などの批判が起きた。 国内外で反響を呼んだ結果、早田さんがなぜ特攻に関心を持ったのかが注目された。 週刊誌では、警察署長だった祖父や、幼少期から指導した卓球クラブ代表らの影響ではないか、などと報じられた。 昨年2023年12月に公開され、大ヒットした映画 『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(以下、『あの花』) の影響を指摘する声も多かった。 現代の女子高校生(原作小説では中学生)が大戦末期の日本にタイムスリップし、特攻隊員と恋に落ちるストーリーで、原作の小説も100万部を超えるベストセラーとなっている。 筆者も 『あの花』 説に賛成だ。 ヒントは、 「鹿児島の特攻資料館」 という早田さんの発言自体にある。 鹿児島県内の特攻隊関連の施設は、 「知覧特攻平和会館」(南九州市) と 「万世特攻平和祈念館」(南さつま市) が知られている。 海上自衛隊の鹿屋航空基地史料館(鹿屋市)の展示にも特攻隊員の遺影や遺書が多い。 だが、 「特攻資料館」 という名称の施設はない。 一方、 『あの花』 の原作小説では、現代に戻った主人公が訪れる施設が 「特攻資料館」 と呼ばれ、物語上重要な場所になっている。 早田さんは映画だけでなく小説も読み、記者会見で 「特攻資料館」 という言葉が口をついて出たのではないかと思われる。 『あの花』 には、こんな一節がある。 主人公が、タイムスリップ中に出会った特攻隊員たちを思い、心の中で語りかける言葉だ。 ≪あの夏、空に散ってしまったみんな。(中略)/私は今、あなたたちが守ってくれた未来を生きています。/あなたたちが願った、明るい未来を生きています。 素晴らしい未来を私たちに残してくれてありがとう。/あなたたちのことは絶対に忘れません。あなたたちの犠牲は絶対に忘れません。/あなたたちが命を懸けて守った未来を、私は精いっぱいに生きます≫ 生きていることや卓球をできることが 「当たり前ではない」 という早田さんの発言に通じるものがある。 ■アスリートの研修に その知覧特攻平和会館が、アスリートや企業の研修に盛んに利用されているのを見い出したのは、帝京大学の井上義和教授だ。 大切な家族らの幸せと祖国の未来のために命を捧げた特攻隊員の物語に触れることで自分の生き方を見つめ直し、前向きな意識状態に持っていく。 井上教授は、同会館が2000年以降、そんな 「自己啓発の聖地」 となっていることを、 『未来の戦死に向き合うためのノート』(平成31年) で紹介した。 ただそうした自己啓発目的の利用はメディアで報じられることもなく、学術研究や論壇のテーマ設定の対象外で、口コミなどで広がるだけ。 今回の早田さんの発言も驚きをもって報じられたが、彼女のようなアスリートの見学は実際には珍しくなかったのだ。 ちなみに、井上教授が同書で平和会館を訪問したと紹介しているトップレベルのアスリートは、女子バレーボールの日本代表チーム▽松井秀喜、西岡剛、木佐貫洋らプロ野球選手▽ラグビーU20日本代表チーム―たちだ。 彼らアスリートや、社員研修で会館を見学した人たちの感想は、概ね、以下の内容だという。 「戦争の時代を思えば、平和な時代に生きている私たちは幸せ」 「競技に打ち込める平和な時代に感謝」 「特攻隊員のことを思えば、今の自分の苦労など何でもない」 「特攻隊員の勇敢さや家族愛に心を打たれ、自分も見習おうと思う」 「特攻隊員は祖国の未来を思って出撃した」 「私たちが今あるのも彼らのおかげ」 「彼らに恥じない生き方をする」 先人への感謝の念を抱き、前向きな生き方を決意するものが多く、展示が軍国主義や戦争を賛美するものではないことが浮かび上がる。 逆に戦争への批判的な思いが込められている感想もある。 「平和」 を守るために本当に必要なことに思いを致した見学者も多いだろう。 ■「世界の記憶」登録を 同会館を見学する早田さんらアスリートや若い人たちを的外れな批判の矢面に立たさないために、提案したいことがある。 かつて知覧特攻平和会館が申請した国連教育科学文化機関(ユネスコ)の 「世界の記憶」(世界記憶遺産) への登録を再び目指すことだ。 同会館は、平成26(2014)年と平成27年に登録を申請した。 だが2度ともユネスコの国内委員会の審査で落選。 以降は申請を見送っている。 当時、中国や韓国が申請を批判しており、それが落選の一因になったというイメージが広がったことは否めない。 「軍国主義だ」 との批判が説得力をもってしまったのだ。 知覧特攻平和会館の川崎弘一郎館長は 「新たな申請の具体的な計画はないが、諦めてはいない」 「申請に向けて資料の収集や整備を進めている」 と話す。 ぜひ登録を目指してほしい。 実現すれば、軍国主義批判が見当外れだと広く理解されるはずだ。 (大阪正論室参与) 「特攻資料館に行きたい」卓球・早田ひなに称賛の声 終戦の日を迎え投稿増加 著名人も反応「有難う、早田さん」感謝の思い 2024.8/15 11:38 https://www.zakzak.co.jp/article/20240815-AZJPWZKAIRPJ5CMPCUVM7X4IZ4/ パリ五輪で卓球女子シングルスで銅、団体で銀メダルを獲得した早田ひな(24)=日本生命=の、 「鹿児島の特攻資料館に行きたい」 発言への称賛が止まらない。 SNSでは早田を讃えるコメントが並び、著名人も絶賛した。 特攻隊員の遺品や関係資料を展示する 「知覧特攻平和会館」(鹿児島県南九州市) が改めて、大きな注目を浴びている。 早田は2024年8月13日の帰国会見で、休養中に行きたい場所について 「アンパンマンミュージアム」 と共に、知覧特攻平和会館を挙げて 「生きていることを、そして自分が卓球を当たり前に出来ていることが当たり前じゃないと感じたい」 と述べた。 この発言に対し、SNSでは 「早田選手ありがとう」 「この人は偉いよ」 「彼女の姿勢から、私たちも日々を大切にしなきゃって気づかされる」 「元々好きな選手だったけど、物凄く好きな選手になった」 などの声が続々と投稿された。 終戦の日を迎えた2024年8月15日も増え続けている。 著名人も反応した。 作家でジャーナリストの門田隆将氏は2024年8月14日、自身のXに、 「(アンパンマンの作者の)故やなせたかし氏も、知覧の亡き特攻兵たちも、きっと驚き、そして喜んでいるだろう」 「有難う、早田さん」 と感謝の思いを綴った。 知覧特攻平和会館には、パリ五輪の女子マラソンで6位入賞した鈴木優花(24)=第一生命グループ=らの五輪アスリートが訪れている。 今年2024年2月に訪問した鈴木はXに 「この時代に生きているということだけでありがとう、と思った」 と投稿していた。 <主張>特攻隊80年 国を挙げて追悼と顕彰を 社説 2024/10/25 5:00 https://www.sankei.com/article/20241025-5JB2TZTQDFL55HQGLLS5FOESF4/ 亡くなった御霊(みたま)に心から頭(こうべ)を垂れたい。 先の大戦(大東亜戦争)の末期、およそ6000人もの特別攻撃(特攻)隊員が、日本を守るために出撃して散華した。 第1陣である海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊がフィリピン・レイテ島沖の米艦隊に突入してから80年を迎えた。 特攻隊員を偲(しの)び、日本の独立と平和を維持する大切さを嚙(か)みしめたい。 先の大戦で日本軍は約230万人が亡くなった。 太平洋の島々での玉砕など多くの壮絶な戦いがあった。 その中で、生還を期さない特攻隊は信じ難いほどの勇気を示した存在として知られる。 昭和19年10月25日、日米海軍の主力が激突したフィリピン沖海戦で、関行男(せきゆきお)大尉率いる敷島隊などの零戦や艦上爆撃機が体当たりし、護衛空母1隻撃沈などの戦果をあげた。 昭和20年3月以降の沖縄戦では、陸海軍の特攻機2571機や空挺隊が出撃した。 人間魚雷「回天」による海中特攻や、小型艇「震洋」による海上特攻も行われた。 生還を期さない特攻は、立案者の大西瀧治郎(たきじろう)海軍中将自身が 「統率の外道」 と認めていたように戦術として正常ではない。 大西中将は終戦直後、介錯なしの切腹で自決している。 特攻は戦後、 「軍国主義の象徴」 などと批判された。 選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。 現代日本は特攻のような究極の戦術を取らずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。 特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。 特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。 特攻を 「カミカゼ」 と呼んだ米軍は、異常な戦術と見做す一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。 特攻は、世界が日本人を強い存在と見做す一因となり、戦後の日本も守ってくれている。 特攻に赴いた将兵1人1人に様々な思いがあったことを想像する時、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。 日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない。 <産経抄>特攻隊のこともっと知ろう 2024/5/6 5:00 https://www.sankei.com/article/20240506-USONYG7E7JIZ7LJMBRVIAWKESY/ 学校では多くのことを教えてくれるが、あまり教えてくれないこともある。 先の大戦末期に国を守ろうと命を懸けた特攻隊員のこともどれだけ知っているだろうか。 今年2024年は昭和19年に特攻隊が組織され80年の節目に当たる。 翌昭和20年春から夏にかけたこの季節に多くの若い隊員が命を失った。 ▼伊舎堂用久(いしゃどう・ようきゅう)中佐の名前を知っている人も多くないだろう。 中佐らの飛行隊は、沖縄戦の陸軍特攻第1号として、石垣島にあった白保飛行場から出撃し、慶良間諸島沖の米艦隊に突入した。 中佐は24歳の若さだった。 ▼恥ずかしながら八重山日報(本社・石垣市)でいま連載している 「歴史に葬られた特攻隊長」 で名を知った。 沖縄では戦後、軍人は 「悪」 などと否定され、沖縄戦で特攻があったことも知らない人が多い。 産経新聞OBの作家、将口泰浩さんが執筆している同連載タイトルもそうした歴史を踏まえたものだ。 ▼中佐の生まれ故郷は石垣で、陸軍士官学校から陸軍入隊後、中国大陸などの任地を転々とした。 そしてようやく戻った故郷の基地から最後の出撃をした。 ▼連載の中では、部下を気遣う人柄や家族を思う気持ちが描かれている。 中佐を知る人の 「国を思う国民の心なくして平和も人権も生活もあり得ない」 「伊舎堂中佐が守ってくれたからこそ、こうやって今、我々は生きている」 という言葉は重い。 ▼ところが相変わらず特攻隊を否定的に捉える向きがある。 来年2025年春から使われる令和書籍の中学歴史教科書で 「特攻隊員が散華しました」 といった記述にも批判があるようだ。 「国のために命を捨てることが美化され、怖い」 などと言うが、国のために命を懸けた先人について教えない教育こそ、見直すときではないか。 直球&曲球 葛城奈海 桃李ものいわざれども 2023/11/2 10:00 https://www.sankei.com/article/20231102-LVVBMZB6N5IDXAICCUC23ECXLM/ 今年2023年の桜島はいつになく噴火の頻度が激しいという。 2023年10月だけで60回(2023年10月23日現在)を数えると聞き、危惧していた火山灰の影響もなく、 「防人と歩む会」 の研修旅行で訪れた2023年10月28日の鹿児島は抜けるような秋晴れに恵まれた。 湖のように穏やかな錦江湾越しに桜島を望みつつ、かつて九州最南端の陸軍特攻基地があった知覧に向かう。 1036人が戦死した沖縄戦陸軍特攻の先陣を切ったのは石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどうようきゅう)中佐だ。 昭和20年3月26日、同中佐率いる誠第十七飛行隊が飛び立った石垣島には地元有志による立派な顕彰碑が建てられている。 以前訪れた際、目にした中佐の遺詠に心を鷲掴みにされた。 指折りつ待ちに待ちたる機ぞ来る 千尋の海に散るぞたのしき 何という清冽(せいれつ)な心持ちだろう。 悲壮感などみじんもなく、待ちかねていた機体をついに得たことへの湧きたつような喜びと、納得のいく死に場所を得た満足感に満ち溢れている。 伊舎堂中佐は自身の家族が差し入れなどにやってきても、郷里が遠い部下のことを慮り面会しなかったという。 存在を知って以来敬意を抱き続けてきたその人の名前と写真を、今回知覧の特攻平和会館で見つけ、胸が高鳴った。 しかも、これまで目にしたことのない、自筆による家族への遺書も展示されているではないか。 そこには今頃故郷では桜や桃の花が咲き鶯(うぐいす)がさえずっているであろうことが記され、 「桃李(とうり)ものいわざれども下自(おの)ずから蹊(みち)を成す」 という古文を引用。 桃やスモモはその実を採るために人が寄ってきて自然と小道ができる。 そのように人が自然と集まってくる徳のある人間になりたいと認(したた)められていた。 伊舎堂中佐はまさにそのような人として生き、散華した。 24歳にして、そこまでの境地に達していたことにも尊敬の念を禁じえない。翻って今を生きる私たちは、どうか。 私たちを守るために命を散らした先人たちは、まさに 「ものいわぬ桃李」 であろう。(英霊たちに思いを寄せて) 錦秋の錦江湾にさしのぼる 朝日拝みて防人思ふ ◇ 【プロフィル】葛城奈海 かつらぎ・なみ 防人と歩む会会長、皇統を守る国民連合の会会長、ジャーナリスト、俳優。昭和45年、東京都出身。 東京大農学部卒。 自然環境問題・安全保障問題に取り組む。 予備役ブルーリボンの会幹事長。 近著に『日本を守るため、明日から戦えますか?』(ビジネス社)。 特攻隊員慰霊祭、遺族ら祈り 鹿児島・知覧 2022/5/3 19:37 https://www.sankei.com/article/20220503-N3ZWDWA6OZKQFOFMRE3IWIC5RE/ 第二次世界大戦末期の沖縄戦で亡くなった旧日本陸軍特攻隊員の慰霊祭が2022年5月3日、鹿児島県南九州市の知覧特攻平和観音堂前で営まれた。 3年ぶりに全国から遺族が参列し、約200人が平和への祈りを捧げた。 慰霊祭では、黙禱や焼香をして1036人を追悼。 19歳で亡くなった渡辺次雄少尉の弟の無職、渡辺茂さん(83)は、次雄さんとの最後の別れとなった駅のホームでの場面を紹介し 「命の尊さを語り継ぐことを誓う」 と話した。 遺族らの一部は隣接する平和会館も訪問。 最初に出撃し、24歳で亡くなった特攻隊長の伊舎堂用久中佐を取り上げた企画展を観覧した。 伊舎堂中佐が家族や婚約者に宛てた手紙などが展示されており、沖縄県の石垣島から訪れた中佐の兄の孫に当たる教員、伊舎堂用右さん(51)は 「先祖のことを分かりやすく伝えてくれて感動した」 と話した。
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