<■2080行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> 石破茂首相「戦争検証」よりやるべきことがあるはずだ 政府・与党内にも慎重論強く サンデー正論 2025/2/16 10:00 https://www.sankei.com/article/20250216-MNLTHRZEBRKSVNS3BTZEA4BJ74/ 石破茂首相は最近の講演や国会答弁で、戦後80年の今年2025年こそ先の大戦の敗因について検証すべきだとの考えを示している。 首相就任前からの持論だが、ただでさえ少数与党で政権運営が厳しい中で、取り組むべき課題なのかと政府・与党内には慎重論が強い。 しかも、検証といっても政府がやることなのか不明で具体性に欠けている。 評論家気質が抜けず、政権として取り組むべき優先順位の整理がついていないようだ。 石破首相の 「戦争検証」 発言は2025年1月29日のシンポジウム「東京グローバル・ダイアログ」(日本国際問題研究所主催)に出席した際に飛び出した。 冒頭は用意された文面を早口で読んでいただけだったが 「というのが原稿でございました。よくできております」 と言ってからアドリブで話し始めた。 「国会議員になって今年2025年で40年目になります」 「これでも外交の仕事も結構やっておりまして」 「本当かよという顔をしていらっしゃる方もありますが(会場から笑い)全く知らない分野ではございません」 そう前置きした上で話し始めたのが、先の大戦の検証だ。 「今を逃して戦争の検証はできない」 と強調した。 2025年1月31日の衆院予算委員会でも 「なぜあの戦争を始めたのか、なぜ避けることができなかったのか、なぜ途中でやめることができずに、あのような東京が焼け野原になり、広島・長崎に原爆が落ち、大勢の方が亡くなったのか」 「まだその記憶をきちんと自己のものとして持っておられる方々がおられるうちに検証するというのは、80年の今年2025年が極めて大事だ」 と語った。 質問した立憲民主党の長妻昭代表代行は石破首相の考え方に 「共感する。ぜひ検証を与野党でやっていきたい」 と応じた。 ■吉田清治現象 石破首相は自民党総裁選を控えた昨年2024年8月に出版した『保守政治家』(講談社)でも 「昭和は遠くなりにけり、であるからこそ、その遠ざかりゆくものの検証が必要だ」 と述べた。 これまで作家の半藤一利氏や保阪正康氏らの著作から 「大きな示唆を受けてきました」 という。 半藤氏や保阪氏から影響を受けた石破首相に、別の見方もあることを知るためにも、読んでほしい対談や論文が月刊「正論」にはある。 まずは平成27年11月号の伊藤隆東京大学名誉教授と中西輝政京都大学名誉教授の対談だ。 この対談は同年平成27年8月14日に出された安倍晋三首相の 「戦後70年談話」 発出に向けた有識者懇談会のメンバーだった中西氏を伊藤氏が“追及”する形で進められている。 この中で次のようなやり取りがある。 伊藤氏 「如何なる戦争も講和条約や平和条約が結ばれたら、それで終わりです」 「敗れた国が謝り続けたり、いつまでも責任問題を外交に持ち出されたりすることは歴史上全くありません」 「日本もサンフランシスコ講和条約、日華平和条約、東南アジア諸国への賠償協定、日韓基本条約、日中平和友好条約を結んで、大東亜戦争の戦場になったり、併合したりした国とは全て決着をつけました」 「なぜ日本だけが謝り続けなければならないのか分かりません」 「(中略)中国や韓国は、歴史問題を外交に利用し続けますね」 「なぜ、日本は歴史問題を利用され続けるのか」 「戦後、アメリカから東京裁判史観を植え付けられ、日本人が未だに、その毒が抜けきらないからですよ」 中西氏 「私は、『吉田清治現象』と呼んでいます」 「慰安婦問題で、吉田清治は自国を告発するために、やってもいない『慰安婦狩り』に自ら手を染めたと自虐証言まで捏造した」 「戦後の日本人には何でも『日本が悪い』ということに快感を覚える習性があって、それに日本人が迎合していくという現象が起き続けていくわけです」 対談の最後に伊藤氏はこう総括している。 「『歴史を戦勝国史観から克服する』」 「これをやる以外にないと思っていますよ」 「安倍談話は、日本が『進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました』と表現しています」 「経済もエネルギーの供給も立ちゆかなくなった当時、ではどうすればよかったのか」 「欧米の植民地になるのか、滅びるのか。当時の日本が『針路を誤った』と批判するのは、今の安保法制を批判するのと同じことですよ」 「現実を見ずに理想や空想的な平和を語っているだけです」 「『じゃあ、中国の属国になっていいの?』と問いたいですね」 ■「侵略」断定に抵抗 伊藤氏は対談の中で 「安倍シンパ」 を自任している。 中西氏も同様だったが、懇談会の報告にある 「満州事変以後、大陸への侵略を拡大し」 の部分に反対し、委員の辞表届も提出した。 「ちょうど安保法案の審議で内閣支持率が一挙に10%前後も下がった時期でした」 「最後は、安倍総理ご本人が数度に渡って電話をしてこられた」 「私が『脚注の案文をそのまま吞んでくれなければ、辞表は撤回しません』と直訴すると、総理は吞んでくれました」 中西氏は辞表を撤回した。 脚注に載ったのが次の一文だ。 「複数の委員より『侵略』と言う言葉を使用することに異議がある旨表明があった」 「理由は 1)国際法上『侵略』の定義が定まっていないこと、 2)歴史的に考察しても、満州事変以後を『侵略』と断定する事に異論があること、 3)他国が同様の行為を実施していた中、日本の行為だけを『侵略』と断定することに抵抗があるからである」 周到に準備した 「戦後70年談話」 を巡ってもこれだけの激論、異論があったのである。 ■左翼と同じ土俵 次に、元防衛大学校教官で、ベストセラー『失敗の本質』の著者の一人、杉之尾宜生氏の令和4年3月号の論文だ。 「『失敗の本質』に対する読者の一番の不満は、サブタイトルに『日本軍の組織論的研究』と銘打っておきながら、なぜああいう戦争に突入したのかということについては、何も書いていないことだろう」 「それは序章で『戦争原因究明を本書に期待しているとすれば、読者は恐らく失望するだろう」 「というのは、本書は、日本がなぜ大東亜戦争に突入したかを問うものではないからである」 「もちろん、なぜ敗けるべき戦争に訴えたのかを問うことは、既にいくつかの優れた研究があるとはいえ、今後も問い直して然るべきであろう」 「しかし、本書は敢えてそれを問わない』と記してある」 なぜそうしたのか。 それは軍事の勉強がしたいと防衛大学校に移ってきた経営学者の野中郁次郎氏が、 「文化論に陥ると左翼の人たちと同じ土俵に乗った論調になるから避けよう」 と、天皇陛下と日本軍の関係には一切触れずに純粋な組織論として描くことにしたからだ。 奇しくも伊藤氏、杉之尾氏、野中氏は昨年2024年8月から2025年1月にかけて相次いで鬼籍に入った。 杉之尾氏は論考の最後で 「評論家の山本七平氏は、日本軍の最大の特徴として『言葉を奪ったことにある』と捉えたが、それは今の自衛官も変わらない」 「『専守防衛』や『憲法9条』の枠の中に縛り付けられている」 「直面する危機を考えた時、これまでのようにがんじがらめの憲法解釈や既存の法律に縛られたままでは軍事プロフェッショナリズムに基づく任務を遂行することは至難の業である」 と書いている。 石破首相がすべきことは過去を振り返ることよりも、今も続く縛りを解くことではないか。<産経抄>戦後80年の石破談話は百害あって一利なし 2025/2/1 5:00 https://www.sankei.com/article/20250201-ZN267Q7FURL5LJ2P7PJRZB2II4/ 「三つ子の魂百まで」 とも 「雀(すずめ)百まで踊り忘れず」 とも言うが、人の昔からの性質や考え方はそんなに変わらない。 石破茂首相は先月2025年1月29日の国際安全保障に関するシンポジウムで、こう語った。 「今年2025年は敗戦後80年だ」 「今を逃して、戦争の検証はできないだろう」 ▼もう19年も前の平成18年6月のことである。 東京都内で開かれた首相の衆院議員在職20年記念パーティーを覗くと、来賓のベテラン議員らが口々に 「石破君は将来の首相候補」 と称揚していた。 ところが、挨拶に立った首相はこんな場違いなことを述べたのだった。 「戦争責任をもう1回考えたい」 ▼ずっと以前から自分なりに、先の大戦の総括をしたいと考えてきたのだろう。 シンポでの言葉は、戦後80年談話を発出したいとの意欲表明なのか。だが、中国が 「抗日反ファシズム戦争勝利80周年キャンペーン」 を準備している今年2025年、新談話を出せば反日勢力に利用されよう。 ▼首相は18年9月には、毎日新聞鳥取県版で強調した。 「日中戦争は明らかに侵略だし、韓国併合は植民地化」。 南京事件や慰安婦問題を巡っても、過去に中国や韓国の主張に寄り添う発言をしている。 せっかく安倍晋三元首相が戦後70年談話で戦後の謝罪外交に終止符を打ち、戦後を終わらせようとしたのに、時代を逆行させてどうするのか。 ▼自民党総裁選を争った小林鷹之元経済安全保障担当相は先月2025年1月30日、80年談話の意義を否定した。 「出す必要は全くない」 「そのための70年談話だ」。 実際、70年談話の最後の段落には 「終戦80年、90年、更には100年に向けて…」 とあり、以後の時代のことも網羅済みである。 ▼首相のお気持ちを表明する談話など、百害あって一利なしだと断言する。 戦後80年、首相談話は出すべきでない 「謝罪」から決別しようとした安倍氏の思い サンデー正論 2025/1/19 10:00 https://www.sankei.com/article/20250119-ZBGC754GKNJE7EY6HHDTSJPTDE/ 今年2025年は戦後80年に当たる。 中国では2025年7月に映画 「731」 の上映が予定されている。 「731」 とは旧日本軍関東軍防疫給水部のことだが、中国が80年を歴史戦に利用しようとしているのは明白だ。 これに対し、岩屋毅外相は2025年1月13日の日韓外相会談後の共同記者会見で、戦後80年首相談話について 「現時点で発出するとは決定していない」 「よく国内で相談したい」 と述べた。 相談することもない。 石破茂首相は中国や韓国に乗せられて80年談話を出すべきではない。 ■「宿命を背負わせてはなりません」 岩屋外相には安倍晋三政権時代の平成27(2015)年8月に出された戦後70年談話をもう1度読み返してほしい。 談話には次のような一文がある。 「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています」 「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」 「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」 「謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」 当時の作成過程をよく知る政府元高官は 「談話には一行一行安倍首相の思いがこもっているが、特にこの部分には時間をかけた」 と証言する。 当初案では 「生まれながらに謝罪することを強いられるべきではありません」 だった。 安倍首相は 「中身はいいが、誰が強いているかの議論になる」 「強いるという表現はちょっと違うな」 との感想を語り、修正を加えることにした。 ■練りに練った安倍首相談話 元朝日新聞主筆の船橋洋一氏著の『宿命の子 安倍晋三政権クロニクル』(文芸春秋)の上巻 「戦後70年首相談話」 の章にも紹介されているように出てきたのが 「原罪」 だった。 安倍首相の指示で今井尚哉首相秘書官は連立を組む公明党の太田昭宏国土交通相のもとを訪れた。 太田氏は 「原罪」 について 「日本は欧州じゃないし、原罪という概念は馴染まない」 と異論を唱えた。 太田氏の指摘も踏まえ、安倍首相と秘書官らとの検討作業の中で出てきたのが 「宿命」 という表現だった。 この元高官は 「子供たちが生まれながらにして謝罪しなければならない、そうした『宿命』を背負わせるようなことはあってはならない、との思いから『宿命』が浮かんできた」と証言する。 この年平成27(2015)年の8月6日午後4時48分、安倍首相は官邸の執務室に太田氏を招き 「『宿命』でいいですか」 と尋ねた。 公明党の支持母体、創価学会で男子部長、青年部長を務めた太田氏は 「『宿命』は仏教用語でもあります」 「差し支えないと思います」 と同意した。 太田氏との打ち合わせは20分の予定が午後5時56分まで続いた。 太田氏が師と仰いだ創価学会の池田大作名誉会長は生前、 「宿命」 という言葉を重視し、 「宿命を使命に転換させる」 ことを説いてきた。 太田氏は 「真っ先にハンコつくからとは言っていないが、この談話は歴史に区切りを付けた」 と評価する。 談話は 「侵略」 の言葉を盛り込みながらも、西洋諸国の植民地だらけだった当時の国際情勢から説明し、 「謝罪」 から決別しようとする未来志向も明確で全体的には高い評価を得た。 ただ、東京大学の伊藤隆名誉教授や、京都大学の中西輝政名誉教授という歴史学の重鎮2人は談話が東京裁判史観から脱却できていないとして批判したことは忘れてはならない。 ■中国に利用された岩屋外相 安倍首相らの血の滲むような努力を無にするような発言をしたのが岩屋外相だった。 昨年2024年12月25日に行われた日中外相会談後、中国側は岩屋外相が 「歴史問題では『村山談話』の明確な立場を引き続き堅持し、深い反省と心からの謝罪を表明する」 と述べた、と発表した。 岩屋外相は2024年12月27日の記者会見で、この発表は 「正確ではない」 として、 「歴史認識に議論が及んだ際に、石破茂内閣は平成7(1995)年の村山談話、安倍首相談話を含むこれまでの首相談話を引き継いでいると説明した」 と語った。 その上で 「一方的な対外発表を行ったことに対しては、中国側に対して申し入れを行った」 としたが、後の祭りである。 安倍政権当時も、 「70年談話は戦後50年の村山富市首相談話や、慰安婦関係調査結果に関する平成5(93)年8月4日の河野洋平官房長官談話を引き継ぐのか」 という質問は当然予想され、官邸内で議論した。 安倍首相は第2次政権発足後から、村山談話について 「政権として全体として受け継いでいく」 と述べていた。 もちろん、安倍首相の本音としては 「そのまま継承しているわけではない」 との立場だった。 官邸内の議論として出たのが 「当時の内閣の判断として受け継ぐもので、自分の立場が村山談話や河野談話と同じであると言う必要もない」 「これから未来に向かって受け継いでいくのが安倍談話でありそれに尽きる」 というものだった。 河野談話、村山談話ともに政局が不安定な時に出されたものだった。 河野談話が発出された時点で宮沢喜一内閣は衆院選で過半数割れし、退陣を表明しており、8月9日に細川護熙連立政権が発足する直前のことだった。 筆者は自民党幹事長担当だったが、党内は騒然としていて談話のことなど議論する余裕は全くなかった。 村山談話も同様で、自民、社会、さきがけの3党連立政権で、自民党内には談話への異論が強かった。 当選間もない安倍氏もその1人だった。 筆者が当時、野坂浩賢官房長官の担当として感じたのは、村山首相や野坂官房長官が談話に拘ったのはあくまで社会党政権としての存在感を示すことであり、日本の将来ではなかった。 野坂氏や前任の官房長官である五十嵐広三氏には同年1995年6月の戦後50年決議が自民党内の反対にあって中途半端な形になったとの思いが強かった。 そこで首相談話には 「植民地」 「侵略」 「反省」 「お詫び」 のいわゆるキーワードを盛り込むことに固執した。 野坂氏は 「反対ならば閣僚を辞めてもらいます」 と半ば恫喝して自民党を説き伏せ、閣議決定にこぎつけた。 ■安倍氏をライバル視する石破首相 どさくさに紛れて出された河野談話、社会党政権の存在を後世に残すための村山談話とは異なり、安定政権を築いた安倍首相は有識者による 「21世紀構想懇談会」 で議論を重ね、歴史認識が異なる政治学者の五百旗頭真氏や読売新聞グループ本社会長兼主筆だった渡辺恒雄氏からも意見を聞き、談話を作り上げた。 談話はこう結んでいる。 「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献して参ります」 「終戦80年、90年、更には100年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく」 「その決意であります」 戦後80年を既に見据えているのだ。 しかも石破政権は少数与党であり通常国会を如何に乗り切るかの見通しも立っていない。 今夏2025年夏には都議選、参院選もあり、政局が不安定になる可能性もある。 石破首相は 「政敵」 だった安倍氏の名前が出ると不快感を示すそうだが、個人的な感情で安倍氏に対抗して談話を出すべきではない。 「戦後80年談話」は禍根を残す 石破首相の中韓への謝罪癖に懸念 阿比留瑠比の極言御免 2025/1/16 1:00 https://www.sankei.com/article/20250116-6KPXLPMSFZPPHJZCMVBVGMNM3E/ 「戦後の謝罪外交に終止符を打ちたい」 安倍晋三元首相がこの思いを込め、平成27年8月に戦後70年談話を発表して今年2025年8月で丸10年となり、日本は戦後80年を迎える。 安倍氏は談話発出後、筆者らに談話の意義についてこう語っていた。 「これで戦後80年、90年談話はもう必要ない」 それだけ考え抜いて作った安倍談話に自信があったのだろう。 談話は、西ドイツのワイツゼッカー大統領が敗戦40年の1985年に行った有名な演説 「荒れ野の40年」 の 「自らが手を下していない行為について自らの罪を告白することはできません」 というレトリックを下敷きにして、次のように説いている。 「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」 安倍氏によると、ベトナムの政府高官は 「この談話を読んで評価しないようなアジアの国があれば、まともではない」 と感想を述べていたという。 ■村山談話を「上書き」 談話に取り組んだ背景には、平成7年に村山富市首相が出した戦後50年の村山談話への問題意識がある。 村山談話は、具体的にいつの何を指すのか曖昧にしたまま日本による植民地支配と侵略を謝罪しており、中国や韓国などに利用されて長く日本外交の手足を縛る枷となっていた。 安倍氏は安倍談話により村山談話を 「上書き」 し、超克することを強く意識していた。 また、安倍氏は安倍談話に加え、先の大戦で敵国同士だった米国やオーストラリアとの 「和解」 に取り組んだ。 オバマ米大統領を現職大統領として初めて被爆地・広島に迎え、自身は日米戦争の象徴である米ハワイ・真珠湾を訪問したのもその一環である。 安倍氏はまさに、日本を敗戦国の枠組みに閉じ込めてきた 「戦後」 を終わらせた宰相だったと言える。 ■蒸し返しへの危惧 ところが、岩屋毅外相は2025年1月13日、訪問先の韓国での日韓外相会談後の共同記者会見で戦後80年談話の作成について次のように含みを持たせた。 「現時点で発出するとはまだ決定していない」 「戦後80年の節目にどのような対応を取るか、これからよく国内で相談したい」 出すと決まったわけではないにしろ、よく検討するというわけだが、果たしてどんな中身を想定しているのか。 岩屋氏は同時にこうも語った。 「政府として述べてきている歴代政権における歴史認識、談話を石破茂内閣もしっかりと引き継いでおり、この認識にいささかの変わりもない」 安倍談話を引き継いでいるということならばいいが、わざわざ 「歴代政権」 と話す所に、村山談話の下での謝罪外交や自虐的な歴史認識を蒸し返すのではないかと危惧を覚える。 第一、石破首相に安倍氏のような 「謝罪外交に終止符」 「戦後を終わらせる」 といった理念や信念はあるのか。 安倍談話に一体何を付け加えようというのか。 岩屋氏は今回、韓国で左派系の最大野党「共に民主党」出身の禹元植(ウ・ウォンシク)国会議長と面会し、早速 「歴史問題の直視」 という注文を受けている。 「御用聞き外交」 かとの印象を受けた。 昨年2024年11月7日の当欄で紹介したように、石破首相は南京事件でも韓国併合でも中韓に安易に謝罪したがる癖がある。 戦後80年談話が村山談話に立ち戻るような内容であれば、全く出す必要がなく将来に禍根を残すだけである。 (論説委員兼政治部編集委員) 中国、韓国が利用する石破首相の歴史観 過去の言動繰り返せば付け入る隙に 阿比留瑠比の極言御免 2024/11/7 1:00 https://www.sankei.com/article/20241107-3K6TVFPG6RPOZDBYUBB4CSA2ZI/ まだ石破茂首相のことを保守派だと見做していた20年以上も昔の話である。 筆者は当時、安倍晋三元首相や中川昭一元財務相らが熱心に取り組んでいた偏向歴史教科書問題や慰安婦問題など保守系の運動に関わろうとしないことをいぶかり、それらへの参加を促したことがある。 だが、返事はそっけなかった。 「そういうのは、もういいよ」 この時は、単に余り関心がないのかと流したが、徐々にそうではなくて歴史認識自体が大きく異なるのだと分かってきた。 石破氏の考え方は、むしろ左派・リベラルに近かった。 それを反映し、2024年9月の自民党総裁就任時などに、中国や韓国は首相の歴史観を理由に概ね歓迎を示した。 例えば韓国の左派紙、ハンギョレ新聞は同月2024年9月30日の社説で書いている。 「歴史問題についても『政治的ライバル』だった安倍元首相とは異なり、何度も合理的な見解を明らかにしたことがある」 「(中略)謙虚な歴史認識を示してくれることを期待する」 また、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」(2024年10月18日付)は、首相が平成18年9月23日付の毎日新聞鳥取県版にこう語ったことを紹介している。 「最近は、自民党の若い議員を見ても、怖い」 「過去の戦争を『全て正しかった』と考えていて、頭は大丈夫かと疑いたくなる」 「日中戦争は明らかに侵略戦争だし、韓国併合は植民地化(だ)」 こうした首相のこれまでの言葉については、月刊誌「明日への選択」2024年11月号の記事 「かくも危うい石破首相の『歴史認識』」 がよくまとめていたので、許可を得て引用する。 それによると首相は平成29年5月、韓国紙、東亜日報のインタビューで慰安婦問題についてこう語った。 「納得を得られるまでずっと謝罪するしかないでしょう」 もっとも、その後の産経新聞の取材に首相は 「『謝罪』という言葉は一切使っていない」 「『お互いが納得するまで努力を続けるべきだ』と話した」 と否定している。 とはいえ、 「努力」 をどう翻訳(意訳)すれば 「謝罪」 に入れ替わるのか理解に苦しむ。 中国共産党系の新聞、世界新聞報のインタビューも防衛相時代の2020年に受け、こう述べたとされる。 「日本には南京大虐殺を否定する人がいる」 「30万(人)も殺されていないから南京大虐殺そのものが存在しないという」 「何人が死んだかと大虐殺があったかは別問題だ」 「日本は中国に謝罪すべきだ」 これについても首相は月刊正論2020年9月号で 「大虐殺があったとは言っていないよ」 と否定しているが、聞き手の評論家、潮匡人氏はこうたしなめていた。 「ですが、そう相手に受け取られる対応も、事実関係で日中間に隔たりがある以上、国益の擁護者として慎重であるべきではなかったかと」 まさにその通りである。 首相が実際にどのような表現を使ったかは判然としないが、相手に利用されるようなことを述べたのは事実だろう。 来年2025年は終戦80年を迎える他、日韓国交正常化60周年にも当たる。 中国も 「抗日反ファシズム戦争勝利80周年キャンペーン」 を準備しているという節目の年である。 韓国や中国の反日勢力がさまざまな仕掛けをしてくると予想できるが、首相が過去の言動を繰り返すようなら、付け入る隙を与えることになろう。 もっとも、それまで首相を続けていられるかどうかは分からないが。 (論説委員兼政治部編集委員) <年のはじめに>論説委員長 榊原智 未来と過去を守る日本に 2025/1/1 5:00 https://www.sankei.com/article/20250101-PWVSMDWROJMAZIIOSEKN3VJ2HQ/ 今年2025年は、日本の未来と過去を守らなくてはならない年になるだろう。 抑止力の構築を急がないと、日本は数年内に、戦後初めて戦争を仕掛けられる恐れがある。 平和を守っていく年にしたい。 戦後80年である。 大東亜戦争(太平洋戦争)について中国や朝鮮半島、左派からの史実を踏まえない誹謗は増すだろう。 気概を持って反論しなければ国民精神は縮こまり、日本の歴史や当時懸命に生きた日本人の名誉は守れない。 政府や政治家が鈍ければ、国民は叱咤激励したり、自ら声をあげたりしていかねばなるまい。 能登半島地震から1年が経った。 復興を願うと共に、将来起きるかもしれない危難から日本や地域を守る必要性も痛感する。 ウクライナや中東の戦争を見てほしい。 自然だけでなく人間も大災害をもたらす。 安全保障は独立と繁栄の基盤といえる。 ■統幕長の危機感共有を 自衛隊制服組トップの吉田圭秀統合幕僚長は昨年最後の記者会見で次のように語った。 「国際社会の分断と対立は深まり、情勢は悪化の一途を辿り、自由で開かれた国際秩序は維持できるか否かのまさに瀬戸際にある」 「来年(令和7年)を見通しても良くなる展望は開けない」 国家防衛戦略では令和9年までに 「我が国が主たる責任をもっ我が国への侵攻を阻止、排除できるようにする目標がある」 とし 「それまでに暇がない」 とも述べた。 率直な物言いは危機感の表れだ。 制服組トップがこれほど有事を懸念するのは米国と北朝鮮が開戦間際だった平成5、6年の第1次朝鮮半島核危機時の西元徹也統幕議長以来かもしれない。 だが、第1次核危機もそうだったが最近の日本の政治が危機感を十分共有しているとは思えない。 歴代内閣の努力は分かる。 安倍晋三政権は集団的自衛権の限定行使に道を開いた。 菅義偉政権は米国と共に 「台湾海峡の平和と安定の重要性」 を宣言した。 岸田文雄政権は防衛費増額や反撃能力保有など防衛力の抜本的強化を開始した。 石破茂内閣は自衛官の募集難対策に本腰を入れている。 中国の台湾侵攻や北朝鮮の暴発を抑止する取り組みだ。 ただし、昨年2024年の日本は、政治とカネの問題で騒動が続くなど専ら内向きだった。 国会などの場で日本の政治は外交安保にもっと意を払うべきだった。 周囲の専制国家が 「日本与しやすし」 と見れば抑止効果は減じる。 それがどれほど恐ろしいことか。 トランプ米政権の登場で、侵略者ロシアと抗戦してきたウクライナが休戦となれば、台湾海峡や東・南シナ海など北東アジアの安全保障環境を変化させる。 ■戦後80年に踏まえたい点 北東アジア自体への影響にとどまらない。 停戦監視へ陸上自衛隊のウクライナ派遣が期待されるかもしれない。 また、紅海で民間船舶を攻撃する親イラン民兵組織フーシ派討伐への海上自衛隊参加の要請があるかもしれない。 日本の対応は、北東アジアへの欧米諸国の関与を左右する。 これらは仮の話だが、日本の政治は、そして日本国民は、ウクライナなどの情勢の展開に備えようとしているか。 分断と対立が深まる国際情勢を我が事として捉えているか。 トランプ氏との会談で石破首相は、日本と国際秩序を能動的に守る姿勢を示してほしい。 紙幅が尽きた。 戦後80年について2点指摘したい。 1つ目は、大東亜戦争を巡り、当時の日本には祖国防衛の思いに加え、人種平等の実現や欧米植民地支配打破の理想があった点を、戦後の日本人はほとんど知らされてこなかったという点だ。 2つ目は史実を踏まえた議論の大切さである。 満州事変 世界恐慌の少し前の昭和3年(1928)、満州を実効支配していた張作霖が列車ごと爆殺されるという事件が起きたのです。 元は馬賊だった張作霖は権謀術数に長けた人物で、日露戦争後に日本陸軍の関東軍と手を結び、軍閥を組織して満州を実効支配し、徴収した金を全て自分の物としていました。 当初、張作霖と関東軍の関係は良好でしたが、大正の終わり頃から、物資の買い占め、紙幣の乱発、増税などを行い、関東軍と利害が対立するようになっていきます。 更に欧米の資本を入れて、日本の南満州鉄道(満鉄)と並行する鉄道を敷設したことで、両者の衝突は避けられなくなりました。 満鉄は鉄道事業が中心として満州全域に広範な事業を展開する会社で、日本軍による満州経営の中核たる存在であっただけに、関東軍としても見過ごすわけにはいかなかったのです。 張作霖爆殺事件はそんな状況下で起こりました。 事件の首謀者は関東軍参謀と言われてきましたが、ソ連の関与があったとする説もあり、現在も論争が続いています。 ただ、この時、 「張作霖爆殺」 に関しての陸軍の調査と、彼らを庇うかのように二転三転する内閣の報告に関して、昭和天皇は不快感を顕にし、田中義一首相(元陸軍大臣)の内閣は総辞職しました。 天皇は自分の言葉(それを首相に伝えたのは鈴木貫太郎侍従長)が内閣に影響を与えてしまったことを反省し、以後は内閣の決定には拒否権を発動するなどの 「親裁」 は行わないようになりました。 それをやれば日本は専制君主国家になってしまうという思いからです。 張作霖の跡を継いだ息子の張学良はこの後、満州に入植してきた日本人と朝鮮人の権利を侵害する様々な法律を作ります。 また父の張作霖が満鉄に並行して敷いた鉄道の運賃を異常に安くすることで満鉄を経営難に陥れました。 そのため満鉄は昭和5年(1930)後半から深刻な赤字が続き、社員2000人の解雇を余儀なくされたのです。 日露戦争でロシア軍を追い出して以降、日本は満鉄をはじめとする投資により、満州のインフラを整え、産業を興してきました。 そのお陰で満州は大発展したのです。 この頃、清では戦乱が相次ぎ、日本は満州の治安を守るためにを置いていました。 そのため清から大量の難民が押し寄せることとなります。 そうしたこともあって日露戦争が始まった明治37年(1904)頃には約1000万人だった満州の人口は、20数年の間に3000万人にも増えていました。 同じ頃、蒋介石率いる中国国民党政権と中国共産党による反日宣伝工作が進められ、排日運動や日本人への脅迫やイジメが日常的に行われるようになりました。 日本人に対する暴力事件も多数発生しました。 代表的な事件は 「南京事件」 と呼ばれるもので、これは昭和2年(1927)3月に、蒋介石率いる中国国民党が南京を占領した際、中華民国の軍人と民衆の一部が、日本を含む外国領事館と居留民に対して行った襲撃事件です。 暴徒は外国人に対して、暴行・略奪・破壊などを行い、日本人、イギリス人、アメリカ人、イタリア人、デンマーク人、フランス人が殺害されました(この時、多くの女性が凌辱された)。 この暴挙に対して、列強は怒り、イギリスとアメリカの艦艇は直ちに南京を砲撃しましたが、中華民国への協調路線(及び内政不干渉政策)を取る幣原喜重郎外務大臣(「日英同盟」を破棄して「4カ国条約」を結んだ全権大使)は、中華民国への報復措置を取らないばかりか、逆に列強への説得に努めました。 更に日本政府は国内の世論を刺激しないように、 「我が在留婦女にして凌辱を受けたる者1名もなし」 と嘘の発表をしたため、現状を知る南京の日本人居留民を憤慨させたのです(政府は居留民たちが事実を知らせようとする集会さえも禁じている)。 この時、報復攻撃をしなかった日本に対し、中国民衆は感謝するどころか、逆に 「日本の軍艦は弾丸がない」 「張子の虎だ」 と嘲笑したと言われています。 事実、これ以降、中国全域で、日本人に対するテロ事件や殺人事件が急増します。 満州でも、中国共産党に通じたテロ組織が、日本人居留民や入植者を標的にしたテロ事件を起こすようにもなりました。 しかし被害を受けた日本人居留民が領事館に訴えても、前述の通り、時の日本政府は、第2次幣原喜重郎外交の 「善隣の誼(よしみ)を淳(あつ)くするは刻下の一大急務に属す」(中国人と仲良くするのが何より大事) という対支外交方針を取っていたため、訴えを黙殺しました。 それどころか幣原喜重郎外務大臣は、 「日本警官増強は日支対立を深め、ひいては日本の満蒙権益を損なう」 という理由で、応援警官引き揚げを決定します。 そのため入植者たちは、満州の治安維持をしている関東軍を頼り、直接、被害を訴えるようになっていきます。 それでもテロ事件は収まらず、昭和5年(1930)後半だけで、81件、死者44人を数える事態となりました(負傷者は数えきれない)。 この時、中国人による嫌がらせの一番の標的になっていたのが朝鮮人入植者でした。 これは多分に両者の長年の確執と性格による所もあったと考えられます。 韓国併合により当時は 「日本人」 だった朝鮮人は、何かにつけて中国人を見下す横柄な態度を取っていたと言われ、中国人にしてみれば、長い間、自分たちの属国の民のような存在と思っていた朝鮮人にそのように扱われのが我慢ならなかったものと考えられます。 中国人から執拗な嫌がらせを受けた朝鮮人入植者は、日本政府に対して 「日本名を名乗らせてほしい」 と訴えます。 最初は日本名を名乗ることを許さなかった統監府も、やがて黙認する形で認めることとなります。 日本政府の無為無策では南満州鉄道や入植者を守れないという意見が強まる中、関東軍は昭和6年(1931)9月、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業であるとして、満州の治安を守るという名目で軍事行動を起こしました。 政府は不拡大方針を取りましたが、関東軍は昭和7年(1932)7月までに満州をほぼ制圧し、張学良を追放しました。 いわゆる 「満州事変」 です。 「事変」 とは、大規模な騒乱状態ではあるが、宣戦布告がなされていない国家間の軍事的衝突を意味します。 以後、日本は中国大陸での泥沼の戦いに突入していくこととなります。 盧溝橋事件から支那事変 昭和12年(1937)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍が、中華民国軍が占領している後方の陣地から射撃を受けたことがきっかけで、日本軍と中華民国軍が戦闘状態となります。 ただこれは小競り合いで、4日後の昭和12年(1937)7月11日には現地で停戦協定が結ばれました。 しかし東京の陸軍本部は派兵を望んでいて、最初は不拡大方針だった近衛文麿首相はそれに押し切られるように、昭和12年(1937)7月11日の臨時閣議で派兵を決めます。 盧溝橋の発砲事件に関しては、中国共産党が引き起こしたという説もありますが、真相は不明です。 異常な緊張状態の中、その月昭和12年(1937)7月の29日、北京東方で、 「通州事件」 通州事件(2) Sさんの体験談 https://nezu3344.com/blog-entry-6033.html が起きます。 この事件は、 「冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)」(昭和10年【1935】から昭和13年【1938】まで河北省に存在した自治政府であるが、その実体は日本の傀儡政権であるとされる) の中国人部隊が反乱を起こし(中国国民党や中国共産党が使嗾【しそう:そそのかすこと】したとも言われる)、通州にある日本人居留地を襲い、女性や子供、老人や乳児を含む民間人233人を虐殺した事件です。 その殺害方法は猟奇的とも言うべき残虐なもので、遺体のほとんどが生前に激しく傷付けられた跡があり、女性は子供から老人までほぼ全員強姦された上、性器を著しく損壊されていました。 これらの記録や写真は大量に残っていますが、まともな人間なら正視に耐えないものです。 この事件を知らされた日本国民と軍部は激しく怒り、日本国内に反中感情が高まりました。 また昭和12年(1937)8月に上海の租界で2人の日本の軍人が射殺された(大山事件)こともあり、日本人居留地を守っていた日本軍と中華民国軍が戦闘状態に入りました(第2次上海事変)。 この時、ドイツの指導と武器援助を受けていた中華民国軍は屈強で、日本軍は思わぬ苦戦を強いられます。 当時、上海の租界には約2万8000人の日本人が住んでいましたが、実は大山事件前にも、日本人を標的にした中国人によるテロ事件や挑発的行為が頻発していました。 昭和6年(1931)、商社や商店、個人が受けた暴行や略奪は200件以上。 通学児童に対する暴行や嫌がらせは約700件。 殺害事件だけでも、昭和7年(1932)から昭和12年(1937)までの間に何件も起きています。 犠牲者も軍人だけでなく、托鉢僧や商社員、新聞社の記者など民間人が多数含まれていました。 第2次上海事変は中華民国の各地に飛び火し、やがて全国的な戦闘となりました。 ただ、日本がこの戦闘を行ったのは、そもそもは自国民に対する暴挙への対抗のためでした。 「暴支膺懲」(ぼうしようちょう) というスローガンが示すように 「暴れる支那を懲らしめる(膺懲)」 という形で行った戦闘がいつの間にか全面戦争に発展したというのが実情です。 当時、日本は中華民国との戦闘状態を総称して 「支那事変」(あるいは「日華事変」) と呼んでいました。 支那事変は大東亜戦争が始まるまでの4年間、両国とも宣戦布告を行わずに戦い続けた奇妙な戦争でした。 その理由は、 「戦争」 となれば、第3国に中立義務が生じ、交戦国との交易が中立義務に反する敵対行為となるからです。 従って両国が共に 「事変」 扱いとして戦い続けたため、国際的にも 「戦争」 とは見做されませんでした(実質は戦争)。 装備に優る日本軍は僅か3カ月で上海戦線を突破し、その年昭和12年(1937)の12月には首都南京を占領しました。 日本軍は、首都さえ落とせば、中華民国は講和に応じるだろうと見ていたのですが、蒋介石は首都を奥地の重慶に移して抵抗します。 中華民国には、ソ連とアメリカが積極的な軍事援助を行っていて、最早戦争の早期終結は望めないこととなっていました。 昭和12年(1937)12月、日本軍による南京占領の後、 「30万人の大虐殺」 が起きたという話がありますが、これはフィクションです。 この件は日本と日本人の名誉に関わることですから、やや紙幅を割いて書きます。 「南京大虐殺」 は、日本軍の占領直後から、蒋介石が国民党中央宣伝部を使って盛んに宣伝した事件です。 例えば、南京大虐殺を世界に最初に伝えたとされる英紙マンチェスター・ガーディアンの中国特派員であったオーストラリア人記者のハロルド・ティンパリは、実は月1000ドルで雇われていた国民党中央宣伝部顧問であったことが後に判明しています。 その著作 ”What War Means:The Japanese Terror in China"(邦訳『外国人の見た日本軍の愚行ー実録・南京大虐殺ー』) の出版に際しては、国民党からの偽情報の提供や資金援助が行われていたことが近年の研究で明らかになっています。 また『南京大虐殺』を世界に先駆けて報じたアメリカ人記者ティルマン・ダーディンも『シカゴ・デイリー・ニューズ』記者のアーチボルド・スティールも南京陥落直後に南京から離れています(つまり伝聞)。 当時、南京には欧米諸国の外交機関も赤十字も存在しており、各国の特派員も大勢いたにもかかわらず、大虐殺があったと世界に報じられてはいません。 30万人の大虐殺となれば、世界中でニュースになったはずです(捕虜の処刑は別)。 また、同じ頃の南京安全区国際委員会の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は約20万人です。 もう1つおかしいことは、日本軍が占領した1カ月後に南京市民が25万人に増えていることです。 いずれも公的な記録として残っている数字です。 仮に日本軍が1万人も殺していたら、住民は蜘蛛の子を散らすように町から逃げ出していたでしょう。 南京市民が増えたのは、街の治安が回復されたからに他なりません。 当時の報道カメラマンが撮った写真には、南京市民が日本軍兵士と和気藹々と写っている日常風景が大量にあります。 占領後に捕虜の殺害があったことは事実ですが、民間人を大量虐殺した証拠は一切ありません。 20万人という数字は安全区だけのもので、それ以外の地区は含まれていないという主張もありますが、安全区以外の地域にはほとんど人がいなかったという外国人の証言が多数残っています。 もちろん一部で日本兵による殺人事件や強姦事件はありました。 ただ、それをもって大虐殺の証拠とは言えません。 今日、日本は世界で最も治安の良い国と言われていますが、それでも殺人事件や強姦事件は年間に何千件も起きています(近年の統計によれば、殺人は900〜1000件、強制性交等はそれ以上)。 ちなみにアメリカでは毎年、殺人と強姦を合わせると数十万件も起きています。 ましてや当時は警察も法律も機能していなかったことを考えると、平時の南京では起こらないような痛ましい事件もあったとは思われます。 また南京においては 「便意兵」 の存在もありました。 便意兵とは分かり易く言えばゲリラです。 軍人が民間人のふりをして日本兵を殺すケースが多々あったため、日本軍は便意兵を見つけると処刑したのですが、中には便意兵と間違われて殺された民間人もいたかもしれません。 こうした混乱が起きるのが戦争だとも言えます。 例えば戦後の占領下で、アメリカ軍兵士が日本人を殺害したり、日本人女性を強姦したりした事件は何万件もあったと言われます。 これらは許されることではありませんが、占領下という特殊な状況において、平時よりも犯罪が増えるのは常です。 要するに、南京において個々の犯罪例が100例、200例あろうと、それをもって大虐殺があったという証拠にはならないのです。 30万人の大虐殺と言うからには、それなりの物的証拠が必要です。 ドイツが行ったユダヤ人虐殺は夥しい物的証拠(遺体、遺品、ガス室、殺害記録、命令書、写真その他)が多数残っており、今日でも尚、検証が続けられています。 しかし 「南京大虐殺」 は伝聞証拠以外に物的証拠が出てきません。 証拠写真の大半は、別事件の写真の盗用ないし合成による捏造であることが証明されています。 そもそも日中戦争は8年も行われていたのに、南京市以外での大虐殺の話はありません。 8年間の戦争で、僅か2カ月間だけ、日本人が狂ったように中国人を虐殺したというのは余りにも不自然です。 とりわけ日本軍は列強の軍隊の中でも極めて規律正しい軍隊で、それは世界も認めていました。 「南京大虐殺」 とは、支那事変以降、アメリカで蒋介石政権が盛んに行った反日宣伝活動のフェイクニュースでした。 日本軍による 「残虐行為」 があったとアメリカのキリスト教団体とコミンテルンの工作員が盛んに宣伝し、 「残虐な日本軍と犠牲者・中国」 というイメージを全米に広めたのです。 このイメージに基づいて、後年、第二次世界大戦後に開かれた 「極東国際軍事裁判」(東京裁判) では、日本軍の悪行を糾弾する材料として 「南京大虐殺」 が取り上げられることになります。 実は東京裁判でもおかしな事がありました。 この裁判では、上官の命令によって1人の捕虜を殺害しただけで絞首刑にされたBC級戦犯が1000人もいたのに、30万人も殺したはずの南京大虐殺では、南京司令官の松井石根大将1人しか罪に問われていないのです。 規模の大きさからすれば、本来は虐殺命令を下した大隊長以下、中隊長、小隊長、更に直接手を下した下士官や兵などが徹底的に調べ上げられ、何千人も処刑されているはずです。 しかし現実には、処刑されたのは松井大将1人だけでした。 東京裁判で亡霊の如く浮かび上がった 「南京大虐殺」 は、それ以降、再び歴史の中に消えてしまいます。 「南京大虐殺」 が再び姿を現すのは、東京裁判の4半世紀後のことでした。 昭和46年(1971)、朝日新聞のスター記者だった本多勝一が 「中国の旅」 という連載を開始しました。 その中で本多は、 「南京大虐殺」 を取り上げ、日本人が如何に残虐な事をしてきたかを、嘘とデタラメを交えて書いたのです。 これが再燃のきっかけとなりました。 この時の取材、本多の南京滞在は僅か1泊2日、 「南京大虐殺」 を語った証言者は中国共産党が用意した僅か4人でした。 後に本多自身が 「『中国の視点』を紹介することが目的の『旅』であり、その意味では『取材』でさえもない」 と語っています。 本多の連載が始まった途端、朝日新聞をはじめとする日本の多くのジャーナリズムが 「南京大虐殺」 をテーマにして 「日本人の罪」 を縦断する記事や特集を組み始めました。 そうした日本国内での動きを見た中国政府は、これは外交カードに使えると判断したのでしょう。 以降、執拗に日本政府を非難するようになったというわけです。 本田勝一の記事が出るまで、毛沢東も周恩来も中国政府も、1度たりとも公式の場で言及したことはなく、日本を非難しなかったにもかかわらずです。 それ以前は、中国の歴史教科書にも 「南京大虐殺」 は書かれていませんでした。 「無かった事」 を証明するのは、俗に 「悪魔の証明」 と言われ、私がここで書いた事も、 「無かった事」 の証明にはなりません。 ただ、客観的に見れば、組織的及び計画的な住民虐殺という意味での 「『南京大虐殺』は無かった」 と考えるのが極めて自然です。 朝日新聞が生み出した国際問題 「WGIP洗脳世代」 が社会に進出するようになると、日本の言論空間が急速に歪み始めます。 そして後に大きな国際問題となって日本と国民を苦しめることになる3つの種が播かれました。 それは 「南京大虐殺の嘘」 「朝鮮人従軍慰安婦の嘘」 「首相の國神社参拝への非難」 です。 これらはいずれも朝日新聞による報道がきっかけとなったものでした。 まず 「南京大虐殺」 ですが、これは前述したように、昭和46年(1971)、朝日新聞で始まった 「中国の旅」 という連載がきっかけとなりました。 全く事実に基づかない内容だったにもかかわらず、戦後、GHQによって 「日本軍は悪逆非道であった」 という洗脳を徹底して受けていた日本人の多くは、この捏造とも言える記事をあっさりと信じてしまったのです。 当時、朝日新聞が 「日本の良心」 を標榜し、売上部数が圧倒的に多かったことも、読者を信用させる元となりました。 まさか大新聞が堂々と嘘を書くとは誰も思わなかったのです。 更に当時、マスメディアや言論界を支配していた知識人の多くがこの話を肯定したことが裏書きとなり、本田勝一の記事が真実であるかのように罷り通ってしまったのでした。 日本側のこうした反応を見た中華人民共和国は、これはに使えると判断し、以降、執拗に日本を非難するカードとして 「南京大虐殺」 を持ち出すようになります。 そして50年以上経った現在まで、大きな国際問題となって残っています。 情けないことに、未だに、 「南京大虐殺」 が本当にあったと思い込んでいる人が少なくありません。 今更ながらGHQの 「WGIP:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語:War Guilt Information Program) の洗脳の怖ろしさが分かろうというものです。 朝日新聞が生み出したもう1つの嘘は、いわゆる 「朝鮮人従軍慰安婦」 問題です。 昭和57年(1982)、朝日新聞は吉田清治という男の衝撃的な証言記事を載せました。 その内容は、吉田清治が軍の命令で済州島に渡り、泣き叫ぶ朝鮮人女性を木刀で脅し、かつてのアフリカの奴隷狩りのようにトラックに無理矢理乗せて慰安婦にしたという告白でした。 この記事は日本中を驚愕させました。 以降、朝日新聞は日本軍が朝鮮人女性を強制的に慰安婦にしたという記事を執拗に書き続けます。 朝日新聞は吉田清治証言だけでも18回も記事にしています。 ちなみに 「従軍慰安婦」 という言葉は、戦後、元毎日新聞社の千田夏光(本名、貞晴)らによって広められた全く新しい造語です。 吉田清治証言が虚偽であることは早い段階から一部の言論人らから指摘されていました。 吉田清治自身も平成8年(1996)の 「週刊新潮」 のインタビューで、 「本に真実を書いても何の益も無い」 「事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやっている」 と捏造を認めていたのです。 ところが、朝日新聞がこの吉田清治証言に基づく自社の記事を誤りだったとする訂正記事を書いたのは、最初の記事から32年も経った平成26年(2014)のことでした。 実に32年もの間、朝日新聞の大キャンペーンに、左翼系ジャーナリストや文化人たちが相乗りし、日本軍の 「旧悪」 を糾弾するという体で、慰安婦のことを何度も取り上げました。 これに積極的に関わった面々の中には旧日本社会党や日本共産党の議員もいました。 多くの国民は朝日新聞が嘘を書くわけがないと思い、またGHQの洗脳によって 「日本軍ならそれくらいの事はしただろう」 と思い込まされてきたため、 「従軍慰安婦の嘘」 を信じてしまったのです。 「南京大虐殺」 と同様でした。 こうした日本の状況を見た韓国も、中華人民共和国と同様、 「これは外交カードに使える」 として、日本政府に抗議を始めました。 朝日新聞が吉田清治証言を記事にしてキャンペーンを始めるまで、40年もの間、1度も日本政府に慰安婦のことで抗議などしてこなかったにもかかわらず、です。 韓国の抗議に対する日本政府の対応が最悪とも言える拙劣なものでした。 平成5年(1993)、韓国側からの 「日本政府が従軍慰安婦の強制連行を認めれば、今後は問題を蒸し返さない」 という言葉を信じて、日韓両政府の事実上の談合による 「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」 (いわゆる「河野談話」) を出し、慰安婦の強制連行を認めるような発信をしてしまったのです。 途端に、韓国は前言を翻し、これ以降、 「日本は強制を認めたのだから」 と、執拗に賠償と補償を要求するようになります。 これは80年前、大正4年(1915)の 「21ヵ条要求」 のいきさつを彷彿とさせる悪手でした。 もう1つ、朝日新聞がこしらえたと言える深刻な国際問題が、 「首相の國神社参拝に対する非難」 でした。 今も、首相の國神社参拝を 「世界の国々が非難している」 という報道を繰り返す新聞がありますが、これは正しくありません。 我が国の首相や閣僚の國神社参拝を感情的に非難しているのは、中華人民共和国と韓国のみと言っていいでしょう。 アメリカや中韓以外のアジア諸国のメディアが今も批判的トーンで國神社参拝を報じるのは、日本と隣国との争いの種になっているから、という理由が大きいのです。 もちろん英米メディアの中には國神社を 「戦争神社」 と言い、ここに参る者は 「戦争賛美」 の極右で 「歴史修正主義者」 だという論調もありますが、そのほとんどが、1980年代の朝日新聞の報道論調を下敷きにしています。 そもそも中国・韓国の2国は、戦後40年間、日本の首相の國神社参拝に1度も抗議などしてきませんでした。 それまでに歴代首相が59回も参拝したにもかかわらずです。 これが国際問題となったきっかけは、昭和60年(1985)8月15日に中曽根康弘首相が國神社を参拝した時に、これを非難する記事を朝日新聞が大きく載せたことでした。 直後、中華人民共和国が初めて日本政府に抗議し、これ以降、首相の國神社参拝は国際問題となったのです。 この時、中国の抗議に追随するように韓国も非難するようになりました。 以上、現在、日本と中国・韓国の間で大きな国際問題となっている3つの問題は、全て朝日新聞が作り上げたものと言っても過言ではありません。 3つの報道に共通するのは、 「日本人は悪い事をしてきた民族だから、糾弾されなければならない」 という思想です。 そのためなら、たとえ捏造報道でもかまわないという考えが根底にあると思われても仕方がないような経緯です。 朝日新聞のこうした考え方は政治的な記事に限りませんでした。 平成元年(1989)4月20日の 「珊瑚記事捏造事件」 などは同根と言える一例です。 これは、朝日新聞のカメラマンが、ギネスブックにも載った世界最大の沖縄のアザニサンゴに、自らナイフで 「K・Y」 という傷を付けて、 「サンゴ汚したK・Yってだれだ」 という悪質な捏造記事を書いたという事件です。 記事は日本人のモラルの低下を嘆き、 「日本人の精神の貧しさと荒んだ心」 とまで書かれています。 これは単にスクープ欲しさの自作自演だったとは思われません。 その書きぶりには、前記の3記事と同じ 「WGIPによる歪んだ自虐思想」 が見て取れます。 GHQの推し進めた洗脳政策は、戦後、多くの日本人の精神をすっかり捻じ曲げてしまったと言えますが、驚くべきことに、占領後は朝日新聞を代表とするマスメディアが、GHQの洗脳政策の後継者的存在となり、捏造までして日本と日本人を不当に叩いていたのです。 更に不思議なことはこの新聞が、戦後長らく 「クオリティー・ペーパー」 と言われてきたことです。 「クオリティー・ペーパー」 とは 「エリート階層を読者とする質の高い新聞」 という意味ですが、果たしてこの称号を与えたのは誰だったのでしょうか。 それは戦後の公職追放の後に、言論界を支配した者たちでした。 朝鮮人慰安婦に関しては、肯定派のジャーナリストや学者、文化人らが、 「軍が強制した」 という証拠を長年懸命に探し続けていますが、現在に至っても全く出てきません。 中には、 「軍が証拠を隠滅した」 と言う者もいますが、全ての証拠を完全に消し去ることなど不可能です。 軍は一種の官僚機構です。 仮に民間業者に命じたのなら、議事録、命令書、予算書、報告書、名簿、受領書、請求書、領収書など、夥しい書類が必要でしょう。 軍は勝手に金を動かせませんから、双方の帳簿も大量に残っているはずです。 戦闘中以外はトラック1台動かすのにも、いちいち書類が必要だったのです。 当時、軍用機の搭乗員たちは、たとえ練習でも飛行記録を残す義務がありました。 もし軍が直接行動したなら、慰安婦を強制連行するために動いた部隊、実働人員、収容した施設、食料などを記した書類も大量にあるはずですが、それらが全て煙のように消えてしまうことなどあり得ません。 そんなことが可能なら、戦後に捕虜の処刑に関係したBC級戦犯が1000人も処刑されるはずがありません。 2000年から、アメリカ合衆国のクリントン、ブッシュ政権下において、8年の歳月をかけて、ドイツと日本の戦争犯罪に関する大規模な調査が行われ、850万ページに及ぶ未公開や秘密の公式文書が調査されました。 そのうち14万2000ページが日本の戦争犯罪に関するものでしたが、日本政府や軍がいわゆる 「従軍慰安婦」 に関わる戦争犯罪を犯したことを示す文書は1点も発見されなかったという報告が、2007年にありました(ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班【IWG】アメリカ合衆国議会宛て最終報告」)。 この報告は 「従軍慰安婦」 に終止符を打つべきものと思えますが、令和の今日においても尚、左翼系の政党やメディア、学者、弁護士らは日本政府と軍の 「強制」 を主張しています。 ここで皆さんに知っておいてもらいたい事があります。 それは戦時慰安婦の大半が日本人女性だったということです。 朝鮮人女性は2割ほどだったと言われています。 当時は日本も朝鮮も貧しく、親兄弟の生活のために身を売らねばならなかった女性が少なくありませんでした。 そうした女性たちが戦時に戦地の慰安所で慰安婦として働いたー。 これが事実の全てです。 一方、 「國神社参拝」 については、政治家の参拝を非難する左翼系の学者や文化人の中に、 「中国が抗議したのは、A級戦犯を合祀したからだ」 と言う人がいますが、これは稚拙であり罪作りな嘘です。 國神社が 「A級戦犯」 とされた人々を合祀したのは昭和53年(1978)10月でした。 それから昭和60年(1985)まで3人の首相(大平正芳、鈴木善幸、中曾根康弘)が延べ22回参拝していますが、昭和60年まで、中国は1度も抗議していません(A級戦犯合祀は翌年に朝日新聞によって報道されている)。 また 「天皇陛下でさえ、A級戦犯合祀以来、参拝されていない」 と言う人もいますが、天皇陛下の國神社への行幸がなくなったのは、昭和51年(1976)からです。 実はその前年(昭和50年【1975】)、三木武夫首相の参拝について 「私人としてのものか、公人としてのものか」 とマスコミが大騒ぎをしたことがありました。 昭和天皇が終戦記念日に國神社を親拝しなくなった理由は分かりませんが、もしかしたら 「自分が行けば、私人としてか公人としてかという騒ぎが大きくなる」 と案じたのかもしれません。 戦時徴用工強制労働の嘘 昭和40年(1965)頃から、在日朝鮮人と在日韓国人が 「自分たちは戦争中に強制連行されてきた」 と主張し始めました。 これもまた嘘です。 確かに戦争中 「戦時徴用」 として 朝鮮人労働者を国内の工場などに派遣した事実はありますが、戦時徴用は日本の中学生や女学生にも行われていました。 しかも日本の学生に払われた給料は僅かなものでしたが、朝鮮人労働者には正規の給料が支払われていました。 また徴用工が送られるのは、労働管理の整備された場所に限られていました。 「外国人を徴用工として使うのは酷い」 と言う人もいるが、当時、朝鮮人は法的には日本人・日本国民であったことを忘れてはなりません。 また同じ頃、日本人男性は徴兵で戦場に送られていましたが、朝鮮人が徴兵されたのは昭和19年(1944)になってからで、しかも訓練中に終戦を迎えたため、ほとんどが戦場には送られていません。 戦時徴用も終戦前の7カ月だけでした。 そして終戦後に彼らのほとんどは朝鮮へ帰国しています。 昭和34年(1959)に外務省が発表したデータによりますと、当時、日本国内にいた在日朝鮮人・在日韓国人は約61万人、そのうち戦時徴用で国内にとどまっていた人は僅かに245人でした(在日朝鮮人・在日韓国人全体の0.04%)。 つまり99.96%の在日朝鮮人・在日韓国人は 「職を求めて」 自由意思で日本にやって来た人たちだったのです。 しかもその中の多くが朝鮮戦争の時に密航してやってきた人たちでした。 「在日朝鮮人・在日韓国人の多くは戦争中に強制連行された人、あるいはその子孫」 という嘘は、最初は彼ら自身が言い始めたことでしたが、これを左翼系のマスメディアや学者らがあたかも歴史的事実であるかのように広めたのでした。 そのため、現在でもこれを真実と思い込んでいる日本人が少なくありません。 GHQの 「WGIP」 は今も日本人の心と日本の言論空間を蝕んでいると言えるのです。 第二次世界大戦中への流れを眺める時、なぜ人類はこれを止めることが出来なかったのだろうかと、絶望的な気持ちになります。 世界は第一次世界大戦を遥かに上回る規模の大戦争へと突入し、日本もアメリカと戦争を始め、中国と西太平洋が戦場となりました。 日本が戦争への道を進まずに済む方法はなかったのでしょうかー。 私たちが歴史を学ぶ理由は実はここにあります。 特に近現代史を見る時には、その視点が不可欠です。 歴史を事実を知るだけの学問と捉えるなら、それを学ぶ意味はありません。 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」 これはドイツの名宰相オットー・フォン・ビスマルクの言葉です。 もっともこれは原文をかなり意訳したもので、正確に訳すと次のような文章になります。 「愚かな者は自分の経験から学ぶと信じているばかりだ」 「私は最初から自分の過ちを避けるために、他人の経験から学ぶことを好む」 私たちもまた先人の経験から、悲劇を避ける術を学ばなくてはなりません。 全面戦争へ 「支那事変」 は確固たる目的がないままに行われた戦争でした。 乱暴な言い方をすれば、中国人の度重なるテロ行為に、お灸をすえてやるという世論に押される形で戦闘行為に入ったものの、気が付けば全面的な戦いになっていたという計画性も戦略もない愚かなものでした。 名称だけは 「事変」 となっていましたが、最早完全な戦争でした。 しかもこの戦いは現地の軍の主導で行われ、政府がそれを止めることが出来ないでいるという異常なものでもありました。 そこには5・15事件や2・26事件の影響があるのは明らかです。 支那事変が始まった翌年の昭和13年(1938)には、 「国家総動員法」(昭和13年(1938)4月1日に公布、5月5日に施行) が成立しました。 これは 「戦時に際して、労働力や物資割り当てなどの統制・運用を、議会の審議を経ずに勅令で行うことが出来るようにした法律」 です。 具体的には、国家は国民を自由に徴用でき、あらゆる物資や価格を統制し、言論を制限し得るといった恐るべき法律でした。 ちなみにこの法案の審議中、趣旨説明をした佐藤賢了陸軍中佐の余りに長い答弁に、衆議院議員たちから抗議の声が上がったところで、佐藤が 「黙れ!」 と一喝したことがありました。 この時、議員たちの脳裏に2年前1936年の2・26事件が浮かんだことは容易に想像できます。 佐藤の恫喝後、誰も異議を挟まなくなり、狂気の法案は僅か1カ月で成立しました。 国力の全てを中国との戦争に注ぎ込もうと考えていた日本は、この年昭和13年(1938)、2年後に東京で開催予定であった 「オリンピック」 と 「万国博覧会」(万博) を返上します。 これは、最早世界の国々と仲良く手を結んでいこうという意思がないことを内外に宣言したに等しい決断でした。 このオリンピックと万博の返上は陸軍の強い希望であったと言われています。 暴れるドイツ 同じ昭和13年(1938)、ヨーロッパではドイツがオーストリアを併合し、チェコスロバキアのズデーテン地方を要求する事態となっていました。 チェコは拒否しますが、ヒトラーは戦争をしてでも奪うと宣言します。 イギリスとフランスの首相がヒトラーと会談しましたが(ミュンヘン会談)、英仏両国は、チェコを犠牲にすれば戦争を回避できると考え、ヒトラーの要求を全面的に受け入れます。 そのためにチェコは自国領土の一部をむざむざとドイツに奪われました。 イギリスとフランスが取った 「宥和政策」 は当時、ヨーロッパの平和を維持するための現実的で勇気ある判断として大いに評価され、ミュンヘン会談を終えてロンドン郊外のクロイドン空港に降り立ったチェンバレン首相を、イギリス国民は大歓迎しました。 しかしこの 「宥和政策」 は、結果的にドイツに時間的、資金的な猶予を与えただけのものとなりました。 結果論ではありますが、この時、イギリスとフランスが軍備を拡充して敢然とヒトラーに対峙していたならば、第二次世界大戦は避けられたかもしれません。 仮に戦争になったとしても、全ヨーロッパが火の海となり、夥しい死者が出る悲惨な状況にはならなかったと思われます。 狂気の独裁者に対して宥和政策を取るということは、一見、危険を回避したように見えますが、より大きな危険を招くことにも繋がるという一種の教訓です。 ドイツは易々とズデーテン地方を奪った後、チェコスロバキアの制圧に乗り出しています。 スロバキアに独立を宣言させ、チェコも保護下に置きながら、最終的には昭和14年(1939)3月、軍事侵攻して全土を占領しました。 そしてチェコ最大のシュコダ財閥の軍需工場を接収し、兵器を大量に増産すると、ソ連と 「独ソ不可侵条約」 を結んだ上で、昭和14年(1939)9月1日にポーランドに電撃的に侵攻しました。 おぞましいことに、ヒトラーとスターリンは事前にポーランドの分割を話し合っていたのです。 ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリスとフランスは、完全に面子を潰され、2日後昭和14年(1939)9月3日、ドイツに宣戦布告しました。 ここに第二次世界大戦が幕を開けました。 第二次世界大戦 第二次世界大戦の始まりは奇妙なものでした。 イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告したものの、実際にドイツに攻め込むことはしなかったからです。 大西洋でのドイツ潜水艦による通商破壊戦の攻防はありましたが、8カ月間、陸上での戦いはほとんどありませんでした。 そのためイギリスでは 「まやかし戦争」(Phoney War)、 フランスでは 「奇妙な戦争」(Drole de guerre) と呼ばれました。 つまりイギリスもフランスも、建前上、ドイツに宣戦布告したものの、本心は戦争をする気などなかったのです。 イギリス国民の多くは、その年昭和15年(1940)暮れには戦争が終るだろうと考えていました。 当時、ドイツ軍は主力を東部戦線に移しており、イギリス軍とフランス軍が一挙に攻め込めば、ドイツ軍は総崩れになったであろうと言われています。 ドイツ軍首脳は、フランスとの国境線に大軍を配備しおくべきと主張しましたが、英仏のそれまでの宥和的態度から、戦う意思がないと見抜いていたヒトラーは、西部戦線をがら空きにして主力をポーランドに集中させます。 ドイツはポーランドを完全に制圧すると、今度は主力を西武戦線に移し、昭和15年(1940)5月、英仏軍に一気に襲い掛かりました。 両国軍はあっという間に撃破され、イギリス軍はヨーロッパ大陸から駆逐され、フランスは首都パリと国土の5分の3を占領されました。 ドイツ軍の破竹の進撃を見たイタリアもイギリス、フランスに宣戦布告しました。 驚異的な軍事力によってあっという間に西ヨーロッパを席巻したドイツの勢いを目の当たりにした日本陸軍内に、 「バスに乗り遅れるな」 という声が生まれ、一種の流行語となりました。 このことを深く憂慮した昭和天皇は、親英米派で日独伊三国同盟には反対の立場を取っていた海軍大将米内光政を内閣総理大臣に推挙しました(形式上は湯浅倉平内大臣の推挙)。 昭和天皇が個人名を挙げて首相に推挙するのは例のないことです。 如何に昭和天皇がドイツやイタリアとの同盟に反対していたかの証左です。 しかし昭和15年(1940)6月にドイツがフランスを降伏させると、陸軍は倒閣運動を行い、同年昭和15年(1940)7月に米内内閣を総辞職に追い込みました。 新たに誕生した第2次近衛内閣は同年昭和15年(1940)9月に 「日独伊三国同盟」 を締結します。 朝日新聞は、これを一大慶事のように報じました。 しかしこの同盟は、実質的には日本に特段のメリットはなく、アメリカとの関係を決定的に悪くしただけの、実に愚かな選択だったと言わざるを得ません。 もっともアメリカのルーズベルト民主党政権はこれ以前から、日本を敵視し、様々な圧力を掛けていました。 前年の昭和14年(1939)には、日米通商航海条約破棄を通告し、航空機用ガソリン製造設備と技術の輸出を禁止していました。 また、アメリカやイギリスは、日本と戦闘状態にあった中華民国を支援しており、 「援蒋ルート」 を使って軍需物資などを送り続けていました。 「援蒋ルート」 は主に4つありましたが、最大は 「仏印(フランス領インドシナ)ルート」 と呼ばれたもので、ハノイと昆明を結んでいました。 日本は仏印ルートの遮断を目的として、昭和15年(1940)、北部仏印(現在のベトナム北部)に軍を進出させました。 これはフランスのヴィシー政権(昭和15年【1940】)にドイツに降伏した後、中部フランスの町ヴィシーに成立させた政府)と条約を結んで行ったものでしたが、アメリカとイギリスは、ヴィシー政権はドイツの傀儡であり日本との条約は無効だと抗議しました。 しかし日本はそれを無視して駐留を続けたのです。 「援蒋ルート」 を潰されたアメリカは、日本への敵意を露わにし、同年昭和15年(1940)、特殊工作機械と石油製品の輸出を制限、更に航空機用ガソリンと屑鉄の輸出を全面禁止しました。 アメリカから 「対日経済制裁」 の宣告を受けた日本は、石油が禁輸された場合を考え、オランダ領インドシナの油田権益の獲得を目論みます。 当時、オランダ本国は既にドイツに占領されていましたが、植民地のインドシナはロンドンのオランダ亡命政府の統治下にありました。 翌昭和16年(1941)、日本軍は更に南部仏印(現在のベトナム南部)へと進出しました。 アメリカのルーズベルト政権はこれを対米戦争の準備行動と見做し、在米日本資産凍結令を発布します。 イギリスとオランダもこれに倣いました。 そして同年昭和16年(1941)8月、アメリカは遂に日本への石油輸出を全面的に禁止したのです。 当時、日本は石油消費量の約8割をアメリカから輸入していました。 それを止められるということは、息の根を止められるのに等しいことでした。 日本はオランダ領のインドネシアから石油を輸入しようとしましたが、オランダ亡命政府(当時はイギリスからカナダに拠点を移していた)は、アメリカとイギリスの意向を汲んで日本には石油を売りませんでした。 この時、日本の石油備蓄は約半年分だったと言われています。 つまり半年後に日本は軍艦も飛行機も満足に動かせない状況に陥るということでした。 もちろん国民生活も成り立たなくなります。 まさに国家と国民の死活問題でした。 日本は必死で戦争回避の道を探りますが、ルーズベルト政権には妥協するつもりはありませんでした。 それどころかルーズベルト政権は日本を戦争に引きずり込みたいと考えていたと指摘する歴史家もいます。 アメリカがいつから日本を仮想敵国としたのかは、判然としませんが、大正10〜11年(1921〜1922)のワシントン会議の席で、強引に日英同盟を破棄させた頃には、いずれ日本と戦うことを想定していたと考えられます。 その底意を見抜けず、日英同盟を破棄して、お飾りの平和を謳った 「四カ国条約」 を締結して良しとした日本政府の行動は、国際感覚が致命的に欠如していたとしか言いようがありません。 それから約20年後の昭和14年(1939)には、アメリカははっきりと日米開戦を想定していたと言えます。 ただルーズベルト大統領は、第二次世界大戦が始まっていた昭和15年(1940)の大統領選(慣例を破っての3期目の選挙)で、 「自分が選ばれれば、外国との戦争はしない」 という公約を掲げて当選していただけに、自分から戦争を始めるわけにはいかなかったのです。 彼は 「日本から戦争を仕掛けさせる方法」 を探っていたはずで、日本への石油の全面禁輸はそのための策の1つだったのでしょう。 開戦前夜 日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策しました。 アメリカと戦って勝てないことは政府も軍も分かっていたからです。 しかし日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難しました。 満州事変【1931年(昭和6年、民国20年)9月18日〜1933年(昭和8年)5月31日】以来、新聞では戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わすことが常となっていました。 中には荒唐無稽な創作記事も数多くありました。 東京日日新聞(現在の毎日新聞)の 「百人斬り」 の記事などはその典型です。 これは支那事変【1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端とする日本と中華民国の間で起こった武力衝突】で陸軍の2人の少尉が、 「どちらが先に敵を100人斬るかという競争をした」 という事実誤認に満ちた根拠薄弱な内容でした。 しかし戦後、この記事が原因で、2人の少尉は南京軍事法廷で死刑判決を受け、銃殺刑に処されています(毎日新聞は現在も記事の内容は真実であったと主張している)。 ちなみに 「日独伊三国同盟」 を積極的に推したのも新聞社でした。 そんな中、昭和16年(1941)11月27日、アメリカのルーズベルト政権はそれまでの交渉を無視するかのように、日本に対して強硬な文書を突き付けてきました。 この文書は当時の国務長官コーデル・ハルの名前をとって 「ハル・ノート」 と呼ばれていますが、最も重要な部分は、 「日本が仏印と中国から全面撤退する」 という項目でした。 これは日本としては絶対に呑めない条件でした。 この時点で、日米開戦は不可避になったと言えます。 実はこのハル・ノートを見た日本軍首脳部の開戦派は、 「天祐」(天の加護。天の助け。天助。) と言ったとされています。 つまり 「戦争をするしかない」 状況になったからです。 それまで戦争を回避したいと考えていた閣僚らも開戦に強く反対しなくなり、アメリカとの戦争には消極的な立場を取っていた海軍もここで開戦の決意を固めたと言われています。 とは言っても、ハル・ノート受領の前日には、択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)から聯合艦隊の空母部隊がハワイに向けて出撃しています(攻撃決定は【昭和16年(1941)12月2日】。 艦隊が単冠湾に集結したのが【昭和16年(1941)11月22日】、真珠湾攻撃のための猛訓練を始めたのが【昭和16年(1941)5月】であったことを見れば、日本政府が戦争回避を試みる一方、軍は戦争開始の準備を着々と進めていたことが分かります。 ただし、ハル・ノートの解釈については後年議論の的になっている点があります。 「日本が中国から撤退」 という要求の文章の 「中国」 についてです。 原文は 「China」 となっていますが、この 「China」 が中華民国を指すのか、それとも満州まで含めた地域を指すのかが明確にされていなかったのです。 日本側は 「満州」 を含めた地域と解釈しましたが、実はアメリカ側は、満州は考慮に入れていなかったとも言われています。 戦後、この経緯を調べたピューリッツァー賞受賞作家のジョン・トーランドは、当時の日本の閣僚らに、もし満州を含まないと知っていたら開戦していたかと訊ねています。 すると多くの人は、 「それならハル・ノートを受諾した」 「開戦を急がなかったであろう」 と答えています。 もっとも、何としても日本を戦争に引きずり込みたいと考えていたルーズベルトは、別の手段で日本を追い込んだに違いありません。 とまれ賽は投げられました。 真珠湾攻撃 昭和16年(1941)12月8日未明、聯合艦隊の空母から飛び立った日本海軍の航空隊はハワイの真珠湾に停泊するアメリカ艦隊を攻撃しました。 日本軍は戦艦4隻を撃沈し、基地航空部隊をほぼ全滅させます。 ただ、この時、在アメリカ日本大使館員の不手際で宣戦布告が攻撃後になってしまいました。 同日、台湾から海軍の航空隊が出撃し、フィリピンのクラーク基地のアメリカ航空部隊を全滅させています。 更に同日、日本陸軍はマレー半島に上陸し、イギリス軍をも打ち破っています。 日本がアメリカとイギリスに対して同時に開戦したのは、オランダ領インドネシアの石油を奪うためでした。 そのためにはシンガポールのイギリス軍を撃破しなければならず、また手に入れた石油を日本に送るのに東シナ海を通るため、その航路を遮る位置にあるアメリカのクラーク基地を無力化する必要がありました。 真珠湾のアメリカ艦隊を叩いたのも同じ理由からです。 同日、日本はアメリカとイギリスに対して宣戦布告を行いました。 同時に支那事変も正式に戦争となりました。 ここに至りインドシナ半島や太平洋を含めた史上最大規模の大戦争の火蓋が切られたのです。 日本軍は緒戦だけは用意周到に作戦を練っていましたが、大局的な見通しは全くありませんでした。 そもそも工業力が10倍以上も違うアメリカとの長期戦では100%勝ち目はありません。 しかしハル・ノートを受け入れれば、日本は座して死を待つことになりかねません。 そうなれば、70年前の幕末の悪夢が再びやって来る恐れがありました。 欧米の植民地にされてしまうという恐怖です。 当時の世界は、現代とは比べ物にならないほど、露骨な弱肉強食の原理で動いていました。 アジア、アフリカ、南米に有色人種の独立国はほとんどなく、多くの有色人種たちがひたすら搾取され、奴隷のような扱いを受けていました。 ヨーロッパの白人種の国でも弱小国はソ連やドイツに次々に解体されていきました。 何しろ国際連盟で 「人種差別撤廃」 の規約が否決された時代です。 国力を失った有色人種の極東の島国の運命は暗澹たるものになると、日本の政府や軍人たちが危惧したのも無理はありません。 後の話になりますが、戦後、アメリカ軍の南西太平洋司令長官であり、日本占領軍の最高司令官でもあったダグラス・マッカーサーは、昭和26年(1951)、アメリカ上院軍事外交合同委員会の場において、 「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのものだった」 と述べています。 つまり敵将さえもが、先の大戦は日本の侵略ではなく自衛のための戦争であったと明言したのです。 日本の真珠湾攻撃はルーズベルト大統領にとっては願ったり叶ったりでした。 彼は 「日本軍は宣戦布告なしの卑怯な攻撃を行った」 と、アメリカ国民に強く訴えます。 ここで戦争反対だったアメリカの世論が一夜にして 「リメンバー・パール・ハーバー」 の合言葉と共に変じ、一気に戦争へと向かっていったのです。 ところで、現代のアメリカ人の中にも、広島・長崎への原爆投下と東京大空襲は日本の汚い攻撃に対する報復だと言う人は少なくありませんし、日本人の中にも真珠湾攻撃は騙し討ちだったと言う人がいます。 しかし有史以来、宣戦布告をしてから戦争を行ったケースは実はほとんどないのです。 第一次世界大戦と第二次世界大戦がむしろ例外的と言っていいでしょう。 当のアメリカも幾度も戦争をしていますが、そのほとんどの場合、宣戦布告なしに攻撃を行っています。 つまり真珠湾攻撃を卑怯なやり口と言い募ったのは、完全なプロパガンダなのです。 ちなみに戦争終結間際にソ連は 「日ソ中立条約」 を一方的に破棄して、日本に対して戦闘を開始しましたが、モスクワの駐ソ大使に宣戦布告文を手渡したのは攻撃の1時間前でした。 しかも駐ソ大使から日本本国への電報はソ連の電信局が送信しなかったため、実質的には奇襲攻撃となっています。 ただ残念なのは、そうした事態になることを恐れた聯合艦隊司令長官の山本五十六が、くれぐれも真珠湾攻撃の前に宣戦布告文書をアメリカに手渡すようにと言っていたにもかかわらず、ワシントンの日本大使館員らがそのことを重く受け止めていなかったことです。 日本の攻撃を喜んだ人物がもう1人いました。 イギリス首相のウィンストン・チャーチルです。 日米開戦の報告を受けたチャーチルは大喜びし、すぐにルーズベルトに電話しました。 ルーズベルトの 「今や我々は同じ船に乗ったわけです」 という言葉を聞いたチャーチルは、これで戦争に勝てると確信しました。 彼はこの時の興奮と喜びを後に回顧録『第二次大戦』で次のように書いています。 「感激と興奮とに満たされ、満足して私は床に就き、救われた気持ちで感謝しながら眠りに就いた」 更にこうも書いています。 「ヒトラーの運命は決まった」 「ムッソリーニの運命も決まったのだ」 「日本人について言うなら、彼らは粉々に打ち砕かれるだろう」 ドイツとイタリアに関しては個人の滅亡にのみ言及していますが、日本に対しては民族全体の運命に言及しています。 たまたまの表現なのかもしれませんが、私はチャーチルの白人種以外への差別意識が表われたと見ています。 ちなみに彼は昭和28年(1953)にこの回顧録でノーベル文学賞を受賞しています。 マッカーサー「自衛戦争」証言 http://tadashiirekishi.web.fc2.com/1951-60/1951_makasa_shogen.html 昭和26(1951)年5月、アメリカ上院の軍事外交合同委員会で、ダグラス・マッカーサーは以下の2つの重大な発言を行なった。 1.日本の戦争は自衛戦争であった 2.アメリカが過去100年に太平洋で犯した最大の政治的過ちは、共産主義者が支那において勢力を増大して行くのを黙過してしまったことである 1.「日本の戦争は自衛戦争であった」 原文と和訳は以下の通り "There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin. They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was karagely dictated by security." 和訳: 日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もないのです。 彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い、それら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。 もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。 したがって、彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてだったのことだったのです。 マッカーサーは実際に朝鮮戦争を戦って、ロシア(ソ連)、共産主義の脅威(明治維新以来ずっと日本が恐れていたもの)をやっと悟った。 マッカーサーは日本が戦争をせざるを得なかった理由をやっと理解できたのである。 しかし、呆れたことにこれほど重大な証言を報じた日本の大新聞は当時も今も皆無である。 NHK、民放などのテレビ局も完璧に無視している。 何を恐れているのだろうか。 報道するとまずいことになると考えていることだけは事実だろう。 アメリカに対する気兼ねか、それとも支那に対する気兼ねか? 東條英機は宣誓供述書で 「断じて日本は侵略戦争をしたのではない」 「自衛戦争をしたのである」 「国家自衛のために起つという事がただ1つ残された途であった」 と語ったが、それはこのマッカーサーの米議会証言録と重なるもので、最終的に東條とマッカーサーは同じ見解を披露したことになる。 2.「アメリカが過去100年に太平洋で犯した最大の政治的過ちは、共産主義者が支那において勢力を増大して行くのを黙過してしまったことである」 アメリカは日本の勢力を支那大陸、満州、朝鮮から駆逐したことで自分たちの目標を達成したかに見える。 しかしその結果アメリカは過去半世紀にこの地域で日本が直面し、対処してきた問題と責任を日本に代わって引き受けなくてはならなくなっただけだ、と述べたアメリカ外交官ジョージ・ケナンと同じ後悔を述べたわけである。 フィリピンで日本に完敗したダグラス・マッカーサーは、日本に恨みを持ち、復讐心に燃えていた。 後に日本が原爆を落とされて負けて、マッカーサーがやって来た時、彼はその恨みを晴らすべく、 「日本は悪いものだ」 と信じきって東京裁判をやらせ、自分たちの意向を反映させた日本国憲法を作らせて日本を骨抜きにした。 ところが朝鮮戦争が起こって事態は一変する。 その時、彼は初めて東京裁判で弁護側が言った事が全て本当だったのだと気付く。 そして満州にも支那に対しても、日本がやったようにやらなければならないという結論に達する。 しかし当時の大統領・トルーマンは、ソ連と戦争になることを恐れて、マッカーサーを解任してアメリカに戻した。 その後、アメリカはマッカーサーが予言したように朝鮮半島で負け始め、何とか38度線まで押し返したところで戦争は終結する。 そしてアメリカに帰国したマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会という最も公式の場で、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語ったのである。 マッカーサーは前年に東京裁判が誤りだったと発言している。 戦争目的を失った日本 開戦4日後の昭和16年(1941)12月12日、日本はこの戦争を 「大東亜戦争」 と名付けると閣議決定しました。 従って、この戦争の正式名称は 「大東亜戦争」 です。 現代、一般に使われている 「太平洋戦争」 という名称は、実は戦後に占領軍が強制したものです。 「大東亜戦争」 は前述したように緒戦は日本軍の連戦連勝でした。 開戦と同時にアメリカの真珠湾とフィリピンのクラーク基地を叩き、3日目にはイギリスの東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという2隻の戦艦を航空攻撃で沈めました。 更に難攻不落と言われていたイギリスのシンガポール要塞を陥落させました。 そしてこの戦争の主目的であったオランダ領インドネシアの石油施設を奪うことに成功します。 日本軍がパレンバンの油田を占領したと聞いた東条英機首相は、 「これで石油問題は解決した」 と言いましたが、彼も政府(そして軍)も、油田を占領することと石油を手に入れることは同じではないということに気付いていませんでした。 結論を言えば、日本はせっかく奪った油田から、多くの石油を日本国内に輸送することができなかったのです。 開戦前、日本政府はインドネシアの石油やボーキサイト(アルミニウムの原料)を日本に送り届けるための輸送船を民間から徴用することに決めていました。 しかし軍が必要とするだけの数を徴用すると、日本国内の流通に支障を来すため、軍は 「半年だけ」 という条件で無理矢理に民間船を徴用したのです。 ところが、インドネシアからの石油などの物資を運ぶ輸送船や油槽船が、アメリカの潜水艦によって次々と沈められる事態となります。 それでも海軍は、輸送船の護衛など一顧だにせず、聯合艦隊の誇る優秀な駆逐艦が護衛に付くことは一切ありませんでした。 「聯合艦隊はアメリカの太平洋艦隊を撃破するためのもので、鈍足の輸送船を護衛するためのものではない」 というのが上層部の考えだったからです。 海軍は、かつて日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅させて日露戦争に勝利したように、大東亜戦争もアメリカの太平洋艦隊を壊滅させれば終結すると考えていました。 そのため艦隊決戦こそが何よりも優先されるという思い込みを持っており、輸送船の護衛などは考えもしなかったのです。 海軍では船舶の護衛任務を 「くされ士官の捨て所」 と呼んで軽侮していましたし、陸軍にも 「輜重輸卒(しちょうゆそつ:物資の輸送をする兵)が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち」 と輜重兵を馬鹿にしたざれ歌がありました。 戦争が、輸送や生産も含めた総力戦であるという理解が欠如していたのです。 身を守る手段のない輸送船は大量に撃沈されました。 それで 「半年だけ」 という約束は反故にされ、軍は更に民間船を徴用することになります。 そのため戦場では勝利を収めながらも、国内経済は行き詰まっていくという矛盾した状況に陥りました。 石油を含む物資の不足が、工業生産力の低下を招き、戦争継続が困難な状況になったにもかかわらず、軍はその辺りを全く把握・理解出来ていませんでした。 驚くべきデータがあります。 公益財団法人「日本殉職者船員顕彰会」の調べによれば大東亜戦争で失われた徴用船は、商船3575隻、機帆船2070隻、魚船1595隻、戦没した船員と漁民は6万人以上に上ります。 その損耗率は何と約43%です。 これは陸軍兵士の損耗率約20%、海軍兵士の損耗率約16%を遥かに超えています。 彼ら民間の船員たちは、海外から石油を含む貴重な物資を命懸けで運んだにもかかわらず、石油は軍に優先的に回され、国民には満足に行き渡りませんでした。 それでも軍需物資の不足に悩む政府は、昭和17年(1942)5月に、金属類回収令を発動し、寺の梵鐘、橋の欄干、銅像、更に一般家庭にある余った鍋釜や鉄瓶、火箸に至るまで強制的に供出させたのです。 これにより国民生活は一層逼迫しました。 この時点で、戦争継続は不可能な状況と言えました。 ミッドウェー海戦と言霊主義 昭和17年(1942)6月、聯合艦隊はミッドウェー海戦で、主力空母4隻を失うという致命的な大敗を喫しました。 この戦いは運に見放された面もありましたが、日本海軍の驕りと油断が多分にあったことも確かです。 例えば開戦前のシミュレーションの際、日本の空母に爆弾が命中して攻撃能力を失う事態に陥った時、参謀の1人が空母の被害を低めに修正させて図上演習を続けています。 また作戦前に 「もし敵空母がやってきたら」 と問われた航空参謀は、 「鎧袖一触(がいしゅういっしょく)です」 とこともなげに答えていたという話もあります。 「鎧袖一触」 とは 「刀を抜くまでもなく、鎧の袖を当てただけで相手を倒してしまう」 という意味の言葉です。 ここには具体的な対策案はありません。 単なる思い込みです。 その発言が事実であったかどうかは不明ですが、ミッドウェー海戦全体を改めて眺めると、そこには上層部の油断や傲慢が随所に見られます。 そして私はここに 「言霊主義」 の悪しき面を見ます。 つまり 「悪い結果は口にしないし、想定もしない」 で、 「良い事だけを言う」 という日本人に特有の精神です。 この後も、日本軍は 「言霊主義」 に囚われ、太平洋の各戦場で独りよがりの作戦を立てて敗北を重ねていきます。 もう1つ日本軍の大きな欠点は情報を軽視したことです。 その典型が昭和17年(1942)8月に始まったガダルカナル島攻防戦でした。 この島をアメリカ軍に奪われたと聞いた大本営は直ちに奪回を試みますが、アメリカ軍の兵力を2000人くらいと根拠もなく見積もり、それなら900人ほどで勝てるだろうと一木支隊を送り込みました。 敵の半分の兵力で勝てると考えるのも大いに問題ですが、実際にはアメリカ軍は1万3000人もいたのです。 また日本軍が持っていない重砲などを装備していました。 アメリカ軍陣地に突撃した800人の兵士のうち777人が一夜にして死亡しました。 その報を受けた大本営は、それではと今度は5000人を送り込みます。 しかしアメリカ軍は更に1万8000人まで増強していました。 結局、ガダルカナル島を巡る攻防戦は半年近くに渡って行われ、日本軍は夥しい人的被害を出し、大量の航空機と艦艇を失って敗退します。 しかもガダルカナル島で亡くなった陸軍兵の多くは餓死でした。 この戦いでは、日本の誇る世界最強の戦艦である大和と武蔵は1度も出撃していません。 兵力を温存したかったという理由もありますが、石油不足のために動かせなかった(大和型戦艦は大量に重油を消費する)という面もありました。 輸送船を護衛しなかったツケが開戦後1年も経たないうちに回ってきたのです。 無意味な戦い 昭和18年(1943)の時点で、日本の国内経済は既にガタガタになっており、生産力は著しく低下していました。 アメリカとの戦争継続の見通しはかなり厳しくなっていましたが、アメリカの本格的な反攻がなかったためか、講和の画策をした形跡がありません。 一方、中国大陸に限っては戦いを有利に進めていました。 ただアメリカはその1年を間休んでいたわけでは決してありませんでした。 ヨーロッパ戦線を戦いながら、日本への反攻準備を着々と整えていたのです。 一番の武器は大型空母でした。 真珠湾攻撃を見て空母の有効性を確認したアメリカは、大型空母(エセックス級と呼ばれるもので、第二次世界大戦中の最強の空母)の建造を大幅に増やしたのです。 その結果、アメリカが終戦までの間に18隻ものエセックス級空母を就役させたのに対し、日本が戦争中に就役させて実戦に投入できた正規空母は1隻のみでした。 ちなみに開戦時、アメリカが保有していた中型以上の空母は7隻、日本は6隻でしたが、アメリカは大西洋にも空母を展開していたので、太平洋側では日本が優勢でした。 しかし僅か3年で大逆転しました。 昭和19年(1944)6月に行われたマリアナ沖海戦で、新型空母をずらりと揃えたアメリカの機動部隊の前に、日本の聯合艦隊は完敗を喫します。 その戦力差は最早圧倒的と言えるほど開いていました。 この戦いで大本営が掲げていた絶対国防圏が破られ、サイパン島が奪われました。 これは日本の命運を握られたとも言える事態でした。 というのも、サイパンからは大型爆撃機B-29が直接日本を空襲することが可能だったからです。 この時、国務大臣でもあった岸信介(戦後、首相になる)らは 「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産出来ず、軍需次官としての責任を全う出来ないから講和すべし」 と首相の東條英機に進言しました。 東條は 「ならば辞職せよ」 と言いましたが、岸は断固拒絶しました。 東條の腹心だった東京憲兵隊長が岸の私邸を訪れ、軍刀をがちゃつかせて恫喝しても岸は動じませんでした。 結果、閣内不一致となり、同年昭和19年(1944)7月、東條内閣はサイパン失陥の責任を取る形で総辞職となります。 現代でもメディアや文化人などが、東條英機をヒトラーやムッソリーニなどの独裁者と同列に並べることがありますが、この一事を見てもそうではないことが分かります。 日本は戦争中であっても議院内閣制を堅持していたのです。 後の評論家の多くは、この時に不利な条件でも講和すべきだったと言いますが、既にこの時点ではアメリカは無条件降伏に近いものしか認めなかったでしょうし、大本営と陸軍がそれを呑んだとは考えられません。 つまるところ、行き着く所まで行く運命にあったと言えるのです。 神風特攻隊 日本は中国大陸での戦いでは常に優勢でしたが、昭和19年(1944)秋の時点で、アメリカを相手にした太平洋での戦いは最早絶望的でした。 聯合艦隊はほとんどの空母を失っており、強大な空母部隊を擁するアメリカ艦隊に対抗できる力などあるはずもなかったのですが、それでも降伏しない限りは戦い続けなくてはなりませんでした。 同年昭和19年(1944)10月、日本はフィリピンでアメリカ軍を迎え撃ちます。 追い詰められた日本海軍は、人類史上初めて航空機による自爆攻撃を作戦として行いました。 神風特攻隊です。 神風特攻隊は最初はフィリピンでの戦いの限定的作戦でしたが、予想外の戦果を挙げたことから、なし崩し的に通常作戦の中に組み入れられました。 しかし陸海軍の必死の攻撃の甲斐も無く、フィリピンはアメリカに奪われ、日本陸軍兵士51万8000人が戦病死します。 フィリピンを奪われたことで、南方と日本を繋ぐシーレーンは完全に途絶え、遂に石油は1滴も入って来ない状態となりました。 もっともその前から護衛の無い日本の油槽船はアメリカの潜水艦の餌食となっていて、昭和19年(1944)には、インドネシアから国内へ送られた原油は僅か79万リットルでした(戦前、アメリカから輸入していた原油は年間500万リットル)。 最早戦争どころか国民生活さえ維持できない状況となっていたのです。 翌昭和20年(1945)、アメリカ軍は遂に沖縄にやってきました。 日本軍は沖縄を守るために、沖縄本島を中心とした南西諸島に7万以上の兵士を配置しました。 更に陸軍と海軍合わせて約2000機の特攻機が出撃しました。 また聯合艦隊で唯一残った戦力と言える戦艦大和も出撃しましたが、延べ400機近いアメリカ空母艦載機の攻撃により、坊ノ岬沖であえなく沈められました。 戦後の今日、 「日本は沖縄を捨て石にした」 と言う人がいますが、これは完全な誤りです。 日本は、沖縄を守るために最後の力を振り絞って戦ったのです。 もし捨て石にするつもりだったなら、飛行機も大和もガソリンも重油も本土防空及び本土決戦のために温存したでしょう。 沖縄は不幸なことに地上戦となり、約9万4000人もの民間人が亡くなりました。 沖縄出身の兵士は2万8000人以上がなくなっていますが、沖縄以外の出身の兵士も約6万6000人が亡くなっています。 決して沖縄を捨て石になどしていなかったのです。 悪魔の如きアメリカ軍 アメリカ軍は沖縄を攻略する前に、昭和20年(1945)3月に東京大空襲を行っています。 これはアメリカが日本の戦意を挫くために、一般市民の大量虐殺を狙って行われたものでした。 この作戦を成功させるために、アメリカ軍は関東大震災や江戸時代の明暦の大火についてまで調べ、どこを燃やせば日本人を効果的に焼き殺せるかを事前に研究し尽くして、空襲場所を浅草区、深川区、本所区などを中心とする民家密集地帯に決めました。 またどのような焼夷弾が有効かを確かめるために、ユタ州の砂漠に日本の民家を建てて作り、実験まで行っています。 その家の中には、ハワイから呼び寄せた日系人の職人に、布団、畳、障子、卓袱台までしつらえさせるという徹底ぶりでした。 そしてサイパン基地から300機のB-29に爆弾を積めるだけ積んで出撃し(そのため機銃まで降ろしていた)、昭和20年(1945)3月9日の深夜から10日の未明にかけて、2000メートルという低空から東京都民に爆弾の雨を降らせたのです。 その結果、一夜にして老人、女性、子供などの非戦闘員が10万人以上殺されました。 これはハーグ陸戦条約に違反した明白な戦争犯罪行為です。 昭和20年(1945)5月にドイツが無条件降伏し、世界を相手に戦っているのは日本のみとなりました。 東京はその後も何度か大空襲に遭い、全土が焼け野原となりました。 アメリカ軍は昭和20年(1945)5月に東京を爆撃目標リストから外したほどです。 被害に遭ったのは東京だけではありません。 大阪、名古屋、福岡など、日本の主要都市は軒並み焦土にされ、全国の道府県、430の市町村が空襲に遭いました。 アメリカ軍の戦闘機は逃げ惑う市民を、動物をハンティングするように銃撃しました。 空襲による死者数は、調査によってバラツキがありますが、数十万人と言われています。 アメリカ軍による最も残虐な空襲は、昭和20年(1945)8月に、広島と長崎に落とした2発の原子爆弾(原爆)でした。 これも無辜の一般市民の大量虐殺を意図したもので、明白な戦争犯罪です。 この時点では日本の降伏は目前だったにもかかわらず、人類史上最悪の非道な行為に及んだことは許し難いものがあります。 しかし今もアメリカ人の多くは 「原爆投下は正しかった」 と考えています。 その理由は原爆のお陰で戦争が早期に集結し、多くのアメリカ兵の命が救われたからというものです。 実に利己的な考え方ですが、広島と長崎に原爆を投下した本当の目的はそれではありません。 もし原爆の威力を見せつけることで日本に戦争終結を迫りたいなら、人口密集地に投下しなくてもよかったはずですし、仮に都市に投下するなら事前に告知して住民が退避する時間を与えるということも出来たはずです。 これは何も私の考えではありません。 実際に、アメリカ国内で原爆の関係者(原爆に関する諮問機関である暫定委員会のメンバー)が政府に提言していた内容です。 しかし残念なことに、それらの提言は取り上げられることはなく、広島と長崎に原爆は投下されました(長崎は当初の目的地である小倉上空が雲で覆われていたため、第2候補地であった長崎に投下された)。 原爆投下の目的の第1は、原爆の効果を知るためであったと言っていいでしょう。 その根拠は、原爆投下候補地には通常の空爆を行っていなかったことが挙げられます。 ちなみに京都がほとんど空襲されなかったのも候補地の1つであったからです。 アメリカ軍が文化財を守るため、京都、奈良などの古都を空爆しなかったという話がありますが、これは完全な誤りです。 この誤解に便乗し、中国人の建築家がアメリカに対して 「京都、奈良を空爆しないように進言した」 という話がありますが、これは悪質な捏造です。 何より忘れてはならないのは、原爆投下には有色人種に対する差別が根底に見えるということです。 仮にドイツが徹底抗戦していたとしても、アメリカはドイツには落とさなかったでしょう。 大東亜戦争が始まった途端、アメリカは約8割の日系アメリカ人(アメリカ市民)の財産を剥奪し、強制キャンプに送りましたが、第二次世界大戦中もドイツ系アメリカ人に対しては特に制約をしていません(ナチスへの協力者は除く)。 昭和19年(1944)9月にニューヨークのハイドパークで行われたルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の 「核に関する秘密協定」 において、原爆はドイツではなく、日本へ投下することを確認し合っています。 原爆投下のもう1つの目的は、ソ連に対しての示威行為です。 アメリカは戦後の対ソ外交を有利に運ぶために原爆投下を昭和20年(1945)の5月には決定していました。 原爆はソ連に対して何よりの軍事的威圧になると見ていたからです。 2発目の原爆が落とされた昭和20年(1945)8月9日、ソ連が 「日ソ中立条約」 を破って参戦しました。 最早日本が戦争を継続するのは不可能でした。 5日後の昭和20年(1945)8月14日、日本は 「ポツダム宣言」 を受諾すると連合軍に通達します。 ここに日本が3年9カ月戦った大東亜戦争の終わりが決定しました(同時に8年続いた支那事変も終結)。 古代以来、1度も敗れることがなかった日本にとって初めての敗北でした。 同時に、16世紀より続いていた欧米列強による植民地支配を跳ね返し、唯一独立を保った最後の有色人種が、遂に白人種に屈した瞬間でもありました。 「大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった」 と言う人がいますが、この見方は誤りです。 というより、正確な意味での侵略ではありません。 日本は中国以外のアジア諸国とは戦争をしていないからです。 日本が戦った相手は、フィリピンを植民地としていたアメリカであり、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスであり、インドネシアを植民地としていたオランダであり、マレーシアとシンガポールとビルマを植民地としていたイギリスでした。 日本が 「大東亜共栄圏」 という理想を抱いていたのは確かです。 「大東亜共栄圏」 とは、日本を指導者として、欧米諸国をアジアから排斥し、中華民国、満州、ベトナム、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ビルマ、インドを含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る政策でした。 昭和18年(1943)には東京で、中華民国、満州国、インド、フィリピン、タイ、ビルマの国家的有力者を招いて 「大東亜会議」 を開催しています。 また同年昭和18年(1943)8月1日にビルマを、昭和18年(1943)10月14日にフィリピンの独立を承認しています(ただし、アメリカとイギリスは認めなかった)。 残念ながら日本の敗戦により、 「大東亜共栄圏」 が実現されることはありませんでしたが、戦後、アメリカやイギリスなど旧宗主国は再びアジアの国々を支配することはできず、アジア諸国の多くが独立を果たしました。 この世界史上における画期的な事実を踏まえることなく、短絡的に 「日本はアジアを侵略した」 と言うのは典型的な自虐史観による見方です。 日本国憲法 昭和20年(1945)8月、アメリカ軍を主力とする連合国軍が日本の占領を開始しました。 連合国軍とは言っても実質的にはアメリカ軍による単独占領で、ダグラス・マッカーサーを最高司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters。以下GHQと表記)が東京に置かれました。 占領政策は狡猾で、表向きはGHQの指令・勧告によって日本政府が政治を行う間接統治の形式を取りましたが、重要な事項に関する権限はほとんど与えませんでした。 GHQの最大目的は、日本を2度とアメリカに刃向かえない国に改造することでした。 そこで、明治以降、日本人が苦心して作り上げた政治の仕組みを解体し、憲法を作り替えることに着手しました。 同年昭和20年(1945)10月、GHQは日本政府に対し、大日本帝国憲法を改正して新憲法を作るように指示します。 これは実質的には大日本帝国憲法破棄の命令に近いものでした。 幣原喜重郎内閣は改正の草案を作りましたが、発表前に毎日新聞社に内容をスクープされてしまいます。 草案の中に 「天皇の統治権」 を認める条文があるのを見たマッカーサーは不快感を示し、GHQの民生局に独自の憲法草案の作成を命じました。 もちろんこの時、 「戦争放棄条項」 がマッカーサーの念頭にあったことは言うまでもありません。 ハリー・S・トルーマン政権の方針に基づいて民生局のメンバー25人が都内の図書館で、アメリカの独立宣言やドイツのワイマール憲法、ソ連のスターン憲法などを参考にして草案をまとめあげました。 中にはほとんど丸写しという文章もありました。 メンバーの中に憲法学を修めた人は1人もいませんでした。 しかし驚いたことに、そんな彼らが1国の憲法の草案を僅か9日で作ったのです(日数については諸説あり、最短6日という説もある)。 本来、憲法というものは、その国の持つ伝統、国家観、歴史観、宗教観を含む多くの価値観が色濃く反映されたものであって然るべきです。 ところが日本国憲法には、第1条に 「天皇」 のことが書かれている以外、日本らしさを感じさせる条文はほぼありません。 しかもこのようにして作られた憲法には、今日まで議論の的になっている条項、いわゆる 「9条」 があります。 それは次の2項から成っています。 「(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」 「(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」 いわゆる 「戦争放棄」 として知られるこの条項は、マッカーサーの強い意向で盛り込まれたものでしたが、さすがに民生局のメンバーからも、 「憲法にこんな条項があれば、他国に攻められた時、自衛の手段がないではないか」 と反対する声が上がったと言われています。 そのため、 「前項の目的を達するため」 という文言が追加され(芦田修正)、自衛のために戦力を保持することが出来るという解釈を可能とする条文に修正されましたが、日本人の自衛の権利すら封じる旨を謳っていることには変わりがありませんでした。 GHQはこの憲法草案を強引に日本側に押し付けました。 内閣は大いに動揺しますが、草案を吞まなければ天皇の戦争責任追及に及ぶであろうことは誰もが容易に推測できました。 現代においても、日本国憲法はGHQから押し付けられたものではないと主張する日本の野党政治家及びリベラルの学者や文化人は少なくありませんが、GHQが残した多くの資料がそれを否定しています。 例えば、江藤淳はメリーランド州スートランドにあるアメリカ国立公文書館分室から、GHQのG-2(参謀第2部)の指揮下にあったCCD(民間検閲支隊)が昭和21年(1946)11月25日に出した検閲指針(A Brief Explanation of the Categories of Deletions and Suppressions,dated 25 November,1946,The National Records Center,資料番号 RG 331, Box No.8568)を見付けています。 それはGHQが新聞や映画などで削除または発行禁止処分の対象となる項目を略説したものですが、その中の(三)に、以下の文章があります。 「SCAP(Supreme Commander for the Allied Powers:連合国軍最高司令官つまりマッカーサー)が憲法を起草したことに対する批判」 つまりGHQ自らが、日本国憲法を起草したのはマッカーサー(及び部下たち)であるとはっきりと書いているのです。 しかもそのことに対する批判は削除または発行禁止処分になるとまで言っています。 後にマッカーサーは 「9条を提案したのは幣原喜重郎首相だ」 と言い出し、幣原喜重郎自身も 「戦争放棄9条をマッカーサーに進言した」 という意味のことを言っています。 つまり9条はマッカーサーと幣原喜重郎の秘密会談で生まれたということですが、それはあり得ません。 何故なら、日本の非武装はトルーマン政権及びマッカーサーの断固とした意思であり、 「戦争放棄」 についてはマッカーサーが民政局長に手渡したとされる指示ノートに残されています。 マッカーサーは昭和28年(1953)の談話の中で次のように語っています。 「占領軍が撤退し、日本人の思い通りになる状況が生まれた途端に、彼らは押し付けられた憲法を捨て去ろうとするだろう」 「これほど確かなことはない」 (ジョージ・H・ブレイクスリー『極東委員会ー国際協力の研究』より) つまりマッカーサーは日本人に 「憲法9条は押し付けられたものではない」 というイメージを植え付けておくことが大事だったのです。 ただ、幣原喜重郎がマッカーサーに9条のアイデアを語った可能性はあります。 昭和26年(1951)に、幣原喜重郎の元秘書官で当時衆議院議員だった平野三郎の質問に答えて語っている中に、戦争放棄に関する狂信的とも言える考えが吐露されているからです。 その一部を紹介しましょう。 「非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である」 (中略) 「要するに世界は今1人の狂人を必要としているということである」 「何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことが出来ないのである」 「これは素晴らしい狂人である」 「世界史の扉を開く狂人である」 「その歴史的使命を日本が果たすのだ」 (『平野文書』より) 幣原喜重郎の言葉は、憲法9条が絶対的正義であるとする現代の護憲派の人たちの考え方と酷似しています。 この時、平野が 「軍隊のない丸裸の所へ敵が攻めて来たら、どうするという訳なのですか」 と訊いていますが、幣原喜重郎の答えは 「死中に活」 というものでした。 意味が分からない平野が重ねて問うと、幣原喜重郎はこう答えています。 「戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」 ここには既に論理はありません。 敢えて言うならば、宗教的な妄想に近い考えになっています。 侵略国家に対して、自衛の力を持たない国家や民族がどのような悲惨な運命を辿って来たかは、世界史を繙けば一目瞭然です。 そもそも幣原喜重郎という人物は、かつてワシントン会議においてアメリカの策略に乗って日英同盟を破棄して名ばかりの 「四カ国条約」 を締結した張本人であり、満州や中国で日本人居留民が中国人から度々嫌がらせを受けても、 「自重するように」 と言い続けた外相(当時)です。 恐らく若い頃から、戦争を忌避すれば平和が訪れるという思想の持ち主だったのかもしれません。 それで前述したようにマッカーサーとの会談で、そうした話をした可能性はあります。 しかし繰り返しますが、日本の戦争放棄はアメリカの既定路線でした。 新憲法は、手続き上は大日本帝国憲法を改正する形式を取り、衆議院と貴族院で修正可決された後、日本国憲法として昭和21年(1946)11月3日に公布され、翌年昭和22年(1947)5月3日に施行されました。 ここで、絶対に知っておいて頂きたい事があります。 アメリカを含む世界44カ国が調印している 「ハーグ陸戦条約」 には、 「占領国は占領地の現行法を尊重する」 と書かれています。 つまり、GHQが日本の憲法草案を作ったというこの行為自体が、明確に国際条約違反なのです。 ちなみに西ドイツも日本と同じように連合国によって強引に憲法を押し付けられています。 しかしそこには決定的とも言える違いがあります。 ドイツへ押し付けた憲法には 「交戦権」 を奪っていないことです。 そこには日本あるいは有色人種に対する明確な差別意識が窺えます。 第二次世界大戦中も、アメリカは日系移民(国籍はアメリカ市民)の私有財産を奪った上、強制収容所に送りましたが、ドイツ系やイタリア系の移民に対してはそんな事は一切行っていません。 この時、日系移民の若者(男子)たちは、アメリカに対する忠誠を誓うため、軍に志願してヨーロッパ戦線で戦いました。 日系アメリカ人2世が主力の 「442連隊戦闘団」 連合国軍の中で最も勇敢な部隊として知られ、アメリカ合衆国史上最も多くの勲章を受けました。 しかしその死傷率は300パーセントを超えるものでした(連隊の定員の3倍以上の死傷者を生んだ)。 その凄まじい数字を見ただけで、彼らの多くはアメリカで生まれ育ちましたが、日本の侍の心を持った男たちでした。 そして彼らはその合言葉 「Go for broke!」(当たって砕けろ!) と共に、文字通りその命を懸けて、アメリカに日本人の素晴らしさを示したのです。 後にトルーマン大統領が 「諸君は敵のみならず、偏見とも戦って、勝利した」 とい言葉を贈りましたが、「もって瞑すべし:(宿願を果たして)それで安心して死ぬことができる」と思います。 前述したように 「日本国憲法」 はGHQの恫喝によって押し付けられました。 当時の日本政府には、これを拒否する力はありませんでした。 具体的に言えば、その日は昭和21年(1946)2月13日です。 この日の午前10時、外務大臣官邸を訪れたGHQ民生局のホイットニー准将らが外務大臣の吉田茂と国務大臣の松本烝治と終戦連絡事務局参与の白洲次郎らに、 「日本国憲法」 と題された草案を渡し、 「これはマッカーサーが日本の事情が必要としている諸原理を具現すべきものとしている」 と言いました。 そして 「君たちが草案を読んでいる間、我々は退席する」 と言って部屋を出ました。 3人はGHQが憲法草案を作っていたことにも驚きましたが、その内容を読んで愕然とします。 そこには 「戦力の保持は認めない」 「土地は国有とする」 「議会は一院制にする」 といった衝撃の内容が数々含まれていたからです。 (「土地の国有化」や「一院制」に関しては日本側の要望で削除されたが、それらはGHQも織り込み済みで、敢えていくつかそうした取引材料を入れていたとされる) この時、白洲次郎が庭に出ていたホイットニー准将をつかまえると、彼は白洲次郎に向かってこう言いました。 「原子力(アトミック・エナジー)の暖かさをエンジョイしていたよ」(We have been enjoying your atomic sunshine.) 太陽の熱をわざと原子力(atomic)と表現したのは、白洲次郎に原子力爆弾を連想させる意図に他なりません。 更にこの時間帯に合わせて、東京上空に爆撃機B-25を飛ばせていたのです。 これは余りにもあからさまな恫喝です。 白洲次郎は 「血が逆流する思いであった」 と述べています。 部屋に戻ったホイットニーは、吉田らに対して 「この草案が受け入れられれば、天皇の地位は安泰になるだろう」 と言いました。 つまり言い換えれば、拒否すれば天皇の命も保証できないというものです。 日本は草案を呑む以外に道はありませんでした。 これは屈辱の歴史です。 ところがその憲法を私たちは70年以上経った今も改正していませんが、実はこれは世界の中でも極めて異常なことです。 憲法は絶対不変なものではなく、時代に合わせて必要なものを付け加え、不要なものは削除するというのは世界の常識です。 ちなみに第二次世界大戦後、令和2年(2020)の時点で、アメリカは6回、フランスは27回、イタリアは16回、韓国は9回、憲法を改正しています。 ソ連や中国といった共産主義国でさえ何度も改正しています。 日本と同じく連合国軍によって憲法を押し付けられたドイツは65回も改正しています。 しかし日本は押し付けられた憲法をまるで聖典のように扱い、一字一句変えることなく、現代に至っているのです。 最早非占領国ではなく、連合国軍が統治する国ではないにもかかわらずです。 教職追放 GHQの行った思想弾圧で、後の日本に最も大きな影響を与えたのは 「教職追放」 でした。 GHQは占領直後から、帝国大学で指導的立場にあった教授(多くは愛国者や保守的な思想の持ち主)、あるいはGHQの政策に批判的な教授を次々に追放しました。 「WGIP:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語:War Guilt Information Program) を日本人に完全に植え付けるためには、教育界を押さえる必要があると考えたからです。 代わってGHQが指名した人物を帝国大学に入れましたが、その多くは戦前に共産党員であったり、無政府主義的な論文を書いたりして大学から処分された人たちでした。 戦前、 「森戸事件」(東京大学の森戸辰男が無政府主義の宣伝をした事件) に関係して東京大学を辞めさせられた大内兵衛(戦後、東京大学に復帰、後、法政大学総長)、戦前、無政府主義的な講演をして京都大学を辞めさせられた(滝川事件)滝川幸辰(戦後、京都大学総長)など、多くの者がGHQの後ろ盾を得て、結果的に 「WGIP:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語:War Guilt Information Program) の推進者となり、東大、京大を含む有名大学を支配していくことになります。 一方、追放を免れた者も、これ以降はGHQの政策に批判的な事を口にしなくなったばかりか、帝国大学においては、共産主義に阿る教授や社会主義者に転向する者、変節する学者が続出しました。 特に酷かったのは東京帝国大学で、昭和21年(1946)、憲法学者の宮沢俊義は 「八月革命説」 を唱えて、日本国憲法(1946年11月3日に”公布”、1947年5月3日に”施行”)の正当性を論じました。 「八月革命説」 とは、簡単に言えば、 「ポツダム宣言の受諾によって、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したもので、日本国憲法はGHQによって押し付けられたものではなく、日本国民が制定した憲法である」 という説です。 現在でも、この説は東大の憲法学の教授らによって引き継がれ、その教え子たちによって全国の大学の法学部に広く行き渡り、司法試験などの受験界では 「宮沢説」 が通説となっています。 また国際法学者として東京大学に君臨した横田喜三郎は、東京裁判の正当性を肯定しています。 もちろん彼の説も、その後、弟子たちによって東京大学及び全国の大学に脈々と継承されています。 余談ですが、横田はGHQによる占領中に 「天皇を否定する」 内容の本(『天皇制』)を書いて出版しました。 しかし後年、最高裁長官に任命され、勲一等旭日大綬章が貰えそうになった時、門下生に命じて神田の古書店で自著を買い集めさせ、証拠隠滅のために個人焚書したのです。 何とも恥知らずな話ですが、見方を変えれば、己の信念や研究成果をもって書いた学説ではなかったという証です。 憲法学者の宮沢俊義も、最初は、 「日本国憲法の制定は日本国民が自発的自主的に行ったものではない」 と主張していましたが、ある日突然、正反対の意見を言い出した学者です。 その変わり身の早さから、恐らくGHQの教職追放を目の当たりにして、慌てて転向したものと思われます(宮沢は戦前にも軍部に阿って主張を変えた過去がある)。 悲しいのは、その後、日本の憲法学界をリードする東京大学の法学部の教授たちが、その宮沢の学説を半世紀以上に渡って継承し続けているということです。 そして東京大学法学部からは、戦後も数多くの官僚を排出しています。 「自虐史観」 に染まった教授たち(一部は保身のためGHQに阿った)から 「日本国憲法は日本人が自主的に作った」 「東京裁判は正しい」 という教育を受けた人たちが、文部科学省や外務省の官僚になるということの方がむしろ、恐ろしいことです。 「教職追放」 は大学だけでなく、高校、中学、小学校でも行われました。 最終的に自主的な退職も含めて約12万人もの教職員が教育現場から去ったと言われています。 その多くが愛国心を隠さなかったり、保守的な考えを持ったりした者で、特に戦前の師範学校出身者が多かったとも言われています。 その結果、教育界は社会主義者が支配するようになり、昭和22年(1947)に生まれた日本教職員組合(日教組)は、完全に左翼系運動組織となりました。 後に日教組の書記長となり、30年に渡ってトップの座にあった槙枝元文は、当時、国交がなかった北朝鮮を何度も訪問し、金日成から勲章まで授けられています。 こうして戦後の日本の教育界は左翼系の人々に乗っ取られた形となったのです。 公職追放 GHQが次に行ったのが 「公職追放」(公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令) です。 GHQにとって好ましからざる人物と判断した人たちを様々な職場から追放したのです。 対象者は、 「戦犯」 や 「職業軍人」 など7項目に該当する人物でしたが、GHQが気に入らない人物は、それだけで追放処分となりました。 昭和21年(1946)、自由党総裁だった鳩山一郎は、首班(首相)指名を受ける直前に公職追放により政界から追放されました。 表向きの理由は昭和5年(1930)の 「統帥権干犯問題」 での鳩山の発言でしたが(軍部の暴走を助長することになったとされた)、本当の理由は別にあったと言われています。 鳩山は昭和20年(1945)、アメリカの原爆投下に批判的とも取れるインタビュー記事が朝日新聞に載ったことで、GHQから睨まれていたのです。 ちなみにこの時、朝日新聞は2日間の発行停止処分を受け、それ以降、朝日新聞はアメリカやGHQを批判する記事を一切書かなくなりました。 戦後初の総選挙で第1党となった政党の総裁さえ簡単に追放してしまうGHQの恐ろしさに、以降、GHQの政策に異議を唱える政治家はほとんどいなくなってしまいました。 また名称こそ 「公職追放」 となっていましたが、実際は公職だけでなく民間企業からも追放されました。 当時、日本は貧しく、ほとんどの人が食うや食わずの生活で、社会保障の制度もありません。 職を失うことは、まさしく死活問題でした。 政治家と言えども、その恐怖に怯えたのも無理はありません。 GHQは新聞社や出版社からも多くの人物を追放しました。 それは言論人や文化人にも及びました。 菊池寛(作家、「文藝春秋」創刊者)、正力松太郎(読売新聞社社長)、円谷英二(映画監督)、山岡荘八(作家)などの著名人の他、無名の記者や編集者も多くいました。 代わりにGHQの指名によって入って来たのは、彼らの覚えめでたき人物たちでした。 これにより、多くの大学、新聞社、出版社に、 「自虐史観」 が浸透し、GHQの占領が終わった後も、そうした思想が徐々に一般国民に行き渡っていくことになります。 大学や新聞社で追放を免れた人たちの中にも、追放を恐れてGHQの政策に対して批判的な事を口にする者はいなくなりました。 GHQの公職追放はその後も財界、教育界、言論界と広い範囲で行われ、その数は約20万6000人に及びましたが、追放を担当したG-2(参謀第2部)だけで、それだけの人数を処理できるはずはありません。 追放に協力した日本人が多数いたことは間違いなく、彼らの多くは共産党員並びにそのシンパであったと言われています。 前述の教職追放の時も、同じ日本人同士の密告や讒訴(ざんそ: 他人を陥れようとして、事実を曲げて言い付けること)が頻繁にあり、そうした空気を嫌って多くの教員が自主的に職場を去っています。 また政治家の間でも、GHQを使って政敵を追い落としたケースがありました。 ちなみに前述の焚書にも、左翼系学者や言論人の協力があったことは言うまでもありません。 こうした事実を見ると、 「教職追放」 や 「公職追放」 は、単に思想的な問題だけではなく、日本人の誇りとモラルを破壊したものだったということが分かります。 公職追放及び教職追放は、GHQにとっても大きな誤算となりました。 GHQの後押しによってメディアと教育界に入り込んだ社会主義者や共産主義者たちが大きな勢力を持ち始めたからです。 一般企業でも労働組合が強くなり、全国各地で暴力を伴う労働争議が頻発しました。 これらはソ連の指示があったとも言われています。 更に昭和24年(1949)、中国共産党が国民党に勝利して共産主義国を樹立したことにより、日本の大学やメディアでもソ連や中華人民共和国を礼賛する傾向が強くなりました。 日本の共産化を恐れたGHQは、昭和25年(1950)、日本共産党の非合法化を示唆します。 その後、官公庁、大企業、教育機関などから、共産主義者及びそのシンパの追放を勧告しました(レッドパージ)。 これにより1万数千人以上の人が様々な職場から追放されましたが、それらはかつての公職追放や教職追放のような徹底したものではありませんでした。 大学では共産主義者及びそのシンパの追放はほとんど行われませんでした。 メディアも同様でした。 また国鉄(日本国有鉄道。その後、JR各社に分かれる)の巨大労働組織で長年に渡り国民の血税を貪り続けた国労(国鉄労働組合)などでは、共産主義者らが、共産主義に反対する人々を、逆に共産主義者だと名指しして解雇し、実権を握りました。 こうして共産主義的な思想は日本社会の至る所に深く根を降ろしていくことになります。 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム GHQが行った対日占領政策の中で問題にしたいのが、日本国民に 「戦争責任」 を徹底的に伝える 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語:War Guilt Information Program) でした。 分かり易く言えば、 「戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画」 です。 これは日本人の精神を粉々にし、2度とアメリカに戦いを挑んでこないようにするためのものでした。 「極東軍事裁判」(東京裁判) もその1つと言えます。 そして、これらの施策は結果的に日本人の精神を見事に破壊しました。 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」 という言葉は、文芸評論家の江藤淳が昭和58年(1983)から月刊誌「諸君!」に連載した『閉ざされた空間』で使った呼称ですが、彼はGHQの内部文書から、占領軍がそうした意図を持っていたことを明らかにしました。 同連載は平成元年(1989)に書籍化されましたが、言論史を塗り替える画期的な本となりました。 その後、教育学者の高橋史郎や翻訳家の関野通夫らが多くの1次資料を発掘し、江藤の説を裏付けています。 同書が明らかにした事は紛れもない事実で、実際、昭和20年(1945)10月2日に発せられたGHQの一般命令書の中に、 「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在及び将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」 と明記されています。 GHQはその方針に従って、自分たちの意に添わぬ新聞や書物を発行した新聞社や出版社を厳しく処罰しました。 江藤がアメリカ国立公文書館分室で見付けた前述の文書には、禁止項目は全部で30もありました。 禁止事項の第1は 「GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部及び最高司令官)に対する批判」 です。 2番目は 「東京裁判に対する批判」、 3番目は 「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」 でした。 アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、中華民国、その他の連合国に対する批判も禁じられていました。 更に何故か朝鮮人に対する批判も禁止事項に含まれていました。 占領軍兵士による犯罪の報道も禁じられ、またナショナリズムや大東亜共栄圏を評価すること、日本の戦争や戦犯を擁護することも禁じられました。 新聞や雑誌にこうした記事が載れば、全面的に書き換えを命じられました。 GHQの検閲は個人の手紙や電話にまで及びました。 進駐軍の残虐行為を手紙に書いたことで、逮捕された者もいます。 スターリン時代のソ連ほどではありませんでしたが、戦後の日本に言論の自由は全くありませんでした。 こうした厳しい検閲を、日本語が堪能でないGHQのメンバーだけで行えたはずがありません。 多くの日本人協力者がいたことは公然の秘密でした。 一説には4000人の日本人が関わったと言われています。 更にGHQは戦前に出版されていた書物を7000点以上も焚書しました。 焚書とは、支配者や政府が自分たちの意に添わぬ、あるいは都合の悪い書物を焼却することで、最悪の文化破壊の1つです。 歴史上では秦の始皇帝とナチスが行った焚書が知られていますが、GHQの焚書も悪質さにおいてそれに勝るとも劣らないものでした。 驚くべきは、これに抵抗する者には警察力の行使が認められており、違反者には10年以下の懲役もしくは罰金という重罰が科せられていたことです。 もちろん、この焚書にも多くの日本人協力者がいました。 特に大きく関与したのは、日本政府から協力要請を受けた東京大学の文学部だと言われています。 東京大学の文学部内には戦犯調査のための委員会もあったとされていますが、この問題を占領の終了後もマスメディアが全く取り上げようとしないのは実に不可解です。 検閲や焚書を含むこれらの言論弾圧は 「ポツダム宣言」 に違反する行為でした。 「ポツダム宣言」 の第10項には 「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権は確立されるべきである」 と記されています。 つまりGHQは明白な 「ポツダム宣言」 違反を犯しているにもかかわらず、当時の日本人は一言の抵抗すらできなかったのです。 「大東亜戦争」 という言葉も使用を禁止されました。 GHQは 「太平洋戦争」 という名称を使うよう命じ、出版物に 「大東亜戦争」 という言葉を使えば処罰されたのです。 これは事実認識の点で非常に問題のある措置でした。 というのも、日本政府が閣議決定した 「大東亜戦争」 という呼称は、日中戦争から対米戦、ポツダム宣言受諾までの一連の戦争の総称ですが、 「太平洋戦争」 と言うと、中国大陸や東南アジアでの戦いが含まれないことになります。 しかも、 「太平洋戦争」 という呼称は、世界史で言えば、19世紀終盤に南米で起きたボリビア、ペルー、チリの戦争を指すのが一般的です。 GHQが 「大東亜戦争」 という呼称を禁じたのは、日本が欧米諸国に支配されていたアジアの解放を謳う意味で使った 「大東亜共栄圏」 を構築するための戦争であったというイメージを払拭させるためです。 GHQはたとえ大義名分であったとしても 「アジアの解放」 のための戦争であったと言われるのを嫌ったのです。 この検閲は7年間続きましたが、この時の国民の恐怖が国民の心の中に深く残ったためか、現在でも、マスメディアは決して 「大東亜戦争」 とは表記せず、国民の多くにも 「大東亜戦争」 と言うのを躊躇する空気があります。 如何にGHQの検閲と処罰が恐ろしかったかが想像できます。 『眞相はかうだ』による洗脳 GHQの 「WGIP:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語:War Guilt Information Program) は新聞とラジオ放送によっても行われました。 昭和20年(1945)12月8日(この日は真珠湾攻撃からちょうど4年目の日)より、全国の新聞に 「太平洋戦争史」 というタイトルでGHQによる宣伝工作記事が連載され、その翌日からNHKラジオで 『眞相はかうだ』 という番組の放送が始まりました。 いずれも大東亜戦争中の政府や軍の腐敗・非道を暴くドキュメンタリーをドラマ風に描いたもので、国民は初めて知らされる 「真相」 に驚きました。 新聞連載もラジオ放送も、その目的は日本国民に 「太平洋戦争は中国をはじめとするアジアに対する侵略戦争であった」 ということを徹底的に刷り込むためのものでした。 『眞相はかうだ』 はGHQが全て台本を書いており(そのことは国民に知らされていなかった)、放送される内容も占領政策に都合のいいものでした。 GHQは翌年昭和21年(1946)も 『眞相箱』 『質問箱』 というタイトルで、約1年に渡り洗脳番組を放送し続けました(依然、GHQが制作していることは伏せられていた)。 GHQが巧妙だったのは、番組の中に時折、日本人の良い面を織り交ぜたことでした。 そうすることで内容に真実味を持たせたのです。 しかし戦前の政府や軍を批判する内容には、多くの虚偽が含まれていました。 当時も、これらの番組内容は真実ではないのではないかと疑義を抱く人はいました。 ところが、彼らが声を上げても、そうした記事は 「占領政策全般に対する破壊的批判」 と見做され、全文削除されていたのです。 かくの如く言論を完全に統制され、ラジオ放送によって(当時はインターネットもテレビもない)洗脳プログラムを流され続ければ、国民が 「戦前の日本」 を徹底的に否定し嫌悪するようになるのも無理からぬことです。 ただ、何より恐ろしいのは、この洗脳の深さです。 GHQの占領は7年間でしたが、それが終わって70年以上経った現在でも、 「歴史教科書」 などの影響もあり、多くの日本人が 「戦前の政府と軍部は最悪」 な存在で、 「大東亜戦争は悪辣非道な侵略戦争であった」 と無条件に思い込んでいます。 もちろん戦前の政府や軍部に過ちはありました。 しかし連合国にも過ちはあり、また大東亜戦争は決していわゆる 「侵略戦争」 ではありませんでした。 繰り返しますが、日本には中国を占領する意思はなく(人口と領土を考えても不可能であるし、またそうした作戦は取っていない)、またそれ以外のアジアの人々と戦争をしたわけではありません。 戦後、日本は僅か数年占領下においたアジア諸国に賠償金を支払いましたが、その国々を数十年から300年に渡って支配していたオランダ、イギリス、フランス、アメリカは、賠償金など一切払っていないばかりか、植民地支配を責められることも、少数の例を除いてはほとんどありません。 それは何故かー日本だけが誠意をもって謝罪したからです。 日本人には、自らの非を認めるにやぶさかでない、むしろ非を進んで認めることを潔しとする特有の性格があります。 他の国の人々と違って、謝罪を厭わないのです。 こうした民族性があるところへ、GHQの 「WGIP:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語:War Guilt Information Program) によって贖罪意識を強く植え付けられたことで、当然のようにアジア諸国に深い謝罪の意を表したのです(もちろん連合国が謝罪させた面もある)。 現代においても歴史学者や評論家の中には 「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(英語:War Guilt Information Program)など存在しない」 「WGIPは妄想の産物」 と断定する人が少なくありません。 しかしWGIPは陰謀論ではなく、厳然と存在するものです。 なぜならGHQの公式文書には、 「日本人にWGIPを植え付ける」 という文言が入った書類が多数残されているからです。 例えば、GHQの民間情報教育局(CIE)が昭和23年(1948)3月3日に出した文書のタイトルは、そのものずばり 「WGIPについて」 です。 そこには次のような文章があります。 「その任務を果たすためにCIEは1945年10月から1946年6月までの期間に第1段階のWGIPを開始した」 「このプログラムは日本の全ての公衆情報メディア、即ち新聞、書籍、雑誌、ラジオ、映画を通じて実施された」 (有馬哲夫著『日本人はなぜ自虐的になったのか』より) ここにはGHQ自身がはっきりとWGIPを開始したと書いています。 これほど明白な証拠はありません。 これはあくまで一例で、GHQが日本人にWGIPを植え付けようとしていたことが書かれている文書はいくらでも残っています。 WGIPを否定する人たちは、こうした1次資料を無視します。 あるいは 「ウォー・ギルトとは『戦争の有罪性』を説くもの」 という風に論理の摩り替えを行います。 ところで、このGHQの文書で注目すべきは、 「日本の全ての公衆情報メディア、即ち新聞、書籍、雑誌、ラジオ、映画を通じて実施された」 というくだりです。 実はWGIPを試みたのはGHQですが、その後、それを積極的に推し進めたのは、他ならぬ私たちの国のメディアだったのです。 更にそれを後押しした組織に 「教育界」 があります。 教職追放の後、大学やその他の教育機関にGHQに阿る教授や教諭が大量に入り、若者や子供たちに自虐思想を植え付けていきました。 メディアと教育による 「洗脳工作」 は、連合軍の占領期間中に弛まず行われました。 その結果、日本の若年層の間に、過剰に自己を否定する、いわゆる自虐史観が蔓延していきました。 そして後に彼らの中から、 「君が代」 や 「日の丸」 を否定する人々が大量に生まれました。 実に悔しいながら、日本人をマインドコントロールするGHQの占領政策は見事に成功したと言わざるを得ません。 ちなみに戦後、GHQに最も忠実な報道機関となったのが朝日新聞と毎日新聞です。 特に朝日新聞は自ら進んでGHQの政策を肯定し、マッカーサーを称賛しました。 昭和26年(1951)に彼が連合国軍最高司令官を解任され、アメリカに帰国する際にはこう書きました。 「我々に民主主義、平和主義の良さを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった」(昭和26年【1951】4月12日) まるで毛沢東か金日成を礼賛する共産主義国の機関紙のようです。 呆れたことに、この時、マッカーサーを顕彰する 「マッカーサー記念館」 を作ろうという提案がなされ、その発起人に当時の朝日新聞社長の長谷部忠が名を連ねています(毎日新聞社社長、本田親男の名前もある)。 朝日新聞社や毎日新聞社にとって、ダグラス・マッカーサーはそれほど偉大な人物であったということでしょう。 「ポツダム宣言受諾」 は、昭和20年(1945)8月9日の御前会議で決定されました。 場所は宮中御文庫附属庫の地下10メートルの防空壕内の15坪ほどの一室でした。 時刻は午後11時50分。 列席者は鈴木貫太郎首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、枢密院議長の7人でした(他に陪席4人)。 司会の首相を除く6人は、 「ポツダム宣言受諾派」(外務大臣・海軍大臣・枢密院議長) と 「徹底抗戦派」(陸軍大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長) の真っ二つに分かれました。 日本政府が 「ポツダム宣言」 を受諾すれば、昭和天皇は戦犯として処刑される可能性もありましたが、会議中、昭和天皇は一切発言しませんでした。 時に昭和天皇は44歳でした。 昭和天皇は、その生涯に渡って、 「君臨すれども親裁(君主自らが政治的な採決を下すこと)せず」 という姿勢を貫いていました。 「親裁」 とは、君主自らが政治的な採決を下すことです。 従って国民が選んだ内閣の決定には口を挟まないという原則を自らに課していたのです。 それを行えば専制君主となり、日本は立憲国ではなくなるという考えを持っていたからです。 昭和3年(1928)の 「張作霖爆殺」 に関する田中義一首相の報告に対して不満を述べたことで内閣が総辞職したことを反省し、以後は 「拒否権」 も含めて、 「親裁」(君主自らが政治的な採決を下すこと) は行いませんでした。 唯一の例外が、軍事クーデターである 「2・26事件」 の際に制圧せよと命じた時です。 大東亜戦争の開戦には反対だったにもかかわらず(開戦回避のため、水面下で努力していた)、開戦が決まった御前会議においては、内閣の決定に対して一言も異議を唱えませんでした。 「ポツダム宣言」 を巡っての会議は、 「徹底抗戦派」 と 「ポツダム宣言受諾派」 が共に譲らず、完全に膠着状態になりました。 日付が変わって昭和20年(1945)8月10日の午前2時を過ぎた頃、司会の鈴木貫太郎首相が、 「事態は一刻の遷延も許されません」 「誠に畏れ多いことながら、陛下の思し召しをお伺いして、意見をまとめたいと思います」 と言いました。 ずっと沈黙を守っていた昭和天皇は、 「それならば、自分の意見を言おう」 と、初めて口を開きました。 一同が緊張して見守る中、昭和天皇は言いました。 「自分は外務大臣の意見に賛成できる」 日本の敗戦が決まった瞬間でした。 恐ろしいまでの静寂の後、部屋にいた全員がすすり泣き、やがてそれは号泣に変わりました。 薄暗い地下壕で、11人の男たちが号泣する中、昭和天皇は絞り出すような声で言いました。 「大東亜戦争が始まってから陸海軍のしてきた事を見ると、予定と結果が大いに違う」 「今も陸軍大臣、陸軍参謀長と海軍軍令部総長は本土決戦で勝つ自信があると言っているが、自分は心配している」 「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまうのではないか」 「そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来ようか」 「自分の任務は祖先から受け継いだこの日本を子孫に伝えることである」 「今日となっては、1人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人たちが将来再び起ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う」 「そのためなら、自分はどうなっても構わない」 この時の御前会議の様子は、陪席した迫水久常書記官長(現在の内閣官房長官)が戦後に詳細を語ったテープが残っています(国立国会図書館所蔵)。 この録音を文字起こしした文章を読めば、当夜の異様な緊迫感がこれ以上はないくらいの臨場感をもって迫ってきます。 日本政府はその日昭和20年(1945)8月10日の朝、連合国軍に 「ポツダム宣言受諾」 を伝えますが、この時、 「国体護持」(天皇を中心とした秩序【政体】の護持) を条件に付けました。 連合国軍からの回答は昭和20年(1945)8月13日に来ましたが、その中に 「国体護持」 を保証する文言がなかったため(昭和天皇の処刑の可能性もあった)、政府は昭和20年(1945)8月14日正午に再び御前会議を開きます。 この時の列席者は、昭和20年(1945)8月9日の時の7人に加え、全閣僚を含む計23人でした。 この席上で 「(陛下を守れないなら)本土決戦やむなし」 という声が上がりますが、昭和天皇は静かに立ち上がって言いました。 「私の意見は変わらない」 「私自身は如何になろうとも、国民の生命を助けたいと思う」 最早列席者一同は慟哭するのみでした。 そして昭和天皇は最後にこう言いました。 「これから日本は再建しなくてはならない」 「それは難しい事であり、時間も長くかかるだろうが、国民が皆一つの家の者の心持になって努力すれば必ず出来るであろう」 「自分も国民と共に努力する」 (迫水久常内閣書記官長の証言録より) 同日昭和20年(1945)8月14日、 「ポツダム宣言受諾」 は閣議決定され、午後11時、連合国側へ通達されました。 こうして大東亜戦争は終結しました。 この歴史的な出来事の経緯と昭和天皇のお言葉が、今日、文科省が選定したどの歴史教科書にも書かれていないのは不可解としか言いようがありません。 従ってこの事を知っている日本人はほとんどいないのが実情です。 しかし、日本人であるならば、この事は永久に忘れてはならない事だと思います。 戦後、昭和天皇の戦争責任について様々な意見が出されてきました。 もちろん法的には責任は発生しませんが、この問題を語る前に、昭和天皇の政治に対するモットーについて述べたいと思います。 大日本帝国憲法の基本原則は、統治権は天皇が総覧( 全体に渡って目を通すこと)するが、実際の政治は政府が行うというものでした。 よって昭和天皇は、 「君臨すれども親裁(君主自らが政治的な採決を下すこと)せず」 という政治姿勢を貫いていました。 つまり昭和天皇は立憲君主であって、専制君主ではなかったのです。 昭和天皇は御前会議の場でも基本的に閣僚たちの意見を聞いているだけで、自らの意見を口にすることはありませんでした。 戦争中も、軍部が天皇大権である 「統帥権」【大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限(最高指揮権)】 を盾に、全ては天皇陛下の命令であるという体で国民を動かして戦争に突き進んだというのが実態でした。 昭和天皇がその生涯において、政治的な決断(親裁)を下したのは、2・26事件と終戦の時だけでした。 厳密に言えば、昭和3年(1928)の 「張作霖爆殺事件」 に対して不快感を露わにしたケースがありましたが、そのことで内閣が総辞職した結果を見て、昭和天皇は内閣の決定には拒否権を発動しない旨を自らに課していました(その後の昭和11年【1936】の「2・26事件」は軍の統帥権者として反乱軍の鎮圧を命じたもの)。 昭和20年(1945)9月27日、昭和天皇がアメリカ大使館でマッカーサーと初めて会談した時、マッカーサーは昭和天皇が命乞いをしに来たと思っていました。 ところが、そうではありませんでした。 昭和天皇はマッカーサーにこう言ったのです。 「私は、国民が戦争遂行に当たって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」 (『マッカーサー大戦回顧録』より) この時、同行していた通訳がまとめた昭和天皇の発言のメモに、後日、藤田尚徳侍従長が目を通し、回想録に次のように記しています。 「陛下は次の意味のことを元帥に伝えられている。 『敗戦に至った戦争の、色々の責任が追及されているが、責任は全て私にある』 『文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない』 『私の一身は、どうなろうと構わない』 『私はあなたにお任せする』 『この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』」 (『侍従長の回想』) マッカーサーは昭和天皇のこの言葉に深い感銘を受けます。 「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした」 「私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」 (『マッカーサー大戦回顧録』より) この時の会談の際、車で訪問した昭和天皇をマッカーサーは出迎えませんでした。 昭和天皇は戦犯候補に挙げられていたので、これは当然でした。 しかし帰る時にはマッカーサーは昭和天皇を玄関まで見送りに出ています。 恐らく会談中に昭和天皇の人柄に感服したためだと思われます。 「君臨すれども親裁(君主自らが政治的な採決を下すこと)せず」 という存在でありながら、同時に日本の 「統治権の総攬者」 であった昭和天皇の戦争責任というテーマは、イデオロギーや政治的な立ち位置によって見方が変わり、また永久に結論が出ない問題ではあります。 「ご聖断」 が遅過ぎたという声もあります。 しかし、仮に半年前に天皇が終戦を決断したとしても、連合国、特にアメリカ政府がそれに同意する保証はなく、日本の陸軍がそれを呑むこともなかったと思われます。 昭和20年(1945)8月14日の時点でさえ、陸軍の中には、更なる犠牲を出しても本土決戦をすべきと主張する者が何人もいたのです。 余談ですが、戦争中、昭和天皇は1度も皇居から離れませんでした。 東京は何度もアメリカ軍の大空襲を受けており、周囲の者は疎開を勧めましたが、昭和天皇は 「目の前で君臣が次々と死んでいくのに、なぜ朕だけが疎開などできようか」 と言い、頑として拒否しました。 昭和天皇は死を覚悟していたのです。
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