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自民・杉田水脈議員がまた炎上…教育勅語礼賛は無知・無教養の集積だ 古谷経衡 猫と保守と憂国
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/339631
2024/05/01 日刊ゲンダイ ※後段文字起こし
古谷経衡氏(提供写真)
自民党の杉田水脈議員が教育勅語を巡ってまた炎上である。いわく杉田氏が出席した集会で「全員で教育勅語を唱和。背筋が伸びる思いがしました」とのこと。杉田氏が昨年から特にこの手の言動をXに投稿している背景には、日本保守党の増勢により自身の影響力が低下してきていることの焦りがある。次の衆院選で仮に公認されても、安倍氏亡き後、比例順位で厚遇されるかは怪しい。下野を見越して保守界隈での影響力を担保しようという狙いがあるとみられる。
さてこの教育勅語、保守界隈では「聖典」のようになって久しい。森友学園がそうであったように教育勅語の精神性を堅持し、次代に伝えていくという活動は地場における保守活動の定番となっている。教育勅語にある父母愛の精神、兄弟愛の精神、国防の精神、尊皇の精神などを尊ぶことは、「現代日本にも通じる道徳訓話だ」というわけである。一方、教育勅語を引用して「戦前の日本人は道徳的に高度であった」という戦前礼賛のツールにもなっている。
教育勅語を額面で受け取り、この訓話があった戦前こそは素晴らしかったという解釈は、たんに素人がやることである。こういった道徳が戦前の日本人になかったからこそ、あの時代に教育勅語は必要であった。自明のことを勅語にする必要はない。皆が達成できていないからこそ、明治国家は教育勅語を必要としたのである。
明治期は尊属殺人の時代であった。親殺し、子殺しはもとより、経済破綻により身売りや育児放棄、一家離散が頻発して社会問題化した。現在のように最低限の社会福祉すら十分でなく、工業化した一部の大都市と、封建時代からの低生産と貧困にあえぐ農村部が併存し、これを「二重構造」と呼んだ。小作争議が極大し、都市と農村の格差は現在の比ではないほどすさまじかった。このような中で疲弊した農村部から天理教、金光教、大本教、黒住教などの新興宗教が勃興し、多くの人々が精神的な救いを求めた。やがてこれらは戦前社会において大勢力になっていく。
こうした道徳の疲弊から、1890(明治23)年に教育勅語が出されたのである。教育勅語をそのまま読んで、戦前社会の「徳」を語るのは無知と無教養の集積である。権力が示す道徳理念はその時代の「願望」に過ぎない。現在「多様性を尊重しよう」という標語があるのは、実際には多様性とはほど遠いからである。極めてシンプルなことだが無教養だとこれがわからない。
このような歴史修正主義を一部の保守人士が商売に使っている場合もある。本当に落ちたものだ。道徳が必要なのは他ならぬ杉田氏自身と思うのは私だけではあるまい。
古谷経衡 作家
1982年生まれ。立命館大学文学部史学科卒。令和政治社会問題研究所所長。「左翼も右翼もウソばかり」「日本を蝕む『極論』の正体」「毒親と絶縁する」「敗軍の名将」「シニア右翼」など著書多数。
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