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原発推進政策と同じように遺伝子導入剤(COVID-19ワクチン)も背景に米軍
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2024.03.13 櫻井ジャーナル
東北地方の太平洋沖で発生した大規模な地震によって東電福島第1原発が破壊され、全電源が失われて炉心が溶融したのは13年前の3月11日だった。「過渡期現象記録装置データ」から地震発生から約1分30秒後に冷却水の循環が急激に減少し、メルトダウンが始まる環境になったと元東電社員の木村俊雄は指摘していたが、同じように推測している専門家がいる。「津波」はその事実を隠蔽するために考えられた物語だとしか考えられない。
事故前に原子力安全基盤機構が作成した炉心溶融のシミュレーション映像を見ると、全電源喪失事故から30分ほど後にメルトダウンが始まると推測している。約1時間後には圧力容器の下にデブリ(溶融した炉心を含む塊)が溜まり、約3時間後に貫通して格納容器の床に落下、コンクリートを溶かしてさらに下のコンクリート床面へ落ち、格納容器の圧力が上昇、外部へガスが漏洩し始めるというシナリオだ。
日本は地震国であり、しばしば大規模な地震が起こってきた。地震が起こらない場所はないだろう。そうした場所に建設された原子力発電所が地震で破壊されることは必然であり、炉心溶融のような大事故が引き起こされるのは時間の問題だった。だからこそ少なからぬ原子力や地震の専門家が原発の危険性を訴えていたのだが、彼らも危機が迫っているとは考えていなかったようだ。
ところで、日本の原発は核兵器開発と密接に関係している。日本の核兵器開発は第2次世界大戦中に始まった。理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究は1943年1月にスタート、海軍も京都帝大とF研究を検討していた。仁科グループは1944年3月に濃縮実験を開始、福島県石川郡でのウラン採掘を決めている。海軍は上海の闇市場で130キログラムの二酸化ウランを手に入れたという。
その日本へドイツは1945年の初め、1200ポンド(約540キログラム)の二酸化ウランを潜水艦(U234)で運ぼうとしたが、5月1日にアメリカの軍艦に拿捕されてしまう。その際、潜水艦に乗り込んでいた日本人士官は自殺、そのウラン化合物はオーク・リッジへ運ばれたとされている。アドルフ・ヒトラーの側近、マルチン・ボルマンはこのUボートに対し、アメリカの東海岸へ向かわせ、暗号などを除く積み荷をアメリカ海軍へ引き渡すように命じていたという。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)
大戦後、日本は核開発を再開する。1954年3月に中曽根康弘は原子力予算(2億3500万円)を国会に提出、修正を経て予算案は4月に可決された。その背景には1953年12月にドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言があり、日本もその主張を踏襲しているが、実態は違った。
岸信介は1957年5月に参議院で「たとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈」として持っていると答弁、59年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張。岸の弟、佐藤栄作が総理大臣に就任すると、日本の核武装が具体的に検討され始めた。(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)
NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年に訪米した佐藤首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。こうした日本側の発言に対し、ジョンソン政権は日本に対し、思いとどまるよう伝えたという。
佐藤は1967年に訪米した際、「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守ると言うことを期待したい」と求め、ジョンソン大統領は「私が大統領である限り、我々の約束は守る」と答えたと言われている。この年、「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」が設立された。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日)
シーモア・ハーシュによると、1969年にスタートしたリチャード・ニクソン政権で大統領補佐官に就任したヘンリー・キッシンジャーは日本の核武装に前向きだった。彼はスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)
佐藤政権で核武装を目指し始めたグループは、10年から15年の期間で核武装できると想定、具体的な調査を始める。その中心は内閣調査室の主幹だった志垣民郎。調査項目には核爆弾製造、核分裂性物質製造、ロケット技術開発、誘導装置開発などが含まれ、技術的には容易に実現できるという結論に達している。原爆の原料として考えられていたプルトニウムは日本原子力発電所の東海発電所で生産することになっていたという。志垣らは高純度のプルトニウムを年間100キログラム余りを作れると見積もっていた。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日)
内閣調査室は1952年4月に創設され、国警本部警備第1課長だった村井順が初代室長に就任している。後に綜合警備保障を創設する人物だ。
村井は1953年9月から3カ月の予定で国外に出ているが、その名目は中曽根と同じようにスイスで開かれるMRA大会への出席だった。MRAはCIAの別働隊で、村井が国外へ出た本当の理由は西ドイツのボンに滞在していたアレン・ダレスCIA長官に会い、新情報機関に関する助言を得ることにあったとされている。
核武装については自衛隊も研究していたことが明らかになっている。1969年から71年にかけて海上自衛隊幕僚長を務めた内田一臣は、「個人的に」としているが、核兵器の研究をしていたと告白しているのだ。実際のところ、個人の意思を超えた動きも自衛隊の内部にあったとされている。(毎日新聞、1994年8月2日)
1972年2月にリチャード・ニクソン米大統領は中国を訪問したが、それまでの交渉過程でキッシンジャーは周恩来に対して日本の核武装について話している。シーモア・ハーシュによると、アメリカと中国が友好関係を結ぶことに同意しないならば、アメリカは日本に核武装を許すと脅したというのだ。日本の核武装はアメリカの共和党政権にとって、中国と交渉するうえでの重要なカードだった言える。
ジミー・カーター政権がスタートした1977年に東海村の核燃料再処理工場(設計処理能力は年間210トン)が試運転に入った。2006年までに1116トンを処理、その1パーセントのプルトニウムが生産されるとして10トン強、その1パーセントは誤差として認められるので、0.1トンになる。計算上、これだけのプルトニウムを「合法的」に隠し持つことができる。
しかし、カーター政権は日本が核武装を目指していると疑い、日米間で緊迫した場面があったと言われている。アメリカが疑惑を深めた一因は「第2処理工場」を建設する際の条件だった「平和利用」が東海村の処理工場にはついていなかったことにもある。
日本が核武装を目指していると信じられている一因はリサイクル機器試験施設(RETF)の建設を計画したことにある。RETFとはプルトニウムを分離/抽出することを目的とする特殊再処理工場で、東海再処理工場に付属する形で作られることになった。常陽やもんじゅで生産した兵器級プルトニウムをRETFで再処理すれば、30発以上の核兵器を日本は製造できるということだ。
アメリカ政府が東海村のRETFに移転した技術の中に「機微な核技術」、例えば小型遠心抽出機などの軍事技術が含まれていることがわかっている。この事実は環境保護団体のグリーンピースも1994年に指摘している。(Greenpeace International, "The Unlawful Plutonium Alliance", Greenpeace International, 1994)
ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、ロナルド・レーガン政権の内部には日本の核兵器開発を後押しする勢力が存在し、東京電力福島第1原子力発電所で炉心が溶融する事故が起こった2011年当時、日本は約70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積していたという。(Joseph Trento, “United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium”)
日本の核兵器開発が進む切っ掛けは、CRBR(クリンチ・リバー増殖炉)計画の挫折。1987年に議会はクリンチ・リバーへの予算を打ち切るのだが、そこで目をつけられたのが日本。トレントによると、この延命策を指揮することになったリチャード・T・ケネディー陸軍大佐はクリンチ・リバー計画の技術を格安の値段で日本の電力会社へ売ることにしたのだ。
日本のカネを利用するというプランに国務省やエネルギー省は賛成した。核武装した日本はアジアにおけるアメリカの軍事負担を軽減させると考えた国防総省もプルトニウムや核に関する技術の日本への移転に反対しなかったという。
その後、毎年何十人もの科学者たちが日本からクリンチ・リバー計画の関連施設を訪れ、ハンフォードとサバンナ・リバーの施設へ入る。中でも日本人が最も欲しがった技術はサバンナ・リバーにある高性能プルトニウム分離装置に関するもので、RETFへ送られた。
アメリカのエネルギー省と動燃(現在の日本原子力研究開発機構)との間で取り交わした協定では、核兵器級のプルトニウムをアメリカの同意なしに第三国(例えばイスラエル)へ輸出したり、アメリカの事前承認なしに核燃料を再処理してプルトニウムを取り出したりすることが可能だった。(Joseph Trento, “United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium”)
ちなみに、福島第1原発で警備を担当していた会社はイスラエルのマグナBSP。セキュリティ・システムや原子炉を監視する立体映像カメラが原発内に設置、事故時、スタッフを訓練していたとエルサレム・ポスト紙やハーレツ紙が伝えている。
日本には核兵器で保有、それを使って周辺国を脅せば自分の思い通りになると信じている人たちがいた。そのひとりが石原慎太郎だ。2011年3月8日付けのインディペンデント紙に石原のインタビュー記事が掲載されているのだが、その中で日本の核兵器保有について語っている。
石原によると、外交とは核兵器で相手を脅すことであり、これさえ保有していれば中国も尖閣諸島に手を出さない。彼に強国と知性で渡り合うという芸当はできず、「暴力手段」を欲しがるわけだ。石原は中国、朝鮮、ロシアを「敵」だと表現、その「敵」を恫喝するために核兵器は必要だと考えている。発想がネオコンと同じだ。
ところで、「核の冬」に匹敵するダメージを敵国に与えられる兵器をアメリカ国防総省は開発しているとロシア国防省は主張している。ロシア政府が昨年4月に発表した報告書によると、兵士だけでなく動物や農作物にダメージを与え、相手国を完全に破壊して生態系に影響を与える「万能生物兵器」をアメリカの研究者がウクライナで研究開発していたとしている。昆虫、哺乳類、野鳥を利用して人間を攻撃する病原体の伝播に特別な注意を払っているという。この「万能生物兵器」を西側では「ワクチン」と呼んでいるのではないだろうか。
ジャーナリストのディリヤナ・ゲイタンジエワによると、アメリカ国防総省はドニプロ、ミコライフ、リビフ、ウジホロド、テルノポリ、ビンニツヤ、キエフに研究施設を2010年から13年の間に建設したとしている。
また、サーシャ・ラティポワは情報公開法によって入手した文書を分析した結果、COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)騒動はアメリカ国防総省がバラク・オバマ政権の時代に始めた作戦だという結論に達したという。日本の「ワクチン」政策は国防総省の命令に基づいている可能性がある。
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