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ナチスに協力していたウクライナの民族主義者は大戦後、米英情報機関が育成
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2024.02.28 櫻井ジャーナル
ウクライナの現体制はアメリカやイギリスの支配層を後ろ盾にしているが、体制を維持する仕組みを支えているのはステパン・バンデラを信奉するネオ・ナチにほかならない。ウクライナに限らず、第2次世界大戦後にネオ・ナチを保護、育成してきたのはアメリカやイギリスの情報機関だ。
バンデラは第2次世界大戦の前に組織されたOUN(ウクライナ民族主義者機構)の幹部だった人物。当初、この組織を率いていたのはイェブヘーン・コノバーレツィだが、1938年5月に暗殺された後、内部対立が激しくなる。
1941年3月にその対立は頂点に達し、アンドレイ・メルニクを中心とするグループ(OUN-M)とバンデラを中心とするグループ(OUN-B)に割れた。ドイツはOUN-Bに資金を提供、バンデラの側近だったミコラ・レベジはクラクフにあったゲシュタポ(国家秘密警察)の訓練学校へ入っている。この年の6月、ドイツはソ連へ軍事侵攻を開始した。バルバロッサ作戦だ。その一方、イギリスの情報機関MI6のフィンランド支局長だったハリー・カーはバンデラ派を雇っている。
ウクライナのリビウを制圧したドイツ軍はOUNのような排他的なナショナリストとユダヤ人を虐殺しはじめ、6月30日から7月2日にかけて犠牲になった人の数は4000名から8000名だと推測されている。ウクライナ西部全体に拡大すると、7月に殺されたユダヤ人の数は3万8000名から3万9000名に達するという。(Grzegorz Rossolinski-Liebe, “Stepan Bandera,” ibidem-Verlag, 2014)
レベジと同じようにバンデラの側近だったヤロスラフ・ステツコは仲間とウクライナの独立を宣言、ナチスの親衛隊は7月からOUN-Bのメンバーを次々に逮捕していくのだが、活動が止まったわけではない。8月にレベジたちはOUN-Mの幹部ふたりを射殺している。9月になるとゲシュタポがウクライナのナショナリストを摘発し始め、その年の12月にOUN-Bは1500名のメンバーが逮捕されたと発表している。(Grzegorz Rossolinski-Liebe, “Stepan Bandera,” ibidem-Verlag, 2014)
1943年1月にドイツ軍はスターリングラードで降伏、ドイツの敗北は決定的になった。その年の春にOUN-BはUPA(ウクライナ反乱軍)として活動し始め、その年の11月には「反ボルシェビキ戦線」を設立。OUNやUPAの幹部のうち半数近くがウクライナの地方警察やナチスの親衛隊、あるいはドイツを後ろ盾とする機関に雇われていたと考えられている。(前掲書)
UPAはユダヤ人やポーランド人を虐殺しているが、その際、妊婦の腹を引き裂いて胎児や内蔵を取り出すようなこともしている。脅しのために灌木に引っかけるといったことをしたという。1943年から45年の間にOUN-BとUPAが殺したポーランド人は7万人から10万人と言われている(前掲書)
1945年5月にドイツが降伏した後、OUN-Bの少なからぬメンバーはオーストリアのインスブルックへ逃げ込み、夏になるとバンデラたちはドイツの情報法機関を統轄することになるラインハルト・ゲーレンの機関に匿われていく。
ゲーレンはドイツ陸軍参謀本部第12課(情報部門)の課長を務めていた軍人で、ドイツの敗北が決定的になっていた1944年にOSSのフランク・ウィズナーを介してアレン・ダレスのグループと接触、ソ連に関する情報を持っていたゲーレンにダレスは興味を持った。そのゲーレンに雇われたバンデラがCIAの指揮下に入るのは必然だ。
OUN-Bが組織した反ボルシェビキ戦線は1946年4月にABN(反ボルシェビキ国家連合)へと発展、APACL(アジア人民反共連盟、後にアジア太平洋反共連盟に改名)とともにWACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)の母体になった。WACLはCIAが秘密工作を行う際の道具として機能している。WACL/WLFDの役割は小さくなったが、ウクライナで実権を握っているネオ・ナチは対ロシア戦争の最前線にいる。
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