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「空の思想」として知られている大乗仏教の哲学
http://www.asyura2.com/24/ban12/msg/319.html
投稿者 中川隆 日時 2025 年 1 月 29 日 06:50:44: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

ヨアンナさんは仏教の空の思想について完全に誤解していますね。
「空の思想」として知られている大乗仏教の哲学
それは西暦紀元前後流した般若経文学のなかで顕著になり、二世紀の哲学僧ナーガールジュナ(龍樹)によって哲学に昇華され、それ以後の仏教の発展に大きな影響を与えた思想の一つである。ナーガールジュナの貢献は「ものはすべて空である」といういささかショッキングな般若経の主張を、仏教思想のなかでも最も伝統的な概念のひとつであった「縁起」(プラティーチャサムットパダ:依って起ること)という言葉で説明をしたことである。

原始仏教の思想
 仏教はそもそも、インドの伝統的バラモン思想によって広く信じられていた、永遠に存在する個我(アートマン)の概念に対するブッダの激しい批判から始まった。ブッダはまことにあっさりと、そのよう個我など無い、と主張したのであった。それが有名な無我(アン・アートマン)の思想である。バラモン思想においは「永遠に存在する個我」は宗教的救いにとってなくてはならない概念であった。例えば、バラモン思想の伝統を継ぐヒンズー教の聖典のひとつである『バガヴァッド・ギータ』のなかの物語の一つは、肉親が相分かれて戦わなければならなくなって深く悩む一人の王に対して、クリシュナ神は、まことの自己とは刃で殺しても死なない個我である、と説いて王の悩みを解決するのであった。ところが、ブッダにとって、すべては変滅するもの(無常)であり、自己も例外ではなかった。だから、そういう自己に執着しないことをこそ、悲苦からの解放(解脱)と考えたのであった。ブッダにとって、「永遠に存在する個我」などというものは、自己に対する執着が生んだ虚妄にすぎないのであった。


ナーガールジュナの空の思想
 ナーガールジュナの空の概念は、このブッダの無我の概念を人間だけではなく、すべての存在に適用して、ブッダの思想をより普遍化したものである。だから、空の概念は、よく俗説に言われるように、すべての存在は夢や幻のごとく人間の心のなかにしか存在しない、というような説ではない。そうではなく、変滅する現象の背後に、なおも、ある不変な何ものかを想定しようとする人間の執着、それを否定する思想なのである。ナーガールジュナは、さらにそれを単に無常として述べたのみならず、縁起(依存関係)の概念で説明したのである。

 ものの存在や性質はそれ自体にあるのではなく、むしろ、他との関係のなかにのみある、ということこそがナーガールジュナの主張の中心であった。彼はその主張によって、ものはそれ自体に内在する自性(スヴァバーヴァ)によって存在し、その本質が規定されていると主張していた、当時もっとも強力な仏教学派のひとつサヴァスティバーダ派(説一切有部)の自性説を批判していたのである。空とは、すなわち、ナーガールジュナによれば、いかなるものにも自性(スヴァバーヴァ)などというものは無い、という意味なのである。ものの存在の意味を、他との関係から切り離して、その内側に潜んでいる「なにかそれ自体に特有の不変のもの」に求めるのは空しい努力である、と彼は主張したのである。

 もののアイデンティティーをそれ自体内に求めることができないとすれば、どこに求めるべきか。この問の答えにナーガールジュナが用意したものこそが縁起(プラティーチャサムットパーダ、依って起こること)の思想であった。ナーガールジュナより数百年前に成立した初期の仏典においては、縁起の意味は、「これがあることに依ってあれがあり、これが無いことに依って、あれがない。あれがあることに依ってこれがあり、あれが無いことに依ってこれが無い。」というような短い句に託されて、何度も何度も繰り返し語られている。縁起とは、ものの生起や変滅がさまざまな条件に依存していることを述べた言葉だったのである。悲苦はそれを成立させている原因や条件に依存している、だからこそ、その原因や条件を洞察し、取り除くことができれば、悲苦からの解放(解脱)は可能なのだと教えたのがブッダの教える縁起の思想であった。ナーガールジュナはこの縁起という言葉に注目して、それを自性と対立させたのである。

 彼は「それこれに依存して生じたものは、自性として生起していない」とか「ものが自性として成立しているなら、ものは依存関係によっての存在とならない」とか「原因と条件から生起しもののなかに(不変の)実在を妄想すること、それが迷いである」などという言葉で、他から独立した、永遠自存の個など幻想であり、そのような考え方は、あらゆるものが他との関係のなかで変滅しているという無常と依存関係(縁起)の事実に矛盾することを説いたのである。永遠不変の実在という概念は、ものが原因と条件から生起変滅することを否定するものだからである。

 このようにして、ナーガールジュナは仏教の空の思想を確立していったのである。さて、もし仏教の空の思想が、このように、個というものは、人であっても物であっても、そのアイデンティティーも存在も、他から切り離されて独立には意味をなさないという思想であり、個の存在もアイデンティティーもさまざまな関係のなかで初めて意味をもつものである、という思想である。
https://www.j-world.com/usr/sakura/essay/wa_and_ku.html  

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コメント
1. 中川隆[-7857] koaQ7Jey 2025年1月29日 06:55:53 : AVMFZnp1iU : N25JMEV2LktyRHM=[3] 報告
<■85行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ヨアンナさんは仏教の空の思想について完全に誤解していますね。
「空の思想」として知られている大乗仏教の哲学
それは西暦紀元前後流した般若経文学のなかで顕著になり、二世紀の哲学僧ナーガールジュナ(龍樹)によって哲学に昇華され、それ以後の仏教の発展に大きな影響を与えた思想の一つである。ナーガールジュナの貢献は「ものはすべて空である」といういささかショッキングな般若経の主張を、仏教思想のなかでも最も伝統的な概念のひとつであった「縁起」(プラティーチャサムットパダ:依って起ること)という言葉で説明をしたことである。

原始仏教の思想
 仏教はそもそも、インドの伝統的バラモン思想によって広く信じられていた、永遠に存在する個我(アートマン)の概念に対するブッダの激しい批判から始まった。ブッダはまことにあっさりと、そのよう個我など無い、と主張したのであった。それが有名な無我(アン・アートマン)の思想である。バラモン思想においは「永遠に存在する個我」は宗教的救いにとってなくてはならない概念であった。例えば、バラモン思想の伝統を継ぐヒンズー教の聖典のひとつである『バガヴァッド・ギータ』のなかの物語の一つは、肉親が相分かれて戦わなければならなくなって深く悩む一人の王に対して、クリシュナ神は、まことの自己とは刃で殺しても死なない個我である、と説いて王の悩みを解決するのであった。ところが、ブッダにとって、すべては変滅するもの(無常)であり、自己も例外ではなかった。だから、そういう自己に執着しないことをこそ、悲苦からの解放(解脱)と考えたのであった。ブッダにとって、「永遠に存在する個我」などというものは、自己に対する執着が生んだ虚妄にすぎないのであった。


ナーガールジュナの空の思想
 ナーガールジュナの空の概念は、このブッダの無我の概念を人間だけではなく、すべての存在に適用して、ブッダの思想をより普遍化したものである。だから、空の概念は、よく俗説に言われるように、すべての存在は夢や幻のごとく人間の心のなかにしか存在しない、というような説ではない。そうではなく、変滅する現象の背後に、なおも、ある不変な何ものかを想定しようとする人間の執着、それを否定する思想なのである。ナーガールジュナは、さらにそれを単に無常として述べたのみならず、縁起(依存関係)の概念で説明したのである。

 ものの存在や性質はそれ自体にあるのではなく、むしろ、他との関係のなかにのみある、ということこそがナーガールジュナの主張の中心であった。彼はその主張によって、ものはそれ自体に内在する自性(スヴァバーヴァ)によって存在し、その本質が規定されていると主張していた、当時もっとも強力な仏教学派のひとつサヴァスティバーダ派(説一切有部)の自性説を批判していたのである。空とは、すなわち、ナーガールジュナによれば、いかなるものにも自性(スヴァバーヴァ)などというものは無い、という意味なのである。ものの存在の意味を、他との関係から切り離して、その内側に潜んでいる「なにかそれ自体に特有の不変のもの」に求めるのは空しい努力である、と彼は主張したのである。

 もののアイデンティティーをそれ自体内に求めることができないとすれば、どこに求めるべきか。この問の答えにナーガールジュナが用意したものこそが縁起(プラティーチャサムットパーダ、依って起こること)の思想であった。ナーガールジュナより数百年前に成立した初期の仏典においては、縁起の意味は、「これがあることに依ってあれがあり、これが無いことに依って、あれがない。あれがあることに依ってこれがあり、あれが無いことに依ってこれが無い。」というような短い句に託されて、何度も何度も繰り返し語られている。縁起とは、ものの生起や変滅がさまざまな条件に依存していることを述べた言葉だったのである。悲苦はそれを成立させている原因や条件に依存している、だからこそ、その原因や条件を洞察し、取り除くことができれば、悲苦からの解放(解脱)は可能なのだと教えたのがブッダの教える縁起の思想であった。ナーガールジュナはこの縁起という言葉に注目して、それを自性と対立させたのである。

 彼は「それこれに依存して生じたものは、自性として生起していない」とか「ものが自性として成立しているなら、ものは依存関係によっての存在とならない」とか「原因と条件から生起しもののなかに(不変の)実在を妄想すること、それが迷いである」などという言葉で、他から独立した、永遠自存の個など幻想であり、そのような考え方は、あらゆるものが他との関係のなかで変滅しているという無常と依存関係(縁起)の事実に矛盾することを説いたのである。永遠不変の実在という概念は、ものが原因と条件から生起変滅することを否定するものだからである。

 このようにして、ナーガールジュナは仏教の空の思想を確立していったのである。さて、もし仏教の空の思想が、このように、個というものは、人であっても物であっても、そのアイデンティティーも存在も、他から切り離されて独立には意味をなさないという思想であり、個の存在もアイデンティティーもさまざまな関係のなかで初めて意味をもつものである、という思想である。
https://www.j-world.com/usr/sakura/essay/wa_and_ku.html


無我の思想 --- 仏教のアートマン(永遠不変の魂)否定 ---
https://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_0.html

仏典でしばしば言及される「無我」あるいは「非我」と翻訳されるアナートマン(anatman)という語は、「我、自身」を意味するアートマン(atman)に、英語で言えば「un-」とか「non-」を意味するアン(an-)を付けたものです。それは明らかにアートマンを否定する言葉です。仏教はこの無我あるいは非我という言葉を駆使してなにを語ろうとしたのでしょうか。

2. 中川隆[-7856] koaQ7Jey 2025年1月29日 07:08:08 : AVMFZnp1iU : N25JMEV2LktyRHM=[4] 報告
<■86行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ヨアンナさんは仏教の空の思想について完全に誤解していますね。
インド仏教は完全な無神論で、神も、死後の世界も、人間の魂(アートマン)も存在しないという思想です:
「空の思想」として知られている大乗仏教の哲学
それは西暦紀元前後流した般若経文学のなかで顕著になり、二世紀の哲学僧ナーガールジュナ(龍樹)によって哲学に昇華され、それ以後の仏教の発展に大きな影響を与えた思想の一つである。ナーガールジュナの貢献は「ものはすべて空である」といういささかショッキングな般若経の主張を、仏教思想のなかでも最も伝統的な概念のひとつであった「縁起」(プラティーチャサムットパダ:依って起ること)という言葉で説明をしたことである。

原始仏教の思想
 仏教はそもそも、インドの伝統的バラモン思想によって広く信じられていた、永遠に存在する個我(アートマン)の概念に対するブッダの激しい批判から始まった。ブッダはまことにあっさりと、そのよう個我など無い、と主張したのであった。それが有名な無我(アン・アートマン)の思想である。バラモン思想においは「永遠に存在する個我」は宗教的救いにとってなくてはならない概念であった。例えば、バラモン思想の伝統を継ぐヒンズー教の聖典のひとつである『バガヴァッド・ギータ』のなかの物語の一つは、肉親が相分かれて戦わなければならなくなって深く悩む一人の王に対して、クリシュナ神は、まことの自己とは刃で殺しても死なない個我である、と説いて王の悩みを解決するのであった。ところが、ブッダにとって、すべては変滅するもの(無常)であり、自己も例外ではなかった。だから、そういう自己に執着しないことをこそ、悲苦からの解放(解脱)と考えたのであった。ブッダにとって、「永遠に存在する個我」などというものは、自己に対する執着が生んだ虚妄にすぎないのであった。


ナーガールジュナの空の思想
 ナーガールジュナの空の概念は、このブッダの無我の概念を人間だけではなく、すべての存在に適用して、ブッダの思想をより普遍化したものである。だから、空の概念は、よく俗説に言われるように、すべての存在は夢や幻のごとく人間の心のなかにしか存在しない、というような説ではない。そうではなく、変滅する現象の背後に、なおも、ある不変な何ものかを想定しようとする人間の執着、それを否定する思想なのである。ナーガールジュナは、さらにそれを単に無常として述べたのみならず、縁起(依存関係)の概念で説明したのである。

 ものの存在や性質はそれ自体にあるのではなく、むしろ、他との関係のなかにのみある、ということこそがナーガールジュナの主張の中心であった。彼はその主張によって、ものはそれ自体に内在する自性(スヴァバーヴァ)によって存在し、その本質が規定されていると主張していた、当時もっとも強力な仏教学派のひとつサヴァスティバーダ派(説一切有部)の自性説を批判していたのである。空とは、すなわち、ナーガールジュナによれば、いかなるものにも自性(スヴァバーヴァ)などというものは無い、という意味なのである。ものの存在の意味を、他との関係から切り離して、その内側に潜んでいる「なにかそれ自体に特有の不変のもの」に求めるのは空しい努力である、と彼は主張したのである。

 もののアイデンティティーをそれ自体内に求めることができないとすれば、どこに求めるべきか。この問の答えにナーガールジュナが用意したものこそが縁起(プラティーチャサムットパーダ、依って起こること)の思想であった。ナーガールジュナより数百年前に成立した初期の仏典においては、縁起の意味は、「これがあることに依ってあれがあり、これが無いことに依って、あれがない。あれがあることに依ってこれがあり、あれが無いことに依ってこれが無い。」というような短い句に託されて、何度も何度も繰り返し語られている。縁起とは、ものの生起や変滅がさまざまな条件に依存していることを述べた言葉だったのである。悲苦はそれを成立させている原因や条件に依存している、だからこそ、その原因や条件を洞察し、取り除くことができれば、悲苦からの解放(解脱)は可能なのだと教えたのがブッダの教える縁起の思想であった。ナーガールジュナはこの縁起という言葉に注目して、それを自性と対立させたのである。

 彼は「それこれに依存して生じたものは、自性として生起していない」とか「ものが自性として成立しているなら、ものは依存関係によっての存在とならない」とか「原因と条件から生起しもののなかに(不変の)実在を妄想すること、それが迷いである」などという言葉で、他から独立した、永遠自存の個など幻想であり、そのような考え方は、あらゆるものが他との関係のなかで変滅しているという無常と依存関係(縁起)の事実に矛盾することを説いたのである。永遠不変の実在という概念は、ものが原因と条件から生起変滅することを否定するものだからである。

 このようにして、ナーガールジュナは仏教の空の思想を確立していったのである。さて、もし仏教の空の思想が、このように、個というものは、人であっても物であっても、そのアイデンティティーも存在も、他から切り離されて独立には意味をなさないという思想であり、個の存在もアイデンティティーもさまざまな関係のなかで初めて意味をもつものである、という思想である。
https://www.j-world.com/usr/sakura/essay/wa_and_ku.html


無我の思想 --- 仏教のアートマン(永遠不変の魂)否定 ---
https://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_0.html

仏典でしばしば言及される「無我」あるいは「非我」と翻訳されるアナートマン(anatman)という語は、「我、自身」を意味するアートマン(atman)に、英語で言えば「un-」とか「non-」を意味するアン(an-)を付けたものです。それは明らかにアートマンを否定する言葉です。仏教はこの無我あるいは非我という言葉を駆使してなにを語ろうとしたのでしょうか。

3. 中川隆[-7855] koaQ7Jey 2025年1月29日 07:15:48 : AVMFZnp1iU : N25JMEV2LktyRHM=[5] 報告
<■87行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ヨアンナさんは仏教の空の思想について完全に誤解していますね。
インド仏教は完全な無神論で、神も、天国・地獄も、死後の世界も、人間の魂(アートマン)も、永遠に存在し続ける物も、一切存在しないという思想です:
「空の思想」として知られている大乗仏教の哲学
それは西暦紀元前後流した般若経文学のなかで顕著になり、二世紀の哲学僧ナーガールジュナ(龍樹)によって哲学に昇華され、それ以後の仏教の発展に大きな影響を与えた思想の一つである。ナーガールジュナの貢献は「ものはすべて空である」といういささかショッキングな般若経の主張を、仏教思想のなかでも最も伝統的な概念のひとつであった「縁起」(プラティーチャサムットパダ:依って起ること)という言葉で説明をしたことである。

原始仏教の思想
 仏教はそもそも、インドの伝統的バラモン思想によって広く信じられていた、永遠に存在する個我(アートマン)の概念に対するブッダの激しい批判から始まった。ブッダはまことにあっさりと、そのよう個我など無い、と主張したのであった。それが有名な無我(アン・アートマン)の思想である。バラモン思想においは「永遠に存在する個我」は宗教的救いにとってなくてはならない概念であった。例えば、バラモン思想の伝統を継ぐヒンズー教の聖典のひとつである『バガヴァッド・ギータ』のなかの物語の一つは、肉親が相分かれて戦わなければならなくなって深く悩む一人の王に対して、クリシュナ神は、まことの自己とは刃で殺しても死なない個我である、と説いて王の悩みを解決するのであった。ところが、ブッダにとって、すべては変滅するもの(無常)であり、自己も例外ではなかった。だから、そういう自己に執着しないことをこそ、悲苦からの解放(解脱)と考えたのであった。ブッダにとって、「永遠に存在する個我」などというものは、自己に対する執着が生んだ虚妄にすぎないのであった。


ナーガールジュナの空の思想
 ナーガールジュナの空の概念は、このブッダの無我の概念を人間だけではなく、すべての存在に適用して、ブッダの思想をより普遍化したものである。だから、空の概念は、よく俗説に言われるように、すべての存在は夢や幻のごとく人間の心のなかにしか存在しない、というような説ではない。そうではなく、変滅する現象の背後に、なおも、ある不変な何ものかを想定しようとする人間の執着、それを否定する思想なのである。ナーガールジュナは、さらにそれを単に無常として述べたのみならず、縁起(依存関係)の概念で説明したのである。

 ものの存在や性質はそれ自体にあるのではなく、むしろ、他との関係のなかにのみある、ということこそがナーガールジュナの主張の中心であった。彼はその主張によって、ものはそれ自体に内在する自性(スヴァバーヴァ)によって存在し、その本質が規定されていると主張していた、当時もっとも強力な仏教学派のひとつサヴァスティバーダ派(説一切有部)の自性説を批判していたのである。空とは、すなわち、ナーガールジュナによれば、いかなるものにも自性(スヴァバーヴァ)などというものは無い、という意味なのである。ものの存在の意味を、他との関係から切り離して、その内側に潜んでいる「なにかそれ自体に特有の不変のもの」に求めるのは空しい努力である、と彼は主張したのである。

 もののアイデンティティーをそれ自体内に求めることができないとすれば、どこに求めるべきか。この問の答えにナーガールジュナが用意したものこそが縁起(プラティーチャサムットパーダ、依って起こること)の思想であった。ナーガールジュナより数百年前に成立した初期の仏典においては、縁起の意味は、「これがあることに依ってあれがあり、これが無いことに依って、あれがない。あれがあることに依ってこれがあり、あれが無いことに依ってこれが無い。」というような短い句に託されて、何度も何度も繰り返し語られている。縁起とは、ものの生起や変滅がさまざまな条件に依存していることを述べた言葉だったのである。悲苦はそれを成立させている原因や条件に依存している、だからこそ、その原因や条件を洞察し、取り除くことができれば、悲苦からの解放(解脱)は可能なのだと教えたのがブッダの教える縁起の思想であった。ナーガールジュナはこの縁起という言葉に注目して、それを自性と対立させたのである。

 彼は「それこれに依存して生じたものは、自性として生起していない」とか「ものが自性として成立しているなら、ものは依存関係によっての存在とならない」とか「原因と条件から生起しもののなかに(不変の)実在を妄想すること、それが迷いである」などという言葉で、他から独立した、永遠自存の個など幻想であり、そのような考え方は、あらゆるものが他との関係のなかで変滅しているという無常と依存関係(縁起)の事実に矛盾することを説いたのである。永遠不変の実在という概念は、ものが原因と条件から生起変滅することを否定するものだからである。

 このようにして、ナーガールジュナは仏教の空の思想を確立していったのである。さて、もし仏教の空の思想が、このように、個というものは、人であっても物であっても、そのアイデンティティーも存在も、他から切り離されて独立には意味をなさないという思想であり、個の存在もアイデンティティーもさまざまな関係のなかで初めて意味をもつものである、という思想である。
https://www.j-world.com/usr/sakura/essay/wa_and_ku.html


無我の思想 --- 仏教のアートマン(永遠不変の魂)否定 ---
https://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_0.html

仏典でしばしば言及される「無我」あるいは「非我」と翻訳されるアナートマン(anatman)という語は、「我、自身」を意味するアートマン(atman)に、英語で言えば「un-」とか「non-」を意味するアン(an-)を付けたものです。それは明らかにアートマンを否定する言葉です。仏教はこの無我あるいは非我という言葉を駆使してなにを語ろうとしたのでしょうか。

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