<■96行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> 伊藤貫先生は心理学でいう「自己実現」の意味について全く理解できていませんね。 仕事・ビジネスの分野では「自己実現」というのは社会的な成功というニュアンスで使われています。 「仕事で自己実現!」「やりたいことをやって自己実現しよう」のように「自己実現」=「自分がやりたいことをやる」または「なりたい自分になる」という意味で使われています。しかし、これは心理学的な「自己実現」とは全く意味が違います:ユングは、「意識」の中心をドイツ語で「私」を意味する“Ich”(「自我」)と、「無意識」を含めた心の中心を“Selbst”(「自己」)と名付けました。英語ではそれぞれ“ego”、“Self”と訳されています。 ユング心理学における「自我」は、「意識」の中心であり、私たちの日常生活や社会的な役割を担うものです。「自我」は、成長するにつれてだんだんできてくる“自分”という感覚に近く、例えば生徒、学生、新入社員、管理職、先生、親、リーダー、先輩などなど、社会的に求められるたくさんの役割を担いながら、固有名を持った「私」のまとまりの真ん中にある存在であるといえます。「自我」は目標を立てて何かを達成したり、他者の期待に応えたりすることで強められていきます。例えば、仕事において、昇進や給与の増加は、自我の満足に大きく関わるでしょう。逆にそれがうまくいかないと自信を失ったり、生きる活力を失ってしまったりすることもあります。 一方で、ユング心理学における「自己」は、「意識」と「無意識」を含めた心の全体の中心であり、私たちのより深い本質、その人そのものの比類ないあり方を意味します。社会的な成功、すなわち「自我」の満足は達成されていても、そのために犠牲にせざるを得なかった要素を誰しもが持っており、生きてこなかったそうした側面をも含めた本来の自分のあり方、「自己」を目指していくことをこそ、人間が生きる意味であるとユングは考えました。そしてその過程を、「自己実現(Selbst-realization)」あるいは「個性化(Individuation)」と名付けたのです。 社会的成功としての「自我実現」 では、働く世代の生き方を「自我」や「自己」の側面から説明するとどうなるでしょうか。まずは「自我」の観点から見ていきます。先ほど、「自己」は「自我」よりも深いものである、という説明をしましたが、それは決して「自我」の価値を軽んじるものではありません。「自己」を目指す過程においても、はじめから「自己」に向かうことは難しく、あくまでもまずは確固たる「自我」を築くことが同じように重要です。 ただ好きに遊んでいればよかった子ども時代から、学校に入り、他者と生活し、社会に出て活動をしていく中で、人は次第に、自分が他者から期待される役割を意識したり、他者と比較したり、社会的に望ましい目標に向かって邁進したりするようになります。そこにおいては、社会に求められる価値と自分の目標を一致させることによって能力を伸ばし、人間関係を構築していくことが第一優先になります。もっと上へ、もっと大きく成長したい。そうしたモチベーションに突き動かされて、自分の可能性を広げていこうとするのが、「自我」の持つ力です。あるいはそうした理想と比べてうまくいっていないように見える自分に葛藤を抱えることもあります。 働く世代においては、昇進や他者からの承認や注目、ブランド力のある企業に勤めること、キャリアアップ、待遇の増加、人脈の拡大などが自我の目標になりやすいものでしょう。そうした目標を達成する喜び、次はさらに大きな目標を自らのものにしたい、自分の活躍の幅をもっと広げたいなどといった欲求は、その人の可能性を大きく引き出し、成長に繋げてくれるものでしょう。しばしば働きがいとも結び付けられる「自己実現」という表現は、ユング心理学の文脈で言えば「自我実現」と言い換えられるのかもしれません。 独自の内面的価値と向き合う「自己実現」 そうした「自我実現」が、自分の外側の社会における成功と関係するものなのだとしたら、ユングにおける「自己実現」や「個性化」は自分の内なる世界の成熟に関係しています。ユングは次のように述べています。 「(個性化とは)個別的存在になることであり、個性というものをわれわれの最も内奥の、最後の、何ものにも比肩できない独自性と解するかぎり、自分自身の本来的自己になることである。」(Jung, 1928)※ ※Jung, C. G.(1928), Die Beziehungen zwischen dem Ich und dem Unbewußten, O. Reichl.(『自我と無意識の関係』野田倬訳、人文書院、2002年) 人が「自我」を実現していく成長の過程で、あるとき、そのままのやり方では通用しなくなる事態が訪れることがあります。例えば仕事に突き進んでいた人が、家庭やパートナーシップの、あるいは社会的地位の変化による人間関係のトラブルに不意に見舞われることがあるかもしれません。また、誰かの期待に沿って生き続けてきた人が、それが本当に自分のしたいことだったのだろうかと、はたと立ち止まることがあるかもしれません。ずっと追ってきた目標を達成した先に、虚しさに襲われるかもしれないし、健康そのものだった体に何らかの不具合が出たり、身近な人の病気や死と遭遇したりすることがあるかもしれません。こうした事態は、一般に「中年の危機」とも呼ばれます。 一見したところ、偶然に生じたかに見えるそうした問題は、実は、本来向き合わなければならなかったのに、「自我」の目標達成のために意識の外に置かれていただけで、ずっと心のどこかに存在していたものとも言えます。これまでのやり方では通用しないようなそうした問題に対処する必要が生まれた時にこそ、“自分は本当は何者であるのか”を問うという新しい姿勢が求められます。ここで人は、「自我」の外側にあった部分、これまで生きてこなかった側面に向き合わざるを得なくなり、この不慣れで、それまでの価値観を転倒するような、時には「自我」がいったん崩れ去らなければならないような事態とじっくり対決して初めて、「本来的自己」への道が開かれるのです。それは最終的には人生後半を豊かなものにし、内面の充実や深化を可能にしていきます。 そうした「自己実現」への道は、決してその人の内面に引き篭もることを意味するものではなく、むしろ、自らの心と向き合って得られた新たな知見をもって、再度社会と関わること、他者とコミュニケーションをとることを通じてこそ、真に意味あるものになると考えられています。「自我実現」の外側に目を開かれた人が、「自我」を超えた眼差しをもって社会と関わるとき、そこには単なる利潤追求を超えた価値観、無理なく自由でいられるような働き方、自分と同じように他者や環境を尊重する姿勢に基づいた、真の「働きがい」が生まれるのかもしれません。 https://sr.platworks.jp/column/5170
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