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ガザでイスラエル軍が行っている民族浄化でパレスチナ人弾圧に対する怒りが噴出
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202311050000/
2023.11.05 櫻井ジャーナル
イスラエル政府は10月30日、同国の情報省がガザに住む230万人をシナイ半島に移住させることを提案した報告書を起草したと認めた。その文書の日付は10月13日で、ガザの全住民を北シナイへ強制的に移住させることを勧告。ガザから追放されたパレスチナ人を収容する「テント都市」をシナイ半島に建設し、その人びとがガザへ戻ることは永久に許可されないとしている。一時避難ではなく、永久追放だということだ。また、安全保障を扱うイスラエルのシンクタンク、ミスガブのアミール・ワイトマンもガザの住民をシナイの砂漠へ移し、難民は他国に吸収されるべきだとしている。
エジプトが引き受けろということだが、イスラエルがパレスチナ人をエジプトへ追放しようとしているとエジプトは懸念してきた。パレスチナを「イスラエルの問題」から「エジプトの問題」へ変えようとしているとも考えている。今回、エジプトが国境を開けようとしなかった理由はここにある。
ハマスはムスリム同胞団系の組織だが、エジプトでは一時期、厳しく取り締まられていた。現在のエジプトは1952年に自由将校団のクーデターでムハンマド・アリー朝が倒されて誕生した。クーデターの名目的な指導者はムハンマド・ナギブ将軍だが、実際に率いていたのはガマール・アブデル・ナセルだった。
ナギブを支えていたムスリム同胞団は1954年にナセル暗殺を試みて失敗、ナギブ大統領は解任され、同胞団は非合法化された。このときに同胞団の中心的存在だったひとり、サイド・ラマダンはムスリム同胞団を1928年に創設したハッサン・アル・バンナの義理の息子だ。この暗殺計画の黒幕はイギリスだと見られている。
亡命生活に入ったラマダンはサウジアラビアへ逃れ、そこで世界ムスリム連盟を創設、西ドイツ政府から提供された同国の外交旅券を使ってミュンヘン経由でスイスへ入っている。そこで1961年にジュネーブ・イスラム・センターを設立した。資金はサウジアラビアが提供したという。この当時、スイス当局はラマダンをイギリスやアメリカの情報機関、つまりMI6やCIAのエージェントだと見なしていたという。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)
MI6は1956年2月頃にも暗殺を検討しはじめた。ロンドンにいたCIAのジェームズ・アイケルバーガーからワシントンのアレン・ダレスに宛てたテレックスの中に、MI6がナセルを殺す話をしていたとする記述があるのだという。アレン・ダレスやその兄のジョン・フォスター・ダレス国務長官もイギリスの考えに同調していた。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
それから間もない1956年7月にナセルはスエズ運河の国有化を宣言、それに対してイギリスはプロパンダ放送局「自由エジプトの声」で反ナセルの宣伝を開始した。すでにフランスも反ナセルで動き始め、イスラエルに武器を提供しはじめている。(前掲書)
1956年8月にMI6のジュネーブ支局長だったノーマン・ダービシャーはムスリム同胞団のメンバーと会談、自宅に軟禁状態だったモハメド・ナギブ元大統領を解放して大統領に復帰させ、反ナセル派の将校は市民とナセルや閣僚の暗殺について協議すると伝えたという。(前掲書)
ナセル時代に禁止されていたムスリム同胞団の活動を認めたのはアンワール・サダト。そこでムスリム同胞団のアブドゥラ・アッザムがカイロのアル・アズハル・モスクへ移動、さらにサウジアラビアのアブデル・アジズ国王大学で教鞭を執るようになった。そこでの教え子の中にオサマ・ビン・ラディンもいた。ガザからの難民を抱えるということは、こうしたムスリム同胞団系の武装組織を抱えることにつながり、国内の不安定要因になる。
こうしたイスラエルのやり方はアメリカでヨーロッパ人が先住民である「アメリカ・インディアン」に対して行った民族浄化と同じであり、パレスチナ人はイギリスが仕掛けた「イスラエル建国」で故郷を奪われた人びとだ。
イスラエルの建国が宣言されたのは1948年5月14日のことだが、そこには多くのアラブ系住民が住んでいた。その住民を追い出すため、シオニストの武装勢力は4月上旬に「ダーレット作戦」を始めている。これは1936年から39年にかけてシオニストがアラブ系住民を殲滅する作戦を展開した作戦の延長線上にあるとも見られている。
シオニストの軍隊、ハガナの副官だったイェシュルン・シフはエルサレムでイルグンのモルデチャイ・ラーナンとスターン・ギャングのヨシュア・ゼイトラーに会ったのは4月6日。イルグンもスターン・ギャングもシオニストのテロ組織だ。
その3日後にイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺する。襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。
国際連合は1948年12月11日に難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。そしてイスラエルの建国が宣言され、今、パレスチナ人はガザやヨルダン川西岸からも追い出されようとしている。
そして10月7日、イスラエルは攻撃を受けた。「アル・アクサの洪水」だが、この攻撃をアメリカのジョー・バイデン政権ややイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ政権は事前に知っていた可能性が高い。これは本ブログでも指摘したが、攻撃後、ネタニヤフ政権はパニックになったようにも見える。想定、あるいは筋書きと違ったのかもしれない。
今回の攻撃にはハマスだけでなく、イスラム聖戦、パレスチナ解放人民戦線、パレスチナ解放人民戦線総司令部(PFLP-CG)も参加していたと言われている。それに対してイスラエルはガザで破壊と殺戮を繰り返しているが、それによってイスラム世界は団結、「グローバル・サウス」の支援も強まった。
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