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2024年2月14日 12時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/309091?rct=tokuhou
東京電力福島第1原発から約22キロ。福島県広野町で、原発事故後も双葉郡8町村で唯一診療を続けた高野病院が昨年11月、事業承継された。引き継いだのは同病院を継続し、地域で必要な医療を提供し続けようとする医師と病院運営をしていた個人。病院名もスタッフもそのままで、今後は救急医療や訪問診療も始め、そのためのクラウドファンディングを13日から始めた。大災害や原発事故後、地域医療を守るにはどうしたらいいのか。(片山夏子)
◆医療法人社団に承継、再出発
「高野病院はみなさんの力で残すことができた」
高野病院を運営する医療法人社団「養高会」の高野己保(みお)元理事長(56)はスタッフへのあいさつをしながら、これまでのことを思い出していた。事故直後から応援に来てくれた医師に「病院を残したことは誇っていい」と言われ、「これでいいんだ」と安堵(あんど)するとともに、込み上げてくる涙をこらえた。
昨年11月6日、養高会の理事会が一新され、己保さんは経営から退いた。多くの地方病院を立て直してきた小澤典行医師(60)を理事長に、また多くの病院運営に携わってきた徳丸隆文氏(59)を理事に迎えた。事業承継をして再出発したのだ。
◆避難に耐えられない患者と病院に残った父
震災から12年半、病院の創設者で震災後、長らく常勤医1人で病院を支えた父英男元院長=享年81歳=が亡くなり、7年がたとうとしていた。何度も閉鎖の危機に見舞われながら、己保さんは「患者のためにできることを粛々とする」という父の生涯を懸けた地域医療への思いを守ってきた。
2011年3月。震災当時、病院には内科と精神科で101人の入院患者がいた。建物は地震を耐えたものの、川を遡上(そじょう)した津波で一時孤立。停電は古い非常用ディーゼルで乗り切り、底をつく燃料や食料の確保に奔走した。水も消防団や自衛隊の給水でしのいだ。
物流も途絶える中「商品を自由に使って」とスーパーの鍵を預けてくれた社長も。県職員は、動かせる入院患者の受け入れ先の病院を必死で探してくれた。英男元院長は避難に耐えられない患者37人と、病院にとどまることを決意した。おかげで震災関連死を出すことはなかった。
◆常勤医師は1人 周辺からは助けを求める人々が
避難で看護師やスタッフも減り、ぎりぎりの状態が続く中、1カ月半ほどして東京から非常勤医師が週末の当直に戻ってきてくれた。それでも普段は、英男元院長が常勤医師1人で、朝から夜まで患者を診続けた。休むのは病院の隣の「社宅」で浅い睡眠を取る間だけ。過重な負担が、元院長の体をむしばんでいった。
避難で住民が減り、事故前は月500人前後だった外来患者が一時は数十人まで落ち込んだ。一方で、周辺に病院がない中、体調を崩した人や、認知症で避難所にいられない高齢者が助けを求めてきた。さらに入院患者が1人また1人と戻ってきた。家族が避難する中、「故郷で死にたい」と入院を望む高齢者もいた。
◆「原発が怖い」で人手不足 9割が人件費に
事務長だった己保さんは医師や看護師を求めて奔走。だが「原発が近くて怖い」と人が集まらず、交通費や寮費、被災地に来てもらう手当も加わり、人件費が1.5倍に跳ね上がった。県外からの雇用は給与の半額を補助することを目指した県の支援策もあったが、基準となるのが全国平均額で、実際には高騰する給与の4分の1ほどの補助にしかならなかった。通常の病院では人件費の割合が6割程度なのに比べ、9割近くを占めたこともあった。
周辺の避難指示が解除され始めると、帰ってきた住民や原発、除染作業員などの救急対応が増えた。震災前は救急はほとんど受けていなかったが、病院がない中、英男元院長は救急も時間外も断らなかった。双葉郡管内の救急搬送のうち、多い年で半分近くを高野病院が受け入れた年もあった。双葉地方広域市町村圏組合消防本部の林浩消防課長(57)は言う。「高野病院が診療を続け、救急も受け入れてくれ、どれだけ助かったか。地域の病院が残り、どれほど住民が安心だったか。高野病院の大先生やスタッフの頑張りに感謝しかない」
◆父の死…泣く間もなく病院継続へ奔走
英男元院長が火災で亡くなったのは16年12月30日夜。すでにその数カ月前に倒れて以降、手足が震えたり、起きられない日が増えていたという。限界だった。
己保さんは「父の医師としての人生を見届けなくては」と変わり果てた父に対面。泣く間もなく、病院継続のために奔走した。若い医師らが駆けつけてくれたが、元院長が1人でしていた仕事を埋めるには何人もの医師が必要だった。県からも医師が派遣され何とか回したが、毎月500万円の赤字と人探しが続いた。
◆県は「民間の1病院を個別に支援できない」
東電の賠償も細る中、県に支援を求めたが「地域に病院がなくなっては困るが、民間一病院を個別に支援はできない」と言われた。町が「高野病院を救おう」とクラウドファンディングで集めた約900万円も同じ理由で町の医療財源となり、高野病院の支援に使われたのは一部だった。
何とか病院を続けたいと、特別養護老人ホームを町に譲渡。地域の高齢者のために訪問看護も始めた。「最後は自分の生命保険がある」と己保さんは時折、お守りのように保険証書を眺めた。
そんな中で昨夏、小澤さんと徳丸さんに出会った。2人は全国各地の病院を黒字化させる中で、地域に必要な病院の経営を立て直したいと考えていた。
◆高齢化する地域 ニーズに沿った立て直し
小澤さんは「事故後も診療を続けた元院長らの地域への貢献度は大きい。病院名も職員もそのまま残したいと思った」と言う。どんな苦しい時も笑顔を絶やさない己保さんを「心からすごい」とたたえ、病院顧問として一緒に働くよう口説いた。己保さんの娘たちが医療・薬学の道に進んだことを歓迎し「将来ぜひパートナーに」と言う。
徳丸さんは原発事故後、さらに高齢化が進むこの地域の需要に合わせた立て直しを進める。訪問診療や訪問リハビリを始め、救急の受け入れも開始。在宅と病院の両方を同時に進め、病床稼働率も上げる。救急医療機器導入のため、新たに病院としてのクラウドファンディング(READYFOR 高野病院で検索)も始める。「一病院で経営を保つのは難しい。だから他地域でも事業承継を進め、いくつもの地方病院で人材や資金を支え合える仕組みを作りたい」
◆機能維持のため、地域全体で計画を立てる必要が
双葉郡には事故前、六つの病院があったが、現在は高野病院と、18年に総事業費約24億円で富岡町に造られた県立ふたば医療センター付属病院のみ。さらに大熊町に県立病院の建設計画が進む。民間病院で続いたのは高野病院しかない。
災害時の医療支援を担う国立病院機構災害医療センターの小早川義貴医師(47)は現在、能登半島で活動する。地域に元々あった病院が住民を診る意味は、治療の上でも精神的な安心の上でも意味が大きいという。「個人病院の頑張りで乗り越えられるほど、状況は甘くない。新たに病院を建てるのではなく、既存の施設を利用し、機能を維持するために地域全体で医療や福祉計画を立てるべきだ。それには民間や公にかかわらず、柔軟な支援が必要」。そしてこう言葉を継ぐ。「個人の頑張りで診療を続けた高野病院は、災害で苦しむ他の病院の希望のためにも潰(つぶ)れてはならない」
◆デスクメモ
もとから過疎・高齢化していた地域が壊滅的災害を受ける。その後はどうなるか。いま能登半島で問われるその問題は、福島被災地の現況を見るに、軽々しく希望を口にしづらい。高野病院の存続にしても元院長らの超人的努力のおかげ。自助、共助には限界がある。圧倒的な公助を。(歩)福島原発30キロ圏内、患者を診続けて亡くなった院長 高野病院13年の苦闘が突きつける「大災害後の地域医療」
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