<■197行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> コロナウィルス感染症というのは、たぶんあると思う。 それに対し、ワクチンが効果があるかどうか??以下の記事の人は、コロナに感染してしまったのだけど、ワクチン接種してればよかったなんてことは、言っていない。 なんで、こんなウイルスが出現したのか?? そのことに、ターゲットを絞るべきではないか?? 東京新聞が、良い子ぶっているとか、そんなことは、枝葉の問題ではないか?? ーーー以下引用 2年たっても味覚と嗅覚が…記者が悩まされるコロナ後遺症 5類移行で「明けた」周囲とのギャップに困惑(東京新聞) 2023年6月12日 06時00分 https://www.tokyo-np.co.jp/article/255284?rct=national https://www.tokyo-np.co.jp/article/255284/2?rct=national https://www.tokyo-np.co.jp/article/255284/3?rct=national https://www.tokyo-np.co.jp/article/255284/4?rct=national https://www.tokyo-np.co.jp/article/255284/5?rct=national https://www.tokyo-np.co.jp/article/255284/6?rct=national 新型コロナウイルスの感染症法上の位置付けが5類に引き下げられ、約1カ月。街には活気が戻り、「脱コロナ」が急速に進む。だが、今も後遺症に悩まされている人たちがいる。私(40歳、男性)も感染から2年たったが、嗅覚・味覚の障害が完治していない。(神谷慶) ◆「第4波」で感染、新聞に載った 私が感染したのは2021年5月。中部地方の取材拠点で働いていた時だ。第4波のさなか。当初「英国型」と呼ばれたアルファ株が猛威を奮っていた。 ある朝、微熱が出て、クリニックの駐車場で自家用車に乗ったままPCR検査を受けた。翌日、電話で医師から「お気の毒ですが…」と前置きされ、「陽性」と告げられた。 できる限り人混みを避け、会食も旅行も控えていた。独身で感染経路は不明。当時、ワクチンはまだ医療従事者や高齢者らしか接種できず、未接種だった。 陽性が判明した翌日、新聞の地方版に「本紙記者 コロナ感染」の見出しで短い記事が掲載された。身近に感染者が出ることがまだ「ニュース」だった。記事では「〜地方に勤務する男性記者」としか書かれなかったため、「あなたが感染した記者ですか?」という電話が事務所にかかってきた。 ◆発症2日後…味が薄く、香りも遠く感じた 外出できない中、近隣市に住む親が玄関先に置いてくれる食事が頼りだった。発症2日後、親が置いてくれたウナギのかば焼きの味が以前の3〜4割しか感じられないことに気付いた。香りも「遠く」に感じた。しかし、感染によって嗅覚・味覚に異常が生じることがあると報道で知っていたから、不安は覚えなかった。 それ以上につらかったのが、悪酔いした時のような目まいと悪寒、関節痛だ。上司は「自分を決して責めるな。誰も悪くない」と励ましてくれたが、「周りに迷惑をかけてしまい、申し訳ない」という気持ちは拭えなかった。自宅玄関や事務所の前にインスタント食品が差し入れられた。誰からかは今も不明だが、疫病退散の御利益があるとされる妖怪「アマビエ」の小さな人形も届いた。 ◆「軽症」で仕事に復帰 でも倦怠感で動けなかった 感染自体は「軽症」だった。自宅と療養施設で5日間ずつ過ごした後、仕事に復帰した。同僚がカバーしてくれた分を取り戻そうと必死だったが、3週間もすると、強い疲労感・倦怠けんたい感に襲われた。体がだるくなり、動けない。めまいがして、手足が軽くしびれ、重たい血液が体中を流れるような感じがした。体を起こしていられず、一人で床にあおむけになり、ラッコのようにノートパソコンを胸に抱えながら原稿を書いたこともあった。 集中力も持続しない。車の運転中、信号待ちの間に急に眠気が襲ってくることもあった。体力が低下したのかと思い、夜にウオーキングに出かけたが、帰宅後、玄関の上がりかまちに座り込み、靴も脱がずにそのまま朝まで寝てしまった。 体が思うように動かない自分が歯がゆかった。かつてのように、行こうと思えばどこへでも行ける自分ではなくなっていた。 ◆感染翌月に後遺症外来で検査した 早く元のように仕事をしたい一心で、21年6月、大学病院の付属クリニックを訪ねた。採血検査では、元々高いコレステロール値以外、目立った異常が出なかった。「痛み止めや漢方薬は出せるが、疲労感・倦怠感、嗅覚・味覚障害などが即座に治るような西洋薬はないんです」。担当医は説明した。 腕にニンニク臭のある液体を注射し、においを感知するまでの時間と持続時間を計測する検査を受けた。その結果、「重度の嗅覚障害。数値が良くなく、完全に元に戻すのは難しい」と告げられた。一時的な症状と考えていただけに、すぐには意味が飲み込めなかった。漢方薬、点鼻薬、ビタミン剤が処方され、バラ、レモン、ユーカリ、クローブの香りを朝晩10秒ずつ毎日嗅ぐ訓練を勧められた。指示通りにしたが、嗅覚・味覚はその後、ますます鈍り、においと味をほぼ感じなくなった。副鼻腔ふくびくう炎など別の病気を疑い、別の耳鼻咽喉科でも検査したが、そうではなかった。 ◆味とにおいを感じなくなって体重が12キロ減った 味とにおいがしないのは、色彩が消えた世界のようだ。体感をどう説明したら分かりやすいだろう。鼻詰まりは起こしていないのに、鼻の奥にぶ厚い幕が下りている感覚。においや味の有無は分かるのだが、その輪郭や表情が失われていて脳まで伝わってこない。 ほぼ「無味無臭」の固形物をかんでいると、もどしそうになるため、食事は夜に1度だけ。空腹の勢いで、あまりかまずにのみ込んだ。日中はゼリー飲料や蜂蜜を入れたヨーグルトでしのぎ、サプリメントで栄養を補って仕事をこなした。療養終了後の8カ月で、体重は12キロ減った。「ちゃんとご飯食べてる?」「げっそりしたね」「覇気がなくなったな」。以前からお世話になっている取材先や社内で、しきりに心配されるようになった。 ◆結婚式でも、電車でも、周りとは違った ある時、親友の結婚式があった。久々に着たスーツのズボンはぶかぶかで、ウエストの隙間に拳が入った。ベルトを通すと、巾着袋を絞ったみたいになった。立派な式場。フォアグラ、ウニ、ステーキと、円卓に料理が次々運ばれてきたが、食べるのが遅い私の前だけ皿が増えていく。前夜から食事を抜いて臨んだが、その状況に胃が痛くなった。後遺症の説明をして、場の雰囲気を壊したくもない。周りの人たちが語る料理の感想に合わせ、少し表現を変えてつぶやきながら、ビールで流し込んだ。 またある時、電車で7人掛けシートの端っこに座った。乗客の多い時間帯だったが、隣や向かいの席には誰も座らない。次の駅に着き、乗ってきた男の子が「げー、くっさ。よく座っていられるな」と声を上げた。すぐ横のドアの前に、嘔吐おうと物が広がっていた。臭気があったのだろうが、気づかなかった。塗りたてのペンキも、掃除されていない公衆トイレも、一切臭いが気にならなくなった。 ◆運動して疲労に襲われ、憂さを晴らそうと酒を飲んだ 食の楽しみが全くなかったかと言えば、そうでもない。感染直前までテイクアウトしたり1人で通ったりしていた店のメニューは、記憶の中の「なじみの味」を思い描けそうな気がして、同じ物ばかりを注文して食べていた。「のど越し」は感じるから、炭酸飲料をよく飲んだ。 体力を取り戻したくて、連休は初日に1万歩以上ウオーキングした。翌日、たいてい起き上がれないほどの疲労に襲われた。憂さを晴らすため、酒も飲んだ。これも翌日、だるさが増した。疲れるまで動くことも、飲酒も、後遺症外来の医師が「禁忌」としていることを後に知った。「たくさん歩いたから、だるい」「酒を飲んだから、だるい」という、原因と結果がそのまま結びつく世界が恋しかったのだと思う。 漢方薬のおかげか、感染から半年〜9カ月後をピークに、疲労感・倦怠感は徐々に和らいできた。ただ、嗅覚・味覚は戻らず、治癒を半ば諦めていた。良くなる兆しがまるでなかったし、医師から「永続的に近い状態で症状が続く可能性がある」と言われていたからだ。 疲労感・倦怠感に比べれば、味やにおいがしないことは不思議と「つらい」と感じなくなっていた。コロナ禍の「無感動」に慣れたと言うべきか。学生時代によく読んだ19世紀の文豪ドストエフスキーは、人間のことを「どんなことにでも慣れられる存在」と定義した。本当にその通りだと思った。 ◆「時間はかかりますが、治ります」の言葉に震えた 22年秋、東京に転勤した。その後も、23年の年明けまで中部地方の後遺症外来に通ったが、「特効薬的な治療はありません。従来の嗅覚の訓練を続けることに尽きますね」と言われていた。 新幹線で通うのも大変だったため、ニュースで見ていた「ヒラハタクリニック」(東京都渋谷区)の平畑光一院長(45)に診てもらおうと、予約の電話をかけてみた。2月下旬にもかかわらず「最短でも5月中旬まで予約が取れない」とのことだったので、受付人数に上限がある「予約外診療」に望みを賭け、クリニックを直接訪ねた。 平日夜の午後6時に到着すると、3列並ぶ待合室のベンチに人がぎっしり座っていた。若い人、しかも女性が多いことに驚いた。3時間待った。途中2回、「きょうは帰ろうか」と迷った。やっと名前が呼ばれ、診察室で経過と症状を説明。「やはり治らないでしょうか」。そう聞くと、平畑院長は「嗅覚・味覚は、時間はかかりますが、治ります。大丈夫ですよ」と言った。「治ります」。医師から初めて聞いた前向きな言葉に、思わず背筋が震えた。 ◆確立されていない治療法を試した 「はりを頭に打つと改善する人もいます。試してみますか」。長さ3センチのはりを数センチ間隔で縦並びに2本、前頭部に打ってもらった。頭にはりが刺さったまま、腹部の触診を受け、舌の状態を見てもらい、「漢方薬を別の種類に変えた方が良いでしょうね」と言われた。初めてで、驚くことばかりだった。確立された治療法がないことを実感した。 生活療法のポイントが書かれたプリントをもらい、「亜鉛不足や胃酸の逆流に注意するなど、試すことが多くあって大変ですが、やれるだけやってください。特に、鼻うがいに加え、Bスポット療法(上咽頭擦過療法)がよく効くかもしれません」と勧められた。 ◆Bスポット療法 綿棒が赤く染まった 鼻の奥の突き当たりと喉の接続部分が上咽頭。別名「鼻咽腔びいんくう」といい、頭文字を取って「Bスポット」とも呼ばれる。「患者のほぼ全員に慢性の上咽頭炎が見られるのが、後遺症の一つの特徴」と平畑院長。その部分に、消炎効果がある1%以下の塩化亜鉛などを、綿棒で直接塗り込むのがBスポット療法。効果には個人差があり、また、炎症が治まれば症状が改善するという単純なものでもないらしい。 翌日、この療法を行っている耳鼻咽喉科医院を訪ねた。ファイバースコープで鼻の奥をのぞいてもらうと炎症が認められ、さっそく試すことにした。インフルエンザの検査で、鼻の最奥部まで綿棒を入れられたことがあると思う。左右それぞれの鼻の穴と、喉から、少し念入りにあの作業をすると言えば、その痛さが伝わりやすいだろうか。上咽頭が炎症を起こしてただれていると出血するそうだが、使われた綿棒の先は真っ赤に染まった。その後3時間、インフルエンザで一番ひどい時のような喉の痛みが続いた。あまりに痛くて、医院に引き返してもう一度診てもらおうかとさえ思った。 ◆鼻をよぎったのはクミンの香りだった 全ての人に目覚ましい効果があるわけではないというが、私には改善の兆しが見えた。 一度試した翌日、カレー屋の店先で、クミン(スパイス)の香りがさっと鼻をよぎった。治療を5回試すと、電車内で近くに立った人の整髪料の香りを、10回で自分の枕の臭い(加齢臭)を感じるようになった。20回を超えると、自分が暮らす部屋の畳のにおいに気付いた。味覚も連動しているようで、毎日飲んでいる漢方薬を「苦い」と感じるようになった。3月半ばからは、昼にも普通の食事を取るようになった。料理の繊細な味こそ、まだ分からないものの。 治療はもう30回に近づく。5月下旬、仕事で神奈川県横須賀市に行く機会があった。海沿いを走るバスを降りた途端、潮の香りに気付いた。童心に返るように、心が躍った。懐かしいにおいと一つ一つ再会する新鮮さとありがたみを、日々の中で噛みしめている。いろいろな治療法を諦めずに試すことが大切だと感じている。 ◆「明けていく」時代から、置き去りにされる患者たち 5類移行後も、通院しているヒラハタクリニックの待合室は満席。若い人が多く、頭を両手で抱え、うなだれたままの男性もいる。一方、近くの繁華街は大勢の人が行き交い、「コロナ明け」を謳歌おうかしているようにも見える。隔たりの大きさに困惑する。 「私は、はずれくじを引いた」。重い後遺症に苦しんできた若い女性は、自身の孤独感をこう言い表した。そもそも感染の経験がない人には、共感できるものではないかもしれない。感染しても後遺症がない人も多い。さらに、後遺症が現れたとしても、症状の種類や程度は千差万別だ。 「気のせいではないか」「動けないというが、さぼっているのでは」。検査や画像診断で異常が出ないことが多く、客観的に分からないから、周囲から冷ややかな視線を浴びてしまうことがある。勤務先をはじめ、家族、果ては医療機関からでさえも。だが、誰もが感染し、そして、誰もが後遺症に悩む可能性がある。だからこそ、もし近くに苦しむ人がいたら、理解する姿勢を示してあげてほしいと願う。その人はきっと孤独でもあるはずだから。
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