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(回答先: リゾマンオーナーに向いているのは、働く必要が無くて、結婚もしていなくて、毎日毎日スキーと酒を楽しんでいるこういう人だけ… 投稿者 中川隆 日時 2024 年 4 月 04 日 23:59:43)
新潟県民が、なぜ、田中角栄様なのかを、私は昨日の旅で知った。
群馬県上毛高原から新潟県越後湯沢と言えば、新幹線では、1駅、上越線だと、水上から越後湯沢まで、6駅
関越道だと、「水上IC」の次は、「湯沢IC」になりますよね。
国道17号線は、昭和34年に「三国トンネル」が出来、山をトンネルで越えるようになりました。
でも、そのトンネルたちは、あくまでもあの川端康成が「雪国」を執筆した大正11年に、上越線が清水トンネルを抜けたことで初めて、群馬県から新潟県に抜けられるようになったそうだ。。。
その前までは、、、
「旧三国街道」
こんな小さな道を行き来していたそうです。
そして、こんな道を行き来するのは、大変だっただろうし、
また、山を越えれば、大雪の湯沢に達していました。
これは、江戸時代の旅人たちにとって、ここは、試練だったのだろうねぇ
関東地方と「新潟県」と言えば、上越新幹線で東京駅から越後湯沢駅まで、1時間半ぐらいで着いてしまう非常に近い印象だし、そして、長野から比べてもすごい近い印象になりますよね。
でも、それは、あくまでも、大正11年に国鉄が、「清水トンネル」を開通させたことが大いに強いことであったと、今回、この旧三国街道で、三国峠を越えてみて、大いに感じてしまいました。
明治時代まで、関東地方から見て、新潟と言うのは、「長野」を回らないといけない隣の都市なのに、超遠方にある「県」であると感じてしまっていたのかもしれないと、今回、「旧三国街道」「三国峠」を越えてみて、大いに感じてしまいました。
そして、当然ながら、この一帯と言うのは、「豪雪地帯」
だから、冬には全面的に通行止めであったのかもしれない。
この道を歩いて見て、あの川端康成の「雪国」が、どれだけ、一般庶民にとって、驚きであり、新しい「道」の意味であったかと言うこと、旧道を歩いてみて、大いに感じさせられました!!!
https://ameblo.jp/toshiahrut/entry-12418363415.html
田中角栄と道路建設
昭和22年に衆議院議員に初当選した田中角栄は、ローカル私鉄の長岡鉄道の社長となり、公約の電化を実現したことから、地元の強い支持を受けるようになった。
この長岡鉄道は昭和50年に廃止された。新幹線の時代が到来し、上越新幹線の建設が始まっていた。
1976年11月、田中がロッキード事件で逮捕されてから4ヵ月後、地元・新潟県柏崎市で聞かれた「田中角栄前総理を囲む若人の集い」での講演の中で、田中はみずからの政治力の原点についてこう語っている。
「私はですな、新潟県の代議士になった時に、三国隨道(トンネル)というのが通っておらない(ために)、新潟県というのは独立国だなと思ったんですよ。
これでは新潟県はよくならん。窓をあけなきや、鎖国経済だと思ったんです。
それで私はね、やっぱり交通網で結ぼうと言ったけれど、できなかったんです。
笑われましたよ、お前なんかにできるもんかって。
先生の政治力はどのようにしてできたんですかと(聞かれましたが)、政治力なんて、大してありません。
大してありませんけどね、私は立法したんです、立法」
故郷・新潟にそびえる三国山脈にトンネルをつくり、太平洋側と交通網で結ぶ――。それが、田中の代議士一年生のころからの政治目標であった。
そしてみずからの力の原点と言った「立法」を通じて、田中は建設省に地歩を築き、目標の実現をめざす。
田中は私邸に、全国の五万分の一の地図を買いそろえていたという。自分の構想にのっとって、道路や鉄道を地図に書き入れていくのが日常であった。
「道路は文化、文化は道路だ」
これが田中の口癖だった。1949年当時、新潟県内の国道舗装率は4.1%で、全国平均の1/5にすぎなかった。冬の間、雪に閉ざされる集落では、人々が力を合わせて手掘りのトンネルを掘って「道」を確保していた。
小学校時代の恩師・金井満男は、田中が語ったひと言ひと言が、今も鮮やかに脳裏によみがえってくるという。
「先生、私の考えはまちがっているかもしれませんが、先生も応援してくれるでしょう。
明治以来の政府は、日本海側に金を、びた一文出していません。
こんなばかげた政治家、政治なんてあったもんじやない。
だから私の生きているかぎり、今日から日本中の金は全部、日本海側につぎ込もうと思っています」
道路整備は、今のように限られた財源の中で分け合っているかぎり、いつまでたっても、地方、特に日本海側に金がまわってこない。
建設省地方道課長、道路局長、そして建設次官を歴任した高橋国一郎は、郷里が、田中の地元である新潟県柏崎市だった。高橋は、田中と深いかかわりを侍つようになった官僚の一人である。
「恩人ですからね、建設の。道路に関するかぎりは。道路三法をみずから提案し、通してくださった方ですから、そういう意味では大変な恩人ですね。日本の道路がこんなによくなったのは田中先生のおかげだというふうに、当時、みんな思ってましたからね」
ガソリン税法成立から一年後の1954年8月、三国山脈を貫く三国トンネルが着工した。
延長1,200メートル、総工費4億2,869万円。三国トンネルの工事の進捗状況を、当時のニュース映画『新潟日報ニュース』は、いくぶん高揚した調子で伝えている。
タイトルは「全通迫る三国トンネル」。
「徳川時代、参勤交代の道路として人馬の往来の激しかった三国街道も、国鉄上越線の開通以後はほとんど交通もとだえ、ただハイキングの人が通り過ぎる程度でした。
しかし、今やこの国道17号線は、首都・東京から埼玉、群馬の両県を経て裏日本の要衝・新潟市に通じる本土横断最短の幹線道路として、雄々しく浮かび上がってきました。(中略)
日本一の米作県・新潟県と、大消費地・東京を結ぶ産業経済の大動脈は、いよいよ待望の全通に近づいてきたのです」
そして工事開始から3年後の1957年12月、ついに三国トンネルは完成。誰もが疑った目標を田中は実現したのだった。
田中はやがて、国道のルート決定にも影響力を及ぼすようになる。
1962年春、桜の花が咲き始めたころのことだった。河北のところに、田中から電話がかかってきた。
「おい局長、どうだ、道路網昇格運動はどうなった?」
「はい、ご連絡遅くなりまして、すみませんでした。すぐ行きますから」
そのころ、都道府県道を国道に昇格してほしいという陳情に追われていた河北は、国道に昇格させることを決めたルートを記した全国一級国道地図を携え、目白台にある田中の私邸へと急いだ。
河北がルートの説明を始めようとすると、田中は一枚の地図を見せた。
それは田中の選挙区である新潟3区の小出町と堀之内町の載っている五万分の一の地図だった。田中はその地図を河北の前に広げ、赤マジックで無造作にサッサッと一本の線を引いていった。
そして
「これでやってくれよ」
と指示した。
それは、国道17号線のルートだった。1952年に国道に認定された国道17号線は、新潟と首都圏を結ぶ大動脈であり、地元にとって17号線がどこを通るかは死活問題でもあった。
河北の記憶によれば、田中に呼ばれたのは、17号線の改良計画で小出町周辺の新しいルートをどう通すかを決めるための調査を始めようとしていた矢先のことだったという。
建設省道路局の考えていたルートはまだ公表されておらず、変更の可能な時期でもあった。
田中の指示したルートは、群馬県方面から魚野川の東を通ってくる17号線を、そのまま東側を通らずに橋を架けて西側の堀之内町を通り、また対岸に戻すという「逆コ」の字形のルートであった。
「堀之内を通さなければだめだ」
それが田中の強い意向だった。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/tanaka1.htm#0
- 本多勝一のロッキード疑獄で保釈中の選挙を新潟三区の山村で取材したレポート「田中角栄を圧勝させた側の心理と論理」を紹介し… 中川隆 2024/4/05 18:55:01
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