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伊藤貫先生は宗教や神の事が全くわかっていない
神は迷信でも、世界の法則を象徴する様な抽象的なものでもないんだよ。神や宗教がどういうものかというのは深層心理学者のユングが100年前に既に解明している:
神とは何か?
ユングが、1920年頃だったかアメリカ・インディアンのところに行くと、みんな太陽を拝んでいるのです。
ユングは感心して見ていた。いろいろ訊きたかったもので、昼頃になって長老のところに行き、
「あなた方は太陽を拝んでいるけれども、太陽は神なのか」
と訊いた。そしたら長老が笑って、
「あんなのは神ではない」
と言ったらしいのです。ユングが
「朝、あなた方は太陽を拝んでいたじゃないか。 神様じゃないのに拝んでいたのか」
と言うと、インディアンの人々はユングの質問の意味がわからなくなってくる。
話をしていてだんだんわかってきたことは、要するに朝拝んでいるときだけは太陽は神様なのです。
「太陽は神であるのか、ないのか」という我々の考え方は、悪いところでもあり、いいところでもある。我々は、どうしてもそういう考え方をしてしまうのですね。
今の話で言えば、西洋の発想では「薔薇は神ですか、神ではありませんか」と訊いて、神だったら拝む、神でなかったら拝まないということになるというふうに、何でも二つに分けて考えようとするのです。
インディアンの話を聞いてユングがわかったことは、こういうふうに書いているのですが、
太陽が昇る瞬間のすべて、つまり、それを見ている私、共にいるみんな、それからおそらく雲など、そのすべてのものがものすごく内的な感動を生みます。
それこそが「神」だと言うのです。
だから、これが神だと指し示せるものではなく、生きているということが神の体験になっているから拝むのです。
それをどうしても近代人は、拝んでいる対象が神だと間違ってしまう。
ここが非常に大事なところです。
今でも日本人には名残が残っています。
山に登ったら大きな木にしめ縄がしてあったり、大きな岩にしめ縄がしてあったりする。
あれは、別に木や岩が神様なのではなく、大きい木や石に対面したときに感じるすべて、これが神なんです。
区別して考えるのは我々の癖であって、昔の人はそういう考え方ではなく、全体的なものを神と感じていたのです。
C・Gユングは、人間の心というものは人それぞれ違うが、深層意識の中には万人共通のファクターがいくつも存在している、とした。
そのファクターのことを元型(アーキタイプ)と呼び、代表的な元型は影(シャドウ)、太母(グレートマザー)、アニマ、アニムス、老賢者(オールドワイズマン)の4つである。
大雑把に言えば、、これらの元型が外界の刺激を受けて互いに反応しあい、人の思考・行動パターンを左右する、というわけだ。
対馬の神は海の中に住んでいる。その姿は子ども、老人、そして蛇体の神として感得された。潜水漁法で生計を立てていた水人(海女、海士)たちの崇める神の名を海童磯良という。
磯良のイメージが老翁や童子の姿になるのは、ユングの深層心理学の立場から見ても老賢者(Old Wise Man)の元型に関連づけてみることができる。
それはわれわれの普遍的、集合的意識の表現されたものであると考えられる。 老賢者は自己性(Self)=超越的自己=神が人格化されてイメージされるもので、われわれに知恵を与え、その人の進むべき道を示唆する指導者的な役割を果たす元型である。
- 伊藤貫先生は在米ユダヤ人の考え方が全くわかっていない 中川隆 2024/2/09 08:56:17
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