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日本兵は赤ん坊を串刺しにしたか?
日中戦争やアジア太平洋戦争において、日本兵が何の罪もない赤ん坊を銃剣で串刺しにした、という話が、日本軍の残虐性を象徴するエピソードとして語られることがある。
これは本当のことなのだろうか?
試しに「日本兵 赤ん坊 銃剣」といったキーワードでウェブを検索してみると、これは嘘だ、中国側のプロパガンダだ、と(例によって何ら根拠を示すことなく)主張するウヨサイトが続々と引っかかる。
だが、ネットde真実の皆さんには残念だろうが、どの程度一般的な行為だったかはともかく、日本兵がこのようなことを行った事例がいくつも存在したことは間違いないのだ。
被害証言(フィリピン)
フィリピンでも、日本軍による同様な残虐行為についての証言がある。こちらは大戦末期の1945年2月、バタンガス州アンチポロでの事例[3]。
その夜は、朝めしを食べに行く食堂の夫婦に、夕食に呼ばれた。(略)
この家の夫人は、パミンタハンの虐殺当時、アンチポロの集落に住んでいた。1945年2月27日、男たちがカルメルの神学校に行った後の午前10時頃、日本兵はバランガイ(注:村)に男たちが残っていないかどうか、家々を回って捜しにやって来た。
「私たちは日本兵が恐いんで、30人位の女や子どもたちが一つの家に集まって震えていたのよ。そこに二人の兵隊がやって来て、戸を開けたの。恐くって子どもたちが泣き出した。私も泣いたわ。特に一人の赤子が烈しく泣き続けたのよ。すると日本兵が怒り出し、母親から赤ん坊をひったくると上に投げたの。それを別な兵隊が銃剣で突き刺したのよ」
「それ、ほんとうに目撃したの?」
私は思わず聞き返した。
「見たわよ、ほんとうに。そして、深井戸に投げ込んだの。私も母親と一緒だったけど、泣きやまなかったので、深い傷ではなかったけど、ここを突かれたの」
彼女は、左胸の上をブラウスの上から指先で示した。
「痛いよりも恐かったわ。後で痛みを感じたけど、あの時は恐くて恐くて。日本兵が来るとすぐ逃げて、物陰からそっとのぞき見したものよ。全部で十人は突かれて傷ついたはずよ」
こちらは同年3月、同州ブリハンで起きた集団虐殺事件の中での事例[4]。
マリシリーノ・マガリンさんは、7歳で戦争孤児になった。1945年3月4日で、パミンタハンの大虐殺から数日後のことだ。
(略)
「家族は、両親と兄弟姉妹の11人だった。ルンバンのバランガイに住んでいたけど、アメリカと日本の戦争が激しくなってきたんで、ブリハンに疎開していた。そこに日本兵が来て500人位の人たちを、夜の8時頃に谷川の近くの広場に連れて行った。最初に、赤ん坊が放り上げられて殺されたんだ」
「ほんとうに目撃したんですか?」
よく耳にすることなので、思わず聞き返した。
「ほんとうですよ。その夜は月夜だったんです。日本軍はみんなに列を作るように、大声で言った。でも、子どもたちは異様な雰囲気におびえて泣きだした。私も泣きましたよ。兵隊は目をつり上げて恐い顔をしていたが、激しく泣く赤ん坊を母親からひったくると、突き殺して川の方に投げてしまった。
子どもが泣き、大人たちが悲鳴を上げる中で、5人位ずつ殺し始めた。私は兄や姉たちと一緒に銃剣でやられた。その前に私はジュウドウで倒されて、後ろから突かれた。
日本兵はみんなを殺してしまうと、死体の上に枯れたココナツの葉をかけたんで、火をつけられやしないかと思った。
気がついたら、朝だった。日本兵がやって来て、まだ生きている人がいると、銃剣で殺していった。
私は死んだふりをしていたけど、すぐ上の姉は日本兵を恐がって逃げ出そうとしたんで、本当に殺されてしまった。
日本兵が行ってから、ゆっくりゆっくり這い出した。疎開して誰もいない小さな家にたどりついた。(略)
その後で、知り合いの人に助けられた。医者も薬もないから、ココナツオイルとからしを傷につけておくだけだった。元気になったのは一年後だった。ヤシ油とからしだけでは、背中から胸に突き抜けた銃剣の傷が治らないので、アメリカ軍はマニラのジェネラルホスピタルに運んで治療してくれた。病院に6ヵ月入院してましたよ。
こちらは同年4月から5月にかけて、マニラ東方インファンタ地区一帯で「ゲリラ討伐」と称して行われた住民虐殺の中での事例[5]。
バランガイ・キャプテン(注:村長)の家の近くで、油気のないぼさぼさ髪の主婦のソンニャ・ポハルテさんに会った。
「私が7歳の時でしたよ、日本兵がここで虐殺したのは……。うちでは、母と妹三人に弟一人が殺されたんです。母は妊娠していたから、もう一人殺され、残ったのは父と私だけでした。
日本軍はココナツの枯葉を燃やし、明かりの代わりにして家に来ると、眠っていた一歳の弟を足でけり、上に放り上げて銃剣で突き殺した。驚いて、父と私は飛び出して逃げたけど、後の者はみんな殺されてしまった。私は父とばらばらになって湿地に逃げ込んで震えていましたよ。父と会ったのは一週間後でした。その後で、ポレリオにボートで疎開したの。
母や妹たちが急にいなくなったから、ときおり、思い出して泣きましたよ。妹と口げんかをよくしたけど、にぎやかな家が急に寂しくなってしまったの」
「近所の人から日本人のあんたが来たと知らされた時は、また殺しに来たんじゃないかと思って、びっくりしたわ。昔の日本兵は残酷だったから恐くって恐くって。長い間恨みました。なぜ母を殺したんだと……」
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/10/29/095521
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