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明治維新以降、日本はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソンの手先として動いてきた。イギリスは1840年から42年にかけて「アヘン戦争」、56年から60年にかけて「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」を仕掛け、利権を手にするほか麻薬取引で大儲けしたが、中国(清)を占領することはできなかった。戦力が足りなかったのだ。その戦力を日本が提供することになる。だからこそイギリスは技術を提供、資金を融資したわけだ。
日本をアジア侵略へと導く上で特に重要な役割を果たしたのはイギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウ、アメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドル。こうした人びとは明治政府に対して大陸を侵略するようにけしかけている。
デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その口実を作るため、日本政府は琉球を急遽、併合したわけである。
イギリスを後ろ盾とする明治政権は琉球を併合した後1874年に台湾へ派兵、75年には李氏chousenの首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発する。
1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こってchousen王朝が揺らぐと日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方でchousen政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争で日本は勝利し、大陸侵略を始める。
chousenでは高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃し、閔妃を含む女性3名を殺害。その際、性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。
閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。
イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。詳細は割愛するが、1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本の海軍に敗北する。
そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したのだが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄されている。小村は日本がアングロ・サクソンの手先という立場になることを拒否したと言えるだろう。
小村とは逆にアメリカのために動いたのが金子堅太郎。この人物はハーバード大学で法律を学んでいるが、彼の2年後輩がセオドア・ルーズベルトだ。1890年に金子とルーズベルトはルーズベルトの自宅で合い、親しくなった。なお、金子の親友だった団琢磨は同じ時期にマサチューセッツ工科大学で学び、後に三井財閥の大番頭と呼ばれるようになる。
日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。また日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係がkankoku併合に結びつく。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
明治維新以降、イギリスとアメリカは日本に対して大きな影響力を持つことになるが、より正確に言うならば、シティとウォール街、つまり米英の巨大金融資本だ。1932年にフランクリン・ルーズベルトが大統領選挙で勝利するとウォール街の大物はクーデターを計画、「ファシズム体制の樹立」を目論んだ。この計画はスメドリー・バトラー退役少将によって阻止され、その内容をバトラーは議会で証言している。米英金融資本がナチスへ資金を提供していたことも判明している。
バトラーから情報を得たジャーナリストのポール・コムリー・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。
ウォール街の中心的な金融機関はJPモルガンだったが、その総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア。1932年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーのいとこはモルガン・ジュニアの妻。グルー自身は日本の支配層に太いパイプを持っていた。彼の人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、特に親しかった人物は松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。
1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入した。翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)
クーデター未遂後もルーズベルト大統領は金融資本の力を無視できなかったが、それでも大統領が反帝国主義、反ファシズムだという意味は大きい。そのルーズベルトがドイツが降伏する前の月、つまり1945年4月に急死、ニューディール派はウォール街に主導権を奪われた。大戦後には「赤狩り」で反ファシズム派は大きなダメージを受け、ナチスの幹部や協力者はアメリカ政府の手で救い出され、雇用されることになる。その延長線上にウクライナのネオ・ナチも存在しているわけだ。
日本でも戦争犯罪に問われて当然の軍人、特高の幹部、思想検察、裁判官などが戦後も要職についている。東京裁判は「民主化」を演出するセレモニーに過ぎなかった。そもそも戦前日本の最高責任者が責任を問われていない。
そしてはじまった戦後日本だが、そのあり方を決めたのがジャパン・ロビー。その中心人物がジョセフ・グルーであり、背後にはウォール街の大物がいた。
おそらく日本軍への警戒からアメリカは憲法に第9条を入れたが、処分が進むと再び日本を手先として使おうとする。それが劇的に進んだのがソ連消滅から4年後の1995年だ。この年の2月にジョセフ・ナイ国防次官補は「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表、日本をアメリカの戦争マシーンに組み込む方針を示した。このレポートによって、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれた。
レポートが発表された翌月、帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、國松孝次警察庁長官が狙撃されている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202210280000/
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