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景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)が佐伯好郎によって提唱されたが、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、殆どが語呂合わせであり、説が発表された当時から現代まで一貫して否定され続けている上に、佐伯は晩年に、弟子の服部之総の「先生はどんな動機から景教碑文研究をはじめられたのでしょうか?」という質問に対し、「ユダヤ資本を日本に導入する志をたてて、そのために打った第一手が大秦氏=猶太(ユダヤ)人の着想であった」と語り、服部を仰天させている。
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質問 : 渡来人の秦氏は中央アジアの弓月国から来たそうですが、本当ですか?
回答 : 本当の訳がありませんが、この話は日猶同祖論の派生形である「ユダヤ人日本渡来説」信奉者に根強い人気があります。書籍もいろいろ出ていますし、ネットにも情報がいっぱい出てきますので、信じている方々もいっぱいおられます。しかし、ちょっと調べると、根拠薄弱な情報を寄せ集めて成り立っているだけなのでバカバカしくなるぐらいです。
信奉者たちが使う根拠は、応神天皇の時代に百済から一族を率いて渡来したという「弓月君」という人物の存在で、これは『日本書紀』(720年)に記述があります。また『新撰姓氏録』(815年)にも融通王、別名夕月君が応神天皇の時代に渡来したとあります。この夕月君は渡来人グループである秦氏のリーダーと目される人物です。
次に信奉者たちはこの夕月君は中央アジアから来たという説を展開します。資治通鑑という中国の歴史書に夕月国という国の存在が書かれており、夕月君は夕月国から来たのであるとします。
さらに、当時の中央アジアにはユダヤ人が住み着いている街があったという話を加えることで「秦氏はユダヤ人だった」説が完成します。以下、順々に考えていきましょう。
夕月君自体は実在性が疑われている人物ですが、かなり古い時代に、「秦氏」を名乗る氏族グループが渡来していたことは多分確かでしょう。ただし、応神天皇の時代とされているので正確な年代は分かりません。応神天皇は日本書紀で111歳、古事記で130歳まで生きたことになっており、実在性も疑われている天皇です。古事記や日本書紀の記述を鵜呑みにするならば、3世紀から4世紀にかけて生きたことになっており、そうであるならば卑弥呼と同時代人ということになります。応神天皇は中国の史書にに出てくる倭王讃ではないかとも言われており、そうなると5世紀前半の人となります。6世紀の継体天皇の時代以降は歴史記述ははっきりしておりますので、応神天皇は5世紀以前の人でしょう。従って「秦氏」の渡来人グループが日本にやってきたのは5世紀以前の話と考えるのが順当なところです。
秦氏のリーダーと目される夕月君は百済からやってきたと『日本書紀』記します。『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔であるとのこと。おそらくは、秦氏がそう称していたのでしょう。この二書には中央アジアの出であることを匂わせるような記述は一切ありません。
ところが、佐伯好郎という人が1908年の論文で夕月君は、中央アジアの夕月国から来たのだという説を立てます。佐伯は言語学者で、景教の研究で有名な人です。ついでに書けば最初期の日猶同祖論者でもあります。
しかし、弓月国なんて国は中央アジアには存在していません。どの歴史書にも現れません。ネットで検索して出てくる「中央アジアにあった夕月国」の話はすべて秦氏ーユダヤ人説信奉者の方々によるものです。信奉者の方々は決まって資治通鑑に夕月国のことが書いてあると主張しており、おそらくは佐伯がそう言いだしたのでしょう。
現在のwikipediaでは「1908年の論文「太秦を論ず」で発表された「秦氏=ユダヤ人異教徒」説は、古代日本の渡来人系有力氏族・秦氏の本拠地であった京都・太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものであり、当時の歴史学界ではほとんど相手にされなかった(現在も否定されている)」とされています。「弓月君は弓月国から来た」というのも「夕月」という同じ名前からの連想によるもので、それ以上の根拠を持ちません。そもそも夕月「国」は資治通鑑に登場しません。
資治通鑑とは1065年に編纂が始まって1084年に完成した評価の高い歴史書です。しかし「弓月」という言葉が出てくるのは以下の2箇所のみです。
永徽二年(辛亥,公元六五一年)七月,西突厥沙缽羅可汗寇庭州,攻陷金嶺城及蒲類縣,殺略數千人。詔左武候大將軍梁建方、右驍衛大將軍契苾何力為弓月道行軍總管,右驍衛將軍高コ逸、右武候將軍薛孤吳仁為副,發秦、成、岐、雍府兵三萬人及回紇五萬騎以討之。
永淳元年(壬午,公元六八二年)夏,四月,甲子朔,日有食之。 (中略) 阿史那車薄圍弓月城,安西都護王方翼引軍救之,破虜眾於伊麗水,斬首千餘級。
両方とも西突厥と唐の戦争がらみの話の中に出てくる地名であり、「弓月城」とあるので「夕月」という街か城塞はあったのでしょう。しかし7世紀についてのこの2箇所の記述だけから5世紀以前の「弓月国」の存在は引き出せません。そもそも資治通鑑以外の歴史書に「弓月」の地名は出てきません(少なくとも、そういう情報を見たことが私はありません)し、現在の歴史教科書に「夕月国」が中央アジアにあったと書いているものはありません。夕月国とは「秦氏はユダヤ人だった」論者の頭にのみ存在する架空の国家です。
ということで、当時の中央アジアにユダヤ人が住んでいようとも、そもそも夕月国が存在せず、名前が一緒だからというだけの理由で朝鮮半島の百済国にいたグループが中央アジアから来たというのは、あまりにも根拠が薄いのです。ましてや夕月君の実在性自体が疑われていますので、根拠はさらに薄くなります。
なお、「秦氏=ユダヤ人論」には様々なバリエーションがありますが、夕月君が真の始皇帝の末裔を称していたということを使って、「秦の始皇帝の末裔というのは誤りで、紀元4世紀の華北を支配した五胡十六国時代の前秦の王族の末裔であろう」とするものがあります。前秦は五胡の一つである氐族が興した王朝であり、元々は甘粛省から来たとされています。甘粛省の西隣りにはタリム盆地があり、その先が中央アジアです。これなら、夕月国という架空の国家を引き合いに出さなくとも「秦氏=ユダヤ人論」が展開できるとあって、その筋の方々には人気の説ですが、前秦がユダヤ教国家であったというような話はどこにもありません。たとえ、五胡の氐族にユダヤ人の血が流れていようとも、ユダヤ教の伝統が途絶えていれば、その子孫が日本に渡ろうともユダヤ文化の何かが日本に伝わることは何一つあり得ません。
そして、「秦氏=ユダヤ人論」の誰一人として前秦がユダヤ教国家だったと立証しようとする人がいません。そういう、いい加減な話なのです。
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西域では昔からメソポタミア系の牧畜民が小麦栽培をしていて、黄河文明の小麦はメソポタミア系の牧畜民から伝わった。
yu daya 人は元々メソポタミアに居た民族で、旧約聖書の内容は殆どメソポタミアの伝承を受け売りしただけだ。
中国の yu daya的なものは実際にはメソポタミアから伝わったものなんだよ。
弥生人と chousen人は元々黄河の隣の満洲南部に居た民族だから、メソポタミアから伝わったものが沢山あるんだよ。
日本では彦島(山口県)で発見された岩石文字(ペトログリフ)のなかにシュメール文字が見い出されたというショッキングな報告が吉田信啓氏からなされた。
鈴木旭氏は日本のペトログリフからシュメールの神性を象徴する「七枝樹」が見えることから、古代シュメールと古代日本の文化的交流を仮定している。
- 天皇はソウル出身の漢民族、天孫降臨は 漢民族系 chousen人に伝わっていた伝承を流用したもの 中川隆 2023/7/31 23:02:23
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- 天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨 中川隆 2023/7/31 23:29:02
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- 民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツはchousen半島の38°線付近の 中川隆 2023/8/01 00:58:05
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