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(回答先: ツァラトゥストラかく人に言へりき。 見よ。我は汝等に末人を示す。 投稿者 保守や右翼には馬鹿し 日時 2023 年 5 月 29 日 10:13:50)
トクヴィルの言っている事を哲学的に表現するとニーチェになるし、深層心理学的に表現するとユングになるんですね。
言い換えるとトクヴィルの言っている事は当時の知識人の間では一般的な捉え方だったんでしょうね。
社会の底辺の人間のルサンチマン・奴隷道徳は見苦しい
公務員は仕事もしないのに高い給料を貰っていてけしからん、とか
百姓は輸入価格の何倍もの値段で農作物を売っていてけしからん
とかいうのと同じ類の醜い嫉妬心だね。
ルサンチマン
ニーチェが最初に持ち出したのが「ルサンチマン」だった。 ルサンチマン? 響きはいいが、非常に危険な言葉である。フランス語で「恨み」とか「嫉妬」という意味だが、哲学用語としての意味は最悪 ・・・ 絶対にかなわない強者に対し、ねたむ、ひがむ、陰口をたたく ・・・ ここまでは想定内だが、ルサンチマンは陰湿でしつこい。相手を悪者に仕立てあげ、自分を正当化する。そして、ここが肝心なのだが ・・・ すべて想像の中で、行動は一切ナシ。
なんで?
立ち向かえば瞬殺されるから。 なんと惨めな。 「あんた立派だね。頑張れば ・・・」 ぐらいの皮肉の一つも言って、あきらめればいいのに。 ところが、ルサンチマンは、それでは腹の虫がおさまらない。卑屈というか、偏屈というか、いびつというか ・・・
■一神教と多神教
ニーチェは著書「道徳の系譜」の中でこう書いている ・・・ 「高貴な道徳」は、どれも誇らしげにみずからを肯定するところから発展するものだが、「奴隷道徳」は最初から外部のもの、異なっているもの、自分以外のものを否定する、この否定こそが、この道徳の創造的な行為なのだ。 まわりくどいので、カンタンにまとめると、
・高貴な道徳 =社会の道徳
・奴隷道徳 =宗教の道徳
そして、「奴隷道徳=宗教道徳」の本質は、自分以外を否定することにあると言っているのだ。ちなみに、ここでいう宗教とは「旧約聖書=yudaya教&キリスト教」に限定される。
では、なぜ、仏教やヒンズー教ではなく、「yudaya教&キリスト教」なのか? 一神教だから。 一神教は、他の神を一切認めない排他的な宗教である。たとえば、yudaya教、キリスト教、イスラム教 ・・・ じつは、この三大宗教には「唯一神」以外にも共通点がある。 旧約聖書をバイブルにしていること、「普遍的な道徳」をもつことである。ここで、「普遍的道徳」とは、国や民族を超えて有効な道徳をいう。たとえば、yudaya教の「十戒」。読んで字のごとく、10の戒めがあるのだが、両親を敬えとか、人を殺してはいけないとか、嘘をつくなとか ・・・ 誰でも理解・納得できるルールだ。
一方、一神教の反対言葉「多神教」は ・・・ 文字どおり、複数の神を包含する。さらに、多神教の神は、地域に根付いており、普遍性がない。たとえば、古代都市テオティワカンでは「ジャガー神」があがめられたが、ジャガーがいない地域では、宗教そのものが成立しない。 さらに、多神教は、普遍的道徳をもたない。それどころか、生贄(いけにえ)を要求する性悪の神までいた(決めたのは人間だが)。2012年人類滅亡説で話題になったマヤ文明はその最たるものだろう。生贄を制度化していたのだから。
また、古代では、地球上のいたる所でシャーマニズムが存在した(一部の地域では今も存在する)。霊と交信するシャーマンが、占いや儀式を取り行い、為政者を補佐するのだが、王を兼ねることもあった。邪馬台国の卑弥呼もその一人だろう。 というわけで、多神教やシャーマニズムは、太陽や星々、森や動物の霊など、自然をモチーフにしている。つまり、自然と結びついた「自然神」なのだ。ところが、一神教は抽象的な唯一神をつくりあげ、それを崇めるよう強要する。さらに、文明化の名のもとに、森林を伐採し、神々などいないことを証明する。つまり、多神教が「自然神」なら、一神教は「人工神」なのだ。
一方、日本は世界に類を見ない無神論の国である。もっとも、戦国時代までは、日本は熱心な仏教国だった。ところが、織田信長がそれを一変させた。信長は、宗教が政治に口出しすることを極端に嫌い、宗教勢力を根絶やしにしたのである。一向宗「本願寺」との熾烈な総力戦の果てに。 その結果、日本の宗教勢力は弱体化し、無神論の国となった。盆は仏壇の前でチーン(仏教)、クリスマスイヴはケーキをほおばり(キリスト教)、正月には神社(神道)でパンパン。はた目で見ると、花見と変わらない。
ところで、一神教で道徳が重視されるのはなぜか? 治安と秩序をたもつため。 じゃあ、一神教は性悪説!? イエス! そもそも、キリスト教の教えによれば、人間には七つの大罪があるという。ところが、人間は神が創造したというではないか。全知全能の神が罪を作った!?矛盾してません? それとも、神はあえて不出来な人間を造り、大罪で苦しむの眺めて楽しんでいる? やっぱり、この世界は神の見世物小屋かもですね。
■奴隷道徳
ニーチェによれば ・・・ 宗教も神も、ルサンチマンというひねくれ者が作りだした「妄想」にすぎない。戦っても勝ち目はないので、想像上の復讐で埋め合わせしているだけ(身もふたもない)。 そして、ルサンチマンの源流はyudaya教と言い切ったのである。 これは興味深い。さっそく、yudaya教の歴史をみてみよう。 yudaya人が最初に王国を築いたのは紀元前1021年のイスラエル王国である。その後、強国エジプト王国と共存しながら、ダビデとその子ソロモンの治世で全盛期をむかえた。ところが、ソロモン王が死ぬと、内部抗争がおこり、王国はイスラエル王国とユダ王国に分裂した。
そして、ここからyudaya人の苦難が始まる。 まず、紀元前597年、南方のユダ王国が新興の新バビロニアに滅ぼされた。さらに、yudaya民族の支配階級が新バビロニアに連行されたのである。歴史上有名な「バビロン捕囚」である。 ところが、バビロン捕囚には副産物があった。yudaya人が新バビロニアの優れた文化に接することができたのである。中でも、重要と思われるのがギルガメシュ叙事詩(古バビロニア版 or ニネヴェ版)である。 というのも ・・・ 後に、yudaya人が編纂する「旧約聖書」に、ギルガメッシュ叙事詩とソックリの部分があるのだ。 時間軸にそって説明しよう。 バビロン捕囚から60年後、yudaya人に転機が訪れる。紀元前539年、アケメネス朝ペルシアがバビロンに侵攻し、新バビロニアを滅ぼしたのである。ペルシアは異民族に寛大な帝国だった。王キュロス2世の命により、yudaya人はエルサレムに帰還することが許されたのである。その後、yudaya人は旧約聖書とyudaya教を成立させた。 イスラエル王国が滅亡し、現実世界で強者から弱者に転落したタイミングで、yudaya教が成立したこと。しかも、その教義というのが ・・・ 「yudaya民族は選ばれた民である。絶対神ヤハウェを信仰せよ、そうすれば、神が敵対する民族をすべて滅ぼしてくれる」
勝ち目のない敵を蔑むことで、自分を上に置く、欺瞞(ぎまん)ともとれる。このように、現実では勝つことのできない弱者(キリスト教徒)が、精神世界での復讐のために創り出した価値観を、ニーチェは「僧侶的・道徳的価値観」とよんだ。そして、このような卑屈な負け惜しみをルサンチマンと呼んだのである。 つまり ・・・ 勝ち目のない惨めな現実から逃れるため、自己を正当化しようとする願望が「奴隷精神」、その手段が「奴隷道徳」なのである。そして、「奴隷道徳」こそが人間を堕落させたのだと。
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