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※動画等はリンク先参照。
なぜ私はもうイスラエル側に立たないのか?なぜ二度と立つことはないのか?
<記事原文 寺島先生推薦>
Why I no longer stand with Israel, and never will again
https://www.scottritterextra.com/p/why-i-no-longer-stand-with-israel
筆者:スコット・リッター
出典:Scott Ritter Extra 2023年10月14日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>2023年10月25日
イスラエルの爆弾が、2023年10月、ガザを猛攻撃
ガザの門
「攻撃者たちは夜明けに襲来し、町をあっという間に占拠した。男性と女性は分けられ、そして撃たれた。攻撃者の1人は家の扉を開け、中に立っていた老人を見つけた。老人は撃たれた。その攻撃を目撃した一人は、「彼は老人を撃つのを楽しんでいた」と後に述べている。
町はすぐに空になり、5,000人の住民は殺されるか追放され、生き残った者はトラックに乗せられ、ガザに連れて行かれた。空き家は略奪された 。「俺たちはハッピーだったよ。すごく」とこの襲撃に手を下した人間の一人が後で述べている。「取らなければ、他の誰かが取るよ。返さなければ、なんて感じないな。あいつらは戻ってこないだろうし」。
まるで今日の新聞の一面に掲載された話を引き裂いてきたようだ。ハマスが支配するガザ地区に隣接するイスラエルの町やキブツの市民住民に加えられた残虐行為を描いた、数えきれないほどたくさんある話のうちの1つのようだ。
しかし、実はそうではない。これはイスラエル(建国)の父の一人で、イスラエル独立宣言の署名者であり、イスラエルの初代外務大臣および2代目の首相であるモーシェ・シャレットの息子であるヤアコブ・シャレットの回想録からの抜粋
だ。ヤアコブ・シャレットは、1948年のイスラエル独立戦争中に、イスラエルの兵士によってアラブの町ベエルシェバが占拠された出来事を振り返っている。
スコット・リッターは、Ask the Inspectorの第106回エピソードでこの記事について話し、視聴者の質問に答えます。
1946年、ネゲブ砂漠に勤務する若い兵士として、シャレットは「11ポイント計画」と呼ばれる秘密の計画の一環として、ネゲブ砂漠にユダヤ人の前哨基地を設立し、イスラエルのシオニストとアラブとの予想される戦争が勃発した際にその地域での戦略的拠点となるための11隊の兵士チームのムフタル(連隊長)として任命された。
1948年以前のシオニズムは、聖書に記載されたイスラエルの領土にユダヤ国の再建を目指す運動だった。テオドール・ヘルツルの指導の下、政治運動としてのシオニズム組織は1897年に設立された。ヘルツルは1904年に亡くなり、その後、バルフォア宣言の採択を推進した報酬として、シオニスト組織はハイム・ワイツマンに引き継がれた。バルフォア宣言によってイギリスはユダヤ国家を創設することに関わることになった。ワイツマンは1948年のイスラエル建国までシオニスト組織の長として留まり、その後、彼はイスラエルの初代大統領として選出された。
1946年、連合国は英国のパレスチナ委任統治地をアラブとユダヤの区分に分ける分割案を採択し、ネゲブ地域をアラブに割り当てた。将来のイスラエル国家のシオニスト指導者であるダヴィド・ベン・グリオン、モーシェ・シャレットなどは、シオニズムの原則に献身的な人々と共に、「11ポイント計画」を策定した。これは、当時ネゲブに存在していた状況を変える手段だった。当時、3つの前哨基地に500人のユダヤ人が住み、247の村や町に住む25万人のアラブが存在していた。これにより、11つの新しい前哨基地がネゲブにおけるイスラエルの存在感を高め、パレスチナの歴史家ウァリッド・ハリディが指摘するように、「祖先の土地に住む先住民の多数派」が「一夜にして異なる支配の下での少数派に変わる」状況が作られることになった。
1946年10月5日の夜、ヨム・キプル*の直後、ヤアコブは彼のチームをネゲブに導いた。ヤアコブは語った。「私たちが荒涼とした丘の頂上に自分たちの土地を見つけたときのことを覚えています。まだ暗かったですが、私たちは柱を打ち込むことに成功し、すぐに私たちは塀の中に入りました。明るくなると、トラックがプレハブのバラックを運んできました。それは見事な早業でした。私たちは鬼のように働きました」。
ヨム・キプル*・・・贖罪の日。レビ記16章に規定されるユダヤ教の祭日。ユダヤ教における最大の休日の1つである。ユダヤ暦でティシュレー月10日にあたり、ザドク暦では第七のホデシュの10日で、グレゴリオ暦では毎年9月末から10月半ばの間の1日にあたる。(ウィキペディア)
ヤアコブがシオニスト青年運動に参加していたとき、彼はネゲブ全域を徒歩で旅し、アラブの村々を訪れ、聖書に記載されているヘブライ語の名前を覚えた。ヤアコブの丘の入植地であるハツェリム・キブツの隣にはアブ・ヤヒヤというアラブの村があった。ハツェリムのキブツニクス(キブツの住民)に与えられた使命の1つは、当時ネゲブからアラブ人を大規模に追放する準備をしていたイスラエル軍の計画者によって使用される地元のアラブ人に関する情報を収集することだった。
アブ・ヤヒヤのアラブ人たちは、ヤアコブと彼の仲間のシオニストに新鮮な水を提供し、しばしばキブツの住民が仕事で不在の間にその財産を守っていた。アブ・ヤヒヤの指導者とハツェリム・キブツの指導者との間には、イスラエルがネゲブを支配した際に彼らがその地に留まることを許されるという了解があった。しかし、戦争が勃発すると、ハツェリム・キブツの住民はアラブの隣人に襲いかかり、彼らを殺し、生き残った者たちを永遠にその住まいから追い出した。
生存者の大半は結果的にガザに住むことになった。
アブ・ヤヒヤ村、ベルシバの町、およびネゲブ地方の他の245のアラブの町村がイスラエルの入植者たちと兵士たちによって虐殺および物理的に抹消されたことは、ナクバ(「惨事」)として歴史に刻まれている。ナクバについて語るパレスチナ人は、1948年の出来事だけでなく、その後のすべての出来事を指し、それは現代イスラエルを定義するシオニズムの維持、拡大、防衛を名目としている。イスラエル人はナクバについて話すことはなく、代わりに1948年の出来事を「独立戦争」と呼んでいる。
「ナクバについての沈黙は、イスラエルの日常生活の一部でもある」と、このテーマに関わるある現代の研究者は指摘している。
生きるためにイスラエルの兵士や入植者たちから逃れるパレスチナ人。1948年。
1948年にイスラエルのユダヤ人国家が設立された後、ユダヤ人入植者の一団がダヴィッド・ベン・グリオン首相に近づき、彼らの入植地から男性が集団で軍に従事することを許可してほしいと要請した。その結果、軍事勤務と農業労働を組み合わせた「ナハル(Nahal)」プログラムが創設された。ナハル部隊は駐屯地を形成し、それが後にキブツに変わり、イスラエルへの将来のアラブの攻撃に対する最初の防衛ラインとして機能することとなった。1951年に、これらのナハル入植地の最初である「ナフライイム・ムル・アザ(Nahlayim Mul Aza)」がガザ地帯との国境に設立された。それに続いて、ナハルプロジェクトはガザをこれらの砦入植地で取り囲むことを目指してさらに多くの入植地が設立された。1953年に、ナフライイム・ムル・アザは軍事前哨地から市民のキブツへと転換し、ナハル・オズ(Nahal Oz)と改名された。
ナハル・オズの最初の入植者の一人は、ロイ・ルッテンベルクという男だった。彼は1948年の独立戦争中、13歳のとき伝令の仕事をした。彼が18歳になった1953年には、イスラエル国防軍(IDF)に入隊し、その後将校になった。彼の最初の役職は、ナハル・オズの安全担当士官だった。結婚し、1956年には幼い息子の誇らしい父となった。1956年4月18日、ロイはアラブ人に急襲され、殺害され、その遺体はガザに持ち去られた。国際連合の仲介により遺体は返還され、翌日、1956年4月19日に埋葬された。ロイの死はイスラエル国民を激怒させ、何千人もが彼の葬儀に集まった。
イスラエルの参謀総長モーシェ・ダヤンがロイ・ルッテンベルクのために追悼の辞を読み上げる。1956年4月19日。
イスラエルの参謀総長であるモーシェ・ダヤンは参列し、イスラエルの歴史を決定づけるようなスピーチの一つとして記憶されている追悼の辞を述べた。ダヤンは言った。「昨日早朝」と彼は始めた。彼の声は大勢集まった哀悼者たちの上に響き渡った。「ロイは殺されました。春の朝の静けさが彼を魅了し、溝の端で待ち伏せしている者たちに気づきませんでした」。
今日は、殺人者たちに非難を浴びせるのは控えましょう。どうして、彼らの私たちに対する燃えるような憎しみを公然と宣言すべきでしょうか?8年間、彼らはガザの難民キャンプで過ごしており、その間に私たちは彼らと彼らの先祖が住んでいた土地と村々を私たちの所有地に変えてきたのです。
私たちがロイの血を求めるべき場所は、ガザのアラブ人たちの中ではなく、私たち自身の中にあるのです。どうして私たちは目を閉じ、運命を真正面から見ようとせず、あらゆる残酷さの中で私たちの世代の運命を認識しなかったのでしょうか?そして、ナハル・オズに住むこの若者たちがガザの重い門を肩に担いでいることを、私たちは忘れてしまったのでしょうか?
国境の溝を越えて、憎悪と復讐の欲望の海が膨らみ、それは平静さが我々の進むべき道を鈍らせる日を待っています。憎悪と復讐の欲望は、武器を置くようにと呼びかける邪悪な偽善の心を持った大使たちの声に私たちが耳を傾けようとする日を待っています。
ロイの血が、彼の裂かれた体から叫んでいるのは私たちに向かってなのです。私たちは何千回も誓ってきました、私たちの血は無駄に流れないと。しかし、昨日また私たちは気持ちが揺らぎました、私たちは耳を傾け、信じました。
今日、私たちは私たち自身のことを考えてみましょう。私たちは土地を開拓する世代です。そして鉄の兜と大砲なしでは、木を植えることも、家を建てることもできません。私たちを取り巻く何十万人ものアラブ人たちの生活を燃え立たせ、満たす嫌悪を正面から見ましょう。私たちの持つ武器が弱らないよう、私たちの目をそらすことはやめましょう。
これが私たちの世代の運命です。これが私たちの人生の選択です―準備をし、武装し、強く、決意し、剣が私たちの手から奪われ、私たちの命が打ち倒されることのないようにすることです。
テルアビブを出てガザの門に自宅を建てるために旅立った若いロイは、私たちのための壁となることを望みましたが、彼の心の中の光に目がくらみ、剣のきらめきを見逃しました。平和への憧れが彼の耳を聾し、待ち伏せする殺人の声が耳にはいりませんでした。ガザの門は彼の肩にあまりにも重くのしかかり、彼を圧倒してしまいました。」
このスピーチは、ガザに収監されているパレスチナ人たちがイスラエルに対する憎悪を公然と認識し、その憎悪の源とパレスチナの感情の正当性に対する理解を示す点で注目されている。
しかし、このスピーチは、また、イスラエルの大義の正しさを堂々と述べると同時に、パレスチナの大義の正当性も認めている。ダヤンは言った、「鉄の兜と大砲なしには、イスラエルは定着できない」と。彼はまた、「戦争はイスラエルの「生き方の選択」であり、そのため、イスラエルは軍事的な維持を余儀なくされ、「剣が手から取り上げられ、私たちの命が刈り取られることのないように」と述べた。
10月7日に、数百人の重装備のハマス戦闘員がガザから押し寄せ、ガザを囲む軍事基地とキブツに襲いかかった暴力行為について考える時、これらの施設の起源と目的を決して忘れてはならない。それは、事実上の屋外収容所へガザの人々を閉じ込めるためのものだった。そして、ガザに収監されたアラブ人の中で生まれた感情を忘れてはならない。これらの収容所で生活し、働き、奉仕したイスラエル人は、「ガザの重い門」を肩に担ぎ、周囲のキブツに住んでいた入植者が「彼らとその父が住んでいた土地と村々」をイスラエルのユダヤ人の自国に変えていく姿を目の前で見ながら、「燃える憎しみ」の下で働いていたのだ。
これらのイスラエル人は皆、シオニズムの剣をしっかりと手に握っていた。これらの収容所に住んで働いた大人は誰一人無罪とは言えない。彼らは、その存在と維持において何百万ものパレスチニアンを残忍な拘禁と支配に晒すことを要求する制度であるシオニズムの一部だった。彼らは、モーシェ・ダヤンが呼んだように、その固有の残酷性を持つ「運命」を生きてきた。彼らの世代にとって、「ガザの重い門」はその運命であり、それは、彼らの前のロイ・ルッテンベルクのように、門があまりにも重く彼らの肩に圧し掛かり、彼らを圧倒したのだ。
決して諦めるな
私はイスラエルの友人として自分を数えていた時期があった。湾岸戦争作戦中、イラクのスカッド・ミサイルがイスラエルに対して発射されないような作戦に従事し、1994年から1998年まで、私はイスラエルを広範に旅行し、イスラエル国防軍(IDF)の情報機関であるAMANと協力し、イラクが再び通常の高性能爆薬、化学兵器、生物兵器、核兵器を搭載したスカッド・ミサイルでイスラエルを脅かすことができないようにした。私はイスラエルの将軍、外交官、政治家に情報提供を行なった。
私は、イスラエルの写真解釈者、信号情報収集者、技術情報分析者、および人的情報担当者と長い時間を共にし、イラクの大量破壊兵器の能力が十分にかつ検証可能な形で報告されるよう、あらゆる手段を講じた。私は、イスラエル側担当者たちの驚異的な労働倫理と生得の知識に感銘を受けた。また、国際連合安全保障理事会によって設定された指令に従うという彼らの約束を超える彼らの誠実さにも感銘を受けた。私と国際連合特別委員会(UNSCOM)の仲間の検査官がイラクで行っていた作業に関して、彼らはその約束を充分に守った。
1998年8月にUNSCOMを去る時点で、私は自分自身をイスラエルの真の友人と考えていた(この関係にはマイナス面もあった。FBIは私をスパイ行為法の違反の嫌疑で調査しており、この調査が終了したのは2001年9月11日。私とFBIの工作員3人との面談の後、調査が終了した)。
イスラエルの発達過程で、正直なところ、私はイスラエルに対して少なからぬ矛盾した思いを抱いていた。私は根っからの贔屓ではなかった。最初のイスラエルに対する私の記憶は、1973年10月のヨム・キプル戦争であり、テレビで見た報道に魅了されたことだ。その後、1976年にはエンテベ国際空港の人質救出劇の大胆さと英雄的な行為にも同様に感銘を受けた。しかし、大学に通うようになると、この幼少期の魅了は薄れていった。イスラエル系アメリカ人の同級生が、イスラエル国防軍(IDF)での兵役を終えたばかりだった(私はアメリカ陸軍での勤務を終え、海兵隊の任官プログラムに参加しており、アメリカ市民がなぜ他国の軍隊に入隊するか、またはできるのかが理解できなかった)。また、キャンパス内で非常に活発なヒレル(ユダヤ系学生)組織が存在し、多くのアメリカのユダヤ人がパレスチナとアラブ世界全般に、「ゼロ容認」であることに違和感を覚えた。
私は、中東研究のアッシリア系アメリカ人の歴史学者であるジョン・B・ジョセフ教授に深く影響を受けた。ジョセフ教授は、イランとなる前のペルシャでアッシリア人虐殺を逃れた避難民を親としてバグダッドで生まれ育った。彼がアラブとイスラエルの関係についての授業を開放的な考え方で教える姿勢は、ヒレル団体の「嫌なら出て行け」というやり方とは対照的だった。1983年の春のある日、ヒレルはイスラエルの兵士の代表団をキャンパスに招待し、イスラエルによるレバノン南部への侵攻と占拠について講演を行わせた。私は海兵隊士官候補生課程に在籍しており、1984年5月の卒業時に委任される予定だった。
1983年2月、アメリカ海兵隊員とイスラエル国防軍(IDF)の戦車3両との対立が世界中の見出しを飾った。イスラエルの中佐が指揮する戦車隊は、海兵隊の陣地を通過しようとしたのだ。ベイルートへの進入を阻止するために配置された海兵隊の部隊を指揮するチャールズ・B・ジョンソン大尉は、戦車の前に立ち、IDFの将校に対して通過を許可しないと告げた。戦車が彼をひき殺そうとしたとき、ジョンソン大尉は拳銃を抜いて、先頭のイスラエル戦車に飛び乗り、中佐に対して、「私を殺してから通過しろ!」と告げた。イスラエル軍は引き下がった。
ベイルートにおけるイスラエルのセンチュリオン戦車。1982年
ベイルート外での対立は、アメリカとイスラエルの間で緊張を引き起こし、アメリカ国務省はイスラエルの臨時代理大使ベンジャミン・ネタニヤフを呼び出し、イスラエルの挑発行為に抗議した。この出来事により不協和音が生じ、イスラエル側はジョンソン大尉の口臭がアルコールの臭いがしたという噂を広めた。
この噂を、私が出席したキャンパスでの講演で、IDF(イスラエル国防軍)の兵士大使の一人が繰り返した。私は怒りを感じ、立ち上がって講演者に食ってかかった。あまり外交的ではない方法で、私はIDFの兵士に対して、米国の土地で、米国海兵隊の将校の評判を傷つけるのを黙っているつもりはないと言った。私の言葉に内在する暴力を感じ取り(私はすでにジョン・ヒンクリー、ロナルド・レーガン大統領の暗殺未遂犯がもっとうまく撃っていたらと願った学生を殴ったことで、キャンパスでは評判になっていた)、ヒレルの主催者が介入し、IDFの兵士をステージから外し、キャンパスから退場させた。
次にイスラエルと、間接的だが、関わりがあったのは、湾岸戦争(「砂漠の嵐」作戦)の時だった。アメリカ軍の任務はクウェートをイラク軍から解放することだったが、イラクは改造されたスカッド・ミサイルをイスラエルに発射した。それはイスラエルを紛争に巻き込む可能性があった。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が慎重に結成したイスラエルと同じ側で戦うことを拒否する多くのアラブ諸国から成る連合を崩壊させかねない行為だった。イラクのスカッド・ミサイル発射を阻止することが戦争の最優先事項となり、私はノーマン・シュワルツコフ大将指揮下のスカッド・ミサイルの専門家として、この取り組みに大きく関与した。(私は思い出すのだが、2007年にアメリカの主要なユダヤ人団体で、公然と敵意をむき出しにする聴衆に講演を行ったことがある。私はイスラエルのために自分の命を賭けていたのに、彼や他のユダヤ系アメリカ人たちは聖地を逃れるための切符を買っていたのだった)
戦後、私はイラクにおける国連の任務を支援する独立した情報機能を作成するためにUNSCOMに採用された。1994年、私はUNSCOMがイスラエルとの情報に関する協力に関して秘密のチャネルを開く提案をした。私の提案は承認され、私はUNSCOMがイスラエルに送った最初の代表団を率い、AMANの長官と研究分析部(RAD)の長官と会談し、UNSCOM-イスラエル情報協力の範囲と規模について話し合った。
1994年10月の私の初めてのイスラエル訪問中、私はイスラエル空軍の情報将校に紹介され、次の4年間、彼は私の主要な対話者となった。私たちの専門性を持った関係は申し分なかった。この将校(そのエネルギーや知識、そして経験は比類ない)がいたからこそ、UNSCOMとイスラエルとの関係が成功したことは間違いない。私がこの男性(友人としてだけでなく同僚として見るようになっていた)に最も感銘を受けたのは、彼が、私にイスラエルを理解し、評価することをどれだけ望んでいたか、の気持ちだった。彼は、私のような外国人が影響を受ける時は、イスラエルがテレビ向けに演出した喧伝ショーではなく、実際のイスラエルを理解してほしいと強調した。
そう、私はイスラエルのヘリコプターツアーを提供され、鳥瞰的にイスラエルがどれほど小さく、脆弱であるかを目にした。そう、ヘリコプターはマサダに着陸し、私はそのイスラエルの歴史におけるその時期の悲劇について教育を受けた。そう、私はゴラン高原に向かい、シリア軍の所在を、望遠鏡を通して見ることができる前方観測所に案内された。これらすべては事実だ。しかし、私のイスラエル側の応対役が賢明に指摘してくれたのだが、私が実際に興味を持っていたのは「スカッド博物館」であり、そこではイスラエルが砂漠の嵐作戦中に自国に落ちたすべてのスカッド・ミサイルの破片を展示していた。これは私の任務であるため、私はそれに興味を持っていた。
イスラエルと恋に落ちてはいなかった。
徐々に、私の応対役は、検査の予定から自由な時間にどこに行けるか、何を見るかに関する制約を緩和した。妻は私を訪ねてきて、私たちは長い週末をイスラエルで過ごした。私は彼女を、死海や、エルサレム(エルサレムで私たちは、処刑が行われたカルバリの丘までイエスが進んでいったビア・ドロローサを歩いた)、ナザレ、ガリラヤ湖、そしてヨルダン川に連れて行った。これらはすべて新約聖書にそのまま記載されている場所だ。信心深いジョージア正教徒である私の妻は忘我状態だった。一介の歴史家である私は深く感動した。応対役は私に言った、「足元でひっくり返すすべての石が物語です。この土地は歴史に満ちています」。
ビア・ドロローサ(エルサレム)
私たちはすぐに、イスラエルの歴史そのものについての議論に取りかかった。まずは私が働いていたイスラエルのイメージ宣伝部門があったサロナ(ドイツ人植民地としても知られている)から話し始めた。私たちは、エルサレムのキング・デビッド・ホテルを訪れながら、イギリスの委任統治についても議論した。このホテルは、1946年にメナヘム・ベギンが率いるイルグンテロリスト組織によって実行された悪名高いテロ攻撃の現場だった。ベギンは後にノーベル賞を受賞したイスラエルの首相だ。多くのイスラエル人は、ベギンやイルグンにそんなレッテルを貼ることに不快感を抱くだろう。私の応対役は言った。「いいですか、彼はテロリストでした。ヤーセル・アラファートとは多くの共通点がありました」。こういった率直な態度を示してくれたので、私はこの応対役がますます好きになった。
私たちは、カファー・アーザのキブツにある「マーオズ・ムル・アーザ(ガザの要塞)」博物館を訪れて、イスラエルの国家誕生に関する議論をした。炎の下で生まれる国家(この博物館は1948年にエジプト軍によって破壊されたサアド・キブツの場所に建てられている)に関するイスラエル側の言説と、家族が強制的に自宅(カファー・アーザ・キブツの周辺地域を含む)から立ち退かされたパレスチナの「ナクバ(大惨事)」を比較対照した。(このカファー・アーザ・キブツは2023年10月8日にハマスによって標的とされ、ハマスの戦闘員による暴力で多くの住民を失った場所のひとつだ)。
私たちは、イスラエルの初代大統領であるダヴィッド・ベン・グリオンの言葉について議論した。彼は「もし私がアラブの指導者なら、イスラエルとの合意に署名しないだろう。それは正常なことだ。私たちは彼らの国を奪った。それは真実だ。神はそれを私たちに約束したが、そんなことは彼らにとってどうでもいいことだ。私たちの神は彼らの神ではない。反ユダヤ主義、ナチス、ヒトラー、アウシュヴィッツがあったが、それは彼らの過失だろうか?彼らの視野にあるのはただ一つのこと。私たちは来て、彼らの国を奪った、ということ。どうして彼らがそれを受け入れられるだろうか?」と述べた。
ベン・グリオンのもうひとつの言葉は正鵠を射ている。「私たちの間で真実を無視してはいけない・・・政治的には、私たちが攻撃者であり、彼らは自己防衛をしているのだ」と彼は言った。「この国は彼らのものだ。なぜなら彼らがそこに住んでいるからだ。一方、私たちはここに来て定住したいと考えている。彼らから見れば、私たちは彼らの国を奪いたがっている、ということなのだ」。
「彼の言っていることは正しかった」と応対役はベン・グリオンについて言った。「イスラエルは非常に難しい歴史を抱えています」。
この難しい歴史の結果は、私の応対役や、彼の家族、そして彼のイスラエルの仲間たちにとって生存にかかわるものだった。私は、テルアビブとエルサレムを分ける丘に位置する彼の家によく招かれた。そこでは、特別な絆を共有する人から期待されるようなもてなしを受けた。バーベキューを楽しみ、彼の10代の娘が私たちの楽しみのために選んだ音楽を聞きながら、私の応対役は彼の地域を見下ろす丘を指した。そこには遠くに見える村があり、モスクの尖塔、それは紛れもなくアラブだ、ということを示していた。
「これが『グリーン・ライン』です」と彼はその丘を指さしながらいった。「グリーン・ライン」は、1948年のイスラエルの創設時に設定された、元の国境を表している。1967年の六日戦争の後、イスラエルは今日の西岸として知られる地域を制圧した。パレスチナ人は、自分たちの土地を取り戻し、イスラエルとパレスチナの国境を「グリーン・ライン」に戻すために戦っていた。
「あなたは軍人です」と彼は言った。「だから、お分かりですよね。家族や隣人たちがどうなるかを。もし敵があの辺を占拠したら、そこに迫撃砲や狙撃兵が配置されたら、です」。彼は、ほとんどささやくようにして言った、まるで妻や子供たちに聞かれないように、といった様子で。言葉を隠すかかのように、「みんな死んでしまいます」。
「私たちは平和が必要です」と応対役は締めくくった。「パレスチナ人に土地を返し、私の家族が恐れずに生活できるような平和が必要です」。
大半の軍人はそうだが、私の応対役は国内政治に関しては無関心の風だった。ある時、サロナ地区の近くの地元の食堂で座っていると、彼は少し離れたテーブルに座っている小柄な男を指差して、「あれはエフード・バラクです」と言った。バラクは1995年初頭にイスラエル国防軍を退役し、その軍歴を総参謀長として終えた。「彼は今政治の世界に足を踏み入れています」と応対役は指摘した。「今、彼は嘘をつくことを学ばなければなりません」。
応対役は彼の政治的所属を言わなかった(そして私も聞かなかった)が、私には2つのことがはっきりした。まず、彼はイツハク・ラビンを尊敬していた。ラビンは軍人から政治家になった人物だ。ある時、彼はこういった。「彼も他の政治家と同様に嘘をつきます。しかし、彼は平和のために嘘をつくのです。それなら受け入れられます」。
そして、彼はベンヤミン・ネタニヤフを心底軽蔑していた。応対役は警告した。「彼はイスラエルを破滅させるでしょう。彼はただ憎しみしか知りません」。
私のイスラエルへ何回も訪問したが、テロの脅威は常に起こる現実だった。1994年10月19日、私の最初のイスラエル訪問中に、ハマスの自爆テロ犯がテルアビブの繁華街ディゼンゴフ・ストリートに停車していたバスで自爆し、22人が死亡した。この場所は私のホテルから歩いてすぐの距離にあった。1995年7月24日、私の3回目のイスラエル訪問中に、別のハマスのテロリストがテルアビブ郊外のラマト・ガンでバスに乗って自爆し、6人が死亡した。4回目の訪問中、1995年8月21日に、別のハマスの自爆テロ犯がエルサレムの郊外であるラマト・エシュコルでバスを襲撃し、5人が死亡した。
ディゼンゴフ・バス爆破。1994年10月19日
これらの攻撃がイスラエルの人々に与えた影響は手に取るようにわかった。死者を悼む人々の目からは涙があふれ出た。私が思い出すのは1995年7月の攻撃の後のことだった。私はテルアビブの繁華街にあるイスラエル国防軍の本部キリヤ内での約束を取ってあった。IDFが派遣した運転手が迎えに来てくれた。私は尋ねた。「会議は中止ですか?」。彼は険しい表情で答えた。「いいえ、生きることを止めるわけにはゆかないでしょう」。
車は、応対役が事務所を構える建物に到着した。彼の下では何人かの女性IDF兵士が働いていた。彼女たちは私を待合室に案内し、お茶を勧めてくれた。私は彼女たちの目が赤く、顔に涙が流れているのに気づいた。応対役が部屋に入ってきたとき、私は尋ねた。「出直そうか?」。彼は女の子たちを部屋に呼び戻した。「スコットさんが出直そうかと言っているけど、どう?」と言った。
「もし諦めたら、テロリストの勝ちです」と一人の女性は答えた。「私たちは諦めません、絶対に。あなたも諦めないでください」。
1995年11月4日、応対役はキリヤから私をホテルまで車で送ってくれた。私たちはイスラエル王たち広場を通過した。これは政治的な集会が頻繁に開かれる大きな公共の場だ。その夜、1つの集会が予定されていた 。イツハク・ラビンの支持者による、オスロ和平プロセスを支持する平和の集会だった。ラビンは1995年9月28日にワシントンD.C.でPLO議長ヤーセル・アラファートと会い、そこで2人はオスロII協定に署名した。
イツハク・ラビン(左)がヤーセル・アラファート(右)と握手し、ビル・クリントン(中央)が見守ってる。
ハマスのテロ攻撃はオスロ和平プロセスを妨害するために計画された。しかし、イツハク・ラビンは、彼の主要なライバルであるベンヤミン・ネタニヤフからの国内政治的な抵抗にもかかわらず、この流れを成功に導く決意を揺るがさなかった。
ネタニヤフは、ラビンがユダヤ教の伝統と価値観から遠ざかっていると非難し、過激な右翼のユダヤ教宗教過激派を彼の大義に結集させた。しかし、ネタニヤフの行動は単なる政治的な言辞を超え、政治的な暴力に向かった。1994年3月、テルアビブ北部のラアナナ近くで、右翼の宗教団体であるカハネ・ハイ(Kahane Chai)が主催した抗議行進が行われた。ネタニヤフはカハネ・ハイの前を行進し、彼の後ろには「ラビンはシオニズムの死を招いている」と記された棺が運ばれた。1995年10月5日、イスラエルのクネセット(国会)がオスロIIを支持することを決議した日、ネタニヤフは10万人を超える大規模な反対デモを組織した。人々が「ラビンに死を!」と叫ぶ中、ネタニヤフは群衆に前進するよう促した。
「今夜、外出されるのだそうですね」と応対役は言った。私はRADの2人の若い大佐とその婚約者たちと一緒に夕食を取ることになっていた。「ここに近づいてはいけません」と、応対役は、イスラエルの王たちの広場を指さしながら言うのだった。「ラビンは今夜ここで演説する予定で、暴力沙汰になる可能性が非常に高いです。彼は中止すべきなのです」と応対役は続けた。「彼に危害を加えようとする人間があまりにも多く、ここではその機会があまりにも多すぎます」。
その夜、ちょうど午後9時30分を過ぎたころ、私と2人の友人、その友人たちの婚約者たちに、夕食が出されたばかりだった。これから食べようという時だった。レストランのオーナーが私たちの前に現れた。「イツハク・ラビンが撃たれました」とオーナーは涙を流しながら言った。「彼は病院に運ばれました。私たちの祈りが必要です」。
言葉を発することなく、みんなテーブルを立ち上がり、レストランを出た。支払いは一切しなかった。夕食を共にしようとした同行者が私をホテルに送り届けてくれた。ラジオを聞きながら最新のニュースを私に伝えてくれた。
その集会には10万人の人々が集まり、ラビンは情熱的な演説を行なった。「大半の人たちが平和を望んでおり、そのための危険を引き受ける心構えはできているということを疑ったことはありません」と、彼は彼を賞賛する群衆に語った。
イスラエルを裏切ったと信じた右派の宗教心を持つユダヤ人が、ラビ(ユダヤ教指導者の尊称)の指示に従い、ピストルの引き金を引き、ラビンの命を奪ったのだった。
午後11時15分、イツハク・ラビンの死がイスラエルの国民に発表された。テレビでその発表を見ていたホテルの部屋から、隣の部屋から、そして下の通りから泣く女性たちの嗚咽が聞こえた。
11月5日は国民的な哀悼の日となった。イスラエルは、翌日11月6日、暗殺された指導者を埋葬した。
11月7日、私の運転手はロビーにいて、私をキリヤへ連れて行った。私の応対役と配下の兵士たちは仕事に戻っていた。2日後の11月9日、イスラエルがロシアからヨルダンへのミサイル誘導および制御装置の出荷(搬送は、ヨルダンからイラクへ)について収集したとの情報が私にはあった。私はイスラエルとヨルダンを分けるアレンビー橋を渡り、ヨルダンの治安官に迎えられた。その夜、私はヨルダン国王の私設事務所の長であるアリ・シュクリと会い、彼とヨルダン情報機関の長に、ミサイル部品が保管されているとイスラエルが信じていた倉庫を強制捜索するよう説得した。強制捜索は実行され、翌日イラクに出荷される予定だった数百の誘導および制御装置が押収された。
次の夜、私はイスラエルに戻るのを待つ中、イスラエルの応対役たちの不屈の精神ついて考えた。彼らは諦めなかった、と私は思った。
私たちは諦めなかった。
私の応対役の取れる方策を示すために、強制捜索の結果を待つ間、アリ・シュクリが私に話してくれた彼の父親(今のテルアビブの隣のヤッファ市出身の裕福なパレスチナ人)の話を私は詳しく語った。ある通りには彼の父親の名前を冠せられているのだった。そして、彼は自分の代わりにその通りを訪れてほしいと私に依頼した。私はその話を応対役に伝えた。そして私たちは、ためらうことなく、応対役の車に乗り、古いヤッファ市を探索した。通りの名前はすべてヘブライ語に変わっていたが、応対役は幾人かの高齢の人々に声をかけ、古い通りの名前を覚えているかどうか尋ねた。彼らは覚えていた。やがて私たちは明るく照らされた大通りを歩いていた。
「私は、イツハク・ラビンはアリ・シュクリがこの通りを自分で歩けるようになることを望んでいたと思います」と私の応対役は述べた。「おそらくは、彼が家族と一緒に生きることすら、も」。
私たちは静かな通りを歩きつづけた。それぞれの思いに浸りながら。
「建国の父」の罪
1996年1月5日、イスラエルの治安部隊は「エンジニア」として知られるハマスのメンバー、ヤヒヤ・アイヤーシュを暗殺した。アイヤーシュはハマスの主要な爆弾設計者で、その爆弾はイスラエルに対するハマスのほとんどのテロ行為に使用された。イスラエルの治安部隊は、わずかな量の高性能爆薬が仕掛けられた携帯電話を手に入れることができた。アイヤーシュをその電話に出るよう誘導し、爆発を起こすことで、このハマス爆弾製作者を即座に殺害した。
通常、イスラエルはこのような性質の標的暗殺に対する責任を取ることについては口が重いのだが、私は応対役たちから非公式な説明を受け、アーヤッシュを殺す過程について説明されていた。おそらく、私のイスラエルでの仕事に彼の爆破が与えた影響を考慮して、私は知る必要があると思ったのだろう。
アーヤッシュの殺害は、ハマスから暴力的な反応を引き起こした。その後の数週間および数ヶ月にわたり、ハマスはイスラエルの市民に対する恐怖作戦を展開した。1996年2月25日から3月4日までの期間に、エルサレムでのバス2台とテルアビブのディゼンゴフセンター外での爆破事件を含む3つのテロ事件が発生し、55人が死亡し、数百人が負傷した。これらの事件は国を震撼させ、1996年5月29日に行われた総選挙でベンヤミン・ネタニヤフを首相に選出する一因となった。
ネタニヤフの選出から、私がUNSCOMを辞任するまでの期間、すなわち1998年8月までは騒乱と変化に満ちたものだった。ヨルダンでの傍受作戦の成功が、UNSCOMとイスラエルとのさらに深い関係の道を開いた。これは私とイスラエルの応対役との関係が円滑に進んだことにより実現したものだった。私たちは、情報融合細胞と同等のものを創り出すことができた。つまり、情報画像の解析や、SIGINT(信号情報)収集、および人を介した情報などを組み合わせたものだ。それはUNSCOMが、イラクが大量破壊兵器プログラムの真実を隠す過去の試みや、制裁に関する安全保障理事会の決議に違反する、大統領府と関連する現在のイラクの活動の証拠を明らかにするのに役立った。
AMANの新任長官であるモーシェ・ヤアロンとの仕事上の関係はこれ以上ないというほど強力だった。そしてイスラエルは私が支援を要請したすべての要求に応じるように格別な努力をしてくれた。そしてその結果は否定しようもなかった。私がイスラエル情報機関との関係を始めた1994年には、イラクがイスラエルに対する脅威のリストのトップにあった。しかし、1998年までに、イラクは極右の国内過激派、イラン、ヒズボラ、そしてハマスの下、5番目に低下した。この変化は、UNSCOM(国連特派団)とイスラエルの協力で、イラクの大量破壊兵器プログラムの真の能力についての理解に到達できた結果だった。
しかしながら、1998年に、私と私の応対役が1994年10月の最初の会合から慎重に育ててきたこの関係は突然終了した。アメリカ合衆国の圧力の下、イスラエルはUNSCOMとの情報提携を終了したのだ。1998年までに、この関係を機能させてきたAMANチーム全体が交代し、モーシェ・ヤアロン、ヤアコブ・アミドロール、そして私の応対役と続いてきた担当全員が交代した。新しいチーム、AMANの責任者としてアモス・マルキン、RADの責任者としてアモス・ギラド、そして新しい「応対役」は、UNSCOMの情報共有作業を直ちに停止させた。私は1998年6月初旬に最後のイスラエル訪問をし、そこで新しい状況について担当者から説明を受けた。
2ヵ月後、私はUNSCOMを辞任し、武装解除の使命を実行することはもはや不可能となった。
イスラエル軍情報の研究分析部門の責任者アモス・ギラド
イスラエル政府との専門的な関係が突然終了した状況にもかかわらず、私は常にイスラエルの人々、さらにはイスラエル国に対して心の中に特別な感情を抱いていた。イスラエル側の応対役とともに入念に行った事実に基づく調査結果をアモス・ギラドが一人で台無しにしてしまうのだった。彼は、イラクの脅威順位を引き下げることになった、事実に基づいた発見に見向きもしなかった。そして、再びイラクを戦争に値する脅威の地位に引き上げることになった。それでも、私はイスラエル全体を非難することはしなかった。しかし、関与した個人としてのイスラエル人、その中でもこの人間、イツハク・ラビンから首相の座を奪い取ったベンヤミン・ネタニヤフは非難する。
ネタニヤフは政治的指導者としては無能だったので、1999年、エフード・バラク(彼は明らかに、イスラエルの政治家としての役割に十分な程度で嘘をつくことを学んだようだ)に代えられることになった。2002年9月、ネタニヤフはイラクの核兵器プログラムについてアメリカ議会で証言した。彼は一人の市民として証言してはいるが、元首相という立場はその言葉にふさわしくない信頼性を与えることとなった。
「サダムは何の疑問の余地なく、核兵器の開発を探り、作業をし、そして進めています。サダムが核兵器を持つようになれば、テロネットワークも核兵器を持つことになるでしょう」とネタニヤフは述べた。
ネタニヤフの発言は、私と私のイスラエル側担当者が結論づけた調査結果と直接矛盾していた。これらの調査結果は、イラクの核プログラムの廃棄を監督する国際原子力機関(IAEA)によっても共有されており、イラクの核プログラムは消滅し、再構築の証拠はないというものだった。
しかし、ネタニヤフの仕事はイラクの核プログラムに関する真実を伝えることではなく、むしろイラクの核兵器の脅威によって生じた恐怖を利用し、サダム・フセインを権力から追放するためのイラクとの戦争を正当化することだった。「サダムとサダム政権を排除すれば、その地域に測りきれないほどの良い影響を及ぼすことを保証します」とネタニヤフは彼の話に膝を乗り出す聴衆に語った。「そして、イランの隣に座っている多くの若者や他の多くの人々は、そのような政権、そのような専制者の時代は終わったと思うでしょう」と述べた。
議会で証言するベンジャミン・ネタニヤフ。2002年。
今日振り返ってみて、アメリカの違法なイラク侵略と占拠の恐ろしい結果、そしてイラン政権が不退転の核プログラムを背後に確固として築いていることを考えると、ベンヤミン・ネタニヤフの言っていたことはすべてにおいて間違っていたことは明らかだ。しかし、それは最初から彼の手口だった。イスラエルが直面する威嚇を誇張し、嘘をついて、結局は大惨事をもたらす軍事行動を正当化することだった。
UNSCOMを辞任した後、イラクの大量破壊兵器に関する事実について上下両院議員を教育するために、アメリカのワシントンDCに頻繁に出張した。その過程で、アメリカ・イスラエル公共行動委員会(AIPAC)の工作員たちが常に私を尾行した。私がある議員の事務所を出ると、AIPACのチームは私の後に入り、その議員に、再選費用を支払った人物は誰か、と確認するのだった。
数年後、私は2001年の映像を観た。その中でネタニヤフは、アメリカがどれほど簡単に制御できるか、イツハク・ラビンの最大の遺産であるオスロ合意を公然と破壊できることを知っていることまで自慢した。アメリカが後退することを完全に知っていたのだ。「私はクリントンと対立することを恐れなかった」とネタニヤフは自慢した。「私はアメリカがどんな国かを知っている。アメリカは簡単に動かせるものだ。正しい方向に動かせる」。
アメリカがイラクとの戦争に入ったのはイスラエルのせいだ。ネタニヤフによる嘘とアメリカにおける代理人であるAIPACを通して行なわれたイスラエルの操作のせいだ。監督の責任をアメリカ人に負っている議会の義務も代理の対象となった。
AIPACが独自の意思で行動していたと思わないでほしい。FBIはAIPACの高官たちとイスラエルの外交官ナオル・ジロンとの間で機密情報の転送に関する共謀の証拠を発見している。
ナオル・ジロンは、ニューヨークの国連イスラエル代表部で私の連絡担当だった。
しかし、私とAIPACの違いは、私のすべての連絡担当が国連とCIAによって承認されていたことだ。
AIPACは、文字通りイスラエル側のスパイとして自由契約で活動していた。
アメリカの外交政策と国家安全保障政策にイスラエルが干渉したことに対して、私が怒り狂った、などという言い方では私の気持ちを尽くすには不十分だ。それにもかかわらず、私は自分がイスラエル側の立場に立っている姿勢を崩さなかった。
2006年11月13日、私はコロンビア大学の国際関係学部で講演した。テーマはイランの核プログラムだった。私は、「部屋の中にいる象」*と表現したものとして「イスラエル」に言及して演説を始めた。私は、イスラエルがアメリカの緊密な同盟国であり、イスラエルとイランが衝突した場合、イスラエルの「合法的な国家安全保障上の懸念」はアメリカのものでもあり、戦争さえも引き起こす可能性があると述べた。
「部屋の中にいる象」*・・・〔誰もが認識しているが〕話したくない[口に出したくない・無視している・見て見ぬふりをする]重要な問題[事実](英辞郎)
しかし、私の(イスラエルへの)支持は無条件ではなかった。クリントン政権とは異なり、私は簡単に動かされなかった。私は言った。「イスラエルは傲慢さと権力に酔っています。私は『友達というのは友達が酒を飲んだら運転させない』という言葉に従って行動しています。したがって、イスラエルの友人として、私たちは運転中のバスを止める責任があると考えており、そうしなければそのバスは崖へ向かって一直線だからです」
当時、私はイスラエルがイラク戦争の前段階で行なった行動を繰り返そうとしていることに大きな懸念を抱いていた。イスラエルは情報をでっち上げ(この時点でアモス・ギルドはイスラエルの「情報と安全保障」の皇帝となり、政治と軍事の事務局の長に異動していた)、そして米国の議員やIAEAなど国際機関に虚偽の物語を広めていたのだ。
しかし、他のことも私を悩ませていた。
1997年10月、私はロシアで新しい作戦をイスラエルと協力して行なっていた。その作戦は、ルーマニアの航空宇宙会社の支配株式を購入し、制裁に違反する形で弾道ミサイル技術を入手しようとしていたイラク代表団を追跡するものだった。1か月前、イスラエルのチームはヨルダンのアンマンでハマスの高官を暗殺しようとしたが、失敗した。暗殺者たちは彼らの標的であるハーリド・マシャアル(Khaled Mashal)に毒を盛ったが、マシャアルの護衛に捕まってしまった。怒ったヨルダンの国王は、捕らえられたイスラエルの工作員と引き換えにマシャアルに使用された毒の解毒剤を提供するようにイスラエルに要求した。この問題は解決されたが、イスラエルにとっては大きな恥辱となった。
ベンジャミン・ネタニヤフがハーリド・マシャアルを殺すことを命令していた、と応対役は私に語った。
「それは考えられることだ」と私は答えた。
「そうですか?」と応対役は訊いた。「ハマスはイスラエルが創ったことをご存知ですか?」
これには打ちのめされた。私はキリヤ内の博物館に連れて行かれた。そこにはハマス・テロリストから鹵獲(ろかく)された武器、制服、およびその他の装備品が展示されていた。私の滞在中、ハマスはイスラエル人に対して多くの暴行を犯し、私は彼らをイスラエルの敵と見ていた。
そして、イスラエルがハマスの創設に手を貸した、などということを応対役は口にしていたのだ。その目的はパレスチナの政治指導層内で政治的な分断を引き起こし、ヤーセル・アラファートのファタハ組織の力と影響力を弱めることだったと彼は説明した。これについて、イスラエルは明らかに成功したようだ。しかし、ハマスのオスロ合意への暴力的な反応により、イスラエルはこの関係を見直すことになり、やがてイスラエルは自身の創設物(ハマス)との公然とした戦争に突入した。
私はイスラエルとハマスの関係を政治的な実験の失敗として片付けようとしていた。この政治的な実験とは、2006年、イスラエルがハマスの過去の暴力行為を許したかのように見え、ハマスがパレスチナ議会で多数の議席を獲得するのを助ける条件を作り出そうとしていた時のことだ。しかし、2007年までに、ハマスとファタハとの関係はさらに悪化し、両派の内戦につながり、パレスチナの実体が2つに分かれる原因となった。一方はファタハが率い、西岸に位置し、もう一方はハマスが率い、ガザで活動した。
後に、明らかになったのは、このパレスチナ人同士の内戦は、パレスチナの政治的組織を分裂させ、弱体化させつつ、イスラエルには「敵の敵は味方」という理由でファタハとの関係を改善する機会を提供するために、イスラエルによって仕組まれた、ということだ。
次の十五年間、イスラエルがファタハを制御し、ハマスに対する敵意を利用して、絶え間ない暴力の連鎖に突入する様子を私はしっかり見てきた。この暴力は常にパレスチナの大義がより多くの妥協を強いられ、より多くの失われた領土と、より多くの犠牲者をもたらす結果となった。2014年と2021年のガザ紛争は、そこに住むパレスチナ市民に対する暴力が顕著で、西側では死んだパレスチナの子供たちの姿に対して免疫を持ってしまった人々によってほとんど無視された。
2023年10月8日のハマスによるイスラエルへの攻撃の直後、私の心と脳の筋肉記憶は、この非道な行為に対するイスラエルの対応を支持しなければならないと私に伝えた。
しかし、その後、イスラエルの将軍や政治家が国営テレビで戦争犯罪を公然と提唱し、パレスチナ人を「動物」と呼び、その殲滅を公然と訴えるのを見せつけられることになった。
イスラエル側がハマスの攻撃の性格について嘘をつくのを私はしっかり見た。以前は軍事化された入植地とガザという野外強制収容所を取り囲む軍事拠点への完璧な攻撃だったが、それは制御できない血の渇望の物語に変わり、そしてそれは迎合的なマスメディアによって、何の疑問も呈さない西側視聴者にあてがわれた。
40人の斬首されたイスラエルの赤ん坊という虚構によって引き起こされた衝撃に世界が立ち上がったのを私は見た。一方、イスラエルの空爆によって死んだ、いや、殺された400人近くのパレスチナの子供たちの実際の死に対して世界は沈黙したままだった。
イスラエル爆撃で死亡したパレスチナの子どもたち。ガザ。2023年10月。
そして私は決めた、もうイスラエルの側には立てない、と。
私はパレスチナの大義にたどり着くのが遅れた。イスラエルの物語に取り込まれすぎ、イスラエルの幻想に過度に熱中しすぎ、木を見て森を見ることができなかった。ハマスを嫌うのに忙しすぎて、ハマスにそんなことをさせることになったものを嫌うべきだと気づくのが遅かったのだ。ハマスが過去40年間犯してきた罪を犯すのを助長したものこそを嫌うべきだったのだ。
簡単に言えば、私にはパレスチナの人々の悲劇が見えなかった。
今日、私はイスラエルの物語において唯一の真の犠牲者はパレスチナの人々であることを知っている(明るく輝かしい未来を築いていると主張するが、死と破壊だけしかもたらさない大人たちによって押し付けられた悲劇的な出来事に巻き込まれているあらゆる階層の子供たちを除いて)。
少なくともイスラエル建国の父たちは十分誠実でこのことはわかっていた。
今日のシオニストたちは、イスラエルが生まれ、維持されるには、存続能力のある、自由で独立したパレスチナが犠牲となる必要があることを認める道徳的な資質を持っていないこと、イスラエルがそのようなパレスチナが存在することを決して許さないこと、そしてシオニストのイスラエルが存在するなら、独立したパレスチナは絶対に存在しないことを認めることができない。
建国の父たちの罪というのは架空のものではない。特にイスラエルの建国の父たちがパレスチナの人々に対して犯した犯罪についてはそうだ。モーシェ・ダヤンはこれを認めた。同様に、ダヴィド・ベン・グリオンも認めた。彼らは、基本的にそのイデオロギーや動機づけに欠陥を持った人間たちだったが、正直にそれを認めていた。
ベンジャミン・ネタニヤフと彼の現代のイスラエルの政治家仲間は、政治的所属に関わらず、そのような誠実さを持っていない。彼らは常習的な嘘つきで、男であれ女であれ、パレスチナの将来に関わる際、一つを約束してもすることは別、といった人間だ。同時にイスラエルを恒久的な戦争へ導いている。
私はパレスチナの大義にたどり着くのが遅れた。しかし今はたどり着いているので、これは言える。ハマスとシオニストのイスラエルの両方を打倒する最良の方法は、自由で独立したパレスチナ国家を支持することだ。
私はハマスの立場に立ったことはない。これからも絶対にないだろう。
私はかつてイスラエルの立場に立った。しかし、今後、同じ振る舞いをすることは絶対にないだろう。
この40年間、イスラエルとハマスの結託は悲劇的な経緯をたどってきた。お互いがお互いを破壊したいと主張しながらも、双方とも相手なしでは存在できないという恐ろしい真実を知っているのだ。
イスラエル・パレスチナ問題は、パレスチナ人の苦しみと苦難を糧にし、終わりのない暴力の連鎖となっている。この連鎖に終止符を打つ時が来たのだ。
この瞬間から、私は常にパレスチナの人々の側に立ち、中東に平和への唯一の道は、その首都を東エルサレムにしっかりと永遠に定着させ、存続能力のあるパレスチナの祖国を経由する道だと確信している。
このようにして、ハマスはテロ組織としての地位を奪われるだろう。合法的なパレスチニアン国家はハマスが作り上げてきた永続的な紛争国家を一掃するだろう。この状態は、シオニスト・イスラエルが存在を許容しない正当なパレスチニアン国家の追求で正当化されることになる。
合法的なパレスチナ国家は、本質的にパレスチナの人々の永続的な搾取によってのみ存在できるシオニスト・イスラエルの存在概念を非合法化する。ベンジャミン・ネタニヤフは、ハマスによる暴力の絶え間ないサイクルを通じて恐怖を煽り、現代版シオニスト・イスラエルを維持することができた。
ハマスによる脅威を取り除けば、シオニスト・イスラエルはもはやイスラエル市民や世界に対して現代版イスラエルにあるアパルトヘイトのような現実に目隠しすることはできない。基本的な人道的価値は、シオニスト・イスラエルにそのシオニストのイデオロギーを捨てるよう迫る。アパルトヘイトのような白人至上主義の恥ずべき遺産を捨て去った南アフリカのように、ポスト・シオニストのイスラエルは、必然的に、非ユダヤ人の隣人たちと平和的に、繫栄した共存関係を築くことを学ぶことになるだろう。植民地的なアパルトヘイトとしてではなく、イスラエルを故郷と呼ぶ人々が共に掴むであろう生活実験の等しい相手役としてだ。
ガザにひらめくパレスチナのの旗
ロジャー・ウォーターズの素晴らしい曲、The Gunner's Dreamの歌詞が、そんな場所を想像させる:
You can relax
on both sides of the tracks
And maniacs
don't blow holes in bandsmen by remote control
And everyone has recourse to the law
And no one kills the children anymore
お前には安らぎが、
立場を越えての安らぎが。
そして狂人の
遠隔操作も音楽奏者にゃ放心だ。
そしてだれもが法には抱擁。
もうだれも子どもを殺すことはない。
私はパレスチナの立場に立つ。なぜなら、私の住みたいのは、子どもたちがハマスの銃撃で荒らされたキブツの中の血まみれの家具から引き出されることなく、また子どもたちがイスラエルの爆弾によって粉々にされた家屋の残骸から、黒く煤けた状態で取り出されることのない世界だからだ。
もうだれも子どもを殺すことはない。
この歌詞は「The Gunner's Dream」からだとしても、それは人間性と共感の一片を守ろうと生きているすべての人間の夢の恒久的な一部であるべきだ。
私はパレスチナの立場に立つ。なぜなら、イスラエルとパレスチナの子供たちを支持しているからだ。十分わかっているのは、彼らが戦争で結ばれた敵ではなく、平和の中で隣人として共に生きる未来の唯一のチャンスは、自由で独立したパレスチナが存在することなのだ。
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