ウクライナ・バフムトが激戦地となったのは「成りゆき」だった?その理由 歴史家が考える戦局のターニングポイント洋の東西を問わず、普遍的に起きうる現象 ガダルカナルもスターリングラードも、戦争全体の趨勢を左右するような場所とは考えられていませんでした。ガダルカナルの場合、ことの発端は日本軍機の航続距離という、技術的な都合です。スターリングラードの場合も、「成りゆき」で生じた状況に、ヒトラーとスターリンのこだわりが油を注ぐ形で、攻防戦がエスカレートしました。 アメリカ南北戦争におけるゲティスバーグの戦いや、日露戦争における203高地の攻防戦なども、要衝ではない場所、予想外の場所が「成りゆき」から激戦地となった例です。どうやら、古今洋の東西を問わず、普遍的に起きうる現象と考えてよいでしょう。 現場のミス、組織間の連携不足といった事態は、戦争の中ではしばしば起きることです。ここに、上層部の認識不足や独裁者のこだわり、政治・外交上の思惑といった要素が重なると、「成りゆき」で激戦地が生まれ、ひいては戦局のターニングポイントとなるのです。 さて、ウクライナでは東部のバフムトという小さな町で、激戦がつづいています。本稿を書いている3月中旬の時点では、戦況は予断を許しません。ただ、多くの専門家が指摘しているように、バフムトは決して交通の要衝ではなく、もともと戦略上の価値が高い場所というわけではありません。 この町が激戦地となって両軍の消耗を招いているのは、多分に「成りゆき」によるものと考えざるをえないのです。おそらく、この方面に展開していたロシア軍の中で、傭兵集団であるワグネル部隊の正面にたまたまバフムトがあり、指揮官が攻略できそうだ、と判断したのが、ことの発端でしょう。 伝えられるところでは、ロシア正規軍とワグネルとの間には確執があるようです。そうした状況下でワグネルが戦果をアピールするため、バフムトの奪取にこだわり、ウクライナ軍が頑強に抵抗した結果、激戦にエスカレートした、といったところでしょう。 ウクライナ軍の立場で、純粋に作戦上の観点から判断するなら、この場所でいたずらに戦力を消耗するのは、得策とはいえません。しかし、バフムトが陥落すれば、ロシア側は戦果をアピールして勢いづくでしょうし、ウクライナ軍の士気は下がります。 逆に、あえてバフムトで消耗戦に持ち込み、ロシア軍に大きな出血を強いることができれば、正規軍とワグネルとの確執が激化して、ロシア側の足並みが乱れる可能性もあります。また、戦線が膠着している間に反攻態勢を整えることができるとしたら、ウクライナ軍はバフムトでの損失を上回るメリットが得られるかもしれません。 もちろん、同じようなことはロシアについても考えられます。たとえば、バフムトで消耗戦をつづけている間に、クリミアの防衛態勢を整えることができるかもしれません。それなら、ワグネルをすり潰しても見合う、という判断だってありえます。 この小さな町での攻防戦が決着したとき、戦局はどちらに傾いているのでしょう? はたしてバフムトは、プーチンにとってのスターリングラードになるのでしょうか? 今は戦況を見守るしかありません。この戦いの最終的な評価は、後世の戦史研究に委ねざるをえないからです。 ガダルカナル、そしてスターリングラードはなぜ「激戦地」となったのか? 成りゆきで激戦地化したスターリングラード 予想外の場所が、「成りゆき」によって激戦地と化した例として、もう一つ、スターリングラード攻防戦を挙げておきましょう。 スターリングラードは、ボルガ川西岸にある工業都市で、現在はボルゴグラードと呼ばれています(現在、ボルゴグラードでは市名をスターリングラードに戻そうという動きがあるようです)。 この都市は、ボルガ川沿岸地方においては交通の要衝といえます。ただ、1941年6月にヒトラーのドイツ軍がソ連侵攻を開始したとき、スターリングラードが戦局を左右するほどの激戦地になるとことを予想した人は、おそらくいなかったでしょう。ドイツ軍は、戦力を集中してモスクワを短期攻略する戦略だったからです。 ところが、モスクワの短期攻略に失敗したヒトラーは、ウクライナ方面の資源地帯を占領するよう、戦略を変更します。この判断については現在でも評価が分かれていますが、ヒトラーは長期戦を見越して戦争経済を優先する判断を下したのです。 ドイツ軍は、おおむねボルガ川までのエリアを占領する方針を立てました。この時点ではスターリングラードは、攻略すべきいくつかの都市の一つにすぎません。ところが、この街には広いボルガ川を渡るフェリーの渡船場があったのです。 強力なドイツ軍の前に総崩れとなったソ連軍は、ボルガ川を渡って東に脱出しようと、スターリングラードに向けて後退します。このため、ドイツ軍の攻撃もスターリングラードに向かって収束し、街はドイツ軍に包囲される恰好になりました。 状況を見たソ連軍首脳部は、焦りました。スターリングラードが敵の手に落ちれば、ボルガ川西岸に対する反攻の足がかりが失われてしまうからです。そこで、フェリーによるピストン輸送で、増援部隊を次々とスターリングラードに送り込むことにしました。 このとき送り込まれたソ連兵の多くは、訓練も装備も行き届かない動員兵です。ソ連軍は、ついには駅前商店街くらいのエリアを残すのみとなりましたが、それでも人海戦術をつづけることで、どうにかドイツ軍の攻撃を凌いでいました。 そして、戦況が膠着するなかで、ヒトラーとスターリンという双方の独裁者が、この都市の名前にこだわりはじめたのです。スターリングラード=「スターリンの街」という名前は、いつしか象徴的な意味合いを帯びるようになり、際限なく兵士の命を飲みむことになりました。 やがて、ドイツ軍側は攻め疲れて消耗し、打つ手のない状態に達しました。専門用語でいう、「攻勢限界」です。一方のソ連側は、この間に兵士の動員と兵器の増産をつづけ、反転攻勢の準備を進めていました。 1942年の11月、ついにソ連軍は全面的な反転攻勢に出て、スターリングラードを包囲していたドイツ軍は、逆にソ連軍に包囲される形となりました。ソ連軍の包囲を突破する試みも失敗に終わり、スターリングラード方面のドイツ軍は、ついに進退きわまってソ連軍に降伏したのです。その数は20万とも38万ともいわれます。ドイツ軍は、この痛手から立ち直ることができず、以後は防戦一方となりました。 ちなみに、ドイツ側(西側)ではスターリングラード攻防戦を、独ソ戦におけるターニングポイントと見なす傾向が強いのですが、ソ連側では、こののちにおきたクルスクの会戦を重要視しているようです。何をもって、その戦争のターニングポイントと見なすか。負けた側と、勝った側とで、評価が異なるというのは興味深いことです。 ウクライナの激戦地・バフムトはプーチンの「スターリングラード」となるか 予想外の場所での戦いが左右する場合も 戦争の中で、ある場所の攻防戦が戦局全体のターニングポイントとなることがあります。というと、戦略上の要地、交通の要衝が、なるべくして激戦地となるように思う方が多いかもしれません。 ところが、歴史をひもといてみると、意外な事実が浮かび上がってきます。さほどの要地・要衝でもない場所が激戦地となったり、まったく予想外の場所での戦いが、結果として戦局全体を左右するケースが、ままあるのです。 以下、この稿では、軍事に詳しくない人のために、むつかしい軍事学の専門用語や固有名詞(地名・人名・部隊名)などはできるだけ使わずに、第2次世界大戦中におきた二つの有名な戦いを概説します。 ガダルカナル、という地名は、このサイトを読んでいるような方なら、一度は耳にしたことがあるでしょう。第2次大戦の日米戦における屈指の激戦地であり、凄惨な飢餓の戦場としても知られる島です。 ガダルカナルは、現在はソロモン諸島の首都がある島で、大きさは四国の半分くらい。1942年(昭和17)の夏に、この島が戦場となったとき、大本営の参謀すらガダルカナルの名は知りませんでした。この島が多くの兵士たちを飲みこむに至ったいきさつは、次のようなものです。 対米英開戦にともなって南方に進出した日本海軍は、現在のパプア・ニューギニアにあるラバウルに、拠点となる航空基地をおきました。ラバウルとガダルカナルとは1000キロも離れていますから、ラバウル防衛のためにガダルカナルに基地を造る必要は、本来ならありません。 日本軍がガダルカナルを確保しようと考えた理由は、飛行機の航続距離という意外な問題によるものです。当時、日本海軍が主力としていた零式戦闘機や一式陸上攻撃機は、航続距離が非常に長かったので、ラバウルを中心に広範囲に活動していました。そこで、作戦中にエンジンが不調になったり、敵との交戦でダメージを負った機を一時的に収容できる、補助飛行場がほしいという話が持ちあがりました。 そこで、ガダルカナルに基地設営隊が送り込まれることになります。当時のガダルカナルは、双方の戦力空白地帯のような場所です。日本側は、こんな島に米軍が攻撃を仕掛けてくるとは、よもや思わなかったので、上陸した設営隊はほとんど丸腰です。 一方、ここまで日本軍に苦杯を喫していた米軍は、何とか反撃の機会を得るべく策を練っていました。彼らは、ソロモン方面の島づたいに少しずつ前進してゆく作戦を考え、準備を進めていました。 そんなところに、日本軍がガダルカナルに上陸した、という報せが入ってきたのです。米軍側は、反攻の狼煙を上げるべく、ガダルカナルに海兵隊を上陸させます。丸腰の日本軍設営隊は、ひとたまりもありません。 驚いた日本側では、ガダルカナル奪回を企てます。ところが、軍上層部の認識不足や、現場レベルでのミスなどが重なり、日本軍の奪回作戦はうまく進まず、典型的な「兵力の逐次投入」の様相を呈することとなります。 かたや米軍側は、増援部隊と重装備を次々と送り込み、日本軍の上陸部隊は苦境に陥ります。当然、双方の海軍は相手方の輸送を妨害しにかかりますから、ガダルカナル周辺の海域では大小の海戦が何度も起きることになりました。 ところが、日本側は陸軍と海軍の連携が悪く、せっかく海戦で勝利しても、ガダルカナルの戦局には寄与せず、航空戦でも日本は次第に劣勢に追い込まれてゆきました。ガダルカナルとその周辺は、兵士・艦船・航空機の巨大な墓場と化していったのです。 こうして消耗戦がつづきましたが、最終的に米軍側はガダルカナルを確保し通し、日本軍の敗退は決定的となりました。そして、この間に日米の国力の差が決定的に作用することとなったのです。 ガダルカナルでの戦いが決着したとき、米側は戦時体制下で量産を始めた兵器・弾薬や、動員した人員が戦場に届いて、反攻態勢ができあがっていました。対する日本側、とくに海軍は艦船と航空機、多くの熟練パイロットを消耗して、米側に戦力で大きく水をあけられてしまったのです。
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