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米国政府は20年前の3月20日にイラク侵略を始め、戦乱を世界へ拡大してきた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202303200000/
2023.03.20 櫻井ジャーナル
アメリカ主導軍がイラクを先制攻撃したのは2003年3月20日早朝のこと。今から20年前のことだ。
作戦に参加したのは事前にクウェートへ送り込まれていたアメリカ軍兵士24万8000人、イギリス軍兵士4万5000人、オーストラリア軍兵士2000人、ポーランドの特殊部隊GROMの隊員194名、そしてクルドの武装集団ペシュメルガから7万人だという。ここでもポーランドはアングロ・サクソンの補完国として動いている。なおGROMはアメリカ陸軍の特殊部隊デルタフォースとイギリスのSAS(特殊空挺部隊)が1990年台に組織、訓練した軍事組織だ。
イラクが「大量破壊兵器」を保有しているとアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権は主張していたが、これは嘘だった。2001年9月11日に実行されたニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)に対する攻撃(9/11)にも無関係。そこで統合参謀本部の内部にはイラクへの軍事作戦に反対する声が存在、実施時期が半年から1年延びたと言われている。
イラクのサダム・フセイン体制を破壊することは1980年代からネオコンが計画していたこと。フセイン政権を倒して親イスラエル体制を樹立してイランとシリアを分断、それぞれを破壊しようと考えていた。
欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)の最高司令官を務めたウェズリー・クラークによると、1991年に国防次官だったポール・ウォルフォウィッツはイラク、イラン、シリアを殲滅すると口にしていた。9/11から10日ほど後には統合参謀本部で見た攻撃予定国のリストにはイラク、ついでシリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、そして最後にイランが載っていたという。(3月、10月)
ネオコンは1992年2月、ソ連が消滅した直後に国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成している。作成の中心がポール・ウォルフォウィッツ国防次官だったことから「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。このドクトリンをベースにしてネオコン系シンクタンクPNACは2000年に「アメリカ国防の再構築」を発表、それに基づき、ジョージ・W・ブッシュ政権は軍事政策を作成している。
CIAは2002年に対イラク工作を始めているが、その年の11月に中東全域のCIA支局長がロンドンのアメリカ大使館に集められ、IOG(イラク作戦グループ)から対イラク戦争は決定済みであり、嫌なら辞めろと脅されたという。(James Risen, “State of War,” Free Press, 2006)
大量破壊兵器に関する偽情報をコリン・パウエル国務長官は国連で主張している。パウエルは2003年2月、国連でサダム・フセイン政権が間違いなく生物兵器を開発、生産能力もあると発言しているのだ。パウエルの次官だったシャルロット・ビアーズは「マディソン街の女王」と呼ばれる人物で、大手広告会社の会長兼CEOを務めていた。
ビアーズの手法は単純化と浅薄化。イメージが問題なのであり、詳しく丁寧には説明しない。イラクへの先制攻撃をアメリカ政府は「イラクの自由作戦」と命名したが、これもビアーズのアドバイスに従ってのことだという。ブッシュ大統領が「この戦争は平和のため」と発言したのも彼女のアドバイスによる。(Alexander Cockburn & Jeffrey St. Clair, “End Times”, CounterPunch, 2007)
イラクに軍事侵攻したアメリカ軍は破壊と殺戮を繰り広げ、捕虜に対する拷問も明らかになっている。戦争で死亡したイラク人の数を西側の政府やメディアは小さく見積もっているが、アメリカのジョーンズ・ホプキンス大学とアル・ムスタンシリヤ大学の共同研究によると、2003年の開戦から06年7月までに約65万人のイラク人が殺されたとされている。またイギリスのORBは2007年夏までに94万6000名から112万人、NGOのジャスト・フォーリン・ポリシーは133万9000人余りが殺されたとしている。
イギリスのトニー・ブレア政権は戦争を支援している。2015年10月に判明したコリン・パウエルの書いたメモによると、2002年3月28日にブレア首相はパウエルに対し、アメリカの軍事行動に加わると書き送っている。CIAの動きを見てもブッシュ政権は2002年の段階でイラクを攻撃しようとしていたように見えるが、実行しなかった。統合参謀本部の内部に反対意見があったからだと言われている。イラクへの軍事侵攻に「大義」がなく作戦が無謀だと反対していたというのだ。
そうした中、ブレア首相はブッシュ大統領に助け船を出す。2002年9月にブレア政権は「イラク大量破壊兵器、イギリス政府の評価」というタイトルの報告書、いわゆる「9月文書」を作成している。これは有力メディアにリークされ、サン紙は「破滅から45分のイギリス人」というセンセーショナルなタイトルの記事を掲載している。
この報告書をパウエル国務長官は絶賛したが、大学院生の論文を無断引用した代物。別に執筆者がいるとも噂されているが、信頼できるものではなかった。その文書をイギリス政府はイラクの脅威を強調するため改竄する。
2003年5月にBBCの記者だったアンドリュー・ギリガンはラジオ番組で「9月文書」を取り上げ、内容が粉飾されていると語る。サンデー・オン・メール紙で彼はアラステアー・キャンベル首席補佐官が情報機関の反対を押し切って「45分話」を挿入したと主張した。
ギリガンが「45分話」を語った直後、デイビッド・ケリーが情報源だということをブレア政権は突き止める。ケリーは国防省で生物兵器防衛部門の責任者を務める専門家で、イギリスの情報機関から尋問を受けている。
ケリーの名前は7月9日にリークされ、7月15に地下要塞に彼は外務特別委員会へ呼び出される。そして7月17日に変死した。公式発表では手首の傷からの大量出血や鎮痛剤の注入が原因で、自殺だとされているのだが、手首の傷は小さく、死に至るほど出血したとは考えにくい。
ケリーと親しい言語学者のマイ・ペダーソンによると、ケリーは古傷のため、右手でブリーフケースを持ったりドアを開けたりすることができなかった。右肘に障害があったのだ。(Miles Goslett, “An Inconvenient Death,” Head of Zeus, 2018)
ステーキを切ることもできなかったとも言われ、その右手で左手の手首を切ったという主張には無理がある。救急救命士のバネッサ・ハントによると、ケリーの左の手首には乾いた血がこびりついているだけで傷は見えなかったという。ハントの同僚であるデイビッド・バートレットはケリーの服についていた血痕は、ジーンズの膝についていた直径4分の1インチ(6ミリメートル)程度のものだけだったと証言している。(前掲書)
しかも手首を切ったとされるナイフから指紋が検出されていない。死体の横には錠剤が入った瓶が転がっていたのだが、その瓶からもケリーの指紋は検出されていない。
また、最初に発見されたときには木によりかかっていたとされているが、救急救命士と救急隊員は仰向けになっていたと証言、ふたりの救急関係者が現場へ到着したとき、ふたりの警官だけでなく「第3の男」の男がいたともしている。これ以外にもケリーの死には謎が多い。
ケリーはイラクの大量破壊兵器がないとブレア首相に説明していたのだが、そのブレアは偽情報で世論を戦争へと誘導しようとしていた。それに恐怖したケリーはギリガンに事実を伝え、それから間もなく死亡した。その後、BBCはブレア政権から激しく攻撃された。執行役員会会長とBBC会長は辞任に追い込まれ、ギリガンもBBCを離れることになる。現在のBBCはそうしたトラブルに巻き込まれることはなさそうだ。
ブッシュ大統領は2003年の一般教書演説の中でサダム・フセインがアフリカから相当量のウラニウムを入手しようとしていると主張しているが、イラクがニジェールからイエローケーキを購入することで合意したという覚書を調査したジョセフ・ウィルソン元駐ガボン大使は大統領の発言が事実に反すると2003年7月6日付けニューヨーク・タイムズ紙に書いている。
IAEA(国際原子力機関)もその文書を入手、文書をチェックしたところ、基礎的な事実関係を間違えている稚拙な代物で、すぐに偽物だと見抜いている。
ウィルソンの告発記事が出た8日後、ニューヨーク・タイムズのコラムニスト、ロバート・ノバクはコラムの中で、ウィルソンの妻であるバレリー・ウィルソン(通称、バベリー・プレイム)がCIAの非公然オフィサーだという事実を暴露した。
アメリカ主導軍がイラクを先制攻撃した後、中東から北アフリカにかけての地域は戦乱で破壊され、人びとは塗炭を舐めさせられている。ネオコンは戦乱をウクライナへも飛び火させ、現在、東アジアの破壊を目論んでいる。
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