警官隊によって地下鉄入り口の封鎖があっただろうね。 東京大空襲で地下鉄への避難が禁じられた理由、コロナ医療崩壊に通じる日本の悪習 窪田順生:ノンフィクションライター (ロンドン大空襲と東京大空襲の差 日本でなぜ民間人が大勢亡くなったのか) 諸説あるが、8月15日は「終戦の日」とされている。 毎年この日の前後になると、77年前に終わった戦争を忘れないために多くの報道があるが、大事な視点が欠けてしまっていると、いつも感じる。 それは「77年前も今も日本は実はそれほど大きく変わっていない」という視点だ。太平洋戦争は遠い昔の話などではなく、令和の今にも通じる、「日本社会の構造的な問題」が引き起こした“人災”なのだ。 一体どういうことか、日本の戦争被害を語るうえで避けては通れない「空襲」を例に説明しよう。 当初、連合国は軍事施設を狙っていたが、わずか数時間で10万人が亡くなった東京大空襲をきっかけに、全国の都市部でも無差別に行われて、死者は50万人以上ともされている。そのため、日本国内では「空襲」と聞くと、「連合国による民間人を狙った卑劣な戦争犯罪」というイメージを抱く方も少なくない。 ただ、この膨大な数の犠牲者は、「連合国側が日本の一般市民の命を軽くみた」とか「戦争とはそういう残酷なもの」なんて話だけでは説明ができない。日本という社会が持つ構図的な問題が被害を拡大させて、「本来は助かったはずの人の命を奪った」という側面もあるのだ。 例えば、この時期に無差別に空襲された都市部は、実は東京や大阪だけではない。1940年にはナチス・ドイツがイギリスのロンドンで連続57日間の夜間空襲をしている。いわゆるThe Blitz(ロンドン大空襲)だ。 東京はわずか数時間でも10万人規模の市民が亡くなっているのだから、57日も続けばはるかに上回る数のすさまじい数の犠牲者が出たと思うかもしれないが、この空襲で亡くなった民間人は4万3000人以上とされている。 なぜこんなに被害の違いがあるのか。「日本は木造家屋だから被害が拡大した」なんて上っ面の話ではなく、シンプルに国家としての対応の違いだ。イギリス政府は空襲に備えて「エアレイドシェルター」という防空壕を多く設置して、そこに入りきらない貧しい人々などは、地下鉄構内へ避難するように誘導した。 では、なぜ日本では同じようなことができなかったのか。 (地下鉄構内に逃げることを禁止!? 日本社会が人命より重視しているものとは) 1945年時点で、東京大空襲があった東京でも浅草―渋谷間の銀座線は運行されていたし、大阪でも梅田―天王寺の御堂筋線があった。しかし、空襲が起きた時に地下鉄構内に逃げ込むことは禁止された。空襲になると、駅のホームや車内にいた人は地上に追い出されて、入口は閉鎖された。 なぜ日本では、ロンドンで多くの市民の命を空襲から救った避難場所から追い出して、火の海の中を逃げ回らせるという、「人命軽視の空襲対策」をとったのか。 「そ…それはみんなが一気に地下鉄に押し寄せたらパニックになって将棋倒しになるからだろ!」という感じで、とにかく日本が国民の安全や命に配慮していたと考えたい人もいるだろうが、それは「後付け」の説明だ。 1941年2月、帝国議会貴族院で、ある議員が、ロンドン空襲での事例や、各国が地下鉄を空襲の避難場所として想定していることを引き合いに、日本もそうすべきではないかという質問をした。しかし、鉄道省監督局長はその方針に難色を示し、理由をこのように述べている。 「交通機関トシテノ機能ヲ害スル」(貴族院・帝都高速度交通営団法案特別委員会、1941年2月15日) 空襲になると、地上は火の海になるので、軍の物資や人員を運ぶことができなくなってしまう。つまり、空襲時に地下鉄は唯一の交通機関になるので、そのインフラの維持を優先すべきというわけだ。これを受けて、1944年7月に内務省・軍需省などが制定した「中央防空計画」にもこうしっかりと明記されるようになる。 <第一二七条 地下鉄道ノ施設ハ之ヲ待避又ハ避難ノ場所トシテ使用セシメザルモノトス> さて、このように「人命よりも社会インフラ優先」という、イギリスと明らかに異なる国家の対応とみて「そういや、つい最近もなんかこんなことがなかったっけ?」とお気づきになった方はいないだろうか。 そう、新型コロナウイルス感染拡大による「医療崩壊」だ。 (人命より社会インフラ 政府や国民に根付いている意識) 日本では新型コロナウイルス感染症は感染症法上の「2類相当」という扱いにしたことで当初、大きな病院や公立病院の現場は阿鼻叫喚の地獄と化した。症状が悪化した患者まで受け入れてくれる病院が見つからず、「たらい回し」にされて亡くなってしまうなんて悲劇も起きた。 しかしその一方、個人経営のクリニックなどのいわゆる「町医者」の多くは、「地域医療を守るという使命がある」ということから、コロナ患者を受け入れることは少なかった。中には、外出を控えるムードから診療も激減して、閑古鳥が鳴くようなクリニックもあった。 つまり、感染拡大で命の危険にさらされていた医療従事者や患者があふれていた一方で、地域医療は「社会インフラを守る」ということで市民に開放されなかったのである。 戦時中の日本の構造と照らし合わせてみると、空から焼夷弾の雨が降る中で、命からがら逃げ惑う人々がいた一方で、地下鉄は「社会インフラを守る」ということで市民に開放されなかったことと瓜二つだ。 では、なぜ日本の行政は「人命よりも社会インフラ優先」という方向に流れがちなのか。その謎を解く鍵も実は77年前の戦争にある。 先ほど鉄道省の局長が、貴族院で地下鉄を避難場所に使わせないということを明言したことを紹介したが、これは何もこの局長が個人の独断で決めているわけではない。国家の「大きな方針」に沿っている。 日本という国は、国民に「空襲から逃げず、恐れずみんなで消火せよ」と義務付けていた。スローガンや「お願いベース」などではなく、法律に基づいて「強制」していたのだ。 (同調圧力による社会の空気 マスコミも不安に怯える国民を「叱責」) この時代、「防空法」という法律があり、戦局が厳しくなるにつれて改正されていくのだが、そこで一貫しているのが「都市部から逃げてはならない」「空襲で家屋が燃えたら防空壕から出て、隣組で協力をして消火活動をせよ」というものだ。 この法律についてまとめている労作「検証 防空法・空襲下で禁じられた避難」(法律文化社)を読めば、当時のマジメな日本国民が、「人命軽視」も甚だしいこの悪法に従わざるを得なかった理由もわかる。 <都市からの退去禁止(八条ノ三)に違反した場合、「六月以下ノ懲役又ハ五百円以下ノ罰金二処ス」と規定されていた(防空法一九条ノ二第二号)。(中略)実際にこの条項により処罰された例は少ないと思われるが、単なる努力義務ではなく罰則を伴う禁止規定とされたこと自体が、都市の住民に対して強い威嚇効果をもたらす>(同書、P.67) この威嚇効果はちょっと前の「マスク警察」を思い浮かべていただければわかりやすい。何の法律的な根拠も罰則もない「お願い」であるにもかかわらず、同調圧力が起きて、マスクをしていない人間は厳しくバッシングする人々が大量にあらわれた。法律で罰則規定があるということは、あれをはるかに上まわる「空襲から逃げるな」という同調圧力が社会にまん延してたいたということだ。 しかも、同じ時期に制定された戦時刑事特別法(10条1項)では、「防空ノ妨害」をした者は死刑・無期懲役と定められた。「みんな!空襲が来るから逃げようぜ」なんて隣近所に呼びかけたら死罪になっていたのだ。 この同調圧力をさらに悪化させたのが、マスコミだ。マスクやコロナパニック(トイレットペーパーが街から消えるなど混乱が起きた)の時も、マスコミ報道が人々の不安をあおったことがわかっているが、77年前も同じことが起きている。 例えば、「大阪毎日新聞」は「防空指導方針」を引き合いに、空襲の脅威に怯える国民はこのように叱責した。 「勝手に防空壕を掘るな 避難、退去は一切許さぬ」(大阪毎日新聞1941年10月2日) (戦時中のエリートたちの思想 人命軽視で戦う軍が「命」重視にできるか) さて、こういう「人命軽視」のクレイジーな国家の方針を聞くと、「当時の政府や軍部は完全に狂っていたのでは」と思うかもしれないが、そんなことはない。彼らの多くは国際情勢にも明るく、海外留学の経験もあって、日本の置かれている苦しい状況をよくわかっていた。 わかっていたけれど、こういう「人命軽視」の大方針を打ち出した。なぜかというと、社会インフラを守るためには、市民が一定数犠牲になってもしょうがない、という思想がエリートの間にまん延しているからだ。 1941年11月、衆議院で開かれた防空法改正の審議で、佐藤賢了・陸軍省軍務課長が述べた答弁に、当時の日本のエリートたちの思想がすべて集約されているので、紹介しよう。 「空襲を受けたる場合において実害そのものは大したものではないことは度々申したのであるが、周囲狼狽混乱に陥ることが一番恐ろしい、またそれが一時の混乱にあらずしてつひに戦争継続意志の破綻といふことになるのが最も恐ろしい」(衆議院防空法中改正法律案特別委員会、1941年11月20日) なぜここまで恐怖だったのかというと、「軍」というインフラが崩壊してしまうからだ。 ご存じのように、日本軍では「絶対に逃げずに死ぬまで持ち場を守れ」と現場に叩き込んでいた。連合国の兵士たちは負けそうだと自覚すると、祖国に生きて帰る確率が上がるので当たり前のように「投降」をしたが、日本軍では「生き恥を晒すな」「捕虜になるくらいなら鬼畜米英を1人でも巻き添えに自爆しろ」というのが常識だった。 軍隊がそのように人命軽視で戦っている中で、銃後の庶民に「空襲が来るから避難せよ」なんてぬるいことが言えるだろうか。 言えるわけがない。世界の一般的な国では、「軍人は戦争をして、市民を守る」という役割分担が明確になされているが、日本の場合、そのような役割分担はない。「いくぞ1億火の玉だ」という国威発揚スローガンがわかりやすいが、銃後の女性も子どももいざとなったら爆弾を抱えて、鬼畜米英に体当たりして一矢報いよという「総力戦」を唱えていた。 だから、市民も最前線の兵士と同様に、「絶対に逃げずに死ぬまで持ち場を守れ」ということが求められた。 軍隊と同じことを求められるので当然、市民の間でも、軍隊と同じような悲劇が起きる。人命無視をした悲劇といえば、神風特攻隊や人間魚雷「回天」が思い浮かべるだろうが、実は空襲の現場でも同じようなことが起きていた。 (「空襲も焼夷弾も怖くない」というウソ 77年進化していない日本を見つめ直せ) 1942年、国はそれまでは家から離れた庭先など屋外に防空壕をつくれと言っていたのを、「床下に簡素に作れ」という「屋内防空壕」という方針へと転換した。もちろん、これは「すぐに防空壕から飛び出して消火活動ができるから」からだ。 これを真に受けて、家の軒下に簡単な防空壕をつくった人はどうなるのかは言うまでもない。空襲を受けた家屋は燃えるので、一度逃げ込んだら逃げられない。柱なども崩壊するので生き埋めになって、むごい熱さの中で蒸し焼きにされて亡くなっていくのだ。 特攻隊や人間魚雷のことを「非人道的な作戦」というが、実は一般庶民も同じように「非人道的な作戦」によって、多くの人々が命を奪われていたのである。 また、焼夷弾の直撃を逃れたのに、燃え盛る家を消火しようという無謀なことをさせられて亡くなった人もたくさんいる。当時、日本政府は、焼夷弾はホウキなどで叩けば簡単に消火できるというデマを流して、国民に空襲は怖くないというプロパガンダをしていた。 東京大空襲の少し前、政府が発行する「週報」(第四二八号)には、軍部や政府関係者がどうやって空襲を乗り切るかということを議論する「決戦防空座談会」が掲載されているのだが、そこにはこんな感じで結論まとめられている。 「焼夷弾は恐ろしいもんぢゃないといふ感じを皆に持たせる。さうして、どうして消したらよいかといふことを徹底させることが一番必要だと思ひます」 インフラを守るためには、市民がある程度の犠牲を払うのはしょうがない――。これは現代でも脈々と引き継がれている日本のエリートたちの典型的な思考パターンである。 だから、コロナ感染者があふれても「2類相当」に固執をする。先進国の中でもダントツに低い賃金で、多くの労働者が年収200万以下で貧しさにあえいでいるのに、「地方の雇用を支える中小企業を守れ」なんてことを大真面目に訴えている。 やっていることが、医療や経済というだけで、基本的には77年前の戦争と方法論は何も変わっていない。国家のインフラを守るためには、弱い者はじっと我慢をせよ――というのは、今も昔も変わらない日本の基本的な考え方なのだ。 ということは、今のままでは、医療も経済もあの戦争と同じ道を歩むということだ。 「戦争の記憶を語り継げ」なんて悠長なことを言っている場合ではない。今こそ我々の社会が77年前と同じ破滅の道を歩んでいる事実を直視すべきだ。 (ノンフィクションライター 窪田順生)
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