2022年2月24日に開戦したロシア・ウクライナ戦争。当初はロシアよりも相対的に小国のウクライナが苦戦すると思いきや、今も善戦を続けている。 【画像あり】疲労困憊のプーチン氏 その理由を、同問題に詳しいロシア軍事の研究者の小泉悠氏の著書『 ウクライナ戦争 』より一部抜粋してお届けする。 持ち堪えるウクライナ軍 例えば開戦の少し前、米CSISのエミリー・ハーディングは、次のような戦争の想定シナリオを発表していた。ウクライナがNATOの支援を得られるかどうかを縦軸に、ロシアの侵攻規模がどのくらいのものとなるかを横軸に取ってマトリックス化したもので、NATOの支援が得られない場合には、ウクライナはロシアの支配を受け入れるしかない、というのがその基本想定である。 また、NATOの支援が得られた場合でも、ウクライナ軍が組織的な抵抗を行うことはほぼ不可能であって、軍隊をゲリラ部隊に改編して、NATO加盟国を後背地としながら反乱作戦(insurgency operation)を行うしかない、というのがハーディングの結論であった。(表1、Harding,2022.2.15.)。 ロシアの侵攻開始前後に米国が行った対ウクライナ軍事援助も、このような見立てに沿って行われたものであるように見える。当時、米国がウクライナに供与したのはジャヴェリン対戦車ミサイルやスティンガー歩兵携行型地対空ミサイル(MANPADS)といった、兵士が肩に担げる武器が中心であって、戦車、装甲車、榴弾砲などの重装備は含まれていなかった。 欧州諸国からの軍事援助も似たり寄ったりの内容(英国製のNLAW対戦車ミサイルやドイツが保有していたソ連製のストレラMANPADS)であったことを考えると、欧米諸国もウクライナ軍が正規軍としてロシア軍と正面から対抗できるとは思っていなかったのではないか。 ウクライナのドミトロ・クレバ外相が開戦後に語ったエピソードはさらにあからさまである。「非常に影響力のある欧州某国」に駐在するウクライナ大使が同国の外相に軍事援助を要請した際、次のような言葉をかけられたという(The New Voice of Ukraine,2022.3.16.)。 「正直に言えば、最大でも48時間以内に全てが終わり、新たな現実がやってくるというのに、なぜ貴国を助けなければいけないのでしょうか?」 しかし、ウクライナの抵抗力は、西側の予想を大きく上回るものであった。開戦から1カ月の間、ウクライナ軍は組織的な戦闘力を維持し、特にキーウ、チェルニヒウ、スムィ、ハルキウといった北部の主要都市を最後まで防衛しきったのである。これらの地域において攻略の任を担ったのがロシアの東部・西部軍管区を中心に抽出された主力部隊であったことを考えると、まさに驚嘆すべき粘りというほかない。 「聖ジャヴェリン」の加護の下で ウクライナ軍がロシア軍の猛攻にこれだけ持ち堪えられたのはなぜなのだろうか。理由はいくつか挙げることができよう。 第一に、ウクライナ軍は決して弱体というわけではなかった。同国の総兵力は開戦前の時点で約19万6000人とされており、これは旧ソ連諸国では第2位の軍事力である。さらにウクライナは、内務省の重武装部隊としてドンバス紛争を戦ってきた国家親衛軍6万人、国境警備隊4万人という有力な凖軍事部隊を保有しており、これらを合計すると30万人になる(IISS,2022)。 対するロシア軍の侵攻兵力は15万人(開戦前のバイデン大統領の発言)、親露派武装勢力を加えても19万人ほど(同時期における米OSCE代表の発言)とされていたから、実は正面戦力比ではウクライナが優勢であった。榴弾砲や多連装ロケット・システムなどの火力、戦車や装甲車両といった機甲戦力の点数ではロシア軍が遥かに優勢であったため、単純な比較はできないが、手も足も出ないというわけでは元々なかったことは確認しておく必要があろう。 第二に、ウクライナは広い。国土面積は約60万㎢と日本の1.6倍にも及び、多少の侵攻を受けても地積を戦略縦深として反撃のための時間を稼ぐことが可能であった。さらにキーウ北方にはプリピャチ湿地と呼ばれる湿地と森林地帯が広がっており、これが天然の防壁として機能したことにも触れておく必要があろう。さらにウクライナ側はロシア軍の侵攻と同時にプリピャチ川のダムを決壊させて人為的な洪水を引き起こし、さらに300以上の橋を破壊して、ロシア軍が限られた道路上を進まざるを得ないように仕向けた。 ただ、ウクライナ軍は、火力や機甲戦力の面でロシアに対して圧倒的に劣勢であった。しかもロシア軍の侵攻はキーウに対してだけでなく、東部や南部からも行われたため、首都防衛の戦力は圧倒的に不足していたとされる。そこでウクライナ軍は、キーウ近郊の軍事訓練センターを基礎として、軍と治安部隊から成る急ごしらえの防衛部隊をいくつか編成し、訓練用の予備兵器まで引っ張り出してロシア軍を迎え撃たざるを得なかった(Washington Post,2022.8.24.)。 ここにおいて、米国や欧州が供与した対戦車ミサイル・ジャヴェリンが威力を発揮した。これが第三の理由である。特に有名なのはキーウ北東部のブロヴァルイで行われた戦闘であろう。進撃してきたロシア軍中央軍管区第90戦車師団は、街中に潜んでいたウクライナ軍から対戦車ミサイルの待ち伏せ攻撃を受けて大損害を出し、師団長まで戦死するという結果に終わった。ベラルーシ側から進撃してきたロシア軍も限られた進撃路をそこここで阻まれ、車列は60q以上に伸びきってしまった(ただし、当時のウクライナ軍にはこの格好の標的を叩くだけの空軍力を持たず、後にロシア軍は比較的整然と撤退した)。 こうして、ジャヴェリンは単なる兵器ではなくなった。聖母マリアがジェヴェリンの発射機を抱いた「聖ジャヴェリン」なるイラストが登場し、たちまちミーム化したのである。 「聖ジャヴェリン」が団地の壁にまで描かれ、キーウにはグッズ販売店まで出現したという一事をもってしても、このミサイルに対するウクライナ国民の信頼がうかがえよう。イスラム諸国が国旗に半月刀を描き、モザンビーク国旗にはカラシニコフ小銃があしらわれたように、ジャヴェリンは主権と独立の象徴となったのである。 ウクライナの「三位一体」 以上のような軍事的理由に加えて、ウクライナには、ロシアの侵略に対して抵抗を貫くだけの政治的・社会的足腰があった。プロイセンの軍人にして軍事思想家でもあったカール・フォン・クラウゼヴィッツが述べるところの「三位一体」がそれである。 クラウゼヴィッツは、戦争を「拡大された決闘」と位置付けた。つまり、戦争というのは二人の男が暴力で相手を屈服させようとする行為を国家規模に拡大したものだということである。しかも、暴力の行使は敵による対抗的な暴力行使を引き起こし(「第一の相互作用」)、そのことは、「私が敵を打倒してしまわぬ限り、私は敵の方が私を打倒するのではないかと常に恐れていなければならない」という状態を作り出す(「第二の相互作用」)。 その結果、当初は敵を打倒するのに必要十分な規模で始まった暴力行使は、敵味方の間で無制限にエスカレートしていく(「第三の相互作用」)とクラウゼヴィッツは考えた(クラウゼヴィッツ2001)。 こうした戦争観に決定的な影響を与えたのが、フランスのナポレオン・ボナパルトが引き起こした一連の大戦争(ナポレオン戦争)の経験であったことは広く指摘されている。戦争は暴力闘争であるという、ある意味で当然のように思われるテーゼをクラウゼヴィッツが強調するのは、これ以前の戦争が必ずしも激しい暴力行使を前提としていなかったためであった。 ナポレオン戦争以前の欧州においては、軍隊は貴族層の「財産」であり、しかも一度軍隊が壊滅すると再建が難しいため、大規模な犠牲が出る決戦を避けて小規模な勝利を積み重ねる「制限戦争」の形が一般的にとられていた(石津2001年3月)。 したがって、当時の欧州では「維持費用のかかる常備軍の指揮官は、できる限り戦闘を避け」、「機動戦で、なるべく敵の領土で行われ、しかも敵国の地方の資源を使い、敵を徐々に消耗させる」ことに注意が払われる傾向が強かった。 つまり、ナポレオン以前の戦争は「儀式的」な性格が強く、究極的には「戦闘そのものが消失するかもしれない」とさえ予見されていた(ハワード2021)。 しかし、ナポレオンとの戦いは、それ以前にクラウゼヴィッツが経験した戦争とは「同じ「戦争」というカテゴリーに含まれる活動であるのを理解するのも困難であったほど」に異なっていた(ハワード2021)。 ナポレオンが創設した大陸軍は、「18世紀の他の国の陸軍では対応できないほどの死傷者を出しながら戦」う「獰猛な戦争」を遂行することができる、全く異なる種類の軍事力であった(Knox and Murray,2001)。 こうした戦い方を可能とした要因の一つが、フランス革命後に導入された国民皆兵制度であったことはたしかであろう。しかし、こうした制度的な革新は、「獰猛な戦争」の全てを説明するものではない。ナポレオン時代に軍隊に動員された国民は最大で全人口の7%にも及んだが、この程度の動員はフリードリヒU世時代のプロイセンでも行われていた(ドルマン2016)。 むしろ重要であったのは、「国家とそこに住む人々の関係が変質したこと」、すなわち「国民」としての自覚を持ったフランス大衆が国家の危機を自らの危機であると認識し、強制によってではなく自らの意志で主体的に祖国防衛に参加するようになったことであった。 スミスが述べるように、「彼らは、もはや国王のために戦う軍服を着た農奴ではなく、フランスの栄光のために戦うフランス人愛国者だった」のであり(Smith,2005)、「獰猛な戦争」はこうした新たな大衆の存在なくしては成立しなかった。こうして、決戦を回避する「制限戦争」から、多大な犠牲を払ってでも決戦を行い、雌雄を決する近代的な国家間戦争への転換が生じたのである。 それゆえに、クラウゼヴィッツは、近代的な国家間戦争は政府と軍隊だけで成立するものではないと主張した。戦争は、国家が政治的目的を達成するための手段であり、これを遂行するのは軍隊による暴力闘争であるが、そこには国家と自己を同一視して大量の犠牲を払う覚悟を持った「国民」という存在が絶対に必要とされる――これがクラウゼヴィッツのいう三位一体論であった。 ウクライナは弱くない このモデルをウクライナに当てはめてみると、現在の同国には三位一体が比較的きれいに揃っているように見える。ウクライナの政治的目的は侵略の撃退というシンプルでわかりやすいものであり、軍事力は決して弱体ではない。 さらに開戦後の世論調査が示すように、侵攻が長期化したり、ウクライナの独立性がさらに脅かされる事態になったりしても、「領土に関する譲歩を支持しない」と答えたウクライナ国民の割合は82%にのぼっていた。国民はあくまでもロシアの侵略に抵抗することを選んだわけである。 この結果、ゼレンシキー政権は開戦後に発動した総動員によって5月には70万人の兵力を確保し(前述のように開戦前は凖軍事部隊も含めて30万人であった)、7月にはこの数字を約100万人(ウクライナ軍70万、警察部隊10万、国家親衛軍9万、国境警備隊6万)まで増強することができた。 48時間で消滅するはずだったウクライナがこれほどまでに持ち堪えられた要因は、この点(クラウゼヴィッツのいう「国民」の要素)にも求めることができよう。 全力を出せないロシア軍 ロシア側の事情にも目を向けてみたい。既に述べたように、プーチンはこの戦争を「特別軍事作戦」と位置付けたが、この点は戦争が長引いた後も変化しなかった。つまり、事態が公然たる戦争にもつれ込んでも、プーチンはその現実を認めようしなかったということである。 そして、このことは単なる建前論を超えて、ロシア軍の戦闘能力を大きく制約した。『ミリタリー・バランス』2022年度版によると、ロシア軍の総兵力は実勢にして約90万人程度であり、このうち約36万人が地上部隊(陸軍約28万人、空挺部隊4万5000人、海軍歩兵部隊3万5000人)とされている。しかし、36万人のうちの20万人強は徴兵で占められており、戦時体制が発令されない限り、彼らを戦場に送ってはならないということが2003年には決定されていた。 もちろん、これは建前である。2008年のジョージアとの戦争では投入された兵力の3分の1が徴兵であったと言われているし、第二次ロシア・ウクライナ戦争においても徴兵の実戦投入は何例か報告されている。しかし、たとえ建前であっても、それをしないと政府が公約した以上、これらはあくまでも違法な行為であって、事態が露見するとロシア政府は「手違いだった」と釈明して徴兵を戦地から引き上げざるを得なかった。 したがって、15万人というロシア軍の侵攻兵力は、全地上部隊から徴兵を除いたほぼ全力であったのだと考えられよう。ここに親露派武装勢力の部隊や民間軍事会社ワグネルなどを加えても、戦時動員で増強されたウクライナ軍に対して兵力で劣勢なことには変わりはなかった。 また、ロシア軍は航空戦力の活用にも奇妙にも及び腰であった。ウクライナの陸軍がそれなりの規模であったことは既に述べたが、空軍は規模も小さく、装備も旧式のままである。これに対してロシア空軍は2000年代以降の軍改革で大幅な近代化を遂げていた上、開戦前には300機以上の戦術航空機がウクライナ周辺に展開していた。多少の犠牲を覚悟でこれらを大規模に投入した場合、ウクライナは完全に航空優勢を奪われていたはずである。 しかし、実際には、ロシア軍機は国境付近からミサイルを発射しては逃げ帰るという戦い方を中心とし、激しい航空戦を避けた。この結果、ウクライナは本書の執筆時点でも約8割の航空戦力を維持していると見られ、偵察や攻撃など、地上部隊の抵抗に不可欠な支援を提供し続けることができている。 その理由ははっきりしないが、単にロシアの航空部隊が大規模な空陸連携の能力を欠いていたというだけでなく(OʼBrien and Stringer,2022.5.10.;Bronk,2022.2.28.)、政治指導部による何らかの制約を受けていた可能性も排除できないだろう。
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