https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68729 ロシアのプロパガンダを発信してしまう日本の「専門家」たち ウクライナは「東西分裂国家」か?日本で広まる偽情報に注意せよ◆特別公開中◆ (*)本記事は、プレミアム会員向けの特別記事ですが、期間限定で特別公開しています。(この機会に、JBpressのすべての記事をお読みいただける「JBpressプレミアム会員」のご登録をぜひお願いいたします。) (平野 高志:ウクライナ・ウクルインフォルム通信編集者) 2021年秋から、ロシアがウクライナ周辺に兵力を集結させており、すわ更なる侵攻か、と欧米とロシアの間で冷戦終結以降最大の緊張が生じている。これにあわせて、日本語空間でも様々な解説記事が現れているのだが、その中には、事実に基づかない偽情報や誤情報も少なくない。 今回筆者が紹介したいのは、2014年以降、ウクライナへの侵攻、領土占領を続けるロシアが、国際社会の情勢理解や決定を誤らせることを目的に発信している「偽情報(プロパガンダ)」である。 ロシアは、2014年のウクライナ侵攻以降、ロシア・ウクライナ情勢に関して、根幹部分に誤りがあり、それを知りながら読み手・聞き手を騙すために伝える「偽情報」を積極的に発信している(厳密には政府発信のものは「プロパガンダ」であるが、ここでは「偽情報」で統一する)。ロシアは特に英語空間で極めて活発に偽情報を拡散しているが、一方で日本では日本語がフィルターとなっており、偽情報の量は英語空間より少ない。 なお、ロシア発の偽情報が日本語空間に入ってくる際のチャンネルは以下の3つに大別できる。 (1)ロシア大使館がSNSアカウントを通じて発信する公式チャンネル (2)「スプートニク」や「ロシア・ビヨンド」といったロシア国営メディアによる半公式チャンネル (3)ロシア発の情報を用いて日本語で発信する日本人専門家による間接的発信 その中で日本における特徴は、(3)の専門家の情報発信の中に紛れ込むロシア発偽情報が特に多いことである。例えば、現在の緊迫するロシア・ウクライナ情勢に関しても、ロシア大使館やスプートニクはそれほど活発に偽情報を発信していないのに対し、(3)の専門家の情報発信に見られるロシア発偽情報は過去2カ月で急増している。 そもそも、ロシア語を理解し、ロシア発の情報を日本で伝えられる人は、日本のメディアでは「ロシア専門家」として重宝されがちであるが、問題はその専門家がしばしばロシア政権が拡散する偽情報を検証せずに日本社会に伝えてしまうことにある。しかも、その情報の真偽検証ができる人が日本にはまだ少ないために、ロシア発偽情報がそのまま日本の読者に伝わり、その結果、ロシア政権が望む対日世論操作が実現する余地が生じてしまっているのだ。 以下では、そうした専門家たちが日本で広めている偽情報について、どのような点が誤りであるかを検証してみたい。 ウクライナは本当に「東西分裂」しているのか 日本で拡散している典型的な偽情報に「ウクライナは東西で分裂している」というものがある。 例えば外務省主任分析官であった佐藤優氏は「Business Insider Japan」の記事で、「ウクライナは東部と西部で文化が異なる」として、以下のように述べている。 「西側のガリツィア地方は、歴史的にはハプスブルク帝国に属する地域で、ウクライナ語を使い、宗教はカトリックです。一方、ロシアに近い東側のハリコフ州やドネツク州に住む人々はロシア語を常用し、宗教的にもロシア正教なんです」 残念ながら、このウクライナを西と東で決定的に異なる地域かのように紹介する、いわゆる「ウクライナ東西分裂論」は、ロシア政権が2014年のウクライナ侵攻の際に好んで用い続けた、典型的な偽情報だ。ウクライナの実態は、このように東西を2つに単純に分けることは不可能である。地図を見ながらその問題を検証してみよう。 https://jbpress.ismcdn.jp/mwimgs/b/f/-/img_bf0c2fc93309bd35d0cfa9924fba547b143515.jpg この地図における赤の部分が、佐藤氏の言う西の「ガリツィア地方」(ウクライナ語ではハリチナ地方)、青の部分が佐藤氏の言う「ハリコフ州やドネツク州」(ウクライナ語ではハルキウ州、ドネツィク州)にルハンシク州を加えた地方である。一目でわかる通り、この2つの地方は、ウクライナの西端と東端に位置しているだけであり、あくまで「ウクライナ西部の西端」「ウクライナ東部の東端」に過ぎない。つまり、佐藤氏の説明からは、それ以外のウクライナ大部分(その他の西部・東部、南部、中部)の人々の存在が抜け落ちている。これは、日本で言えば、沖縄県と北海道の住民だけを紹介して「ほら、南と北の住民は言葉も文化も食生活もこんなに違う、だから日本は南北分裂国家」というようなものであろう。 しかも、ウクライナにおいて特に忘れてはならない点は、その他の大部分の地域に暮らす住民の多くが、ウクライナ語もロシア語も場面によってどちらも使い分けることのできるウクライナ人であり、その彼らがウクライナの人口の大半を占めていることである。 ウクライナは西部でも正教徒が多い 前述の通り、ガリツィア地方(地図の赤の部分)はウクライナ西部のあくまで一部に過ぎず、あたかも西部全体がガリツィア地方であるかのような言い方は不適切である。通常「ウクライナ西部」という場合は、ガリツィア地方以外に、ヴォリーニ地方、ポジッリャ地方、ブコヴィナ地方、ザカルパッチャ地方などを含む(概ね地図の黄の部分)。 「(西部の住民が)ウクライナ語を使い、宗教はカトリック」という説明については、ガリツィア地方にて、ウクライナ語利用がウクライナで最も盛んであることは間違いないのだが、他方で、同地方の「宗教はカトリック」という表現には問題がある。2015年4月発表の民主イニシアティブ基金実施の世論調査によれば、ガリツィア地方のギリシャ・カトリック教会とローマ・カトリック教会の信者は合わせて約68%であるのに対し、ウクライナ正教会の信者も約30%いることがわかっている。そのため、「ガリツィア地方の住民はカトリック信者」と記述すると、それ以外の3割もの人の存在を無視することになってしまう。 さらに、キーウ(キエフ)国際社会学研究所の2021年7月の世論調査によれば、ガリツィア地方に限らないウクライナ西部(黄色の部分)全体で見ると、約57%が自らを正教徒とみなしており、自らをカトリック教徒とみなすものは約28%に過ぎない。西部全体では、むしろ正教徒の方が、カトリック教徒よりはるかに多い(約2倍)のである。 ウクライナ人の多くはバイリンガル 「ロシアに近いハリコフ州やドネツク州に住む人々はロシア語を使い宗教的にもロシア正教」という主張も問題が多い(これはロシア政権が特に好むプロパガンダである)。 まず言語問題を見ると、東部において日常的にロシア語利用が比較的盛んであるというのは概ね正しい。しかし、先ほどの「西部はウクライナ語利用が盛ん」との説明とも関係するが、ウクライナの言語状況を語る上で何よりもまず理解しなければならないのは、「多くの国民がウクライナ語とロシア語の両言語を相当程度自由に操るバイリンガル」であるということである。 つまり、ウクライナでは、ある人物が日常的にロシア語を使うことが、その人物がウクライナ語を使わない(使えない)ことや、ウクライナ語を嫌悪していることは必ずしも意味しない。実際には、多くの住民が場面や必要に応じて言語の使い分けを行うことが学術調査によりわかっている。 例えば、家族・友人と話す時、職場で話す時、周りにロシア語話者あるいはウクライナ語話者が多い場面、お店で注文をする時、数字を数える時、本を読む時、テレビを見る時といった具合に、多くの人がその場面に応じてウクライナ語とロシア語を使い分けているのである(詳細は、拙著『ウクライナ・ファンブック』参照)。そのため、ウクライナの住民を言語を通じてあたかも2つの分断されるようなコミュニティが存在するかのような解説は、実態から乖離しており、大きな誤解を生み出すものであり、避けなければならない。 次に、東部住民の宗教が「ロシア正教」かどうかである。上記のキーウ国際社会学研究所の調査では、ウクライナ東部諸地域において、自らを「正教徒」だと答える者は78〜84%であり、正教徒信者は西部より若干多い。ただし、その回答者の内訳を見ると、独立「ウクライナ正教会」の信者だと答える回答者が48〜54%であるのに対し、ロシア正教会系列の「ウクライナ正教会モスクワ聖庁」の信者だと答えたのは約24〜35%でしかない。つまり、東部住民の間では確かに正教徒は比較的多いが、しかし、彼らの間では自らを「ロシア正教徒」よりも「ウクライナ正教徒」だと考えている者の方が多いことがわかる。 (なお、参考までに、同調査では、ウクライナ全体では、正教徒の割合は約73%、カトリック教徒の割合は9%であり、正教徒の割合の方が圧倒的に多い。そして、正教徒と回答した者の内の約58%が自らを独立「ウクライナ正教会」に属していると考えている。) 作り出される「ロシア国民」 日本の専門家からは、「ウクライナ東部の人たちは自分がロシア人だと考えている」「ロシアに統合されることを望んでいる」という主張も聞かれる。だが、これも実態に即していない。 まず、ウクライナで行われた2001年の国勢調査(最新)では、ドネツィク・ルハンシク両州の自らの民族アイデンティティ問う設問では、約55%が自らをウクライナ人と答えている。この2州に限れば「ロシア人」アイデンティティを持つ者の割合がその他の州より比較的多いことは客観的事実だと言える。だが、それでもその数は過半数ではない。 そして、より深刻に考える必要があるのは、この地の「ロシア国籍」問題である。というのも、ロシアは、2019年4月以降、ウクライナ東部の紛争地域にて、住民がロシア国籍取得する際の手続きを簡素化する決定を下しており、それ以降、同地住民に対して国籍のばらまきを行っているのである。これは、紛争地における「パスポーティゼーション」と呼ばれる行為であり、紛争解決を困難にするものとみなされている。つまり、現在ロシアは、ウクライナの主権を侵害しながら、「自国民」を簡易的に作り出し、その保護を名目にウクライナへとさらに武力を行使しようとしているのである。 言うまでもなく、それは非難すべき対象であり、侵略の正当化の根拠とみなしてはならない。実際に、欧米はロシアによるパスポーティゼーションを繰り返し非難している(なお、ロシアはジョージアでも同様の国籍ばらまきを行っている)。 「ウクライナ東部の人たちがロシアに統合されることを望んでいる」ことを裏付ける客観的データは存在しない(被占領地では信頼できる世論調査ができない)。ただしこの点において、重要な客観的判断材料となるのが、紛争開始後に生じた「国内避難民」の存在である。東部のドネツィク州とルハンシク州では、2014年以降のロシア・ウクライナ紛争の結果、住民の約150万人がウクライナ政府から「国内避難民」のステータスを取得しており、この地位によりウクライナから特別な支援を受けられるようになっている。他方で、同地の住民の中には、紛争開始後、ロシアに避難した者もいることがわかっている。つまり、ドネツィク・ルハンシク両州被占領地の住民は、「国内避難民として国内その他の地域へ避難した者」「難民としてロシアへ避難した者」「引き続き現地に居住している者」というように、現在様々な境遇の下で生活しているのである。 言うまでもなく、彼ら全員がこの地の代表者であり、今後この地の将来を決める際に意見を述べる権利を持っている。さらに、「国内避難民」地位を有しながら、被占領地に戻って生活している者も少なくない。 このような情報を総合すると、様々かつ複雑な状況にある彼らが、自らを一様に「ロシア人」だと考えているとは想像し難く、またウクライナ政府への支援を求める者がいる中で、皆がウクライナへの統合を望んでいないと見るのは大きな誤りだと言えよう。 「専門家」が広めるロシアの偽情報 上記のような偽情報は2014年以降、さまざまな専門家の間で頻繁に見られる。特に昨年(2021年)秋以降、「ウクライナがあたかも2つに分断している」かのように示す、専門家による日本語記事は急速に増えている。 例えば、最近では「朝日新聞GLOBE+」の関根和弘記者の1月22日付記事(「ウクライナ国境にロシア軍10万人、プーチン氏は本気だ クリミア併合の取材記者が解説」)では、ウクライナを「親欧州」「親露」の2色で塗り分けた、読者を大きくミスリードする地図が使用された。 しかし、各世論調査を見れば、実際のウクライナ国民の政治的志向ははるかに複雑であり、地図のようにはっきり2つに分けられるようなものでは決してない。地図や世論調査を用いて分析すればその真偽検証はさほど難しくないし、ウクライナ各地で現地調査を行えば「現実はそんなに単純ではない」ことにはすぐ気づけるであろう。 ここで卑近な例を挙げよう。筆者の知り合いには、クリミアや東部出身の者が多くいるが、彼らの実態はまさに多様である。彼らの一部を紹介したい。 ・ロシア語の方が得意だが、ロシア発偽情報への警戒感から、ニュースだけはウクライナ語で情報収集しているハルキウ出身者 ・大学のある政府管理地域と東部の被占領地にある実家の間を行き来し、家族との会話やSNSではロシア語を使うことが多いが、仕事では自由にウクライナ語を使う者 ・ドネツィクに生まれたが、2014年以前から日常生活はロシア語、SNSではウクライナ語のみを使う者 ・クリミアとウクライナ本土を行き来し、日常活動のほぼ全ての場面でロシア語のみを用いるが、ロシア政権のことは密かに嫌悪している者(ただしリスク回避のため、意見を公言することはない) ・クリミアの人気ブロガーで、普段はロシア語を使うが、対談相手によってはウクライナ語での動画投稿も行う者 ウクライナはこのような多様な人々で溢れており、その多様さこそが現在のウクライナの現実である。ある映画監督が「ウクライナで映画を作る時には、ロシア語だけ、ウクライナ語だけで撮影することはまず不可能だ」と述べていたが、それだけウクライナでは2つの言語が1つの町、1つの通り、1人の人の中で混在しているということである。そこに1本の明確な境界線を引くことが不可能であることは言うまでもない。 日本は偽情報を払い除け、毅然とした決定を さて、佐藤氏は前述の記事にて、ロシアが現在、今にもウクライナに対して更なる侵攻に踏み切ろうとしている状況に対して、「日本は安易にどちらかに肩入れすることなく、中立を保つことが重要」だと主張している。 しかし、プーチン大統領が行おうとしているのは、一国が別の主権国家に対して軍隊を送るという、れっきとした侵略行為である。紛争地で簡易的に作り出した「ロシア国民」の保護という口実をもって、正当化を試みているに過ぎない。そうした明白な侵略行為に関して、日本が、厳しい対露制裁を準備する欧米とは異なる、「中立」という「独自対応」を取った場合、今後、台湾海峡や尖閣諸島にて類似の力による現状変更が生じた時に、日本の主張が欧米から理解を得ることは極めて困難となる。 日本政府は、たとえ日本から遠く離れた出来事であっても、ロシアによる偽情報を根拠とした侵略正当化の試みを適切に払い除けつつ、実際の状況を正しく把握した上で、G7、国際社会の一員として、「力による現状の変更は断固として受け入れない」という原則を示す、毅然とした決定を採択することが極めて肝要であろう。 ◎平野 高志(ひらの・たかし) ウクルインフォルム通信(ウクライナ)編集者 東京外国語大学ロシア・東欧課程卒。2013年、リヴィウ国立大学(ウクライナ)修士課程修了(国際関係学)。2014〜18年、在ウクライナ日本国大使館専門調査員。2018年より現職。著書に『ウクライナ・ファンブック』(パブリブ)がある。
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