ウクライナの核廃絶は、西側圧力に屈したとは言え、ウクライナ議会の決定によるウクライナの選択です。 https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/68/68-1.pdf ウクライナの核廃絶 1.はじめに ウクライナ最高ラーダ(議会)は、旧ソ連の各共和国で自立の気運が高まりつつあ った 1990 年 7 月 16 日、「受け入れない、作らない、手に入れない」の非核三原則を 盛り込んだ『主権宣言』を採択し、さらに翌 1991 年 10 月 24 日に発表した『非核化 に関する最高ラーダ声明』において、ウクライナ領内に「暫定的に」置かれたソ連邦 の核兵器はいずれ廃絶されることを宣言した。 同年 7 月には米ソ両国大統領が START-1 に調印したものの、12 月に当事国であるソ連邦が崩壊したため、米国と旧 ソ連の核兵器が残されたロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンの間で 1992 年 5 月 23 日に START-1 付属議定書(いわゆる『リスボン議定書』)が調印され、改 めて4カ国は START-1 の締約国としてその義務を負うことが確認された。 ウクライ ナには大陸間弾道ミサイル(ICBM)176 基分の 1240 発が残され、同国はソ連邦の 崩壊によって自動的にアメリカ、ロシアに次ぐ世界第3位の核大国となったが、この 『リスボン議定書』によってロシアを除く旧ソ連3カ国は「可能な限り早く」非核国 として NPT に加入することが約束された。 しかしロシアがウクライナの NPT 加入を START-1 の批准書交換の条件とするのに対し、ウクライナ議会は NPT 加入を見合わ せたため、START-1 の発効は棚上げとなった。 ウクライナ議会が NPT に批准したの は 1994 年 11 月になってからのことであり、1996 年 6 月にはようやく核兵器へのロ シア移送が完了した。その後公式の席でウクライナは「チェルノブイリ原発事故の惨 禍を経験したことによる核アレルギー」から核兵器を放棄したことを強調し、自発 的に核を手放した国として世界的な核廃絶を訴えている。 核に対するその様な心理的 拒絶反応もまた否定出来ない事実ではあるものの、ウクライナが『主権宣言』の採択 から完全な非核化を遂げるまでの 6 年の過程では核保有を主張する声もあり、むしろ 経済危機を背景に核兵器の維持が不可能となり、西側諸国からの核保有論に対する批 判から非核化に追い込まれたというのが実状である。 本稿では、しばしば見られる「ウクライナの核武装」や「核大国をめざすウクライナ」といったセンセーショナルな報 道に対する疑問から、ウクライナの非核化に到る過程とその背景について追う。 2.ソ連邦の解体とウクライナの非核化宣言 ウクライナは 1991 年 12 月1日の国民投票を受けて独立した後、『ウクライナ防衛 法』(同月 6 日) や『対外政策の主要方向』(1993 年 7 月)、『軍事ドクトリン』(1993 年 10 月)等において繰り返し非核化の意向を表明した。
『対外政策の基本方向』は 次の様に述べている。 「ウクライナは核兵器の使用を認めず、外交活動において全面 的な核軍縮を訴える。ウクライナは歴史的事情から核兵器国となったが、自国の核兵 器使用を認めず、核使用の威嚇を外交政策に用いない。ウクライナは将来非核国とな る意向であるが、領内の核兵器の削減・廃絶は、核兵器国及び国際社会によるウクラ イナの安全の保証と一体であると考える。ウクライナは、核兵器及び生物・化学兵器 の製造技術の拡散に反対する。軍創設にあたり、核兵器を含む軍縮を進める。ウクラ イナは、すべての国が生物・化学兵器を廃し、核実験をやめるよう促し、黒海を非核 地帯とするよう訴える」(抄)。 この様な方針は、チェルノブイリ原発事故による核へ の恐怖感にもまして、「モスクワとは異なる」平和国家としての姿勢を国際社会に示 そうとしたこと、またそれによって西側からの評価と支援が得られるものと期待した ことが背景にあった。 独立国家共同体(CIS)の中でも 4 カ国に残された核の取り扱いをめぐって話し合 われた。 『CIS の創設に関する協定』(1991 年 12 月 8 日調印)、『アルマアタ宣言』(同 月 21 日)、『核兵器の共同措置に関する協定』(同)、『戦略軍に関する協定』(同 30 日)では、CIS は、核兵器を一元管理し核問題に関する政策を共同で策定すると共に 統合司令部の下に戦略軍をおくが、CIS 加盟国は相互に非核地帯創設の意向を尊重し、 最終的には核兵器の廃絶をめざすこととされた。 それまでの間、ロシア、ベラルーシ、 ウクライナ、カザフスタンの4カ国は核兵器の先制不使用の義務を負い、政府は戦略 攻撃兵器に関する条約を批准のため自国の議会へ上程し、核兵器その他の核関連技術 を第3者に引き渡したり、非核兵器国による核兵器や核起爆装置の製造、取得、管理 の引き渡しを援助、奨励、刺激してはならないとされた。ベラルーシとウクライナは非核兵器国として NPT に加入することとされたが、カザフスタンについてはこの点 は触れられていない。 ベラルーシ・ウクライナ領内の核兵器が完全に廃棄されるまで、 これらの使用に関する決定は、協定加盟国の国家元首との合意により、ロシア連邦大 統領が加盟国と共同で策定した手続きに基づいて下すこととなった。 核兵器の移送に ついては、「ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナにある戦術核は、共同監視下に おける解体のため 1992 年 7 月 1 日までに中央の工場構内へ輸送される」とあるもの の、具体的にどの国の解体場かは記されておらず、また、第3国への核兵器及び関連 技術の移転禁止に関する条項で「これはベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンが核 兵器の廃棄を目的としてロシアへ移動させることを妨げない」(下線筆者)と述べられ ているものの、ロシアへの移送が明確な表現で義務づけられているわけではなく、こ の時点では戦術核のみ移送が開始された。 3.非核化の後退 しかしながら独立時の非核化構想は、ロシアとの関係緊張化及び同国におけるナシ ョナリズムの高揚、ウクライナ国内の経済危機によって一時後退することとなる。 ソ 連邦の崩壊後、ロシア=ウクライナ間にはクリミアやセヴァストーポリの領有権、黒 海艦隊及び旧ソ連の対外資産の分割問題、ロシアからのエネルギー価格をめぐる摩擦 などが生じ、特に黒海艦隊については、既述の CIS 関連協定で CIS が核問題に関す る共同政策を策定し、核兵器の使用に関する決定についても加盟国元首の合意を必要 としつつ最終的決定はロシア大統領が下すことになっていたが、CIS 統合戦略軍の創 設によって戦略兵器を事実上自国の管理下におき、西部国境地帯における軍事的プレ ゼンスの維持をはかるロシアと、独自軍を創設し戦略兵器の一部を手中に残そうとす るウクライナとの間で所有が争われることとなった。 ソ連邦の崩壊・CIS の結成当時 軍事的・技術的なものと考えられていた核兵器の取り扱いをめぐる問題が、1992 年に なると政治的な問題と化し、ウクライナで核政策の見直しが議論され始めた。 1992 年 3 月 12 日にクラフチュク大統領(当時)は、ロシアに移送される兵器が予定通り 解体されるかどうかの保証がないことを理由に戦術核兵器の移送を一時停止し、議会 内でもロシアへの核集中に反対し、外交政策の長期的目標としては非同盟・非核化を めざしつつも、暫定的には NATO との関係強化と核保有はやむをえないとの声さえ生 じた。戦術核の移送はまもなく再開され 5 月には完了したが、ウクライナでは、NATO へ入らないままロシアへ核をすべて手渡して自国の安全を守れるのか、何の代償もな しに戦術核を手放すことで非核化を急ぎすぎたのではないか、あまりに軽率な行為だったのではないかという疑問が生じることとなった。 ウクライナは、『アルマアタ宣言』の「CIS 加盟国は旧ソ連が締結した諸条約・協定から生じる国際的義務の履行を保証する」との規定を根拠に、START-1 の当事国 であることを主張していた。 ウクライナにとって START-1 の当事国となることは、 ロシアと対等の地位に立ち、事実上ウクライナ領内の核兵器に対する所有権を得るこ とを意味したからである。 ロシアはウクライナの主張を、ロシアをソ連邦の唯一の核 兵器継承国とした 1992 年 7 月 6 日の CIS 決議に反するものと非難した。 1992 年 11 月に在米ウクライナ大使館が発表した核兵器に関する文書は、ウクライナ領内にある 旧ソ連軍の資産は戦略核兵器も含めすべて同国のものであり、核兵器の共同管理とロ シアにおける解体には合意し経費も分担するが、濃縮ウランとプルトニウムはウクラ イナが所有権をもち、それらはウクライナに返却されるか、もしくはその代価がウク ライナに補償されねばならない、と述べている。 他方、米国はロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンと個別に START 交 渉を行うよりも文書の同時締結を合理的と考え、既述の様に 1992 年 5 月 23 日、リス ボンにて START-1 の附属議定書に調印した。 この『リスボン議定書』によって旧ソ 連 4 カ国は「条約との関連における旧ソ連の継承国」として START の義務を負い同 条約を批准すること、ロシア以外の 3 カ国は「可能な限り早い時期に」非核兵器国と して NPT に加入することを約束した。 また、START-1 当事国は発効から 7 年以内に 条約で定められた上限まで戦略兵器を削減し、旧ソ連 4 カ国は条約履行に必要な取り 決めを別途締結することとされた。 ウクライナ議会は、START-1 自体には旧ソ連4 カ国間の削減方法や割合に関する規定がないことをもって自国が完全な核廃絶を行う 義務はないものと解釈し、SS-24 を 46 基残して SS-19 のみ 130 撤去することを決め た。 1993 年 11 月に START-1 及び『リスボン議定書』を批准した時にも、議会は 核兵器の 36%、核弾頭の 42%のみ廃棄する旨留保を付している(後述)。 ミサイル発 射台の総数についても、ウクライナの発射台を解体する分相対的にロシアは解体する 必要がなくなり、ウクライナが削減する程ロシアにとって有利になる、という指摘も なされた。 1993 年 2 月までにウクライナを除く全当事国が START-1 を批准したが (1992 年 5 月にカザフスタン、同年 10 月に米国、11 月にロシア、1993 年 2 月にベ ラルーシが批准)、ウクライナ議会が START-1 の批准を数回にわたり延期していたため、ロシアは批准の際に批准書の交換をウクライナの NPT 加入後に先送りする決 定を下し、START-1 の発効はそれまで棚上げとなった。 しかし米露は START-1 の発 効を待たずに、1993 年 1 月に START-2 に調印した。 1993 年 9 月 3 日にクリミアのマッサンドラで行われたエリツィン=クラフチュク 会談でも、核問題をめぐる両国間の溝が浮き彫りになった。 ロシア外務省の発表によ ると、両大統領は、「ウクライナ議会による START-1 の批准日から 24 ヶ月以内にウ クライナ政府は自国に配備されている戦略核兵器の全ての弾頭を解体、廃棄のためロ シアへ移送する」ことで合意し、この文言を含む『ウクライナに配備されている戦略 軍の全核兵器のロシア移送に関する議定書』に署名したが、A.ブテイコ・ウクライナ 大統領顧問(当時)がウクライナ領内に核兵器を残すために、後になって一方的に「全 ての」という語を削除し、「戦略核兵器」の前に「条約に該当する」という言葉をつ け加えて合意内容を変えてしまったということである。 そして、ロシア側の要求にも かかわらずウクライナ側は文書を元に戻さなかったため、ロシアはこの『議定書』を 破棄したということである。 ハーバード大学の R.フォルケンラース教授によると、 ロシア側はこの時これら核兵器に加え、ウクライナの対露エネルギー債務を帳消しに する条件で黒海艦隊もロシアに移送されるよう企図していたということである。 ウ クライナ側は合意の内容について否定しているが、この文書に署名したクチマ自身が 首相辞任後に、「ウクライナに残された核弾頭は安全性に問題があり、所持し続ける ことはウクライナ自身にとって脅威となる。 Öロシアがこれらの弾頭に対するウクラ イナの所有権を認めたことは重要でありÖ弾頭からとれる核物質は我が国にとって 3 年分の核燃料に相当し、かつその価格を国際価格とすることで我々は合意した」点を あげて、マッサンドラ合意はウクライナにとって成功であったと述べていることか ら、ロシアとウクライナの合意自体は存在し、むしろウクライナ国内での意見の不 一致がこの様な批判を呼ぶこととなったと思われる。 4.ウクライナの核保有をめぐる論議と条件闘争 では、ウクライナの非核化を貫こうとする立場と、これに疑問を投げかける立場の論拠は何か。 後者はまず、伝統的な対露不信に加えて独立後関係が悪化したことから、ロシアに 対抗する手段として核兵器を保有すべきと主張する。 たとえば、Y.コステンコ環境保 護相・核軍縮委員会議長(当時)は、「ウクライナはロシアから自衛するための経済 力も軍事力ももたないので、核兵器を当面は保持すべきである」と述、I. デルカ ッチ最高ラーダ START-1 準備委員会委員も、ウクライナが『リスボン議定書』の第 5 条を受け入れることは、ロシアがウクライナの核を手に入れることを意味すると危 険視した。 1993 年夏に『フォーリン・アフェアーズ』誌上で展開されたウクライ ナの核武装に関する議論において、シカゴ大学の J. F. ミアシャイマー教授は、欧米 にとってウクライナの安保を保証することは理論的には可能でも、実際には過大な負 担となり現実的ではないとしている。 こういった指摘は、ウクライナに自衛手段を 強化すべきとの意識を更に強めさせることになる。 また、相手をロシアに限定せず、 一般に自国の安保、領土保全、独立に対する国際社会からの保証を得るための梃子と して核兵器を利用すべきとする考えもある。 より現実的な視点から、石油や天然ガ スの 70%以上をロシアに依存し慢性的なエネルギー不足を抱えているウクライナに とって、核兵器は貴重なエネルギー源となる核物質を含んでいるため早急に手放すべ きではないとする意見もあった。 START-1 はソ連を当事国として策定されたもの で現状にはそぐわず、NPT も差別的な条約であるという認識も根強い。 1994 年にウ クライナが NPT を批准してからも、O.モロズ最高ラーダ議長(当時)は、「国際社 会からの要求もあってウクライナは NPT に加入したものの、核兵器国は実験を続け ており、非核国となったウクライナの安保は本当に保証されるのか疑問である」と懐 疑心を表した。 これらに対して非核化を擁護する立場からはまず、核保有はロシアの圧力に対抗す る手段として正当化できても国際社会における孤立は避けられず、西側諸国からの支 援にも影響するという懸念が表明されている。 ロシアに対抗するためのものであると しても、ICBM はアメリカをターゲットとして配備された長距離型のものである。 既 述の『フォーリン・アフェアーズ』誌での議論においてハーバード大学の S. ミラー 教授は、ウクライナ=ロシア間の問題は主に国境線や特定の地域をめぐる問題であり、核抑止は有効ではないと述べている。 ミラー氏はまた、核戦力としてはウクライナ はロシアに劣るので、核では結局のところ自国の安全を保障できないとしている。 軍 部の中には、経済危機の下、核兵器そのものの維持かかる膨大な費用を、通常兵器や 軍人の住居・賃上げ等社会保障にまわすべきとの意見もある。 さらに、核兵器を解 体するにも多額の資金が必要である上に、A. ズレンコ元外相によれば解体作業が可能 な弾頭の製造会社はすべてロシアにあるため、弾頭の解体はウクライナ人の立ち会い の下、ロシアで行うしかない。 現実問題として、旧ソ連の核兵器の運用システム及 び維持に必要な技術はモスクワにあるため、保有するにも使用するにもロシアの力が 必要なのである。 ウクライナにある核兵器の危険性については既述の様にクチマも 指摘しているが、タラシュク外務次官(当時)によれば、ほとんどの弾頭の安全装置 が既に期限切れであり、解体しようにも間もなく手が着けられなくなるため、結論 としてこれらはロシアに移送するしかないのである。 上記の様な議論を反映して、ウクライナは原則として非核化を目指しながらも、そ の過程でいくつかの条件が満たされなければならないということを公式の席でほのめ かすようになった。 ウクライナには、西側がウクライナの経済状態やロシアとの関係 等を十分考慮せずウクライナに一方的に非核化を迫っているという不満があった。 ク ラフチュク前大統領は、「米露は更なる核大国の出現を懸念している。世界的なパワ ー・バランスが変わることになるからだ。 彼らは我が国の国益については何ら気にと めていない」と述べ、ウクライナ議会に START-1 批准を促す一方で、米国に対し ても対ウクライナ外交の見直しを訴えた。 このためウクライナは、非核化の条件とし て (i)核軍縮はウクライナによる一方的なものであってはならないこと、つまり、ロ シアのみならず英仏等他の核兵器国も同時に核削減を行うことや (ii)『対外政 策の基本方向』でもあげられているように、非核化後のウクライナの安全が国際社会 によって保証されること、 そして(iii)移送済みの戦術核兵器も含め、解体された弾頭から得られる核物質がウクライナに返却されること、もしくはそれに匹敵する補償 がなされること、 (iv)解体に必要な技術・資金援助がウクライナに与えられること、 等を求めた。 ある数字では、地上・空中発射ミサイルの解体に最低 25 億 8944 万ドル、 さらに軍縮に伴い解雇される軍人の社会保障費に 7 億 54 万ドル程度かかるとされて いる。加えて発射台解体費、環境汚染対策費なども必要となる。 1993 年 11 月 18 日、ウクライナ議会は賛成 254、反対 9 の票をもって START-1 と『リスボン議定書』に批准したが、その際に上記の条件を含む 13 もの留保を付し た。 (i) (iv)の点以外に重要な留保としては、ウクライナは(NPT 加入に関する) 『リスボン議定書』の第 5 条を義務としないこと、戦略核兵器の行政管理を行うこと、 核兵器の 36%、核弾頭の 42%のみ廃棄すること、国外での解体を監視すること、ウク ライナに経済的圧力をかけないこと、またウクライナは本条約の作成に直接参加して いないので、自国の安全に対する国際的保証や条約履行のための経済的・技術的支援 の諸条件、解体された物資の利用その他の点について関係国及び国際組織と交渉する ようウクライナ政府と大統領に勧告すること等があげられる。 既述の様に、ロシアは ウクライナによる NPT 加入を START-1 批准書交換の条件としていたため、ウクライ ナが『リスボン議定書』の第5条を留保したことによって START-1 発効のめどがた たなくなった。 米ソの軍縮のための START-1 は、ロシア=ウクライナ間の政治問題 と化した。 一方ロシア側にも、A.アルバートフ下院議員(元ソ連科学アカデミー世界経済・国 際関係研究所部長)の様に、ウクライナの崩壊はロシアにとっても惨事となると警告 し、核兵器に関するロシアや西側諸国のウクライナへの圧力を非難する声もあった。 また逆に、K. ザトゥーリン下院 CIS 関係委員会議長は、「ウクライナと戦略的パー トナーシップを結ぶことになれば、ウクライナの非核化は結果的にロシアにとって『損 失』となる」ことを理由にウクライナの非核化に反対した。 しかし START-1 に対 するこの様なウクライナの対応や戦術核移送の見合わせは、ロシアのみならず西側諸 国からの批判をも招く結果となった。 5.ウクライナ、アメリカ、ロシア大統領による 『3カ国声明』とその後 この様な状況を打開するきっかけとなったのが、1994 年 1 月 14 日のクリントン、 エリツィン、クラフチュク大統領の間で合意された3カ国声明である。
この声明の 中で、クリントン大統領は「ナン・ルガー計画」(Nunn-Lugar Plan)に基づき、ウ クライナ、ロシア、カザフスタン、ベラルーシに解体と核物質保管のための技術支援 及び約 8 億ドルの財政援助を行うことを約束した。この内、最低 1 億 7500 万ドルが ウクライナに向けられることとされ、さらに3月4日のクラフチュク訪米の折に発表 されたウクライナとアメリカの「友好とパートナーシップの発展に関する共同声明」 において、アメリカはウクライナへの支援を 3 億 5000 万ドルに増額することとなっ た。 『3カ国声明』でクラフチュク大統領は、非核国としての NPT 早期加入に努め る意思を表明し、アメリカとロシアはウクライナの NPT 加入と START-1 の発効とと もに同国の安全を保証する旨確認した。具体的には、ウクライナの独立、主権、国境 を尊重すること、力の行使・威嚇・経済的圧力を外交手段として用いないこと、ウク ライナが核兵器を伴う侵略または侵略の脅威を受けた場合、国連安保理に緊急行動を 起こすよう要請することなどである。 また『3カ国声明』の付属書では、ウクライナ は START-1 の規定通り7年以内に戦略攻撃兵器を含むすべての核兵器を廃棄するが、 ウクライナがロシアに核弾頭を移送する 10 ヶ月の間、つまり 1994 年 11 月 14 日ま でに(SS-19 と SS-24 から最低 200 発。SS-22 はウクライナで解体)、ロシアはウク ライナに 100 トンの原発燃料用低濃縮ウランを提供し、アメリカはロシアに戦略核の 輸送・解体及び核燃料製造の資金として 6000 万ドルを提供することとなった。 ロシアは当初、ウクライナが自国に有利になるように米露関係を利用したり、ウク ライナとの問題にアメリカが介入するのを避けようとしていたが、ウクライナとの関 係改善の障害が山積みとなる中、核の問題では第3者の介入に頼らざるを得ないこと を感じ、ウクライナもまた、対露債務が増大し単独ではロシアの圧力を制御できない ことを理解していた。 しかし『3カ国声明』は何よりもアメリカ自身の対ウクライ ナ政策の変化によって実現したものである。 3カ国声明に先立つ会談でクリントン大 統領はウクライナの地政学的位置の重要性と潜在的経済力に触れているが、冷戦下の 核抑止と異なり冷戦後の課題は社会的・経済的混乱下にある旧ソ連地域の核管理と不 拡散である。 特にウクライナの様な大国が核をもったまま混乱に陥ることの危険性は はかり知れない。 ロシアで共産党の巻き返しやジリノフスキーのような民族主義者への支持が増大する中で、ロシアの帝国主義を非難し CIS の軍事統合にも反対の姿勢を 貫いているウクライナが、政治的・経済的に安定していることはアメリカにとっても 望ましい。 1993 年春頃からアメリカは、非核化の圧力をかけるだけではなく支援を絡 めた広い視点での対ウクライナ政策に転換し、2国間の防衛・政治対話も急増した。 10 月 25 日には、『戦略核兵器の廃絶及び大量破壊兵器の拡散防止における対ウクラ イナ支援枠組み協定』が調印され、アメリカの対ウクライナ支援額はイスラエル、エ ジプトに次いで3番目となった。 ウクライナ最高ラーダが START-1 の批准に 13 の留 保を付した時、NATO ではウクライナが関心を示していた「平和のためのパートナー シップ」(PfP)へのウクライナの受け入れに反対する声が生じたが、『3カ国声明』 直前の会談でクリントン大統領は、クラフチュクに PfP への参加を呼びかけ、翌2月 にはウクライナは同協定に調印している。 「声明」よりも法的拘束力をもつ文書にす るというウクライナの主張は通らなかったが、ウクライナ側は声明に先立ち 50 トン のウランを条件として要求していたので結果は双方の妥協の産物と言える。 また、3 月の『友好と協力の発展に関するウクライナ=アメリカ共同声明』でクリントン大統 領は、経済協力の枠組み拡大やウクライナの GATT 加盟への支持、G7 への対ウク ライナ支援の働きかけ等を約束した。 同年 8 月のゴア副大統領のキエフ訪問後、アメ リカとウクライナの間で通常戦力の分野における「強力な軍事関係の構築」が発表さ れ、その一環としてウクライナは 9 月の演習を皮切りに PfP の演習に参加することと なった。 「ナロードヌィ・ルーフ」の V. チョルノヴィル党首は、3カ国合意を「国 家に対するクラフチュクの裏切り行為」と非難したが、結果としてこの出来事はウク ライナにとって経済改革への支援と西側との関係正常化をもたらした。 『3 カ国声明』を受けて、1994 年 2 月 3 日、ウクライナ最高ラーダは『リスボン議 定書』第 5 条に関する留保の撤廃と START-1 批准書の交換を認める決議を採択し、 11 月 16 日には『NPT 加入に関する法』に批准した。 ただしここでも、NPT の内容 はソ連邦崩壊後の特殊な事情を反映していないとして、『NPT 加入法』の発効は核兵 器国によるウクライナの安保保証に関する国際法文書が署名されてからとする留保を 付している。 この主張に応じて、12 月 5 日の CSCE ブダペスト・サミットにおい て、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、中国がウクライナの安全を保証する『覚 書』に調印し、これによってウクライナの『NPT 加入に関する法』が発効、さらに同 法の発効を受けてロシアが START-1 の批准書交換に応じ、START-1 はようやく発効 に至った。 1996 年 6 月 1 日、ウクライナからロシアへの戦略核兵器の移送が完了し、クチマ大統領は自発的な非核化が評価されてアメリカの「フリーダム・ハウス」から「フリ ーダム賞」を受賞した。 クチマ大統領は自国が核を放棄したことから、NATOの 東方拡大を容認しながらも、ハンガリー、ポーランド、チェコ等新規加盟国への核兵 器配備には強く反対し、中・東欧に非核地帯を設けることを呼びかけた。 国際社会か らの圧力を受けて核を手放したウクライナの隣国に核保有が認められるのは不合理で あり、加えて、これらの国とロシアに挟まれるウクライナは再び不安定な状況におか れることになるからである。 しかし、1996 年 12 月の北大西洋理事会外相会議で新規 加盟国への核配備を否定する『最終コミュニケ』が採択され、ウクライナは 1997 年 7 月調印された NATO との『特別のパートナーシップに関する憲章』の中でこの決定を 歓迎した。この『憲章』によってウクライナと NATO 加盟国間の核問題に関する対話 も強化されることになった。 6.おわりに ウクライナが核をもつにいたったのは、核大国となる野心ではなく歴史的結果によ るものであり、その後の紆余曲折も純粋にロシアとの関係とウクライナ国内の経済問 題を原因とするものである。 ウクライナ外務省の I. ティモフェーエフ政治分析企画課 一等書記(当時)は自己の論文の中で、「ウクライナによる核兵器の運用管理主張」 や「アメリカ、ロシアに次ぐ核大国への意向」といった誤った報道を批判し、ウクラ イナにとって核兵器は「軍事力」というより「財産」であるとした。 核兵器の製造、 実験、使用のための技術も経済力ももたなかった独立後のウクライナを、果たして「核 大国」と呼べたのであろうか。 従って懸念されるのは政府の核政策よりも、政治的・経済的・社会的混乱状況の中 での核製造技術の流出である。 そのため、アメリカだけでなくドイツやオランダ、カ ナダ、ノルウェー、日本もミサイル発射台解体のためのプラントや技術・要員育成、 環境復興など、非核化に伴う広範な支援を行っている。 1995 年度の日本、ノルウェー、 ドイツによる対ウクライナ支援は、それぞれ 1600 万ドル、50 万ドル、95 万ドルであ った。 日本はウクライナと 1994 年3月に『核兵器廃棄協力協定』を締結しており、これに基づいて核物質管理制度の確立や、解体作業員用の医療機器供与、専門家によ る調査・交流等が行われている。 同年4月には旧ソ連4カ国への核廃絶支援として 約1億ドルの供与を発表しており(その配分は、ロシア 70%、ウクライナ 15%、カザ フスタン 10%、ベラルーシ 5%)、解体から生ずる核物質や液体放射性廃棄物の貯蔵・ 処理施設の建設、環境汚染対策などにあてられている。 これまで述べてきた様な経緯を考えれば、1999 年 3 月 24 日にウクライナ最高ラー ダが 241 の賛成票をもって政府に非核政策の放棄を促す決定を採択したとしても、この決定は NATO によるユーゴ空爆への反発をアピールするものに過ぎず、ウクライ ナが再び核大国に戻るというのは非現実的である。 クチマ大統領もこの様な議会の決 定を非難し核政策の見直しを強く否定した。 しかしながら、いかなる事情によるもの であれ一旦非核化したウクライナの議会が、核をもっていれば武力による内政干渉を 受けないという発想からこうした行動に出たことは、NATO の二重基準が核不拡散体 制に少なからず与えたネガティブな影響として無視できないものである。 末 澤 恵 美 (この文書後、ウクライナは再び核武装することを歴代政権が目指し、最終的にオレンジ革命によってヤヌコビッチ政権が倒され、そこで遂に、ウクライナの核再武装の野望は挫け、現在の核武装廃止に落ち着きます) (同様に、ウクライナと同時に核廃棄政策をとったベラルーシは、現在ではロシア提供の核戦略爆撃機を保有していることから、核の再武装と見做されています)
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