外務省外交史料館 特別展示 サンフランシスコ講和への道 サンフランシスコ講和への道 〈展示史料解説〉 開催期間:2012 年 7 月 4 日(水)~10 月 31 日(水) 開催場所:外務省外交史料館 別館展示室1952(昭和 27)年 4 月 28 日、サンフランシスコ平和条約が発効しました。こ れによって連合国軍の占領が終了し、日本は独立を回復して国際社会に復帰しま した。そしてその後、日本は着実に復興し、高度経済成長を成し遂げるのです。 しかし、日本が講和を達成するまでの道のりは、決して平坦なものではあり きた ませんでした。占領初期から日本政府は講和に向けた準備研究を進め、来るべ き平和条約締結に備えました。また、折に触れて連合国側と接触し、講和の可 能性を探りました。しかし、東西冷戦の荒波は極東にも波及し、独立回復を渇 望する日本の声は幾度となくかき消されました。その結果、占領は実に 6 年 8 か月の長きに及びました。 よし だ しげる この難局を打開した人物として挙げられるのが吉田 茂 です。首相兼外相であ った吉田は、多数講和、安全保障、再軍備といった困難な課題に取り組み、外 務事務当局を督励して対米交渉を進め、講和への道を切り開きました。そして ついに、1951 年 9 月 8 日、サンフランシスコ平和条約が日本を含む 49 か国に よって署名されました。また同じ日に、日米安全保障条約(旧安保条約)も署 名されました。 今年(2012 年)は、平和条約の発効から、ちょうど 60 年になります。その 間の日本の発展はめざましいものでしたが、その起点は 60 年前の独立回復と国 際社会への復帰にあります。今回の特別展示では、講和達成に向けた日本の外 交努力を関係史料によって振り返ります。この展示を通じて、日本外交が講和 を実現するに至る苦闘の道程を体感していただければ幸いです。 終 戦から間もない 1945 年 10 月、外務省では、来るべき平和条約の締結に 備え、条約締結問題の予備的な検討を開始しました。1947 年 3 月、マッ カーサー連合国軍最高司令官が記者会見で早期講和構想を提唱し、講和予備会 議の開催が現実味を帯びると、芦田均外相を中心に講和に関する希望を記した文 書を作成して、連合国側要人との接触を図りました。しかし、ソ連の拒絶により予 備会議開催の道が閉ざされると、米国は対日政策を転換して、日本を自由主義陣 営の一員として強化すべきとし、講和の実現が先送りにされました。 1948 年以降、冷戦が本格化する中で対日講和問題は膠着状態に陥りましたが、 外務省内での研究は続けられ、平和条約締結前における国交関係の部分的回復 を意味する「事実上の講和」構想などが検討されました。その後、1949 年 9 月 の米英外相会談で対日講和の促進に関して合意がなされる一方、ソ連の核兵器保 有に関する報道(49 年 9 月)や中華人民共和国の成立(49 年 10 月)により「全 面講和」の道が遠のき、外務省は次第に、東側諸国を除外した「多数講和」を 前提とする講和方式を検討するに至りました。 1950 年 6 月、対日講和担当のダレス米国務長官顧問の訪日中に朝鮮戦争が勃 発したことにより、講和実現に向けた動きが加速化する中で、外務省は「多数講 和」こそが、日本が選択すべき講和方式であるとの方針を固めることとなりました。 1945 年 11 月に条約局長を幹事長として外務省内に設置された「平和条約問 題研究幹事会」が翌 46 年 5 月にまとめた調書です。本調書は、1準備施策方 針、2平和条約の内容に関する原則的方針、3想定される連合国案とわが方希 望との比較検討、4政治条項の想定および対処方針、5経済条項の想定および 対処方針の5文書から成るものです。 この調書では、講和問題の根本方針を「出来得る限り早期に公正なる平和条 約の締結を実現せしむること」と規定し、1946 年末までに所要の準備を完了させることを目標としていました。また、日本として主張すべき原則的な方針 として、主権の回復および独立の尊重、生存権および安全保障の確保、国際社 会への復帰、国際正義の確立などを掲げました。 この調書は、大臣および次官に提出されるとともに、関係部局にも配布され ました。また、本調書の作成後、幹事会は 5 月 22 日に第二次業務計画を策定 して、「第一次研究報告」で提示された問題をより深く詳細に研究することを 決定しました。 1947 年 7 月 11 日、米国は極東委員会(日本を占領・管理する連合国の機関、 米英ソ中など 11 か国で構成)構成国に対して、対日講和予備会議の開催を提 唱しました。これを契機として外務省は、講和に関する日本側の希望をまとめ た非公式文書(「芦田覚書」)を作成し、連合国側へ伝える方途を模索しました。 かたやまてつ あ し だ ひとし 同年 6 月に成立した片山哲内閣の外相・芦田 均 は、7 月 26 日午後にアチソ ン対日理事会米国代表を、同 28 日午前にホイットニー総司令部(GHQ)民政 局長をそれぞれ往訪し、「芦田覚書」を手交してその趣旨を説明しました。しかし、同日午後、芦田外相は両者から別々に呼び出されて、「芦田覚書」は返 却されました。本展示史料は、その返却の際の両者との会談記録です。 返却の理由についてアチソンは、「芦田覚書」のような文書が提出されるこ おそれ と自体「日本人の態度がアロガント〈傲慢〉であると解釈される 虞 」がある と述べています。また、ホイットニーからは、「芦田覚書」をマッカーサーに 見せたものの、非公式とはいえそのような書類を受け取ることは、他の列国を 刺激し、日本にとって不利を招くとの考えが示されて、返却されました。 〈参考〉1947(昭和 22)年 7 月 「芦田覚書」 おかざき か つ お はぎわらとおる 岡崎勝男次官、萩原 徹 条約局長らにより作成され、7 月 24 日に完成した覚 書。1平和条約作成手続き、2平和条約の基礎、3条約の自主的履行、4国際 連合への加入、5国内の平安と秩序、6裁判管轄権、7領土問題、8賠償、9 経済的制限の 9 項目から成る。 鈴木九萬終戦連絡横浜事務局長は、1947 年 9 月 5 日のアイケルバーガー米第 8 軍司令官との会談の 際に、講和後の日本防衛に関する意見を求められま お お たいちろう した。鈴木事務局長は、岡崎次官、太田一郎総務局 よしざわせい 長、萩原条約局長、終戦連絡中央事務局の吉沢清 じろう 次郎次長と協議の上、9 月 10 日、アイケルバーガ ーに対してひとまず「芦田覚書」(展示史料 2)と 同文の文書を手交しました。その後、さらに協議を 重ねた結果、9 月 12 日に芦田外相の決裁を得た本 文書を、鈴木事務局長の「極秘且個人的私見」として、9 月 13 日、一時帰国するアイケルバーガー司令官に手交しました。 本文書は、講和後の日本の安全保障について、米国との間に特別協定を締結 し、防備を米国の手に委ねることが「最良の手段」であると論じており、後の 日米安全保障条約の原型となる考え方が、ここで初めて示されました。 元条約局長で、1947 年 10 月に同局長を退い た後も、外務省内に設置された条約審議室で対 はぎわらとおる 日講和問題に携わった萩原 徹 参事官が作成し た覚書です。 1949 年 9 月中旬に行われた米英外相会談に おいて、対日講和の促進に関する合意が成立し たと報じられる中で、萩原参事官は、講和実現 に向けて何らかの措置を講ずるとすれば「今を お 措いてはない」と主張しました。 本史料で萩原参事官は、占領が長引くことに う よって日本の人心は現状に倦んでおり、このままでは民衆の反占領・反米的感 情が強まっていき、肝心な時に「とんでもない」ことになると懸念しています。 したがって、日本政府として早期講和の実現を切望する旨の意思表示をすべき であると論じています。 しかしその後も、早期講和に関する日本政府の意思を連合国側に伝えるチャ ンスは、なかなか訪れませんでした。外務省では、ソ連の核兵器保有に関する 報道や中華人民共和国の成立により「全面講和」が一層困難な情勢になったこ とを受けて、東側諸国を除外した「多数講和」となった場合に備えた研究を続 けました。しかし、その成果を連合国側に伝える機会は訪れず、結局、講和実 現に向けた動きが本格化するのは、1950 年 6 月の朝鮮戦争の勃発を待つこと となりました。 【4】1949(昭和 24)年 10 月 3 日付 平和条約問題の今日の段階における措置について 朝鮮戦争が勃発し極東情勢が緊迫する中で、1950 年 9 月、米国は対日講 和実現の意思を明確に示し、極東委員会構成国との非公式協議を開始し ました。こうした米国の動きを受けて外務省事務当局は、西村熊雄条約局長を中 心に、A ~D 作業と称する対米交渉に備えた対応策の検討に着手しました。 吉田茂首相(兼外相)への参考資料として取りまとめた「A 作業」では、講和 問題の成り行きを見通した情勢判断や米国の対日講和構想に対する要望などを 示した4 つの文書を作成しましたが、これらは吉田首相に厳しく批判され、差し戻 されました。 事務当局の作業と並行して吉田首相は、同年 10 月以降、有識者や旧軍関係者 を目黒の外相官邸に集めて会合を開き、安全保障や再軍備を中心に、講和に関す る諸問題についての意見交換を行いました。そこでの議論を踏まえて事務当局は、 吉田首相の指示に基づき、日本の安全保障を目的として講和後の米軍駐留を認め る条約案(B 作業)や、北太平洋地域における軍備制限を根幹とする理想案(C 作業)を作成して吉田首相に提出しました。 同年 11 月、米国は「対日講和七原則」を公表し、翌 12 月にはダレス国務長 官顧問の訪日が発表されました。事務当局では、それまでの議論を踏まえ、ダレ スとの会談に備えて吉田首相の参考に供することを目的に、講和と安全保障に関す る日本側の考えをまとめた「D 作業」と称する一連の文書を作成しました。D 作業 はダレス訪日の直前まで続けられ、これらの準備作業をもとに、日本側は吉田・ ダレス会談を迎えることとなりました。 1950 年 9 月 14 日、トルーマン米大統領が極東委員会構成国との非公式協議 にしむらくま お の開始を声明したのを受けて、9 月 26 日、西村熊雄条約局長は吉田首相に対 して米国の対日講和構想を説明するとともに、日本側の対策を検討してその結果を文書で提出することを約束しました。西村局長を中心とする外務事務当局 は早急に作業を開始し、10 月 4 日までに、本史料のほか、「米国の対日平和条 約案の構想」(10 月 2 日付)、「米国の対日平和条約案の構想に対応するわが方 要望方針(案)」(〈参考〉史料として展示)、「対米陳述書」(10 月 4 日付)の 計 4 文書を作成して翌 5 日に吉田首相に提出しました。事務当局はこの一連の 作業を「A作業」と称しました。 本史料は、講和問題の最近の経緯、米国が対日講和を促進する理由、多数講 和形式の問題点などについて簡潔に検討したもので、講和の見通しについては まだ「手放しの楽観はできない」としながらも、何らかのかたちで「多数講和」 が実現することは「確実」であると結論づけています。 「A作業」の 4 文書は 10 月 11 日、吉田首相のもとから西村局長へと差し戻 されてきましたが、本史料には、 外務省従来単ニ客観状勢観察を主として之ニ対処する施策の考慮甚た乏し 留意を乞フ経世家としての経綸ニ乏しきを遺憾とする SY との吉田首相の厳しいコメントが書き込まれています。西村局長はこのコメント を、全面講和を前提とした考察と結論から脱却しきれていない事務当局に対する 「痛烈な批判」であり、また「無言の激励」でもあったと、後年振り返っています。 〈参考〉1950(昭和 25)年 10 月 4 日付 米国の対日平和条約案の構想に対応するわが方要望方針(案) 展示史料5と同様、「A作業」として事務当局が作成した準備作業文書です。 吉田首相から「野党の口吻の如し 無用の議論一顧の値なし 経世家的研究ニ 付一段の工夫を要す SY」と大書されて、差し戻されました。 外務事務当局による準備作業と並行して、吉田首相は 1950 年 10 月以降、翌 年 1 月のダレス訪日までの間に、有識者と旧軍関係者の二つのグループを目黒 の外相官邸に別々に集めて、数回にわたって意見交換を行いました。有識者会 こいずみしんぞう ありたはちろう こじまかずお ば ば つね ご つしまじゅいち 合には、小泉信三、有田八郎、古島一雄、馬場恒吾、津島寿一などの各氏が、 かわべとらしろう しもむらさだむ たつみえいいち 旧軍関係者会合には、河辺虎四郎、下村 定 、辰巳栄一などの各氏が参加して います。 本史料は、吉田首相と有識者との第一回会合記録です。吉田首相は本会合の 席上、事務当局に対して、米国に提出することを想定した安全保障取極め案の 作成を命じるとともに、来るべき講和交渉において「条約前は再軍備はいやだ との立前をとる」との考えを示しました。これに対して参加者からは、「再軍 備しなければならぬ。日本だけ一切他人様のおかげで安全でいようというのは、 いたくらたくぞう 虫がよすぎる」(板倉卓造〈時事新報社長〉)、「再軍備すべきでない。日本の財 力ではできぬ」(有田八郎〈元外相〉)など、再軍備問題をめぐって賛否両論が 激しく交わされた様子がうかがえます。 有識者会合の席上における吉田首相からの下命(展示史料 6)を受けて、外 務事務当局は直ちに、吉田首相の意向に沿う安全保障取極め案の作成に着手し たかはしみちとし ました。「B作業」と称されたこの作業は、西村条約局長、高橋通敏条約課長、 ふじさきま さ と 藤崎万里政務課長の3人によって行われ、1950 年 10 月 11 日に完了し、本条 約案とその説明書が吉田首相に提出されました。 前文、本文 12 か条および末文からなる本条約案は、1日米条約案を平和条 約とは別個の条約とすること、2国民感情に配慮して米軍駐留の内容について は合理的かつ明確なものとすること、3国際連合との結びつきをできるだけ密 接かつ具体的にすること、を原則として作成されました。その骨子は、国連が 日本に対する侵略行為の存在を決定したとき、米国は侵略の排除に必要な一切 の措置をとり、そのために米軍が日本国領域内に常駐することに日米両国が合 意する、というものでした。 本条約案で特に注目されるのは、第 2 条にある「(国連)憲章第五十一条の 適用を妨げるものではない」との規定です。これは、個別的・集団的自衛権を 規定した国連憲章第 51 条の適用を明記することにより、国連が侵略行為の存 在を決定し得ない状況においても、日米が自衛権に基づいて行動することを可 能にしたものでした。本条約案とともに吉田首相に提出された「説明書」では、 この規定が実質的には「最も重要な役割を果たすであろう」と記されています。 吉田首相は、日本の安全保障にとって実効的な日米条約案の作成を命じる一方で、 当面において再軍備はしないという方針を貫くための交渉材料として、非武装およ び軍備制限を根幹とする理想案についても検討するよう、西村局長に指示を与えま した。外務事務当局は、1950 年 10 月 24 日の旧軍関係者会合での議論を踏まえて、 10 月下旬、討議のたたき台となる「北太平洋六国条約案」を作成し、同案は、そ の後の有識者会合や旧軍関係者会合でさらに修正が加えられました。そして最終的 には、12 月 28 日に、「北太平洋地域における平和および安全の強化のための提案」 として吉田首相に提出されました。理想案をめぐるこれら一連の作業は「C作業」 と称されました。 本提案の骨子は、日本と朝鮮半島を非武装地帯とし、米英ソ中の四か国に対して 北太平洋地域における軍備を制限し、それを国際連合が監視するというものでした。 しかし、この提案を示唆する文言は、ダレスとの交渉に入る直前に、吉田首相の判 断によって米国側へ提出する文書から削除されることとなり、結局その後の対米交 渉においてこの理想案が持ち出されることはありませんでした。 ダ レス特使一行は、1951 年 1 月 25 日、羽田に到着しました。ダレスは、2 月 11 日に離日するまで、三度にわたって吉田首相と会談しました。またこの間、 日米事務レベル折衝において、講和と安全保障に関する具体的な問題が協議されま した。 1 月 26 日、米国側は、領域、安全保障、再軍備など、会談の中心テーマとなる「議 題表」を提示しました。これに対して日本側は、D 作業に基づき、講和問題に対する 日本の基本姿勢を示した文書「わが方見解」を提出しました。 第 1 回吉田・ダレス会談は、1 月 29 日に行われました。同会談ではおもに自由世 界に対する日本の貢献について意見交換を行いました。同 31 日の第 2 回会談では、 「わが方見解」に対して米国側がコメントするかたちで協議が行われ、米国側は、 領土問題や安全保障問題に関する米国の考えを示しつつ、「多くは期待しない」とし ながらも、日本が自由世界の防衛に貢献することを促しました。 ダレスとの二度の会談で吉田首相が示した再軍備への消極的な姿勢は、ダレス使 節団の失望を招くこととなりました。そこで交渉を具体的問題の討議に移行させるため に、その後の交渉は、安全保障と再軍備問題を中心に日米の事務レベルで行なわれ ました。2 月 1 日の第 1 回事務レベル折衝では、吉田首相の指示に基づいて日本側 が提出した安全保障に関する具体案をめぐって討議が行われ、翌 2 日には米国側も 対案となる日米協力協定案を提出しました。日本側はこれに不満を示し、日本が軍備 を持ち交戦者となることを想定した規定の削除などを求めましたが、他方で、2 月 3 日、将来の民主的軍隊に発展すべき 5 万人からなる「保安隊」の創設をうたった「再 軍備の発足について」と題する文書を提出しました。 日本側が提出したこれらの文書は、交渉を実質的に進展させる役割を果たしました。 2 月 6 日の第 4 回事務レベル折衝では、米国側から、講和後の日米協力関係につい て、平和条約、米軍の日本駐留を規定した日米協定、そして駐留米軍の地位などを 規定した実施協定の三段構えとして取り極めることが方針として示されました。 以上の経緯を経て、2 月 7 日に開かれた第 3 回吉田・ダレス会談では、それまで の交渉によって確立した方針に基づいて、米国が他の連合国との対日講和交渉を進 めることが確認されました。そして 2 月 9 日、平和条約の基礎となる「仮覚書」など関連文書を含めた 5 文書が、井口貞夫外務次官とアリソン公使との間で「イニシアル (署名)」され、吉田・ダレス会談は終了しました。 なお、ダレスは 1950 年 6 月、1951 年 4 月、同年 12 月にも訪日し、吉田首相と会 談していますが、本特別展示では、平和条約と日米安全保障条約の基本的な枠組み について合意された本会談をもって「吉田・ダレス会談」としています。 吉田茂首相とダレス特使との第1回会談は、1951 年 1 月 29 日午後 4 時半(展 示史料では午後 4 時と表記)から約 1 時間半にわたって総司令部外交局の置か れた三井本館で行われました。米国側からはダレス特使のほか、使節団随員の アリソン公使、ジョンソン陸軍次官補およびシーボルト外交局長が同席しまし たが、日本側は吉田首相が秘書のみを伴って会談に臨みました。したがって、 本会談記録は、会談後に外務事務当局が吉田首相から聞いた話をもとに作成し たものです。 本会談でダレス特使は、日本が独立を回復して自由世界の一員となる以上、 自由世界の強化のために日本がいかなる貢献をなす用意があるか、と述べました。これに対して吉田首相は、あくまで独立の回復が先決であり、再軍備には 経済的・対外的に困難があると応じました。会談後、両者はマッカーサー司令 官を訪問しましたが、マッカーサーは再軍備問題に関して日本側の立場に立っ てダレスの説得に努めたと記録されています。 1951 年 1 月 26 日午後、ダレス使節団の一員として来日したアリソン公使は、 吉田首相に対して、領域、安全保障、再軍備、経済、通商、漁業、賠償および 戦争請求権などの13項目から成る「議題表(Suggested Agenda)」を手交し ました。吉田首相は事務当局に対して直ちに「議題表」の研究と対策案の起草 を下命し、西村局長らは 29 日までに、対米交渉準備作業を総括した「D作業」 に基づいて「対処案」を作成しました。 1 月 29 日の第 1 回吉田・ダレス会談(展示史料 9)で吉田首相が、「議題表」 に対する日本側の見解を翌 30 日午後 6 時に米国側に届けることを約束したた め、事務当局は目黒外相官邸の一室で、29 日の夜を撤して「わが方見解」の作 成作業を行いました。作業は「対処案」を叩き台とし、領土問題や安全保障、 再軍備などの高度に政治的な事項については、吉田首相が自ら文言を口述する などして行われました。 こうして完成した「わが方見解」は、「議題表」の各項目に対応する簡潔な 内容となっています。領土問題では、琉球および小笠原諸島の信託統治に対し て米国側の再考を求めたほか、安全保障に関しては米国の協力を希望し平和条 約とは別個に取極めを作成すること、再軍備は当面不可能であること、経済活 動に制限が課せられないよう希望することなどが述べられています。 「わが方見解」は、吉田首相の「私見」という形式で、1 月 30 日午後 6 時 30 分にダレス特使へ提出され、またマッカーサー司令官へも届けられました。 ダレス特使との会談で吉田首相が再軍備に消極的な姿勢を見せたことは、ダレス 使節団の失望を招く結果をもたらしました。そこで日本側は、1951 年 2 月 1 日の いぐちさだお 第 1 回日米事務レベル折衝(日本側から井口貞夫次官・西村局長、米国側からアリ ソン公使らが参加)で、国連憲章の枠内で安全保障上の必要な措置をとるための取 極めの必要性について言及した「安全保障について平和条約に挿入すべき条項」と、 米軍が単独で日本に駐留することに同意する旨を明示した「相互の安全保障のため の日米協力に関する構想」の 2 文書を、米国側に手交しました。米国側はこれらの すこぶ 文書を「 頗 るヘルプフル」と評価しました。 本展示史料は、翌 2 日の第 2 回事務レベル折衝において米国側から提出された 協定案です。本協定案は、前日に日本側が提出した「日米協力に関する構想」を基 礎としつつ、米比軍事基地協定(1947 年成立)などの内容を盛り込んだ整理不十 分なものでした。その内容は、米国の責任、日本の責任、協議、米軍の駐屯、経費、 集団防衛措置などの全 9 章からなり、特に駐屯軍の地位に関して特権的権能を詳細 かつ具体的に規定していたため、日本側にとって「一読不快の念」を禁じ得ないも のであったと、後日、西村局長は記しています。 相互の安全保障のための日米協力協定案に対するわが方意見(和文要旨) 展示史料 11 に対する日本側意見書の和文要旨です。日本が軍備を持ち、交 戦者となることを想定した「集団防衛措置」の章の削除を要望したほか、講和 後における米軍の駐屯が占領状態の継続であるかのような印象を与える駐屯軍 の特権等を羅列しないこと、協定の内容は両国の合意に基づくという原則を明 確にすること、などについて修正を求めました。本意見書は、2 月 3 日夕方、 展示史料 12 とともに米国側へ提出されました。 〈参考〉1951(昭和 26)年 2 月 2 日 当面は再軍備しないとの方針でダレス特使との会談に臨んでいた吉田首相 は、他方で、会談を通じて米国側が、講和後における再軍備の第一段階につい て日本側の具体的な「腹案」を知りたがっているとの印象を強く受けました。 そこで、この点に関して日本側が何らかの意思表示をしたならば交渉が促進さ れるだろうとの観点から、吉田首相は事務当局に対して具体的な考案を作成す るよう指示しました。その結果、日本側の再軍備に関する日本政府の「腹案」 として作成されたのが、本文書です。 吉田首相の意向に従って作成された本文書では、冒頭において、「平和条約 及び日米協力協定の実施と同時に日本において再軍備を発足する必要がある」 との意思が示され、具体案として、陸海を含めて5万人からなる「保安隊」を 警察予備隊や海上保安隊とは別個に設置し、また、将来の参謀本部に発展すべ き「自衛企画本部」を創設することが盛り込まれました。そしてこの 5 万人を、 将来日本に再建される民主的軍隊の第一段階とすることがうたわれました。 本文書は 1951 年 2 月 3 日夕方、アリソン公使に提出されました。本文書に 対する米国側の反応は不明ですが、これ以後の事務レベル折衝で米国側は、再 軍備問題について持ち出すことはなく、2 月 7 日の第 3 回吉田・ダレス会談で は、ダレス特使は吉田首相に対して、「われらはどこにも日本の再軍備をいわ ぬことにした。米国は、日本に再軍備を強制せず」と述べるに至りました。後に西村局長は、日本側が提出したこれらの文書が吉田・ダレス会談における「安 全保障に関する話合を大団円にもってきた」と記しています。 米国側は、1951 年 2 月 5、6日に行われた事務レベル折衝において、平和条 約の基礎となる「仮覚書案」のほか、日米安全保障協定案および日米行政協定 案を日本側に手交しました。特に、米国の「真意」として提示された「仮覚書 案」は非常に寛大な内容であり、日本側は「感銘に堪えず、勇気づけられたり」 との感想を米国側に伝えました。 そしてこれらの文書について協議した結果、講和後の安全保障に関する日米 間の協力関係について、日本が個別的および集団的自衛権を有していることを 規定した平和条約と、米軍の駐留によって日本の安全保障に協力する旨を盛り 込んだ日米安全保障協定、そして駐留米軍の地位・特権などを規定した実施協 定の三段構えとして取り極めることが原則的に合意されました。 こうして、2 月 9 日、「仮覚書」をはじめ日米間で合意された5文書が、井口 貞夫外務次官とアリソン公使との間で「イニシアル」され、吉田・ダレス会談 は幕を閉じ、2 月 11 日、ダレス特使は日本を離れました。 吉 田・ダレス会談終了後の 1951 年 3 月下旬、米国は日米間の合意を踏ま えて作成した全 22 条からなる平和条約草案を、ソ連を含む関係各国へ送 付しました。以後、米国は同案をもとに英国をはじめ各国と協議を進める一方、条 文をめぐって日本側との間で協議を行いました。 4 月 11 日、トルーマン米大統領はマッカーサー連合国軍最高司令官の解任を 公表しました。これを受けて 4 月 16 日に再来日したダレス特使は、18 日午前、リ ッジウェイ新司令官を交えて吉田首相と会談し、マッカーサー解任後も対日講和に 関する米国政府の政策には変更がない旨を明らかにしました。このダレス訪日時 に、米国側から、英国が作成した平和条約案が内々に示されました。日本側は同 案を、戦勝国が戦敗国に課す性格の条約と受け止め、日本としては寛大な米国案 の方がはるかに望ましく、あくまで米国案の実現に努めてほしいと要望しました。 6 月上旬、ロンドンで対日講和に関する米英会議が開催されました。この結果を 受けて同 24 日、アリソン公使が日本を訪問し、米英が合同で作成した平和条約案 を提示して日本側と協議しました。米英案には様々な修正が加えられていましたが、 特に日本側が重視したのは賠償関係の条項の修正でした。日本側は、賠償を負 担することは「苦痛」であるとしながらも、早期講和の実現のためには甘受せざ るを得ないとの姿勢を示しました。米英案はその後も細かい修正が加えられ、7 月 13 日に公表されました。 平和条約案と並行して、日米安全保障協定案についても日米間で協議が行われ ました。日本側は 1951 年 3 月、吉田・ダレス会談で「イニシアル」された日米協 定案に対する意見書を提出しましたが、米国側は、日本は自衛力がないので、米 国と相互的な安全保障取極めをなし得ないと回答しました。7 月 30 日には米国側 から、日米安全保障協定の修正案が提示されました。同修正案では、いわゆる「極 東条項」が加えられました。日本側はこれを受け入れ、8 月 20 日、日米安全保 障条約という名称で最終案文が確定しました。 7 月に公表された平和条約案はさらに修正が加えられ、確定案が最終的に公表 されたのは、8 月 16 日のことでした。この間、7 月 20 日には米国から日本を含む 各国に宛てて、講和会議の招請状が発送され、日本は 7 月 24 日に欣然出席の旨を回答しました。 サンフランシスコ講和会議は 1951 年 9 月 4 日から 8 日までサンフランシスコの オペラハウスにて開催され、52 か国が参加しました。そして 9 月 8 日、ソ連、ポ ーランド、チェコスロバキアを除く 49 か国が平和条約に署名しました。また同日、 サンフランシスコ郊外プレジディオの米陸軍基地施設内にて日米安全保障条約も 署名されました。 吉田・ダレス会談で「イニシアル」された日米安全保障協定案は、米国によ る草案提示から「イニシアル」まで急テンポで行なわれたため、その内容につ いて、外務事務当局で十分に議論を行う余裕がありませんでした。そこで事務 当局は会談終了後、協定案を精密に研究して、日本側の見解を 1951 年 3 月 16 日付意見書としてまとめ、翌 17 日、他の「イニシアル」文書に対する意見書 とともに総司令部外交局のボンド参事官に手交して、米本国への伝達を依頼し ました。 本史料は、日本側意見書に対する米国側の回答です。回答はシーボルト外交 局長から井口次官に対して口頭でなされました。日本側は日米協定に相互性を 持たせることを重視しましたが、米国側は、日本は自衛力がないので、米国と 相互性を有する安全保障取極めをなし得ないと回答しました。 対日講和をめぐって英国は、独自の観点から検討を進めており、1951 年 4 月 7 日付で作成された英国の平和条約草案は、英連邦諸国をはじめ各国ヘと送 付されました。この英国案は 4 月 17 日午後、マッカーサー連合国軍最高司令 官の解任に伴い来日したダレス特使の意向を受けて、ダレス使節団随行員のフ ィアリーから井口次官および西村局長に対して内々に示されました。コピーが与えられなかったため、井口次官と西村局長は約 1 時間を費やして条約を通読 し、メモを取りました。 本展示史料は、手書き原稿のまま吉田首相に提出された英国案の大綱です。 英国案は全 10 章 40 条および 5 つの付属文書から成る大部なもので、その性格 は、1947 年 2 月に締結された対イタリア平和条約をモデルとして作成された 「戦勝国の戦敗国に対する講和」であり、米国案と比較してはるかに過酷な内 容でした。前文には日本の戦争責任が明示され、領土問題や賠償、漁業関係な どの条項には、日本にとって非常に厳しい内容が盛り込まれました。他方で、 占領軍の撤退条項など、米国案には見られなかった条項も含まれており、それ らは後の米英共同案にも活かされることとなります。 この英国案の内容は、戦前期に駐英大使を務め、親英派として知られた吉田 首相にとっても衝撃であったとされます。本展示史料の冒頭欄外には、「対戦 敗者主義」は「平和を永遠ならしむる所以に非らす」との吉田首相の書き込み が見られます。 1951年6月4日から14日にかけて、対日講和に関する米英の最終調整のた めの会議がロンドンで行われました。この会議に参加したアリソン公使は 6 月 24 日に来日し、会議の結果作成された平和条約の修正案を提示して日本側と協 議を行いました。同 28 日に吉田首相と会談したアリソン公使は、修正案の性 格について、新しい条約案は以前の米国案より酷になった点もあるが、全体と して決して過酷なものではないとして、ある程度の困難があってもこれを応諾 して「早く平和友好のアトモスフェアー(雰囲気)」をつくることが肝要であ ると日本側に伝えました。 本史料は、同修正案に対する日本側の見解として 7 月 2 日にアリソン公使へ 提出された意見書です。本意見書では、大幅に追加された賠償に関する条項に ついての記述が多くを占めており、日本側としては賠償責任を負担することは 「きわめて苦痛」であるが、これに「膝を屈せざるをえない」として、原則と して賠償に関する規定を受け入れざるを得ないとの姿勢を示しました。ただし、 関係国との交渉にあたっては米国の「強力なる外交的支援」を要望する旨を、 あわせて伝えています。 1951 年 7 月 30 日、シーボルト外交局長から日米安全保障協定の修正案が手 交されました。従来の案文と比較して合計 5 か所に修正が加えられていました が、「実質上の問題」であったのは、第 1 条において、朝鮮戦争のような極東有 事にも対応できるようにするために、米軍の日本駐留目的として「極東におけ る国際の平和と安全の維持(the maintenance of international peace and security in the Far East)」が加えられるとともに(いわゆる「極東条項」の挿 入)、外部からの武力攻撃に対する日本の安全保障のために駐屯軍を「使用する ことができる(may be utilized to contribute to)」との一節が追加されたことにありました。日本側は、この修正をそのまま受け入れることとなりました。 1951 年 7 月 13 日に平和条約案が公表されると、沖縄を含む南西諸島等につ いて米国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下に置くと規定した領域条 項(第 3 条)は、世論や野党から強い批判を受けることとなりました。吉田首 相は 8 月 16 日の第 11 回臨時国会において平和条約交渉に関する報告演説を行うこ ととなっており、日本が南西諸島等に対する主権を放棄しないことを国会で明言し てよいかどうかについて懸念していました。外務事務当局は、7 月下旬から演説草案 を起草しましたが、8 月 8 日、演説草案を英訳して総司令部外交局のフィン書記官へ提示し、米国側の意見を求めました。外交局は草案を米本国のダレスに送付し、8 月 10 日、日本側に対してダレスからの回答を日本側に伝えました。本展示史料は、 ダレス回答が反映された演説草案の修正案です。 第 3 条の解釈に関して日本側原案では、領域条項の第 2 条(朝鮮、台湾、千島列 島等に関する規定)と第 3 条とを比較し、第 2 条ではすべての権利・権原および請 求権を放棄することを規定しているのに対し、第 3 条では同様の規定がないことを 指摘して、第 2 条と第 3 条との表現の相違について「意味のないものではない」と 説明していました。これに対してダレスは、「第三条の字句は、その他のわが主権が 残存する(residual Japanese sovereignty remains)という点において、無意味の ものとは思われない。」と回答しました。このダレスの示唆を取り入れて、吉田首相 は 8 月 16 日に国会演説を行い、また、この趣旨は、サンフランシスコ講和会議にお けるダレス米全権の条約説明および吉田全権の平和条約受諾演説でも確認されるこ ととなりました。 1951 年 7 月 9 日、ダレス顧問から吉田首相に対して、同年 9 月第 1 週にサ ンフランシスコにおいて講和会議を開催するとの情報が伝えられました。そして 7 月 11 日、米国政府から講和会議出席への確約を事前に求められた日本政 府は、13 日、日本の出席を保証する旨を米国側へ通報しました。 7 月 20 日午後 6 時、日本政府は、総司令部外交局のシーボルト局長から講 和会議への正式招請状を受領しました。講和会議への招請状は、同日、連合国 諸国に対しても送付されました。この招請状に対して日本側は、7 月 24 日、 欣然出席する旨を米国側へ回答しました。 その後、日本側は全権団の構成について調整を進め、8 月 20 日、吉田首相 を首席全権とする日本側全権団リストを米国側に通報しました。 本史料は、7 月 20 日付の正式招請状で、吉田首相が閲了したことを示す「SY」 のイニシャルと、米国側へ回答すべき旨を命じた「Answer」の書き込みが見 られます。
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