>>11さん 山縣有朋は、山城屋事件や三谷三九郎事件に絡んでいる。 軍の公金を私的流用で私服を肥やした。 木戸孝允や井上馨も疑獄汚職。 高杉晋作も藩の公金を流用していた。 長州の伝統だったのかも。 山縣の事績は別に、人物で歴史を教える教育。 行き着く先はレッテル貼りや田布施のようになりますね。で、自民党と勝共連合の持つ思想の共通項は儒教。 儒教の統治や社会が長く続いた中国や北朝鮮、 北ベトナムに共産主義思想が入り、社会主義国家が成立した。 日本も奈良時代から儒教体制の国家と なり、その後の軍事政権(武家政権)は儒教体制を崩壊させた。 そして、明治に王政復古で律令制に 戻った。 〈律令制、李氏朝鮮ウィキ参照〉 日本は島国で情報伝達や文化水準が低く、独自の律令制 となった。 天皇下に、神祇官と太政官の二官で祭政一致(国家仏教)。 儒教体制は、中央集権制・ 士農工商の身分制・王土王民による土地国有制・宗教は儒教(儒教も宗教)。 鎌倉政権で、中央集権を 壊し、奴婢(奴隷)を解放、武士による土地私有、民衆仏教の浸透が起きた。 戦国を経て徳川政権。 徳川政権は中央政府であっても、幕藩の連合国家体制。 土地は私有、信仰は奨励され様々な宗教が 出た(幕末三大新宗教と云われる。 黒住教・天理教・金光教がある) 明治の律令制で、連合国家から 中央集権国家、祭政一致で仏教排斥の神道国教化、土地国有の版籍奉還を行ったが、宗教と土地は 一揆などで頓挫する。 政治体制は西洋化を進め、議院内閣制や明治憲法発布と歴史で習う。 習わ ないのが、徳川幕府の朱子学(新儒教)。 幕府は李氏朝鮮の儒者、水戸黄門(徳川光圀)は明の儒者に より朱子学が伝えられた。 光圀の水戸学は幕末の尊王攘夷へ。 徳川慶喜は、御三家水戸・徳川斉昭の 実子、御三卿一橋家の養子。 慶喜は尊王で天皇に弓を弾くことができなかった(長州作製の錦の御旗に 恭順した) 幕府は朱子学の忠孝〈名分論はコトバンク参照〉をもとに、武家の上下身分の固定政策をとった。 天帝・天子(皇帝・天皇)・臣・民、夫・妻・子を秩序とする儒教思想。 武家諸法度(天和令 1683年) 『文武忠孝を励し可正礼儀事』『養子者同姓相応之者を撰び・・・末期雖致養子 吟味之上可立之・・・』 4代家綱の後見人・保科正之は、武家諸法度を変えた。 忠孝と末期養子、殉死の禁止が武家社会に 影響を与えることになる。 末期養子は、武家の男系血族から擬制血族も認めることに進んだ。 武家の 主君(大名)に後継ぎが無いと改易(お家取り潰し)。 家臣は牢人(浪人)、浪人は無職無収入住居も 失い諸国へ四散した。 改易は3代家光までに約130家。 江戸市中では浪人による辻斬りが横行し、 幕府は自身番(番屋 交番の原型)を町人地武家地に設置させた。 浪人の幕府転覆計画も発覚する (由比正雪 慶安の変 など) 浪人を出さないため後継ぎの無い大名家を存続させる養子制度を法律に 明文化した。 このことにより儒教の男系血族主義は、家中(一家)とする擬制血縁になったと思われる。 主君と重臣に忠義があり、重臣は主君の死を追う殉死が禁止された。 重臣や家臣は、主君に縁のない 養子(新主君)に忠義は難しい。 しかし、幕府命令の大名家継続は浪人になるよりも生活は安泰である。 その結果、主君よりも、家中への忠義になっていったと思われる。 お家大事やお家の恥の武家社会は、 養子でお家取り潰しを免れても、家中(一家)の家臣の悪行悪事が幕府に発覚すると「縁座」で、家族 一族郎党、関わりのある者は処罰される。 主君(大名)を巻き込むとお家取り潰し。 お家大事や恥は 家中を守ることから出てきたようにも思われる。 ただ、縁座の回避は、詰め腹で不問となることもあった。 忠義が、家中(家中内では主君への忠義は絶対)への幕府の意向を感じれる事件に忠臣蔵がある。 忠臣蔵ファンに反発がでそうであるが。 主君への忠義の堀部安兵衛、浅野家再興の大石内蔵助。 討入り後の幕府裁可は、『主人の仇を報じ候と申し立て四十六人が徒党致し上野宅へ押し込み』。 浪人の徒党による夜襲押込みとしており、刑罰は死罪より上になる。 しかし、主人の仇の申し立ては、 忠孝を示したものとして、武士同様に切腹をさせた。 浪士や義士の呼称は武士に準じたとなる。 事件は、加害者の元家臣が被害者を討つで、仇討ちと言えない。 また、討入り方法や事件後の幕府 対応は「長崎喧嘩」を真似たとも云われる。 大石のお家再興も幕府は忠義の一つとしたように思われる。 お家安泰の集団同調意識は、波風を立てない無関心がある。 「葉隠」(1716年)に、役人である若侍が 集まってカネと女と流行の談義を嘆いている。 現代も同じ、300年変わっていない人間模様。 150年後の幕末となり、長州の吉田松陰は『君臣一体、忠孝一致、唯吾が国のみ然りと為す』と唱えた。 孝と忠が忠孝となり、我国独自の忠孝一致が出てくる。 仏教道徳の庶民社会に、武家社会の朱子学や 儒教道徳が私塾・寺子屋を通し浸透する。 長州を例にとると、藩庁の萩に藩校明倫館、私塾松下村塾。 熊毛郡には郷校・私塾・寺子屋を含めると150近くの教育施設があり、おそらく忠孝思想や国学を教えた。 吉田松陰は至誠、新選組も「誠(まこと)」を使う。 朱子学(中庸章句)では、忠より上は誠。 『真(まこと)の お父さま』の話題が出た。 奇兵隊の赤根武人は『真誠似偽 偽以似真』(まことはまことに偽りにに、偽りは まことににたり)という辞世の句を残している。 誠と真、当時と隔世感は否めない。 今は本当と使うのか。 明治となり律令制の政治は、欧米に習い憲法制定、議院内閣制のように進む。 一方、武家社会の忠孝で 社会秩序が保たれたと考える儒学者・知識人・武士らは、西洋化に反対する。 五榜の掲示(太政官)は 五箇条の御誓文に続いて出された庶民への法律。 第一札は五倫(孟子)道徳の順守が書かれている。 武家社会の教育を受けた者たちが明治政権を樹立させ、その思想や社会慣習を維持させることに異論は でにくい(長州(5人)、薩摩(15人)の密航留学の帰国者はそうでもなかった) 政争の中で庶民の子供を 含めての教育指針が天皇の名で出された。 教育勅語の前の「教学聖旨」(明治12年 1879年)。 『仁義忠孝ノ心ハ人皆之有り然トモ其幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメテ培養スルニ・・・』 (児童に仁義忠孝は難しいが、「ちんおもうに、わが、こうそこうしゅう、くにをはじめる・・・」と素読させ記憶 させる。 大きくなるにつれて意味がわかるようになってくる) 夏目漱石の「草枕」(明治39年 1906年) の一節に『恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。 ・・・』とある。 忠孝は社会に 広まっていることが小説から読める。 憲法と異なる社会慣習は民法の制定になる。 社会の構造は 仏教寺院のもつ戸籍管理を神社に移し替え、家長や戸長とする形式を進め。神社も伊勢神宮を頂点と する近代社格制度をつくる。 武家道徳や慣習、今で言う家族制度を民法に明記する論争が起きる。 江戸の裏長屋で生活する庶民は、九尺二間(1K 居間4畳半)で生活する。 親子の情はあっても いつまでも子供と暮らせる間取りではない。 子供は奉公人として親と離れ、両親は夫婦で暮らしになる。 武家は冷飯食い(家長の長男家族と同居する弟)の言葉があるように大きな屋敷をもつ家もあった。 裏長屋の庶民は、家父長制の家族同居もままならい、家につく姓は無い。 姓は明治になってのこと。 武家の道徳や慣習を民法に残そうと『民法出デテ忠孝亡ブ』の有名な言葉がある。 〈コトバンク参照〉 森有礼(英密航留学)や矢島楫子(熊本 四賢婦人)らのキリスト教道徳から、一夫妻妾を一夫一婦制に 変えた。 お雇い外国人(3千ー5千人)は日本人の上に立ち指導する。 忠孝で指導者に感化される のも伝統の価値観。 しかし、武家伝統の民法価値観を守ろうする守旧派が忠孝を持ち出した。 江戸の民法は妻の権利として、離婚時に持参金(妻の財産)を夫は返済する義務があった。 そのため、 三行半(再婚許諾状)を夫側が結婚前に渡すこともあった(米国の婚前前契約書の感覚か) 江戸は 離婚再婚率が高く、女性の再婚は三行半が無いと犯罪(重婚罪)に問われる。 武家は、夫婦別姓で 妻は離婚後(結婚していても)は元の家の姓を使った。 〈法務省〉我が国における氏の制度の変遷 https://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-02.html 武家の儒教・朱子学の道徳を庶民は寺子屋で学んだ。 礼儀は小笠原流礼法とか一般常識は庭訓 往来物、子供は和俗童子訓(女子に教ゆる法の一章は、女大学)で教育を受けた。 庶民の道徳は寺 (仏教)に帰属(戸籍管理)しており、仏教道徳であった。 寺子屋教育で武家の儒教道徳と混じり合う。 明治は儒教道徳を学校で教え始めた。 教育勅語の一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シが取り上げられるが、 教学聖旨、軍人勅諭(忠節)がその前に出ている。 忠のアイコンは、楠木正成。 徳川光圀(黄門さま) により忠臣の鑑(尊王)と顕彰されたことに始まる。 太政官が内務省に変わり、内務省内局に警保局 (警視庁の前身)。 「警察手眼」は、お上目線で書かれ、今でも警察ではバイブルのように扱うとか。 明治教育の忠孝や儒教道徳の上に民主主義が載っている。 高齢者は道徳の底流に儒教があり、 自民党保守の主張も容認できると思われる。 そなところで、社会構造や思想の背景もありますわね。
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