2022年09月24日 臨時特別号:安倍晋三と安倍政権の功罪をまとめた「検証・安倍晋三 安倍政権の8年8カ月」発売中 vs内憂外患犯射殺死亡で告発して欲しいが!2022年08月13日 右翼ヤクザ統一教会=反社勢力を利用し続けた自民党自業自得⇒統一教会関連団体理事務めた萩生田政調会長抜擢にネットで批判殺到もマスコミが萩生田追及せぬ理由?満州右翼子孫かも? 追記:2022.8.24 旧統一教会信者の証言で“萩生田攻撃”激化狙いは「裏切り政治家」への牽制と見せしめ@日刊ゲンダイ http://www.asyura2.com/22/senkyo287/msg/757.html 投稿者 赤かぶ 日時 2022 年 8 月 23 日 19:55:55: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU 旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)が反転攻勢に出てきた。旧統一教会問題を報じるメディアには、過去の関係を全てさらけ出すと「宣戦布告」。距離を置こうとする政治家への“脅し”も始まったかーー。 ◇ ◇ ◇ 旧統一教会は21日、「異常な過熱報道に対する注意喚起」なる声明をリリース。旧統一教会が「反社会的団体」だとすれば、報道機関は関わりを持たないはずだが、取材や協賛など多くの報道機関が密接に関わってきたと指摘。旧統一教会と報道機関の関係について〈過去に遡って詳細な調査を進めております。調査結果がまとまり次第、全面的に公表させていただく予定です〉と恫喝まがいの声明である。 ジャーナリストの鈴木エイト氏が言う。 「声明が脅しになると思っているとしたら驚きです。メディアはひるむことなく、統一教会の問題を報じればいい。(調査結果としてまとめる)リストは、統一教会があの手この手でメディアに入り込んだことが分かる格好の資料になるでしょう」 旧統一教会との継続的な関係が判明している自民党・萩生田政調会長に対しては、元信者や現役信者からの証言が相次いでいる。 元信者は「家族として萩生田さんのことを思うくらいに自分の時間を全部(教会の)若い人たちは使ってたのに『そういうのは関係ない』って言われたら、絶望っていうんですかね、残念とかじゃなくて。なんでそんなこと言うんだろうって」(18日のTBS系「news23」)と怒り心頭だ。 現役信者は「萩生田さんが教団と関わっているのは周知の事実。市議会議員時代から教団との付き合いがある」(18日の日本テレビ系「スッキリ」)とも証言している。萩生田氏は1991年から3期、八王子市議を務めた。 「元信者はともかく、現役信者の場合は、証言を旧統一教会側がコントロールしている可能性があるので注意が必要です。証言させるのは、萩生田氏に限らず、これまで付き合いがあった政治家に対して、解散命令などに発展しないように牽制する意味合いが考えられます。旧統一教会は、外国特派員協会での会見、今回の『注意喚起』、現役信者の証言などいろいろと仕掛けてきますが、逆効果です。そのことに気づかないのがカルトたるゆえんだと思います」(鈴木エイト氏) 萩生田氏と旧統一教会の関連証言がボロボロ出てくるのは、所属する安倍派の跡目争いでの“追い落とし”が背景にあるとの見方も出ていた。だが、統一教会側が「裏切り政治家」への“見せしめ”として萩生田攻撃をしている可能性もあるということか。 自民党と旧統一教会の闇の深さを、ますます物語っている。 追記:2022.8.17 萩生田光一政調会長、生稲晃子氏の選挙支援を統一教会に要請か 教会関係者は「萩生田さんは家族同然」(デイリー新潮) http://www.asyura2.com/22/senkyo287/msg/663.html 投稿者 赤かぶ 日時 2022 年 8 月 16 日 18:45:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU 【本稿】 右翼ヤクザ統一教会=反社勢力を利用し続けた自民党自業自得⇒統一教会関連団体理事務めた萩生田政調会長抜擢にネットで批判殺到もマスコミが萩生田追及せぬ理由?満州右翼子孫かも? 最高裁で判決確定 野田聖子大臣の夫が「元暴力団員は真実」(文春オンライン) http://www.asyura2.com/22/senkyo287/msg/591.html 投稿者 赤かぶ 日時 2022 年 8 月 10 日 13:20:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU 清和会関係者と清朝満州国・李朝朝鮮の王侯貴族や軍閥・両班子孫の、 その後を調べて欲しい! 安倍晋三が好きなのは血統・血筋?岸信介の信奉者だから、 萩生田光一はイメージ的には笹川良一関係者的? 光一と良一でゴロも合う? 笹川良一 文鮮明笹川良一 家系図笹川良一 松井一郎笹川良一 浅野ゆう子笹川良一 松本人志笹川良一 小室圭で検索 日本の旗 日本の政治家 笹川 良一 RyoichiSasakawa face.jpg 生年月日 1899年5月4日 出生地 日本の旗 日本・大阪府三島郡豊川村小野原(現箕面市小野原) 没年月日 1995年7月18日(96歳没) 死没地 東京都中央区明石町(聖路加国際病院)[1] 出身校 大阪府茨木市立豊川小学校 所属政党 (無所属→) (国粋大衆党→) 無所属 称号 勲一等旭日大綬章 大阪府箕面市名誉市民 親族 次男・笹川堯(前衆議院議員) 三男・笹川陽平(日本財団会長) 孫・笹川博義(衆議院議員) 日本の旗 衆議院議員 選挙区 大阪府第5区 当選回数 1回 在任期間 1942年5月1日 - 1945年12月18日 テンプレートを表示 笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5月4日 - 1995年〈平成7年〉7月18日)は、大正・昭和時代の日本の政治家、社会奉仕活動家。大阪府三島郡豊川村小野原(のちの箕面市小野原)出身。座右の銘は「世界一家 人類兄弟」。 国粋大衆党総裁、国際勝共連合名誉会長、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会(のちの公益財団法人日本財団)会長、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。 人物 第二次世界大戦前の笹川は、自分を「大衆右翼」と位置づけ[2]ベニート・ムッソリーニを崇拝、大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。強硬外交を主張しつつ日本社会へのファシズムの浸透に注力したが、太平洋戦争遂行には否定的であった。 第二次世界大戦後は、連合国によりA級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈放される。戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことが証明されたことなどから有罪認定はされていない。 なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な日記を残している。巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者及びその家族との書簡は笹川の没後に公表された。 巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与。モーターボート競走の収益金で造船の振興をすすめ、更に福祉方面の公共事業を助成する財団法人日本船舶振興会(のちの公益財団法人日本財団)を創設した。 株式取引に長け、姪婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して事態を乗り切ることに成功している。1974年(昭和49年)、アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えている。 またマスコミからは、ファシスト、右翼、また政財界の黒幕として扱われ、「右翼のドン」と呼ばれた。CIAエージェントであったとも報じられている[3][4][5]。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物でもあった。また、後年に行った様々な慈善事業等や歴史学者による検証により、その功罪と評価は徐々にながら中和されつつある傾向がある。 Japanese Imperial Government Disclosure Act of 2000に基づきナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班により開示された資料の中で、戦争犯罪に関わったか、犯罪人でない枢軸国の職員か、戦争被害者もしくはナチスの活動を調査した市民、軍人のリストの中に数えられている[6] 。ただし、何ら関係のない可能性も注記されている。 生涯 生い立ち 1899年(明治32年)5月4日、大阪府三島郡豊川村小野原(のちの箕面市小野原)に、造り酒屋の長男として生まれる。笹川家は代々庄屋を務めた旧家で苗字帯刀を許されており、父:笹川鶴吉は笹川家10代目当主[7]。笹川家の菩提寺は1579年(天正7年)に笹川市兵衞が創建したと伝えられる浄土宗理照寺[8][9][10]。1914年(大正3年)3月、豊川村尋常高等小学校(のちの茨木市立豊川小学校)高等科卒業。作家の川端康成とは小学校の同級で、祖父同士が囲碁仲間であった。飛行機乗りを志し、大日本帝国陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊する。 政治活動 1925年(大正14年)、父の遺産を元手に豊川村の村会議員に立候補し、当選して政治活動を始める。芸能事務所経営を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。 川島芳子 その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援、1931年(昭和6年)には右翼団体・国粋大衆党を結成し総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいたこともある。イタリアの指導者であるベニート・ムッソリーニの崇拝者であり、ムッソリーニ率いるファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。
1932年(昭和7年)に満州国が建国されると、同国の皇帝の愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。なおこの頃、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍のスパイ・川島芳子との交際があったと噂されている。本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。のちに、多田駿の指示があってか、暗殺の危険を感じた川島が里見甫などに相談した結果、笹川の元に身を寄せたこともあり、一方で、党総裁の笹川も、そんな川島の国民的知名度や人気にあやかろうとしていたともされている[11]。 1935年(昭和10年)に大阪鉄道の買占めの際に、国粋大衆党の他の幹部とともに恐喝容疑で逮捕された。大阪刑務所に約4年間収監されたが最終的には無罪となり、釈放されている。その後、1939年(昭和14年)には飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については、大日本帝国海軍山本五十六の後援があった[12]。 第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では、戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢のため非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵や岸信介、安岡正篤とも親交があったとされる[13]。 A級戦犯容疑と「巣鴨日記」 巣鴨プリズン 1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し笹川を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)。A級戦犯容疑者として12月11日に巣鴨プリズンに入獄した[注釈 1]が、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった(翌年には公職追放を受ける[14])。 太平洋戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことや、その後連合国の主要国であるアメリカ合衆国の方針が180度変わり、アメリカに協力的な戦争犯罪者は、反共のために生かして利用する方針変換となったため(いわゆる逆コース)[注釈 2]、1948年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党を、さらに全国勤労者同盟に衣替えし、右翼的な政治活動を再開した。 上記のように、笹川は戦争中に戦争犯罪指定を受けるほどの活動はしていなかったが、「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁くことは不当であり、アジア・太平洋地域における戦争責任は、日本だけにあるのではない」と考えていた。また、「アジア・太平洋地域に植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。 ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS、民間諜報局作成のファイルによる)としてであったことを知る[15]。 笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念「日本が親米反共の道を選ぶべきこと」「日本同胞を餓死から救わねばならぬこと」「世界平和を確立させねばならぬこと」などが、繰り返し書き付けられている。 この日記によると獄中の笹川は、東條英機に対して「あなたの死刑は確実だから、この戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよ」と説いている。また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった[注釈 3]。 一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合う[注釈 4]。このことが日本のエスタブリッシュメント人脈との交流に繋がった。笹川は、巣鴨プリズンのことを「人生最高の大学」[16]と評して、「ここは娑婆の20倍、30倍勉強になる」と語った。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA級戦犯たちを励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大な人望があったという[17]。 後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波書店も筆者を漏らさなかったため、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り 戦犯者救済活動 笹川は獄中にいる当時から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、あるいは誤解により戦犯となってしまった人々の釈放を求めていたが、収監から3年後不起訴により釈放された後は、酒も煙草も断って戦犯者やその家族らへの支援および刑死者の慰霊に奔走した。世界各国で収監されていた戦犯者や「三国人」の戦犯者の救援にも力を注いでいる。戦犯者援護と慰霊のために設立された宗教法人白蓮社、および家族会である白菊遺族会にも物心両面の協力を続けたとされる。 戦犯者とその家族を支援することは、当時としては連合国軍を刺激するおそれのある大変危険な行為と考えられ、実行する人間はほとんどいなかった[18][2][19]。 笹川家には戦犯者や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを一切公表していない。笹川没後、それら書簡の一部は、伊藤隆編集の元に『「戦犯者」を救え 笹川良一と東京裁判2』 として刊行された。 モーターボート競走 競艇 日本財団本部 モーターボート競走に関心を持つきっかけとなったのは、巣鴨プリズンで手にしたアメリカの情報誌『ライフ』にモーターボートの写真が載っているのを見たことであったという[注釈 5]。 出所から2ヶ月も経たない1949年(昭和24年)2月頃から旧知の矢次一夫や岸信介に協力を仰ぎ[20]、モーターボート競走法制定について主要政党や関係各省庁、有識者などに働きかけを開始した。 モーターボート競走法は1951年(昭和26年)3月29日に衆議院本会議で可決されたが、衆議院側で賛成に回っていた日本社会党が、参議院への法案上程後に反対に回ったため、6月2日に参議院本会議で否決された。このため笹川は広川弘禅ら与党の要人を説得して再提案を迫った。6月5日、衆議院本会議で出席議員の3分の2以上の賛成で衆議院の再議決がなされ、成立した。 競艇の主宰をめぐって笹川[注釈 6]らの一派と大野伴睦・福島世根らの一派で分裂状態になるが、最終的に笹川らが競艇主宰の主導権を握ることになった。なお、笹川のモーターボート競走創設の栄誉をたたえ、SG競走の「笹川賞競走」が1974年(昭和49年)から毎年5月に行われている。 1952年(昭和27年)に社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、1955年(昭和30年)には同連合会の会長に就任した。当初は赤字続きだったために廃止論が出されたが、笹川は赤字が続いていた地方公共団体には私財を投じる一方で「競艇はやがて収益が出て、社会に大きく貢献する」と反論していた。 1960年代に競艇で収益が出るようになると、管轄官庁の運輸省が全モ連を特殊法人化して、日本国政府の監督権限を強めて、人事任命権や収入の国庫納入化を模索するが、笹川は「自分が私財を投じたから競艇が成長した」と反論。更に競艇の収益を活用する受け皿組織として、1962年(昭和37年)に日本船舶振興会(のちに正式名称は日本財団に)を創設し、会長などを務めた。そして、特殊法人化に距離を置く運輸官僚に要職を用意したり、運輸省関連団体に寄付行為を行うなどして、運輸省による監督権限強化論を押さえることで、競艇ビジネスが笹川一族の同族経営の色が深まることになった。 社会奉仕活動 反共産主義の活動 蔣介石と妻の宋美齢 笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていた[注釈 9]が、終戦直前に参戦して日本人捕虜をシベリアに連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。 1954年(昭和29年)に韓国で発足したアジア人民反共同盟(APACL、のちのアジア・太平洋反共同盟)と、その発展組織であり、1966年(昭和41年)に発足した世界反共連盟(WACL)を中華民国の蔣介石総統や谷正綱、元部下の児玉誉士夫らと共に設立した。 統一教会とはある時期まで協力関係にあり、1963年(昭和38年)には、統一教会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一教会が1968年(昭和43年)に結成した反共の政治団体国際勝共連合では、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、文鮮明との関係が悪化したためか、1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。 笹川は、反共活動や日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り「政界の黒幕」として影響力を及ぼしたと見られているが、戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とすることは無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達できたことに加え、特定の政治家に肩入れすることで、却って言動に足枷がついてしまうと考えていた[2]。 中華人民共和国との関係 蔣介石との世界反共連盟設立や文鮮明との国際勝共連合創設など日本の代表的な反共主義者だったにも関わらず、1972年(昭和47年)9月の日中国交正常化以後は競艇で得た収益金の一部を、中国国民党と対立する中国共産党が支配する中華人民共和国への支援に回すなどして中国共産党の指導者であるケ小平とも親交を結んだ[24]。 1987年(昭和62年)から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェクトで来日した中華人民共和国の医学生は、延べ二千人を超える。1989年(昭和64年)には笹川日中友好基金を設立した。また、同時に中国の宗教団体である世界紅卍字会を支援した。 タブーと親交 1960年代から1990年代の各週刊誌などで批判的言説を受けていたにもかかわらず、笹川に批判的な左翼マスコミからは生前、「新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアで『大物右翼』と呼ばれた笹川良一に関する批判的言説を発表することは、ある種のタブーとなっていた」と言われてきた。 しかし、笹川は有名税とばかりに意に介さず「大木は風当たりが強い、との例えどおり、実力のうえにおいて、私のマネができないからヤキモチを焼いているのだ。女のヤキモチより男のヤキモチのほうが強いのだから、これはある意味でやむをえない」と片付けてしまっている。 しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける恐れのあることだった。戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」「政界の黒幕」「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、マイナス・イメージを持っていたため、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。 なお上記のように統一教会の文鮮明との関係があった半面、仏教系の新宗教・辯天宗の信徒総代になっている。また、山口組三代目・田岡一雄とは酒飲み友達であると公然と話し、暴力団の仲裁役を務めた。ロッキード事件が騒がれるとロッキード副社長と会った事実などが明らかになるが、笹川は「会ったことがあるが疑惑はない」と反論し、実際にそれ以上の追及はされていない。 国内に比べると海外では、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中には第39代アメリカ大統領のジミー・カーター、実業家ジョン・ロックフェラー[25]等がいる。戦前から巣鴨時代にかけての笹川の人脈は『続・巣鴨日記』の「解説」に詳しい。 遺産 生前の「世の為、人の為になる事に全財産を使ってしまふ考へでゐる」という言葉どおり資産の多くを社会事業につぎ込んで、笹川は1995年(平成7年)7月18日、聖路加国際病院で急性心不全のため死去、96歳没。税務署査定による遺産総額は約53億4千万円、ただしほとんどが自宅、山林、非上場会社の株など、換金しづらいものばかりであり、換金できそうな美術品などの類は偽物が多かったと言われている。これに対して借入金は約37億5千万円、差し引きすると遺産は約15億9千万円。その相続税は約7億5千万円にのぼり、長男と次男は相続を放棄。唯一財産を相続した三男の笹川陽平は莫大な負債も同時に相続した為、その返済に苦労することになった。 親類 笹川勝正(長男 - 群馬県モーターボート競走会会長等を歴任) 笹川堯(次男 - 自由民主党の衆議院議員、全日本空手道連盟会長らを歴任) 笹川陽平(三男 - 公益財団法人日本財団会長) 孝養の像 笹川記念会館、船の科学館、箕面市の箕面の滝に向かう道(通称「滝道(たきみち)」)、及び全国の競艇場などの競艇関係の施設(日本財団ビルにはない)に笹川良一の孝子像(こうしぞう)が存在する。これは、笹川が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って金毘羅参りのため、785段の石段を登っている様子を表しているとされる。[注釈 10] 「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」 「世界は一家、人類は皆兄弟」 との碑文が刻まれている。なお同銅像は、笹川の生前に建立され開示されたものである。
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