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原爆慰霊碑の前で行われるセレモニーの軽さとゲバラが献花した重さ
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2022.08.07 櫻井ジャーナル
アメリカ軍は1945年8月6日、ウラン型原爆「リトル・ボーイ」を広島へ投下した。アメリカ、イギリス、中国が「ポツダム宣言」を発表する2日前、7月24日にハリー・トルーマン米大統領は原子爆弾の投下を許可している。ニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が成功したのはその8日前のことだ。そうした流れは本ブログに7月24日から27日に書いた。(「米英の核兵器開発と対ソ連/ロシア戦争」1、2、3、4)
原爆の開発はアメリカはイギリスと共同で、カナダの支援を受けて進められた。1942年に始まった「マンハッタン計画」だが、その計画を統括していたレスニー・グルーブス米陸軍少将は44年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
1942年8月にドイツ軍はスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まるが、11月になるとソ連軍の反撃でドイツ軍25万人は完全包囲され、43年1月になると生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的だった。
1943年1月にフランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相はフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談、「無条件降伏」という話が出てきた。この条件はドイツの降伏を遅らせる一因になり、米英にはソ連対策を講じるための時間的な余裕ができたわけだ。7月に米英両軍はシチリア島上陸作戦を実行、ハリウッド映画で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月だ。
シチリア島上陸作戦以降、ソ連と米英の戦いが始まるのだが、ルーズベルトとチャーチルとの関係は決して良くなかった。米英を結びつけていたのはシティとウォール街の関係だ。シティとウォール街、つまり米英金融資本がナチスを資金面から支援していたことは本ブログでも繰り返し書いてきた通り。ウォール街の大物たちはルーズベルトが大統領選挙で当選した翌年、1933年からクーデターを計画していたことも本ブログで書いてきた通りだ。
米英のソ連を敵視する勢力にとって目障りな存在だったルーズベルト大統領は1945年4月に急死、5月にドイツが降伏する。チャーチルをすぐにソ連への奇襲攻撃を目論み、JPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。
その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
この作戦を無用にした別の理由が7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場で実施されたプルトニウム原爆の爆発実験。この実験の成功で原爆製造への道が開け、正規軍による奇襲攻撃の必要がなくなったのである。
8月6日に広島へ原爆を投下しなければならない理由もあった。1945年2月、クリミアのヤルタ近くで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連の首脳による話し合いでソ連の参戦が決まっていたのだ。ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結してから2カ月から3カ月後にソ連が日本に宣戦布告するという取り決めがあったのだ。
この時のアメリカ大統領はルーズベルト。ソ連が参戦して中国東北部へ軍事侵攻、そのまま居座る事態をトルーマン政権は避けたい。中国を国民党に支配させようとしていたからだ。ソ連に撤退させる「何か」が必要だった。
その「何か」によって広島では9万から16万6000人、長崎は6万から8万人が最初の2カ月から4カ月までの間に死亡したと推定されている。その後も少なからぬ人が殺され続ける、つまり虐殺は続くのだが、詳細は明らかにされていない。そうした惨禍をアメリカが引き起こした理由はドイツ(ナチス)がソ連を壊滅させられなかったからである。それが冷戦につながり、ウクライナのネオ・ナチにもつながる。
その広島を1959年7月25日(あるいは26日)に訪問、原爆慰霊碑に献花して原爆資料館を見学、県知事と懇談した人物がいる。使節団の団長として日本を訪問していたエルネスト・チェ・ゲバラだ。7月15日から27日まで滞在したが、日本政府からは冷遇されたという。
その日本政府から完成して間もない千鳥ケ淵戦没者墓苑への献花を持ちかけられたが、アジア侵略の手先になった兵士のために建設された墓苑に行くことをゲバラは拒否、大阪を訪れた際、日本政府による監視の目を掻い潜って広島を訪れたようだ。広島でゲバラは原爆慰霊碑などを写真に撮っている。
そうしたこともあり、キューバでは学校で広島や長崎に落とされた原爆について詳しく教えているようで、日本人よりキューバ人はその事実を知っているという。
毎年、原爆が落とされた背景や目的、そして犠牲者の実態を掘り下げることなく、当たり障りのない演出のセレモニーを仰々しく行うだけでは原爆投下地点が観光地化するのは必然だろう。
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