宮崎鉄雄氏による決定的な証言 こうして鹿島は、 伊藤博文による孝明天皇刺殺の可能性を唱えたのだが、 それを裏付ける証言をする人物が鹿島の前に現れた。 作曲家の宮崎鉄雄氏である。宮崎鉄雄氏の父は、渡辺平左衡門章綱といって、 幕末、伯太(はかた)藩一万三〇〇〇石の小名として大阪城定番を勤めていた。 渡辺家は、もともと嵯峨天皇の末蕎であり、 宮崎鉄雄氏はその渡辺平左衛門の子供として一五歳まで育てられ、 のち、宮崎家の養子に出されている。 宮崎氏によると、平左衛門は、 徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べていたが、 それが岩倉具視と伊藤博文であったことをつきとめた。 しかし、そのために伊藤博文から命を狙われる羽目になり、 実際、長州人の刺客に稲佐橋の付近で襲われて重傷を負った。 その平左衛門の遺言として、 宮崎氏は鹿島に次のように語った。 「父が語ったところでは、 伊藤博文が堀河邸の中二階の厠(かわや)に忍び込み、 手洗いに立った孝明天皇を床下から刀で刺したそうです。 そして、そのあと邸前の小川の水で血刀と血みどろの腕をていねいに洗って去ったということでした」。 さらに、宮崎氏の話では、伊藤博文が忍び込むに際しては、 あらかじめ岩倉具視が厠の番人を買収しておいたという。 だとすれば、岩倉具視が伊藤博文を手引きしたことになる。 たしかに、暗殺がプロの伊藤博文といえども、 天皇の厠に忍び込むのは危険このうえなかっただろうから、 だれかの手引きがあったにちがいない。 そうした手引きができるのは、孝明天皇に近い人物にちがいなく、 その意味で、岩倉具視が手引きしたという話は説得力がある。 宮崎鉄雄氏がこの話を鹿島にしたとき(一九九七年七月)、 すでに宮崎氏は九七歳になっており、 それまでずっとこの証言を世に出すかどうか迷っていたそうだが、 鹿島fの著書を読んで公表する決心をしたとのことであった。 「日本の歴史家に鹿島氏のような勇気があれば、 日本史がウソ八百で固められることもなかったろう」と、 宮崎氏はその著書の中で語っている。 毛利藩も乱破(らっぱ)の術(情報収集や破壊工作)を得意としたが、 これも忍者戦法である。 当時の山陰山陽地方は、はちや系の忍者がいっぱいいたと見るほうが自然であり、 毛利元就の好敵手であった尼子(あまこ)藩もまた忍者の軍団を中核としていた。 このような忍者によって、 長州藩では邪魔になった者はたとえ権力のトップにあっても、毒殺できる技術が、 江戸時代にはほぼ完成していた。 一八三六年(天保七)、斉煕(なりひろ)、斉元、斉広(なりこう)と、 三人の藩主が相継いで変死しているが、これらはおそらく毒殺であったろう。 こういう藩の藩主になったならば、 実力者に対して、うっかり逆らえば、すぐさま毒殺されかねない。 だから、長州藩主は「そうせい候」 (何を言っても「そうせい」と返事をするので、こう呼ばれた)という態度をとるようになったのである。 こうした忍者の伝統は幕末まで連綿として続いていた。 薩長の密約によって、 将軍家茂と孝明天皇を暗殺する際、 実行部隊として長州の忍者部隊が選ばれたのは、 むしろ自然な流れというべきである。 https://ameblo.jp/sannriku/entry-11742392248.html
足軽→忍者→松下村塾という伊藤博文の若年期 一四歳になると、親子で足軽・伊藤直右衛門の養子となり、その俊輔(博文)の人物を見込んだ藩士・来原良蔵(くりはら りょうぞう)(桂小五郎の義弟。相模湾警護隊勤務)に鍛えられて一人前の下忍(忍者)となった。そのため一六歳のときに松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けると、たまたま大室天皇家と俊輔の郷里が近かった縁で中忍(佐官級情報局員)松陰から「玉(ぎょく)」大室寅之祐の傳役(もりやく)を命ぜられた。そしてこれが彼のライフワークとなったのである。一八五八年(安政五)に、俊輔は山縣(やまがた)小助(有朋)らと京に入っている。 この京入りは吉田松陰の策により、長州藩が行った諜報活動であった。大老・井伊直弼が、徳川斉昭、慶篤(よしあつ)、松平慶永(よしなが)などを処分して、オランダ、ロシア、イギリスと修好条約を結んだ直後に、朝廷と京の情勢を探ったわけである。諜報活動にあたったのは、足軽と奴(やっこ)から選んだ六人(の忍者.テロリスト)であり、その中に伊藤博文と山縣有朋が入っていたということである。伊藤博文は、この京における諜報活動のあと、長崎で洋式銃陣法を伝習している。
一八五九年(安政六)になると、桂小五郎(木戸孝允)とともに江戸へ行き、一〇月二七日に吉田松陰が刑死すると、その遺骸を同志とともに江戸の小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)に埋葬している。 一八六二年(文久二)七月、久坂玄瑞(くさかげんすい)らと諮って長州藩重臣・長井雅楽(うた)の襲撃を計画するが失敗し、一二月には高杉晋作らと英国公使館を焼き討ちし、山尾庸三(ようぞう)とともに、国学者・塙(あなわ)次郎を斬殺している。 井上聞多(もんた)(井上馨)、野村弥吉、遠藤謹助、山尾庸三らと英国へ密留学をしたのは、その翌年の一八六三年(文久三)であり、士分にとりたてられたのは、この年のことである。英国密留学もそこそこに、翌年には帰国して、外国艦隊との講和に奔走し、この年の年末には、長州の力士隊を率いて高杉晋作の挙兵に従っている。 以上が、一八六六年(慶応二)に孝明天皇が急死する以前の伊藤博文の行動である。ざっと見て感じるのは、違法事件への関与の多さである。
伊藤が士分にとりたてられたのは、一八六三年だから、二二歳のときである。つまり、二二歳までは士分ではなく、斬殺を含む違法事件に数多く関与していたということである。そんななかで、いい意味で目立つのは、松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けたことだが、この松下村塾が、鹿島説ではたんなる私塾ではなく、大変な問題を含んでいたのである。 次に、鹿島説における「松下村塾とは何か」と「吉田松陰の三つの理念」を見てみよう。そのうえで、伊藤博文は孝明天皇暗殺にどう関わったかに触れたい。 吉田松陰の松下村塾とは、どういうところであったか 松下村熟の塾長であった吉田松陰は、一八三〇年(天保元)に、長州藩士・杉百合之助の次男として萩郊外の松本村に生まれている。幼いころに、山鹿(やまが)流兵学師範・吉田大助の養子となり、叔父の玉木文之進らの教育を受け、一一歳で藩主に『武教全書』を講じて早熟の秀才であることを認められた。 一八五一年に江戸に出て、西洋兵学を学ぶ必要性を痛感し、兵学者の佐久間象山(しょうざん)に入門したが、勉強は進まなかった。 五三年のペリー来航に際しては、浦賀に出かけて黒船を目の当たりにし、佐久間象山に勧められて海外の状況を実地に見極める決心を固め、長崎でプチャーチン(ロシア提督)の軍艦に乗ろうとしたが果たせず、翌五四年(安政一)に、下田に来航していたアメリカ艦に漕ぎ着けたが、密航を拒否されて、岸に送り返された。 在獄一年余で、生家の杉家に預けられることになるが、他人との接触は禁じられた。そんななかで、近隣の子弟が来たりして、幽室が塾と化した。松下村塾は、もともと長州藩士・玉木文之進が始めたものであり、それを外叔の久保五郎左衛門が受け継いだのだが、この時期に、その門弟で松陰のもとに来るものが増えたため、いつしか松陰が松下村塾の主宰者と見なされるようになった。 鹿島が整理した吉田松陰の三つの理念 一、長州藩が匿ってきた大室天皇による南朝革命論
吉田松陰も水戸学の藤田東湖(とうこ)も、尊皇攘夷を主張したが、この場合の尊皇とは、南朝正系論に立った尊皇攘夷である。南朝が正系であるにもかかわらず、孝明天皇のような北朝の天皇が天皇の座にあるのはおかしい。偽朝である京都北朝の天皇を廃して、正系たる南朝の天皇を再興しなければならない。 ただし、同じ南朝革命論としての尊皇攘夷ではあるが、吉田松陰と藤田東湖では、その内容が異なる。吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、長州が匿ってきた大室天皇家である。吉田松陰は、自身が「玉」(天皇)を握っていたからこそ、南朝革命論を打ち立てたのである。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、当然のことながら熊沢天皇家であった。熊沢天皇家は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた天皇家であり、藤田東湖および水戸藩は、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしたのである。 攘夷についても、注意を要する点がある。鹿島によると、藤田東湖の主人であった徳川斉昭は、松平慶永にあてた手紙のなかで「攘夷なんかできっこない。自分は老齢だから、一生攘夷と言って死ぬが、貴殿はそこのところをよく考えてほしい」と述べている。 藩主・徳川光圀(みつくに)の『大日本史』編纂に端を発した水戸学は、国学・史学・神道を基幹とした国家意識を特色とするが、それらが鮮明となり特色ある学風を形成したのは寛政(一七八九‐ 一八〇一)年間以降である。幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたのも、この寛政以降の水戸学であり、この時点での攘夷は、多分に家康の鎖国政策を擁護するためのものであった。だから、たしかに徳川斉昭のように、それが不可能であることを知っていながら、立場上、攘夷を主張していた者がいたということは、大いにありうることである。そのことがわからずに、攘夷原理主義的に行動したのが蛤御門の変であり、水戸藩の攘夷原理主義集団・天狗党なのであった。 二、徹底した民族主義と侵略思想
鹿島fは、この松陰の民族主義を「徹底した民族主義と侵略思想である」としている。そして、次のような松陰の言葉を引いている。「富国強兵し、蝦夷(北海道)をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米(アメリカ)を拉き(くだき)(両手で持って折り)欧(ヨーロッパ)を折らば事克たざるにはなからん」。 三、部落の解放(これを全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏)
この点に関しては、「長州藩の奇兵隊は、部落解放の夢に燃える若者が中核をなしていた」という私(松重)の研究が基礎となっている。奇兵隊のなかでも、とくに注目すべきは力士隊である。伊藤博文は、実はこの力士隊の隊長だったのである。この時代の力士というのは弾体制(いわゆる同和)に従属していて、部落と密接に関係しているか、あるいは部落そのものであった。さらに、力士隊のあった第二奇兵隊の屯所(とんしょ)は、麻郷(おごう)近くの石城(いわき)山にあった。麻郷はいうまでもなく大室天皇家のあった場所であり、明治天皇となる大室寅之祐が明治維新の前年まで過ごした地である。 つまり、麻郷を共通項として、力士隊と伊藤博文と大室寅之祐(明治天皇)は、つながるのである。そればかりではない。大室寅之祐(明治天皇)は、大の相撲好きだったが、それもそのはずで、力士隊長・伊藤博文や力士隊のメンバーらと、よく相撲をとっていたのである。 『中山忠能日記』に「明治天皇は奇兵隊の天皇」と述べた箇所がある。これまで、それは「薩長連合によって生まれた天皇」というように解釈されることが多かった。明治天皇と奇兵隊に直接の関係があるなどとは、想像だにできなかったからである。しかし、明治天皇すなわち大室寅之祐は、奇兵隊と直接関わっていたわけであり、この記述は文字どおり「奇兵隊の天皇」という意味なのである。 尊皇攘夷の真の意味は、南朝革命であることはすでに述べたが、吉田松陰にとっては、それはすなわち「奇兵隊の天皇」を再興することにほかならず、それは部落を解放することをも意味した。そして、明治維新によってこれらのことは実現されたのである。 さらに、この「解放」を全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏であり、その精神が八紘一宇なのである。八紘一宇は、次の三つを特徴とする。 1、 日本は神国であり、皇祖・天照大神(ああてらすおおみかみ)の神勅を奉じ、「三種の神器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきた(天皇の神性とその統治の正当性、永遠性の主張) 2、 日本国民は古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた 3、 こうした国柄の精華は、日本だけにとどめておくのではなく、全世界にあまねく及ぼされなければならない 前段の二つは真っ赤な嘘である。しかしながら、結論の部分はアジアの「解放」、被抑圧民族の解放につながる思想である。 孝明天皇は、伊藤博文が刺殺したのか? 幕末に、暗殺の実行部隊に忍者が選ばれるのは自然なことであった。戦国時代は血統を重んじる源平武士団が敗北して、賎民が天下を奪った時代であった。秀吉は「はちや」部族の出身であったが、長じて「軒猿(のきざる)」といわれる下忍(下級忍者で、実戦部隊)となった。秀吉は大返し(本能寺の変を知った秀吉が備中から姫路城まで大急ぎで戻った一件)によって明智光秀を討ち、さらに引き上げると見せかけて、柴田勝家を奇襲攻撃して破って、ついに天下をとるが、この二つの戦の兵法は、ともに忍者戦法であった。 はちや部族のルーツは、月山(がっさん)の山麓にすむ蜂屋(はちや)賀麻党(兵役もつとめる芸人集団)であり、文明一八年(一四八六)、尼丁経久(あまこつねふさ)が七〇名ほどの賀麻党の者を万歳師(ばんざいし)(新年を言祝(ことほ)ぐ祝福芸人)として富田月山城に繰り込ませ、裏口から放火して城主を討ち取ったという史実があるから、はちやという人々が、賎民といっても万歳師でもあり忍者であったことがわかる。 毛利藩も乱破(らっぱ)の術(情報収集や破壊工作)を得意としたが、これも忍者戦法である。当時の山陰山陽地方は、はちや系の忍者がいっぱいいたと見るほうが自然であり、毛利元就の好敵手であった尼子(あまこ)藩もまた忍者の軍団を中核としていた。 このような忍者によって、長州藩では邪魔になった者はたとえ権力のトップにあっても、毒殺できる技術が、江戸時代にはほぼ完成していた。一八三六年(天保七)、斉煕(なりひろ)、斉元、斉広(なりこう)と、三人の藩主が相継いで変死しているが、これらはおそらく毒殺であったろう。 こういう藩の藩主になったならば、実力者に対して、うっかり逆らえば、すぐさま毒殺されかねない。だから、長州藩主は「そうせい候」(何を言っても「そうせい」と返事をするので、こう呼ばれた)という態度をとるようになったのである。 こうした忍者の伝統は幕末まで連綿として続いていた。薩長の密約によって、将軍家茂と孝明天皇を暗殺する際、実行部隊として長州の忍者部隊が選ばれたのは、むしろ自然な流れというべきである。 伊藤の刀剣趣味と忍者刀(『明治維新の生賛』より抜粋) 伊藤俊輔は、明治の世に伊藤博文と名乗るようになって、趣味としての書画骨董(しょがこっとう)などには深入りしなかったが、刀剣類の鑑識眼は相当なものであったらしい。晩年には名刀も数十本所有し、そのなかには国宝級のものもあって暇なときには夜半電灯に照らし、刀剣のにゅう匂(こう)などを点検するのが道楽であったという。 梅子夫人は維新のころ、萩城下に同伴したとき、俊輔が夜間外出する際には曲がり角などでいつ刺客に襲われるかもしれないと、用心のため抜き身の刀を後手(うしろで)に持って同行したという。そのため、夜中の室内で電灯の光に反射する抜き身の刀を見るたびにそのことを思い出して、「嫌でたまらなかった」と娘の生子に語っている。 そのためかどうか、維新のころ愛用していたという「忍者刀」が俊輔夫妻の手許を離れ、本家の林家の係累に預けられたまま伝承されているのをこのたび確認した。平成九年(一九九七)九月二日、博文の遺品や直筆の手紙などを集めた「伊藤公資料館」が、山口県熊毛郡大和町束荷(やまとちょうつかり)の伊藤公記念公園内にオープンした。同町が公の生誕一五〇年記念事業の一つとして新築整備したものであるが、あらかじめ公の遺族、親族のほか一般へも広く呼びかけて資料の収集に努めた。
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