h ttp://www.asyura2.com/0403/bd34/msg/422.html田中真紀子長女 わずか一年で離婚──週刊文春2004年3月25日号 母の猛反対を押し切って入籍した新妻はロスからひっそり帰国 「話すことはありません」 田中真紀子(58)の周辺に接触すれば、真っ先にぶつかる言葉は、これだ。 異常なまでの慄きと怯え、そして「触らぬ神に崇りなし」という反応が、即座 に返ってくるのである。 ある者は、 「あの女はたしかにまともじゃない。でも、話せばオヤジ(角栄のこと)に迷惑 をかけることになる」 と口を噤み、またある者は、 「あんなやつとは関わりあいたくない。もう、(田中家との関係は)過去のこと だ」 と、突き放す。 昨今では、 「オヤジの唯一の失敗は、娘を教育しきれなかったことだ」 との見解が、田中家に関わった者の共通認識ともなっている。
まず、こんなエピソードから始めよう。 目白の田中邸には、書生やお手伝いが常駐している。 角栄が倒れるまでは、10人前後が普通だったが、倒れて以降は、数人となっ た。 このお手伝いたちが、次々辞めていくことが続いたのである。 かつてお手伝いは、越後交通から派遣されることが多かった。 いうまでもなく、越後交通は角栄の後援会「越山会」の中核企業。地元では、 一流企業だ。ここで1年から1年半ほど働き、その中で特に優秀だった女性社員が 抜擢されて、目白邸で勤務するのである。 しかし、時が経ち、今度は秘書が越山会を通じて直接探してくるようになる。 そうしたお手伝いが、角栄が倒れて以降、なぜか不本意な辞め方をすることが続 いたのである。 そして、辞めたあと、彼女たちは貝のように口を閉ざし、何があったのか語ろ うとしないのだ。 あの目白の高い塀の奥でどんなことが起っていたのか。
「真紀子さんの猜疑心がすべての原因です。こき使われ、疑われ、そして罵倒さ れ、ボロボロになってお手伝いさんは辞めていくのです」 と、ある田中家の閑係者がこんなことを明かす。 「お手伝いは田中家の家事全般をやっていますが、家の中で小銭がなくなって も、電気を消し忘れても、鍵をかけ忘れても、真紀子によって猛烈な犯人さがし がおこなわれるのです。疑いをかけられ、面罵され、身におぼえがないのに、泣 きながら謝罪させられる彼女たちは、結局、辞める道を選びます。罰として、 素っ裸で母屋の階段を昇り降りさせられたり、雨の中、玉砂利の上で正座させら れて謝まらされたお手伝いさんもいます。でも、彼女たちは辞める時に“事務所 の中(邸内)で見たこと、知ったことは一切口外しません”という念書を書かさ れるんです。実際に勤めている時に真紀子の恐ろしさは十分、知った上で去って いくわけですから、彼女たちは辞めたあと、本当に“貝”になってしまう。角栄 さんが元気だったら、とても考えられないことでした」 そして、遂にはこんな信じられない悲劇も起こったという。 あるお手伝いが、食卓にカレーを運んでいた時のことである。 「その時、お手伝いさんが皿を落として割ってしまったのです。その瞬間、真紀 子さんが激昂し、食卓にあったカレーをお手伝いにかけたのです。彼女はギャー といったままうずくまってしまった。彼女は顔の半分に熱いカレーを浴びて、火 傷してしまうのです。もちろん彼女はお手伝いを辞めますが、悲劇なのは、その 跡が今も赤いケロイドになって残っていることなんです。彼女はその後、誰とも 接触せず、沈黙を続けていますが、お手伝いさんの中にはそのことを知っている 人もいるんです……」(古参秘書) 外務省で秘書官に書類をぶちまけたり、指輪を買いに走らせたりするレベルの 話ではない。 悲劇というより唖然とするエピソードである。 真紀子にとって、母親が再婚で家庭内で肩身の狭かったことが、のちの性格形 成に大きくかかわってくるのだが、それは後述する。 真紀子には1歳ちがいの兄がいたが、小児結核でわずか5歳で夭折。嘆き悲しん だ角栄は、真紀子をその長男に代わり、跡取りとして育てていくことになる。 真紀子が3歳の時に、角栄は衆議院議員に初当選。父親の権力が次第に増して いく過程で、彼女は物心をつけ、人格を形成していく。そして、その中で、数々 のエピソードを残していくのである。
真紀子は、田中家にとって特別な存在であり続けた。 「跡取りの真紀子は、自宅にあっても正月や法事で親戚が集まった際には、はな さんよりも上座に座らされていました。オヤジがいる時でも次席で、はなさんよ りも上座でしたよ。意識するとしないにかかわらず、自分が父親の次にえらい、 という意識は、小さい時から自然に備わっていったと思います」(元越山会幹 部) しかし、まだ世の中の道理も分っていない子供のうちから、まわりの大人がか しずき、甘やかすことが、その人の人生にプラスをもたらすわけはなかった。 「小さい頃から、自分の思いどおりにならないとヒステリーを起こす女の子でし たね。オヤジも、真紀子さんの育て方のことで、まだ元気だった母親のフメさん に注意されたことがあったと聞いています。でも、子供の頃はまだ可愛くて愛嬌 もあったから、オヤジもそのままにしていたんだね」(同) ある元書生の回想である。 「ある時、はなさんが好きなワイドショーを見ていたんです。角さんと口げんか をしてイライラしていた真紀子さんが“何よ、うるさいわね”と言ってブチッと テレビを消しちゃったんです。でも、はなさんは何も言えずに黙っているしかあ りませんでした。母親に向かって、学歴がない、とか、人前でなにもできない、 ということを直接いっていたところを聞いた人もいますよ」 ふつう母親にとって娘は“分身”であり、娘にとっては母親は手本であり、人 生の先生でもある。しかし、この普遍の法則は、この母娘にはあてはまらない。 それは、真紀子本人にとって、大いなる不幸だったに違いない。 生前、角栄が側近に漏らしていた言葉がある。 「直紀(注・夫の田中直紀参院議員)はえらい。あんなヤツとよく一緒にいてく れるよ。跡継ぎまでこさえてくれて。オレなら20分も一緒にいられない」 あの父親にして、娘・真紀子には辟易していたサマが窺える話である。 最晩年、角栄は真紀子を甘やかしてきた報いをその身に受けることになるのだ が、それを真っ先に経験したのは、まさに金脈報道で日本中の非難を浴びている さなかだった。 昭和49年秋、田中内閣が退陣に追い込まれるか否かの時、田中邸では、一人の レジスタンスに手を焼いていた。 真紀子その人である。 この頃、真紀子は、長男の雄一郎の次に、二人目の子の出産を目前にしてい た。 「あの頃、オヤジは日本中の激しい非難に晒されて精神的にも追い詰められてい た」 と、角栄の元側近がこんな述懐をする。
「そんな時、家庭内でも、その日本中の世論と同じ意見を吐く人間がいたんだ。 それが真紀子。彼女は、父親に“早く(総理を)辞めて!”と言い寄り、ついに はあの目白邸の2階から、“辞めなきゃ飛び下りる”って大騒ぎになった。さす がにオヤジも、臨月を迎えようとしている娘に“自殺する”と言われれば、総理 の地位も諦めざるを得なかっただろうね……」 最高権力者がその地位を下りる決断をしたのが、果して娘の抵抗のせいかどう かは、今となっては確かめようがない。 しかし、彼女がアメリカ留学から帰ってのち、角栄にとって、それまでとは違 う存在になったことは間違いなさそうだ。 側近の話を続けると、 「オヤジがねえ、“アメリカにやらなければよかった”とよくため息をついてい たよ。合理主義というか、反権力というか、へんな意識を身につけて娘が帰って きたというんだ。留学から帰ってきて、オヤジは苦労して早稲田の商学部に娘を 入れ込むでしょ。そうしたら、娘は早稲田の演劇サークルに入って、さらにプロ の演劇集団『雲』を受験し、ここにも入ってしまう。劇団というのは、左翼的な 人間が集まっているから、当然、彼女はますますそっちに傾いていくわけだ。オ ヤジはやけに進歩的なことを言いだした娘に困って、よく、“このままじゃ真紀 子は共産党になってしまう”と嘆いていた。とにかく、オヤジのコントロールが きかなくなってきたんだ。それが、総理を辞任する時にも出たということなんだ ろうねえ」 田中家の跡取りとして、特別の育てられ方をしてきた真紀子。しかし、前号に 記した通り、彼女は人格を形成していく思春期に父親の女性関係や異母弟の存在 に気づき、内面の葛藤を続けることになる。そして父の希望とは、まったく違っ た人間へと成長していったのである。 崩壊するファミリー 真紀子が結婚したのは、昭和44年4月のこと。 相手は、故鈴木直人代議士の三男、直紀。慶応大学を卒業して日本鋼管に勤め るエリートサラリーマンだった。 真紀子の旧友によれば、 「彼女、“私の理想のタイプは、背が高くて目鼻立ちがはっきりした慶応ボーイ よ”と言っていたことがあります。高校生の頃です。まさに直紀さんは理想のご 主人だったのではないかしら」 ということになるのだが、この結婚、そう単純なものではなかったようだ。 「直紀の母親の宮子さんが日本女子大卒で、真紀子の先輩にあたり、佐藤栄作夫 人の寛子さんとも親しい友人だったんです。角さんは当時、佐藤栄作の片腕で佐 藤家にもよく出入りしており、その縁で寛子夫人が間をとりもつことになった。 真紀子さんの方が一目惚れで、出会いから結婚まで半年ほどのスピード結婚だっ たのです」(田中家関係者) 結婚式は、ホテルオークラの平安の間でおこなわれる。 しかし、田中家は直紀を養子にと考えていたが、鈴木家が最後まで譲らず、こ の問題は挙式当日まで決着しなかった。 「披露宴直前、鈴木家に対して、オヤジは三つの条件を受け入れることで、強引 に婿入りを納得してもらうんです。両家控室のパーテーションのうしろで、まだ 揉めていた。その条件はオヤジにとって、かなり痛烈なものだったからね」(越 山会元幹部) その三つとは以下のものだった。 一.直紀を父・直人の選挙区だった福島3区から衆議院選挙に立てること。 二.田中家の全財産は将来、直紀に譲ること。 三.以上の約束を披露宴で公表すること。 その約束通り、角栄は、披露宴の席で、それを公表しようとする。 「今日から直紀君はウチの息子です。私が直紀君に与えたものも、自分が残すも のも、真紀子ではなく、全部直紀君にやる次第に……」 スピーチでここまで言った時、角栄は言葉に詰まってしまう。 「ウーッ……」 そう唸ったまま、角栄は涙をポロポロ流したのである。 越山会元幹部(前出)がいう。 「オヤジが、スピーチの途中で言葉に詰まった時、会場はシーンと静まり返って しまいました。なんといっても、かわいくてたまらない娘の結婚だからね。で も、あの時、言葉が詰まったのは、娘が嫁にいくことへの万感の思いだけなの か。婿入りとか財産のこととか、当日まで揉めていましたから、それが一挙に頭 に去来したのかもしれません。今となっては、誰にも確かめようがありません が……」 直紀・真紀子夫妻は、一男二女の三人の子供に恵まれる。 やがて“今太閤”と称される角栄の黄金期を迎え、それも金脈問題からロッ キード事件、そして脳梗塞での政界引退という昭和史にも特筆される数々の出来 事を経て、田中家も激変を余儀なくされていくのである。 昭和60年2月27日。 ロッキード事件で有罪判決を受けた後、“キングメーカー”として隠然たる力 を誇った田中派は、「創政会」の旗揚げによって分裂。酒量が増え、心労がつづ いた角栄は、この日、脳梗塞の発作を起こす。 これをきっかけに、新たに“家長”となった真紀子のもと、田中ファミリーは 角栄を中心に鉄の結束を誇ったことが嘘のように四分五裂してしまう。 真紀子がいきなりその本性を現すのだ。 まず切られたのは、側近や秘書たちである。 「真紀子さんは、オヤジの入院、治療方法などをすべて取り仕切った。そして、 気に食わない者は、医師であろうが長年仕えてきた秘書であろうが容赦なく切っ ていったのです。病院側とはコトあるごとに衝突し、ついには真紀子は極秘裡に 強引にオヤジを退院させてしまう。オヤジが郵政大臣時代から築き上げてきた逓 信病院との関係もあっという間に崩壊しました。極秘退院後、自民党の平河クラ ブに“病院、早坂茂三秘書と田中家は断絶中。彼らの発表には一切関知しない” という張り紙が突然出され、とにかく自分以外は角栄と一切かかわりあいがな い、という宣言を彼女はおこなうのです。長年、金庫番を務めた佐藤昭子も何の 通達もなしに解雇したし、平河町の田中事務所も、誰にも相談なく閉鎖が決めら れました。立ち退きを急がされた上、秘書たちがまだその作業を続けている時 に、真紀子は“事務所に侵入者がいる”という電話を警察にかけ、機動隊まで動 員した。さすがに唖然とするやり方でした」 真紀子は、 「パパは天皇様よりえらいのよ!」 という有名な言葉を残して病院を去っていった。 角栄の政界復帰の可能性は、娘によって絶たれたと言えるのかもしれない。 父を叩く娘 角栄の元側近は昨日のことのようにこう語る。 「あの時、郵政大臣は左藤恵さん(田中派)だった。その左藤大臣がこう嘆いて いました。“真紀子さんに、逓信病院の院長のクピを切れ、と40分間も滔々とや られました”と。彼は“私は何を言われてもいいんですが、オヤジさんの病気が 長引きます、と答えたんです”と言っていました。あとで聞いたら、大臣だけ じゃなく、郵政の事務次官も延々と真紀子にやられたらしい。とにかく父親の庇 護と支配がなくなって、一気に娘の本性が晒けだされたという感じでした」 それからのファミリーの四散ぶりは、凄まじいの一語である。 越山会の元幹部がいう。 「地元の側近たちも次々切られていきました。越後交通の社長を長く務め、ずっ と二人三脚でやってきた片岡甚松氏をはじめ、主だった古参幹部は悉く切られま した。“気に食わない人間は排除する”という常軌を逸した行動で、ファミリー 企業には粛清人事の嵐が吹き荒れたのです」 それだけではない。その波は親族にも容赦なく及ぶのである。 「西山町の実家を守り、角栄が信頼していた実妹の風祭幸子さんも、角栄の治寮 法をめぐって対立し、ついには真紀子に追い出され、断絶状態となりました。叔 母ですらこれですから、異母弟である田中京・祐の兄弟にいたっては、病いに倒 れて以降、一度も父親に会わせてもらえず、裁判所に、父親に会わせてくれるよ う調停まで起こさなければならない始末でした。京、祐の兄弟は、結局死に顔も 見せてもらえず、そのため単独でのちに遺影だけの“もう一つのお葬式”を挙げ たんです。真紀子は、はなさんの連れ子だった姉の静子さんとも断絶状態で、遺 産の分割をめぐって訴えを起こされる騒ぎにもなる。真紀子は、こうして父親の 築いた人間関係をすべて断ち切っていったのです」 しかし、最も悲惨だったのは、当の角栄本人であったことは間違いない。 倒れて以降、死去するまでの8年余。それは権勢を誇った日本最大の実力者に とって、あまりに惨めな日々だった。 目白邸母屋の食堂。ここは、かつて家長である角栄が中心に座り、家族だけで なく田中家を訪れる客や、田中邸にいる書生たちも一緒に食事をとった場所であ る。 ゆうに10人以上座れる細長い大きなテーブルにそれぞれが座って食事をと る。それが田中家の食卓だ。 角栄が倒れて以降、それはかつての賑やかさからは想像もつかない閑散とした ものとなるが、別の意味で騒々しく変貌したという。 身体が思うように動かない角栄は、食事の際、よく食べ物をこぼした。 傍から介助を受け、口にいちいち運んでもらわなければならないのだが、それ でも食べ物をこぼしてしまう。そして、思うようにならないことで苛立ち、ぐず ることもあった。脳梗塞患者としては、珍しくもないごく一般的なものだ。 しかし、そんな父親に真紀子は日常的に辛くあたったという。 「そんなこと言うんだったら、アンタ、国会へ行くかね」 ぐずることをやめない角栄に真紀子はそんな言葉を浴びせかける。 大概はそれでおとなしくなるが、それでもぐずることはある。すると、 「もうっ!」 真紀子はそんな声を上げて、なんと父親の顔を傍らにあった新聞紙で叩くので ある。 オヤジが真紀子に叩かれている──こういうシーンは、地元・長岡の越山会幹 部に伝わり、やがてひそひそと人の口から口へと流れていくことになる。 角栄は真紀子に連れられてお国入りした時、 「目白の“骨董品”を連れてまいりました」 と地元の人間に披露されている。 言葉が不自由でただ涙を流すばかりの父親はそうやって選挙に利用されていっ たのである。 「あれほど誇り高かったオヤジがなんでこの目に……」 と、怒りに震える側近たちが少なくなかったのも無理はない。 田中真紀子──まさに特異な人格である。 なんの不自由もなく育ち、周囲が父親に滑稽なほどヒレ伏すサマを見つづけた 彼女は、やがて、称讃と怒号、おもねりと裏切りの中で、いつの間にか人として 本来のあり方や常識を見失っていったに違いない。 しかし、その特異性こそ彼女の大衆的人気の根源であることもまた確かだ。 真紀子は今、およそ800億円(推定)という資産の上に君臨している。 田中金脈の原点ともいえる長岡市の信濃川河川敷。時を経て、ここは今や一等 地と化し、越後交通のビルや日赤病院などが聳え立っている。 かつては、単なる川原であり沼地であったこの二束三文の土地が田中家最大の 資産だ。 これに目白御敷や別荘などを加えた約800億円とも言われた遺産を引き継ぐ 時、真紀子は公示評価額で119億円にまで圧縮するということをやってのける。 広大な土地をファミリー企業に分散して所有させ、それを僅かな評価の株式で相 続するという形をとり、一方の目白邸は、不動産評価を下げるために13区に分筆 したり合筆したり、はたまた所有権を真紀子と直紀で分けたりと、評価額を下げ に下げて相続するのだ。それは、 「節税した額はおよそ470億円に達します」(税理士の北田朝雪) というから驚く。田中一族は角栄が倒れて以後、バラバラになってしまったの に、その財産だけは四散することがなかったのである。 真紀子の金脈問題を追及しているジャーナリストの野田峯雄はこんなことを いった。 「もし、彼女が父・角栄の汚名を濯いだり、また正当化するのであれば、きちん と納税という形でその“偉業”を確定することもできたのです。しかし、彼女は 姑息な方法で、父親が最後に国家に貢献するチャンスさえ失わせた。いわば唯一 の名誉回復の機会を娘が奪ったといえるのではないでしょうか」 角栄と真紀子──ある意味では、お互いが人生最大の敵だったのかもしれな い。 (文中敬称略。了) h ttp://marmotfarm.com/cgi-bin/upload2/source/up34328.txt h ttp://www.asyura2.com/0403/bd34/msg/422.html抜粋
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