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2022年4月19日 07時45分
ttps://www.tokyo-np.co.jp/article/172597
一九七二年五月。沖縄が米国から日本に返還された。沖縄の悲願だった本土復帰。しかし、それから五十年となる今も沖縄には米軍基地が集中し、負担は軽減されていない。沖縄の「戦後」は終わったと言えるのか。
<沖縄返還> 日米間の沖縄返還協定が1972年5月15日に発効し、沖縄は本土に復帰した。米軍統治下の沖縄では、車は右側通行、本土への渡航にはパスポートが必要だった。通貨は58年まで米軍発行の軍票「B円」など、それ以降は米ドルが使われた。協定を巡っては、返還にかかる費用を日本政府が肩代わりする密約があったことが後に明らかに。現在でも沖縄には、在日米軍専用施設の約7割が集中。普天間飛行場の辺野古移設を巡り対立や混乱が続いている。
◆自己決定権なし 今も 作家・詩人・池澤夏樹さん
人間の幸福感の一つが自己決定権。沖縄はそれを持っていません。県民投票で意思を示しても全部無視される。こんな不幸なことはない。
その根源には、琉球王国が薩摩藩に占領された時以来の虐げられてきた歴史があります。太平洋戦争でも、国内で地上戦となったのは硫黄島と沖縄だけ。多くの住民が亡くなった。その果てに、米国の軍政が二十七年間続きました。
そして復帰。この五十年をどう考えるか。一つは基地問題。米軍基地の態勢はほとんど変わっていない。米軍の飛行機から部品は落ちる。時に飛行機そのものも落ちる。普天間飛行場周辺は最悪。一日の授業時間の一割は、先生の声が聞こえない。県内の至る所に影を落としています。自分の夢を自分で決められないのはあまりにつらい。
一方で、経済的には五十年で豊かになりました。県民は今はお米を食べています。昔は芋。主食がこんなに早く切り替わったのは珍しい。都市化も進んだ。沖縄はもともと住みよい土地なんです。特別な文化がある。食べ物はおいしく、歌が盛ん。みんな自分の郷土を愛している。年収は日本で最低だけど、ゆったりしています。
沖縄を語るときは、この二つの面の両方を見ないといけない。政治的なこと、米軍の動静や沖縄差別の構造などを知った上で、なおかつ基本的には良い所だということを体感すること。この二つをどう評価するかで復帰・返還の印象が分かれます。
沖縄では、居酒屋で飲むうちに「独立しよう」となる「居酒屋独立論」が一時期、ありました。しかし、あのサイズで国となる場合、普通、軍事と外交は大きな国に預けるんです。まさに沖縄の大問題になっている二つ。独立戦争をすると言っても軍隊はないし、自衛隊は味方になってくれないでしょう。独立論は今のところは夢想と言うしかないのです。
こうした沖縄の現状や人々の思いを内地の人は知らないし知ろうとしない。沖縄なんだからいいだろうと思っている。確かに沖縄は地理的・歴史的に不運だった。でもそれだけではない。間違いなく、誰かが悪いんです。倫理的に許されない。これは沖縄のために言っているのではありません。愛国者として言いましょう。国の在り方として恥ずかしいことなのだと。
(聞き手・大森雅弥)
<いけざわ・なつき> 1945年、北海道生まれ。芥川賞、谷崎賞などを受賞。94年から10年間、沖縄で暮らす。沖縄関係の著書に『沖縄への短い帰還』(ボーダーインク)などがある。
◆米支配27年にも目を 琉球大名誉教授・比屋根照夫さん
一九七二年当時、社会は騒然としていました。力と力が激突するような時代。安保闘争と沖縄返還闘争、ベトナム反戦運動が三位一体となっていました。あの頃、私は東京にいて、頻繁に行われるデモや集会にも参加していました。
沖縄の復帰運動が掲げたスローガンは、米軍基地の無条件全面返還でした。基地のない平和な島に。それが沖縄の願いでした。ところが、日米両政府が決めた沖縄返還協定は、運動の理念を実現するものではありませんでした。沖縄の命運に関わる重大な協定なのに、民意はないがしろにされました。
返還協定が審議された「沖縄国会」では、野党が反対し、国会周辺ではデモが繰り返されました。にもかかわらず、与党は強行採決しました。その状況を見て、私はこう思いました。この国と沖縄の関係とは何なのか。祖国とは何なのか。
協定発効の記念式典の日、沖縄は雨で、混乱の中、大規模な抗議集会が開かれました。それから五十年が過ぎます。ただ、五十年というスパンだけで考えるのは不適切です。あの凄惨(せいさん)な沖縄戦から見ないと、沖縄の現代史は分かりません。
五二年発効のサンフランシスコ講和条約で沖縄は日本から切り離され、米軍統治下に入りました。敗戦から復帰までの二十七年間、日本の領土の一角が外国の支配下に置かれたのです。この間、沖縄は日本国憲法の枠外にあり、言論統制や人権侵害が横行しました。殺人、暴行なども多発しました。
返還協定で米国は、沖縄の施政権を返す見返りとして、基地を残すという選択をしました。協定では、日米同盟関係の強化もうたわれています。それは沖縄だけでなく、日本の安保政策に関わる問題です。
この五十年で、さまざまな変化がありました。一つは経済構造です。かつては米軍の雇用が一定の経済効果を持っていました。しかし今では、観光業など基地外で働く人が多くなりました。基地がなくなると沖縄の経済は衰退するという人がいますが、それは間違いです。
今も変わらないのは、米軍基地です。さらに、自衛隊駐屯による先島諸島の軍事的強化が進んでいます。基地があると攻撃される。それは沖縄戦の例からも明らかです。「非戦」こそが沖縄戦から学ぶべき教訓です。 (聞き手・越智俊至)
<ひやね・てるお> 1939年、愛知県生まれ。終戦翌年の46年から沖縄で育つ。東京教育大大学院修了。専門は沖縄近現代思想史・言論史。著書に『戦後沖縄の精神と思想』など。
◆米兵事件 若者動かす 映像作家・美術家・山城知佳子さん
私の幼少期は、頭に籠を載せて魚を売るおばぁがまだ健在だった時代。祖母は標準語を強制するために方言を話した人に罰として掛ける、戦後まで続いた「方言札(ふだ)」の影響で、うちなーぐち(沖縄語)を孫には話しませんでした。そのため、私はうちなーぐちは話せません。
那覇の新興住宅地で生まれ育ったため、地域芸能に触れることもできませんでした。高校生ごろまでは、沖縄の文化を誇りに感じることはできなかったです。私にとって、歌三線(うたさんしん)はおじぃ、おばぁのものというイメージでした。
日本に復帰しても米軍基地は残り、それはずっと変わらない。当時の沖縄には諦め感がまん延しているように感じていました。私もいつの間にか「沖縄はだめなんだ」という劣等感を抱き、自信が持てませんでした。
そんな中、一九九二年にロックバンド「THE BOOM」が発表した「島唄」の大ヒットは衝撃でした。作詞・作曲した宮沢和史(かずふみ)さんは県外の人でしたが、客観的な異邦人の目だからこそ沖縄の良さを感じられたのではないでしょうか。
歌手の安室奈美恵さんらが人気になるなどの沖縄ブームの一方、九五年に起きた米兵による少女暴行事件が当時の県民の、特に若い世代の意識を変えたと思います。当時大学生だった私も自分事として傷つき、また過去の事件を知り、問題意識が強く芽生えました。米軍を巡る問題が放置される一方、文化面では持ち上げられる。それって、「アメとムチの構造じゃないの?」と意識するようにも。
「島唄」は純粋な音楽として誇りにつながる再発見でしたが、他の文化を大々的に持ち上げるキャンペーンは、裏に政治的駆け引きがないかと見るようにもなりました。消費される沖縄ではありたくない。エネルギーを奪われてしまいたくない。
地域芸能もできず、うちなーぐちも話せない私が、表現の器として出会ったのがアート。キャンペーンの華やかなビジュアルの沖縄に対し、そこには決して入ってこない米軍基地の問題。当時、このギャップを生活者の実感として拾うべきだと考え、沖縄を見つめ、言語を超えて世界と対話できる映像作品の制作を始めたのが出発点です。
沖縄の不条理は、日本全体の問題だととらえる俯瞰(ふかん)的な視点が必要ですが、政治はむしろ隠そうとしていますよね。
(聞き手・清水祐樹)
<やましろ・ちかこ> 1976年、沖縄県生まれ。主に映像・写真で、生まれ育った沖縄の歴史と自身との関係に向き合い、身体感覚に訴え掛けるイメージの作品を手掛ける。東京芸術大准教授。
ーーー以上引用
ちょっと古い記事で、タイミングはずれかな?
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